ローマ人への20の質問(塩野七生著)

2006-06-30 00:00:27 | 書評
76e6a5f8.jpg塩野七生は歴史学者ではない。あえて言えば歴史家かもしれない。ただし司馬遼太郎のような歴史小説家ではない。「歴史学者は解釈をするのではなく、研究をするのだから”イフ厳禁”だろうが、私は歴史愛好家だから、何を書いても自由だ」とは本著の17番目の質問への答えである。彼女のローマ史上のイフはイフであることが明確だが、司馬先生の日本史上のイフは、「本当のことかと誤認しそうなイフの書き方」である。

そして、彼女が自分のことを「歴史愛好家」というようなアマチュアのような言い方をしても、彼女がアマチュアだ、と思う人は誰もいないだろう(ローマネタで稼いだ金額は、「小麦100万人分か」、とローマ人の作った「小麦法」で喩えてみる)。しかし、実のところ私は、彼女の書を読んだことは少ない。特に、大著「ローマ人の物語」を読むべきか読まざるべきか悩んでいる。というのも、どうも外国の歴史的大著は苦手なのである。思想的なものか物質文化的ものかわからないが、なかなか同化できない。メンタリティが違うということかもしれない。


されば、ローマ物は?といえば、七生流に言えば「ローマを一言で語ってはいけない」ということだろう。多様性、多文化容認性、他民族容認性、である。さらに元々は多神教だった。あたかもローマカソリックはキリスト教の本道のようだが、実はローマ滅亡の大きな原因はキリスト教の容認だっただろうとは、本書を読んだ私の感想の一つ。

また、海洋国家カルタゴが猛将ハンニバルをもってローマを陸戦を制したにもかかわらず、最後は海戦に敗れて滅亡したのは何か。それはローマは海軍のことをよく知らなかったがために、新兵器をつぎつぎに編み出したからだそうだ。

そのようなQ&Aが20項目書かれていて、全部理解すると、彼女の歴史観の1%がわかるようになっている。


では、ローマはなぜ滅亡したか?という最後の質問に彼女は明確には答えない。「ローマ人はヴァイタリティを失った。なぜ、いつ、自信を失ったかを知ることが、滅亡の理由を知ることにつながるだろう。」と言う意味のことを書いて、本書を閉じている。あとは、著書多数を購入して読むように!ということだろう。
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東大+阪大+ショベルカー=?

2006-06-29 18:00:06 | 市民A

東大+阪大=東大阪大である。ヒガシオオサカダイガク。生埋め事件が、当初、東大阪市の大学生として報道されたため、「近畿大学、大阪商業大学、大阪樟蔭大学」のいずれかだろう、と思われていたのだが、まったく別の「東大阪大学」ということだった(大商大学生も共犯の一人として登場したが)。そして、東大阪市の市民もほとんど知らない東大阪大学はもともと短大なのだが、大学を新設したばかりだった。主犯の男は、この新設大学の輝かしい第一期入学生である(つまりまだ卒業生は誰もいない)。

ホームページは学長による謝罪のページが一枚だけになってしまったので、どんな学校だったかわからないが、ただ一つの学部は「こども学部」。こどもといっても幼児から小学生の研究をして、卒業生は幼稚園や小学校の先生や、こども服のメーカーなどに就職するはずだった。そして併設で幼稚園も経営している。三角関係の相手もみなこの学園関係者だった。

そして、想像するに、こどもとコミュニケーションし過ぎて、頭の中身が「こども脳」になっていたのだろうか、交際相手の携帯に別の男性からメールが入っただけでブチキレたり、リンチの応酬に発展するとか、20歳を超えて、教科書に書かれているとおり脳神経の成長がとまってしまったのだろうか。バカの壁ではなく、バカの墓穴を掘ってしまったわけだ。

それにしても、総勢9人。16歳や17歳の助っ人にまで加担させるというのは、何ということなのだろうか。江戸の時代から、敵討ちするためには、自分で剣術道場に通うもの、と相場が決まっている。ショベルカーの運転くらい自分でできるようになってからではなかっただろうか。

いずれにしても、大学は破綻だろう。

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トマトの深い根

2006-06-29 00:00:54 | マーケティング
083ca1e0.jpg愛読ブログpuramuざつがくさんのところで、大ズッキーニ畑が公開されたので、返礼として大トマト畑を公開してみる。puramu邸のズッキーニ畑は数十坪程度だと思われるが、おおた邸のトマト畑は縦横高さ各25センチの鉢。面積625平方センチ。0.019坪。本当は、整枝、芯止めが必要のはずだが、面倒なことをしないために、カゴメのジュース用トマト苗にした。あまり上に伸びない品種らしい。欠点は、皮が硬いことだが、まだ29本の歯が根元から残っているので問題ない。1本から60個くらいまで収穫できるらしい。控えめに、「20個」を目標とする。採算分岐点? 計算不能。

なんとなく、トマト以外に手を出しそうな嫌なムードも漂うのだが、「有機肥料」はやめておく。

ところで、「カゴメ」は名古屋発世界規模の総合食品会社なのだが、つい最近まで「Seagul(カモメ)」の一種だと思っていた。例の「カゴメ、カゴメ、カゴの中の鳥は・・・」という歌に登場するのが原因の一つ。さらに、横浜の保土ヶ谷に住んでいた頃、近くに「カモメパン」の工場があって、会社のマークが鳥だったので、てっきり、ケチャップ会社がパンも焼いていたのかと早合点していた(パン屋は後年つぶれた)。

ところが、カゴメ=籠目(篭目)だったわけだ。創業家の家紋らしい。

となると、童謡「カゴメ、カゴメ、カゴの中の鳥は・・・」というのは、カゴの中にカゴメという鳥がいるのではなく、「カゴの中に閉じ込められた可哀想な鳥が、絶望的な状況下で、篭の隙間から”ヘルプ・ヘルプ”と命乞いをしている唄」ということになる。

083ca1e0.jpg話は、またも会社の方の「カゴメ」に戻るのだが、なぜ、簡単に栽培できるジュース用のトマトなどを開発したのかということをもう少し調べていたら、やはりトマト話には「深い根」が生えていた。農地と株式会社という戦後日本で相性の悪い組み合わせが遠因である。なかなか進まない農地の株式会社による利用にシビレを切らして(あるいは怒りを爆発させ)、非農地(宅地など)を利用して大量栽培しようということだ。

よく、住宅街の中にも空地を日曜園芸で貸し出しているところがあるが、あれと同じ発想。和歌山市にある造成済の宅地を、県から借り受け、アジア最大のトマト農園に改造中なのである。安い農業用水が手に入らないのではないかとも思うのだが、鉢植えでも育つトマト苗は水分をあまり必要としないのかもしれない。

ただし、素人ながら考えるのは、トマトは連作を好まない。同じ場所だと2年が限界ともいう。複数の野菜を栽培すれば、土地を回していけばいいのだが、トマトだけ栽培していくと生産量が落ちていくのではないだろうか。あるいは、トマトが育たなくなった段階で、本来の宅地で分譲するのだろうか。庭でトマトを栽培してもなぜか育たないとか・・
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歩く危険物体の未来像は?

