ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

またもや「発症」

2005-09-15 05:07:14 | ドライブ関連
深夜、いつもの場所へクルマで向かう。さて、帰ろうかとクルマを走らせていたら道路標示にワシにはあまり馴染みのない地名が飛び込んで来た。こうなると衝動は収まらない。一目散にGOである。

知らない土地、知らない道を走るのは本当にワクワクする。深夜だからもちろん景色なんて見えないし、期待もしていない。でも何か血が騒ぐ。

坂道をドンドコ、ドンドコ登り、カーブをクネクネと曲がってゆく。すると、あらまあ、「宮が瀬」に続く道ではないか! こんな道があったのか。へぇー。

場所と地理を把握してしまえば、もう終わり。宮が瀬の駐車場に午前三時頃「たむろ」している怪しいニイちゃんたちなんぞ、もはやワシにはアウト・オブ・眼中。とっとと帰路につく。

それにしても平日のあんな時間に彼らは群がって何をしてるんだろうか。オマエラ、ほかにすることあるだろ。もっとも、ワシも他人のことをあーだこーだ言えないのだが…(苦笑)

うっかり150km走破。
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需要を考慮した解説

2005-09-14 17:42:58 | 脳みその日常
ある音楽マネジメントにはユニークな担当者がいる。ユニークといっても変わり者では決してない。見た目もフツーだし、常識的な考えをもった御仁だ。では何がユニークなのか。演奏会の冊子プログラムといえばオーケストラの演奏会や外タレのリサイタルなどを除き、通り一遍の曲目解説で素っ気ないものと大体相場は決まっている。

しかしこの担当者はそうした「面白くも何ともない解説ってどーよ?」と疑問を抱くひとり。確かに「解説」なのだから客観的に淡々と事実を書けば良いという意見もあるだろう。何もエッセイ風にする必要はない、と。読む側にしてみても、クソ面白くもないダメダメなエッセイを読まされるより作品についての情報満載のマジメな解説のほうが、まだ有益と思うかもしれない。

「そうではなくてですね…」と、この担当者は言う。せっかく専門家に書いて戴くのだからそのリサイタルで演奏される曲目の意図や意味を「解説」していただきたいのです、と。なるほど、そーゆーわけですか。ならばやりましょう、ということで一昨日から徹夜して原稿を仕上げる。

この担当者の考え方は一見異端のように思えるかもしれない。でもよくよく考えれば実は非常に素晴らしい切り口であることがわかる。作品を演奏する順番というのは演奏家がデタラメに並べたものでは決してない。何らかの意味なり意図があって順番が決められるのだから。

ところが従来の「クソ面白くない」作品単位の解説では曲順の意味まで説明していないし、できない。聴衆の立場からすると今回の曲目にも関心はあるが、そのプログラムがどのような意図で考えられたのかについても興味があるのではないだろうか。

それは演奏家が直接文章で書けば問題はない。しかしそれができないとすればワシらプロが演奏家の考えをトレースなり、推測するなりして代弁すれば良いこと。なのにこれまでそのような「解説」はほとんどなされてこなかった。考えてみれば不思議なことではある。

その理由は簡単だ。作品単位の解説なんて誰でもできることだから、極端な話、誰に頼んでも書いてもらえる。それに仮に曲目が変更になれば編集する際にその曲の原稿だけ「差し替え」すれば済むことだから。要は編集作業をいかにラクにするかだけのことなのだ。原稿を依頼されるほうとしても作品単位の依頼のほうが書きやすいことは確か。つまり依頼する側と受ける側の条件が合致した結果、今日の「クソ面白くもない」作品解説のスタイルになったともいえる。

そこへいくと、この担当者の発想はあくまで聴衆すなわちお客の視点でモノを見ている。それが素晴らしいのである。客商売というのは言うまでもなくお客さんあっての商売。お客を満足させなければ成り立つものではないのだ。編集者と書き手だけがラクをするようなスタイルだと、いずれ客も来なくなるだろう。当の主役である演奏家が立派な演奏をしたとしてもである。

徹夜明けの脳みそをリフレッシュするため、夕方ふらっと晴海埠頭へ出掛ける。ここも15年ほど前は知る人ぞ知る夜景スポットだったが、今や深夜ともなればカップルだらけとなるデート・スポットに成り下がった。さすがに夕方にはイチャつくカップルもいない。やれやれである。

