両国散策で軽い考察(下)

2007-01-17 00:00:40 | 美術館・博物館・工芸品
ちょうど大相撲開催中なので、相撲取りがあちこちを歩いている。また、名前を書くとまずいのだが、周辺にある相撲部屋はピカピカの鉄筋コンクリートのマンションのようなものから木造モルタル2階建て築40年というのもある。調査もしないでスカウトに騙されて上京(あるいは訪日)して、その住み込み部屋を見て、ガックリという少年も多いだろう。「まあ、建物は古いけんど、ジンギスカンはウメーからな」って・・・

b5d53805.jpgさて、相撲写真資料館という、今まで見た中で最も小さな資料館がある。地元の写真屋さんが店舗(スタジオ)の横の駐車場を改造して、主に横綱の写真を掲示している。冗談ではなく、本当に駐車場を改造したものと思える。横綱の写真は、第41代千代の山から64代曙までだが、「なぜ、41代から」なのかということをしばらく考えていたが、ある可能性が思い浮かんだので、歴代横綱リストを改めると、思ったとおり。第40代横綱は、「東富士」となっていた。そうプロレス転向した男である。

この東富士のプロレス入りには様々な原因があるのだが、作家村松友視氏は「力道山がいた」の中で、こう推理している。

1.当時、プロモーターだった新田某という人物は、力道山は既に国民的スターになっているが、どうもその出生地に関して複雑な関係があり、「日本人ではない」ということが露見するのではないだろうか、と怖れていた。

2.その時に備えて、早く力道山から東富士にスターを入れ替える必要があった。

3.しかし、力道山は、自らの興業家としての腕を信じていて、東富士をプロレス界から追放することを決意し、東富士がプロレスではまったく使い物にならないことを強調するようなシナリオを作り出していった。

ということだそうだ。

もし、この資料館(具体的には写真館の経営者)が、そういう転向者に冷たい、という方針であるならば、写真展示の最後である第64代曙も、毎年の大晦日に「マケボノ君」になっているようでは、展示写真からはずされる日が来るのかもしれない。


b5d53805.jpgそして、両国には鍋料理(ちゃんこ)を中心とした料理屋が無数にあるのだが、見たことも聞いたこともない単語が、店頭巨大看板に書かれている店があった。

もち豚専門店 わとん両国店。

もち豚」とは何だろう?いくら考えても思いつかない・・・豚の品種なのだろうか。江戸は広い・・  

両国散策で軽い考察(上)

2007-01-16 00:00:07 | 美術館・博物館・工芸品
ちょっと用があって、両国に行ったのだが、ついでに両国駅周辺を散策。いくつも歴史スポットがある。そして、日本の都市の常として、今や見る影もないものも多い。

芥川龍之介関係
a9781f5f.jpg芥川龍之介は両国で育ったそうだ。「芥川生育の地」というのが表示されているが、その場所は家やビルが密集し、地面に隙間がない。少し離れた小学校に記念碑がある。なぜ誕生の地ではなく、生育の地かというと、龍之介は芥川家の生まれではないから。新原家のこどもだったのだが、母が病気のため母の実家芥川家で生育する(どうも生育というコトバは人間向きじゃない)。11歳の時に母が亡くなると正式に芥川家の養子となる。

そういうことなどは、両国の記念碑を見るだけでは何もわからないようになっている。それに、ちょっと歴史としては近すぎる。とは言え今年は没後80年ということで岩波から全集が出る。全部読んで共感しすぎて毒をあおりたくなると嫌だから・・そんなことないか

勝海舟誕生の碑
a9781f5f.jpgこちらは普通の公園の中にある。こどもはいなくて、大人がベンチに座って居眠りしている。どうしたことか。居眠りする前に、江戸市民はこの勝海舟と西郷隆盛との会談で江戸焼き払いが中止になったことに感謝すべきなのだろう。幕府の全権代表になるほどの英才なのだが、なぜか両国で生まれた。

両国は、江戸と下総(千葉)の両国にまたがるからという理由で地名が付いたとも言われるほどで、江戸からみれば大川(隅田川)の先だ。通称「川向こう」だ。本来、武士が住む場所じゃない。いざ幕府が臨時召集をかけた場合、直ぐに駆けつけなければならないのだから、川向こうなど論外だ。相当の貧乏侍の家だったのだろう。あるいは、幕末には武家株を売ったり、借金の担保に出したり入れたりしていたのだろうか。だから、町人と混住するようなことになったのではないだろうか。毎日、両国橋を渡って通勤する若き勝海舟は橋上の風をどのように感じていただろう。何しろ橋には見張りがついているのであるから、上級武士に対する心理的対抗心があったのではないだろうか。

さて、勝海舟のことを調べてみて、非常に感じる話がある。江戸開城交渉以降、勝が西郷に会ったことは一度もないという事実だ。幕末の幕府方最高の英才は、その英才なりの身の引き方の中に、果たして、自分流の個人主義、プリンシプルを貫いたのだろうか。


吉良邸・討ち入られ現場
a9781f5f.jpg両国で見つけるとは思いも寄らなかったが、忠臣蔵では敵役で登場する吉良上野の上屋敷跡がある。わずか10坪程度の神社になっているが、卑しくも大名の上屋敷なので、この神社の30倍くらい大きな敷地だったのだが、今は、その惨劇が起きた場所は住宅やオフィスビルが建ってしまい、この神社の小スペースに首洗い井戸があるだけ。

勝のところでも書いたが、吉良は大名としてはみっともないというか川向こうに上屋敷を構えている。これだけで同情してしまう。要は貧乏大名だった。それに、最初に斬りつけたのは浅野側であり、江戸城殿中なのだから、小大名の身分で、やたらと刀を抜いての斬り合いをするわけにはいかない。だいたい、浅野に切腹を命じたりお家断絶させたのは、幕府であって、吉良がそうした訳ではない。当時から幕府内にも、討ち入りは、敵討ちにはあたらない。敵を討つなら、相手は幕府そのものではないだろうか、という意見も多く、あれこれ審議の結果、全員切腹ということに落ち着いた。

それなのに、天下騒擾の罪として、吉良家はお取りつぶしとなる。幕府が世論に負けた。しかし、吉良家には、もう一系列があり戦国時代は世田谷を拠点としていた。そちらは小田原北条家に仕えていたのだが、秀吉の小田原攻めの時、北条を裏切り、豊臣家に泣きつく。秀吉も困り、一旦、吉良という名を消し、横浜の蒔田で蒔田氏としてリニューアルさせていた。その後、吉良はさらに徳川になびき江戸時代をひっそり過ごそうとしていたのだが、忠臣蔵の後に幕府は蒔田家から吉良の名前に改姓させ、吉良家は復活している。

一方、大石内蔵助は、私の好きな現存12天守閣に関係がある。岡山県の山中にある備中松山城の城代を勤めたことがある。難攻不落の天守閣の片隅には「装束の間」という切腹用の一間があるが、結局、違う場所で切腹した。

「忠臣蔵人気」自体も、明治政府の反徳川キャンペーンの一つなのだろうから、冷静に吉良家のことも考えてやりたいものだ。

世界を震撼させなかった企業と自ら震撼した企業

2007-01-15 00:00:41 | MBAの意見
日本時間1月9日04時15分頃、超大型タンカー(VLCC)「最上川」と米軍の原潜「ニューポート・ニュース」がホルムズ海峡で衝突した。衝突後、間もないニュース(毎日)はこう書く。

<米軍原潜>日本のタンカーと衝突 アラビア海で [ 01月09日 11時32分 ]
 ロイター通信は9日、日本の防衛省報道官の話として米軍の原子力潜水艦と日本のタンカーが中東のアラビア海で衝突したと報じた。負傷者の有無は分かっていない。
 米テレビによると、アラビア海に近いソマリアでは米軍の攻撃機が国際テロ組織アルカイダの拠点を攻撃。軍事作戦を支援するため、アラビア海北部から空母「アイゼンハワー」がソマリア沖に向かっているという。空母戦闘部隊の移動と今回の衝突との関係は不明。


「最上川」は日本三大船会社の一つである川崎汽船所有船で長さが333メートル。東京タワーと同じ長さの超大型船。原潜ニューポート・ニュースも長さ100メートル超。原潜の活動内容が不明からかどうかわからないが、タンカーの行く先もシンガポールと報じられているが、シンガポールでは燃料を補給するだけで最終目的地は日本のある製油所の予定だった。