2006-06-28 00:00:43 | 市民A
bb4cf6c4.jpg街の中をデジカメ・パソコン・プリンターなどIT機器一式を持ちながら歩く二人連れがいる。まったくIT産業とは無関係な人たち。「駐車監視員」という新しい職業なのだが、実際には「監視員」ではない。警察の手先である。「駐車違反取締員」というのが正しい呼び方と思うのだが・・・みなし公務員である。抵抗すると「公務執行妨害」としてその場では捕まらず、後で捕まる。逮捕権はないし、ピストルも持っていない(今のうちは)。

6月1日から新制度として、駐車禁止の取り締まりが強化された。一つは交通警官ではなく、取り締まりの民間代行制度。もう一つは従来の「30分見逃し法」から「即アウト方式」。さらに、「ドライバーではなく所有者責任」と変わったことだ。要するに、駐車禁止エリアに駐車している車を見つけると、ナンバーと証拠写真をパソコンでホストコンピューターに登録し、約5分のデータ処理時間の中でクルマが動かないと、プリントアウトされたシールを貼られて反則金が発生する。難しいのは、そのプリントアウトされたものをクルマに張ろうとする時にドライバーが現れた場合で、アウトかセーフかトラブルになりやすい。ドライバーもリスクがあるのは、その場に警官がいた場合で、警官に見つかると反則金だけではなく、違反切符を切られ、点数まで取られてしまうらしい。

つまり、単なる経済的損失では済まなくなるので、警官がいる場合は、自分のクルマであっても他人のクルマのように素通りした方がいいらしい(あくまで伝聞情報)。そうすると、「反則金×摘発確率=駐車料金」という均衡式が書ける。

それで、摘発成績はどうかというとパッとしないらしい。約5000人が従事しているらしい。二人一組で2500組。1日5000台程度を処理しているらしいので、1組で1日2台に紙を貼っている程度だ。警察の目論見では、委託費と反則金がイコールになることを見込んでいて、この倍以上は捕まえなければならないらしい。


先日、昼休みに新橋駅方面で、どれだけ駐車違反がいるか調べてみた。すると・・・ いくらでも違反車はいるのだ。道に出てまわりを見回すと、無数の違反車だらけだ。10分に1台ずつ挙げていくと、8時間で48台も捕まえられる。大儲けだ。あるいは昼食時間は捕まえないという新ルールができたのだろうか。


ところで、代行方式になって警察官の数が減るかというと、全国で約500人が減少するらしい。プラス5000マイナス500=4500。そして、この計算はこれから大変なことになるはずだ。団塊世代警官の大量退職がはじめる。毎年約10,000人ずつ退職するらしい。その大人数の方々が、この仕事を狙っているらしいのだ。

といっても、受託業者は入札で決めるのでは?

実は、業者は入札なのだが、この監視員は資格制度なのである。落札業者は監視員を雇いいれることになるわけだから、どの業者が落札しようが監視員の仕事は確保されているわけだ。それも、”資格には定年はない”。

問題は、監視員が増えれば増えるほど、自給自足体制のハードルは高くなっていくわけで、取締りはどんどん加速されていくと思われることだ。

ただし、絶対に「駐車禁止絶滅にはならない」のは間違いない。

エジプトで産まれ、世界中に繁殖していった猫族に伝わる家訓がある。
 「ネズミを食い尽くさないこと
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自由の牢獄(エンデ)は、カフカ式?

2006-06-27 07:11:09 | 書評
2f9b8cb9.gif1991年から92年にかけ、ドイツ人ミヒャエル・エンデを読みまくっていた。「モモ」「ネバーエンディングストーリー」「ジム・ボタンシリーズ」など。それぞれ、世界的ベストセラーになっていた。モモのテーマの一つである「時間ドロボーと付き合わないこと」という部分は、なんと言うことかビジネスの格言となり「見込みのない客は切り捨てろ!時間の無駄!」というように変化していく。「ネバーエンディングストーリー」は映画化されシリーズものになる。エンデが書いていない第三作以降は、文字通りネバーエンディングムービーになってしまった。

そして、1995年にエンデ逝去。その後、気を配っていなかったのだが、どうも93年から95年にかけ、書かれたものが94年頃から翻訳され、国内で発売されていたようだ。最近、気がつき、ぼちぼちと手にとってみる。その一つが94年に発売された「自由の牢獄」。8編の短編集であるが、8編は完全に独立している。

読んでいて、これは「カフカ」ではないかと思わせるところが多い。「非日常性と日常性」、「悲劇と喜劇」。そういうものがからみあって不思議な世界が形成されていく。どちらかというと「大人が読むべ寓話集」というべきなのだろう。相変わらずのエンデスタイルではあるが、カフカのようでもある。

8編の中の1編だけ軽く触れると、第4話「ちょっと小さいのはたしかですが」では、「私」は公園のそばに止められた小さな車から大勢の人間の家族一同が降りてきたのを目撃する。さらにその家族に付き合うことになり、なぜか、話は進み、その考えられないくらい大勢の乗っている軽自動車に同乗するのだが、最新の設計技術はすばらしく、クルマの中は広々としていて、後ろの方には地下室への入り口があって、別の間があったり、一室ではおばあさんが寝ていたりして、さらに極めつけは、駐車違反で捕まらないように駐車場まで内蔵されているのである。

ところで、エンデの最晩年に書かれた作品を読み切ろうかとも思うのだが、出版社はほとんど岩波。多くの本が絶版に追い込まれた中、全集でしか読めないという状態である。そして、その全集は、最後の何冊かだけを読みたくても「分冊販売禁止」ということだそうだ。全集を全部買うべきか?悩みは深い。  
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ある名球会選手の販売物件

2006-06-26 00:00:43 | 市民A
db069eed.jpgご近所ブログである。港北ニュータウンの中の話。ただし、もちろん誰でも購入できる。持ち主は公開されていないが、通算2006安打とややギリギリ感のある名球会有資格者、駒田徳広氏のものと想定される住居が売りに出ている。大安売りだ。

一見、売価1億1500万円は高いように感じるかもしれないが、土地は74坪。坪単価は110~120万円なので土地代は8,500万円。建物は140平米と普通ではあるが、鉄筋コンクリート造り。建設の時は、コンクリミキサーが来ていた。そしてリフォーム住み。平成4年1月完成だが、法定償却年数は47年だから、まだ新品同様。上物4,000万円と評価すれば1億2500万円。約1,000万円のお買い得。たぶん、端数を切って「ちょうど1本で」ということになるかもしれない。

実は以前、近くの高層マンションに住んでいたので、彼の家にはいつも2台のイタリア車が置いてあったのを知っている。電動シャッター付き車庫2台というのが「ウリ」の一つだ(実は今、電動シャッター付きの家に住んでいて、問題もあるが言わない。)。

なぜ、彼がこの家を売るのかよくわからないが、だいぶ前(現役中)から東京都内に住んでいる。娘の私立学校へ通学するため都内に引越した、という噂だった。不動産価格が回復してきたということなのだろうか。あるいはまとまったおカネが・・