たまたま心に滲みるような夕焼けに遭遇。うーん、まるで「たそがれた」ワシの心みたいだな(苦笑)
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タイミング

2005-09-12 15:03:37 | 脳みその日常
すべてはタイミングの産物である。人との出会いも然り、仕事や就職も然り、恋愛・結婚などもそう。ただし、タイミングといっても良いことばかりじゃない。事故に遭遇するとか受験に失敗するなんてのは本人には嬉しくないが、やはりタイミングなのである。

それにしてもタイミングって何だろう。改めて考えてみるものの実に不可解な現象と言わざるを得ない。そもそも、こうしたらこうなるという予測のつかないのがタイミングなのだから。

事物はすべて原子や分子の組み合わせでできている。複雑に絡み合ったこれらが何らかのエネルギーをもって移動し合うことにより、結果的にタイミングなるものが生まれるといってもよいだろう。

さらに素粒子論的に考えればタイミングは「波動理論」によって説明されるという。ワシの専門外なのでよくわからんのだが、要するにエネルギーをもった素粒子が移動することで別の素粒子に衝突しエネルギーを与え何かを生じさせるというものらしい。一説にはいわゆる超能力なるものは素粒子の移動によって説明できるともいわれる。つまり、原子や分子レベルでは説明できないアンビリーバボーな事象も、素粒子のエネルギー移動の理屈を用いれば「ビリーバボー」になるというのだ。

もちろん素粒子そのものがまだちゃんと証明されていないのだろうから、オカルトチックでウサンクサイ現象も今はエラソーな顔をしていられる。でも素粒子論的に検証し証明されたら、もともとアヤシイ事象はジ・エンドになるだろう。その一方で今まで笑い者にされていた事象はようやく堂々と白日の下で歩くことができるというわけだ。

そうなればタイミングについても科学的に解明されてゆくのかもしれない。今までは偶然の出会いだと思っていたものが実は出会うべくして出会う理由があったとか、あの時事故に遭遇したのはこれこれの理由で遭遇することになっていたとか、ね。

でも知らぬが仏という言葉があるように、もしかしたら知らないほうが良いこともあるのかもしれない。知ることによる喜びと知らないほうが良かったと後悔すること。表裏一体となったカード。どちらの面も見たいような見たくないような…
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ネタ満載の日曜日

2005-09-11 17:28:22 | 脳みその日常
今日はマチネーの演奏会。昼過ぎに家を出る。いつものルートをクルマでトコトコ走っていると、反対車線のちょっと先で渋滞しているのを発見。何だろうと思って近づくや、ガタイの大きいコワモテのニイさんがまさにクルマから降りるところだった。

なんだ、これからケンカでも始めるんか? で、相手はどんな奴なんだ?

期待に胸を膨らませながら、さらに近づく。かなり接近したところで事情が判明。なんてことはない、そのニイさんのクルマが「オカマ」を掘られたのだ。

で、後続車を見ると、なんとガイジンのファミリー。事故を起こしたのは仕方がないとしても、ビックリしたのは運転していたパパさんのリアクション!

よく外国映画で登場人物が「オー・マイ・ガーーーーッド!」と言いながら、両手で頭を抱える仕草があるでしょ? まさにそれ(笑)これをライヴで見てしまったから、さあ大変。目の前でそんなリアルな「オー・マイ・ガッド!」を何の前触れもなく体験してごらんなさいよ。もうね、強制的に我が腹筋はヒクヒクして止まりませんから。いやー、本当に苦しかったなあ。

ホールに近くなって、まだ駐車場に入るには時間があったので、道路の路肩にクルマを止めて待機。ふと見ると右のような看板を発見する。

「国道情報連絡所」???

