光念寺(こうねんじ) *加古川町寺家町
光念寺は『わがまち加古川60選』に選ばれ、江戸時代の俳人・松岡世蘿(まつおかせいら)等を紹介している。
それらの説明は他に譲り、ここでは、光念寺に眠る「鳥尾小弥太」を紹介したい。
コレラ大流行
鳥尾小弥太については『ひょうご維新列伝(一坂太郎著)』(神戸新聞総合出版センター)を引用させていただいた。
・・・・・
安政五年(1858)、幕府は日米修好通称条約をむすんだ。
調印から一年後、横浜、長崎、箱館港が開かれて貿易が始まったが、物価高騰等さまさまざまな問題がおきた。
世の尊王撲夷論者たちは、激しく幕府を非難した。
しかも、安政五年夏には、外国船が持ち込んだコレラが発生し、七月に江戸へ入って猛威をふるった。
コレラは、激しい下痢と高熱をともなう急性伝染病で、インドで起こり、ヨーロッパに広がり、日本には文政五(1822)年、長崎から人ってきたとされている。
死亡する確率が高いことから「コロリ」と呼ばれ、恐れられた。
江戸でのコレラの死者数は、安政五年だけで、二万八千余人とも、十二万三千人ともいわれ、正確な数字はよく分からない。
そしてコレラは、なんといっても西洋から入った病気だったため、攘夷熱に油を注ぐことになったのである。
小弥太、奇兵隊で活躍
安政六年(1859)六月、長州藩主世子(若殿)は、江戸から萩へ帰国する途、これに従っていた藩士中村宇一右衛門は、道中でコレラにかかり、加古川の旅館で数日療養したが、亡くなった。 .
宇一右衛門は「江戸に子どもを残している。そのほかは何も気にかかることはない」と言い残して亡くなり光念寺に葬られた。
江戸に十三才になる長男の鳳輔(ほうすけ)を残していた。
成長した鳳輔は、高杉晋作の結成した奇兵隊に参加し、鳳輔は小弥太の名で外国艦隊相手に奮戦した。 .
維新後、小弥太は陸軍中将、貴族院議員などを務め、子爵に列せられた。
ある日、小弥太は父の面影を偲ぶため、東京から加古川を訪れる。
そして、父の最期を看取った旅館の女房という老婦人に会った。彼女は、父について感慨深げに語ったという。
話を聞いた小弥太は涙を流がし、自分も没したら加古川光念寺の父の墓に葬るよう遺言した。
明治三十八年(1905)年四月十三日、58才で没した小弥太の墓は、希望どおり光念寺に葬られた。
小弥太父子の墓は、「南無阿弥陀仏」と刻まれた高さ二㍍程の塚がそれである。
ところが、昭和40年代に塚は壊され、現在墓碑は無縁仏の中にある。
無縁仏のいちばん高い所にある「南無阿弥陀仏」とあるのが小弥太父子の墓碑である。
光念寺には小弥太の位牌や肖像画等が残されている。
*写真上:光念寺
写真下:無縁仏にある小弥太父子の墓碑(一番上の「南無阿弥陀仏」と刻まれた墓碑)