彼の野球人としての経歴を見ると、2000年に2000試合出場と2000本安打を放っている。トリプル2000。ただし、安打記録は2006まで。この年、退団し2001年からはテレビ東京解説者。そして再びユニフォームを着たのは2005年。楽天打撃コーチとして。しかし、当初1軍コーチだったが成績不振で2軍コーチに降格。そしてシーズン終了とともに退団。テレビ東京、TVKテレビの解説者というのが現職。

現役の時は、「満塁男」と呼ばれる。満塁ホームランをよく打つ。プロ入り初打席ホームラン(1983年)の記録を持つ。もう一つの記録は「FA宣言して巨人から他チームに移籍した唯一の選手」でもある。

ところで、この売り出されている家から徒歩5分くらいのところには、桑田投手が買ったものの、いずれ手放すしかなかった豪邸もある。さらに、サッカーの井原氏(アジアの土壁)の豪邸もニュータウン内にあり、みんな知っている。

さて、もしも駒田邸を買い叩きたい方は、三井不動産販売の方へ連絡していただければいいのだが、ご成約の際は、私にも仲介手数料を1%くらいはお願いしたいものである。
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決断の遅過ぎた人たち

2006-06-25 00:00:08 | スポーツ
5c2a7ddc.jpg金曜朝4時開始の試合を見るため、前夜早めに眠り、さらに寝過ごした場合に備え、念のためビデオをセットする。民放のチャネルがよくわからないので、「全64試合生放送が売りのNHK-BS」を予約しておく。ビデオ始動の音で目が覚め、テレビを見ると、BSはオーストラリア×クロアチア戦を流していた。危なかった・・・

5c2a7ddc.jpgこのビデオを翌日観ると、日本×ブラジル戦とはまったく違う種類のスポーツのように感じる。要するに中央突破の体当たりとかロングボールの着地点で勝負している。喩えに使っては「重大なばちがあたる」かもしれないが、テポドン撃墜のため日本海配備のイージス艦が発射直後(あるいは直前に)に撃ち落す方式が日本やブラジルやイタリアのようなスタイルで、落下予想地点でペイトリオッツで迎撃する方式がクロアチア×オーストラリア戦ということ。日本が苦戦したのもこのあたりの対応がとれなかったことだろう。ジーコは案外、決勝トーナメント1回戦であたる隣りのグループE(イタリア・ガーナ・チェコ・アメリカ)を見て選手を選んだのかもしれない。

予選を振り返れば、ブラジルが3勝したのは予想どおりで、それを除いた3チームの対戦結果をみれば、勝負がついたのは日本×オーストラリアだけ。つまり、初戦の最後の8分を守る(あるいは1点だけにして引き分ける)ことだけしかなかったのは、誰しもそう思うだろう。交代選手が意味不明と思ったのは、当事者の選手の方も同じだったではなかったか。中田ボランチが上に行ってしまって守備力は落ちた。決勝1回戦のイタリア×オーストラリアは「逃げ切るにはどうすればいいか」という良い参考例になると思うが、帰国した代表選手が冷静にテレビを見るとも思えない。もちろん、試合前にシュート練習するというのも「決定力がない」ということを公言するようなものだから作戦が単純すぎる。

そしてプレー以外でも問題がある。まず、ユニフォームが暗い。暑い上にさらに暑苦しい。参加チームの中で最も暗い色ではないだろうか。あの色では、体が小さく見える。忍者の服は黒だと思われているが、伊賀で確認したら濃紺だった。忍者戦法?!。輝かしい歴史などないのだから、もっと体が立派に見える色やデザインに変えるべきだ。たとえば、明治大学や慶応大学ラグビー部のような太い横縞がいいかもしれない。

選手のヘアスタイルもおかしい。五分刈りや短髪で怖そうに見えるのは人相が悪い選手だけで、日本で顔の怖いのは、監督だけだ(あえて言えば、落選した大久保は顔は怖いが、背が低すぎて外国人からは顔がみえない)。優しい顔で坊主にすると、高校野球みたいになる。もっと長髪とかパーマとか染色とかして、大会当日は別の色に染め直して、相手を混乱させるとかやらなければ。

そして問題の監督のことだが、実際には、監督を選んだ上、首にしなかったサッカー協会の失敗になる。その前に、アジア予選を振り返る。

一次予選グループ3
 04-02-18 オマーン戦    1-0 ○
 04-03-31 シンガポール戦 2-1 ○
 04-06-09 インド戦      7-0 ○
 04-09-08 インド戦      4-0 ○
 04-10-13 オマーン戦    1-0 ○
 04-11-17 シンガポール   1-0 ○

 早い話、いきなり第一戦のロスタイムの久保の前にボールが転がってこなければ終わりになっていたかもしれないわけだ。インドを除けば、全部1点差で「得点能力に問題がある」ことは自明だ。最終シンガポール戦にジーコはオールドネーム達を出場させようとして、大目玉を食らったが、後で考えれば、優秀な再雇用人材を発掘できたかもしれない。

二次リーグB組
 05-02-09 北朝鮮戦   2-1 ○
 05-03-25 イラン戦   1-2 ×
 05-03-30 バーレン戦  1-0 ○
 05-06-03 バーレン戦  1-0 ○
 05-06-08 北朝鮮戦   2-0 ○
 05-08-17 イラン戦    2-1 ○

要するに北朝鮮を除く3チームの中で、バーレンに2勝したからよかったようなもので(内1試合はオウンゴールの1点で勝)、相変わらずの低得点、辛勝パターン。この段階で、ジーコの理想のサッカーとはかなり方向の違うチームであることがわかっていたはずだ。日本はブラジルではない。シュートをゴール方向に80%の確率で打てるストライカーはいないわけだ。

弊ブログでは、何度かワールドカップへの道のりについて書いている。

 04-10-15 一次予選突破
 04-10-15 OB集団引退試合に”待った”
 04-12-19 監督探しは?
 05-02-11 ジーコ最後の日(ではなかった)
 05-03-29 北米大陸にGO? かな?
 05-04-06 ジーコの悪運に乗るだけでいいのか?
 06-03-01 世界で最もサッカーの上手な通訳は

一貫して、ジーコ交代論を書いている。サッカーは団体戦だが個人の能力が必要なのも事実。全体的には個人能力重視は必要なのだが、試合の中の戦術というのは同時に一貫性がなければならない。二次リーグで負けたイラン戦は1-1に追いついた後、守りに入った選手と攻めに出た選手がいてバラバラになった。本戦オーストラリア戦の最後やブラジル戦の前半の終わりのところもそうだ。作戦は監督が指示しないとゲームにならない。

世間でも2004年後半から2005年前半はジーコ交代論のもっとも強い時期だったが、2005年6月3日のバーレン戦の悪運(オウンゴール)にめぐまれ、世界最初の代表決定国になってしまう。

もし、負けたバーレンのようにB組3位になっていたらどうだろう。
A組3位と対戦し、アジア5位となれば、北米4位と対戦し、最後の枠を争うことになっていた。

 05-10-08 バーレン×ウズベキスタン   1-1 △
 05-10-12 バーレン×ウズベキスタン   0-0 △
 05-11-12 バーレン×トリニダードトバコ  1-1 △
 05-11-16 バーレン×トリニダードトバコ  0-1 ×

