有名な小説というのは知っていて、文庫本で654ページ。解説は藤田香織で10ページもある。ずいぶん前だが、著者の中期までの小説(落花流水・プラナリア・アカペラなど)を読んでいて、作家を目指していた人にも勉強のために読むことを勧めていた。
読みやすい作家とか読みにくい作家というのもあり、実は読みやすいように見えてなかなか前に読み進めない作家や、読みにくいが読みだすと読み進める作家(川端とか三島とか)とかいろいろだが、山本文緒は読みやすく、また読み進めやすいという特徴がある。場面場面で主人公が変わる場面もあるが、段落の早々で読者がわかるようになっていたり、会話の場面では、それぞれに言い癖をつけたり細かいところがいい。
しかも、舞台が茨城県の牛久。今年の春にいっている。小説に出てくる牛久大仏や、関東でも有数のアウトレットや小説に登場する牛久シャトー(ワイン醸造所跡)のレストランとかリアリティがあった。
主人公の都は33~34歳の未婚女性で、母の介護や職場(アウトレットの店員)のゴタゴタで色々と疲れている。偶然知り合った謎の男、貫一と体を重ねるようになったが、結婚を考えようにも相手の正体がつかめない。といっても小説なので、少しずつ見えていくわけで、元ヤンキーで中卒で寿司屋の息子でボランティア好き。父親は養護施設にいて・・
なにしろ600頁超なので、直ぐには進まない。両者の友人たちが出てきたり、年下のベトナムの金満青年が出てきたり・・
ベトナムというと、プロローグの場面で「わたし」のベトナムでの結婚式が始まる。そして物語は主人公「都」に引き継がれる。そして、エピローグの場面で「私」の結婚式が終る。読者は「わたし」と「都」は同一人物か否かを気にしながら読み進まないといけない。
著者は25歳から少女小説を量産。5年ほどして一般小説に転進。2000年、37歳で直木賞を受賞したが、3年後の2003年、うつ病により執筆困難になるも7年で再開。さらに満を持してという形で渾身の本作を2020年に発表。翌2021年の前半は本作に対する受賞が続き、秋10月に膵臓癌で他界した。
彼女の小説群の登場人物の誰よりも劇的な人生となるとは・・
AMAZONで書評を見ると、多彩な意見がある。
小説を読むときに(あるいはドラマや映画でも)、登場人物の気持ちに入り込む読者がいる。実話漂流記とかは登場人物に没入した方が面白い。生きて帰ってきたから漂流記が書けるとか客観的に読むと面白くない。
本書でいえば、感情移入の対象は、「都」あるいは「貫一」。場合によっては「都の父親」とか「母親」ということになる。実際「都」はよくいる普通の女性なので、社会生活でも恋愛でも結婚観とか社会正義とかそういうものも打算的な考えをすることがある。「貫一」の方が純粋的だが、それでも過去の秘密があったり、「都」の父母に会う時には妥協的な態度をとる。これがこの小説が好きとか嫌いといった評価につながるわけだ。
一方、人物に入りこまないで俯瞰的に小説を味わう人も多い。たぶんミステリ好きとかには多いかもしれない。著者に騙されるからだ。本の中で動き回る登場人物とそれを観察する読者の私といった構造だ。本作はどちらかというと後者に近い立場で読んだ。そうなると多くの登場人物の絡み合いがおもしろい。自由主義社会ってこういうものだというような気持になる。長編小説だと人物に入れ込み過ぎると疲れるし、期待する行動とずれていくと違和感が始まるので。少しだけ離れた立場で読むことが多い。
読みやすい作家とか読みにくい作家というのもあり、実は読みやすいように見えてなかなか前に読み進めない作家や、読みにくいが読みだすと読み進める作家(川端とか三島とか)とかいろいろだが、山本文緒は読みやすく、また読み進めやすいという特徴がある。場面場面で主人公が変わる場面もあるが、段落の早々で読者がわかるようになっていたり、会話の場面では、それぞれに言い癖をつけたり細かいところがいい。
しかも、舞台が茨城県の牛久。今年の春にいっている。小説に出てくる牛久大仏や、関東でも有数のアウトレットや小説に登場する牛久シャトー(ワイン醸造所跡)のレストランとかリアリティがあった。
主人公の都は33~34歳の未婚女性で、母の介護や職場(アウトレットの店員)のゴタゴタで色々と疲れている。偶然知り合った謎の男、貫一と体を重ねるようになったが、結婚を考えようにも相手の正体がつかめない。といっても小説なので、少しずつ見えていくわけで、元ヤンキーで中卒で寿司屋の息子でボランティア好き。父親は養護施設にいて・・
なにしろ600頁超なので、直ぐには進まない。両者の友人たちが出てきたり、年下のベトナムの金満青年が出てきたり・・
ベトナムというと、プロローグの場面で「わたし」のベトナムでの結婚式が始まる。そして物語は主人公「都」に引き継がれる。そして、エピローグの場面で「私」の結婚式が終る。読者は「わたし」と「都」は同一人物か否かを気にしながら読み進まないといけない。
著者は25歳から少女小説を量産。5年ほどして一般小説に転進。2000年、37歳で直木賞を受賞したが、3年後の2003年、うつ病により執筆困難になるも7年で再開。さらに満を持してという形で渾身の本作を2020年に発表。翌2021年の前半は本作に対する受賞が続き、秋10月に膵臓癌で他界した。
彼女の小説群の登場人物の誰よりも劇的な人生となるとは・・
AMAZONで書評を見ると、多彩な意見がある。
小説を読むときに(あるいはドラマや映画でも)、登場人物の気持ちに入り込む読者がいる。実話漂流記とかは登場人物に没入した方が面白い。生きて帰ってきたから漂流記が書けるとか客観的に読むと面白くない。
本書でいえば、感情移入の対象は、「都」あるいは「貫一」。場合によっては「都の父親」とか「母親」ということになる。実際「都」はよくいる普通の女性なので、社会生活でも恋愛でも結婚観とか社会正義とかそういうものも打算的な考えをすることがある。「貫一」の方が純粋的だが、それでも過去の秘密があったり、「都」の父母に会う時には妥協的な態度をとる。これがこの小説が好きとか嫌いといった評価につながるわけだ。
一方、人物に入りこまないで俯瞰的に小説を味わう人も多い。たぶんミステリ好きとかには多いかもしれない。著者に騙されるからだ。本の中で動き回る登場人物とそれを観察する読者の私といった構造だ。本作はどちらかというと後者に近い立場で読んだ。そうなると多くの登場人物の絡み合いがおもしろい。自由主義社会ってこういうものだというような気持になる。長編小説だと人物に入れ込み過ぎると疲れるし、期待する行動とずれていくと違和感が始まるので。少しだけ離れた立場で読むことが多い。