動物裁判 -西欧中世・正義のコスモス-(池上俊一著)

2024-08-15 00:00:02 | 書評
講談社現代新書の中の一冊。動物裁判とは何だろうか。タイトルがおもしろいので図書館の電子書籍で借りてみた。



ある意味、奇書の一形式だろうか。普通の奇書は著者が奇抜なことを書くのだが、本書は奇抜なことを分析的に書いている。奇抜なことというのは、オカルトとか非現実なことを指すことが多いが、この動物裁判は、人類の妙な歴史の中で、動物を捕まえて、裁判にかけるという、およそ日本人(だけではないだろうが)には想像もつかない史実の研究と考察ということ。

本書で取り上げられる動物裁判の時代は12世紀から17世紀ころまで、日本でいうと平安時代後半から、鎌倉時代、室町時代、戦国時代、そして江戸時代の始め頃まで。(当時の日本と比べる意味はないが)場所はドイツ、フランス、イタリア、スペインなど。カソリック教会が絶大な権限をもっていて、裁判権を持っていた。

著者はどういう場合に動物が裁判にかけられるかということを各国語の資料を基に研究している。

もっとも多いのが、ブタによる殺人で、当時のブタは改良が進んでなく、野生の猪と同じようなもので、父母が農作業に行っている間に、家においていた子供が食い殺されるという事件が多かった。その場合、当該のブタが捕まり、後ろ足を縛られ木に吊るされて殺されていた。その場合、ブタの立場で弁護するいわゆる動物弁護士がついていた。例えば、何らかの理由で空腹に耐えかねたブタの事情を主張したりした。

また日常的に、街中をウマやウシが歩いていたわけで、興奮して暴れることによる傷害も多かったようだが、その場合、飼い主ではなく動物が悪いとして裁判にかけられ動物弁護士が刑を軽くするといったことになっていた。

さらに、教会裁判所で判決を言い渡されるのが、一頭ずつ捕まえることができないハエとかネズミ、イナゴやヘビといった小動物で、そのうち何匹かを捕まえて、裁判にかけていた。全容疑者を処刑することはできないので、そういう場合は死刑以上の刑といわれる『破門』を宣告していた。不思議なことに破門すると害がなくなるといわれていたが、そもそもそういう集団小動物の農害は、時期が来ると消え去るわけだ。

さらに、動物の殺人よりも重刑が待っていたのは獣姦罪。もっとも動物裁判の類ではないだろう。動物は被害者の方だろう。この場合、人間側が男でも女でも相手にした動物と一緒に火刑にされ、灰になるまで焼かれた後で灰を空中に飛ばされるか、穴の中に先に人間の灰を埋めた後に上に愛獣の灰を重ねられ土を掛けられていた。あまりの重罪ということで、取調官が汚れるということで、直ぐに灰にされたようで、虚偽の密告で濡れ衣を被った者が多いのは魔女狩りと同じだ。現代社会ではなんらかの罪になるのだろうか、動物愛護法違反ということだろうが、気持ち悪いが灰にはされないだろう。

裁判の対象は徐々に広がり、森とか果樹園とかの植物まで有罪になっていた。


これらの事実認定の後、著者は動物裁判の真因と17世紀以降、みられなくなったことについて分析する。


そもそも元になるキリスト教の聖書はエルサレムという比較的住みにくい場所から興った。多くの動物は敵なのだが、森からオオカミが出てくるような場所ではなかった。そのため、人間が十分に動物を支配できる場所だった。つまり原初的に人間優位の思想があった。

ところが、西欧、中欧にキリスト教が広まると、地域が増え、森の中には様々な温帯性の動物がいて、生息していたのに、人間の方が勝手に動物を捕まえて犯罪者として扱ったわけだ。

つまり人間と動物が自然界の中で共存していた欧州に人間優位のキリスト教が普及することにより、動物に罪を与えていたわけだ。

そして、教会の力も落ち、科学の時代になるにつれ、動物裁判の滑稽さから、ついに行為としては消え去ったのだが、現存する中世の裁判記録には明確に記録されて残っているわけだ。


