風太ジュニア誕生

2006-08-31 00:00:20 | 美術館・博物館・工芸品
c869bde0.jpg2006年3月24日弊ブログ「風太君の新居に関する事情」で触れた話なのだが、千葉市動物園のスーパースターである直立レッサーパンダ風太クンにこどもが生まれていた。6月2日。オスとメスの二頭。公開は9月1日から。

メスにとっての出産は、レッサーパンダも人間も事情は大差ないだろうが、オスの気持ちは本当はよくわからない。しかし、風太クン自身は、生まれた時には既に父親のフウフウ(風々)が急死した直後で、父親の姿を見ていない。そういう意味では、また格別嬉しいと思っているかもしれない、とは私の想像。

c869bde0.jpg現在、名前を募集中ということだが、くれぐれももうすぐ誕生予定の新ロイヤルファミリーの名前などで応募しないこと。二頭のこどものどちらがオスでどちらがメスかは不明だが、眼が少し鼻に寄っているのが風太に似ていて、ちょっと離れているほうがチーチーに似ている。


ところで、前にも触れたのだが、風太の生まれた日本平動物園は日本中のレッサーパンダの血統管理をしている総本山。風太を千葉に渡してしまったものの、人気を持っていかれてしまったとして、そのこどもの引渡しを要求しているという悪い噂がある。悪い噂であることを祈りたいのだが、噂にはたいてい根拠があるものでもあるのだが・・  

ところが、解決していないアニヴェルセル

2006-08-30 00:00:28 | 美術館・博物館・工芸品
4e44f944.gif昨日、アニヴェルセルはバースデーと名前を変えて、ニューヨーク近代美術館(MoMA)にあった、と書いたが、どうも嫌なムードを感じていたが、大問題がわかってきた。

ニューヨークMoMAの絵は、1915年の作。そして、もう一枚1923年作があるということなのだ。

シャガールの部屋へ恋人ベラが花束を持ってきたのは1915年のこと。それを題材に直ちに描かれたのが1915年作である。ところが、その絵を購入したのはロシア人実業家だったのだが、その後、第一次大戦やロシア革命のどさくさで、この絵はフランスから姿を消してしまう。紛失。

しかし、シャガールと妻になったベラは、絵画の紛失を嘆き、まったく同一の絵を描き直したということらしい。これが1923年版。そして、夫妻は、その絵を生前は手元から離さなかったそうである。

そして、現在、1枚目がニューヨークMoMAにあり、2枚目はアオキが所有していたことがわかっている。題名が異なるのは、違う絵画だからなのである。ということは、以前はニューヨークにはMoMAとグッゲンハイムの2箇所に2枚あったことになるのだろうか。それなら、2枚目は本当にアオキは手放したのだろうか。またアオキあるいはその直前に所有していた日本人X氏は1923年作が二枚目のアニヴェルセルであったことを知った上で高額を払ったのだろうか???


何かわからないかと、表参道のアニヴェルセルビルに行ってみる。ここの地下1階のギャラリーにその絵画はあったはずで、毎年2回ほどシャガール展が開かれていたのだが、2005年1月19日から4月10日まで展覧会が開かれた後、アニヴェルセルは4月20日から7月3日まで福島県の諸橋美術館で展示されていた。そして、その後の行方が不明になっている(と私が思っているだけかもしれない)。

表参道のビルは、一階が装飾品を販売しているのだが、そこの女性社員に聞いてみる。

 葉一郎:確か、地下にギャラリーがあったはずなのですが・・・
 社員A:前はあったのですが、廃止になってしまいました
 葉一郎:それでは、そこにあった絵もなくなったのですか
 社員B:もう展示してないのですよ

もっとも展示してないからといっても、手放したかどうかはわからない。案外、港北ニュータウン内の本社ビル社長室に飾られていることだって考えられるわけだ。まして、九州の紳士服量販チェーンのフタタ買収費用は買収失敗で要らなくなったわけなのだし・・

いずれにしても、今度、どこかの展覧会等で、この絵が登場した場合、1915年作か1923年作かというのは大変な見所になるわけだ。

そして、この2枚は同じだ、と言っても、1枚目を見ながら2枚目を写したわけではない。1枚目がなくなったから2枚目を描いたわけだ。ホームページからカットして二枚を較べてみる。色調の違いは、画像処理の差だが、左下のテーブル前面の大きさや影が違っていることがわかる。

シャガールとエコール・ド・パリ コレクション

2006-08-29 00:00:42 | 美術館・博物館・工芸品
f41c9949.jpgアオキ・インターナショナルの所有していたシャガールの「アニヴェルセル」だが、いまだにアニヴェルセルという名称を結婚式ビジネスで使っている。では、所有しているのかということになるとはっきりしない。はっきりしないということは手放したに違いない、と思うのだが、それではどこへ・・

捜索していると、シャガール展が都内で開かれている。「青山ユニマット美術館」というところだが、聞きなれない。私が知らないとはモグリか?と思ってホームページを探すと、7月26日オープンとなっている。青森県立美術館は7月13日オープン。美術館ブームなのだろうか・・困ったことに青山ユニマット美術館のホームページはいたってラフで未完成。なにしろ、割引券のページが1枚ついているだけで、肝心のアクセス地図がない。何を大慌てで作ったのだろうか。と思って色々読むと、箱根にあった箱根芦ノ湖ユニマット美術館が移転したもののようだ。住所から検索すると、東京メトロ外苑前駅から青山墓地に向かう路地に沿った場所だ。うれしいことに開館時間が長く、退社後でも間に合いそうだ。

そして、今回の展覧会は、すばらしいのだ。何しろ長く行方不明だった、シャガールの「ブルー・コンサート」が登場。1945年の作。長く連れ添ってきた妻であり、ほとんどの絵のモデルであるベラが、この年なくなり、すっかり落ち込んでしまった57歳のシャガールが、自らの気力を再生するために描いたとされる。

ユダヤ系であるシャガールの絵画的特徴は、微妙な色彩。多くは背景に薄く描き込まれる物語性。そして絵画によっては強く表に出てくる宗教性である。特に、物語性は他の画家には見られない特徴であり、1枚の絵を数日眺め続けたとしても絶対に厭きないだろう、と確信できる。さらに、彼の物語性はそのモティーフが連続的に続くのではなく、数十年経た後に突然現れることもある。

f41c9949.jpg会場は美術館の4階、3階、2階なのだが、まず4階のシャガールフロアから回ることになる。18枚が展示されるが、この「ブルー・コンサート」以外にも手堅い。1927年の「アクロバッツ」、1952年の「恋人たち」もいいが、彼の物語性がよくわかるのが、1969年の「誕生日の大きな花束」である。明るいキャンバス一面に巨大な花束が描かれる。この題材は28歳の時に、恋人(当時)だったベラが花束を持って彼のアトリエを訪れたことをもとにしているそうだ。つまり「アニヴェルセル」の表裏をなす作品なのだ。最初の花束はきわめて小さい。しかし妻が亡くなってから24年後に続きを描いたのは、彼の気持ちの中でベラが毎日、成長しながら生き続けてきたということなのだろう。(実生活では次の次の愛人に乗り換えた頃かもしれない)

そして、その絵の横に付された謂れ書きを読んでいたら、どうもアニヴェルセルらしい絵のことが、うかがわれるわけだ。「誕生日・ニューヨーク近代美術館蔵」という表現があった。MoMAのことかな?・・