毎日のニュースの中で、アラビア海と書かれているが、念のために世界地図を拡げてもらえば、アラビア海という表示が書かれていない場合もある。「ペルシャ湾」と書かれているはずだ。実は、「日本海か東海か(最近、北側のスパイが「平和の海」と言い出した。拉致被害者がこの海を連行されたことや、ミサイルの実験場になっているのに平和の海、とはいい玉だ)」というのと同じで、湾岸国、特にイラン(ペルシャ)とサウジアラビア(アラビア)とが互いに湾の名前を奪い合っている。英語では「Persian Gulf」か「Arabian Gulf」かであって、「Arabian Sea」とは言わない。日本の新聞社がアラビア湾ではなくアラビア海などと実在しない名前を使うのは、いざと言う時に巧みにごまかす知恵なのだろう。本エントリでは、どちらの国民も怖いので、単に「ガルフ」と書く。

ホルムズ海峡は、このガルフの入口に当たるのだが、幅は一見40キロもあるのだが、このVLCCのように満船の時に深さが30メートルを越える大型船が通行できるのは幅10キロ程度だ。ガルフ沿岸のイラン・イラク・サウジ・クウエート・UAEなどで積み込まれたタンカーはすべて、このホルムズ海峡を通過する。交通量は相当多い。特に、日本勢は8割の原油がこの海峡を通り、さらにそのほとんどがマラッカ・シンガポール海峡を通過する。日本だけでなくホルムズ海峡は世界の原油の20%を支えているのだ。

そして、潜行中の潜水艦はタンカーの底部に衝突し、穴を開けてしまったのだが、不幸中の幸いで両船とも軽微な破損ですんでいる。積荷の原油は地下から産出されたままのものであり、軽質で引火性の高いガス留分を多く含んでいる反面、一度着火すると消火が困難な重油留分を大量に含んでいる。一方、原潜は原子炉を搭載している。

仮に、衝突・炎上ということになればガルフ入口が火の海になり通航禁止。さらに核汚染となってしばらくの間、世界中で石油不足が起こる可能性があったはず。

では、なぜタンカーの底部に穴が開いたのに、原油の流失が起きなかったかといえば、「ダブル・ハル」だったからだ。”ハル”とは「殻」のことを指す英語で、簡単に言えば、ダブル・ハル・タンカーの底の部分は、空洞になっているため、海水が流入しても、貨物油タンクからは漏れないことになっている。

10年近く前だが1997年に東京湾で「ダイヤモンド・グレース」というこれも超大型タンカーが湾内の浅瀬に接触。こちらは、もろくも原油漏洩し、東京湾内全域に油膜が拡がり2日間、全面航行禁止になったが、生鮮食料品や魚介類が市場に荷揚げできないと東京人の食い物が枯渇するため、超政治的判断で通航可となった。この時のタンカーはシングル・ボトム型で厚さ10センチの鉄板の一枚下は海、上は原油だ。タンカーをチャーターしていた石油会社は今は存在しない。向け先の製油所も現存しない。

このタンカーのダブル・ハル化だが国連の下部団体であるIMOでMARPOL条約が2003年に締結されている。段階的に2015年までに、全タンカーがダブル・ハル化する予定だ。そして、既に多くの欧米先進国では国際条約に先んじて国内法令でシングル・ボトムを禁止している。もっとも日本でも優良企業は既にダブル・ハル化を促進していて川崎汽船もそうだ。だからこそ大事故は防げた。ところが日本も法令上ではなかなかそうはいかない。そういう話を聞くと、もう日本にいること自体が恥ずかしくなる。

今や、世界のタンカーの50%強がダブル・ハルである。規制をしないと、世界中から危険なシングル・ボトム・タンカーが日本に向かうことになる。

個人的な話だが、ちょうど事故の前営業日の1月5日の午後、しばらく持っていた川崎汽船の株を利益確定で売却していたのだが、それは事故とは無関係である。


次に不二家。報道の通りとすれば、自業自得としかいえない。語る言葉もないという感じだ。言い訳も困難だろう。不二家でなく「不治の病」だ。

ところで、問題があったネズミの多い埼玉工場だが、川越街道と浦和所沢線の交点の近く(新座)だったと記憶する。遠い昔に勤めていた会社で、その工場にチョコレート色のある製品を納入していたことがある。そんなもの使っていいのかなあ、という代物。そして、工場の近くに行くと、かなり遠くのクルマの中でもバニラの臭いが感知できた。近くに住みたくない工場の一つだろう。

何か、1年中クリスマス用のケーキを焼き続け、シーズン以外はスポンジ部分を冷凍しておく現在のケーキ商法に影響が出ることはないのだろうか、とダメ押し。

まだ見ていない曜変天目茶碗

2007-01-14 00:00:43 | 美術館・博物館・工芸品
fb049b68.jpg少し前に、三菱家のお宝倉庫である「静嘉堂文庫」に行ったのだが、国宝「曜変天目茶碗」を見ることができなかった。行けば見られるというものではない。甘かった。三菱商事の社長にでもなれば、「今夜の会席はアメリカ経済界ののVIPだから、8時頃、料亭○○に持ってきてチョーダイね」とか言えるのだろうが、このトシで社長の座を狙うのは無理だ。絵葉書で我慢する。本来、手にとって手触りとかも楽しみたいのだが・・

この岩崎家の集めた無数のお宝の中でも、もっとも価値が高いのではないか、と言われるのが、この「曜変天目茶碗」である。中国・南宋時代の作とされ、中国には、この夜空に星のきらめくように見る角度で色が変るというものは残されていない。世界に3個だけで、すべて日本にある。その中でも、もっとも妖艶と言われるのがこれだ。残り二個は、京都大徳寺・龍光院と大阪・藤田美術館にある。現代でも、この曜変天目の技術に挑戦する者は多いが、まだ製法は解明されていないようだ。


そして、この茶碗には、由来伝承があるのだ。別名を稲葉天目と呼ばれるように、淀・稲葉家が長く保有していたのだが、その経緯は、遠く三代将軍徳川家光・そして春日の局の時代に遡る。

表の伝承では、家光が若くして重病の際、乳母である春日の局は病気平癒を祈願し、「生涯の薬断ち」を誓う。その甲斐あって、家光は回復するのだが、逆に後年、春日の局が重病に伏した際、家光は病の床に、この茶碗に薬を入れて届けたのだが、春日の局は、茶碗のみを拝領した上、薬は流してしまったというのである。そして、その茶碗は局の死後、局の派遣元の稲葉家が拝領することになる。

春日の局は、いわゆる大会社で「お局様」と呼ばれる女性社員の語源となるのだが、現代のお局様ならば、薬を飲む前に、茶碗が骨董屋に直行するかもしれない。


さて、歴史は様々な角度で読まなければならないのだから、この由緒の話を検討してみる。

まず、三代家光と春日の局の件だが、徳川家の正史では、家康のこどもが秀忠で、秀忠は妻を一人しか娶らず、織田信長の妹であるお市の方の娘の一人であるお江を正室とする。こどもが何人かいる中で、お江は家光より弟の忠長の方を利発として将軍に推すのが、家康は「まあ、これからは家柄じゃ」とか言って兄の家光を将軍にする。

一方、春日の局は斉藤家の出身だが、元々の斉藤家は本家を信長に滅ぼされ、何とかその一派が明智光秀の重臣として生き延びていた。しかし、本能寺のクーデターが失敗。局の父である斉藤利三は斬首されてしまう。そして局の流転人生が始まる。まず、17歳で稲葉正成と結婚。正成は小早川秀秋の部下に納まる。秀秋は関が原で西軍から東軍に寝返るという大戦功をあげるのだが、2年後に発狂して急死。お取りつぶしで、稲葉夫婦はまた失業。その後、あれこれして家康の部下に納まることができる。本来、正成夫婦はこれで小市民的安寧を得るはずだったのだが、思わぬ事態になる。家康が局に目を付け、家光の乳母に採用したことになっている。


そこのところ、多くの歴史愛好家は、家康が局に手を出してしまい、生まれたこどもが家光、と小説の中に書いてしまう。したがって、家光は秀忠×お江の子ではなく、家康×春日の局の子ということになる。そうすると、局と家光の深い愛の理由も納得がいく。さらに秀忠が大阪方面に出張中に、お江は急死し、その亡骸は土葬ではなく火葬に臥されたことから、毒殺されたものと歴史愛好家は決め付ける。

家光は30歳近くまで男色一辺倒だったとされ、こどもの頃から、何人かの小姓が派遣されるのだが、その中には自らの子供で稲葉家の宗主になる正勝も含まれている。一体何をしていたのかはよくわからない。

そして、稲葉家は江戸の終わりまで淀藩を治め、幕末は稲葉正邦が老中筆頭だったのに、津の藤堂藩とともに早々と官軍に寝返る。曜変天目茶碗も幕府から貰ったのにである。そして、この茶碗は第二次大戦の終結する少し前に国宝(旧法)に指定される。そして、指定後まもなく稲葉家から三菱の手にわたり、終戦に伴い、三菱解体となる。稲葉家が三菱にお宝を渡した事情については、よくわからないが、何らかの対価があったのだろう。

