日岡御陵 *加古川町大野
日岡山のハイライトはなんと言っても山頂の日岡御陵(写真)である。褶墓(ひれはか)とも呼ばれている。褶墓の伝承を考えてみたい。
御陵に眠るのはヤマトタケルの母・稲日大郎姫(いなびのおおいらつめ)である。
(『古事記』では別嬢(わきいらつめ)として登場するが、同じ人物)
やがて、稲日大郎姫は他に比べる者もない、それは美しい女性に成長した。その噂は、時の天皇(景行天皇)にも聞こえ、やがて結婚して加古川で幸せな生活を始めた。
しかし、幸せな生活は長く続かなかった。やがて、稲日大郎姫は亡くなった。そして、日岡山に葬られることになった。
ところが、その時事件がおこった。彼女の遺骸が加古川を渡る時、突如つむじ風がおこり、遺骸は、たちまちのうちに川にのみこまれてしまった。
後には、櫛と「ひれ」(天女等が背からまとっている布)がみつかっただけだった。
そのため。その櫛と「ひれ」が、ご陵に葬られた。そのため、ご陵は「ひれ墓」とも呼ばれている。
「つむじ風の正体」を考えてみたい。それは、ヤマトの勢力の進出を望まない一部の抵抗であったのかもしれない。
風土記におけるヤマトタケル
『播磨風土記』に稲日大郎姫(イナビノオオイラツメ)の話がある。日岡山山頂にある古墳が稲日大郎姫の墓で、彼女は、ヤマトタケルの母である。
『古事記』(集英社)の著者・田辺聖子は、次のように書いている。
「・・・ヤマトタケルの物語は、さながらギリシャ神話のペリセウスやオデッセウスの面影の片鱗がある。恋と冒険にみちた英雄の生涯を、古代の日本人はどのようにつくりあげたのだろう・・・」
『古事記』・『日本書紀』に描かれるヤマトタケルは、まさに物語のクライマックスに登場する。
それほどの人物であるなら、ほとんど時を同じくして書かれた『播磨風土記』に登場してもよさそうなものである。
不思議なことに『播磨風土記』のどこにもヤマトタケルの姿はない。あるのはヤマトタケルの母と父・景行の愛の物語ばかりである。
これは何を語るのだろうか。
『風土記』は、地元に伝わることをまとめたものである。「ヤマトタケルの物語」は、『風土記』がつくられた時代、地元ではなかったのではないか」と想像してしまう。
「ないものは書けない・・」と言うわけである。
せっかく、ギリシャ神話に登場するような物語が、加古川市で誕生したと言うことは痛快なことであるが、どうも怪しい・・・
こんなことを書くのは、地元の者としては少し気がひける・・・
「ヤマトタケル」「天皇」、そして「加古川地方」を結びつけて考えてみる時、この物語の裏には4世紀の大和政権の加古川地域への進出と関係がありそうである。
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