ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

対話

2005-09-24 05:53:51 | 脳みその日常
演奏家のインタビューによく登場する「音との対話」というフレーズ。楽器相手に音楽と対話すれば孤独感はない、という。そうだろうな、自分がどのように弾くかによって出てくる音も変わるわけだし。その意味では「対話」なのだろう。

ワシが夜な夜なドライブをするのも考えてみれば同じこと。アクセル・ワークとハンドル操作によってクルマはいかようにも動いてくれるのだから。もっとも、それは芸術とは同レベルでは語れないことかもしれないが。

音楽を扱う仕事であっても、原稿を書くにあたって「対話」というのはない。書く対象となる音楽を聴くからそれも対話じゃないかと思うかもしれない。しかしそれはすでに完成したものか、もしくは自分とは関係のないところで作られているもの。だから「対話」にはならない。原稿を書くというのは対象となる音楽を自分のなかでどう捉え、解釈するかなのだから。

自分との対話、つまりは自問自答。まったくもって面白くない「対話」である。自分の思考パターンなんて自分が一番わかっているのだし。対話の面白さというのは、自分とは異なる他者とコミュニケートするところにある。意外な発言、思っても見なかった発想がそこから生まれるからね。ソクラテスが他者との対話を重視して哲学を展開した理由も実はそこにあったのかもしれない。

かつてワシが哲学科にいたころ、クラスメートにY君という孤独を愛する奴がいた。あるとき彼はこんなことを言った。

「ボクは砂を噛む思いで哲学書を読んでいるんだ!」

はぁ、そうですか。砂を噛む思いねぇ…。「随分と丈夫な歯をお持ちで…」などというツッコミはもちろんその時はしなかった。でも彼は一体何が楽しくて難解な哲学書を読んでいたのだろうか。未だにわからない。

もちろん同じカリキュラムを履修していたのだから、ワシもひと通りの哲学書は読破した。だが、ワシは砂を噛む思いなんてまっぴらだったし、ある意味で要領がよかった。だから難解な表現内容も「簡単に言えばこういうことだよな?」なんてテキトーにまとめて単位をもらい、あとは悪友たちとレベルの低い「対話」を楽しんでいたものである。

そういえば、砂を噛んでいたY君は今頃どうしているのだろう。ワシの知る限りどこかの大学で教えているという話も聞かないし…。ヘーゲルのように相変わらず自室で哲学を探究しているのだろうか…。
コメント