そして、これで本来は完結の話なのだが、またも厄介なことに気付いてしまったのだ。それは、稲葉家のこと。稲葉家の宗主は代々「正成・正勝・正邦・・・」など名前に正○と「正」を付けている。ふとしたことから、現代史にその名前を発見した。

その事件は昭和20年8月15日未明に起きたクーデター「宮城事件」。陸軍と近衛師団の多数の将校が日本の降伏を阻止し、戦争を続行するため、玉音放送録音版を奪回し、天皇殺害後、皇太子を天皇即位させようとしたとされる事件。陸軍、もはや動かずで収束に向かい、多くの参加者は逮捕されたり自決した。このグループの中に陸軍軍事課の課員として稲葉正夫中佐がいる。彼は、全体のクーデター計画の計画案を作成したことになっている。

そして、歴史上、注記しなければならないのは、この事件の全貌については、戦後しばらくしてからGHQが関係者の事情聴取をしたことにより判明したことになっているのだが、どうも理路整然とした説明を行ったのは、この稲葉正夫氏だけだったということなのだ。それをもって事件の全貌ということになり、お咎めなしで一件落着。果たして、この陸軍中佐は淀藩大名の末裔なのだろうか。そして、曜変天目茶碗が三菱の手に渡ったことと、何らかの関係があるのだろうか。

残念ながら、今のところ何もわかっていないのだ。2007年後半あたりに、現物の展示会がありそうなので、その時には再度調べられるかもしれない。  

新進気鋭女流棋士のはまりそうな罠

2007-01-13 00:00:56 | しょうぎ

191ba639.jpg14歳の女流プロ棋士、里見香奈さんについて、1月11日午後9時からのNHKニュースウォッチ9で特集していた。


この1年で驚異の上達ぶりを見せ、昨年4月からの年度成績は14勝3敗。プロ入り3年目の彼女の、最初の2年間の成績が12勝9敗だったことを考えれば、まさに進化中ということなのだろう。男子プロでも理屈は同じなのだが、多くの棋戦はトーナメント方式のため、1年間勝ち続けると、ほとんどのタイトルを手にすることができる。そしてレディース・トーナメントという決勝3番勝負に登場してとりあえず、矢内女流名人にまず1勝。

男性棋士の将棋連盟から女流棋士会が独立を宣言した以上、女流棋界にスター棋士がほしいのは当然。と、いう時にタイムリーな特集だったのだが、実は問題がないわけでもない。彼女はまだ中学生。自宅は島根県である。いつも対局日の前日に、出雲市駅発東京渋谷マークシティ行きの深夜バス「スサノオ号」に乗って、遠路、対局に上京。確かに、貰える対局料から母親と二人分の飛行機代とホテル宿泊費を支出すると、何のために将棋を指しているのかわからなくなる。具体的に言うと、深夜バスは片道1万2千円。二人で往復しても5万円。方や飛行機は、出雲空港は赤字航空会社の方が専用で使っていて、各種割引の結果でも2万4千円ほど。さらに宿泊費を足せば、親子で11万円を突破。

しかし、深夜バスというのは、結構体力を消耗する。乗ったことはあるが、あまり安眠はできない。シートは150度位までは倒れるが、180度ではない。横を向いて眠る習慣の人は、朝起きると、打ち損じた釘のように背骨が曲がっている。対局の前日の夜にバスに乗り、翌朝対局。夜X時のバスでまた出雲へ向かう。0泊3日旅行。

そして、秘かに懸念される問題とは、そのバス通勤ということではなく、女流棋士会が主催する各種の行事(多くは集金活動)に積極的に参加できない、ということだ。まあ、できることなら、そういう行事参加は遠慮したいと考えている棋士は多いだろうが、そうもいかないのである。実は、昨年、この行事に欠席を続けていた女流棋士2名が、再三の警告にも従わなかったため、「女流棋士会から除名処分」を受けている。

なかなか、難問題である。まして、勝負に勝ち続ければ、独立準備委員会で活動中の女流棋士とも対戦するだろうし、一方は、忙しくて将棋の勉強どころではないという時に、軋轢が生じる可能性も感じてしまう。といっても片八百長などとんでもない。

とはいえ、中学生一人で東京のアパート暮らしでは、両親も不安だ。過去には、福岡出身の天才女流棋士が、結局タロットカード占い師に転進して(その間、各種職業を経験)、破産した例もある。どうみても私の詰将棋より難問だ。


次回は「女流棋士会から除名」ということについて書いて見るつもりである(単に予定)。


191ba639.jpg今週の出題は、古典的な問題。たぶん、過去に同一作とかあるだろうな、と思う。持ち駒が飛金でなくて飛銀というところがやや、難易度を上げている。

わかったと、思われた方は、コメント欄に最終手と手数と酷評をいただければ正誤判断。



元旦の出題問題だが、入玉、双玉、逆王手、合駒選択と賑やかだが、元々、「一」の字の失敗作にしょうがないのでめでたいとされる左馬を配置。

一応、手順は、▲6五角 △3七玉 ▲5五馬 △4六金 ▲同馬 △同玉 ▲4七香 △3五玉 ▲2五金 △3六玉 ▲2六金 △3七玉 ▲2六金まで13手詰

191ba639.jpg解説:初手▲6五角は逆王手に対する移動合いが明き王手で逆王手という奇妙な手。問題は3手目の▲5五馬に対して、4六に金以外を合駒する場合。▲3八飛、△2六玉、▲2七香、△同玉、▲4五馬と横滑りすると詰む。玉方の4九金はぶざまだが7手目の香打ちを限定打にするだけの配置で情けなし。3一の桂は9手目に▲2六金からの余詰め防止で、情けなし。

そして、さらに推敲した結果、盤上の駒を2枚減らすことが可能になった。手順は、ほぼ極似。

  


今、甦った平将門の祟り!

2007-01-12 00:00:28 | 市民A
11db6b8a.jpg新年早々、「東京魔界案内三善里沙子・知恵の森文庫)」を読んだのだが、冒頭に平将門の「祟り」の話が書かれていた。大手町にある将門の首塚にかかわる話で、まあ、将門将軍を軽んじた人々に大きな厄災が降りかかる話で、「祟り」の内容をここに書くと危険なので、詳細は差し控えておく。

さて、平将門は平安中期の関東の武将で、関東を中心に勢力を伸ばし、常陸の国、岩井(現茨城県坂東市)に本拠を置き、「新皇」を名乗ったところで、京都の朝廷から「賊軍」のレッテルを貼られる。首に懸賞金(公家への身分格上げ権)が付き、結局、西南の役の西郷隆盛のように、最後は征伐され、首を斬り取られた上、その首ははるばる京都に運ばれ、京都七条河原に晒される。しかし、その首は、いつまでも腐敗せず目を開いたままで、ある時、自分の胴を求めて、東方に向かって飛び去ったとされている。

そして、飛来した首が落下した場所が現在の大手町の首塚のあたりとされている。なぜ、首が大手町に落下したのかはよくわからない。現在、胴塚は本拠とした茨城県坂東市にある。


ところで、三善さんは、東京でうごめく様々な魔性について、二つの継流をあげている。
 Aグループ 平将門 江戸氏 徳川幕府
 Bグループ 朝廷 太田道灌 明治政府

例えば、太田道灌が江戸を制圧した過程で、将門の末裔の江戸氏を滅ぼしている。道灌は神奈川県伊勢原で謀殺された時、「当方滅亡」と叫んだとされるが、当方とは東方将軍将門のことではないかとの説もある。たとえば、上野の森の彰義隊や西郷どんはAグループで靖国神社関係はBグループかもしれない。青島幸男はAで慎太郎はBとか・・

また、江戸、東京を通じ、大火災、大地震、空襲、橋脚転落、地下鉄サリン事件など、「祟り」としか思えないような都市大災害は、異常に多い。


そして、将門の「祟り」としか思えない事件が続発している。「バラバラ殺人」。一件目は、渋谷の富ヶ谷(NHKの裏)の外資系証券マンが妻にバラされた件(高額ボーナスで有名なモルガン・スタンレーのようだ。ボーナス取得後に殺されたのだろうか)。もう一件は、そう遠くない幡ヶ谷の歯科医の兄妹間の事件。幡ヶ谷の事件では体を14個に切り分けていたそうだ。バラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラバラ。14個に切り分けたというのは、13回斬ったということだ。切断箇所数は個数-1回(植木算ならぬバラバラ算?)。手首、肘、肩、足首、膝、足の付け根の6ヶ所の関節が左右で12、あとは首で13箇所だろうか。書いているだけで気味が悪い。