ところで、近年の日本で多発している、熊被害。特定のエリアから出た熊は射殺してもいいことになっているわけだが、動物裁判そのもののような気がする。

芝生の復讐(リチャード・ブローティガン著)

2024-08-09 00:00:34 | 書評
カウンターカルチャーの旗手、リチャード・ブローティガンの短編小説集。短編と言ってもかなり短い。藤本和子さんの翻訳の文庫本254ページに61篇なので、一篇あたり4ページぐらい。星新一のショートショートとほぼ同じだ。



そして、第一編で、「わたし」の祖母の話が出てきて、禁酒法時代にバーボンの密造で大金持ちになったと書かれていて、小説なのか、自伝的エッセイなのか判別できなくなってしまう。61篇のすべてが主語が「I」つまり私なので、エッセイのようでもあり小説の様でもある。小説ならリアリティがなくてもかまわない。

彼の有名な作品で「アメリカの鱒釣り」というのがあるのだが、途中で、アメリカの鱒釣りの中で2篇の原稿をなくしてしまったので、それには追加しないで、あらためて本書に書いたとあるので、いかにもリアルなのだが、最後の方では、「アメリカの鱒釣り」を書いたブローティガンには申し訳ないが、わたしも同じようなテーマで書いてみたい、と別人を装ってみたりする。



書棚を探してみると、ペーパーバックで三冊見つけた、一冊は、上記の「アメリカの鱒釣り」。もう2冊は詩集。詩集。もう一度読む気力はない。

荷風の昭和(川本三郎著)

2024-08-08 00:00:16 | 書評
新潮社の月刊書評誌『波』に長々と連載が続けられていたが、ついに完結した。毎月の分量(原稿用紙30枚分程度)を3年だと1080枚。3年より長いような気もするが確認できない。

それで著者の方針は、「作品論」ではなく「作者論」。永井荷風と他者の関係を負いながら、彼の行動から、当時の荷風が何を考えて行動したかを書いている。あるいは、荷風が後世に記録を残したくないような取材と称した遊郭通いを暴いていたりする。

疎開先でのできごとまでしっかり書かれているので、調査は相当深いのだろうとはわかるが、作品論の方を読みたかったのが本音。

作家の立場だって、世の中との接点は作品という形だけにしたいはず。

来月号からは、この空いた10ページに何を詰めるのだろう。

ところで、これから単行本として発刊されるそうだが、タイトルは「荷風の昭和」のままなのだろうか。半藤一利氏の著に『荷風さんの昭和』とか『永井荷風の昭和』という著がある。

自転しながら公転する(山本文緒著)

2024-07-31 00:00:08 | 書評
有名な小説というのは知っていて、文庫本で654ページ。解説は藤田香織で10ページもある。ずいぶん前だが、著者の中期までの小説(落花流水・プラナリア・アカペラなど)を読んでいて、作家を目指していた人にも勉強のために読むことを勧めていた。



読みやすい作家とか読みにくい作家というのもあり、実は読みやすいように見えてなかなか前に読み進めない作家や、読みにくいが読みだすと読み進める作家(川端とか三島とか)とかいろいろだが、山本文緒は読みやすく、また読み進めやすいという特徴がある。場面場面で主人公が変わる場面もあるが、段落の早々で読者がわかるようになっていたり、会話の場面では、それぞれに言い癖をつけたり細かいところがいい。



しかも、舞台が茨城県の牛久。今年の春にいっている。小説に出てくる牛久大仏や、関東でも有数のアウトレットや小説に登場する牛久シャトー(ワイン醸造所跡)のレストランとかリアリティがあった。



主人公の都は33~34歳の未婚女性で、母の介護や職場(アウトレットの店員)のゴタゴタで色々と疲れている。偶然知り合った謎の男、貫一と体を重ねるようになったが、結婚を考えようにも相手の正体がつかめない。といっても小説なので、少しずつ見えていくわけで、元ヤンキーで中卒で寿司屋の息子でボランティア好き。父親は養護施設にいて・・

なにしろ600頁超なので、直ぐには進まない。両者の友人たちが出てきたり、年下のベトナムの金満青年が出てきたり・・

ベトナムというと、プロローグの場面で「わたし」のベトナムでの結婚式が始まる。そして物語は主人公「都」に引き継がれる。そして、エピローグの場面で「私」の結婚式が終る。読者は「わたし」と「都」は同一人物か否かを気にしながら読み進まないといけない。

