野口神社 (五社の宮 )
明治初期に「五社宮(ごしゃのみや)」は、野口神社と改称されたが地元では、今でも「五社宮」と呼ぶ人が多い。野口神社は、五柱の主神を祭る。
その五柱の神々は、速玉男命(はやたまおのみこと)・品陀別命(ほんだわけのみこと)・大山昨命(おおやまぐひのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)・天伊佐々比古命(あめのいささひこのみこと)の五柱である。
氏子は、水足・坂元・北野・北野新田(以上野口町)・新在家・西谷・高畑・土山(以上平岡町)・和田(稲美町)の11町内会である。
以上のように、この五柱を祭る「五社宮」の氏子は、平岡町・稲美町にも広がっている。
これは、昔、印南野台地の開拓に当たった野口の農民の開拓の歴史を物語るものであろう。
野口廃寺(白鳳時代)
きょうの「かこがわ100選」は、「野口神社の紹介」であるが、野口廃寺(白鳳時代・645~710)跡についても付け加えておきたい。
野口廃寺について『加古川市史(第一巻)』は、次のように説明している。(文章を若干変えている)
「・・・古大内遺跡から駅ケ池をこえて北東500メートルに野口神社があり、その境内地をほぼ寺域として野口廃寺が想定されています。
野口廃寺のあった位置は、明石・賀古の両郡一帯にわたる印南野台地の西端部にあたっており、しかもすぐ南方を古代山陽道が走っていて、まさに「野口」という名にふさわしい土地でした。
いまだ本格的な発掘調査が行われていないため、遺跡・遺構の内容についてはよくわかっていません。
ただ偶発的に掘り返された遺物や表面観察などの観察により、神社本殿裏からおおよそ90×60センチメートルの凝灰岩質の礎石を検出しているし、境内の数ヵ所において土壇様の隆起が認められ、その付近に古瓦類の散乱が多いところから、薬師寺式あるいは法隆寺式の伽藍配畳を想定する」と説明している。
日岡豪族は、野口に氏寺を築いたのか?
日岡山には多くの古墳があるが、これは豪族の墓地であり、彼らの住居跡ではない。
古墳時代、溝口(加古川市加古川町)が、彼らの居住地と考えられている。
しかし、溝口あたりは欠点が一つある。水に弱い低地にあるということである。
「彼らは、水害のない野口(野口神社のある場所)に、氏寺を建てた」と想像したいのだが・・・・
*写真:野口神社