そして、富ヶ谷の方は、首、上半身、下半身、手首×2となったのだろうか?(あまり詳細は報道されていない)。しかし、その運搬方法が凄まじい。新宿駅のそば、山手線沿いの路傍には旅行用のスーツケースに「上半身」を詰め、タクシーで運送(スーツケースはどうなったのだろうか)。渋谷近くの空き地には、そのまま「下半身」を台車で押していったとのこと。さらに「手首×2」は家庭ごみとして・・。手首が見つからないと成仏できないではないだろうか。かわいそうに。

そして極めつけは、「首」。なんと、電車を使い、郊外の町田市原町田4丁目の公園に運び、スコップで埋めたのだが、発見されてしまう。そして、事件はこれでほぼ全容が明らかになるのだろうが、気になることがあった。渋谷から町田まで電車で「首」を運んだ、ということは、ほぼ毎日、私が乗っている東急田園都市線を使ったのだろうか・・・

まず、町田市原町田4丁目の公園を探すと、そこは町田の駅からかなり近くである。まさか、児童公園の砂場に埋めたのではないだろうから、大きな公園はないだろうか、と探すと、駅から800メートルほどのところに、芹ケ谷公園という大公園がある。そこには「町田市立国際版画美術館という有名な美術館があるではないか。おそらく、その公園なのだろう。となれば、最寄り駅は「町田駅」。そこには2本の鉄道がある。小田急線とJR横浜線である。どちらの線も、直接に渋谷と町田が結ばれているわけではない。なぜ、乗換えが必要な場所に行ったかというのは、過去にそこに行ったことがあるからなのだろうか。

yahoo!の路線検索を使うと、渋谷から山手線で新宿に行ってから、小田急に乗る方法と、渋谷から田園都市線で長津田まで行き、JR横浜線に乗り換える方法。さらに京王井の頭線で下北沢乗換えなどがある。気分としては、山手線の人混みは避けたいのではないか(といっても、彼女のシチュエーションを想像することは難しいのだが)。下北沢での乗換えパターンの感じがする。田園都市線ではないことにしておきたい。


ところで、この国際版画美術館は、市立美術館でありながら、さまざまな企画で有名である。

参考までに、企画展のこれからのスケジュールを調べてみたら驚いた。

まず、本日1月12日から2月18日までは「町田市公立小中学校作品展」。予定通り開催されるのだろうか。どう考えても、こども向きでない警察の立ち入り禁止の黄色いテープが張られているわけだ。

そして、極めつけは、その次の企画だ。3月10日から4月1日までの展示は、・・・
シャガールの銅版画 死せる魂


そしてさらに、極めつけの上に極め付きの情報が登場した。1月11日18時57分配信 読売新聞


川の土手にビニール袋に入った人体の一部…茨城

11日午後2時20分ごろ、茨城県坂東市矢作の矢作川の土手で、「黒色のビニール袋の中に人肌のようなものが見える」と、近くの男性会社員(49)から茨城県警境署に通報があった。

署員が調べたところ、袋の中から背中とみられる人体の一部が見つかった。同署は死体遺棄事件として捜査を始めた。遺体の性別や年齢、身元などは分かっていない。


背中の部分が発見された場所を見てほしい。「茨城県坂東市」だ。そこは将門の本拠地であり、胴塚がある。いつまで待っても帰ってこない自分の首の帰着を、首を長くして待っているのであるのだろうか。

CO2の地下封じ込めに、「待った!!」

2007-01-11 00:00:01 | MBAの意見
新年早々に、妙な記事を「NIKKEI NET」で読んだ。地球温暖化の原因と考えられている炭酸ガス(CO2)を地下に封じ込めようという研究が進んでいて、実用化しようかという記事である。ちょっと待った!だろう。

記事の前に、若干の背景を補足すると、もともとCO2は化石燃料(石炭・石油・天然ガス)の燃焼の結果発生するのだが、歴史上、大部分を海水が吸収していた。が、最近になり、海水中の炭酸ガスが飽和状態に近づき、いきなり大気中のCO2濃度を上昇させていると考えられているわけだ(さらに海水の酸性化による海生生物の生態系の変化も問題になっている)。そのため、新たな吸収財源として、地下水に目をつけた、ということだ。

大量のCO2、地下に封じ込め・地球環境技術研究機構
 官民共同研究機関の地球環境産業技術研究機構は、地球温暖化の原因となる二酸化炭素(CO2)を地中に大量に封じ込める新技術を開発した。地下の岩石と反応させる手法で、従来に比べて安定状態で貯蔵可能。日本の年間排出量の約2倍に当たる約27億トンのCO2を処理できるとみて、今後、産業界と大規模実験を始める計画だ。

 新技術では、日本の地下に広く分布している「蛇紋岩」を利用する。自然界では、無数にある岩石の亀裂にCO2が溶け込んだ水が染み込み、岩の表面と反応して塩のようなかたまりとして固定される。このため、排ガスに含まれるCO2を回収して地下に吹き込めば、大量のCO2を封じ込めることができる。 (16:30) nikkei net 1月5日


まず、なぜ「待った!」なのかの最初の理由は、「海水さえ飽和してしまったのに、地下水はもっと量が少ないではないか」ということ。あまり、これ以上書いてもしょうがないが、CO2を減らす努力をするべきで、隠し込む努力をしても、ほんの僅かな時間稼ぎに過ぎないということ。粉飾決算を転がすようなものだ。

そして、もっと本質的な問題点は別にある。

まず、化石燃料というのは炭化水素である。炭素と水素の化合物。単純な組成は、例えばメタン(CH4)、エタン(C2H6)のように、炭素(C)と水素(H)とが、n:2n+2という比率となる。ごく単純に、メタンが燃える(酸素と結合する)とどうなるかというと、およそこんな感じだ。

 CH4+2O2=CO2+2H2O(メタン+酸素=二酸化炭素+水)

この式の右側でできたCO2を地下に封じ込めると、どうなるかということだが、そのCO2は相当長い時間、地上に姿を現すことはない。大気中にあるなら、温暖化による熱帯植物の繁殖でいずれ炭素として地表に固定される可能性はあるのだが、地下では無理だ。

と、いうことは、・・・

地上から、酸素がなくなっていく、ということになる。地球温暖化だけでなく、地上酸欠化になるわけだ。もちろん、行き着く先は、地上から動物が死滅することになる。植物だけの世界も、静かではいいのだが・・


ところで、このCO2の急増の原因の一つが、「世界の生産工場」として成長を続けている中国による大量の原油消費である。また、短期的な原油の需給バランスが崩れ、2006年には原油価格が急騰した。今後も中国の経済成長率は高レベルを続けそうな状況になっていて、環境面とエネルギー価格の両面で、他国が困っているわけだ。もちろん、中国の方も強がりを言ってみても肩身が狭い。オリンピックもある。そこで、先進国の技術援助という話になる。その内容が問題だ。

まず、欧州も米国も、前述の「CO2の地下封じ込め技術」を供与しようとしている。それは書いたとおりの問題があるわけだ。それに、要するに自国で使ってもいない技術を中国に持ち込み、実験しようという気持ちがありありと感じられる。それでいいのだろうか。

一方、日本が中国に供与しようとしている技術は何かと言えば、実は、「石炭液化技術」。中国に豊富に存在する石炭の分子構造を変化させ、液体の重油やガソリンに変えようという技術だ。これはCO2対策というよりも、むしろ原油の買い付け量を抑制させようという考え方からきているのだろう。そして、この技術にしても、実際には日本では商用化していない。実験しようということなのだろうか。

まあ、こんなものでいいのだろうかということだ。まだ窒息したくはないのだが・・  

カレンダーの秘密(下)

2007-01-10 00:00:21 | MBAの意見
では、なぜ現在のように1月(JAN)を年始としたかということについて。大きく説は二分される。一説では1月はヤヌスという神様からとった名前がついていたので敬意を払ったという説。もう一説はローマの会計年度は新年(春分の日)から2ヶ月間、前倒ししていたからという説であり、おそらくこちらの説の方が強そうだ。なぜ2ヶ月前倒ししたかというと紀元前154年にヒスパニアの反乱があり、これに対応するために優秀な行政官を繰り上げ任用したことによるそうだ。任期満了を早めるために前の年が10ヶ月で終わったわけだ。ローマの硬直性と柔軟性がわかる話だ。


ところが、春分の日から2ヶ月遡ると、1月20日頃になるわけだが、まだ現在の1月1日とはずいぶん違っている。この20日の差にも諸説ある。怪説としては「シーザーが皇帝になった日」というので、所ジョージのクイズ番組では解答とされていたそうだ。これが正しければ、ずいぶん正々堂々とした理由なのだが、残念ながらシーザーは皇帝になっていない。初代皇帝は、先ほど登場のアウグスツス。信頼に足る説では、1月となるべき月の中で「新月」の日を選んだということらしい。太陰暦から太陽歴への移行日としては妥当な選択かも知れない。案外、一日の始まりが真夜中なのもここからかも知れない。ここを基点日として計算が始まったわけだ。