エコール・ド・パリシリーズは3階、2階の展示だが、ピカソ、ブラック、フジタ、モディリアニ、ミロ、ユトリロ、ローランサン、ルオー等、計60点がバランスよく、さらに何らかの鑑賞家を刺激するような遊びを持って展示されている。六本木の森美術館のように、自分の影が作品にかぶさるようなドジ設計もないし、それこそ豪華な気分で名画と過ごせるというような贅沢が味わえる。

2階ではシャガールについての映画が上映されているが、全部で50分は付き合いきれないので少しだけ見たのだが、シャガールの実物の顔はゴルバチョフによく似た科学者風の理知的な風貌である。ベラルーシ人の特徴かどうかはまったくわからない。ただし、同じユダヤ系のアインシュタインと二人並んで、どちらが画家でどちらが科学者か、とクイズを出せば、10人中10人が、100人中100人が、1000人中1000人が逆に答えるだろう。

さて、帰宅してから、MoMAのホームページを探してみると・・・

シャガールの所蔵品の中に、ついに見つけたのである。これにて一見落着。もともとグッゲンハイム美術館にあったものが結局MoMAに戻ったというのは、野球のトレードの話であれば、メッツから日本の楽天にトレードになって、結局ヤンキースに戻ったようなものだ。

ただし、奇妙なことに題名が「Anniversaire」ではなく「Birthday」となっている。シャガールは1985年に97歳で他界している。その後、題名が変わると言うのは考えにくい。もしかすると、アオキ側が今後もブランド名として使うことから、名前だけは売り渡さなかったのだろうか。なんとなく聞かない話だが・・・・・  

海の中道大橋

2006-08-28 18:00:59 | 市民A
福岡市職員が酒酔い運転で、RV車追突、海中転落、3児死亡事故を起こした「海の中道大橋」だが、2016年の五輪誘致計画では、福岡市街地と雁ノ巣地区のいくつかの五輪会場を直結する道路になるはずだった。

福岡市対東京都の国内候補の選考投票日は8月30日。55人のJOC委員が投票するのだが、「福岡市は五輪より前にやることがあるだろう」ということになるのだろう。

青森県立美術館、15億円の除幕式

2006-08-28 00:00:39 | 美術館・博物館・工芸品
青森県立美術館が開館し、開館記念としてシャガール展が開かれている。そして、私はそこに行こうというのではないから、ネット上の公式ホームページと私的感想が書かれたブログなどを探して想像しているだけなのだ。アオキインターナショナルが所有しているかどうかはっきりしない「アニヴェルセル」が展示されているのではないだろうか?とあたりをつけたのだが、そうではないようだ。目玉は「アレコ」である。アから始まるからと言ってサラ金でも宗教団体でもない。電話帳に載ることはない。青森県にはア行の会社はたくさんある。

そしてこの7月にやっとの思いで開館した県立美術館だが予定より何年遅れたのだろうか?という前に予定なるものがあったのだろうか。新美術館の必要性があるか。なぜ三内丸山遺跡という歴史的遺産の隣に作るのだろうか。市内からも空港からも有料バスで30分もかかるところが妥当なのか、あまり有名でもない建築家のあまり大胆でもない設計料が妥当なのだろうか。というような大中小の問題の中でさらに評価の難しい問題があった。目玉商品である。

31a701ea.jpgこの美術館の目玉商品として選ばれたのは、シャガールである。そして、作品は「アレコ」作品群4枚のうち3枚。シャガールはユダヤ系だったため、第二次大戦末期に、欧州から米国に脱出。アインシュタインパターンだ。そして、その時にプーシキンの原作にチャイコフスキーの音楽を付けメトロポリタン劇場で演じられた舞台劇「アレコ」の背景画を手がけたわけだ。そして4枚の大幕を完成させた。横14m、縦9mだそうだ。

そして、思い切ってその幕の全部を集めようとして、失敗。3枚セットになった。例は悪いが、「全集物に1冊欠ける」とか「高級駒だが1枚足りない」とか「エリート進学コースを進んだが東大入学失敗」とか「成田空港」とか。まあ、どういう経緯で購入交渉をしたのかわからないが第3幕分はフィラデルフィア美術館が所蔵したままである。そして3枚に15億円使ったわけだ。

ただし、今回はその買えなかった残り1幕もやってきた。借り物だ。欲しいだろうが今は買えない。美術品は15年ぶりの高騰である。市場がオーバーヒートして、とうとう高額世界記録が塗り替えられた。今回の主役はアメリカ人の個人収集家である。欲しいといえば1幕でも20億円くらい言われそうだ。

しかし、「3枚15億円なら1枚22.5億円のアニヴェルセルよりずっと安いではないか」と思ってしまうが、問題は、その幕の価値である。あくまでも「幕」である。県議会でもめそうな話でもあるが、マーフィーの法則では、「審議する金額と時間は反比例する」と言われる。

そして、そこに行きもしないのに気を配るのはどうかと思うが、奇妙なのは入館料設定。今回の企画展(シャガール展)では1500円で4枚全部を見ることができるのだが、常設展は別料金300円。シャガール展が終われば、常設展で3枚は見られる。となればこの1500円は1枚を見るだけのものなのだろうか。あるいは全部で196枚が展示される中に、他の巨作があるのだろうか。よくわからない。  

藤堂高虎家訓200箇条(20)

2006-08-27 00:00:19 | 藤堂高虎家訓200箇条

藤堂高虎の家訓200箇条、やっと最後までたどり着く。思うに、200箇条ということ自体が長過ぎるのだろう。本当に心に強く残る条というものはあまりなく、一つ一つの処世訓といったものに近い。これが書かれたのは家康の死後、高虎が江戸の上野にある藩邸で生活していた頃のものということで、江戸時代が既に始まってからである。遅れてきた戦国武将である高虎が、人生を振り返り、藤堂家の今後の安寧のため、事細かに注意事項を書き連ねたものと言える。一介の豪族から10人以上も主君を乗り移り、かつ城郭作りのスペシャリストであり、江戸の町割りを担当したり、さらに故郷近江の商工業者を江戸に誘致し、とうとう家康のブレーンの座にすわり32万石という大大名になったわけだ。


その後、藤堂家は外様大名でありながら伊賀・伊勢という紀伊・尾張の御三家の間に領地を持ち、あまり目立たぬように江戸時代をまっとうする。そして、江戸時代の最後にあたる鳥羽伏見の戦いで、突如幕府方から官軍に寝返る。多くの幕軍の諸藩は、「やはり藤堂」とその裏切り行為を高虎の所業に求めたのだが、この200箇条の中にその萌芽はあるのだろうか。判断付けがたい。



そして、本来、遺訓200箇条というのは200箇条で終わりのはずなのだが、200条完成後、高虎はさらに4条を追加する。「念のため」ということだそうだ。高虎らしいと言えばそれまでだ。



第191条 他の家来なり共情らしくものいふへし仇には不可成


他家の家来であっても、情を持って接すべきだ。仇にはならないだろう。


「情をもって接する」というのもヒューマニズムからの行動ではないのは、はっきりしている。打算的である。結局、家来の扱い方については繰り返し家訓の中で触れられているが、領民(大部分は農民)のことについては一切記載がなかった。彼自身は戦国大名であったし、ほとんど領国には住まず、家康とともに駿河(現在の静岡市役所のあたりに住居を構えていた)に住み、家康亡き後は、江戸、上野の丘に住んでいた。領民の管理については、彼の末裔の手に任されたのである。



第192条 諸事に付争事なかれもし物事あらそひ募らハ言事のもとひたるへし可慎


なにごとも争いごとはいけない。もし争いがつのると、言いがかりのもとになる。慎むべきだ。


「言事」というのはどちらかというと、告げ口に近い言いがかりのことだと思う。特に領地が伊勢・伊賀となれば、紀伊家と尾張家の中間にある。なかなか気苦労で大変な場所である。



