完全に公園になった駿府城

2006-07-31 00:00:30 | The 城
739cfce7.jpg駿府城は、静岡駅から徒歩10分弱である。駅前の国道を渡ると商業地区になり、○I○IA館・B館や109といった渋谷風(渋谷のA館B館は西武。逆に静岡には松坂屋がある)の雑然とした街路の先に、オフィス街がある。一段と高いビルがあるが、それが県庁だ。そして、県庁は明らかに外堀の内側にある。残念パターンだ。東京もそうだ。外堀通りと内堀通りの間には官庁街がある。福井県は県庁が内堀の中にあるので、静岡はそれよりましか。

なにしろ、駿府城といえば徳川家康である。元々、今川家の本拠地であるが、家康にとっては、今川の人質になった時期。信長と盟友関係を結び、所領として与えられた時期。そして、江戸幕府を開いた後、秀忠に将軍を譲ったのに、この駿府城で大御所政治を行っていた時期と三度もここに居住した。

堀は、外堀、内堀に加え、本丸を取り囲み内側にもう一重あるという念の入れ方であった。現在、ここが城であったことを認識させるのは内堀の一部が残るからであるが、よく見ると石垣はかなり人工的に整備された形跡がある。総合的に考えれば、歴史的遺構を残したいのか残したくないのか、今ひとつよくわからない。おそらく、明治以降、旧徳川政府に対する評価が定まらないことから、妙なことになったのだろうが、日本の文化や精神の大部分は江戸時代に発達したものが多い。

739cfce7.jpgそして、史実では、家康が秀忠に将軍職を譲り、駿府城で大御所政治を行うとき、ご意見番であった藤堂高虎も静岡に移り住むことになる。彼は参勤交代の別枠だったのだろう。駿府城前の追手門の前に居を構えたと言われる。現在の追手門の前には何があるかだが、「市役所」と「警察署」である。警察署の敷地の方は若干狭いようなので、市役所の場所こそ高虎の屋敷であっただろうと思う。もちろん現代では、高虎の影はまったくない。

739cfce7.jpg内堀の内側は、現在は公園化していて、中には徳川家康公の銅像が立つが、ちょっと威張りすぎたスタイルである。某国の前支配者のような態度だ。さらにわからないのは、一角に「お手植えみかん」というコーナーがある。家康公が自ら植えたミカンの木とされるが、ミカンの寿命は400年もないだろうし、よくわからない。わからないといえば、このミカンの説明書きを読むと、さらにわからなくなる。要するに、隠居していた頃(これは違う。隠居などではなく「大御所政治」をしていたわけだ)に「紀州から届いたみかんの木を、本丸脇に植えた」と書かれている。さらに、「静岡ミカンの起源を知るために貴重なものである。」とまわりくどく書かれているのだが、ということは、静岡ミカンは紀州ミカンのコピー商品だ、といいたいのだろうか?そう思うなら、はっきり書けばいいのだが、学説でもないのだろう。

あるいは単に私の気のまわし過ぎなのだろうか。

城内の一角は、発掘調査中である。調査が終われば公園として整備されるそうだが、果たしてそれほど公園が必要なのだろうか。ますます、何やっているのか訳がわからなくなりそうである。財政再建のためには、サッカースタジアムとか競馬場とか商業施設を作ればいいじゃないかと思うのだが、そうもいかないのだろう。県庁から丸見えで、試合中は仕事の邪魔になる。いっそ、家康公の意思を継ぎ、ミカン畑にしてしまえばいいような気もする。

小川典子のピアノをミューザ川崎で

2006-07-30 00:00:23 | 音楽(クラシック音楽他)
dce61f9f.jpg週末28日(金)の宴会が急遽中止に。で、しばらく行ってなかったコンサートを探すと、川崎でサマーフェスタをやっているではないか。実は、2年前に柿落とし(カキ落としではない。こけら落としと読む)した川崎駅前のミューザに行ってなかった。小川典子さんのピアノリサイタルがなんと、2000円ではないか・・

で、8時開演に合わせ、当日券を入手しようと考える。全席自由席というのは、間違いなく当日券が余っているはず。1時間ほど前に行き、まず、チケットと現金の交換をしてくれる叔父さんを探してみるが、いない(というか見えない。犯罪行為だからだ)。私はキチンとした人間なので、正規チケット売場でチケットを買うが、時間が余った。

実は、このビルにはホールの他、僅かな数の店舗が入居しているのだが、なぜかマッサージが3店もある。30分コースで一揉みしてもらったが、そっちの出費の方が多い。さらに、併設の展示室で、「東京交響楽団60年のあゆみ」という写真・資料展が開かれていて、ちょっと楽しむ。過去に来日した多くのアーティストが東京フィルのために色紙に一筆したためたものが、並べられていて、字が下手な指揮者も多いことがわかる。ほとんどは読めないことば(独・仏・伊・露・・)なのだが、いくつかの英語で書かれた色紙(マゼールもそう)を読むと、たいしたことは書かれていない。(3週間の間、どうもどうも・・・また会うときはよろしくね。というような調子だ)よく観察すると、1960年代の資料が極めて少ないのだが、何か混乱と困窮の事件があったのだろうか。まあいいや。

そして定刻8時に小川さんは登場する。本当のことを書くと、あまり小川さんのことを知っていたわけではない。ポリーニのようにテクニックに走る口ではないかと思っていた。私の好みからいうと、アシュケナージとか内田光子とかアルゲリッチのように自分流で「細かいことなどどうでもいいから、リラックスして聞いていなさい」というような方が好きだったのだが、色々聴くのもいい。

最初は、指慣らしでモーツアルトの「キラキラ星」なのだが、たぶんモーツアルトはこういうように弾いたのだろうとは思うが、モーツアルト過ぎるような気がする。そして二曲目と三曲目は滝廉太郎。”日本のクラシックの父”の「メヌエット」と「 憾(うらみ)」。メヌエットは1900年の作。日本で国産ピアノができたのも1900年。1902年に彼はドイツに渡るが、志半ばで結核に感染。日本に帰国するが病状回復せず。自分の運命を嘆いたのが、この、憾みという絶筆である。24歳の生涯を閉じる。この二曲も、きれいに滝廉太郎の想いが表現される。

つまり、小川典子は、「作曲家の感情や計算を、そのまま表現して観客の前に提示する」というタイプのピアニストなのである。そして武満徹の「雨の樹」の後、メーンディッシュのムソルグスキー組曲「展覧会の絵」になる。オーケストラ構成で演奏することが多い展覧会の絵を、ピアノ1台でやっつけるわけだ。こうなると、小ホールではなく、こういうコンサートホールは遠慮がいらない。オーバル型の珍しい形のホールにピアノが鳴り響く。

そして、リストの「ラ・カンパネラ」。よく腕自慢がアンコールに使う難解曲。右手で高音の速弾型腕自慢をしながら左手で主旋律を弾く。リストは聴きやすい。おまけのアンコールはドビュッシーの「荒れた寺に月が沈む」。叙実的な曲が好きなのだろうか。

彼女がノクターン(ショパン)を弾いたら、すばらしいだろうなと思いながら会場を出ると、なんと素早く出口の脇で本人がサイン入りのCD即売会を始めていた。ギャラが安かったのだろう。

そして、サマーミューザのスケジュール表を見ると、8月8日になんと「炎のコバケン」と日本フィルが幻想交響曲を用意している(S3000円)。さらに12日には矢崎彦太郎が東京シティ・フィルでモーツアルトのジュピター(S3000円)。逆の選曲の方がいいかもしれないが、ともかくチケット探しを始めてみよう。

ところで、24歳でなくなった滝廉太郎の絶筆は「憾み」。35歳で亡くなったモーツアルトの絶筆は「レクイエム」ということになるが、シベリウスが46歳で書いた「交響曲第4番」も、地獄の入口でのた打ち回る人間が主題のようなすさまじい作品である。ところが、彼が咽頭ガンと思い込んだのは錯覚で、ちょうどその2倍の92歳まで長寿を誇ってしまったわけだ。滝廉太郎より14年も前に生まれ、54年も後に他界した。フィンランド人は昔から長生きだ。

きょうは何の日?

2006-07-29 11:05:18 | 市民A

2006年7月29日は、何の日?