次に、現在の西暦はいつ決まったかというと、東ローマ帝国のディオニシウス・エクミグスが525年にキリストの生誕を推定して決めたそうだ。ところが、不正確。正しくは紀元前7年から紀元前3年の間と考えられている。

次はクリスマスの由来。シーザーの頃は、12月25日はミトラ教の祭日(復活祭)で冬至祭りと連続しローマ最大の休日(たったの3連休)だったそうだ。時代が進み、おそらく宗教色がうすれていき、一般的休日化(日本のクリスマス状態)していたところに4世紀頃キリスト教が普及していき、ミトラ教にとってかわり、再び神聖化したのであろう。

なお、キリストは生後8日目にユダヤ教の割礼を受けたとされていて、12月25日から8日目の1月1日を新年の開始「割礼年初」としているが、これは前述のディオニシウス・エクミグスが発令したのだが、歴史的因果関係からいうと、クリスマス(12月25日)と1月1日(シーザーが決定)が先に存在するので後で「8日前」を決めたのではないかとも思えるが、確心はない。


bb17608d.jpg最後に暦についての雑談だが、コンピューター関係の方はご存知だろうが、ユリウス積算日というのがある。紀元前4713年1月1日午後0時を0として経過日数を表示するもの。紛らわしいことに昼間から始まる。ちなみに2007年1月9日0時(GMT)は、2,454,109.5日となるはずだが、計算に自信まったくなし。


また最近は「世界暦」というのを提唱している人がいる。12ヶ月制は維持しつつ、3ヶ月を91日間に統一し、必ず1月、4月、7月、10月は日曜から始まるようにする。これでは1年が364日になるので残る年末の1日か2日は特別休日としてしまうそうだ。利点はカレンダーが毎年同じなので、新たに買わなくてもいいそうだ。欠点は13日の金曜が必ず4回あること。


対抗して、私も一つ考案してみた。365を割り切れる1つだけの数「5」を1週間として、木曜と金曜を廃止してしまおうというもの。日月火水土。また1ヶ月を6週間として30日に統一してしまい、1年間の端数の5日間は全部年末休日としてしまえというもの。これを行なうと、1年間の土曜日曜の総数は104から149になるといういたって怠け者用だ。おおた式カレンダーは市販されていない。すべて特注品となる。

もっとも、62年前の日本では、カレンダーから土曜と日曜日が削除されていたのだった。

(おわり)  

カレンダーの秘密(上)

2007-01-09 00:00:24 | MBAの意見
新年にちなんで、暦のことを書いてみようと思う。数年前に個人的興味でまとめた資料をベースに、さらにいくつかの情報を追加してみた。長いのでエントリを二分割する。

この「暦問題」は、古来より様々な問題を抱えていて、諸説紛々であり、中には、絶対に違うだろうということを主張している方もいる。さらに調べれば調べるほど「疑問の小箱」があらわれてきて、その小箱の一つずつに巨大な歴史と暗闇が存在することが多く、うっかり蓋をあけると、パンドラになるのでなるべくアッサリと書いて見る。

まず、きょうはいつか?。そう、2007年1月9日火曜日。この、「年」、「月」、「日」、「曜」だが、それぞれが謎に包まれている。


9b5e9f81.jpg最初に曜日から。曜日についてはメソポタミアに起源があり、月齢から発生したと言われている。新月から満月を経てまた新月にいたる約28日(正確には29.5日)を月の形から4分割して1週間を7日としたそうだ。曜日問題はこれであっさり終わりにする。本当は、「働く日」と「休む日」の比率は、この「7日」という数字によって決まるので重要なのだが、何しろ、書きたくてもよくわからないのだ。メソポタミアについての研究は、いくつかの理由で遅れている。

それで、メソポタミアは太陰暦を使っていたのだが、古代社会では、月の運行から計算される太陰暦と太陽の運行から1年の長さを決める太陽暦があったわけだ。そして太陰暦の場合は、変形バージョンとして、閏月というような調整が行われていた。実は古代社会で太陽暦を使っていた国は数少ない。エジプトとギリシアぐらいである。これが、実は一つのポイントである。


さて、次に年と月の関係。現在、ほとんどの国が使っている暦はグレゴリオ暦と呼ばれている。ユリウス暦を改造したもので1582年の10月に一気に10日間を間引いて1600年分の誤差を修正している。

ユリウスとグレゴリオの差なのだが、ユリウスでは4年に1度閏年を設定するだけなので1年は365.25日となる。一方、グレゴリオではさらに100年に1度は閏年を無しとするが、400年に一度は閏年とするというもの。その結果2000年2月29日が存在することとなった。この方法だと1年は365.2425日になる。ただし、正確には365.2422日だそうで、2621年に1日の違いがある。これを補正した「新ギリシア暦」というのがあり、ギリシアでは西暦2400年は閏年にしないそうだ。このローマに対するギリシアの張り合い方も立派だ。なぜならギリシアの方が太陽暦は先輩なのだ。ローマは太陰暦だったからだ。

(ただし1年の長さというのはあくまでも平均値であり、実際には1年に10分程のゆらぎがある。)

さて、ここで一旦、ジュリアス・シーザーの時代に行ってみる。ユリウス暦の制定者はシーザーで、エジプトの学者ソシゲネスに作らせたもの。シーザーはエジプト文化が大好きで、お抱え学者もローマ人ではなくエジプト人だった。もっとも、単にクレオパトラに粉をまくためだったかもしれないのだが。

なにしろ、シーザーまでの古代ローマは、太陰暦をもとにした結構アバウトな暦を使っていた。最初は1年が304日周期(10ヶ月制)であったそうだが、実用的でなく、紀元前710年に2ヶ月を追加し355日制となり、10日分は閏月制度で調整していたそうだ。また新年は春分の日(今の3月20日頃)からとなっていた。


注目すべきは、ユリウス暦の考案者がエジプト人であるという点で、古来、エジプトではナイルとの共生関係から、正確な太陽暦が発達していた。結果、月齢より1年間の正確性を重視したルールができたのである。

ユリウス暦が発令になった年は正確には不明なのだが、私は色々と逆算すると、紀元前46年ではないかと思っている。ただし、2年後にシーザーは暗殺されるので、残念ながら、最初の閏年を見ることはなかった。

さらに都合が悪いことに、後継者たちは「4年に1度の閏年ルール」を「4年目の閏年と勘違いし、3年に1度の閏年」としてしまった。そして、そのまま間違った閏年でカレンダーの進みが遅れてしまった。これに気づいた後継者のアウグスツスはしばらく閏年を禁止し、紀元後8年に正しい暦に戻したそうだ(早く発見してよかった)。アウグスツスは、自分の名前を8月につけ、2月から1日を削り8月につけ加えたり、大の月と小の月を並べなおしたりしている。シーザーとアウグスツスが7月(July)と8月(August)に後で割り込んだというのは誤説で、既存の月の名前を変えただけだ。OCT(8)が10月になった理由は年始が3月から1月に繰り上がったからなのだ。

(つづく)  

これを見ても江戸城は語りきれない

2007-01-08 00:00:07 | The 城
f9967cdc.jpg2007年のミュージアム漁り第一弾は「江戸城」。両国の江戸東京博物館。混雑していた。「これを見ずして江戸は語れない」というキャッチコピーが効いたのだろうか。入場料は1200円だが、65歳以上は600円。これから65歳以上が増えるのに、正しい単価設定ではない。逆の方がいい。

実は、1年強前に、広尾の東京都中央図書館で開かれていた「江戸城を建てる展」の方が、江戸城という建物にこだわったマニアック性があって、やや専門家好みだった(それに無料)が、今回の展覧会は総花的で、江戸城をとりまく歴史や文化や、さらに江戸城以外の城郭の展示まであった。実は、江戸城自体の話は、展示されているもの以上に詳しく知っていて、城好きの知人と一緒だったのだが、江戸城内の各部屋の役割などについて、私が解説していると、学芸員と勘違いされ、周囲に人が集まってきてしまったりだ。

それと、入場して二つ目の部屋の入口の辺りに長い列が滞留してしまうのだが、やっと展示物にたどり着くと、江戸城ではなく大坂城や安土城の資料だったりする。どういうことかよくわからない。私が補足すると、江戸城天守閣は高さにおいても横幅においても日本一を目指したため、安土城より高く、大坂城より広くというコンセプトだったのだろうと考えている。

