ライターの脳みそ

最近のマイブームはダム巡りと橋のユニークな親柱探し。ダムは目的地に過ぎず、ドライヴしたいだけ…。

自分は必要なのかと考えること

2005-02-25 01:28:18 | 脳みその日常
往々にして精神を病む人は「自分は何のために生きているのか?」と考えたりする。また、他人とのコミュニケーションがうまくいかない人は「もしかして自分は必要とされてないのではないか?」と思ったりする。

結論から言おう。そうした疑問をいくら考えたところで答えは出ない。ワシはかつて音楽の勉強をする前に、大学で哲学を学んでいた。哲学科というところは、いわゆる哲学の歴史を学ぶところである。古代ギリシャ哲学から現代哲学までをひと通り学ぶのだ。歴史上に名を残すエラーイ哲学者たちの脳みその中を探る学問といってもよい。

古今東西の哲学者たちの思想を学んだ立場から言えば、「自分は何のために生きているのか?」とか「もしかして自分は必要とされてないのではないか?」という疑問に対する明確な答えを出している哲学者は、残念ながらいない。仮にそれっぽい疑問について答えを出そうとした者がいたとしても、ストレートに答えを出していない。彼らは頭がいいので、なにがしかのレトリックを用いて違う論理にもっていこうとする。つまりは、これらの問いはエラーイ学者でさえ難しい問題なのだ。

確かに人生において、人はいろいろな壁に直面し、悩み苦しむ。するとそうした疑問をもつのも無理はない。ワシとて若い頃にはこの問題にずいぶんと苦しめられたものである。でも結局、答えを見いだすことはできないまま今日に至っている。

だけど、ちょっと見方を変えてみよう。「何のために生きているのか」なんて真剣に考えるのは、もしかしたら愚問じゃないだろうか、と。人間はたまたま考える生き物だから、そんなことを思いつくけれど、生きているものは他にもいる。たまたま彼らは考えるという能力が与えられていないだけだ。いや、もしかしたら実は考えているのかもしれないが、それは単に我々に伝わらないだけなのかもしれない。

いずれにしても、いま生きているということは確かなのであるが、もしかすると生きていることそのものは偶然なのかもしれないのだ。創造主というか絶対者のレベルからすると、いまワシが生きていようと生きていまいと、そんなことはどうでもよいことなのかもしれない。たまたま、この瞬間にワシが呼吸をしているというだけのことであって…。

「何のために生きているのか?」という問いがなぜ起こるのか。それは無意識のうちに自分と自分以外の人間とを比較するからではないか。他人を意識するからこそ、誰かの「ために」何かをするという気持ちが起こったりするわけだし。

また、意識する対象がモノであっても基本は同じ。たとえば、カネを貯める「ために」生きるとしよう。確かに対象はカネを貯めることであって、他人ではない。しかしそれを推し進めて考えていくと、結局は金持ちになった自分を誰かに認めてもらいたいという気持ちが潜在的にあるから、そうした行動に出るんじゃなかろうか。

もしこれが正しいとすれば、「何のために生きているのか?」という呪縛から逃れるには、自分以外の他人を意識しないように務めれば良いことになる。他人を意識するから劣等感を抱いたりするし、不安になったりする。しかしそんなことは他人にとっては関係のないこと。だから他人を意識したところで何も自分にメリットはない。

そうはいうものの、なかなかゴーイング・マイ・ウェイというわけにはいかない。そりゃそうさ。人間はみな社会の中で生きているんだからね。仙人のように孤独に生きてるわけじゃないし。じゃあ、どうしたらよいのか。

劣等感を抱いたり不安になったりする人に共通するのは、自分に自信がないこと。ポイントはそこだ。問題の解決の糸口は、なんでもよいからひとつでも自信が持てるものを見つければよい。他人に負けない何かがあればあるほど劣等感を抱くこともなくなるし、不安になる回数も減るはず。

そうなればシメたもの。同様に「自分は必要とされていないのではないか?」なんていう問いも浮かばなくなる。自分に得意分野があれば、そのスキルを誰かが必要とするからだ。こちらが黙っていても、相手から頼んでくるものさ。

だから、「自分は何のために生きているのか?」とか「もしかして自分は必要とされてないのではないか?」という疑問を抱いたら、すぐに自分を見つめ直し、いち早く自信を取り戻すように務めることである。それが解決の近道だと思う。
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