ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

音楽は感じるもの

2005-09-08 15:48:51 | 音楽あれこれ
唐突な話だが、映画『燃えよドラゴン』(1973)の冒頭で主演のブルース・リー(1940-73)が弟子に向かって言う有名な台詞がある。

「Don't think, feel ! 」(考えるな、感じるんだ!)

実は音楽もそうなのだ。音楽は耳で聴くものであるが、どんなに素晴らしい演奏を聴いても「感じる」ことができなければ、まさしく猫に小判。

この「感じる」ということは極めて大切なことである。人はみな耳で聴くのだから何らかのものを「感じる」のは間違いない。それは感動という形をとることもあれば、驚きとなって聴き手に飛び込んでくることもある。

しかし、ここでいう「感じる」というのはそういう意味ではない。物理的に響く音に反応するだけでなく、演奏の背後にある「何か」を掴むことなのだ。その「何か」を見抜くことで作品および演奏の良否も自ずとわかるようになる。別の言い方をすれば、どんなに粗悪な楽器であったり、響きの悪いホールであっても「感じる聴き方」ができる人であれば判断を誤ることはまずない。

ところが、音を表面的にしか聴きとれない人もいる。そういった類いの連中はやたらと音質にこだわったりするから困る。特にノイズを完全にカットできるようになったCDの時代になってからはその傾向が著しい。

録音を例に考えてみよう。確かに余計なノイズの入っていない録音のほうが集中して演奏を聴くことができる。そうした技術革新の恩恵に与れる我々は幸福といえるだろう。しかし、単に美しい音や残響などにとらわれていると音楽を「感じる」ことができなくなる。なぜなら、表面的にしか音楽を聴いていないからだ。

オーディオ系の雑誌にはよく「録音評」なるものがあるが、あんなのは優れた演奏かどうかとは何の関係もない。それはオシロスコープなどを用いて、ただ数値的に判断しているだけのこと。録音なんて、どこまで技術が進んでも所詮記録に過ぎないのだ。単なる音の記録に過ぎないものに対して、やれ音質がどーのこーの議論することに何の意味があるんだろうか。録音マイクが集める情報なんて、ナマ演奏のほんの一握りの情報でしかない。限定された情報だけで作られたCDでもって、演奏家を評価するなんて本当は間違っているし、演奏家のほうだって不本意であろう。

じゃあ、ライヴ録音ならいいんじゃないの?という声が聞こえてきそうだ。ハッキリ言って、それもダメである。確かにスタジオ録音に比べたら会場の臨場感も伝わるかもしれない。でも、それとて「雰囲気」がちょっぴり伝わるだけで、ナマ演奏の瞬間の張りつめた「空気」なんて記録されない。

だけど、フルトヴェングラーやトスカニーニといった昔の巨匠たちの録音からはモノ凄い「ちから」が感じられる。当時のSPなんて今のCDに比べたら泣きたいぐらいヒドイ音質だ。にもかかわらず迫り来る音楽がそこにはある。ということは、彼らの演奏には、聴き手に何かを「感じさせる」ものがあったということなのではないのか。だからこそ彼らは巨匠と呼ばれたのではないのか。

つまるところ音楽は聴くだけではダメ。「感じる」ものなのだ。
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