1.ダイアナ妃の結婚記念日
  そして、きょうは結婚25周年記念日。
  つまり銀婚式のはずだった
  が、相手が悪かった。
  (あるいは、事前調査が不足していた)

   ・・・この話題は、おわり。


2.ドラマ「東京タワー」の放送予定日だった

ある、雑誌の見開きで広告が掲載されている。
     c1da500d.JPG











7月29日(土)よる9:00放送。と・・

  そして、その穴埋め番組は何になったか、というと
   「土曜プレミアム・オーシャンズ11
  つまり、映画になった。ジョージ・クルーニーやブラピ出演。

  ところが、この代役映画は、犯罪映画
  仮釈放中のクルーニーが各種犯罪のプロ11人を集め、カジノを襲撃
  
  よくわからない選択だ。

c1da500d.JPGそして、よく知らなかったのだが、報道で名前が出ている山本圭一というのは、芸名では「山本圭壱」というらしい。が、もうその名前は要らなくなったわけだ。


ところで、東京タワーだが、もうすぐ新東京タワーが登場すると用済みになるような気もするが、所有する「日本電波塔」という会社の社長の親族が経営していたゴルフ場が経営不振に陥り、借金100億円の担保になっているそうだ。担保価値としては、(今後数年間のキャッシュイン-解体費用)というような計算だろうが、ちょっと不安になるのだが、どうやら100億円の内数には土地が含まれているらしい。

(私が心配してもしょうがないが、新東京タワーが完成する前に旧東京タワーを解体する場合は、ケーブルテレビ網を充実させなければならないが、そうすると新東京タワーが不要になるような気もする。)


古書追跡でわかった将棋博物館の閉鎖(2)

2006-07-29 00:00:01 | しょうぎ
さて、「木村コレクション」の行方なのだが、どうも関西将棋会館内の将棋博物館にあるのではないか、というのは私のヤマ勘だったのだが、ちらほらとネットの中にも断片を裏付けるような噂があったのである。ただ、確証がない。

そして、「おそらく?」という勘では、それらのコレクションは、木村義雄の三男である元プロ棋士、木村義徳氏が相続したのではないかと考えたわけである。

そして、この三男の木村義徳氏について調べていると、また色々と事情が見えてきた。義徳氏は最終的にはプロ棋士最高レベルであるA級に1期(1年)だけ到達していた。実力八段である。その他の成績は今一ではあるが、それでも成功者の方だ。しかし、同僚からの評価が今一なのは、早稲田大学の大学院在籍中に、いきなり奨励会三段リーグに途中入会し、まもなく四段になっている。親の七光りであり、鶴の一言である。普通は6級から階段を一歩ずつ登り、階段を八段階上って三段リーグに入り、成績優秀だとプロである四段になれるのを、最初の長い階段を省略してしまったからだ。

そして、前述のA級リーグを1期で降格したあと、どんどん成績悪化し、早い年齢で引退してしまう。そして、引退した後、どうなったか?

「将棋博物館の館長」という椅子に座ったわけだ。以後、長く同職を務めたあと、現在は博物館の顧問という肩書きになっている(現在71歳)。となると、「木村コレクション」が物理的に博物館に存在しているというのが、いかにも当然のように思えてくる。


ところで、ここで話は、将棋博物館廃止問題になる。

この問題が、浮上したのは、将棋連盟の財政赤字に原因がある。米長改革の一環で、突如、6月の棋士総会で棋士の前に廃止案が開示されたそうだ。情報ソースの問題があるので、ややあいまいに書くが、例の名人戦移籍問題が報道されている棋士総会で討議されたそうだが、外部からは「朝日毎日名人戦争奪戦」ばかりが報じられるが、実際の棋士総会では、この博物館廃止問題がほぼ同じような時間を割かれて論じられたそうだ。

聞いた話なのであいまいな点が多いのだが、「保管状態が悪く、このままだと貴重な資料を傷めることになるので、大商大に移管する」という提案だったそうだ。これに多くの棋士が反対を表明。「文化財に対する冒涜」という反論だったそうだ。そして、米長会長は突き上げられた結果、「関西会館の有効活用をはかって、建物の収益性を上げるため」という本音がでてきたそうだ。要するにいつもの二枚舌論法であったわけだ。そして、なんだかわからないが、廃止に向かっての手続きが始まったようだ。米長会長は「財政状況が好転すれば、もう一回開館すればいい」という意味のことを言ったらしい。

個人的には、大いに反対だし、なぜ「大商大」なのかもよくわからない。大商大はその資料をどうするつもりなのかも不透明であるが、よくわからない話だ。そして、古書には、その物理的な価値もあれば、その書に書かれた内容という価値もある。それらは、誰のものになるのだろうか?

そのあたりがよくわからないわけだ。将棋連盟にある約1000点の資料を大商大に「売却」するのか?あるいは「保管業務を委託」するのか?大きな違いだ。

もし売却するなら、所有権は将棋連盟にはないのだから、会長が言うように、「そのうち復活」というのはナンセンスだ。かといって、保管委託であれば保管料が必要で、あいたスペースで、それ以上の利益がなければ赤字になる。

ということで、よくわからないので、関西将棋会館に対して、質問状を書いたのである。そして回答が戻ってきた。手紙を公開するのには気がひけるので、粗筋を言うと、こちらからの手紙は、
1.木村コレクションは存在するのか?
2.その中に、「象棊百箇条」は存在するのか?
3.将棋博物館は閉鎖するのか?
4.売却か、保管業務委託か?
といった内容である。

それに対する回答では、問題の3、4については一切コメントなし。また1の木村コレクションの存在については、博物館に実在するそうである。ただし、2の象棊百箇条が含まれるかどうかは不明としている。

さらに、この4月以降、担当者の転勤で、まだ、資料リストが整理されていないとし、仕事の片手間で整理しなければならず、まだ整理の道遠しといったところだということだそうだ。

この、「4月以降の担当者の転勤」という件は、関東で行われた「人員整理」と同様と推測される。要するに、資料整理は後回しということにも聞こえる。おそらく、なかなか発見されないだろう、と思いつつある。現在の連盟の考え方は、あまりにも近視眼であり、現在の将棋界の基礎を築いた江戸の家元が将棋についてどう考えていたか、などという風流は、まったく感じられなくなっているようだ。

いずれにしても、じっと待つことにする。

おわり

e8102ace.jpg昨日の初中級者向け詰将棋では、「簡単すぎるぞ!」と言われる方用に、中上級向け問題を1題出題する。ちょっと骨だ。余詰めが怖い。正解者と自称される方は、最終手と手数をコメントへ・・  

古書追跡でわかった将棋博物館の閉鎖(1)

2006-07-28 06:32:43 | しょうぎ
将棋博物館閉館の話がどんどん進んでいた。

この話に私が気がついたのは、全然違う角度から古文書を追っていて、将棋博物館にその現物があるのではないか、と推測したところからなのだが、まず最初に、この博物館の由来について書く。

関西将棋会館4階。入場無料ということだ。場所は大阪。JR環状線の福島駅近くである。社団法人日本将棋連盟が持つ二つの建物の一つ。もう一つは東京千駄ヶ谷の将棋連盟本部である。東日本在住の棋士は主に東京本部で対局し、西日本在住棋士は主に関西将棋会館で対局する。

そして、この将棋博物館は、古い道具や資料、海外の将棋関係の展示品などを展示しているのだが、多数の資料を入れ替えながら展示している。なかなかのホームページもある。

ところが、この博物館は、ずっと以前は、東京の将棋連盟本部の地下にあったような記憶がある。地下には食堂もあり、昼休みなどには、棋士が必勝を期してトンカツ弁当を食べていたりした。

しかし、そのうち博物館はなくなり、また、食堂も消えた。直接的原因は、将棋連盟の組織の増大。つまり場所がなくなって、不採算部門が押し出された。会館の建て直しも検討されたが、同一場所で立て直すと、諸法令の改正で以前より狭くなることが判明し、断念。もっとも銀行借り入れしていれば、財政状況はもっと悪くなっていたかもしれない。

そのため、スペースに余裕のある関西将棋会館に資料を移し、展示していたということになる。


ここで、話を違う角度に切り替える。江戸時代の、ある一冊の古棋書の話である。

発端は、最近読んだ湯川博士氏の「大江戸将棋所 伊藤宗印伝」という江戸の将棋家元の本の中に書かれていた話からである。

江戸時代、将棋は家元が名人位を張り、寺社奉行が認許するという形になっていた。そのシステムの話は長くなるので省略するが、要するに家元というのがあった。具体的には、大橋家と伊藤家である。大橋家の方は、どちらかというと民間の強豪を養子にし、実力を維持したのに対し、伊藤家は血縁を中心とし、英才教育をもって棋力を維持していた。初代名人というのが大橋宗桂という「将棋の祖」というような偉人だったこともあり、大橋家には本流意識があり、それに対して伊藤家は詰将棋の難解問題を作ったりして対抗している。

そして、本流の大橋家は、外部からの人材の登用(養子縁組)を積極的に行っていたこともあり、家の中で「家訓」を持っていたのである。家訓は「象棊百箇条」という。現代風に言えば「将棋100か条」である。五世大橋宗桂が1698年に書いている。個人的には、藤堂高虎二百箇条が、もうすぐ片付くことを視野に入れ、この象棊百箇条について調べ始めたわけだ。何しろ、何が書いてあるのかわからない。もしかして、「王の早逃げ八手の得」とか「将棋の基本は頭金」みたいな、こどもだましだと、どうしようかと(それもすぐ終わって面白いが)思うわけだ。