著者は25歳から少女小説を量産。5年ほどして一般小説に転進。2000年、37歳で直木賞を受賞したが、3年後の2003年、うつ病により執筆困難になるも7年で再開。さらに満を持してという形で渾身の本作を2020年に発表。翌2021年の前半は本作に対する受賞が続き、秋10月に膵臓癌で他界した。

彼女の小説群の登場人物の誰よりも劇的な人生となるとは・・

AMAZONで書評を見ると、多彩な意見がある。

小説を読むときに(あるいはドラマや映画でも)、登場人物の気持ちに入り込む読者がいる。実話漂流記とかは登場人物に没入した方が面白い。生きて帰ってきたから漂流記が書けるとか客観的に読むと面白くない。

本書でいえば、感情移入の対象は、「都」あるいは「貫一」。場合によっては「都の父親」とか「母親」ということになる。実際「都」はよくいる普通の女性なので、社会生活でも恋愛でも結婚観とか社会正義とかそういうものも打算的な考えをすることがある。「貫一」の方が純粋的だが、それでも過去の秘密があったり、「都」の父母に会う時には妥協的な態度をとる。これがこの小説が好きとか嫌いといった評価につながるわけだ。


一方、人物に入りこまないで俯瞰的に小説を味わう人も多い。たぶんミステリ好きとかには多いかもしれない。著者に騙されるからだ。本の中で動き回る登場人物とそれを観察する読者の私といった構造だ。本作はどちらかというと後者に近い立場で読んだ。そうなると多くの登場人物の絡み合いがおもしろい。自由主義社会ってこういうものだというような気持になる。長編小説だと人物に入れ込み過ぎると疲れるし、期待する行動とずれていくと違和感が始まるので。少しだけ離れた立場で読むことが多い。

紫式部日記を新旧で読む

2024-07-15 00:00:05 | 書評
約2日かけて『紫式部日記』を読む。まず古語、そして注釈、そして現代語訳。困ったことに現代語訳から読むと、注釈が読めない。



それでも原文を少し読めば「源氏物語」と同じ、どこかに恐怖感がわきあがるような文体が迫ってくる。「おどろおどろしい」と表現されるような圧迫感がある。


この日記だが不勉強で、完全なのか、一部散逸なのかよくわかっていない。大部分(8割程度)が歴史的記述でその中の一部には、紫式部の個人的見解が書かれている。また、1割は紫式部の意見、そして残り一割は個人的なぼやきのような感じだ。

まあ、一行ずつが研究者泣かせなのだと思う。

気になる道長との関係だが「親しすぎる」ことが解る。中宮彰子の女房になったのは道長の彰子陣営強化策だったそうだし、道長が源氏物語の清書前の下書きを読んでいたり・・・

道長チームの一員であったのは間違いない。

出るわ、出るわ、平安文学

2024-07-12 00:00:03 | 書評
少し、松尾芭蕉のことを確認したく、自宅の書棚の中を捜索したが、見つからず。



そのかわり、平安文学の本がたくさんあることに驚く。記憶にあったのは。「百人一首」大岡信と「和泉式部日記」。かすかな記憶が「枕草子(岩波文庫)」。残りの3冊は難解な本で、本当に自分でよんだのかな?書棚の1/4を捜索しただけなので、まだあるかもしれない。

折からのNHK大河「光る君へ」にちなんで全部を読み直そうかと思ってみたが、横浜市の電子書籍図書館に『紫式部日記』を見つけてしまい、一瞬で貸出し(というか借入の方が正しい表現)完了。

貸出し期間は2週間だが、1ページも開かないまま早くも4日間が経過。

芭蕉の本は、しょうがないので3冊をブックオフに注文することに・・

摩周湖紀行(林芙美子著)

2024-07-10 00:00:30 | 書評
夏の暑さに耐えかねて、涼しい本を読もうと思って、図書館の電子書籍を探すと、林芙美子著『摩周湖紀行』をみつける。



著者が北海道を旅行したときの紀行だが、意図的なのだろうが、なかなかいつの時の話かわかりにくい。何日目かに釧路にいるときに6月16日と書かれているが、それだけ。いつの頃なのかも明示されない。読むのに苦労する。

