神野町の常光寺は「わがまち加古川60選」に選ばれていないが、ぜひとも紹介しておきたい寺院である。
その前に「かこがわ100選(18)」の復習をしておきたい。
常光寺 *神野町神野
西国三十三観音めぐりは、平安時代中期ごろ、庶民の間に流行しはじめて、後に貴族たちがまねるようになった。
人々は病気の平癒(へいゆ)を願い、病気が癒えると、お礼のために、また亡き人の供養のために、罪を犯した者は滅罪のために、さらには自らの死後の平安を求めて、人々は西国三十三観音めぐりにでかけた。
第一番の札所、那智山西岸渡寺(和歌山県)から最後の谷汲山華厳寺(岐阜県)までの旅は、現在と違い苦行そのものであった。
江戸時代になり治安も確立し、交通機関も整備され、三十三か所めぐりも比較的やりやすくなり、かつての苦行巡礼は、今で言うレクレーション的な性格さえ持つようになった。
生活の苦しい庶民にとっては、現在の外国旅行よりもずっと縁の遠いものであった。
そこで考えられたのが播磨の国の中に、三十三か寺を定めて、それらの寺を巡礼すれば「西国三十三所めぐり」と同じ功徳があるとする「播磨西国三十三所めぐり」だった。
(以上、「かこがわ100選・18」より)
天徳山常光寺(南室禅師入寂の地)
常光寺(臨済宗)は、播磨西国三十三ヵ所霊場を定めた姫路の慶雲寺の南室禅師の亡くなった地である。
南室和尚は、播磨三十三ヵ所観音霊場は定め、御詠歌(ごえいか)をつくり、巡礼の功徳の普及につとめた。
これが今に伝えられている「播磨西国三十三ヵ所霊場」である。
そのために、常光寺は、播磨西国三十三ヵ寺とともに、特別な信仰を集めている寺である。
裏山の墓所には南室禅師の墓がある。
常光寺は、建武三年(1336)開山し、七堂伽藍、三重の宝塔、下馬禁制札を立て大いに栄えたが、その後、火災や信長・秀吉の三木攻めの兵火にあい、かつての勢いを失った。
*写真:常光寺
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