しかし、ネットの中ではいくら調べてもその姿は浮かんでこない。そのうち、気がついたのは、身近なところからだった。25年程前に筑摩から出版された「日本将棋大系」という全18巻の全集がある。全巻、持っている。身近なところに糸口があった。第三巻の後書きに、著者の故加藤治郎九段がその一部を紹介していた。

一.象棋ハ二三十手之内指組大事タルべシ、初之内二非手有之時ハ終迄弱ニナリ、指直ス事成マジキ也。二三手之先ニ非有之バ、弱ニ乗テ其処不抜ヤウニ指時ニハ勝ニナルベシ。又手前二非手有之時ハ、先ヨリ如其指掛ル故、負ニナルト心得、一手一手二見合、始終ヲ見屈指スベキコト専一ト心得ベシ。詮議ヲツメテ見ル時ハ、双方不負ハズナレドモ、微塵之非手有之方負ナルベシ。尤振アシキ象戯指直スコトモ有ベシ、夫ハ先之下手故也。互二上手時ハ、其先抜指直スコト成ガタシ、下手ニハ如何ニテモ勝ベシ・・・

一.象戯モ負惜ミ名ヲ大事ニタシナミ専一タルベシ。嗜ガラニテ象戯モツヨク相見エ、嗜無之者ハ不指前ヨリ下手卜見ユル、能々心得ベシ。森田宗立ハ象戯大切二存、数番指不申段尤至極也。脇ヨリハ一芸ノ上手卜感入セリ、宗立程之象戯二而、尚々以深切之心持肝要タルベシ。

二箇条分だ。最初の条は、序盤の駒組みの重要性とか一手争いの時の指し方や、弱い人と駒落ちで指すときは負けてはいけない、というようなことが書かれている。次に紹介されている条では、将棋を指すときの態度などが例を上げて書かれている。外部の人間の態度はしっかりしているのに家元の態度はなんだ、というような話だ。

まあ、読んでみて、まとも過ぎる話でつまらないような気もするが、残る98条分を知りたくなるのも人情である。そして、25年前の本には、この「象棊百箇条」は木村義雄氏が所有していると書かれている。昭和12年から8期名人位に就いた大名人であり14世名人を贈られている。1986年に逝去。20年前のことだ。では、その古棋書は今どこにあるのだろうか?ということになる。そして浮かんできたのが、「木村コレクション」の存在である。木村名人は、この書に限らず、明治以降散逸した多くの古書を収集していたということである。その大量の資料を総称して「木村コレクション」と呼ぶそうなのである。

あまりに長くなりそうなので、続きは次回とする。

f116f597.jpg詰将棋ファンのため、夏向きの初中級者用問題を1問出題しておく。この問題は、手数だけをいただけば、・・  

日本漫遊ブログじゃないのに・・

2006-07-27 00:00:31 | 市民A
神戸シリーズ、伊賀シリーズが終わったら、すぐに次にシリーズに入る、となると、「一体、こやつ何者じゃ?」ということになってしまうのだが、今度は静岡シリーズ。言い訳はあるのだが省略。ブラックスーツに関係ありだ。

静岡と言えば、弊ブログでも色々関係案件があるが、そんなに時間もない。また、「大雨で増水した天竜川を見に行こう」とか、「SLに乗って山奥の温泉に行こう」とかにはならない。

逆に、弊ブログでの静岡絡みで、今回行けなかった残念先を列挙してみる。これらは「そのうち案件」だ。

1.「赤い靴はいてた女の子」の実在モデルである岩崎きみちゃんの出生地→静岡市清水区。なぜかその場所ではなく、清水を見下ろす日本平に母子の像が立つ。

2.レッサーパンダの総本山(DNA管理)と言われる日本平動物園→風太クンをうかつにも千葉市動物園にトレードで出してしまい、今度は風太クンの子供をゲットしようと裏取引したという疑惑。

3.大昭和製紙社長だった斉藤某がバブル期に買い集めた美術品の多くを、二束三文で引き受けたとされる静岡県立美術館。

といったところだ。実際には、日本平行きのバス停は静岡駅のすぐ前だが、利用者および観光客無視のシステムのため、徒歩5分もかかり、さらに1時間に1本のバスが定刻2分前に行ってしまったのであきらめた。

そして、行った所を適当に連載(というか断載)することにするが、まずは、小噺類を片付ける。

22e36489.jpg自転車ドロ

静岡中央警察署の横でヒロシを見つけました。ヒロシのポスターは掲示板のガラスの中に貼られていたので、「ヒロシです。霊界写真のように写ってしまいました。靴のかかとでガラスを破ってから写真を撮ってくれればよかったとです。」というのは冗談として、「オレの自転車がありません。やっぱりツーロックしておけばよかったとです。」なのだって。

岡山県で、自転車泥棒を追いかけ、警察官が川で水死した事件が起きている。また、自宅近くの執拗な自転車ドロ探し、というのもあった。やはり、警察が、北朝鮮向け中古自転車マーケットの絶滅を狙っているのだろうか?

かなり、そう思えてきた。単なる「犯罪解明率稼ぎ」とはちょっと違った「全国的執拗さ」を感じる。

途中追記:警察に用があったわけではない。単に、横を歩いただけ。


大井川付近
22e36489.jpg







江戸時代の東海道は大井川の川越えが一大事だった。場所は現在の東海道線の島田のあたりだが、現在の新幹線はもっと南(つまり下流)の吉田町の付近を通るため、新幹線の中からの風景では東海道気分にはなれない。タクシーの車内で聞いたら、現在は木製の橋がかかっていて、歩行者専用だそうだ。「蓬莱橋(ほうらい橋)」というらしい。そして、増水すると、橋の橋げたが水に流されるそうである。昔で言えば、川止めである。結構な大河であることがよくわかる。しかし、その木製の橋は何のための橋なのだろう?よくわからない。

帰ってから調べると、明治12年に木造の歩行者用有料橋として完成。島田宿衰退の原因でもあるのだろう。今でも有料で、897メートル(幅2.7メートル)は世界最長の木造歩行者専用橋としてギネスレコードだそうだ。

そして、さらに南下すると「あってもいいのか小山城模擬天守閣」というのがあるが、無視。さらに静岡空港が平成21年を目標に工事中だそうだ。現地情報では、近くに新幹線の新駅を作ろうという動きがあるそうだ。

が、新幹線で遠くから来て飛行機に乗り換えるというのも、ちょっとないような気もする。

伊賀を出て明日は枯野か野ざらしか

2006-07-26 00:00:10 | 美術館・博物館・工芸品
44cd4153.jpg伊賀上野の三大観光テーマといえば、忍者、上野城、そして芭蕉の生地である。(個人的には忍者屋敷前の「とろろ蕎麦」も候補に入れたい。800円だ)。そして、大文学者である松尾芭蕉に触れなければならない。芭蕉生地だけに、数々の史跡や記念館がある。おそらく人気度は忍者50、芭蕉40、上野城(藤堂家)10くらいの比率ではないだろうか。

参考までに、3大テーマの主人公の生年~没年を記すと、服部正成(半蔵)1542年~1596年/藤堂高虎1556年~1630年/松尾芭蕉1644年~1694年である。

もちろん、芭蕉は俳句の世界では文字通りの神様である。アマとプロというようなレベルではなく、わずか5+7+5=17文字の中でその後の日本人の誰も彼のレベルに近づくことさえできない。まず、学が深い。古典文学に精通していて、さらに哲学的に人間の所業を分析する。そして、体力がある。人望があって、いつも無一文でも誰かが衣食住の援助をしてくれる。死んだ後まで葬式を出してもらえる。人生後半の人相図はかなり多く残されていて、大部分は互いに相似しているので、人相はだいたいわかる。立派な顔である。目鼻の輪郭はきちんと明確であり、顎のほうもしっかりしている。あまり文学者らしくない。どこかで見た顔だと思っていたが、思い出した。投資会社であるフジマキ・ジャパン代取である藤巻健史氏に似ている。


44cd4153.jpgしかし、天才芭蕉は、モーツアルトのように幼少時より活躍していたわけではまったくない。だいたい武士の息子だ。藤堂高虎の家訓の中にも、武士は武道を忘れてはいけない、と書かれている。しかし、一方、高虎は「諸芸」を大いに進めている。高虎の考え方は、「私自身は不器用だが芸のできるものはどんどん芸をしていれば、その中で道を見極められるだろう」というような趣旨である。まさに芭蕉はそういった文武両道の世界に生まれたわけだ。

ところが13歳の時に、父親が亡くなる。このあと数年間、彼が何をしていたのか不明な時期があり、その後、藤堂藩の重臣である藤堂新七郎に仕える。あまり大きな声では言えないが、台所を任されていたそうだ。料理人。初鰹に目が無いのは、その時からかもしれない。たぶん、若いときに大失恋をしてから結婚しなかったのは、一人で賄いができるからだったのだろうが、もし所帯を持っていたなら、1年、2年も家を空けて旅に出ることは気が引けただろうから、奥の細道も野ざらし日記も書かれることなく、江戸という都会生活、とりわけ食い物中心の「食い倒れ俳諧師」あたりに終わったかもしれない。