1日目は滝川駅から始まる。そのうち、彼女が樺太から帰る途中ということがわかってきた(樺太旅行のことも別に書いている)。つまり稚内から南下してきて、滝川駅で釧路行きに乗り換えようとするが、便はなく。三浦華園で一泊。そして翌日は釧路へ。20時間の移動。

実は釧路には知人がいて、その方に連れられて三日目(つまり6月16日)がはじまる。摩周湖だ。

その後、屈斜路湖、ライト式と書かれている近水ホテルに泊まり、川湯温泉を経て戻っていく。また釧路に戻り、滝川経由で函館に向かうわけだ。

ただの紀行ではないのは、あまり所持金がなかったようで、安い旅館を好んでいるように見えた。熊の毛皮に驚いたこととか、北海道の宿屋の食事は、牛乳と鮭と蕗ばかりと本音が出ている。

前段で書いたように、この旅行は樺太から北海道に来てからの話だが、樺太の時に話は別の機会に。

離陸(絲山秋子著)

2024-07-02 00:00:18 | 書評
昨年から寡筆の小説家である絲山秋子著作を読んでいる。年一作弱なので、追いつくこともできる。もっとも読者が作家に追いついても褒めてくれる人はいないだろう。



今回は『離陸』。その前に読んだ『薄情』とともに彼女の中期の作。(中期というのは私が勝手に分類しただけで、故人じゃないのだから、「初期の後半」となるのかもしれない。

主人公は20代中盤の男性で国交省の役人。たぶんキャリアなのだろうが、全国各地のダム湖とか山の中の施設の管理などをしている。本省と地方を2年刻みで往復しているのだが、過去に付き合っていて、行方が分からなくなった舞台女優の思い出から逃れられない。

その女優から逃れられないのは彼だけではなく、フランスには元夫と男児が残され、中東にもいたことが確認されている。それぞれの関連は解らない。どこに行ったのか探し始めたのが、フランスの元夫の友人。わざわざ日本の山奥に主人公に会いに来る。

いくつかのピースを組み合わせるもさらに深みに嵌っていく。彼女の年令すらわからなくなっていく。前の世界大戦の時にすでに成人だったのか。

400ページもある本なのだが、3日で読み切ろうと思っていたが、4時間で読み切ってしまったのだが、ミステリーの様に中盤で謎を散りばめたのに、あまり解決しないまま、さらに関係者が何も語らないまま、次々に亡くなっていく。結構な大不幸小説だ。

著者の初期の小説と中期の小説の間の作品を読んでいけば、この不連続感が埋まるのかもしれないと思うが、ちょっと休む。

C線上のアリア(湊かなえ著)進行中

2024-06-14 00:00:10 | 書評
朝日新聞朝刊の連載小説『C線上のアリア』が面白い。第71話まで進行。著者の湊かなえさんは「イヤミスの女王」といわれているそうだ。読んでいて嫌な気持ちになるミステリーということらしい。もちろん今や大家であり、連載小説のツボを心得ていて、ストーリーの展開に意外性が多く、読者の期待を膨らませる。

主人公の女性は、推定50歳位。幼少の頃に両親と死別し、叔母(弥生さん)が母親代わりで育ててくれ、成人後はそれぞれ独身のまま自分の人生を歩んでいたが高齢の叔母の住んでいる自治体から、認知症で家がゴミ屋敷になっていると連絡があり、叔母の家に戻るところから始まる。