そこまでジーコが監督をやっていただろうか?クビだったかもしれないし、案外、決断しなかったかもしれない。

なにしろ、日本は個人責任を嫌う国だから、ジーコをクビにできなかったのだろう。それに、川淵会長も「顔見知り」を解雇するのは気が引けたのだろう。一方、韓国はご存知のとおり、1大会につき2、3人は監督が替わる。なにしろ元大統領達を平気で逮捕して監獄に放り込む国だから監督の首も韓国海苔の如く軽い。

しかし、二次リーグの最初の頃、ヒディングはブラブラしていて、「監督を解雇する国」を待っていたわけだ。さらに、2002年まで遡れば、フランク・ライカールトがいた。ちょうどオランダ代表監督をクビになっていたところだ。彼は、現在バルセロナの監督でリーグ優勝を花道に今後の契約は未定だ。

話を戻すと、日本で、監督をシステマティックに解雇(あるいは起用)するには、個人の権限ではなく、「横綱審議会」のような有識者による「監督審議会」が必要なのだろうと思う。そして、重要な大会の節目ごとにチェックする。委員の総意として、「監督に辞職を勧告する」、というような組織だ。国民投票の代わりだ。

5c2a7ddc.jpgとはいえ、誰が審議委員になるべきというのも問題はある。日本が負けた方がいい、と思っている人はほとんどいないだろうが、野球側委員(読売のドンとか)がいるとまずいだろう。特定の家電メーカーとかスポーツ用品メーカーも公正さを欠けている。監督審議委員を決める委員会も必要なのかもしれない。何か「責任回避と利益誘導」というのは日本人のネガティブな部分だ。

ついでに言えば、ジャーナリズムにも罪がある。ちょうど私がジーコに悪態を書いている時、各紙とも同じような批判を書いていたのに、本戦出場が決まるとジーコ礼賛派に変身。負けると総攻撃だ。ある新聞は一面では”ジーコ路線(個人主義)継承を”とジーコ擁護なのにスポーツ面では「ジーコ批判一色」。さらにトルシエや岡田といった前任者まで登場させ、豪華版ジーコ批判を展開させている。ちょっと・・・
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藤堂高虎家訓20箇条(13)

2006-06-24 00:00:20 | 藤堂高虎家訓200箇条

高虎は大男だったそうだ(185センチ)。それにしてはたいへんに気が細かい。もっとも家康だってそういう性格だったような気もする。高虎は豪族の出で、勝ち馬に乗り継いで大大名になったのだが、家康は元々大名なのだが、人質になったりして人間を裏から眺めるのに長けているのだろう。キツネとタヌキというところなのだろうか。やはり時代に登場するのが15年遅かったのだろう。

ところで、上野城の新天守閣一階に高虎の姿を描いた資料が複数展示されている。おそるべき「ぶおとこ」である。サッカー日本代表元監督ジーコの下頬を膨らませたような人相である。NHK大河ドラマに採用しようとしても、起用する役者が絶対にみつからないだろう。


第121条 大事の聞書ハ文字ふとく可書年寄て重宝なり若キ内ハ細字にても読なれ共年よりてハ不見故詮なき事なり

大事な聞き書きは文字を太く書くべし。年をとってから重宝する。若いうちは細い字でも読めるが、年をとると見えなくなる。どうしようもないことだ。

何というべきか・・家訓に書くまでもないとは思うが。年をとるとどうしようもない事はいくつかあるのだが、その他のことは書かなくてもいいのだろうか。それともそのうち登場するのだろうか。

第122条 若き内ハ諸芸何にても習ふへし捨ハ可安盗人の仕様をならへハぬすまれぬ用心の為に成へし

若いうちは色々な芸を習うべきだ。捨てるのは簡単である。盗人のやりかたを習えば、盗まれない用心のためになる。

高虎さん、例が悪いのではないだろうか。それとも盗人修業もしていたのかな。得意の城造りを例にした方が高尚となったような気がする。事実、城攻めの達人だから城造りの達人になったわけだ。


第123条 諸芸習ふとも一旦にすべからす自然に不絶すへし一度ハ仕覚へし必芸珍敷思ひ一たんに習ふ共捨る事可早いつも不絶すれバ上手に成もとひ可成

諸芸を習うにしても一時にするべきではない。自然にして、やめないようにすべきである。一度は習って覚えるべし。必ず、芸を珍しく思い、一時に習うと捨てるのも早い。いつも絶えないようにするのが上手になる基である。

こどもの教育では悩んだのかもしれない。月曜はサッカー、火曜は英会話、水曜はピアノで木曜はそろばん、金曜には剣道にいって、土曜は将棋教室とか・・
老人用通所介護(デイケア)のメニューもそんなものだ。


第124条 物事急成ハ後悔多しねれたる思安に尤の事後悔有へからす

物事を急ぐのは後悔が多い。練れた思案に後悔があることはない。

「練れたる思案」というのが、いい感じの表現だ。最初、「ぬれた思案」だと誤って読み下していたのだが、「濡れた思案」というのは陰湿感を表現するのにはいいかもしれない。


第125条 人をだます事なかれ真の時無承引仮初のされ事成とも大事の節も筈にあふ間敷也是深く可慎

人はだましてはいけない。真実のときに承諾が得られない。仮初のざれ事であっても大事な時に役に立たない。深く慎むべし。

いわゆる狼少年のことだ。しょっちゅう警報を発する火災報知機のような話か。選挙の公約はいくら嘘をついても、もともと信じられていない。


第126条 惣両人をあなどるへからす一寸の虫にも五分の魂有といふいかやうの知者をもしらすふかくを取事多し第一人を大小によらす見下すへからす

人をあなどってはならない。一寸の虫にも五分の魂があるという。どんな知者であるかわからないので不覚をとることがある。第一には人を大小によって見下すべきでない。

明智光秀のことだろう。大小とは体の大きさではなく、位や身分の上下を指す。


第127条 徳意斗を好むもあしく損する道も可有むさと損を好むハうつけ成へし徳する道あらハ徳にましたる事あらしさあれハとてしハき斗にて世は不立損すへき道にて損をいとふへからす折品によるへし

得なものばかりを好んでも損をすることもある。わけもなく損を好むのは馬鹿者である。得する運があれば、得になる方をすべきだ。そうはいってもけちばかりでは世の中はなりたたない。損する道で損をいとってはならない。その時による。

投資家心得だ。あるいは、設備投資をするときの心構え。ただし、「その時による」というのでは無責任な言い方かもしれない。


第128条 常に身不省を堪忍すへしされ共物によるへし一篇に心得てもあしかるへし

常に、身の不省をがまんすべきだ。されども、物にもよる。そればかり心得てもよくないだろう。

たまには、財布をはたいて、吉原で置屋一棟総揚げでもしたらいい、ということだろうか。たまにならいいのだろう。


第129条 人よりの異見ハ悦て可聞よく思ハねば不可言我か人に異見を言心さし可成かまハさる人にハ異見言へからすさあれハ深く敬ひ用る事可為本意異見不用ハ二度いふへからさるものなり