さて、不勉強なもので、東京にはいくつかの芭蕉関係の記念館がある。江戸を基点として奥州やら木曽路やらに旅行に行って、あっちで一句、こっちで一句というようなことをしていたのだろうと思っていたのだが、そう簡単なものではなかった。まず、伊賀から江戸に向かったのは、30歳か31歳の頃とされている。人生の60%経過後。その後しばらく江戸の文学サロンの中堅文学者としての椅子を確保する。そういう人たちが筆一本でメシを食えるだけの町であったわけだ。新規開店した店舗のキャッチコピーを書いたりだ。住所も日本橋だった。

ところが、ある時思い立つ。「こんな怠惰な生活では病気になってしまう」と思ったかどうかは知らないが36歳の時に深川に居を移す。富岡八幡宮に碑がある(この八幡宮もなぜか弊ブログによく登場する)。そして、貧乏と俳句というセットの生活に漬かるわけだ。人生72%経過。

そして、彼が始めてのロングランに旅立つのは40歳になってから。故郷に残した母が亡くなったのである。「野ざらし紀行」の出発である。東海道を西行し伊賀に帰郷。奈良、京都、名古屋とループ上に一回り。そして一冬を伊賀で過ごし、木曽路を歩き江戸へ戻る。8ヶ月の旅だ。ここに蕉風と呼ばれる文体が確立。人生82%経過。

2年後、「笈の小文」の旅に出る。今度も東海道を西行。伊賀上野に寄った後、吉野、紀伊と山中を踏破し、大坂に入る。さらに須磨、明石に足を伸ばしたのは源氏物語のイメージを確認したかったのか(というのは私の憶測)。今回は信州更科と少し北を回り江戸に戻る。9ヶ月間の旅。

そして半年後、45歳にして人生最大のチャレンジである「おくのほそ道」に旅立つ。1689年3月20日である。今までの旅と異なり、北に向かう。日光、那須野、黒羽を経て、5月4日仙台に到着。さらに、松島や平泉に感動旅行を続ける(ここだけの話だが、芭蕉は現地に行ってから一句読むのではなく、名所に着く前夜に完成していたそうだ。そして現場で修正。弟子が紙に線を引いたり、書き足したりして、「師匠、これでいいですか」と確認の上、完成作となる。)。さらに出羽三山を攻略し、日本海に出た場所が酒田である。ちょうど列車事故があったあたりを通ったはずだ。そして象潟から北陸路を南下する。7月15日に金沢。福井、敦賀を経て8月中旬に大垣着。9月下旬に伊賀上野に到着し、年末は京都、年始は近江膳所で過ごす。そして翌1690年は京都、近江、伊賀を何度も巡回している。

そして実に江戸に戻ったのは1691年10月29日。2年7ヶ月の大旅行であったわけだ。人生94%経過。そしてしばらく江戸に生活する。そして最後の大旅行に出立したのが元禄7年(1694年)5月。歩きなれた東海道を西行し、伊賀上野に入る。そしてしばらく過ごした後、9月に大坂に向かう。ところが大坂滞在中の9月29日、突如発病。症状は下痢。10月18日になり、自らの死期を悟り、辞世の句を詠む。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」。10月12日逝去。人生100%経過。

藤堂家と無関係、伊賀上野城

2006-07-25 00:00:20 | The 城
be6b09a8.jpg久しぶりのお城シリーズ。伊賀の秘境(?)にある上野城。藤堂藩の城下町である。稀代の築城家、藤堂高虎の戦闘用の城といえば、一大事なのだが、色々とややこしいのである。

まず、伊賀には津と上野と二つの都市と城がある。高虎は、津の方を平時の治世用の城とし、上野の方を戦闘用の城と考えていた。したがって、上野の方が城郭は大きい。ところが皮肉なことに高虎は家康の大のお気に入りになってしまう。もともと、宇和島(板島)藩主だったものが今治藩主となり、さらに伊賀に引越しになったのだが実際にはほとんど江戸に住んでいた。彼が住んでいたのは不忍池の近くだったそうで、本来の所領地である「上野」の名前が地名に残った。そして、家康晩年は駿河(静岡)に居住し、そちらにも地名を残したらしい(未確認)。

しかし、本人がいなくても上野の町が立派な都市を形成したのは、藤堂高虎の功績であるのは間違いない。それなのに、町ではあまり藤堂の人気は見られない。結構、そういうような功績があって後世の人がメリット享受しているのに、あまり評価されない人物というのがいる。まさに高虎はそのパターンだ。さらに、地元からこの天守閣が評価されないのは別の理由がある。

be6b09a8.jpgこの天守閣は本物ではないのである。日本には、中世から伝わる天守閣は12城ということになっている。弘前城や高知城は少し時代が下っているが、それでも江戸時代の築である。ところが、この上野城だが昭和10年。築71年である。しかし、木造である。3階建て。当時の地元代議士が私財を投じて作った、というのだがその辺の事情がよくわからない。

一方、歴史を約400年前に戻すと、1600年(慶長5年)の関が原の戦いのあと、論功報酬として藤堂高虎が加増され転封してきた。なぜこの場所かと言えば、まだ健在だった豊臣家に対する策の一環だった。まず、当時の交通の要所だった。尾張と紀州という徳川家の間に位置するのだから信頼されていないわけはない。高虎が家康から受けた密命では、大坂で豊臣家と戦って不首尾だったばあい、陣を後退して上野に立て篭もる予定だったとされる。そのために攻略不能な頑丈な城郭を建設するようにということだったわけだ。そして、家康はあれこれ豊臣に因縁をつけながら戦争準備を続ける。上野城天守閣の大改修が始まったのが慶長16年(1611年)。しかし、完成間近の天守閣を大型台風が襲う。翌慶長17年9月のある夜のことだ。一気に建築現場が総崩れになり多くの死傷者が出たそうである。そして、その後、天守閣は長く造られることはなかったそうだ。家康の戦略がどのように変わったのかは知る由もないが、逃亡用の城など不必要と考えたのではないだろうか。高虎好みは日本有数といわれる高石垣に感じられるだけである。

さらに、昭和10年に築造された現在の天守閣だが、実際のところ高虎モデルというのが存在しないため、「空想の図形」ということになる。つまりオリジナリティが低いわけだ。私は和歌山城に登ったことはあるのだが、おそらく、和歌山城は鉄筋ではあるが、高虎モデルになっているように感じている。(ところが和歌山城についての多くの資料では、豊臣秀長築となっているのだが、その時、高虎は豊臣秀長の家臣であったわけだ。)

さて、この上野城のように、以前の城郭を復元する場合、木造で再現する動きがある。確かに、本物12城をA級とすれば、木造再建はB級かもしれない(鉄筋再生はC級で、歴史上に存在しない城を作ったら、D級ということにしておく)。私が知っている範囲でいえば、伊賀上野城(昭和10年)、郡上八幡城(昭和8年)、掛川城(平成5年)、白石城(平成7年)、白河小峰城(平成3年)、大州城(平成16年)といったところが木造再生だが、まだあるかもしれないので「全部でいくつ」とは言わないことにしておく。

そして、全部見て回る気にもなっていない。それはあと100年後の楽しみに・・  

EUのバラ(バラ)色の未来

2006-07-24 00:00:25 | 市民A
7a6af517.jpg7月20日夜にヤマハホール(銀座)で大野ゆり子さんの講演会に行く。元新聞記者、新潮社編集を経て、大野某という音楽家と結婚し、現在は欧州で生活。美術史が専門とのこと。私と趣味が合う。そしてなぜか、ご主人はサッカー選手のように、色々と勤務地が変わるため、欧州4箇所目であるそうだ。クロアチア→イタリア→ドイツ→ベルギー。やはりピークを過ぎたサッカー選手みたいだ。

さて、旦那の話はどうでもいいのだが、EUエリアが拡大し、希薄化する共同体意識と同時にフランス、オランダでは国民投票でEU憲法が否決された。世論調査ではほとんどの国が否定派がまさる。一方、EU周辺国は次々に加盟を申請。私も正確には数を知らないが、たぶん25ヶ国位が参加していて、ついにイスラム国家トルコまで椅子を欲しがっている。それらの話の多くは日本でも感じられるのだが、実感的には見えてこない。そういうリアリズムの話が聞きたかったのであり、リアリズムの話は、やはり想像通りだった。「展望見えず」。ということのようだ。

元々、「日本人から見ると、欧米人はみんな同じに見えるのだが、本当は、バラバラであって、よく見ると見かけも違う。”似てもいなくて非なるもの”である」とは言うが、もともと同じにも見えない。ただし、国による偏りと特徴はかなりあるのではないか、と思っている。大野さんも例にあげていたが、例えばドイツ人。日本人も頭が固い方の国だが、ドイツ人というのは、本当にコチコチ頭だ。私が思っているよりももっとスゴイらしい。時間厳守が守れない人間は、「畜生道」らしい。以前、ドイツ人語学教師にボロボロにされた理由が数十年後にわかった。

