おわりに代えて
そんな官兵衛が「すきやねん」
三木城は落ちた。秀吉が播磨を支配することになった。
当然、御着の小寺家はほろぶ。
御着城主・小寺藤兵衛(政職のこと)は、城を捨てて逃げ出した。
逃げ出すめあては、なかったであろうが、とにかく御着城から消えた。
私が官兵衛の立場なら「馬鹿な奴、当然のむくいじゃ、どうにでもなれ・・・」と考えたに違いない。
官兵衛は、違っていた。
後日、藤兵衛は官兵衛の前に姿をあらわした。彼の申し出は「織田(信長)殿に許しを乞うて呉りゃれ」ということだった。
藤兵衛の神経は理解できないが、その時「藤兵衛を助けてやりたい」と考えた官兵衛の気持ちも理解できない。
藤兵衛は、官兵衛を殺そうとした、まさにその人物である。
その人物を助けたいと考えている・・・
官兵衛は、秀吉に「藤兵衛の許し」を信長に申し出ることを乞うた。
最初、秀吉はこの申し出を無視した。それでも官兵衛は続けた。
根負けした秀吉は、信長にそのことを取り次いだ。が、さすがに、信長は藤兵衛をゆるさなかった。
信長の返事は「どこへなりと住め、命はとらぬ・・・」ということであった。信長にしては、精いっぱいの寛大な処置であった。
藤兵衛は、その後中国地方をさまよい天正十年病没したという。
藤兵衛の息子の氏職(うじもと)は、知能がうまれつき遅れていたため、一人で生きていくことができなかった。
氏職が困窮している時に、「自分(官兵衛)が扶助してもよいか・・」と秀吉に申し出て許された。
官兵衛は、不思議な人である。
そんな官兵衛がたまらなく好きである。
完「官兵衛がゆく」
「官兵衛がゆく」は、来年のNHK大河ドラマ『黒田官兵衛』のために緊急につくったパンフです。けっこう長い紹介となってしまい加古川市と官兵衛の繋がりがボケてしまった。
加古川市域における官兵衛を「もっと手短に紹介できていたのでは」と反省している。その後の「官兵衛」については、他の書物をお読みいただきたい。
お読みいただき、ありがとうございました。
*写真:黒田官兵衛画像(崇福寺・福岡市)
◇お知らせ◇
次回から、新しいシリーズ「かこがわ100選」を書こうと計画しています。引き続きお読みいただければ幸いです。