人の意見は、喜んで聞くべし。よく思わないなら言うべからず。自分が人に意見する気持ちである。構わない人には意見を言うべきではない。とはいっても意見を深くうやまい用いることは本意である。意見を用いない時は、二度言うものではない。

意見を聞いて、怒るようではだめだ。逆に、意見を言っても聞いてもらえないようなら、何度もいうことはない。無駄だ!。主人を変えろ!ということだろう。そう思って、この家訓も読むべし!か・・・


第130条 人に物を言共繰返し繰返しくとくといふへからす聞にくきものなり

人に物を言うのに繰返し繰返しくどくど言わないこと。聞き苦しいものである。

くどくどいうのも聞き苦しいし、くどくど言われるのも聞き苦しい。公務員削減みたいな話だ。

つづく

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カール・ユーハイム物語(最終神戸編2)

2006-06-23 00:00:15 | カール・ユーハイム物語
073e1577.jpg(4)カールユーハイム終焉の地
第二次大戦の末期、神戸は大空襲を受ける。重要港湾であるとともに、川崎グループの造船所などの軍需産業があったからだろう。昭和20年(1945年)6月5日の大空襲で、神戸市内は大破壊され、ユーハイムズ本店と工場は焼失する。したがって営業困難となり夫妻は六甲山にある六甲ホテルに疎開する。長女ヒルデガルトは既に大正15年に病死し、長男カールフランツ(ボビー)はドイツ軍潜水艦で日本を経ち、ドイツ軍兵士として東部戦線で従軍(実はドイツ降伏の2日前、5月8日にウィーンで流れ弾にあたり戦死したのだが、その報を夫妻は知らなかった)。

一方、カールはしばらく前から心身ともに衰弱。原爆投下の報を聞き、さらに8月14日午後6時、「神様か、菓子は」という言葉を残し、六甲ホテル「XXX号室」で永眠する。玉音放送の18時間前である。

073e1577.jpgこの話も「カールユーハイム物語(頴田島一二郎)昭和48年」に記されているのだが、実際には日本がポツダム宣言受け入れを打電したのは、日本時間で8月14日の午前11時である。神戸の外国人たちは独自のネットワークで情報を交換していたらしいので、カールは亡くなる前に終戦を知っていたかもしれない。


そして、当時の六甲ホテルは現在は六甲山ホテルと名称を変えているのは知っていたのだが、さらに調べると戦前のホテルは旧館として、そのまま客室に供しているということである。ということは・・


どうも、表から頼むと、このホテルは眺望の絶景さから、超高級単価なのであるが、実際はあいている時には割安ルートがありそうである。特に6月は梅雨の季節。眺望も期待できない。元日本生命課長が「給料が高すぎて申し訳ない」と退職して、最初のベンチャーに失敗するも二つ目のベンチャーで大成功したホテル予約サイト「一休.COM」で検索すると、新館ツインのシングルユースが東横イン価格で予約できた。営業妨害になるので、ここに部屋番号は書かないが、カールの亡くなった部屋も知っているのだが、さすがにその部屋に泊まろうという度胸はない。


最寄のJRと阪急の駅からの送迎バスで曲がりくねった道を上り続けて山頂768メートルの場所にホテルはあった。途中で何度も気圧減少で耳が痛くなる。何らかの邪道目的のためにホテルを使用しようと思うカップルは酸素マスクを持っていったほうがいいかもしれない。救急車もすぐにはこないだろう。そして、幸運にも六月の神戸の夜は快晴であり、屋上展望台からの夜景はかなり最高だ。夜景について余計な言葉を並べるのはやめる。

073e1577.jpg
8月14日の夜、亡くなったカールは、すぐに医師により死亡診断書が書かれ、翌日葬場で荼毘に付されるのだが、この山の上では、すべてが困難を極めただろうと思われる。エリーゼは骨壺を背中のリュックに背負ったまま、青谷にあった自宅に戻り、夫妻にとっての戦争は文字通り終戦を迎える。


(5)芦屋霊園
その後、エリーゼは、いったんドイツに帰り、行方不明の長男の戦死を聞くのだが、まもなく再来日し、ユーハイムを復活する。その後、昭和37年3月に経営不振に至り、マチキンからの多額の借入金が返済不能に陥り、乗っ取りの危機が迫る。その時、エリーゼ夫人からの懇願に応じ、代表取締役専務として取引先バター会社社長からユーハイムの経営を肩代わりした河本春男が一年で高利貸しに借金返済、以降、中興の祖となる。昭和46年5月2日エリーゼは神戸六甲で永眠。「カール・ユーハイム物語」では芦屋霊園で一つの墓に眠る、と書かれている。また、河本春男氏の著書「その気になれば-ユーハイムの年輪(玄同社)・昭和56年」の中でも「芦屋霊苑に眠る」との記載がある。

ところが、それが気にかかる。神戸にはれっきとした外国人墓地がある。調べると、ユーハイムの商売敵のモロゾフ氏は外国人墓地に眠る。なぜ、神戸ではない隣町の市営墓地にユーハイムは眠るのか。

私は、神戸外国人墓地の事情が影響したのだろうと推定する。元々、神戸外国人墓地は手狭で一ヵ所が二ヵ所になり、さらに、墓地不足のため、昭和36年に現在の場所に移転集約している。ユーハイム家が最初に墓地を必要としたのは長女ヒルデガルトが亡くなった大正15年か、カールのなくなった昭和20年かのいずれかだったはずだが、神戸の外人墓地に空きがなかったのだろうと推定する。ただし、現在、神戸の外国人墓地は一般に公開されていない。親族が事前に連絡を取った場合のみ門を開くことになっている。となれば、もはや訪れる親族のいないユーハイム一家にとっては、オープンな市営霊園で、たまに訪れる好事家ブロガーの到来を待つほうが幸せなのかもしれない。などと考え、芦屋駅から阪急バス12号線に乗る。

予想通り、バスは長い坂道を登り、霊園に着くが、墓地は階段状に山の中腹まで広がる。無駄な労力は使わず、管理事務所で場所を聞くが、およその場所は管理員の方の記憶の中にあるのだが、特定できない。どうも、管理費を親戚が払っていないからリストには日本人の名前しかない。そのうち、「河本」という元社長の名前に目がとまりやっと特定できた。霊園の有名人リストのノートに「村山実」「中内功」と並んでリストアップしておくように依頼しておく。

073e1577.jpgそして、山の中腹、向かって左端のほうにある41区-13号(41区のかなり上の方)にユーハイム家は眠っていた。美しい御影石の墓石である。正面には、こう刻まれている。「平和を創り出す人達は幸いである」。文字はすべて日本語で、カールとエリーゼ名前と生と死の日付が刻まれる。背面に回ると、思ってもいなかったカールフランツ(長男ボビー)とヒルデガルト(長女)の生と死が刻まれれていた。カーネーションを2本しか用意していなかったので、思わず謝るしかない。向かって左側の側面には、1964年建之と刻まれ、小さく(株)ユーハイムと添えられる(墓に会社の名を刻むとは、不吉な気もするが)。つまりエリーゼがなくなったのは1971年なのだから、この墓石は既に完成していたわけだ。ボビーは妻も子もいたのだから、本来ドイツに墓があってもよさそうなのだが、何らかの事情があるのだろうか。もちろん、芦屋でも十分にふさわしい場所だとは思える。