その看板は国道沿いにさりげなく、ひっそりと、目立たぬようにあった。「連絡所」とあるけれど、周囲にはそれらしい建物があるわけじゃない。ただ単にその看板だけがあるのみ。ネットでざっと調べてみたがそれに該当しそうなサイトは見つからなかった。一体これは何なんだろうか(笑)

そして本日の目的である演奏会。これは仕事で行ったため内容は省略する。さて、休憩時間。紫煙を燻らすために外へ出てみると空が発狂していた。そして信じられないような量の雨がドバドバ。つい40分前までは晴れていたのに…。「ホールを出るとそこはドシャブリ…」って、川端康成センセイも真っ青の光景だ。いやいや、これも驚いた。

それにしても演奏会で隣に座った、たぶん同業者と思われるT氏。アンタねえ、行儀良く演奏が聴けないのかね。動くなとは言わんが、ヒジをはじめとして無意識にワシに接触するのは勘弁してくれ。あたっても謝る気配すらないし。一度や二度ならともかく、何度も接触したのに自覚がないわけがないだろ。

鈍感もここまでくると呆れる。まあ、おかしなチョンマゲをしているくらいだからワシとは違う意味で「変わってる」んだろうけど(苦笑)
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ロール・ピアノの超絶技巧

2005-09-10 19:54:44 | CD/DVD
今日は1990年にリリースされたロール・ピアノによるアルバムをご紹介。ロール・ピアノとは今で言えば自動演奏ピアノである。巻き紙に穴を開けたものをピアノにセットし、作動させることで名ピアニストの演奏が手軽にいつでも楽しめるというもの。このアルバムにはアルフレッド・コルトー(1877-1962)とヴラディーミル・ホロヴィッツ(1904-89)の「演奏」が収められている。

それにしても超絶技巧の演奏だ。コルトーが「演奏する」サン=サーンスの《ワルツ形式による練習曲》op.52-6なんて、とても人間技とは思えない。あれー、コルトーって、こんなにうまかったのかなと思ったほど。


もっとも、この「演奏」を真に受けてはいけない。というのも、ロール・ピアノの作動速度を変えればいくらでも超絶技巧の演奏にすることができるからだ。そう、いわゆる「早回し」をすれば確かにモノ凄い速さで「演奏」できるのだ! たぶんこの「演奏」は、コルトーの実際の演奏よりも多少「早回し」しているのではないだろうか。確証できないけれど(苦笑)

一方、ホロヴィッツのほうも「ひえーっ」と思うほどの超絶技巧である。やはりサン=サーンスの《死の舞踏》op.40や、有名な《カルメン変奏曲》なんて、もう狂気の沙汰というレベル(笑)

収録されている曲のうちで珍しいのはホロヴィッツが作曲したヘ短調の《ワルツ》だ。大した曲ではないが、かつてそれを「耳コピ」したことをふと思い出したので記しておく。

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家電も家族の一員

2005-09-09 15:03:31 | 脳みその日常
今朝パソコンを立ち上げてみるとウンともスンとも言わない。一瞬たじろくが、どうってことはない。ヘソを曲げているパソコンのご機嫌を取ればいいのだから。

Macユーザーのワシは今のマシンを使い始めて6年半ほどになる。その間に見舞われたトラブルは数知れず。Macの場合、ちゃんとしたマニュアルがないのでその都度考えなければならない。初心者の頃なんて何度もパニックに陥りそうになった。

でも、今思えば限りないトラブルも良い経験だった。だんだんわかってきたのは、パソコンも所詮機械だってこと。理詰めでトラブル・シューティングすれば部品の破損といった致命的な原因でない限り復活する。

もちろん、近年は使用しているiMacが「高齢化」してきたため、トラブルが起きる前に予め「健康診断」つまりメンテナンスすることにしている。そうすればヘソを曲げることなく動いてくれるから。今日突然動かなくなったのは、ここしばらくメンテナンスを忘れていたからであろう。機械とはいえ、コイツは意外に「構って欲しいちゃん」なのである。な、なんて「ういやつ」…。そうしたところが人間臭くて好きだ。

モノというのは、基本的には大切に使えば長持ちする。もちろん部品の複合体である機械のことだから、場合によってはハズレに出会ってしまうこともある。それは仕方がない。でも「オマエはワシにとって大切なんだよ」と思って使っていれば、それを雑に扱うことはないのだから長持ちするのも当然なのだ。現にウチのエアコンや冷蔵庫などは25年経過しても「現役」として今でも第一線で活躍している。

つまりは日頃のメンテナンスがいかに重要なのかということ。人間関係だって気配りが大切であるように、機械にも愛情を注げばちゃんと応えてくれるのだ。壊れないから買い替えずに済むわけだし。「そんな発想は貧乏臭いよ」と言うなかれ。何でもすぐに買い替えれば良いという考えだと、相手が人間でもそういう発想になるから恐ろしい。