第193条 人の見廻の時ハ前方にいか程おかしき事有共笑ふべからす尤囁へからす客人の身にして悪敷ものなり


見回りのとき、前方にどんなにおかしい事があっても笑ってはいけない。また、ささやいてもいけない。客人の身になれば面白くないものである。


駅のホームに女子高の制服を着た中年のオヤジがいても笑ってはいけない。気を悪くするだろう。



第194条 座敷にて我か遁れさる者知音衆の噂か咄に出るならハ其儘私のがれす又知音なり余の御咄に被成被下候得と断へしむさとしたる悪口聞間数との嗜なり


座敷で、自分にかかわりがある者や知り合いの噂話がでたなら、それは自分の関わりがある者であり、また知り合いであるから、外の噺にしてください、と断るべきだ。いいかげんな悪口は聞かない、という嗜みである。


隣国の首相の歴史観がおかしい、と米国大統領に告げ口しても、「東アジアのことは、よくわからないから」と逃げ口上を打つようなものだ。(本当は、各国の違いについて、所在地も含め、よくわかっていないのかもしれない)



第195条 追かけ者馬上より切付ハ鐙のふみ様有之


追いかけ者が馬上から切りつけるときは、鐙(あぶみ)の踏み方がある。


この条は勿体をつけたまま、終わっている。どのように鐙を踏めばいいかよくわからない。たぶん、自転車の立ちこぎのようなものではないかと思う。



第196条 取籠り者取まき居るともむさと口をきくへからす内より詞被掛間敷との嗜なり


取囲み者を取り巻いている時は、無駄口をしてはいけない。内側から言葉を掛けることができないとの嗜みである。


取囲まれた者が、降伏するか玉砕するかを落ち着いて考える時間を与えようということだろうか、たぶんそうではなく、外に誰もいないだろうと安心させ、うかつにでてきたところをバッサリやろうということだと思う。



第197条 昼夜共に屋敷の内にても外にてもわやめく共あら増聞届出へしむさと出へからす


昼夜ともに屋敷の中で騒ぐものがいれば、よく様子を聞いてから届け出ること。むやみに届け出るのはよくない。


声高なる者に幸あれ



第198条 客を呼とも挨拶悪敷衆を不可呼吟味有へき事也


客を呼ぶときは、挨拶ができないような衆を呼んではいけない。吟味すべきだ。


パーティでスピーチを頼むと、「ところでスピーチの原稿は書いてくれるのだね。1週間前に届けてくれ」というような輩には天罰を!



第199条 走り込者有時むさと渡すべからす先隠し置子細をよく聞届其主人江常に念比成衆を頼談合づくにして断を申とも又ハ渡すとも前後の首尾再三念を入埒を可明無首尾にして難をきる事有へし


走りこんで逃げて逃げ込む者がある場合は、無造作に引き渡してはいけない。まず隠して、様子をよく聞き、その主人と常に親しい人に相談して、断るとも引き渡すとも、前後の首尾を用心して解決すべきだ。不首尾になり、難を受けることが多い。


忠臣蔵のような話だ。もっとも、彼らが後で斬られたのも当然で、浅野某が前年に死罪になったのは、吉良某のせいではなく、幕府の命令。本来、敵討ちすべき相手は幕府そのものでなければならなかったはず。腹いせに老人に対して集団暴力をふるっただけという見方も多い。



第200条 武芸の内兵法鑓弓鉄砲馬可嗜兵法にてハ切合時手も負す相手を数度切伏るを上手といふへし鑓にてハ人を数度突伏せ利を得る是上手也弓鉄砲ハよく中りあたやなきを上手といふへし馬ハ達者に片尻かけても落さる様に自由に乗を上手といふへしいかに所作を能学ぶとも兵法にてハ切られ鑓にてハ突れ弓鉄砲ハひたとはづれ馬にてハ引つられ度々落るハ下手也調法にならず能々可嗜


武芸としては、兵法のうち、槍、弓、鉄砲、馬を嗜むべきだ。兵法で、斬りあうときけがをしないで切り伏せるのを上手と言う。槍では人を数回突いて仕留めるのを上手という。弓や鉄砲では、よくあたり無駄打ちのないのを上手と言う。馬は、達者に片尻乗りでも落ちないように自由に乗るのを上手と言う。いかに所作を覚えたとしても、兵法では、刀で斬られ、槍で突かれ、弓鉄砲はまったく当たらず、馬に引っ張られ度々落馬するようなのは下手である。使い物にならない。よくよく嗜むべきだ。


200箇条の終わりは、結構地味な話で、殿様としては武術の一般的な必要習熟レベルを書いてある。要するに、上手者と下手者の二元論に分けた時に、上手者の方に入っていればいい、という程度であり、免許皆伝クラスである必要もない、ということである。要するに武士の時代は終わりつつある、という実感を持っていたのだろう。



200箇条が江戸屋敷で口述筆記の終わったあと、さらに言い足りぬと見て、後日、4つ追加した。あまり、キリのいい数字とかにこだわることはなかったようだ。結構、執拗な性格のように思える。



第201条 物毎に不知事ハ誰人にも可尋問ハ一度の恥不問ハ末代のはぢなるへし


知らない物事があれば、誰にでも尋ねるべきだ。問うは一度の恥、問わずは末代までの恥となるだろう。


現代では、「聞くは一時の恥、聞かずは一生の恥」というが、高虎は「聞かずは末代までの恥」とまで言う。



第202条 大小の長短ハ人々相応たるへし少も空鞘ふうたい成事すへからす


刀の大小の長短は、それぞれの人にふさわしくあるべきだ。少しでも空風袋であることはならない。


幕末に、藤堂藩は鳥羽伏見の戦いで幕府を裏切り官軍側に回る。大名レベルで転換したのは藤堂が最初かも知れない(薩長土肥とも殿様は表に出ていなかった)。案外、二本差しが竹光だらけになっているのを知っていたからかもしれない。いったん質流れにしてしまって、新たに購入しようとすると、現在の価格レベルで言えば、まっとうな刀剣は、1本100万円を下らない。



第203条 昼夜ともに大勢寄合之時我刀の置所に能気を可付不慮の時取ちかへ間敷ためなり


昼夜ともに大勢の寄合いの時、自分の刀の置き場所に気をつけるべきだ。不慮の時、取り違えないようにというためである。


大広間で宴会の時、突然の出火で逃げなければならないのに、あわてて自分の靴を探すようなものだ。



第204条 物事聞とも根間すへからす


物事を聞く時に、根本のことを聞いてはいけない。


家訓の本当の最後の最後に、よくわからない言葉がでてきた。第201条では、わからぬことは、他人に聞くことと書かれているのに、第204条では、根本的なことは聞くな!という。要するに物事の本質は、自分の頭で考え、それを構築するための知識は他人に聞けということなのだろう。では、その「根」とはなんだろうかということは、家訓の中で直接的には多く語られることはなかったような気もする。



藤堂高虎家訓200箇条は以上で終了である。正式には「高公遺訓集」という。



さて、藤堂高虎については、NHKの大河ドラマに起用するような動きもあるのだが、実際に、大衆向けとなると、なかなか難しいかもしれない。彼の行為に対しては好き嫌いがはっきりしてしまう。家訓を読むと、かなり合理主義者であったことがわかり、能無しの主君のもとをさっさと逃げ出し、すでに秀吉が天下統一を始めると、天下取りをあきらめ、城作りのスペシャリストを目指す。関ヶ原を前に、西軍側から東軍側への寝返り工作に活躍したり、その後は家康の腹心となる。そういう潔くない彼を嫌いな人がいても当然なのだが、あえて彼の肩を持てば、「登場したのが15年遅かった」ということかもしれない。


時代の奔流の中を生き抜いたのは確かであり、彼自身、秀吉と同様に「人生に精一杯感」の強く感じた人生だったと思っていただろう。



さて、藤堂高虎については、ここまで付き合っている間に、いくつかの付帯的情報を得ている。例えば、江戸上野の住居のこと。さらに、千葉県の佐倉に飛び地として領地を持っていたらしい。そのあたりは、何か面白い話もあるのではないかと思っている。また、時期を得るなら、調べて、蒸し返してみたいと考えている。


冥王星男の正体は?