そして、個人的に続けてきたカール・ユーハイムの追跡も、ここ芦屋の丘陵中腹にて終了することにする。

 了  
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カール・ユーハイム物語(最終神戸編1)

2006-06-22 00:00:40 | カール・ユーハイム物語
バウムクーヘンの王様、カール・ユーハイムの人生については、2006年1月18日から8回にわたり書いたのだが、さらに補足するため神戸へ行った。筆を置くにも、書き残しは嫌だから。

0acdb6ee.jpg(1)メリケン波止場
ユーハイム一家にとって神戸の桟橋には二回の想い出がある。一度目は、カールが第一次大戦のドイツ人捕虜として中国青島で拘束され、1918年まで5年間捕虜収容所に拘束され、戦後解放されたあと、東京の明治屋のレストラン部門「カフェ・ユーロップ」の菓子部門責任者として日本在住が決まってから、中国青島にいた妻子(エリーゼとカールハインツ(ボビー))を出迎えた場所だ。1919年1月25日07時00分神戸着の二人をカールは桟橋で4時間も待たせてしまう。東京から特急に乗らずにケチったため、遅刻してしまう。

そして、二度目は1923年の関東大震災の時。横浜へ出店して2年目のユーハイムの店は倒壊。さらに混乱状態の中、長男のボビーは行方不明になる。失意の夫婦は生まれたばかりの長女ヒルデガルトと三人だけで横浜を外国人専用避難船で神戸に脱出。しかし、奇跡的にボビーは4日後、フランス人女性の尽力により横浜脱出。神戸港で毎日こどもの帰還を待つ夫妻の前に現れる。

0acdb6ee.jpgその歴史あるメリケン波止場も、昨今の船舶大型化の結果、桟橋間の海面を埋め立てられ四角い土地のメリケンパークとなる。つまり、桟橋があったのは、この広場の東側と西側の部分で、中央部分は海だったはずだ。そして、西側にはポートタワーという物体が立っているのだが、どうみても横浜のマリンタワーのコピーのように見える(このように、神戸と横浜は多くの共通点があるのだが、後で作るほうが「マネ」をするのは、やめたほうがいい)。

ところで、このメリケン波止場の語源だが、メリケン=アメリカンである。つまり神戸はアメリカときちんとつながっていたのである。「赤い靴」の論考の中で、金田一春彦先生が、”横浜は米国とつながっていて、神戸は欧州とつながっている”と言ったとされるのは、日本郵船、東洋汽船といった日系船社の旅客便に限った話であって、外国船社や貨物便は横浜経由でアメリカに向かっていたし、さらには明治末期の移民船などは神戸から直接、南米に向かっている。

0acdb6ee.jpg(2)カール・ユーハイムの店舗(1930年)
頴田島一二郎氏著「カールユーハイム物語」によれば、震災の後、途方にくれたカールは、たまたま知人であったロシア人舞踊家アンナ・パブロバに出会い、彼女が所有していた三宮の一等地に「ユーハイムズ」の店舗を開店する。さらに経営が軌道に乗ったところで裏手に工場を建てる。店舗の写真は実在するし、古い番地は三宮町1丁目309番地ということで、近くには電停レンガ3丁目という市電の停車場があり、生田署も近くにあったことになっている。

0acdb6ee.jpg神戸に行く前に色々検討したところ、三宮駅の北、今の東急ハンズのあたりではないかと思っていたのだが、念のため神戸市立博物館(入口にロダンによる男性ヌード像があってちょっと恥ずかしいが)で古地図にあたると、どうも全然予想と異なっていて、駅の南側で三宮駅と大丸の中間あたりで、微妙に市電が小カーブするところのようである。裏の方には、今は移転した生田署もあったようだ。現在、神戸信金の小さなビルが建っている場所を第一候補として、となりのブロックの高層の朝日ビルを第二候補にしておく。

そして、気付いたのだが、横浜での最初の店舗も旧外人居留区と日本人居留区の接点の部分に店舗を開き、神戸でも外人居留区と日本人居留区の接点の場所に店舗を開いていることだ。マーケティング上、最高の立地であったわけだ。外国人でも日本人でも入りやすい店というわけ。

(3)ユーハイムの店舗(現在)
0acdb6ee.jpg三宮側から元町商店街に入ると、横浜の元町と違って、商店街に屋根がついていた。したがって、全体にちょっと暗い。すぐに左側に渋い色調の外壁の「ユーハイム本店」がある。(ユーハイム(株)の本社ではない。)

店内には、色々な新製品が並んでいて、たとえばバウムクーヘンでも上中下や極上まである。創業時に有名だったバウムクーヘンの量り売り(実際には切り落とされたものがグラム売りされている)もある。喫茶コーナーは二階にあり、コーヒーとバウムクーヘンのカット切り生クリーム添えを頂く。2階店舗の一方の壁面には古いドイツ人のポートレートが並ぶが、ユーハイム家の家族のものと、そうではない一般ドイツ人の写真がまざっている。その中で、絶対に見逃せないのが、向かって右端にあるちょっと大き目の額に入った、中央にエリーゼが椅子に座り、その隣にボビー少年が立っている写真だ。ボビー少年のその後の悲運とエリーゼの人生を思い出すと、一気に悲しさが湧き出してくる。残された写真は残酷だ。

次回は、カールの最晩年。  
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千葉詰将棋、「バ」の修正

2006-06-21 22:35:54 | しょうぎ
4a590ca5.jpg近作で、千葉曲詰出題したが、「バ」の方に余詰があるということが、livedoor側の読者の方と、goo側の読者の方から指摘を受ける。

とりあえず、自信はあまりないが、修正作を作る。曲詰の場合、形がイノチなので、修正も困難なことが多い。とりあえず、盤上の受け方の3五香を3五歩に変える

ただし、嫌なことに最後のところで「変化2手長駒余り」という詰将棋党だけが知っている形になりそうだ。一応2手長の場合は、玉側は駒が余らないように逃げることになっている。4手長は不完全作と言われる。  
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西日本駅事情の一部

2006-06-21 20:19:34 | 市民A
今週、月・火と西日本に仕事ででかけていて、数時間前に横浜に帰宅。ついでに週末に「伊賀忍者のふるさと」&「松尾芭蕉のふるさと」&藤堂高虎の領地である上野(伊賀上野)に行く。さらにある人の墓参りもかね神戸周辺に行く。その他数箇所ウロウロ。

そのあたりの事情は、近日中に触れることとして(なにしろ今夜は疲れているので)、まず、駅のエスカレーターの右空け、左空け問題から。ようするにエスカレーターを急いで歩く人のため、文明国の多くで自主的に採用されている、片側をあける制度のこと。よく言われるように、「大阪は左空け」で「東京は右空け」というが、本当のところはどうだろうか。

観察した結果なのだが、確かに「大阪は左空け」なのだが、例外がある。それは「新大阪駅」。ここは「右空け」なのだ。(いいかえると、「新大阪は大阪ではない」のかもしれない。

