ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

需要を考慮した解説

2005-09-14 17:42:58 | 脳みその日常
ある音楽マネジメントにはユニークな担当者がいる。ユニークといっても変わり者では決してない。見た目もフツーだし、常識的な考えをもった御仁だ。では何がユニークなのか。演奏会の冊子プログラムといえばオーケストラの演奏会や外タレのリサイタルなどを除き、通り一遍の曲目解説で素っ気ないものと大体相場は決まっている。

しかしこの担当者はそうした「面白くも何ともない解説ってどーよ?」と疑問を抱くひとり。確かに「解説」なのだから客観的に淡々と事実を書けば良いという意見もあるだろう。何もエッセイ風にする必要はない、と。読む側にしてみても、クソ面白くもないダメダメなエッセイを読まされるより作品についての情報満載のマジメな解説のほうが、まだ有益と思うかもしれない。

「そうではなくてですね…」と、この担当者は言う。せっかく専門家に書いて戴くのだからそのリサイタルで演奏される曲目の意図や意味を「解説」していただきたいのです、と。なるほど、そーゆーわけですか。ならばやりましょう、ということで一昨日から徹夜して原稿を仕上げる。

この担当者の考え方は一見異端のように思えるかもしれない。でもよくよく考えれば実は非常に素晴らしい切り口であることがわかる。作品を演奏する順番というのは演奏家がデタラメに並べたものでは決してない。何らかの意味なり意図があって順番が決められるのだから。

ところが従来の「クソ面白くない」作品単位の解説では曲順の意味まで説明していないし、できない。聴衆の立場からすると今回の曲目にも関心はあるが、そのプログラムがどのような意図で考えられたのかについても興味があるのではないだろうか。

それは演奏家が直接文章で書けば問題はない。しかしそれができないとすればワシらプロが演奏家の考えをトレースなり、推測するなりして代弁すれば良いこと。なのにこれまでそのような「解説」はほとんどなされてこなかった。考えてみれば不思議なことではある。

その理由は簡単だ。作品単位の解説なんて誰でもできることだから、極端な話、誰に頼んでも書いてもらえる。それに仮に曲目が変更になれば編集する際にその曲の原稿だけ「差し替え」すれば済むことだから。要は編集作業をいかにラクにするかだけのことなのだ。原稿を依頼されるほうとしても作品単位の依頼のほうが書きやすいことは確か。つまり依頼する側と受ける側の条件が合致した結果、今日の「クソ面白くもない」作品解説のスタイルになったともいえる。

そこへいくと、この担当者の発想はあくまで聴衆すなわちお客の視点でモノを見ている。それが素晴らしいのである。客商売というのは言うまでもなくお客さんあっての商売。お客を満足させなければ成り立つものではないのだ。編集者と書き手だけがラクをするようなスタイルだと、いずれ客も来なくなるだろう。当の主役である演奏家が立派な演奏をしたとしてもである。

徹夜明けの脳みそをリフレッシュするため、夕方ふらっと晴海埠頭へ出掛ける。ここも15年ほど前は知る人ぞ知る夜景スポットだったが、今や深夜ともなればカップルだらけとなるデート・スポットに成り下がった。さすがに夕方にはイチャつくカップルもいない。やれやれである。

たまたま心に滲みるような夕焼けに遭遇。うーん、まるで「たそがれた」ワシの心みたいだな(苦笑)
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