2006-08-26 00:00:23 | 地図
4e44f944.gif国際天文学会(8月24日プラハ)の表決により、冥王星が惑星から失格してしまった。本来、冥王星を含む9つの惑星を3個増やして12に増やそうという会議だったはずなのに逆にマイナス1。例は悪いが、求刑が無期懲役で1審で懲役20年の判決を受け、控訴したところ、2審で死刑判決を受けたようなものだ。多分に幸運に恵まれ1930年に発見されたこの星は、太陽の周りを248年強で1周するが、その30%を回っただけで惑星から降格した。矮惑星 (dwarf planet)という非科学的な新分類に回される。

さらに、この議案の投票方式がお笑いだ。会場の学者達に渡されたのは、下敷き大の黄色の紙。議案への賛成者は「せーの」と黄色い紙を上げて、係員が端から数えていく。数え終わるまで手を下ろしてはいけない。テレビで見ると、周りを見ながら紙を上げる学者もいる。投票方式としては、かなりの問題がある。科学者といっても人間。付和雷同型が大多数だ。ところが、優れた学説はいつでも少数意見から発展するのは、地動説、大陸移動説、二重らせん、相対性理論、など、重要なもののほぼ全部だ。

多数決というのも・・


さらに、ある冥王星関係者である漫画家の談話に驚愕。「それでも冥王星の存在を信じる」って。教科書改定問題も浮上しているそうだが、逆に、こういうことを題材に科学の真髄について1時間くらい喋れるような能力がないような先生がいれば、問題だ。「矮教師に格下げ」だ。


そして、これを機に冥王星ブーム、太陽系ブームが起きるのではないか?と大胆に予測してみる。冥王星というのは、なかなか、天文学的には面白い。

面白さを二つにわけると、冥王星そのものの特徴。そして太陽系の表玄関としての冥王星の存在である。

まず、冥王星そのものだが、異常に小さい。直径2300Km。月より小さく、日本の経済水域と同じ程度。遠いから仕方ないが、公転周期248年。他の惑星が太陽の真横の軌道を通るのに対して、17度傾いた軌道を回る。さらにかなりの楕円軌道で1周248年のうち20年は海王星の軌道より内側に入ってくる。

そして、その3つの衛星のうち一つは、「カロン(シャロン)」と言うのだが直径は冥王星の半分にもなる超大型衛星。さらに異常に接近している。その距離は20,000Km。月、地球の距離の1/19である。冥王星からカロンを見ると月の約7倍の大きさに見えるはず。さらに冥王星はゆっくり6.9日周期で自転するが、衛星カロンは冥王星の回りを6.4日と、自転より早く回る(地球と月の関係なら、地球の自転は1日、月が地球の周りを回るのが29.5日だから相当異なる。)。さらに自転の軸が120度とほぼ公転方向と直角型なので太陽側は常に昼で逆側は常に夜になる。もっとも、日向にいても寒すぎるのは間違いない。

次に、太陽系玄関論。今回、色々と勉強し直すと太陽系の学問は1990年代に大躍進していることがわかった。以前は、太陽の周りに、水星、金星、地球、火星という小型の岩石型惑星があり、おそらく何らかの不運で惑星が木っ端微塵になった残骸としての小惑星群があり、その外に木星、土星、海王星という大型ガス惑星があり、最後によくわからない冥王星。そして星屑を引力が束ねた彗星群があって、それで終わりとしたものだった。

が、そう単純なものではなく、その海王星より先にエッジワース=カイパー・ベルトという粗大ゴミゾーンがあり、さらにその外側にオールトの雲というスターダストのゾーンがあることが論じられている。一方、太陽風の届く範囲の限界の場所はヘリオポーズと呼ばれている。一応、ヘリオポーズの内側にエッジワース=カイパー・ベルトがありオールトの雲は外側と考えられている。

そして、太陽系全体の塊は銀河星雲の中を回転しているため、その回転と星間物質がぶつかって衝撃波面が発生すると思われていて、バウ・ショックと呼ばれている。つまり、そういうダイナミックエリアの近くに冥王星がある。生命(DNA)の起源を太陽系外に求める学説もあるが、このあたりとの関係がある。


ところで、話は一挙に、下世話に落ちるのだが、「冥王星男」ということばができた。会社などで、営業と称して出たっきりでどこに行ったか不明。携帯電話は電波が届かず。いつも出先から自宅に直帰しているようだが詳細は不明。というタイプの男のことだ。

うかうかしていると、いつの間に、「多数決により、社員から矮社員に降格」ということになってしまうかもしれない。

ネコバンバに島流しを!

2006-08-25 00:00:53 | 市民A
ffff9ea2.jpg子猫殺しを自ら告白したミステリ作家がいる。坂東眞砂子。タヒチ在住の直木賞作家。たとえば産経は次のように書く。




「子猫殺し」告白、抗議殺到 直木賞作家の坂東眞砂子さん

 仏領タヒチ島在住の直木賞作家、坂東眞砂子さん(48)が日本経済新聞に寄せたエッセーで、飼い猫が産んだ子猫を次々とがけ下に放り投げて殺していることを告白し、日経新聞社に抗議の声が殺到している。坂東さんは猫の避妊手術と子猫殺しについて「子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ」と同じレベルとの持論を展開しているが、動物愛護や生命の尊厳をめぐって論議を呼びそうだ。
 問題になっているのは日経新聞の18日付夕刊に掲載された「子猫殺し」と題したエッセー。「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」と書き出し、飼っている3匹の雌猫の子供が野良猫にならないよう、生まれるたびに自宅隣のがけ下に放り投げていると明かしている。

 日本の動物愛護管理法では、猫などをみだりに殺した場合「1年以下の懲役または100万円以下の罰金」を科すとされており、フランスの刑法でも違法だ。

 日経新聞社には24日正午までに508件のメールと88件の電話が寄せられ、「不快だ」「理解に苦しむ」など、ほとんどが非難や抗議の内容という。

 坂東さんは同社を通し「タヒチ島に住んで8年経つがこの間、人も動物も含めた意味で『生』、ひいては『死』を深く考えるようになった。『子猫殺し』はその線上にあるもの。動物にとって生きるとはなにかという姿勢から、私の考えを表明した」とコメント。

 同社社長室は「原稿の内容は原則として筆者の自主性を尊重している。さまざまなご意見は真摯(しんし)に受け止めたい」としている。

 坂東さんはホラー小説の第一人者で、平成9年に「山妣(やまはは)」で直木賞を受賞。映画「死国」「狗神」の原作者。

 ■愛猫家として知られるジャーナリストの江川紹子さんの話 「子猫が生まれないように避妊手術をすることと子猫の命を奪うことを同列に論じている板東さんの論理はおかしい。何が猫にとっての幸せかは猫でなければ分からない。突然殺されることに子猫は悲しんでいるはずだ。猫は野生動物とは違う。人間とのかかわりの中で生きてきた猫と、どう幸せに寄り添っていくかをもっと考えるべきだ」(08/24 11:01)