逆にイタリア人。ファッション以外興味なし。よくわかるし、それがなければあの国には魅力がない。ネクタイ・クルマ・料理・・・。他人のネクタイを見ると、すぐに手が伸びて、クルっと裏返すそうである。ブランド、素材を確認するわけだ。そういえばベルルスコーニというカツラ首相もいた。

さらに上手がフランス。シラク大統領が日本の東京相和銀行に裏金口座を作り、65億円の残高があるという疑惑が報道されたそうだ(日本では聞かないのだが)。これに対して、大統領は記者会見で、国民に向かって、「そういう疑惑がある、というようなことを聞いて、国民の皆様が心配することになる、というような事態になって、私はとても悲しい。」というようなことを言ったそうだ。なにか、国民が知っていることの方が悪いことのように聞こえる。そして案の定、おとがめなし。クルマのスピード違反みたいなものかな。

英国はきまじめで、もう脱退すべきか、留まるべきか、一生懸命熟考中だそうだ。まあ、食い物がまずいので食事の時間が短くて、考慮時間が長くなる。

中で、良いたとえだなあ、と思ったのは、「サラダボウル」の話。米国社会を「サラダボウル」と呼ぶのは知っていたが、それは、レタスやトマトやチーズや、カリフラワーとか千切って、ドレッシングを振りかけるところが、米国の移民政策のようだから、と思っていたのだが、まさにEUが今、そういうことになっているそうだ。もちろん、米国とは異なり料理の本場だから、少し意味が違う。EUは、もともと混ざらないものを無理やり企業や組織が域内多国籍人を集めようとしているものだから、組織の中に、さまざまな素材が混じってしまうわけだ。そうすると、外部から見ると、きわめて美しくバランスのとれたサラダになるわけだ。しかし、中の素材の方からいうと、マカロニとソーセージと赤ピーマンがなぜ、隣あわせにならなければならないのか、という不満だらけになるそうだ。要するに、ボウルの中から見たら、美しくない、ということだそうだ。

そして、ここから先が現地レポートでなければわからなかった話なのだが、一方で統一の方向があることが、国家の枠組みを弱くしているために、国家分裂という動きがあるそうだ。例えばベルギーがそうらしい。フランス語圏が新ベルギーを作ろうとしているらしい。南北格差の大きいイタリア。ずっと前からやっているスペイン・・キプロスは南北別国家だし、・・と。

そして、最後はイスラム問題。要するに、フランスやドイツ・英国といった工業国は人口問題などもあり、イスラム国家からの移民を受け入れていた。労働力としてはかなりの比率になっていた。例の頭突き男は2世だ。フランスは、民族主義の国ではなく、国家主義の国だから、フランス主義という価値を共有すれば、それがフランス人だったはずだ。が、大荒れになっている。理由は、新規採用するときに、フランス人ノンムスリム、東ヨーロッパ人、ムスリム、という順番になったからだそうだ。つまり、域内の低所得国民を自国内のムスリムに優先して採用するため、ムスリムの失業率が高まったかららしい。

そして、例のジダンとマテラッチの問題にして言えば、イタリアにはムスリムがきわめて少ない(2%)。理由は、イタリアが貧しい国で、移民を外に出していた国だから、移入はほとんどなかったということだそうだ。それだからマテラッチの方には宗教や出自に配慮するという文化が欠如しているのだろう、ということだそうだ。イタリアでは、「それくらいのことは、誰でもいってるじゃないか」ということだそうである。

まあ、日本人もワールドカップの1回戦オーストラリア戦で、最後の数分間をうまく立ち回ったら、決勝トーナメント初戦でイタリアと当たっただろうが、日本チームでイタリア語が堪能な選手は一人しかいないので、その選手の頭突きが見られるところだったのに残念だなあ、と思うのは私だけなのかもしれない。 

藤堂高虎家訓200箇条(16)

2006-07-23 00:00:38 | 藤堂高虎家訓200箇条

今回は、日本刀についての家訓が数多く並ぶ。道具の良し悪し、使い勝手、差し方などだ。実は残念ながら日本刀についての造詣はほとんどない。家訓解読のため一本買ってきて「お試し斬り」とかしてみればいいのかもしれないが、似合わないのでやめる。似合わないのは、服装もそうで、羽織、袴一式を揃え、腰に大小を差そうと考えると、福澤さんが200枚ほど必要だろう。

したがって、少し要領を得ない箇所があるかもしれないが、ご容赦いただきたい。


第151条 主人の御前に人多き時ハ立去朝夕をも終日用をも達し人すくなき時ハ罷出可相詰人の退屈する時ハ猶以精を出し可詰是私の理発なるへし奉公に由断有間敷との嗜成へし

主人の前に人が多いときは立ち去り、朝食・夕食や一日の仕事が終わって、人が少ない時には、まかり出て詰めるべきだ。人が退屈するときは、なお一層精を出して詰めるべきだ。これがその人の利発となる。奉公に油断があってはならないという嗜みである。

「殿、終日ご苦労さまでした。やっと人払いできたので、そろそろ悪所でウヮっと・・」
「おぬし、いつもながらあっぱれ。100石加増してつかわす。」


第152条 大事の仕者の時ハ壱尺に少余るはみ出し鍔の脇指にて突へし刃を上にして突くるべし鍔の無ハのりにてすべる事あり但柄ハ巻たる可然必刃を下へすべからすはやき者ハおさゆる事あり必切ル事ハ折によるべし大事の仕者ハ突につきそこなひハなし切には切そこなひ多かるへし

人を討ち果たすときには。一尺強のはみ出し鍔(つば)の脇差で突くべし。刃を上にして突くべし。鍔の無いのは血糊ですべることがある。柄は撒いてあるのがよい。必ず刃を下にしてはいけない。動きの早い者は押えることがある。斬ることは、時に応じてである。必ず果たさなければならない場合、「突き」には突きそこないはないが、「斬」には斬りそこないが多い。

実は、鎧兜は、刀で斬られることを想定してできている。槍には弱いものである。では、なぜ武士は刀を持つかというと、足軽とか半農武士は剣道とかやってないから日本刀の使い方がうまくない。したがって槍先を並べて突っ込むような単純戦法へ回される。日本刀を操るのは、いわゆる職業軍人であり、エリートなのだが、エリートでも戦場の白兵戦に巻き込まれると戦わなければならないのだが、やはり接近戦では刀を槍のように使え、と教える。刃を上向きに持つと、斬ることはできずに突くしかないではないか。包丁で練習しないこと。野球で言えば、ヒットエンドランよりバントが勝るということだろう。


第153条 大小の柄皮より糸巻よきといふ人あり皮はのりかかりすへるといふ糸巻ハすへらすといふ何れ悪敷といひかたし兎角柄ハいつれにても古くあかじみたるハ血かかりすべらんと思ハるる也昔ハ皮柄斗なれ共数度の用に立来る然上ハ皮柄すべるともきハまるべからすとなり

大小の柄(つか)は、皮巻きより糸巻きが良いという人がいる。皮だと血糊がかかると滑るという。糸巻きだと滑らないという。いずれが悪いとは言い難い。いずれにしても古く手あかじみているのは血がかかって滑るだろうと思われる。昔は皮の柄だったが、数回の用にはたった。したがって、皮の柄の方が滑るとも決めかねる。

クルマのシートのように平面で使う場合は、皮がいいが、刀は糸巻きがいいということは、血糊がべたっと突いたときに、糸巻きだと、まだ滑らないが皮巻きだとズルッと緩むということだろう。ゴルフクラブのグリップにも糸を巻いてみよう。マメがつぶれて血糊がつくことがあるからだ。


第154条 片手うちにする脇指裏の目貫はるか下げて可巻手の内一はいに当るゆへ手廻るべからす目貫上り過たるハ手のうちすくゆへまハる物なり

片手討ちにする脇差は、裏の目貫をはるかに下げて巻くべし。手のうちいっぱいに当たるから、手が廻らない。目貫が上がりすぎるのは、手の内がすくから廻るのものである。

脇差を操るためには、柄を短くして手の平と同じ位にするということだろう。柄が長いとそのつど持つ位置が変わって安定しない。剣道の竹刀は両手で振るが、武士は片手討ちの練習もしていたのだろう。家訓の別の場所では、相手を組み伏せた上、脇指で首を落とせと書かれている。うっかり刃を上に向けたまま押えると、痛い思いをするだろう。


第155条 大小の柄の長き短きハ面々の数寄数寄可成然共刀は両手を掛柄頭左の手すり払可然脇指ハ猶以短き可然自然の時ぬく時も鍔きりならでハにぎらすさあれハ長くても不入事か第一馬の乗下りに鞍の前徐にかまひ悪し惣而脇指ハ長短共に片手討の物なれハ長柄好むへからす色々子細有事なり