そして、天守閣は江戸時代においては、3回にわたって立て替えられてる。簡単にいえば、家康、秀忠、家光の代である。なにしろ、執務に励む本丸と子作りに励む大奥が肥大化していき、城郭の真ん中にあった建物群が徐々に北の方に拡張していった。そして、3本目の天守閣も大火で焼失し、もはや天守閣より江戸城下の復興が先ということで家光の時代から再建されていない。実は、現地に足を運ぶと感じるが、大火のあと大奥の建物は天守台の北側に配置されたわけだ。もし、天守が立ち上がれば、大奥の日当たりはきわめて劣悪になってしまう。当時、大奥を牛じっていたのは春日の局。日照権問題で、再建しなかったのではないか、とは私の邪推。

さらに、江戸城エピソード集の一つとして、仙台伊達藩は幕府へのご機嫌伺いとして、二本目の天守閣を取り壊した後、自分の仙台の城を修理再建するための中古建材として拝領し、わざわざ所領まで運んで行ったのに、そのまま捨ててしまい、新品を建て直したそうだ。先輩社員からもらった使い古しのゴルフクラブをそのままゴミの回収に出して、キャラウェーの新品を買うようなものだ。

さらに、少し注目したのは江戸初期の二本の天守閣の造作は「中井家」という御大工頭が取り仕切っていたようだが、その後は「甲良家」が取り仕切るようになった。巨大な建物群のすべての設計図は甲良家が管理していたのだが、この家は滋賀県出身で、同郷の藤堂高虎が、江戸の町割りをする際に江戸に連れてきた家系である。まあ、一社受注というのも色々と問題がある。

ところで、今、ここに書いていることのほとんどは、展覧会では登場しない話なので、念のため。

そして、今回の展示の中で、やや力を入れていたのは、徳川家ではなく、その前の太田道灌のことである。これは勉強になった。(念のため、道灌は私の先祖でも親戚でもない)。

実は、江戸城展の真の主役は太田道灌といってもいいのだ。江戸城の築城は1457年3月か4月(二つの説がある)。今年が築城550年になる。場所はちょうど江戸城の中央のあたりとされている。太田道灌は清和源氏の流れを引くとされ、関東の実力者だった。ちょうど足利の上杉定正が関東に勢力をはっていて、太田道灌は会社でいえば専務のような要職だったらしい。文武両道といわれ、古今の和歌にも詳しく、山吹の花で一首詠んだのが有名だ。

そして、展覧会では、最初の方のコーナーに太田道灌の自筆の手紙が二通あった。全部で道灌の自筆は10通残っているそうだ。展示されているうちの1通は、日常時の知人への手紙なのだが、武人とは思えない美しい達筆である。ただし、あえて欠点を言えば、筆遣いに自我流が見受けられ、幼年の頃、文人教育をあまり受けていないことが覗われる。そして、もう一通は、戦場の陣中から知人への手紙であるが、文字は大きさもばらばらだし、墨はかすれ、まったく別人のような筆運びである。戦場の興奮が伝わってくる。この二通の比較は、私の推薦する、この博物館の華だ。(もちろん、そういう解説も、会場では表示されていない)

そして、江戸城を築いてから29年後、1486年に道灌はあっけなく落命してしまう。江戸を離れ、神奈川県中部の伊勢原市糟谷の上杉家の館にいる時に、上杉定正の手の者に暗殺される。専務が社長に保険金殺人を仕掛けられたようなものだ。湯屋で入浴中に斬られたそうだ。まさか、江戸から伊勢原まで温泉に浸かりにいったわけじゃないだろう。おそらく所用で上杉屋敷に向かったのだろう。

道灌は、末期の一言として、「当方滅亡」と叫んだそうだ。当方というのが、道灌自らのことなのか、屋敷の主人である上杉家に対する怨みなのかはわからない。実際には道灌の二人のこどもはその後別々に家を興し、徳川に仕えることになる。今回の展示に出品された品々は、遠江国掛川5万石を拝領した江戸太田氏の末裔の方からの提供だそうだ。実は、先日、掛川城に行った際、太田氏のことなど現地では話題ではなく、掛川を見捨てて高知の大藩に慶び勇んで遁走していった山内一豊のことばかり宣伝していた。NHKの大河ドラマのせいで、歴史が歪められたわけだ。実際には、掛川の太田氏は、江戸幕府の歴史の中で、老中に二名、寺社奉行に三名を輩出した大変有能な家系なのである。

香山リカ氏を基点に「愛国」を読み、白洲夫妻へ

2007-01-07 00:00:17 | 市民A
c302113a.jpg前の首相とはまったく異なる次元で、今の首相のわからないことが多々あるのだが、「国」というものの概念がそうだ。小泉総理の時は、とりあえず愛国心など語る余裕もなく、バブル崩壊にストップをかけるまでが任務、ということで、その面の評価は後世に高く残るのだろう(もちろん、総理より竹中平蔵の方が名を残しそうな気もする)。政権末期には、教育基本法や国民投票法、共謀罪などにすべて蓋をかぶして、外遊にふけったのだが、案外、小泉総理は「アナーキー」に近い部分があったような気もするし、「靖国神社問題」で、深くその真意を語らなかったことからみて、「君主制」に共感していなかったのではないかとも思っている。

一方、安部政権も「美しい日本」というシャボン玉的レトリックを空中に浮かべてみたものの、はっきりいって、1980年代後半に始まったバブルとその後の崩壊は、国民の心に醜い傷跡を残し、また物理的にも街はメチャメチャに醜くなった。そして普通の頭脳で考えればすぐわかるのは、それらの精神的あるいは都市(および農村)美学的な美しさを取り戻すためには、途方もなく多額の予算が必要になり、それは無理だろうということ。

そしてレトリックによく登場する「国を愛する国民」ということばに、どうも引っかかりを感じていたのだが、香山リカ氏の著書にそれらの愛国精神の高まりについての記述があった。まず、「愛国問答/香山リカ+福田和也(対談集)中公新書」を読み、補足として、福田氏と香山氏の関連書籍もあたってみた(香山氏・私の愛国心・ちくま新書/福田氏・なぜ日本人はかくも幼稚になったのか・ハルキ文庫)。

「愛国問答」の中で、香山氏は、昨今の愛国精神の高まりについて、旧来の政治的ウヨとしての愛国者とは異なる二つのタイプの愛国グループを提示している。その前に彼女は、福田和也氏のことを「思想としてのウヨ」とし、いかにも旧型人間のように婉曲に揶揄している。つまり、もはや、現代の社会には、旧来型の右と左という対立は、単に机上や論理の世界に存在するだけであるとする。日本のどこにも国家主義も社会主義も単に空論として存在するだけで、要するに、すべて資本主義の中で人は生活しているだけであるとする。

そして、香山氏がいう二つの愛国主義(ぷちナショ)だが、一つ目は富裕層の愛国主義。おりしもアッキーブログ(というべきかどうか不明だが)が「勝ち組ブログ」と批判されているのが、まさにその例だが、リッチ階級は、国内から犯罪を一掃し、フリーターとか、年収300万円以下とか、とんでもない人達は、社会の一部に隔離してしまい、銀座通りなどでは目に付かないようにしてしまいましょう。ゴールドカード一枚持ち歩けば、安全な生活ができるように、政府の強権を期待するという考え方。つまり愛国というのが政府の高額納税者に対するサービスの向上と思っているグループである。

そして二つ目の愛国心として提示するのが、逆にプアマン型愛国心。想像のとおり、富の再配分と、年金や健保や介護保険の破綻のつけは、国民みな平等に傷みをわかつべきとし、優遇層への課税強化と破綻行政への税金投入を要望する層ということ。

つまり、どちらも「国」というものを、「公的サービス」という意味に考えているだけで、愛国というのが、概念としては同じでも、目標が正反対の方向を向いている、と述べている。

そして、私見だが、まったく愛国的でないのが、官公庁(中央・地方)の役人で、現状維持の保身主義が大好きというグループである。

整理してみると、国ということばを思想的にとらえようとするものは、右であれ左であれ架空の観念論であり、階級的にとらえようとするものは、どちらも声を大にして公的サービスの充実と、それと等価交換としての愛国心を持っているのだが、実は上流階級と下流階級では正反対の理想を持っている。そして、国家とかなり近い存在の公務員にはまったく愛国心がない。ということだろう。

この対談本では、香山氏から観念論と念を押された福田氏が、いつものように観念論の論戦を仕掛けるのだが、職業柄(香山氏は精神医学者)話がかみ合わない人間の扱いに長けた香山氏に闘牛の牛のようにあしらわれて終わる。