他紙も同様とは思うが、産経には愛猫家である江川紹子まで登場。別に彼女が登場しなくても、子猫殺しに正当化について、どう考えても共感できない。猫は普通はペットであって野生動物ではない。犬も同様。身勝手な論理としか言えない。そういう妙な価値観の人間が政治家になると大変なことになる。

ffff9ea2.jpg子猫殺しが行われた現場はタヒチ島である。タヒチは孤島ではないが、実は、先日行ったある写真展で知ったのだが、瀬戸内海の佐柳島は高齢化に伴う人口過疎化により、徐々に人間の島から猫の島に変りつつあるそうだ。



 被告人 坂東眞砂子
 右のもの、生類憐みの令により、佐柳島遠流の刑に処す。

すでに別の島にいるのが残念だ。  

ある結婚式場をめぐる運命は・・

2006-08-24 00:00:19 | 美術館・博物館・工芸品
ce434c24.jpg横浜、港北ニュータウンのほぼ中心の商業地区の一角に結婚式場がある。後ろは東急のショッピングモールだ。「ウェディングヴィレッジ・パルティーレ横浜」という”絶対に覚え切れない”ネーミングである。ニコライ聖堂のようなドームを持ち、晴れた日は洋風庭園を使ってオープンエアーの結婚式が可能である。

やや地中海風に風化した白色の土壁をイメージした吹き付けタイルと緑のドーム屋根に合わせて、赤いゼラニウムの花鉢は、スペイン風素焼陶器ではなくコンクリ製。立ち木は普通の日本製。やや一貫性に欠ける。無宗教とはいえ、あまり和風クラシックは合わないかもしれない。この建物の裏側に道一つ反対側にレンタルドレス店がある。本人用も仲人用も子供用も揃っている。仕事が終わって服を返しに行くという感じは、パチンコの景品交換のような雰囲気もあるが、もともと、それは想定外だったはず。何しろ、経営は「紳士服のアオキ」なのだ。なかなかうまくいかない多角化の一環である。フタタのM&Aに走っているが、この10年にわたり、経営迷走中である。

ce434c24.jpg本業は、ロードサイド大量出店で失敗(債務過多)。次に多角化として「ベビー服」進出したが、競合多く挫折。不採算店をカラオケ店に改装して、なんとか赤字の縮小をはかる。さらに結婚式事業に進出したもののジミ婚化。若年層のローコストスーツ対応でORIHIKAブランド立ち上げたが、若年層以外もORIHIKAに流れ、「カニバリズムモデル」に嵌ってしまう。すでに始まっているベビーブーマーのリタイヤ不況。少子化なのにベビー服とか結婚事業というのは無理があるような気もする。そして、こんどはM&Aで規模拡大路線。なかなか常勝型ビジネスモデルに到達しない(努力は認めるけど)。

さて、この日も、賑やかな雰囲気が残る建物前の午後の陽だまりの中を、30歳程度と思われる女性が、5歳位の女の子と一緒に歩いていた。買い物帰りの感じだ。私の前をすれ違うときに母娘の妙な会話が聞こえてしまった。

 30母:わあ、いいわねえ。もう一回結婚式してみたいわねえ・・
 05娘:ねえママ。もう一回って、誰と結婚するの??
 30母:uuuuuu・・ もう一回、パパと結婚するのよ。
 05娘:同じ人と2回も結婚するってあり? ねえ、あり? ねえ?
 30母:えー、うー・・・・(以下聞き取れず)

それで話が終わりになったのか、夕食の時にパパに報告されたのか。あるいは違う結果になったのか、残念ながら確認方法は思いつかない。


ce434c24.jpgところで、この式場には、以前にも覚えにくい名前がついていた。「アニヴェルセル・ヴィラ・ヨコハマ」。このアニヴェルセルというのは誕生日という意味で、アオキグループの結婚式ビジネスのシンボルとして「アニヴェルセル表参道」という旗艦ビルを持ったからだ。そしてその建物には、シャガールが描いた名画「アニヴェルセル」があり、さらにその絵画はグッゲンハイム美術館にあったものが22.5億円でバブル末期に日本人の手に渡ったものなのである(それがあまり話題にならないのは、そのオークションでは、大昭和製紙の斉藤了英がルノアールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を、近づく自分の葬式の時に一緒に焼いてしまおうと118.5億円で落札したからなのだ)。

ce434c24.jpgしかし、現在、絵画「アニヴェルセル」はビル内には存在しないような雰囲気であるが、捜索願は出ていない。大昭和製紙も行方不明になったが、捜索した結果、日本製紙に吸収されていた。「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の行き先は不明だ。アオキも日本製紙も現在M&A案件でそれぞれ格闘中である。

シャガール28歳の誕生日に恋人であるベラが持ってきた花束は、その後の彼の作品に大きな影響を与える。なにしろ、ベラと結婚し、ほとんどの絵画に登場する女性のモデルは彼女なのだからである。少し、「アニヴェルセル」を探してみる。 

出生率上昇の兆し

2006-08-23 00:00:50 | MBAの意見
出生率が上昇に転じているそうだ。雇用の増加、結婚数の増加、中絶の減少ということだそうだ。3つの要因は結局同じことかもしれない。毎日の記事を紹介。



<人口動態統計>6年ぶり出生数増加 今年上半期

厚生労働省は21日、今年上半期(1~6月)の人口動態統計速報をまとめた。出生数は前年同期比1万1618人増の54万9255人で、上半期ベースで00年以来6年ぶりに前年を上回った。同省は雇用の改善傾向に伴う結婚件数の増加や、人工中絶数の減少が原因ではないかと分析している。05年に1.25と過去最低を更新した合計特殊出生率(1人の女性が一生に産む子ども数に相当)は97年以降前年割れ・横ばいが続いているが、06年は9年ぶりに上昇に転じる可能性がでてきた。

06年の月別出生数を前年同月と比べると、1月は前年を下回ったものの、2~6月は5カ月連続で増加。5カ月連続増は00年の8~12月以来5年半ぶりだ。この時は6カ月目に減少に転じたが、06年下半期(7~12月)の出生数が例年のペースを維持すれば、06年通年の出生数も00年以来6年ぶりに前年を上回ることになる。

出生数が増加に転じた背景として、厚労省は景気回復に伴う雇用者数の増加を挙げる。雇用者数は05年6月以降13カ月連続で前年同月を上回っている。これを追うように結婚数も05年後半から増え、06年上半期は05年同期比1万936組増の36万7965組となった。上半期ベースで結婚数が前年を上回ったのも6年ぶり。

一方、05年の出産1000件に対する死産率は、自然死産が12.3で04年比0.2ポイント減なのに対し、人工中絶によるものは16.8で0.7ポイント減少した。同省は「仕事が見つかって結婚に踏み切った人や、中絶しなくとも生活できると判断した人が増えているのではないか」と見ている。

05年は人口の自然増加数(出生数―死亡数)がマイナス2万1408人となり、人口減少時代に突入した。06年上半期の自然増加数は依然マイナス1万4827人だが、05年同期に比べるとマイナス幅が1万6207人縮まった。しかし、06年通年で自然増加数がプラスに転じるかは依然微妙だ。(毎日新聞) - 8月21日20時46分更新

a6f33cd3.jpg個人的には楽観的に考えているのだが、日本の現在の人口ピラミッドを見ると、二つの山がある。「団塊世代」と「団塊ジュニア」である。もちろん「団塊ジュニア」の原因は「団塊世代」であり、その原因は「世界大戦」である。