大小の柄の長い短いはそれぞれの好き好きである。しかし、刀は両手をかけ、柄頭を左の手ですり払うのがよい。脇差はなお短いのがよい。もしもの時、抜く時も鍔きりでなければ握れない。そうすれば長くても入らざることである。まず、馬の乗り下りに鞍の前輪にひっかかて悪い。すべて脇差は長くても短くても片手討ちのものであるから、長柄は好むべきではない。色々と事情があることである。

現代では、脇差は30センチから60センチの間だそうである。高虎のように、相手の首を落とすだけのためなら、短い方がいい。逆に、映画「たそがれ清兵衛」の中で真田広之が演じる主人公清兵衛は、狭い室内での殺陣回りを得意とするため、長めの脇差(60センチ物)を振り回す。実際は長刀は質で流してしまい、鍔から下が竹光だからだ。いくらなんでも30センチの脇差一本では、自分の腹を切ることくらいしかできない。

第156条 大小共に目釘ハ性の能き竹可然自然ハ蘇方の木も可然余りふときハ不可好付り柄ハほうの木然るへし昔より度々用に立来り唯今にほうの木の柄用るこしやくにて樫の木又ハ柚の木杯にてするも有昔も吟味有柄ハほうの木用ひ来る上ハ外の木ハ不可好柄の内くつろぎたるハ切レおとると言伝たり可嫌

大小ともに目釘は性のよい竹がいい。蘇方の木もいい。あまり太いのは好んではならない。柄はほうの木がいい。昔から度々用に立つとされ、今でもほうの木の柄を使う。こしゃくではあるが、樫の木や柚子の木を用いることもあるが、昔から柄はほうの木を用い、ほかの木は好んではならない。柄の内側が緩くなれば切れ味が落ちると言い伝えがある。嫌うべし。

目釘というのは、刀の柄(つか)の部分と金属の部分が抜けないように、止める釘のこと。ボルトとナットが日本にあれば、それを使ったかもしれない。この目釘というのは重要なようで、現代でも竹がいいとされていて、さらに200年前の竹材とかが珍重されている。蘇方というのは、「すおう」と呼び、マメ科の高山植物であるが、蘇方竹という竹もある。たぶん、竹の方とは思うが、蘇方の木と強調している。マメの弦も繊維は丈夫だし、よくわからない。ほう材と樫や柚子材と比較している。「ほう」は朴と書く。現代に至るまで、柄材として朴がいいのか樫がいいのか柚子がいいのかの論争は続いているらしいのだが、軍刀の研究をした論文によれば、朴材は稀少で、きっちり柾目でとれれば丈夫だが、斜め取りをした材だと弱く、樫、柚子に劣るそうだ(あくまで軍刀の話だが)。

先日、ゾーリンゲンの包丁の柄が腐ったので、ネットで検索した包丁工場へ持ち込んだのだが、柄が変わっただけではなく、刃も研ぎ直したため、人形マークも消えてしまい、元の包丁と同じものかどうかもわからないほど、細身の片刃として、マイ包丁に加わった。柄の材質は忘れた。


第157条 仮初に刀持出る共左の手に持たるよりハ右の手に持たるに徳多し口伝

かりそめに刀を持って出るときでも、左手に持つより右手に持つほうが得が多いという伝えがある。

刀を持つといっても、鞘から抜いて抜き身で持つ場合は左手で持つわけにはいかない。抜いた以上、すぐに使うことを考えなければならない。逆に、鞘のまま持つ場合、左手に持たないと直ぐに抜けないのだが、たいていの場合、刀は、抜くまでもなく、見せるだけで十分なので、この場合も右手に持ったほうがいいということだ。


第158条 刀の少ゆかみたるハ手洗に奇麗なる水を入刀の柄に縄を付切先を下にしさかさまに釣水鏡々見すれハ必直る物なり

刀が少しゆがんだら、手洗いにきれいな水を入れ、刀の柄に縄を付け、切先を下にして、逆さまに釣り、水鏡を見れば、必ず直るものである。

この条をよく考えていると、わずかに曲がった棒を見分けるためには、一本の棒を見るだけでなく鏡に映して上下二本にして見ると、曲がっている場合、ひらがなの「く」の字に見える、ということなのだろう。しかし、曲がったり歪んだりがわかっても、どうやって直すのだろう。自分で直そうとすると、たいてい失敗して、痛い思いをしそうだが・・

第159条 何時も手に逢へきと思ふ時ハ刀の下緒のむすひめより下を二つに分け両方江取帯にむすぶへし鞘を落さぬなり又鞘前へ廻らぬもの也度々切合時鞘前へまハり馬乗に鞘へ乗りたをるる事度々に及ふなり

いつも手にあうようにすべきと思う時は、刀の下緒の結び目より下を二つに分け、両方にとり、帯に結ぶべし。鞘を落とさないこと。また、鞘は前には回らないものである。何度も斬りあう時、鞘が前へ回り、馬に乗るときに鞘の上に乗り倒れることが度々ある。

下緒は鞘に付いているものである。したがって、下緒を長くして体の両側に回すというのは、戦闘の自由度を高めることなのだろう。忍者のように背中に鞘を縛っておく方がいい。藤堂高虎の所領は伊賀だ。

第160条 仮初に寝ころぶとも脇指置やう心持ありたとへハ右を下に寝る時ハ身のなりに柄を我面の方江して可置又左を下にして寝る時ハ柄足の方江して我むねの通りに可置心持あり

かりそめに寝転ぶ時でも、脇差の置き方には心の持ち方がある。例えば、右を下に寝るときは、柄を足の方にしておくべきだ。また、左を下にして寝るときは、柄を足の方にして自分の胸のあたりに置くという心得が必要だ。

右を下にして寝転んでいるうちに、つい眠ってしまって寝返りを打ったりしている間に大小ともに盗まれたりしたら大事だ。別の居眠り者の大小で員数合わせをしなければならなくなる。

この150条を超えたところで、突然に戦場ものに変わる。どうしたことか。確かに、徳川幕府の時代ともなれば、実戦経験のあるものなどいなくなるのだから、こういう書物で勉強するしかなくなる。ということを見通していたのだろう。しかし、刃を上にして突き出す、など稽古でも危険で行えなかっただろう。死罪になった者を使ってのの「お試し斬り」でも、試すのは日本刀の切れ味であって、小塚原でも、山田某なる役人がテスターをしていただけである。

つづく


山本圭一・・・

2006-07-22 00:00:06 | 市民A
dc8a1591.jpgさて、誰しもが、「?」「?」「?」というのが、極楽とんぼ山本圭一の!”函館極楽ツアー”の件。たぶんあと1週間経てば、山本圭一なるごくごくありふれた名前は、永遠のかなたに消え去ると思う、が。

別に、彼の肩やらその他、彼の体の一部を弁護する気はまったくない!ということからはじめなければならないが、事件後、相当期間たっても、まだ逮捕されない。一体、・・・。


話の角度は全く違うが、私は、事件のあった「函館」は大好きだ。数え直すのは野暮だが、6回も行っている。函館のことは朝昼晩あらかた知っている。私のブログを読み続けていただいたいる方にはわかってもらえるだろうが、どこにでも行き、色々な人の話を聞いたり、忘れたりする。そして、時折は感情の虫になる。

そして、日本で指折りロマンティックな町(日本最後の武士、土方歳三も函館で戦死した)のイメージを潰した大バカ男の話に戻る。17歳の女性に酒を多めに飲ませ、ビジネスホテル(というのが安っぽいが)に連れ込み、暴行した、という事件だ。

ここで、このブログは二股ズボンに別れ、右足は、「なぜ、ヨシモトは社長が土下座して、社会的社員教育の欠如と役員の責任問題に触れないのか」ということになるのだろうが、その件は常識ブロガー陣にまかすとして、左足の方を考えてみる。(うまく書けるかどうか、かなり心配)

まず、なぜ事情聴取を繰り返しても、捕まらないのか、ということ。

「未成年者との行為」が函館では違法行為になっていないということだろうということが予想される。あるいは、17歳というギリギリの年齢だったので、「まさか17歳とは。思わなかった」と言っているのかもしれない。

もしも、この事件に、福沢諭吉氏が登場するなら、即アウトになったのは間違いない。どうみても山本圭一が17歳を実力で落とせる玉ではない。たぶん自分の所属会社や欽ちゃんのことなどちらつかせたに違いはない。そして、話はこじれる。こわい「親」が登場する。かたや無責任男。


函館は大きな町ではないが、歴史はある。有名人で言えば、GRAYがそうだ。ほんの僅かな期間、辻仁成も居住して、生涯最高作「海峡の光」を書いた。「函館物語」というのもあるが、読まないほうがいい。私の知人も複数いる。

そして町は、意外にも開放的だ。

dc8a1591.jpgある時、翌日午前の仕事があったのだが、市内某所でソファーを暖める機会があった。ようするにナイトクラブ。こちら側は男性だけ4人位だったのだが、店に入ると女性陣がオセロゲームのように互い違いに割り込む。そして、いつものことだが30分位経つと、互い違いではなく、私の周りに集まってしまうわけだ。まあ、そういうのは困るわけで、解決法としては、過激方向に打って出るわけだ(もちろん法令の許す範囲)。はっきり言って旅行・出張先で、「運命の出会い」とかなると困るわけだ。維持費が高すぎる。

