行者塚古墳 *山手
行者塚古墳(ぎょうじゃづかこふん)は、加古川左岸の丘陵に築かれた前方後円墳である。
かつて、この辺りには、古墳時代後期の群集墳が多数存在していたが、そのほとんどは昭和38年(1963)よりはじまった宅地開発にともなって姿を消してしまった。
今は、行者塚・人塚・尼塚が残るのみである。
ここは、昭和48年(1973)「西条古墳群」として国の史跡指定を受けた。
行者塚の第一次調査(1995)、第二次調査(1996)の調査は、驚くべき内容を明らかにした。
行者塚古墳は、古代の不思議をいっぱい詰めたタイムカプセルである。
朝鮮南部とのつながり
行者塚古墳からたくさんの遺物が発掘された。
そのうち、帯金具は中国・晋(しん)の時代のもので、朝鮮半島の金海(朝鮮南部)から伝えられたと考えられている。
中国大陸のものが交易により朝鮮に渡り、それが日本へ交易により伝えられた。
その他、多くの種類の遺物がある。巴型銅器は、新羅の慶州・釜山の金海あたりの古墳でも発見されている。
それに、馬具なども朝鮮南部製と考えられている。
そのほか、鉄鋌(てってい・鉄の板がね)等が発見されているが、それらは朝鮮半島南部のものと思われる。
つまり、行者塚古墳の遺物は大陸の、特に朝鮮半島南部の香りをいっぱい詰め込んだ古代のタイムカプセルである。
それでは、行者塚古墳の築かれた時代、行者塚古墳の被葬者はどんな人物であろうか。
加羅への援軍
古代史の専門家は、行者塚出土の大量の埴輪の研究等から行者塚は、5世紀初期の古墳であると結論づけている。
以下は、素人の推測として読んで欲しい。
5世紀の朝鮮半島の情勢は、百済・高句麗・新羅・加羅(から)、それに中国が複雑に絡み合っている。
つまり、お互いに相手の領土を狙っていた。
行者塚古墳から出土品から考えて、行者塚の主は加羅(任那)と関係が深い。
加羅は、これらの国の中でもっとも弱小の国(地方)である。
とするなら、当然加羅は、他国と同盟を結んだり援軍を求めたりしたのではないか。
これらの古墳の主は、加羅へ直接援軍を送ったのではないか。あるいは、食料援助とも考えられる。
そして、「その見返りとして、加羅からたくさんの宝物を得たのではないか」と考えるのであるが・・・
*写真上:西造り出し部の埴輪(デプリカ)、背景は行者塚古墳野後円部
* 〃下:出土の帯金具