今回は、ど素人(私)の妄想です。
石の宝殿(大石)は、大和に運ばれる予定であったのか
昔といっても、江戸時代ごろまでは、石の宝殿(大石)は、近在だけではなく広く知られていたようです。
松巡り(当時の観光)とセットで、この地を訪れた人もたくさんありました。
それに比べ、最近は知名度が下がっているようです。
まだの方は一度訪ねてください。この500トンもある大石に圧倒されます。この大石はご神体ですが自由に直に触れることができます。
大石の周囲を一周できます。
ご神体体の大きさに比べて周辺の空間が狭く、よけいに大きく感じられます。
いま、真壁ご夫妻や松本清張の書かれた石の宝殿についての著書を読んでいます面白いです。
石の宝殿は、大和までの移動が可能か
が、一つだけどうしてもストンと胸に落ちないことがあります。
それは、松本清張氏も真壁氏もこの大きな石を切り出して、大和(奈良)に運び、それぞれの目的のために利用する予定であった」とされていることです。
確かに、この周辺ではたくさんの石棺がつくられ、奈良だけでなく広く各地に運ばれています。
ですが、石棺が運ばれたことと、このデカイご神体(石の宝殿)が運ばれることは、どうしても結びつきにくいのです。
この大石(石の宝殿)は、宝殿山の中腹に鎮座しています。
当時、石の宝殿を作った指導者たちは、宝殿山のふもとは海が迫っていたのでしょうが、「このでかい500トンもの石塊を切り出し、山の下まで運び、海を渡り大和まで運ぶことができる」と考えたのでしょうか。
無理です。まして、大和まで運ぶことはさらに無理です。
とするならば、「この場所で何らかの目的のために利用するために作られた」と思われるのです。
松本清張氏は、大和地方に運びゾロアスター教の拝火壇としたのではと想像されましたが、「この石塊はこの場所で何らかの目的のためにつくられた」と想像するのが自然でではないでしょうか。
このブログは、まるで素人の独断で書いています。
ゾロアスター教の拝火壇説は興味をもってフンフンと納得しながら読ませていただきました。
でも、切り出して大和まで運ぶというこの部分だけは、どうにも同意できないのです。
「ご神体(石の宝殿)の上部に穴が開いており、そこで火を焚いたのではないか」という説には興味がひかれます。
果たしてその穴は、なに・・・・(no3387)
*挿絵:石の宝殿(『火の路(松本清張)』より)
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