そういう人はたいがい相手のことを思い遣る気持ちが薄い。それどころか、こういう人は自分にとって相手が邪魔に思えたら、さっさと関係解消したりするので油断がならない。でもね、相手が機械なら文句は言わないけど、相手が人間だと感情があるから厄介な事になりかねないんだよ。

お気をつけあれ。
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音楽は感じるもの

2005-09-08 15:48:51 | 音楽あれこれ
唐突な話だが、映画『燃えよドラゴン』(1973)の冒頭で主演のブルース・リー(1940-73)が弟子に向かって言う有名な台詞がある。

「Don't think, feel ! 」(考えるな、感じるんだ!)

実は音楽もそうなのだ。音楽は耳で聴くものであるが、どんなに素晴らしい演奏を聴いても「感じる」ことができなければ、まさしく猫に小判。

この「感じる」ということは極めて大切なことである。人はみな耳で聴くのだから何らかのものを「感じる」のは間違いない。それは感動という形をとることもあれば、驚きとなって聴き手に飛び込んでくることもある。

しかし、ここでいう「感じる」というのはそういう意味ではない。物理的に響く音に反応するだけでなく、演奏の背後にある「何か」を掴むことなのだ。その「何か」を見抜くことで作品および演奏の良否も自ずとわかるようになる。別の言い方をすれば、どんなに粗悪な楽器であったり、響きの悪いホールであっても「感じる聴き方」ができる人であれば判断を誤ることはまずない。

ところが、音を表面的にしか聴きとれない人もいる。そういった類いの連中はやたらと音質にこだわったりするから困る。特にノイズを完全にカットできるようになったCDの時代になってからはその傾向が著しい。

録音を例に考えてみよう。確かに余計なノイズの入っていない録音のほうが集中して演奏を聴くことができる。そうした技術革新の恩恵に与れる我々は幸福といえるだろう。しかし、単に美しい音や残響などにとらわれていると音楽を「感じる」ことができなくなる。なぜなら、表面的にしか音楽を聴いていないからだ。

オーディオ系の雑誌にはよく「録音評」なるものがあるが、あんなのは優れた演奏かどうかとは何の関係もない。それはオシロスコープなどを用いて、ただ数値的に判断しているだけのこと。録音なんて、どこまで技術が進んでも所詮記録に過ぎないのだ。単なる音の記録に過ぎないものに対して、やれ音質がどーのこーの議論することに何の意味があるんだろうか。録音マイクが集める情報なんて、ナマ演奏のほんの一握りの情報でしかない。限定された情報だけで作られたCDでもって、演奏家を評価するなんて本当は間違っているし、演奏家のほうだって不本意であろう。

じゃあ、ライヴ録音ならいいんじゃないの?という声が聞こえてきそうだ。ハッキリ言って、それもダメである。確かにスタジオ録音に比べたら会場の臨場感も伝わるかもしれない。でも、それとて「雰囲気」がちょっぴり伝わるだけで、ナマ演奏の瞬間の張りつめた「空気」なんて記録されない。

だけど、フルトヴェングラーやトスカニーニといった昔の巨匠たちの録音からはモノ凄い「ちから」が感じられる。当時のSPなんて今のCDに比べたら泣きたいぐらいヒドイ音質だ。にもかかわらず迫り来る音楽がそこにはある。ということは、彼らの演奏には、聴き手に何かを「感じさせる」ものがあったということなのではないのか。だからこそ彼らは巨匠と呼ばれたのではないのか。

つまるところ音楽は聴くだけではダメ。「感じる」ものなのだ。
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MoMo Garage

2005-09-07 21:50:59 | 脳みその日常
今日は3ヶ月に一度のオイル交換の日。ワシは月に最低でも1,000キロは走るので大体このぐらいのペースでエンジン・オイルの交換をしている。しているといっても実際に作業するのは行きつけの整備工場「MoMo Garage (モーモー・ガレージ)」だ。

オイル交換なんて別に自分でやればいいことなのだが、わざわざ出向くのはプロの目から「クルマの健康診断」をしてもらうためである。ワシとここの社長との付き合いはもう20年にもなるのでクルマのことはすべて任せているといってもよい。事実、腕は確かだからねえ。ただ、この会社にはまだHPがないので、今回は社長の許可を得てこの会社をご紹介する。