また、団塊世代と団塊ジュニアの山の間隔は30年である。早い話が、団塊世代が会社に就職した頃は、定年50歳とか55歳だったはず。高度成長政策により、有効雇用者数が増大し、うまい具合に団塊世代の男たちは、大部分が定職確保に成功。もちろん、「電電公社」という、「電線マンと交換手」という巨大職場を創出した組織もあった。

幸か不幸か定年は延長され、60歳まで職場が確保されたわけだが、その延びた10年間に加え、バブル崩壊という不運も重なり、自分のこども達の職場を奪ってしまったわけだ。そして結局、孫がいなくなってしまったわけだ。

しかし、ピラミッド上から、この二つのコブが「存在しないもの」と考えてしまえば、かなり「ローソク型ピラミッド」になっているのではないかとも読み取れるような気がする。つまり、男女とも毎年60万人程度が生まれると仮定すると、1年の出生数は120万人(現在は108万人)程度。平均年齢82歳を掛けると、9840万人になる。それ位いれば十分ではないかとも思える。

が、一つの問題は、さきほどコブとして計算から除外した人数(約2000万人)。その人たちの社会保障費(年金・健保・介護保険)については、財源がないのである。肩幅を狭くして寄り合って生活して頂くしかないのかもしれない。そして、戦後問題がまた一つ片付くのである。

東海道中の味は・・

2006-08-22 00:00:59 | 市民A
9db4a250.JPG以前、弊ブログ2006年6月19日号「和菓子で楽しむ道中日記」展(とらや)で軽く触れた、江戸時代の和菓子の話である。

「東海道中膝栗毛」や「田中国三郎の道中日記」などの道中記で数多く登場するのが川崎や鶴見の米饅頭(よねまんじゅう)。そして明治になって自然消滅していたこの菓子が何年か前に復活した、という情報を得た。さっそく出陣してみる。そして、店主と思われる方と二言三言、話してみたがあまりピンとこなかったので、あれこれ調べるとなかなか面白い話があった。

まず、その店舗だが、「御菓子司 清月」という。JRおよび京急鶴見駅から海側の国道15号線(第一京浜)に向かう道の途中左側にある。駅から2分位だ。この第一京浜が旧東海道と思われているが、微妙に旧道とは異なっていて、この「清月」のある場所あたりが旧道だったらしい。店頭には「よねまんじゅう」ののぼりも出ている。そして、店内のショーケースの中に無造作に三色の饅頭は積まれている。縦4センチ、横幅2.5センチの小判型である。色は赤、緑、白の三種。イタリアの国旗である(並び方を変えれば、ブルガリアでもありハンガリーでもある)。梅(しそ)、抹茶(こし餡)、しろ餡(いんげん)の味である。季節が夏のため、冷蔵庫や冷凍庫で冷やしてから食べるとさらに美味とのことである。実際には冷蔵庫で冷やしてみたのだが、薄皮の羽二重餅と中の白餡の冷え方が異なり、むしろ全体を凍結させてしまった方がいいかもしれない。「雪見大福」のようになるだろう。まず、見たままの味である。

ところで、なぜ鶴見に米饅頭なのかということなのだが、それは東海道と関係がある。さらにこの饅頭というものが江戸の菓子として確立していった歴史があるわけだ。ところが、こういった食べ物や菓子というのは歴史の表には出てこないものなので諸説あいまいなものが多いわけだ。

少しひねって普通の歴史とは逆に、近いほうから書いてみる。

明治初頭。米饅頭が滅亡してしまう。原因は鉄道敷設である。東京(江戸)から西に向かって横浜方面には、徒歩か馬、駕篭で移動していたわけで、それらの人々がちょうど、この辺で一休みしていたわけだ。茶を飲み、饅頭でエネルギーを補給する。このパターンが崩れる。新橋で乗車した汽車は僅か1時間で横浜に着くのだから、途中駅で下車するはずもない。

少し遡り江戸末期。東海道、鶴見川の渡しの両岸にあるのが市場村と鶴見村でここに約40軒の茶店があった。有名なのが鶴屋とかめやで、奈良茶漬け(お茶で炊いた茶飯を使う)と米饅頭を食して、目的地へ向かうということだったそうだ。東海道は江戸から言えば、品川・川崎・神奈川・戸塚というように進むのだが、ここ鶴見は川崎と神奈川の中間で、昼の腹ごしらえという場だったのだろう(江戸時代は昼食の習慣は一般的でなかった)。

9db4a250.JPGさらに1800年頃に遡ると、山東京伝(1761-1816)がいる。彼は読本として「米饅頭始」をあらわしていて、その中で浅草の鶴屋という店に「よね」という名の看板娘がいて、その女性が米饅頭の名前の起源としている。それは、本当なのかあるいはフィクションなのかなのだが、やはりパブリシティの影響は大きく、この京伝の読本以降はこれが通説になっていたようだ。

ところが、史実はあいまいで、実際に浅草の茶店で饅頭を出し始めたのは1680年から1700年の頃らしい。昼は饅頭、夜は酒の肴ということだったのだろうか。

そして、歴史をここまで遡ると、米饅頭の語源について、諸説あることがわかってきた。まず、「よね=女性のある部分」という説である。あるいは、饅頭の楕円形の形が似ているという説もある。つまり吉原とか深川というようなそれを目的とした場所へ行く前の腹ごしらえということだそうである。景気づけに途中の茶店で一服して、「きょうは、ウメマンとチャマンをダブルで」とか・・

また、形が米粒に似ているから、という説もあるが、弱い。

一方、まったく正統食文化史で論ずる説もある。本来、中国では小麦粉でつくっていた饅頭を、日本で餅米仕立てに変えた時に、麦粉饅頭に対するコトバとして米饅頭というようになった、という説である。中国旅行をすれば感じるように華北の北京などでが米文化ではなく麦文化である。麺や饅頭が主食である。饅頭は日本のアンマンや肉マンの具がないパンの部分だけである。マントウという発音が近いそうだ。確かに、中国菓子の中には日本の饅頭に似ているものもあるが名前は異なる(月餅とか)。もっとも合理的な説明ではないかと思う。

案外、この米饅頭というコトバは日中文化の接点で妥協的に生まれたリンクワードなのかもしれない。中国型饅頭(マントー・小麦粉)→米饅頭(もち米)→饅頭(日本の菓子一般用語)。

それに、冷やした米饅頭をどのように味わったとしても、ウメマンの気分になることはないだろうとも思えるからだ。葱饅頭とかニンニク饅頭なら話は別なのだが・・

将棋まつり三題

2006-08-21 00:00:42 | しょうぎ

05c0b3f2.jpg8月19-20日と横浜の京急デパートで「将棋まつり」の手伝いをしていた。いや、正確には、「手伝いさせられていた」。昨年、手伝ったときには、将棋界に入れ込んでいる団鬼六先生も登場されたのだが、残念ながら今週末には登場されなかった。日頃は女性の柔肌に入れているムチを、自身の老体の方に加え、最近起こった茨木市監禁マンション事件を題材に、新機軸の緊縛小説でも書かれているのだろうか。

そのかわり、森内名人はじめ棋士が多数出席。印象に残る話題を3題書いてみる。

1.絶大なり「名人のご威光

土曜日のことだが、森内名人は10時半頃登場。現役九段はじめ、女流棋士、奨励会員、OB棋士など緊張が走る。夕方まで、フル操業する。小学生と対局したり、指導対局、トークショーに大盤解説に、席上解説の詰将棋と次の一手の解説と抽選会と、といった具合。