展開としては、このあと、

  • 叔母を施設に入所させ、ごみの片づけを始める。
  • ゴミの中に思い出の品々を発見し、レースの編み物が趣味だったことを思い出し、面会に通う。
  • 開かずのダイヤル式金庫があり、弥生さんに聞くと、重要なものが入っていると言われるが、開け方がわからず、専門家に依頼し、数日で開けられたが、中にはコード付きのコンセントが入っているだけ。
  • 元々自分の部屋だった場所は、ほとんどそのままだったが、一冊の本『ノルウェーの森 下巻(村上春樹著)』が見つかった。高校三年の時のベストセラーで上巻の表紙が赤一色、下巻の表紙が緑一色だが、下巻だけだった。
  • 記憶を辿ると高三の時にボーイフレンド(邦彦)が『ノルウェーの森』を買ったと言っていて、弥生さんのもっていたビートルズのレコード(ノルウェーの森収録)と貸借交換したことを思い出す。ところが邦彦が渡したのは下巻だけで、上巻は自分で買ったのだが、しかし、下巻は確かに彼に返したはず。
  • 邦彦のことをSNSで検索してみると、妻や子供との家庭写真が並んでいて、暗い気持ちになったが、もう一回本を調べると、一番後ろのページに一枚のメモが挟んであって、「このメモを見たら本を返しに来てください」と書かれている。
  • なぜ、返したはずの本が部屋にあるのか不明ながら、主人公は「その場所」に向かうのだ。

というように、1週間ごとに新たな話が持ち上がってきて、飽きが来ないのだが、少し気になるのは、展開のつど、なにか未解決の伏線のようなものがあらわれ、放置される。金庫のところでも、なぜコンセントが入っていたのかとか、読者には関係がないような、ダイヤルの番号とか綿密に書かれていたり。ミステリ作家だけに、まったく先が読めないわけだ。

そもそも『C線上のアリア』というタイトルだが、読み始めた頃は、バッハの『G線上のアリア』と同名だと思っていたが、よくみるとGではなくC。

G線上のアリアはバイオリンの4本の幻の中の一番低音のG線だけで弾けるということなのだが、バイオリンの線はE線、A線、D線、G線なのでC線は存在しない。ヴィオラとチェロではC線が最低音を担当するので、イメージとしてはストーリーの全体が低音域の中で動いていくということを示しているのだろうか。そうなるとイヤミスの女王の本領発揮で死体がゴロゴロ、悲劇のどん底ということになるのだろうか。


本作の前の連載小説は歴史小説家の方の『人よ、花よ』だった。楠木正行(楠木正成の嫡男)の一生を書いたもの。歴史小説は自ずと歴史を大きく歪めて書いてはいけないので、なんとなく筋の展開に期待感が少なくなる。連載小説には向かないような気がする。

小説小野小町 百夜(高樹のぶ子著)

2024-05-24 00:00:04 | 書評
小野小町(おののこまち)といえば世界三美女といわれ、小倉百人一首の「花の色は・・・」は百首の中でも有名度ベスト3に入るだろう。絶世の美女といわれ、百夜(ももよ)伝説というのは、小町に短歌で愛を百回伝えると本懐を遂げるというもので、実際には本懐ではなく呪い殺されるというようなものだったような気がする。



一方、そんなに有名であっても生没年も親子関係も、さらに存在すらも確証がない。小野小町作という短歌の多くは、そうではないと思われていて、紀貫之らが編んだ古今和歌集18首は紀貫之を信じるとして彼女の作ということになっている。

本作にあるように彼女が何かの機会に詠んだ歌が京都の市井に流布している間に少しずつ変化しているということだろうか。

ということで本作では小野小町は小野篁(おののたかむら)の娘ということになっている。一説では、(本作では篁の弟と言われる)篁の子の小野良実の子とも言われるが、篁と小町の推定年齢の差は25歳ぐらいなので孫としては近すぎるかな。

その当時の京都は藤原良房(北家の事実上の始祖)が謀略を持って朝廷を支配していく時代で、文化人は生きにくい時代だったようで、小野篁も世間から引き込みがちで、あちらの世界に通じている人間と恐れられていた。

そして、本作には当時の魅力的な人物が次々に登場している。

そして、意識的なのだろうが、著者の高樹のぶ子氏の文体が、まさに源氏物語風で、小説の語り手がめまぐるしく変わる。物語を語る第三者だったり、小町の心中のことばだったりだが、あまり気にならない。というのも、ほとんどの場面に小町がいるわけだからだろう。