では、「関西が右空け」かというと神戸は大阪と同じだった。が岡山まで行くと東京と同じ左空け。そして名古屋と言えば、それ以前の問題というべきか、方側を空けるという文明社会の約束が守られていないのである。ルールなし。


もう一つ、大阪で驚いたのだが、初めて聞いたカードがあった。「ICOCA」カードと「PiTaPa」カード。どうもSuicaのようにタッチすればいいらしい。「イコカ」とか「ピタパ」とか、とかく大阪人のネーミングは即物的である。ちょっと気分が暗い日など、大阪人と付き合うと骨まで疲れそうだ(愛国心ということばが意味する国や文化が西日本型だとしたら、私は絶対に国は愛せないと思う)。

どうも、ICOCAがSuicaと同じ機能なようで事前チャージ型、PiTaPaは後払いのクレジット型のようだ。イコカがJR西日本でピタパは阪急筆頭に私鉄用だ。ところが、一部互換性があるらしい。つまりイコカはピタパと相互互換性があるらしく、さらにイコカはSuicaエリアでも使えるそうだ。では、逆にSuicaがイコカエリアで使えるかどうかはまったくわからない。なんとなくイコカが便利そうであるが、さらにどうも「スルットカード」というのもあるらしい。これもずいぶん即物的ネーミングだ。

そして、新横浜駅に帰ってきて、エスカレーターでどちらに寄ればいいのか、悩んでしまったのである。  
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千葉涼子女流王将タイトル防衛記念詰将棋

2006-06-20 00:00:14 | しょうぎ
d575f9c6.jpgまず、局面の駒の配置が「チ・バ」って何?

もしかして「千葉?」

6月13日東京で行われた、女流王将戦五番勝負第五局。千葉涼子女流王将が挑戦者の中井女流六段に勝ち、3勝2敗でタイトル防衛に成功。負ければ肩書きも王将から三段に急降下、そして収入も急降下。途中○●●○○の経過は、タイトル失冠と誰しも思っただろうが粘った・・・

そして、なぜ、記念詰将棋が・・

実は、妙な理由がある。

本来、この妙な形の駒の配置の詰将棋は「曲詰(きょくづめ)」という。文字や形を表現したもので、この「チ」と「バ」の2題のように「初形」を文字にする場合と、最後に詰め上ったところが文字になる「あぶりだし型」とに分かれる。どちらが作図上難しいかは、何ともいえない。まあ、今まで作ったことはなかったのだが、ある事情で創ることになった。

実は、その事情とは千葉さんとは何の関係もない。ず~と以前、3年間千葉の学校にいたことがあり、毎年、東京地区の全体同窓会があるのだが、将棋好きのアマ高段の友人から相談があったわけだ。その方は、今年の幹事に名前を連ねているそうだが、何か30分間の時間つぶしタイムがあるらしく、「余興」を探していたわけ。最初は、将棋部の現役部員と対局という、恥知らずを考えていたらしいが、色々と師匠筋の違いとか難しい話になるのは必定。

だいたい、私自身は、同窓会に出る気がないので、その友人が一人で解説できるように、「詰将棋の展示でも」ということに酒の上の話が進んでしまった。といっても、余興なので、その学校の地名である「千」「葉」というのを文字にしてと口走ったのが命取りになり、しかたないので早めに作ってみたわけだ。

ところが、

企画はとりやめになったらしいのだ。宙に浮く「チ」と「バ」。成仏できず。

で、無理やり棋界きっての才媛、千葉涼子さんのためということになったわけ。

ところで、千葉さんは、残念ながら数年前に結婚し、元の碓井涼子さんから千葉涼子さんになってしまった(旦那は若手棋士なのだが、「碓井涼子の夫」と呼ばれるのが嫌で、新妻に苗字の変更を迫ったそうだ)。もし、先に「ウ・ス・イ」という詰将棋を創ったのに、名前が「チバ」に変わったら、・・・ それこそガッカリだ。

その場合どうすればいいかだが、自分の魅力に自信があるのなら、チョッカイ出して、離婚に追い込むのが早道だ。が、ナンパの自信がないならば、元女流名人&中原元名人の元恋人&元ミステリー作家&元豊胸手術を受け&写真集を出版した、元警察官の娘で現在タロットカード占い師の38歳の女性を相手に、練習してみるのがいいかもしれない。

さて、詰将棋の方だが、「チ」の方は短い。普通の捨て駒一回。「バ」の方は途中の香打ちが、限定打となることに注意が必要。どちらも芸術的ではないのが残念。どちらも双玉型にして、飾り駒なし、というところにこだわりだけはある。

1問だけでもわかった(と思った)方は、手数と最後の手をコメントの方へ。「チ」の方の解答は早めに発表(解説)予定。

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「和菓子で楽しむ道中日記」展(とらや)

2006-06-19 00:00:38 | 美術館・博物館・工芸品
94f79b5b.jpg展覧会が終わってから書くのは心苦しいのだが、5月17日から6月16日まで、赤坂の老舗和菓子店(というか羊羹屋というべきか)「とらや」の2階ギャラリーでささやかに開かれていた「和菓子で楽しむ道中日記」へ最終日に行った。なにしろ当日知って、当日行ってすぐに終了。「とらや」にギャラリーがあるなど知らなかったのだ。

さて、要するに全国の和菓子を並べるだけではなく、各種の旅行記に登場する話を元に、現存する和菓子(老舗)や、再現した和菓子が展示されていた。こうやって、あるテーマで展示すると、色々と見えてくる。有名なのは「東海道中膝栗毛」であるが、これは菓子に限らず、食べ物一般や道中の風俗を描いたものである。さらに、ガイドブックのようなものもあって、各地の代表的な食べ物や名所が宣伝された書物も多い。

そして、意外にも食べ物に特化した日記も多い。そういうものが展示されていたのだが、こと食い物は、身分の上下も男女の差もない。うまいものはうまいと書くし、まずいものは遠慮なくこき下ろしている。将軍では綱吉、大名では蜂須賀家の参勤交代記、大名藩主夫人や連歌師、狂歌師、医師・・・・

その中でも、この展示会最大の健啖家は、「田中国三郎の道中日記」だ。なにしろ豪快である。弘化二年(1845年)24歳の時、江戸から西へと出発(余談だが、この弘化という年号、赤い靴のきみちゃんの祖父の生まれた年号だ)。まず、この男、百姓なのだ。なのに姓を田中と名乗っている。さらに江戸といっても武蔵野国喜多見村(田園調布ということ)。末裔は農地解放で大金持ちかもしれないが、まだ江戸時代だ。出発は1月22日。一応農閑期だ。東海道を西に向かいながら、大好物の甘味道中である。2月10日頃伊勢参りをしたあと、さらに和歌山から大坂へ抜ける。確かに東国より西国の方が食べ物は甘い。

ところが、帰らないのである。さらに船に乗って丸亀に渡り、金毘羅さんへ行ったあと、伊予の国へ行き、道後温泉に浸かる(坊ちゃん饅頭はまだない)。さらに再び船に乗り、岩国錦帯橋まで行ってから山陽路を戻る。同じ道を帰りたくないのか、中仙道から信濃へ行って伊香保温泉によってから帰着。4月18日になっている。苗床作りにやっと間に合った。約3ヶ月の旅中、143の菓子を買っている。ブログを書かせてみたいもの。