電話番号でわかるように、この会社の所在地は埼玉県いるま市。工場の周囲は自然に囲まれており、用事がなくともくつろげるほど心地よい場所だ。長い付き合いというせいもあるが、ワシなどは行けばいつも半日ほどそこにいる。社長の応対も丁寧だし、こちらも気兼ねなくいろいろな相談をするからかもしれない。

料金もきわめて良心的で、カネがない時には「ツケ」にしてもらっているほどである。もちろんそれはワシと社長との信頼関係があるからなのだが…。

一般の整備工場なので基本的には外車を含めどんなクルマでも対応してくれる。ただし、車検をクリアできないクルマや傍若無人な態度を取る客は当然のことながら受けつけていない。でも、社長はあくまでお客の立場になって親身なアドバイスをしてくれるので、一度ここの顧客になれればたぶん他の整備工場へは行けないだろう。それぐらいナイスな会社である。

ここでカー・マニアの方へひとつ宣伝。現在、当店には貴重なフォルクスワーゲンの「カルマン・ギアー」が1台ある。下2つの画像が実物の写真だが、現在のところ登録は抹消されている。このテの車種って、なかなかないんだよねえ。まあ古いクルマではあるが、メンテナンスをこまめにやればどんどん愛着がわくもの。社長の話では車検代金を除き、車両本体は整備料込みで20~30万円で販売したいとのこと。興味のある方は検討したらいかがだろうか。以下、簡単なスペックを表示しておく。

車 名:フォルクスワーゲン カルマンギアー
初登録:平成9年8月
型 式:不明 (並行輸入車のため)
車体番号:149952793
排気量:1580cc定 員:4名
全 長:4050mm
全 幅:1630mm
車 高:1300mm
重 量:850kg
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豊かな老後

2005-09-06 14:05:03 | 脳みその日常
ワシの講座の受講者は高齢者がほとんど。みなさん現役の頃はさまざまな職業に就いておられたようである。懸命に働いた結果が現在の豊かな生活につながっているようにも見える。

別に高齢者を羨んでいるのではない。また愚痴を言うつもりもない。そんなことを言い始めたらそれこそキリがなくなるし。彼らが豊かだなあと思うのは、何もカネの問題ではないのだ。その生き方を見ていると本当に楽しく暮らしているなと思うのである。

午前中、受講者のひとりである老婦人から携帯へメールが入った。ご主人とともに「週末にかけて北海道へ旅行に行く」とのこと。さりげない近況報告なのだが、その文面には「楽しんできますわー」というワクワクした気持ちが出ている。たわいもないメールなのに、こういうのを見ると「あぁ、この人は人生をエンジョイしているんだな」と思う。

これから年金をもらう世代はそんな優雅な生活を送れないともいわれる。まあ、そうだろうな。年金未払い者が急増しているんだし…。年金制度の抜本的見直しでもしない限り、懐の寒い老後になるのは必至だ。

人間、懐が寂しくなると心まで狭くなるもの。些細なことで他人を妬んだり、恨んだりするようになる。そうなってはとても豊かな老後どころではなくなる。

別にゼイタクをするだけが豊かさではない。あちこちへ旅行しなくても構わない。ただ、心だけは豊かでありたいと思う。他人に寛容であったり、日常の何気ない景色を見て素直に感動する…とかね。なかなか難しいことかもしれないが。
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最悪なテレビ番組

2005-09-04 13:38:08 | 脳みその日常
選挙戦も後半にさしかかり、各党ともますます自己アピールに熱がこもっている。投票するこちらとしてもそろそろどの党にするか、どの候補者が妥当なのか考えねばならぬ時期に来ている。それを見越してか、各テレビ局は政治討論番組を放映する。本日の午前中だけでも党首討論の番組が3つもあった。

討論番組をやることについて反対するつもりはない。問題は番組の構成の仕方にある。有権者がこうした番組を見たいと思うのは各党の政策を知りたいからに他ならない。しかし実際の番組で行なわれるのは政策の違いが明確にされるどころか、他党の悪いところを声高に言い合うだけ。それも発言者が複数になるため誰が何を言っているのかさっぱりわからないし、何か発言したとしても説得力すらない。

