ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

リアリズムの呪縛

2005-09-03 23:10:07 | 脳みその日常
現代アートの作家のひとりにドイツのゲルハルト・リヒター(b.1932)がいる(作品のいくつかはコチラを参照)。彼の創作のもとになっているのは「焦点を外すことにより現実の向こう側にあるかもしれない何かを探求すること」だという。面白い発想だ。

彼の写真作品では敢えてピンボケにしてみたり、焦点を複数定めたりする。また絵画では特定のものはクッキリと描くのに対し、他のものはボンヤリさせたりもする。それは通常の遠近法ではもちろんない。意図的にピントを合わせたり外したりすることで物体の境界線を見る者に再認識させようとするのだ。ほっほー、面白い。

リヒターは言う。

「現実、夢、幻影、幻想……実は境目は決められない」

言われてみれば、確かに境目なんてあってないようなものなのかもしれない。かつて心理学者の岸田秀も「この現実世界も実は幻想なのだ」と述べていたっけ。ま、それは多少違う意味で使われていたが…。

ただしリヒターの作品を楽しむには、作品の受け取る側が現実をきちんと認識しておくという前提が必要である。なぜなら現実と夢の境界が曖昧になるということは、一歩間違えば夢遊病の世界に入っちまう可能性もあるからだ。つまりはそこにはアブナイ世界に連れ込まれてしまう危険性もなくはないということ。

しかし、彼の作品を見る人はたいていマトモなはず。マトモというのは換言すれば目に映る事物に疑いをもたないということ。すなわちマトモな人はリアリズムの世界のなかに生きているのである。こうした価値観が「常識」とされるがゆえに、我々の社会生活は破綻することなくある意味で平穏でいられる。

違う見方をすれば、リアリズムという価値観が前提とされているからこそリヒターの芸術は逆に注目される。だって、我々の「常識」からすれば彼の発想は全く異なっているからね。逆の見方をすると、彼の芸術が評価されるというのは、いかに我々の価値観がリアリズムに縛られているかという証明でもある。光の眩しさを知るには漆黒の闇を味わうのと同じ理由だ。
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