それなのに、函館では、色々と妙な事が起きるわけだ。「携帯のナンバーを教えて欲しい」とか、「来週、東京へ行くから」とか「ピンクの下着を見たくないか」とか、とか、とか・・

実感としては、こんな話に引っかかるバカもいるだろうな、って思うけれど、思い切りジャーナリズムに「淫行のあったのは、あるビジネスホテル」とか報道され、恥ずかしいだろうなって、そしてまあ、再起不能だろうって感じる。

ところで、1%程度の確率で、「欽ちゃんが赤字の球団経営を解散するための捨石」という可能性は感じる。

一方、山本某が、僅かな可能性ではあるだろうが、再起するためには唯一つの選択しか考えられないような気がする。

それは、

「玉抜き」だ。

江戸時代の刑罰に、数回の例がある。  

伊賀式「くノ一」にご用心

2006-07-21 00:00:36 | 美術館・博物館・工芸品
神戸シリーズが長々となってしまったが、神戸に入る前日に伊賀上野市に足を延ばしていた。というか迂回したというべきか。かなり遠い。名古屋からJR普通電車で伊賀上野に行き、近鉄に乗り換え、上野市へ到着。最初から近鉄に乗ればもっと早かったし、直通バスもあったようだが、それは「ぶらっと列島の旅派」には難しい相談だ。

まず書くべきは、上野市にはいくつかの観光目玉があるが、その一番は忍者になっている。そして忍者は秘密主義なので、我々現代人は忍者のことをよく知らない。そして伊賀には忍者屋敷がある。もちろん有料だがガイドが付く。屋敷の秘密を数々披露してもらうわけだ。もちろん、ドラマや映画で色々知っているので、あまり驚かない。が、ガイドさんに申し訳ないので、ちょっと驚いてみせる。本当は、忍者はこっそり生活しているはずなのに、屋敷といったところで集団で集まったりしていたのだろうかということなのだが、ガイドさんが知らないとかわいそうなので聞かないことにする。

1c55ae43.jpgそして別棟が展示館になっている。分類してみると、忍者の仕事とか目的とか歴史といった堅い話の部分がある。諜報活動に留まっていたのか、破壊(暗殺)活動もやっていたのか、ということだが、はっきりしない。次に、忍者の武器や服装といったハード面でのコーナーがある。実は、黒い服を着ていたわけではなく、紺色の服だったそうだ。ようするに目立たないようにするために、当時の国民の最大の仕事である百姓着でカムフラージュしていたそうだ。ちょっと羽織ってみる。そして武器も百姓が使う鎌などを中心にしていたそうだ。見つかって詮議されても言い逃れられるようにだ。

1c55ae43.jpgそして、最後のコーナーは「術」の紹介。格闘法や緊縛法なのだが、ビデオで紹介されている。わざの種類は多いので、ついつい長居をしてしまった。ビデオに登場するのは男女なのだが、実は女忍者(くノ一)がやたらに美形だ。そして豊胸。どうみてもモデル。さらに紺ではなく赤い装束を身に着けているが、これは撮影用だろう。赤なら直ぐにスパイとわかる。そしてこのくノ一だが、格闘ビデオを見ると、やたらに強い。鎖鎌などを振り回すのだから、尋常じゃない。鎖鎌が使えるモデル、ということだ。そして、敵を倒した後、鎌を逆手に持って、敵の男の急所を下からグサットえぐるのだが、見ていておもわずチビリそうになってしまい、そっとナゼナゼしてしまった。ホッ。

ところで、この忍者博物館の前に「蕎麦屋」があるのだが、そこの「とろろそば」は絶品。生涯で食べた最高のとろろそばである。蕎麦は十割ではないだろうか。そして冷たい。すりおろされたとろろは、一粒ずつが米粒大の大きさである。わさびも天然物のすりおろし。言うことない。言葉を失う幻術の味だ。

今度は伊賀上野シリーズに突入。  

カワサキワールド(神戸海洋博物館)&南京町

2006-07-20 00:00:56 | 美術館・博物館・工芸品
3990fe28.jpg神戸シリーズ最終回は、メリケンパークにある川崎ワールド(神戸海洋博物館)と南京町。

カワサキワールドというのは、元々川崎重工の造船所が神戸にあったことからなのだが、この川崎重工というのも様々なものを作っている。大きくいものが得意だ。たとえばヘリコプター、オートバイ、新幹線。風力発電や地雷探知システム。そして軽飛行機や鉄道車両。新幹線もある。新幹線の旧型の車両の先端部分が展示されてるので運転席に座ったら、ずいぶん狭い。速度計は260キロまで表示できるようになっているが、古い車体は最高速度230キロぐらいまでだったのではないだろうか。中には、260キロまで出してみようかと思う運転士はいなかったのだろうか。

そして、動かないものも作る。明石海峡大橋。そして先日書いた永代橋がそうだった。永代橋は当時の先端技術の極みだったそうだ。

実は、神戸ではまったく気付かなかったのだが、後で美術品の本を読んでいたら、川崎財閥のことに関連した記載があった。初代社長である松方幸次郎(薩摩出身の松方正義首相の三男)が私財を投じてフランスで美術品を収集した、大量の「松方コレクション」のことだ。

私財といっても社長なのだから、自分の給料を高くすればいいだけ。要するに会社のカネのようなもの。それほど川崎重工がもうかっていたかというと、造船業は大もうけだったのだ。日清・日露戦争と日本は軍艦を大量に必要としていた。さらに第一次大戦の頃は海外からの軍需が増大。潜水艦など造っていたわけだ。発注してから進水するまでに5倍も値上がりするほどのブームが続く。要するに、多くの人が死んだり捕虜になったりしていた裏側で大儲けし、その利益が美術品に交換されていた。絵画の多くは日本に運ばれていたのだが、一部はフランス国内の倉庫に保管していたそうだ。

ところが、景気が悪化し、松方は会社を追われる。コレクションは担保で押えられてしまう。その後、第二次大戦がはじまり、すべてがめちゃめちゃになる。フランスの倉庫はフランス政府に押収される。一方、ドイツはゲーリックが仏露から美術品を略奪し、一部を換金し私腹を肥やす(いかなる政治形態でも人間の不正行為はに同一行動パターンが見られる)。

第二次大戦終結後の戦後処理のテーマの一つが美術品の帰属問題であり、ドイツが集めた美術品の大部分はロシアやフランスに返還される。しかし、フランスにあった松方コレクションの一部は、とうとう返してもらえないまま決着をつけられてしまったわけだ。領土問題と同じだ。さらに、日本に残っていた僅かな松方コレクションは国に寄贈され、上野の国立西洋美術館の母体となる。

西洋美術館はル・コルビジェの設計で、あまり好きなデザインではない。まあ、どこの国でも自国の建築家に設計を頼むのは、争い事の元になるのか、逆にオランダのゴッホ美術館は黒川紀章のデザインによる。そして、その西洋美術館の前にはロダンの「考える人」が座り続けるが、この世界に20体あるとされる「考える人」のうち、”もう一丁”を15億円で買った斉藤某なる某製紙会社社長は、松方幸次郎ほどの目利きができず、「絵画は高ければ高いほど上昇率が大きい(本当はボラティリティが大きいだけ)」と思い込んで会社が赤字になっても、ゴッホゴッホと買い続けて、結局ほとんど失うことになった。


3990fe28.jpg話を上野から再び神戸の町に戻してみる。南京町。日本三大チャイナタウンの一つといっても、長崎は小さいので、神戸対横浜になるのだが、神戸の南京町はずいぶん狭い。おおざっぱにいうと、まっ直ぐな通り一本に若干の小骨がついている程度である。横浜中華街は線ではなく面で拡がっているので広く、中華料理店も多い。華僑の数は横浜より神戸の方が多いらしいのだが、神戸は職住分離しているためだ。

神戸と横浜。中華街で感じた差は、人口密度。神戸は店が密集していて、さらに道いっぱい人があふれる。横浜は普通の中華料理店が立ち並ぶが、神戸では約半数はテイクアウトの店のようだ。そして、狭い路上で立ち止まって食べる。途中の広場のベンチで食べる。どうみてもアジアだ。元町も三宮もそうだが、神戸は、「アジア共通、夜の騒然」ということだ。

そして一日の終わりは、例の三種類の電車でそれぞれの家に帰るわけだ。  

幼稚園&トマトと

2006-07-19 00:00:46 | The room of Sora
641aeee3.jpg”Sora”も7ヶ月になって、相変わらず見知らぬ人、犬、自動車、電話の音・・・・にワンワン吠えたてる。シュナウザーの本家ドイツは国家としては60年間も牡蠣のようにおとなしいのに・・特に、同族と散歩ですれ違ったりすると、親愛の意思を相手に伝えるのに、立ち上がって、上を向いて思い切り吠える。そしてみんな逃げて行ってしまう。ああ・・

