稲根神社(いなねじんじゃ) *神野町神野
その旧二塚村に稲根神社がある。曇川の河口に近い。
稲根神社(写真上)は、古代にさかのぼる神社のようである。
神社の裏に、二つの後期古墳がある。旧二塚村もこの古墳から名づけられている。
郷土史家の石見完次氏は『東播磨の民俗』で、稲根神社について、次のように語っておられる。
「・・・その塚(二塚古墳)に葬られていた豪族が、実は水と平地を求めて神野の里に来て、最初にこの地に稲を作った部族の長であると考えられ、そしてその有難い稲の御魂を祭ったのが稲根神社であると考えられる・・・」と。
また、稲根神社の由来は次のようである。
・・・太古、人々が食べ物を失ったとき、倉稲魂命(うがのみたまのみこと)がこれを憐れみ、高天原から稲穂を降らせた。
そのとき、この地に三粒が落下して、これが実って、世の中に米が満つようになった・・・
本来、神社の由来と言うものは、怪しげなものが多く検証が必要である。
しかし、稲根神社の由来は、二塚古墳・曇川・稲作、そしてなによりも神社の名前(稲根)をつなげてみると一考に価する。このあたりは、加古川地方で一番早く稲作が始まった場所であるのかもしれない。
経塚
稲根神社の裏の二塚古墳の墳丘部から安政年間(1854~60)に、写真下の経筒が出土している。
経塚は、平安時代の後期の末法思想の広がりを背景に、仏教のおとろえを恐れた貴族や僧侶が、法華経(ほけきょう)などの巻物を経筒(写真)に入れ、地中に埋めものである。
現在は残っていないが、昭和37年の調査までは、別の銅製の経筒と「源能定」銘の小銅版があったとされている。
源能定は、後醍醐天皇の忠臣であったことから、この経塚は、鎌倉時代の終わりの頃のものと推定される。
それにしても、彼の銘のある経塚がどうして、この地にあるのか謎である。