楽屋裏では、午前中の予定が若干遅れたため、午後の開始を15分遅らせようとしていたところ、名人が一喝。「待たれているお客様に悪いじゃないか」。交代でゆっくり食べていた弁当をみんな慌てて胃袋に流し込む。

2.棋士は小顔

2日間で登場された棋士は、森内名人、佐藤棋聖、藤井九段、鈴木八段、中村八段、北浜七段、木村七段、斉田女流、山田女流、安食女流、高橋元女流。間近で見ると、全員小顔だ。たぶん、大脳の襞と顔の構造は母体内で同時に発達するのかもしれない。脳の襞が深い人は顔の発育が遅くなり小顔になるのかもしれない。いいことづくしだ。

ところで、人間の脳は受精後3日でその形が明確になり発達を始めるそうだ。先日、日本科学未来館で小学生と一緒に勉強した。(どうやったら、受精するのかは教えなかったようだ。学校で教えない48種類の体操をするとこどもが産まれるらしい。)


05c0b3f2.jpg3.懸賞詰将棋ハンター出現

土曜日の問題は、9手詰だが慣れた人なら10秒内で解答がわかるはず。また日曜の問題は7手詰。これも数分眺めると解答がわかる。あまり難易度は高くない。問題の答えを書いて、投票箱に入れておくと、夕方、当選者の発表になる。各日5名ほどに抽選で絞られ、粗品が贈られる。

ところが、この易しい詰将棋で2日連続で賞品を入手した男性がいる。彼は、某難解詰将棋月刊誌のオモテ紙の担当者であるのだが、その事実を知っているのは、会場内に一人しかいないような気がした。


 








写真展は思わず社会問題を・・

2006-08-20 00:00:52 | 美術館・博物館・工芸品
bb503b98.jpg新宿にあるNikon Salonで二つの展覧会が開かれていた。「島が消える:太田昭生」「ニッコールクラブ十勝支部写真展」。

最初、「島が消える」という意味がよくわからなかった。聞きなれない島の名前が多く、南西諸島かなと思っていた。サンゴ礁とか、海抜の低い島が地球温暖化で海面下に沈む話なのかな、と思っていたら、そうではなく瀬戸内海の島々のことだった。地図が表示されていて、瀬戸大橋の近くの小島のことだった。

太田昭生氏は1950年小豆島生まれ。今年56歳で小豆島高校の先生であるのだが20年ほど前からカメラを始めたそうだ。1999年、49歳にして土門拳文化賞で奨励賞を受賞。瀬戸内海の島を舞台とした現実を写し続けている。今回の個展では志々島・沖之島・粟島・佐柳島・高見島・伊吹島・本島・男木島・直島・女木島だが、そのほとんどの島は地図で探すのは難しい。小豆島の1/100くらいの大きさで、人口が数十人。佐柳島は猫の島になっている。

彼の作品は、温暖な気温と海面からの水蒸気のせいでやや画質がぼーっとしたところがある。芸術と報道の中間路線である。その意味では土門拳やキャパと同じだ。では、何が「島が消える」なのだろう。

それは老齢化なのである。60歳以上の住民ばかりだそうだ。あと、10年、20年の間に無人島になってしまうのではないか、というのがこの題名の由来だそうだ。

年齢の高齢化は確実におきるわけで、結局は無人島がどんどん増えていくということなのだろうか。

本当はよくわからない。逆に住民の高齢化以外のことは想定不能だ。単純経済学が機能するなら、誰もいなくなれば島の地価は格安となるのだろうが、そうなると島に住みたいと思う人が現れて、無人島買い占めたりする人があらわれるかもしれない。また、今、島に両親を置いて大阪や東京で生活しているこどもたちが年金年齢になるとまた島にUターンするのかもしれない。

ともかく、すべて日本の交通網の中枢の一つである瀬戸大橋から一望できるなにげない小島に起こっている現実を骨っぽく捉えた写真展である。東京新宿会場(エルタワー)は今月28日まで。大阪は8月31日から9月5日までだ。

bb503b98.jpg「ニッコールクラブ十勝支部展」はアマチュアの写真愛好家の集まりなのだが、こちらの写真はあくまでもクリアとかシビアといったカメラの極限までの能力の追求である。特に北海道ならでの野生動物や吹雪の撮影は神秘的である。画質だけならどちらがプロだかよくわからない。それならば、プロがプロであることの証は、個々のメッセージ性なのであろうか。

再びお蔵入りの危機に瀕した「明日の神話」

2006-08-19 22:22:39 | 美術館・博物館・工芸品
0a2c5273.jpg弊ブログ8月8日号「壁画復活・明日の神話(岡本太郎)」の最後で触れたように、夏休み中の日テレゼロスタでの公開が終わった後の行き先について、私の地獄耳にはまったく入っていなかった。案の定、行き先未定とのこと。簡単にそう言うが、なにしろデカイのだ。それに壁画である。先月オープンした青森県立美術館にあるシャガールの巨大幕「アレコ」とは違う。たたんで箱にいれるわけにはいかない。「明日の神話」は、折角、メキシコの倉庫から見つけだし、1年かけて修復したのに、また倉庫行きとなるのだろうか。

毎日は、こう伝える。


 「芸術は爆発だ!」で知られる故・岡本太郎さんの巨大壁画「明日の神話」が、安住の地を探している。「岡本太郎記念現代芸術振興財団」は、ふさわしい場所に無償提供する意向で、長崎市などが誘致に動いたが、受け入れ先が決まらない。ネックになっているのは、縦5.5メートル、横30メートルというあまりの大きさだ。岡本太郎記念館長の平野暁臣さん(47)は「誰もがいつでも鑑賞できる場所を、生誕100周年の2011年までに探したい」と話している。

壁画は、原爆の悲惨さと、それを乗り越える人間の尊厳を表現した大作だ。メキシコ人実業家の依頼を受け68~69年に現地で制作されたが、展示予定だったホテルの建設が行き詰まり、壁画は行方不明になった。03年にメキシコ市郊外の資材置き場で発見され、平野さんらを中心に約1年かけて修復。7月から東京・汐留の特設会場で初公開されている。

「『芸術は無償であるべきだ』という太郎の遺志を尊重したい」と話す平野さん。ただ「娘を嫁に出すようなもの。しっかりした相手を」と、公的な施設などを前提に、屋内でゆっくり鑑賞できる環境、壁画が置かれる意義が直感的に理解できる場所、永久に作品を守る情熱--を受け入れ先の条件に挙げる。

被爆地の長崎市が誘致に動いたが「施設が見当たらない。新設する財政的余裕もない」(同市平和推進室)と断念。広島市も東京の一般公開に職員を派遣するなど関心を示しながらも「クリアすべき課題が多い」(同市文化スポーツ部)と慎重だ。広島県尾道市も施設を確保出来ず見送った。

一般公開は今月末までだが、現時点で正式な申し出はないという。平野さんは「作品を愛してくれる人がたくさんいる場所で生誕100周年を祝うのが夢。焦らずに探したい」と話している。(毎日新聞) - 8月19日17時17分更新


2011年までに見つけるとなっているが、今見つからないものが5年の間に見つかるとも思えない。合理的に考えると、「無償展示」というのが一つの問題だ。たとえば、美術館などで、この30メートルを横に飾るとすると、逆に30メートル分の絵画がおけなくなることになる。有料展示でも難しいところだ。さらに、この壁画、中央部分などは盛り上がっている。維持管理にかなりのコストがかかることが予想される。

