香山リカ氏を基点に「愛国」を読み、白洲夫妻へ

2007-01-07 00:00:17 | 市民A
c302113a.jpg前の首相とはまったく異なる次元で、今の首相のわからないことが多々あるのだが、「国」というものの概念がそうだ。小泉総理の時は、とりあえず愛国心など語る余裕もなく、バブル崩壊にストップをかけるまでが任務、ということで、その面の評価は後世に高く残るのだろう(もちろん、総理より竹中平蔵の方が名を残しそうな気もする)。政権末期には、教育基本法や国民投票法、共謀罪などにすべて蓋をかぶして、外遊にふけったのだが、案外、小泉総理は「アナーキー」に近い部分があったような気もするし、「靖国神社問題」で、深くその真意を語らなかったことからみて、「君主制」に共感していなかったのではないかとも思っている。

一方、安部政権も「美しい日本」というシャボン玉的レトリックを空中に浮かべてみたものの、はっきりいって、1980年代後半に始まったバブルとその後の崩壊は、国民の心に醜い傷跡を残し、また物理的にも街はメチャメチャに醜くなった。そして普通の頭脳で考えればすぐわかるのは、それらの精神的あるいは都市(および農村)美学的な美しさを取り戻すためには、途方もなく多額の予算が必要になり、それは無理だろうということ。

そしてレトリックによく登場する「国を愛する国民」ということばに、どうも引っかかりを感じていたのだが、香山リカ氏の著書にそれらの愛国精神の高まりについての記述があった。まず、「愛国問答/香山リカ+福田和也(対談集)中公新書」を読み、補足として、福田氏と香山氏の関連書籍もあたってみた(香山氏・私の愛国心・ちくま新書/福田氏・なぜ日本人はかくも幼稚になったのか・ハルキ文庫)。

「愛国問答」の中で、香山氏は、昨今の愛国精神の高まりについて、旧来の政治的ウヨとしての愛国者とは異なる二つのタイプの愛国グループを提示している。その前に彼女は、福田和也氏のことを「思想としてのウヨ」とし、いかにも旧型人間のように婉曲に揶揄している。つまり、もはや、現代の社会には、旧来型の右と左という対立は、単に机上や論理の世界に存在するだけであるとする。日本のどこにも国家主義も社会主義も単に空論として存在するだけで、要するに、すべて資本主義の中で人は生活しているだけであるとする。

そして、香山氏がいう二つの愛国主義(ぷちナショ)だが、一つ目は富裕層の愛国主義。おりしもアッキーブログ(というべきかどうか不明だが)が「勝ち組ブログ」と批判されているのが、まさにその例だが、リッチ階級は、国内から犯罪を一掃し、フリーターとか、年収300万円以下とか、とんでもない人達は、社会の一部に隔離してしまい、銀座通りなどでは目に付かないようにしてしまいましょう。ゴールドカード一枚持ち歩けば、安全な生活ができるように、政府の強権を期待するという考え方。つまり愛国というのが政府の高額納税者に対するサービスの向上と思っているグループである。

そして二つ目の愛国心として提示するのが、逆にプアマン型愛国心。想像のとおり、富の再配分と、年金や健保や介護保険の破綻のつけは、国民みな平等に傷みをわかつべきとし、優遇層への課税強化と破綻行政への税金投入を要望する層ということ。

つまり、どちらも「国」というものを、「公的サービス」という意味に考えているだけで、愛国というのが、概念としては同じでも、目標が正反対の方向を向いている、と述べている。

そして、私見だが、まったく愛国的でないのが、官公庁(中央・地方)の役人で、現状維持の保身主義が大好きというグループである。

整理してみると、国ということばを思想的にとらえようとするものは、右であれ左であれ架空の観念論であり、階級的にとらえようとするものは、どちらも声を大にして公的サービスの充実と、それと等価交換としての愛国心を持っているのだが、実は上流階級と下流階級では正反対の理想を持っている。そして、国家とかなり近い存在の公務員にはまったく愛国心がない。ということだろう。

この対談本では、香山氏から観念論と念を押された福田氏が、いつものように観念論の論戦を仕掛けるのだが、職業柄(香山氏は精神医学者)話がかみ合わない人間の扱いに長けた香山氏に闘牛の牛のようにあしらわれて終わる。


ところが、実は、私は、昨年の後半あたりから、日本における愛国心は後退を始めているのではないか、と感じている。いかになんでも、国家に過度な行政サービスを期待をしても報われないのは冷静に考えればわかる。さらに、国の中で、虚ろな愛国論争を展開したところで、国益としてマイナス以外何もないのも認識できるわけだ。愛国心よりもミサイル防衛網の方が優先なわけだ。


c302113a.jpgそして、一つの兆候なのだが、白洲次郎と白洲正子のライフスタイルがはやっている。馬場啓一氏が書いた二冊の講談社文庫を読んだのだが、ブームの割りにあまり面白くない。それは馬場氏の表現の問題ではなく、まさに彼ら夫妻が、人生を「プリンシプルを貫くように」生きたことによるのだろう、と私は思う。金太郎飴の人生は、伝記にすると逆に面白くない。人間としてのたうちまわったり転向したり、裏切ったり、成功したり失敗したりというのが伝記の華だからだ。まさに、個人主義の塊である白洲夫妻の生き方は、どこまで行っても、「国家と対峙する個人」という存在があるだけなのだ。

そして、表層的な話かもしれないが、2006年にあった国家的イベントである冬季五輪もWBC(野球)もワールドカップも今年2007年には何もないのである。当面、国民が団結して、こぞって応援するものがないだろう1年なのである。