ところが、実は、私は、昨年の後半あたりから、日本における愛国心は後退を始めているのではないか、と感じている。いかになんでも、国家に過度な行政サービスを期待をしても報われないのは冷静に考えればわかる。さらに、国の中で、虚ろな愛国論争を展開したところで、国益としてマイナス以外何もないのも認識できるわけだ。愛国心よりもミサイル防衛網の方が優先なわけだ。


c302113a.jpgそして、一つの兆候なのだが、白洲次郎と白洲正子のライフスタイルがはやっている。馬場啓一氏が書いた二冊の講談社文庫を読んだのだが、ブームの割りにあまり面白くない。それは馬場氏の表現の問題ではなく、まさに彼ら夫妻が、人生を「プリンシプルを貫くように」生きたことによるのだろう、と私は思う。金太郎飴の人生は、伝記にすると逆に面白くない。人間としてのたうちまわったり転向したり、裏切ったり、成功したり失敗したりというのが伝記の華だからだ。まさに、個人主義の塊である白洲夫妻の生き方は、どこまで行っても、「国家と対峙する個人」という存在があるだけなのだ。

そして、表層的な話かもしれないが、2006年にあった国家的イベントである冬季五輪もWBC(野球)もワールドカップも今年2007年には何もないのである。当面、国民が団結して、こぞって応援するものがないだろう1年なのである。

ある漢字を知らない男

2007-01-06 00:00:31 | しょうぎ
10b08fd4.jpg勝浦修九段は詰将棋の名人の一人である。特に、将棋盤全体でなく狭い部分で駒の入れ替えをして、寄木細工のような作品が得意だ。したがって新聞の詰将棋欄のような小さなスペースでは非常に重宝がられている(つまり、シノギがデカイわけだ)。個人的には、あまり好きな詰め棋風ではなく、解くのに時間がかかる。

その勝浦氏の最新刊が「勝浦詰将棋選集」だが、100題で1000円とは割高なようだが、これがなかなか解けない。とは言っても何とか一問ずつ前に進んで70問あたりまできている。

一方、時々なのだが、夜寝るときのナイトキャップに詰将棋を使うことがある。もちろん、図面を頭に入れ、部屋を暗くして頭の中で色々ひねって詰ませるのだが、何しろ、睡眠誘導のためなので、詰まないことが殆どで、翌朝、考えると直ちに答えがわかることが多い。その場合、覚える図形は簡単でなければならない。覚えきれないほど大量の駒の配置は、向かない。

そして、先日、勝浦選集の第25問を覚えてから暗闇の中で解き始めた。駒が少なく、初期配置は角が二枚と歩が3枚。持駒は飛と桂。そして、コトの始まりとなったヒントを思わず覚えてしまう。「4五歩が動く」。

他人様の詰将棋の答えを書くのはマナー違反だから、ぼんやり書くと、初手は消去法で桂打ということがわかる。そして玉が逃げたときに、予想と逆の方に角を成捨て、下から飛車を打って、角を捨てて詰む。というところは早々とわかるのだが、途中3四に逃げた時に、角が引いて成れば・・ところがそういう漠然としたコースはなかなか読みにくいものだ。それに最大の問題は、そのコースでは「4五歩は動かない」わけだ。

10b08fd4.jpgそして、徐々に眠くなり、現実と非現実と詰将棋の問題が混ぜこぜになっていき、安眠コースに落ちる直前に、ある答えが見える。「夢の途中図」になって、歩が前に進むと詰む。そして安心して熟睡に入る。

そして、翌朝、もう一度思い出すと、なぜか、その「夢の途中図」に辿りつかない。そして、どうしても、歩は動かなくても詰むことになる。そして、あれこれと思い悩んで、やっと結論に到達する。

それは、将棋盤上の問題ではなく、「4五歩が動く」というのが間違いで、「4五歩が働く」と書くべきところのミスプリントだろう、ということ。やっと「一件落着」ということで、原書にあたってみると、なんと「4五歩が働く」と書かれている。夜のうちに枕元の本を書き換えた人がいるわけだ。

それに、おおた葉一郎の脳内辞書には、「働」という漢字は存在しないのだ。


さて、今回の問題は、正月モードで軽量級。ヒントは、「夢の途中図」である。角が働いたり動いたりして詰む。

いつものように、正解を見つけたと思われる方は、コメント欄に、最終手と手数と酷評いただけば、正誤判断。

10b08fd4.jpg前々回の出題作の解答だが、何だか最初から双玉逆王手。友人に出題したら、自玉を詰めてしまおうと努力していた。右の端にいる王様を左側の王様捕獲キットに追い込むわけなのだが・・

▲3六角 △1八馬 ▲3二王 △2四玉 ▲2三竜 △3五玉 ▲2五竜 △4四玉 ▲4五竜 △5三玉 ▲4二竜 △6四玉 ▲4四玉(詰上図)。まあ、見てのとおりの終結。もちろん11手目の▲4二竜まで押さえ込みフォール、という図も駒数が少なくていいのだが、2手伸ばして、プロレスの「釣り天井」のような技を使ってみた。

紅白にトドメを刺したDJ OZMA(川柳)

2007-01-05 00:00:29 | 市民A
「非可逆性」というコトバがある。元に戻らないことを示すことばである。大晦日のNHK紅白歌合戦の人気のことである。「もう辞めたほうがいいんじゃないか」という声を無視して昨年末も続行。「なぜ会社は変れないか」という本があったが、変革は難しい。ある意味でNHKの歌謡番組担当というのは、すべて紅白の準備のためにあるようなものなのだから変えにくいのも無理からぬところがある。日本が黒船到来まで開国しなかったのと同様だ。

そして、ついに来るべき「悪魔の使い」がやってきたわけだ。DJ OZMAの「パイ付きボディスーツ」。そして、NHK側の「知らなかった」という釈明。

私自身、事件発生時刻は、1年間お世話になった秘蔵の将棋駒(幻の彫師、香月作など)を磨いていたので翌日のニュースで知っただけなのだが、確かにネット上の動画で見ると本物風に見えないでもないが、ハイヴィジョンで見ればただの縫いぐるみのように見えるだろう。まあ、止まっていると贋物感が漂うが、動いているとリアルに見えないでもない。最後に股間に見えるのがパリの有名キャバレーのように金髪のカツラだったら、もっと壊滅的だっただろうが、そこまでの覚悟はなかったようだ。

ところで、この人体型ボディスーツで嫌なものを思い出すのが、トマス・ハリス作「羊たちの沈黙」。怖い本で、さらに怖い映画になった。ハンニバルシリーズ第二作。本から読むか、映画から見るか、という例のコピーだ。女性変身願望の男が、次々と女性を誘拐しては皮を剥いで死体を川に流す。要するに女性の皮で作ったボディスーツを作ろうとするわけだ。そして最後の犠牲者を井戸状の深い穴に落とし、皮を剥ぎやすいように飢死させることにする。・・・という話だ。ついでに、ハンニバルシリーズ最新作は米国では2006年12月に発売され、早くも2007年には映画化されるそうだ。題名は「ハンニバル・ライジング」。新潮社お抱え翻訳者が正月返上で働いているものと想像する。

話を戻すと、紅白を辞めたら何をすればいいか、ということだろうが、まだ1年もあるのだからよく考えてみればいいのではないだろうか。民放はいつもそれで悩んでいる。何も浮かばなければ拙ブログから「カール・ユーハイム物語」とか「赤い靴はいてた女の子物語」とかドラマにすればいいだろう。

さて、それではOZMAのバックダンサーのボディスーツなのだが、是非、1着は愛宕山のNHK放送博物館に寄贈されたらどうなのだろう。残りはyahoo!オークションにでも出してみればいいのではないだろうか。個人的にはボディスーツにはパイがついているが、それを上に着る女性の胸にも元々のオリジナル品が付いているわけで、一体、どういう構造になっているのか、多少興味はある。

最後に、またも話がぶっ飛んで申し訳ないが、前述のNHK放送博物館(戦争前後のNHKの本社)には歴史上有名なお宝が無造作に展示されている。それは昭和20年8月15日正午にラジオ放送された玉音放送の録音原盤である。8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾が決定され、翌15日正午からの昭和天皇の肉声放送(玉音放送)のために、14日23時から翌日までかけて録音が行われた。その原盤である。ガラス容器で窒素封入されたままで、誰でも容器には触れられるようになっている。

この原盤を奪回し、天皇暗殺の上、皇太子を新天皇にしようといういわゆる「宮城事件」というクーデターがこの15日の早朝に起こり、原盤が反乱軍に奪われそうになるが運良く難を逃れている。想像するに、日本は米国との開戦の時も、不手際から宣戦布告が遅れてしまい、多大な非難を浴びたのだが、終戦の時も、海外に降伏を打電したのが14日の11時。それなのに玉音放送ができずに戦闘中止が行われなかったとしたなら、さらに「国際的ウソ付き」との汚名を重ねるところだったわけだ。今の日本がないかもしれないわけだ。