となれば、元の設計とおり、ホテルの壁画ということになる。が、日本のホテルでは、難しい点も多いのかもしれない。

 1.相当大きい。
 2.「反戦思想」にもとづいていて政治的ラジカルである。
 3.一度、展示すると、将来はずせなくなる。

そして、現実的には最大の問題かもしれないのは、

 4.この壁画を掲げようとしたホテルは、既に2つも傾いてしまった。

まったく縁起が悪いのである。

藤堂高虎家訓200箇条(19)

2006-08-19 00:00:29 | 藤堂高虎家訓200箇条

家訓200箇条もようやく190条まできた。先日、「家訓でブログの手抜きをしているのか」と言われてしまったのだが、そういうことはない。かなりの労力が必要なのだが、書かない人にはわからないと思う。結構調べることは多い。原文をテキスト化するのもちょっと苦労がある。考えてみれば、ブログを書くというのは書き手の嗜みなのだが、さらにその小箱行為の中に藤堂家家訓という二重の小箱を作っていたわけだ。


第181条 切合ふへきと思ふ時躰(ママ)巻すへからす但くさり手拭ならハむすひめをかけ結ひにかたくむすぶへし


斬り合う時、体巻きするべからず。ただし鎖手ぬぐいならば、結び目をかけ結びに固く結ぶべきだ。


体巻きというのは、晒などを肌に巻いてから着物を斬ることと思われる。つまり戦場ではなく江戸時代の話であろう。鎖手ぬぐいというのは、実物を伊賀上野の忍者屋敷で見たが、西洋の鎧のように耐刃製と柔軟性を備えたものである。現代では、デートの時に同伴女性にケプラー繊維のバッグなど見せびらかせ、暴漢に襲われた時に戦うふりをしている男もいるが、当然ながらバッグも女性も見捨てて逃げ出す算段なのである。



第182条 大小共に柄さめ塗たるに徳多し旅立とも越中かけすべからす


大小ともに柄(つか)をさめ塗りすると得が多い。旅立ちの時も越中がけしてはいけない。


柄(つか)には、皮巻きと、糸巻きと大別されるが、鮫塗りというのは鮫の皮をうるしで塗ったものらしい。得が多いという理由は、糸巻きでは血が染込んだ時に手入れしにくく、獣皮巻きだと血糊で手が滑りやすいということである。鮫皮は、その中間ということだろう。越中といえば、ふんどしで有名だが、要するに木綿のさらしが名産であったわけで、旅行中に柄にさらしを掛けたりしてはいけないということかもしれない。(本当はよくわからない)



第183条 鮫鞘好むへからす


鮫鞘を好んではいけない。


刀の柄とは異なって、鮫皮巻きの鞘(さや)はいけない、と言う。理由は書かれていない。なんとなくだが、鮫の柄に色合いがよく合うからといってデザイン本位の選択などしてはいけない。あくまでも実用本位で考えるべき、ということかもしれない。



第184条 闇の夜に追かけ者打留る其儘声高に名乗へし人に早く聞する為又同士討の用心成へし


闇夜に追いかける者を討ちとめたら、そのまま大声で名乗るべし。人に早く聞かせるため、また同士討ちの用心のためである。


要するに、集団で行動する場合、誰を仕留めたかということを即座に全員に知らせなければ、仕事が終わったかどうかわからないということだ。そして、何となくだが同士討ちの話が再三登場するところを見ると、高虎は味方を斬ったことがあるのだろうと推測できる。その場合は、知らんぷりしてしまうのだろう。



第185条 闇の夜に追かけ者入組伏たる時卒尓に切へからす上下を能聞中取して突へし此心持肝要なり


闇夜に追いかける者を組み伏せたときには、直ちに斬ってはいけない。上下をよく確かめ、中取りにして突くべきだ。この心持が肝要である。


この条も真意はよくわからない。直ちに斬ってはいけないのは、同士討ちの可能性があるからなのか、斬るのではなく突いて殺せと技術論を言っているのかなのかどちらかだろう。中取りというのは、プロレスのフルネルソンのような、首をとって中腰で絞めるわざのような語感がある。左手で首を抱え、右手で凶器を喉に・・



第186条 急なる追かけ者の近道あり両方ハがけにて細道なり此時三尺手拭我か首にかけ下りたる両端を両手に取引はり其はり合にて足早に行ハ心易く通らるる物なり一つ橋も同前自然三尺手拭無之時ハ刀の下緒にても縄ぎれにても同事なり


急な追いかけ者で近道があって両方が崖で細道な時には三尺手ぬぐいを自分の首にかけ、下がった両端を両手に取り、引っ張り、その張り合いで早足で走れば通りやすいものだ。一本橋も同様である。三尺手ぬぐいがない時は、刀の下緒でも縄切れでも同じことである。


三尺というのは90センチ。首にかけて両側に垂らすと40センチくらいだろうか。結構高い位置だ。さらに腰にはぶらぶら揺れる鉄製の錘が二本である。武士として最も難易度の高い技は、一本橋を走り抜けることであろう。現代の投資家で最も難易度が高い技は、インサイダー取引株を気付かれないように売り抜けること、刑務所の塀の上を時価総額経営と粉飾決算を両天秤にして逃げ回ることだろう。



第187条 昼夜共に我門を出る時又余所より帰る時も下人を我より先へ出すへし家来も不断心得へし


昼夜ともに、家の門を出る時、または他所から帰る時も、自分より身分の低い者を帰すべきだ。家来もふだんから心得るべきだ。


もし中小企業で、社長が、いつも会社で最後に帰宅することになりはじめたら・・そう、あなたは疑われている。
むしろ、不意の襲撃を受ける時の身代わりということも考えられる。



第188条 人前にて家人に言葉あらく申へからす下々ハ何の弁なくむさと仕たる返答する物なり手により堪忍成かたき事のみ多し


人前で家人に言葉あらく言ってはいけない。下々の者は何の弁解もできず、いいかげんな返答をするものである。事によっては我慢できないことにもなる。


家来の話だけではない。飼い犬の悪口を言ったりすると、夜中に忍び寄ってきて、喉を噛み切られたりする。また、社内に隠し事の多い会社は、当局やマスコミにタレこまれないようにいつも社員を褒め称え続けなければならない。



第189条 人の指料の刀脇指見るとも切ハよき歟と不可尋ぶし付ケ成へし又我刀脇指見する共切の事此方よりいふへからす


人の指料の刀脇差を見て、切れるかなどと尋ねてはいけない。ぶしつけである。また自分の刀脇差を見せる時も、切れ具合をこっちから言ってはいけない。


考えれば、刀の切れ味には、「刀の質」「手入れ」「使い手の腕前」という要素があるだろう。ちょっとしたコトバのやりとりが、意味の行き違いになると、「どっちが切れるか試してみるしかないだろう」ということになる。現代では、「どちらのクルマが早く走れるか」とか「どちらのミサイルが強力か」とかなのだろうが、チキンレースになりやすい。「どちらの牛肉が安全か」程度の話であればいいのだが。



第190条 ためし物なとの時我指料の大小の内をぬき切へからす手の廻る事も有へし時により若不切時ハ無嗜のやうにて面目なき事成へし可慎


ためし斬りなどの時、自分の大小を使って斬ったりしてはならない。うまく切れないこともある。時として切れなかったりしたら嗜みがないようで面目がないことである。慎むべきである。


斬れなかった理由が、腕前なのか、手入れの悪さなのか、あるいは刀が安いのかとか碌でもない想像をされてしまうわけだ。もっとも金策に困り、大小ともに質流れとなり、竹光で代用している場合は、まったく事情が異なるわけだ。


つづく