ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

農民の命を繋いだ斎宮調整池

2022-01-24 06:56:35 | 三重(ダム/堰堤)
どーも、ワシです。えー、今回は三重県多気郡明和町池村(たきぐんめいわちょういけむら)にある斎宮(さいくう)調整池を目指します。アクセスは県道37号の「有爾中西(うになか・にし)」交差点をビーフロードと呼ばれる道へ曲がり、しばらく行くと「斎宮調整池」と書かれた本当に小さな看板がある交差点があるので、そこを矢印に従って入って行くと到着します。

まずは左岸の高台から撮ったベスト・ショットをどうぞ。



では、順を追って見ていきましょう。右岸へ至る道を登ってくると当該調整池が見えてきます。



右岸の横にあるこの建物が「宮川用水斎宮調整池管理事務所」。





近くには「斎宮池顕彰碑」。



その裏側には斎宮池の築造の経緯が記されています。それを要約すると次の通り。

斎宮村は元々神領だったが、1602年に紀州領となったのを機に農業用水不足を解消するための惣田池(そうだいけ)を建設し、斎宮地内の灌漑のために使用された。その後1676年に斎宮村は竹川、平尾、有爾中、上野の4つの村とともに再び神領に戻るも惣田池は紀州領だけの灌漑に限定されたため斎宮村に水は供給されず、たちまち水不足に悩まされることになる。それだけならまだしも年貢米の取り立てが厳しかったため農民の破産・逃亡が続いた。

このため各村の庄屋は連名で藩主に池村に溜池を構築をするよう要請したが、池村が紀州領であるという理由でその願いは聞き届けられず。農民がますます困窮していくのを憂慮した内宮庄屋の永島丈右衛門は諸々の手を尽くし、遂に1748年、紀州藩の許可を取り付けてこの地に溜池を築造することが決定。そして1753年に念願だった斎宮池が完成した。



斎宮調整池の案内板。



宮川用水についての案内板。宮川用水とは宮川の上流に造られた粟生頭首工で取水された水を伊勢平野南部の農地へ供給する水路のことで、1957年から国営宮川用水土地改良事業が開始。1964年に粟生頭首工が完成。1966年には導水路および幹線水路が整備されます。現在の斎宮調整池が整備・完成したのは2010年だそうです。



では、いよいよ調整池の、いわゆるダム上に向かいます。右岸、下流側から見たダムの様子。右岸横からダム下へは緩やかな階段があり降りていくことができるようです。



右岸、調整池側から見た様子。



これが、いわゆるダム上。歩いてみましょう。



ダム上、中央から見た貯水池の様子。水面に黒い点のように見えるのは居住する水鳥たち。チャプチャプ泳いでいます。



一方、下流側はこんな感じ。中央からも階段でダム下へ行くことができます。遠くに白く見えるガードレールのところがビーフロード。



池のほとりで休憩する水鳥たち。



その奥にあるのが余水吐。



違う角度からこれを見ると…。



左岸、調整池側からこれを見ると…。(しつこい?)



いずれにしても、増水すると水は越流式の余水吐から溢れ出て、この水路を通ってあちらへ流れてゆきます。



左岸から右岸を見るとこんな感じです。



左岸、調整池側から大きく眺めるとこんな感じ。



いや〜、なんでしょうね、三重県の印象なんですが空がとても広く感じます。空ってこんなに大きかったのか。

実に良い気分!
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