「ららら科學の子」には続きが・・

2007-01-04 00:00:52 | 書評
0eec127f.jpg矢作俊彦は不思議な作家だ。そう多作ではないし、もちろん渡辺淳一のように、小説は「ビジネス」と思っているわけではないだろうが、二つの文体を持っているように感じる。案外、時代に乗ってベストセラーを狙った作品群よりも、この「ららら科學の子(以下、『科学の子』、と略す)」のような、どこからともなく出現したようなピカレスク風小説が読者を惹きつける。

さて、「科学の子」の主人公は、元全共闘の男。闘士ではなく「何となくバリケードの内側にいた」という青年だった。しかし、突如、突入してきた機動隊員に対し、瞬間的に階段の上から重い金庫を落とす。運良く逃げ延びたものの、その行為に殺人未遂という罪名が付いてしまうと、逃げ切るしかなくなる。両親と妹を残し、中国人スパイと身分を入れ替え、大陸に逃亡する。そして、紅衛兵運動の破綻と農村の崩壊、そして蛇頭の跋扈の中、突如バブル崩壊不況の真っ最中の1990年代後半の日本に密入国(というのは当たらないのだが)するところから小説は始める。2003年に初版。

この小説は、表面的にはあっさりと、主人公の帰国後の逃亡(隠遁)生活を追っていくのだが、伏流の一つとして、「日本の変化していった部分、そして変化していない部分」という対比が様々に登場する。銀座線の描写では、「駅に近づくと、一瞬電気が消えることがなかった」と書き、その他は「昔の銀座線のまま」というのは、そういうことだ。この伏流の行く末は、実は日本論につながっているように、よく見えてくるのだが、矢作は結論は書かない。

さらに、もう一つの伏流は、「自分さがし」。というか本来は、当時の全共闘世界の自分さがしなのだが、今の日本には、当時を何らかの評価するものは皆無。ナッシング・リメインということ。自分の両親の死と妹のエッセイストとしての成功を知る。都内にある両親の菩提寺に行き、墓が自動倉庫化されてしまい、画像上で墓参りすることに嘆き悲しむ。お台場の放送局のホールで妹の講演会に密かに訪れ、携帯電話で中国から電話していると思わずウソをつく。

丸谷才一の初期の名作「笹まくら」のような、逃亡中の恐怖という主題も、うっすらと小説全体に霞のように漂うが、それは本流ではない。いかにも伏線のように、時々本名を記録に残すのだが、その伏線はどこにも繋がっていないのが、奇異にも思える。


そして、この「科学の子」には、謎めいた登場人物が登場する。一人は、彼が頼って帰国した元同志。ところが、彼は二流の地上げ屋になっていて、彼とすれ違うようにハワイと思しき場所へ行ってしまい、そこから携帯電話(短縮001)で連絡をとるだけだ。そして二人目の謎の人物は女子高生。このあくまでも現代的で刹那的な女子高生が主人公の前に現れ、ただちに自分の携帯ナンバーを短縮001に書き込んでしまう。

その後、自分を取り戻そうと日本に帰ったのに、やや妥協的に他人名義のパスポートを入手。中国で家計上の都合で別居していた妻を日本に連れてこようと、突如、上海行きの飛行機に乗り込み、「科学の子」は終結する。一冊の小説の中では完結しない多くの謎を残したままだ。


0eec127f.jpg冒頭に書いたが、矢作俊彦は、本作の前に「スズキさんの休息と遍歴(以下、『スズキさん』)」というピカレスクを1990年に書いている。間違いなく、「科学の子」は「スズキさん」の続きであると考えられる。「スズキさん」は、主人公の男とその男の子が、ドンキホーテを読みながら全共闘時代の自分を見つめなおすため、シトローエン2CV(トゥーシーボー)で全国縦断の旅に出るという、いわば「自分探しの旅」であり、見事に青い鳥に行き着くのだが、「科学の子」はまだまだ、どこにも行き着くところがない。

もちろん「スズキさん(1990年)」と「科学の子(2003年)」の次作は、いずれ読むことができるのだろうが、それは2015年くらいになるのだろうか。こちらも長生きせにゃ・・・

1973-1998 二つのカンパネラ

2007-01-03 00:00:06 | 音楽(クラシック音楽他)
0eec127f.jpgサラリーマンを長くやっていると、年始休みとGWと夏休みというほぼ均等に割り振られた休暇を、どう使うかというのが、一つのテーマである。旅行や、体力補強(寝てるだけの別称)やホームページの修理など。今年の正月は、体力補強パターンなのだが、それでも所用は多い。やっとの思いでCDを聴く。「ラ・カンパネラ1973/フジ子・へミング」。

フジ子・へミングは、その長い長い長い演奏家としての人生の最初の頃は、時代に押し流されていた。第二次世界大戦。そして、その演奏に磨きがかかった40歳代の半ばに、まさに欧米の音楽界の中心で飛び立つ寸前に、大きなアクシデントに見舞われる。その後の苦しい時代に欧州各地で「中年のだめカンタービレ物語」を続けていた。その頃の1973年のイイノ・ホールでのラ・カンパネラと、1995年に日本帰国したあと、1998年の音大奏楽堂でのラ・カンパネラと、時代を超え、両方が収録されている。

まず、フジ子・へミングのことを超簡単に書くと、本名はイングリット・フジ子・フォン・ゲオルギー・へミング。非常に複雑な構造の名前であるのは、ピアニストである日本人の母と建築家であるロシア系スウェーデン人の父との子であるから。そして、出生地はドイツ・ベルリン。では、彼女はどこの国籍なのかと言えば、現在は無国籍ということだそうだ(HPより)。最初の国籍権があったスウェーデンに長く戻らなかったために国籍がなくなったということだそうだ(この辺は、彼女の実弟である俳優の大月ウルフの経歴とはやや矛盾を感じるが、彼女が生まれたと想定できる(非公表)昭和2~3年(1927~28年)の世界状況から言えば、些細な矛盾なのだろう)。

そして、母とともに日本で幼少時代を過ごし、青山学院高校在籍中にピアニストとしてデビュー。ちょうど終戦前後のことと考えられる。彼女が師事したのもドイツ人であり、オーストリア、ドイツなどの作曲家がオハコというのも時代なのだろう。しかし、その時には既に彼女の右耳は聴覚障害により、ほとんど聞こえない状態だったらしい。その後、29歳で日本を離れ、ドイツに向かう。そして、1971年、当時ウィーン・フィルを率いていたバーンスタインが、彼女を発掘。共演が決まった矢先に巨大な不幸が遅いかかる。風邪をこじらせてしまい、それがもとで聞こえていた方の左耳の聴力をも失うこととなる。

その時の悲嘆というのは、考えるだけで悲しくなるのだが、その後、治療を続けながら、僅かずつ戻ってくる左耳の聴力を頼りに、ピアノを弾き続けていたわけだ。

そして、長い時間が流れ、1999年にNHKが彼女を特集する。ETV特集『フジコ~あるピアニストの軌跡~』。この放送が大爆発して、一躍、日本クラシック界のスーパースターとなる。そしてCDが発売され、門前列をなすようになってきたわけだ(NHKというのも、ずいぶん成功作品と失敗作品の波が大きいものだ)。それまで実に人生70年余。


さて、CDだが、全12曲の冒頭1曲目が1998年のラ・カンパネラ。長くこの曲を弾き続けたからなのだろうが、音の一つずつが宝石のような輝きを持ってピアノを弾く指の間からあふれ出してくる。僅かに残った聴覚が、音の粒を美しく磨いているように色彩さえ感じるような、あくまでも柔らかい彼女しか創りえない世界である。もっともカンパネラを愛した女性ということだろう。この演奏を聴いて、もっとも驚くのは、作曲家であるリストだろう。リストはこの曲を人生の多くの時間をかけ、熟成させ、完成させた。彼自身が聴いた時間はかなり短い。

そして、タイトルである1973年のカンパネラは最終12曲目である。冒頭の1998年演奏の方は5分49秒となっているが、1973年の演奏は5分1秒。一気呵成にメロディの流れで押してくる。カンパネラの語源は教会の鐘で高音部分を早鐘のように一定のリズムで弾き続けるわけだが、彼女の激しい気持ちの起伏がよく感じられる。おそらく、自分の運命の空しさと戦いはじめた当時の思いがこめられているということだろうか。よくイイノホールでのコンサートの音源が保存されていたものと誰かに感謝するしかない。


ところで、中段で書いたバーンスタインとウィーン・フィルだが、多くのヴィデオ映像が残されているようで、現在、DVD化が進んできている。これから、少し調べてみると、彼女の痕跡が見つかるのだろうか、あるいはないのだろうか。余裕があったら調べてみたいとは思う。