ハッキリ言って、こんな番組をやったところで有権者にはどの党がどういう政策なのか明確にならない。ただワーワー言い合いしているのを見るのは本当に時間の無駄だなと感じる。実に不毛だ。

むしろこういう番組を制作するテレビ局にも問題があるんじゃないのか。各党の政策の違いを示したいのなら、各党が提示したマニフェストをもとにデカいボードに「政策一覧表」のようなものを作って説明すれば済むこと。何もバカ面した党首を呼ばなくたっていい話。まあ、説明者に党首が登場しても構わないが、少なくともくだらん言い合いはさせないといったルールを作るとかしろよ。視聴者の立場になって考えもせんで、ある番組の最後では

「今日の番組をご覧になって、投票する政党は決まりましたか?」だと?

寝ぼけたことを言ってんじゃないよ!オマエらの安易な番組作りによって、ますますワケがわからなくなったではないか!よもや有権者を困らせる意図で番組を作ってるんじゃないだろうな…。いやいや、そこまで疑ってしまうぜよ。

それはともかく、不毛な言い合いを公共の電波で流すぐらいなら、最初からそんな番組を作るなと言いたいね。ったく、見終わった後の不愉快な気持ちといったらない!こちらは情報を知りたくて見ているのに、得たい情報はわからぬままだし、子供の学級会じゃないが「ハイ、ハイ」と挙手して発言を求める某バカ党首をはじめ、マヌケ面を見続けなければならないなんて苦痛以外の何ものでもないのだ!

こんな奴らが政治を動かしていると思うと嫌になるねえ。本当に国民のことを思い、国民に尊敬されるような政治家はおらんのかいな…。
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リアリズムの呪縛

2005-09-03 23:10:07 | 脳みその日常
現代アートの作家のひとりにドイツのゲルハルト・リヒター(b.1932)がいる(作品のいくつかはコチラを参照)。彼の創作のもとになっているのは「焦点を外すことにより現実の向こう側にあるかもしれない何かを探求すること」だという。面白い発想だ。

彼の写真作品では敢えてピンボケにしてみたり、焦点を複数定めたりする。また絵画では特定のものはクッキリと描くのに対し、他のものはボンヤリさせたりもする。それは通常の遠近法ではもちろんない。意図的にピントを合わせたり外したりすることで物体の境界線を見る者に再認識させようとするのだ。ほっほー、面白い。

リヒターは言う。

「現実、夢、幻影、幻想……実は境目は決められない」

言われてみれば、確かに境目なんてあってないようなものなのかもしれない。かつて心理学者の岸田秀も「この現実世界も実は幻想なのだ」と述べていたっけ。ま、それは多少違う意味で使われていたが…。

ただしリヒターの作品を楽しむには、作品の受け取る側が現実をきちんと認識しておくという前提が必要である。なぜなら現実と夢の境界が曖昧になるということは、一歩間違えば夢遊病の世界に入っちまう可能性もあるからだ。つまりはそこにはアブナイ世界に連れ込まれてしまう危険性もなくはないということ。

しかし、彼の作品を見る人はたいていマトモなはず。マトモというのは換言すれば目に映る事物に疑いをもたないということ。すなわちマトモな人はリアリズムの世界のなかに生きているのである。こうした価値観が「常識」とされるがゆえに、我々の社会生活は破綻することなくある意味で平穏でいられる。

違う見方をすれば、リアリズムという価値観が前提とされているからこそリヒターの芸術は逆に注目される。だって、我々の「常識」からすれば彼の発想は全く異なっているからね。逆の見方をすると、彼の芸術が評価されるというのは、いかに我々の価値観がリアリズムに縛られているかという証明でもある。光の眩しさを知るには漆黒の闇を味わうのと同じ理由だ。
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たまにはシャンカール

2005-09-02 12:09:33 | CD/DVD
東京はだいぶ涼しくなってきたが、それでもまだ残暑が続いている。今回は目先を変えてシタール音楽の話でも。

シタール」はインドの伝統的な民族楽器のひとつで、世界的に知られているシタール奏者がラヴィ・シャンカール(b.1920)その人である。我が国でシャンカールが知られるようになったのは、ワシの記憶違いでなければ今は亡き優れた民族音楽学者、小泉文夫(1927-83)氏が各国の民族音楽を紹介したことがきっかけだったように思われる。これによりシタールといえばシャンカール、シャンカールといえばシタールというイメージが定着したように思う。