数か月前に紫式部の史跡を京都で巡った時に、雲林院の近くにある紫式部の墓はすぐそばに小野篁の墓があり、どうして時代が100年も違うのに近接しているのかという疑問があった。一説では小野篁は地獄の使いとして思われていて(体も巨大)、紫式部は源氏物語の中で嘘をたくさんついたので地獄に送られたということが共通しているといわれているそうだ。小町の晩年は伝わっていない(小説では生誕地の秋田へ向かう途中、白河の関で亡くなったことになっている)。

著者はあとがきに、今に伝わる小野小町像は男性中心の視点なので、・・・というように小町の名誉回復といようことが書かれていたのだが、そもそも実像が明確に判らない人物の小説なのだから、あえてそういう方向性まで書かない方が良かったかもしれない。

地名の謎を解く(伊東ひろみ著)

2024-05-20 00:00:14 | 書評
新潮選書のことだが、内容とタイトルが食い違っていることがある。本書もそういうところがある。

日本中には数万ではきかないほど多くの地名がある。できたてのものもあれば、千年以上前からの地名もある。地名とその語源は、多くは物語でつながっている。あるいは、つなげるために物語が作られることも多く。混在していて見分けることは難しい。嘘でも1000年経つと真実になったりする。



さらに、実際には千年どころか、日本が統一国家になった頃に留まらず、弥生時代やその前に1万年続いた縄文時代からの地名もあるようだ。

そして、縄文時代論になっていく。そもそも、依然考えられていた縄文時代人と弥生時代人の混血によって日本人が作られたというような簡単なことではなく、縄文時代人の段階でいくつものルーツがあったと考えられていて、それらのルーツにはもはや源流(アジアのとある場所)が絶えてしまったものもあるそうだ。結局、日本から先は海なので、西の方から何らかの理由で日本に来たものの、そこから先には行けない(行けると信じて丸太船で漕ぎ出した家族はいるかもしれないが)。民族の墓場なのかもしれない。

そして一部の語源のわかっている地名と、よくわからない地名がたくさんあるということのようだ。つまりタイトルの『地名の謎を解く』ではなく『地名の謎が解けない』の方が正しいような気がする。

無人島に生きる十六人(須川邦彦著)

2024-05-14 00:00:44 | 書評
実録小説。『無人島に生きる十六人』は1899年にハワイ諸島の東側、ミッドウェー島の西側にある。パール・エンド・ハーミーズ岩礁に乗り上げ、座礁、大破して沈没した龍睡丸から脱出し、ボートで無人島に漕ぎついた16人の船員の生存記録である。



16人の船員だが、龍睡丸は通常は千島列島への輸送船なのだが、冬季は本土で係船され船員も解散していて、それでは夏も働いてもらおうということでハワイ方面の水産資源(クジラなど)の調査に出たわけだ。

そのため船員は広く集められ、小笠原諸島でルーツを米国に持つ者やオホーツク海で難破経験のあるものなど多彩だった。結果として、多彩な才能としっかりした船長を中心としてチームワークで、水の確保のための井戸掘りや貴重な食料とするためのアオウミガメをたくさん捕らえて牧場を作ったり、近くにある島にいって食用植物を確保したり、島に流木でやぐらを建て、視界に船が見えたら直ちにのろしを焚いて救助信号を出そうと24時間交代で仕事をしたり・・・

この小説だが、船長の中川倉吉がその後に商船大学の教員となっているころに若い教官だった須川邦彦氏が聞き取って、昭和23年に講談社から出版されていた。それを噂に聞いて調べ始めたのが、作家の椎名誠氏だ(私の小学校の大先輩)。そして講談社に一冊だけ残っていた単行本が発見された。

本書は、講談社から発行されていたが、復刻は新潮文庫から。青空文庫にも収録されているが底本は新潮文庫になっている。椎名氏は数多くの無人島漂着記を読んだ中で、一番と評価をされている。私も漂着記は好きで何冊も読んでいるがやはり一番だと思う。

惜しむらくは、孤島生活が三ヶ月で終わったことだろうか。多々ある漂着記の中でもきわめて期間が短いと思う。もちろんそんな不謹慎なことを16名の方々に読まれたら大変だが、まあ、そういうことはないだろう。

著者の須川邦彦氏だが東京商船学校の校長も歴任していて、文章もわかりやすく、専門用語はなるべく避けていて、現代の文章と同じである。講談社から出版されて8ヶ月後に69歳で他界されている。