それで、わかってきたのだが、和菓子の一つのパターンは道中のエネルギー補給という意味があるのだ。だから、餅が多い。そして、多摩川(六郷川)をわたると、必ず食べるという「米饅頭(よねまんぢゅう)」というのが、最近復活したことを知る。さらに、「とらや」のホームページは、一見つまらないが、よく読むと古今の有名人のお菓子の話がまとめられているコーナーがあって、なかなか楽しい。

次回は秋に展示会があるらしいので、今度は初日にでも行ってみたい。

94f79b5b.jpgところで、「とらや」と言えば思いだすのが、数年前の汚職事件。「とらや」とはまったく関係ない。ある茨城県の市長の執務室に土木関係業者が挨拶にくる。手土産は「とらや」の羊羹。1本5000円くらいのだろう。新規工事について差しさわりのない話のあと、市長は自宅に羊羹をもって帰り、妻に緑茶を入れてもらって、二人で羊羹の箱をあけると・・・

中には、羊羹ではなく「100万円」が・・・

お茶を飲んで、熟慮の末、返還を決めたそうだ。  
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赤い靴を追いかけて(7)

2006-06-18 00:00:56 | 赤い靴を追いかけて
さて、私はきみちゃんが明治38年から明治39年にかけて、ヒュエット夫妻と欧州、米国、そして日本と1年強をかけて世界一周したのではないかと思っているのだが、ということは、日本人女性として最初に世界一周をしたのではないか、とも考えているのだ。もちろん明治も39年にもなれば、海外とも多くの交流があるのだが、目的地と日本を往復するというのが一般的であり、世界一周というのは、ある意味で「旅行」という要素になってくる。当時の日本で考えれば、女性で世界一周旅行をするような状況だったのだろうか。

しかし、この仮説を証明することは難しい。逆に世界一周した女性の記録があれば、一号ではなかったことになる。そして確認しなければならないのは、明治4年(1871年)12月23日に横浜港を出航し、サンフランシスコに向かった岩倉具視、大久保利通、伊藤博文らの岩倉使節団のことである。一行の中に津田梅子はじめ5人の女性が含まれている。使節団は米国西海岸から大陸横断鉄道をつかいシカゴ、ワシントン、ニューヨークと視察した後、英国へ向かっている。その後欧州各国を歴訪したあと、スエズ運河を経由して明治6年(1873年)9月に日本へ帰国している。逆回り世界一周である。

実は、この岩倉使節団の世界一周であるが、彼らのコースが使えるようになってから間もない時期なのである。まず、米国の大陸横断鉄道が完成したのは1869年5月である。南北戦争のあと退役軍人の就職先がなく、ちょうど景気浮揚策として国家予算が投入される。そして実際の現場作業員としては中国人移民が多く従事していたと聞く。1866年に発明されたダイナマイトによって工事のスピードと工事犠牲者の数を上げていく。さらに、帰途に通過したスエズ運河も1869年に完成。ダイナマイトは発明後最初の3年間は平和利用によりさぞ巨額の利益をノーベルにあたえたのだろうと思ってしまう。つまり日本の使節団自体、世界の最新コースを使っているのである。

さて、この使節団には、5人の女性が同乗していたことが知られている。津田梅、山川捨松、永井繁、吉益阿亮、上田悌である。彼女たちは世界一周したのだろうか。実は否である。5人全員はワシントンで一行とわかれ、米国内に留学することになる。その先をいえば、うち二人(吉益と上田)は早々に病気を発病し、日本へ帰国。永井と山川はバッサーカレッジを卒業。一方、津田梅子は12年間にわたり米国に留まり帰国。その後、父親との折り合いが悪くなり、再度渡米し、フィラディルフィアのブリンマー・カレッジに再度留学。しかし、そのつど日本に帰ってくるのであり、世界一周コースには行っていない。(ブリンマー大学の少し下の後輩がイサム・ノグチの母である)


さて、ここまできみちゃんを追いかけてみると、どうしても100年の壁につきあたってしまう。麻布時代のきみちゃんの最後の3年間(6歳から9歳まで)についてはまったく、事情を知ることはできなかった。孤児院といっても、学校と教会と宿舎が一体化されているのだろうから、鳥居坂の東洋英和学園のあたりにいて、時々は外出もしていたのだろうと考えられる。



6e2da85e.jpg3年間の空白は埋めきれないものの、青山霊園に行ってみた。広大な墓地の中に二度目に鳥居坂教会の共同墓地を見つけることができた。墓地の中に入ると、逆にわかりにくい場所である。東京メトロ青山一丁目駅を出たところ青山通り沿いにホンダの本社ビルがある。そこを基点に青山通りと直角に六本木方面にむかう。道の左側に赤坂図書館があり、しばらく行くと、道の右側に青山墓地の外周の石垣が続く。そして数分歩くと、葬儀場の手前に、右側の墓地に上っていく小さな階段が現れる。3メートル程の高さの階段を上ると、墓地内なのだが、そこから5メートルほどのところに、鳥居坂教会の墓地がある。

墓地の正面には石碑があり、「キリストに在りて 世に勝ち召されて天にある 聖徒たちの碑」と刻まれている。石碑に向かって左側に黒い二枚の石板が並ぶ。向かって右側には上下二段にわたり58名の氏名が刻まれている。「佐野きみ」の名は上段の右から11番目である。一方、左側の碑には、現在のところ誰の名も刻まれていない。右側に刻まれた文字をよく見ると、何人かの書体にわかれている。おそらくある程度まとめてから石に刻まれたのだろう思われる。


6e2da85e.jpgところで、私は、教会の共同墓地にはどのような人々が埋葬されるのかよくわからないのである。きみちゃんが亡くなくなってから100年近い歳月が流れていることを考えれば、数年に一人ということなのだろうか。孤児院は相当以前に消滅しているし、また多くの人は個人で墓地を用意するものである。氏名を見ていると、めずらしい苗字の家族だろうと思える一族や、おそらくは夫婦であると思われる二人並んだ同じ苗字とかが見受けられる。実は、そのあたりの共同墓地に入ることの意味の糸口の一端は見つけていたのだが、今のところよくわからない。

というようなことを考えながら夕暮れの墓地に佇んでいた。きみちゃん以外の57人にとっても、無念でいっぱいの一人一人の自分史があったのだろうというような感情が涌いてきた。そして強いメッセージを体の内側から感じることになったのだ。


それは、左側の名前の刻まれないまま残されている、大空に向かう空白の石板からの力である。

「これ以上、不幸を背負ったまま亡くなっていく人たちがいないように」というアピール。


そして、「赤い靴を追う自分の内面の旅」も、いまだにいくつかの謎が未解決のままになっているのだが、「58名それぞれの自分史」、そして「空白の墓誌」を見ているうち、「もうどうでもいい」というような気分となっていた。


明治末期に世界に広がっていた大きなうねりの中で、翻弄された多くの人類の不幸を、少しばかりは思い続けるため、これからも時に私はこの青山の空間を訪れることにする。

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