いずれにしろ、シャンカールの演奏によってシタール音楽は世界的に知られるようになったのは確かであろう。その影響がビートルズのメンバーであるジョージ・ハリスン(1943-2001)の心を魅了する。1966年後半に彼は初めてシャンカールからシタールの手ほどきを受けたそうだ。そして30年の月日を経た1996年に右上のアルバム「チャント・オブ・インディア」をハリスン自身がプロデュースするに至る。

「チャント・オブ・インディア」は翌年にリリースされたが、タイトルの通り「インドの歌」が多数収められている。もっとも、その大部分の旋律はさほど抑揚があるわけでもなく、単調といえば単調である。ただし、BGMとして流しておくには十分。歌の背後に聴こえるシタールの「ビョーーーーーン」という音が何ともいえないエキゾチックな雰囲気を醸し出し、ある種の「癒し」の効果もあるだろう。

一方、右下のアルバムは2000年にシャンカールが娘のアヌーシュカと共にニューヨークのカーネギーホールで行なったライヴを収録したもの。ここで演奏している曲はすべてシャンカールが作曲したもので、「歌」はない。ただ、やはりシタール音楽の特徴というべきなのか、音楽はあまりに「ビョーーーーーン」としているのでジックリ聴くのには適していない。

でも「チャント・オブ・インディア」と同じく、これもBGMとして流しておくには良い。ふと思い出したので書いておくと、シャンカールもしくはシタール音楽の影響はミニマル・ミュージックの大御所のひとりであるアメリカの作曲家フィリップ・グラス(b.1937)へも及んでいる。音楽の与える影響力って面白いねえ。
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無意味なプライドは身を滅ぼす

2005-09-01 05:04:35 | 脳みその日常
仕事柄、演奏家と知り合いになることが多い。プロの演奏家として活躍するほどであるから、そのほとんどは有名な音楽大学を出ている。しかし、よくよく話を聞いてみると意外なことで悩んでいたりする。

演奏がうまく行く時はよい。しかし、何らかのスランプに陥った時、彼らの頭をかすめるのは「恥ずかしい演奏をしたらみっともない」という思いらしい。人前で演奏するのだから、それは誰でも思うことだろう。でも、著名な学校を出ている人ほどプライドが高い。実はここに「落とし穴」が存在する。

プライドをもつことは決して悪いことじゃない。けれども、そのプライドが場合によってはプレッシャーとなって本人に襲いかかってくることもある。そうなった時、本人の精神的な重圧はピークに達するらしい。不安と動揺が交錯し、練習すらまともにできなくなるそうだ。練習もできなくなるのだからヘタになるのは火を見るより明らか。こうなると、もう負のスパイラル状態。やることなすことがすべて裏目に出るようになり、挙げ句の果てには自暴自棄になったりもするそうだ…。

ワシなんて身体ばかりか神経まで超合金でできているので、プレッシャーに押しつぶされることはまずない。仮にプレッシャーを感じるとしても、「原稿が書けねぇなあ」と思うぐらい。そんな時はすかさずドライブ。そうすればプレッシャーらしきものはすぐにふっとんでしまう。そんな図太い奴なので、正直な話、ワシは彼らの気持ちを完璧に理解できない。とはいえ、同じような話を幾度となく聞いて気づいたのは、やはり意味のないプライドが彼ら自身を苦しめているということ。

だからといってプライドを捨てる必要はない。ただし、現在の地位や名誉、それに過去の華々しい経歴といったものを忘れることは重要かもしれない。なぜなら、彼らがこれからやろうとしている演奏は、そうしたファクターとは何の関係もないのだから。厳しい言い方をすれば、演奏家は音を出している間でしか評価されないのだ。だから過去の実績や現在の地位なんて実際のところ今現在の演奏には何の役にも立たない。そのようなものに拘泥し続けるから自らを苦しめることになるのも当然なのだ。

演奏家は音を出してナンボの世界。それを忘れて地位や名誉を振りかざそうとするのは本道を外れていると言わざるを得ない。結果としてその人に地位や名誉が付いてくるのならば問題はないけれど。でも、本当に優れた演奏家というのはそんな社会的地位のことなんて無関心なんだよな…。
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