なお、島国であったからだが、日本には漂着小説が多い。晶文社から出版された『にっぽん音吉漂流記』(春名徹著)も素晴らしい著作であるので画像を紹介しておく。

終活シェアハウス(御木本あかり著)

2024-05-10 00:00:08 | 書評
『終活シェアハウス』 著者はシニアレディの方で、本作が二冊目ということで、どちらかというと本作は社会小説というのかな。作家の名前よりも推薦者の坂東眞理子氏や樋口恵子氏の文字のサイズが大きいのが不思議だが、出版社の余計なお世話なのだろう。



小学校の同級生四人が68歳になり、それぞれ別の理由でシングルレディになっていて、150平米の神奈川県東部の富士山の見えるマンションに同居している。(神奈川県内の100平米のマンションに住んでいたことがあるが、上の方の階は富士山だけではなく新宿の高層ビルや房総半島まで見えていたので、特にそこに感想はないのだが。)

それぞれには、68歳に至るまでに壮絶な黒歴史があり、同居するようになってから、次々と過去や現在から疫病神のような男たちが現れるわけだ。つまり全体的な流れは喜劇のようで悲劇のようで、最後はどうなるの?というような流れが4人分楽しめるわけだ。喜劇が好きな人も悲劇好きな人にもマルチ対応ということ。

販売価格は税込み1980円と、マーケティング的価格だが、コストを下げるためにページの余白を少なくして文字数を増やし、288頁に収めている。背表紙も表紙と統一デザインで華やかなので書棚の色どりにも最適と書いてみる。

太陽の子(三浦英之著)

2024-04-25 00:00:33 | 書評
元朝日新聞記者の著者によるドキュメンタリーに近い著作でいくつかの賞を受賞している。



本書の上梓の少し前に「太陽の子」という同名の映画が公開されている。先の戦時中に秘かに原爆開発をしていた人たちのドラマで、公開時期は本の出版の前なので、いかにも混同しやすいが、違う話だ。

アフリカのザイールにある銅鉱山を開発するため、日本の金属会社が鉱山技師を大量に現地に送り込み、10年経って不採算になり引き揚げた際に日本人と現地人の女性の間に多くのこどもができていたのに、帰国時に置き去りにして連絡も来なくなったという件を追いかけている。

で、会社自体は、現在は別のエネルギー会社の傘下になっているので、そちらに行っても資料を探すだけでよくわからないというところから、現地調査を始めているのだが、聞く人ごとに少しずつ違う内容で、真偽がどこにあるのかも不明瞭で、誰を信じていいのかも確信が持てないというような中で動き出すわけだ。

つくられた縄文時代(山田康弘著)

2024-04-23 00:00:08 | 書評
『つくられた縄文時代(山田康弘著)』は2015年の発行。約10年前。縄文時代論のさきがけの様な本と言えるかもしれない。


縄文時代の名前の由来は、縄文式土器にある。世界を見渡すと、土器文明というのはレアで、普通は石器時代の中に含まれるそうだ。石器時代となると文明もなく火打石で火をおこし、いのししの肉を食べるイメージだが、縄文時代というのも、それほど生きにくい世界ではなかったのではないだろうか。

日本の縄文時代の生活や社会構造について、本書では詳しい。発掘される住宅の広さから言うと一軒に5人位が最大だったらしい。つまり家族。そして建物が数軒しかない部落や集団で生活している部落もあり千差万別といったところだ。

意外に思ったのが関東の縄文時代と関西の縄文時代の差。

東日本の縄文時代の方がコロニーが大きく、西日本の方は、場合によっては一軒単独住宅もある。

縄文時代のことについて、書いてあることは大部分理解できるが、それではどういう時代なのか。その世界を頭の中に復元することは難しい。もうよくわからないのだろうと思う。

ところで、あとがきを読むと、著者は鶴見川の周辺に居を構えていることがわかった。となると、広めにいえば私の住所とあまり離れていないことになる。著者は縄文時代がご専門ということだが、このあたりの古代の謎は弥生時代の初期の遺跡が皆無らしいこと。海の底だったのだろうか。