近くのドッグカレッジ○○○○というところで「小犬の幼稚園」を募集しているので、週1×4で各2時間。最初は車酔いするは、吠えるや暴れるやなのだが、要するに挨拶のつもり。トレーナーの方々や一緒に入園した相棒のところにいって、一回1分ずつ吠えてみるわけ。まあ、初対面だとびっくりだが、慣れれば相手(人または犬)も驚かない。

641aeee3.jpgそして、トレーニング中はさっぱりマイペースで、「お座り待て」とか「伏せ」とか全然ダメなのだが、仕上げのテストの時だけなぜか要領よくごまかしてしまう。最後はリードなしで犬同士が並んで記念撮影をするという企画なのだが、不思議なことに、「微妙な距離」をおいて「お座り」する。50センチ以内に近づけるとスッと距離をとる。飼い主がそばにいると犬同士で遊ぶのだが飼い主から離れるとやはり不安が残るのだろう。飼い主=米国と考えると、日、中、韓の関係のようなものだ。


641aeee3.jpgトマト増産中である。なんとか目標の収穫量20個まで行きそうである。無農薬なので犬が食べても大丈夫だが、興味はないようだ。ところで「桃太郎」という名前のトマトがあったが、妙な名前だ。腰の袋からトマトを取り出して犬と猿と雉に食べさせるのだろうか。たぶんキビダンゴと同様に誰も食べないだろう。江戸時代は二食制が一般的で、街道筋や茶店で食べる「団子」はエネルギー補給のためだった。さらに、アンデス出身のトマトは日本には観実植物として入国した。おっと、話がそれてしまうので、ここまで。

横浜の人口が最も多い日、さらにα

2006-07-18 00:00:34 | しょうぎ
60e3de72.jpg横浜市の人口は現在、3,598,493人である(約360万人)。そして、その人口がさらに膨張する日がある。7月16日。「横浜国際花火大会」である。山下公園を中心に約50万人が集まる。50万人!といったら凄い人数である。北朝鮮陸軍の1/2。例が悪すぎるか。

そして横浜のワールドポーターズというショッピングモールの一角で別の企画がある。「第22回全国詰将棋大会」。参加者125人。街が浴衣姿の女性で溢れるのに、何と場違い。個人的には、2日前に大腸カメラをやったばかりで、昨日、庭に這いつくばってガーデニング中に腹痛で倒れこむ始末だったので、どうしようかと思ったが、”飲まなければ大丈夫だろう”、と非科学的判断で会場へ向かう。数日前に書いた、「あかいくつバス」のボランティアガイドのmacさんが乗っているはずの桜木町発12時のバスに乗る。

お:macさんですか?
m :そうですが・・
お:おおたです・・
m :えっ、おおたさん・・

でも会話はそれだけ、どっどっどっとお客様がバスに乗り込んできて・・

せっかくmacさんが、「右に見えるのが、日本で一番高いランドマークタワーで・・」というところで、一人だけ反対側の日石ビル1階のブライダル用品店の前で、ゴタゴタしていたカップルを観察していると、私の周りの乗客が右ではなく左ばかり眺めはじめたのだけど、ゴメン。紫のゴンドラの話、どうもありがとう。


60e3de72.jpgそして、夕方の花火大会に備え、あちこち人間の歩くルートも指定されていて、詰将棋会場は遠い。やっと到着した。

実は、詰将棋を本格的にどんどん作りはじめてから1年強くらいだ。問題を解く方はぼちぼち続けていたのだが、やはり解くのと作るのでは感覚は違う。一体、詰将棋作家とはどういう人たちか知りたいというのが最大の目的。

それで、参加125人をじっくり見ると二つのタイプに分けられる。「マニア」と「一般人」である。要するに人生を詰将棋に賭けたような人が半分くらいということ。ちょっとこわい。私は「一般人」の方だ。詰将棋は時々、1、2時間集中して取り組むが、普段は忘れている。超満員電車なんか乗ると、頭の中で製作中の問題を検討したりはするけど。


名前は隠していたのだが、一人ずつ自己紹介の時間があり、「難しい問題よりも、解いたときに嬉しくなるような問題作り」。「双玉では、逆王手をかけられると失敗ということが普通だが、逆王手シリーズにこだわっている」というようなことをしゃべったような。専門誌の人がやってきて、是非、「大道詰将棋問題を・・」というような依頼があった。ブログを書くほうがずっと楽だ。もはや日本から絶滅寸前の大道詰将棋屋にでもなれというのだろうか。1手100円で、40手ほど逃げ回って、「おきゃくはん、こりゃーつまねーざんす。このへんであきらめまひょうや・・4000円ちょうだいいたひまひょ~。」とかだ。道路占有、賭博、詐欺、脅迫等の罪になる可能性がある。ついでに、たいてい脱税もだ。最初から刑務所で開帳する方法もある。

さらに、自己紹介の時に、「数年間、家族と連絡を絶って住所不定なのだが、専門誌の郵送先だけは連絡している。写真は勘弁を・・」という人や「今日を限りで詰将棋から足を洗おうと思っていたが、やはり続けることにした」とか・・。”写真は勘弁を”というお願いに対する配慮もなく、大会公式ブログには画像があった。開会前の一コマ。

60e3de72.jpgそれで、大体の感じはつかめたのだが、○○会というような、同人の集まりに入るのは遠慮しておくことにしておく。ちょっとマニアについていく自信もない。会場のあちこちで、「ところで煙詰めはいくつ作りましたか?」とか、「500手詰以上は難しいですなあ」とか、「ところで、○○さんの墓石は駒形になったそうですよ」とか・・聞こえたような気がした。


では、この詰将棋全国大会での課題、「握り詰」に挑戦した拙い自作の解説。出題駒は、玉、飛、金金、銀銀、桂、香、歩歩歩歩の12枚。いかにも苦手だ。私の得意なのは、「玉王、飛飛、角角、香香香香」みたいな問題。「拙い」と書いたのは、いくつかのキズがあるからだが、完成してから直すのはなかなか難しい。駒数が制限されているからだ。時間もなかった(最低のいいわけだが)。

60e3de72.jpg初形(1図)で歩が斜めに4枚並んでいるのが、元々の構想だったのだが、その構想はまったく面影がなくなっている。

▲6五金、△同銀、▲同飛(2図)。要するに金と銀を始末する。ここで後手が△7三玉と逃げると、例えば▲8四銀、△同玉、▲8九香などで詰む。したがって2図より、△5三玉、▲5四歩、△4四玉、▲3六桂、△3三玉(3図)となる。

ここで▲2四銀と打ちたいが詰まない。正解は3図から、▲4四銀、△2二玉、▲3三銀(▲6二飛成は△3二桂)、△3一玉、▲3二香(香を打たずに▲6一飛成は△4一桂で不詰)、△4一玉、▲6一飛成(4図)。ここで後手は5一に合駒をするのだが、歩でも香でもいい。3手先に先手に取られ、5手目に使われるのだが、どちらでもいい。キズ1だ。

仮に歩で合をすると、4図から、△5一歩、▲3一香成、△同玉、▲5一龍(5図)。(4図で香合だと持駒が香になっている)。ここで次のキズがある。後手の4一への合駒だが、飛角金桂は早詰め。題意は歩合だが、銀合でも同じ。香合でも詰むが・・。キズ2。5図から、▲3二歩、△2一玉、▲4一龍、△1二玉(6図)。

ここで、5図で香合していると、▲1四香、△1三合、▲同香成以下、本譜と同様で2手長く、合駒が残ったまま詰む。いわゆる変長(変化2手長駒余り順)ということで、詰将棋作家が保護されている(が、すっきりしない)。で、変長は後手無効として、5図で歩合とすると、6図の時の持駒は歩1枚。

6図から、▲1三歩、△同玉、▲1一龍、△2三玉、▲2四銀成、△3二玉、▲3三成銀まで31手詰(7図)で詰上りである。(後手側の歩を5七と4七に2枚追加すると解答は限定されるが)

そして、こういうものでも大家はスゴイ詰将棋を作る。実は、当日は、21題が披露され、人気投票を行うのだが、驚異の一作があった。こういう問題。解答は、クリック!。飛車不成4回。4回目の不成が打歩詰防止なのだが、それまでに龍になっていると詰まなくなっている。まいったまいった。


60e3de72.jpgところで、運悪く、花火開始の1時間半前に自宅に帰ることになったのだが、数十万人の大群と向き合って逆方向に歩かねばならないのだが、その大群の大部分はカップルであるのだが、しょうもない法則を発見。

つまり男女ともに美形と醜形がいるわけだ。カップルの組合せは「美美、美醜、醜美、醜醜」の4通りになるはずだが、実際には3通りしかない。美女×美男というカップルがない。たぶん、美女、美男というのは、いつもチヤホヤされるだけで、パートナーをもてなすといった技を習得する必要がない。要するに、自業自得ということだ。