薩摩藩邸焼討後日譚(下)

2007-05-31 00:00:55 | 歴史
前回は、焼討事件で犠牲になった薩摩藩士などについて数字を書いたのだが、今回は、その他の話。

まず、焼討にされたのは、厳密に言えば薩摩藩邸(77万石)だけでなく、支藩の佐土原藩邸(2万7千石)も一緒だ。所領は宮崎で殿様は島津一族。江戸屋敷も隣接している。長州藩における長府藩のようなものだろう。幕末の佐土原藩は薩摩藩と同一歩調をとっていた。実は、戦死したリストには佐土原藩の犠牲者は一人として記載されていない。建物も長屋敷が現存して残っていることからして、全員、逃走に成功したのかもしれない。あるいは、すべて薩摩藩の統計に含まれてしまったかだ。謎のまま。

次に、当時の薩摩屋敷には多くの浪人が流れ込んでいた。さらに、江戸近隣の農民の子とか千葉周作道場の門下とか多士多彩。江戸幕府お膝元にも倒幕派が相当数いたことがわかる。しかし、焼討の時点にそういう浪士が何人、屋敷にいたかということはよくわからない。死者の数が記録に残っているだけだ。

薩摩藩以外の犠牲者

1.屋敷で戦死した者
  12名

2.屋敷、あるいは逃走中に捕虜となり、獄死または刑死した者
  7名

3.負傷し、後に亡くなった者
  1名

4.逃走し切れず、自害した者
  5名

薩摩藩以外で焼討により亡くなった者の合計
  25名

靖国に祀られる者
  3名


薩摩藩士に比べ、捕虜になった者が多いが、捕虜になった者、自害した者の多くが、小舟で羽田付近に上陸していることから考えると、薩摩藩士の多くは、大型の翔風丸で遠く西国に逃げたものの、それ以外の浪士は、行くあてもなく(あるいは乗船拒否され)、手漕ぎボートで羽田あたりまでいって、再上陸せざるを得なかったのではないだろうか。


攻撃側の犠牲者

一般的には、羽前庄内藩が焼討をしたことになっているが、実際には、羽前庄内藩(17万石)と羽前上山藩(4万石)の連合隊であったようだ。

1.羽前庄内藩の犠牲者  2名

2.羽前上山藩の犠牲者  9名

3.その他(新撰組崩れ) 1名

攻撃側の犠牲者合計    12名

靖国に祀られる者     ゼロ

連合隊と行っても、庄内藩は上山藩を盾に使ったのだろうか。犠牲者数が違い過ぎる。そんなものなのだろうか。

両軍総犠牲者数        104名


ところで、この焼討事件は江戸で起きたのだが、その情報を真っ先に西郷の待つ京都薩摩藩邸に届けたのは誰だったか?というと、まったく意外な職業の人間とされている。忍者ではないのだ。力士である。

第12代横綱 陣幕久五郎。

この横綱は薩摩藩お抱え力士だったそうだ。生涯勝率9割4分6厘、横綱になった後、二場所連続全勝優勝して引退。そして、驚いたのは、以前、弊ブログで紹介した、深川の富岡八幡宮にある、代々横綱の碑が建立されたのは、この陣幕久五郎の尽力だそうだ。

おそらく、お抱えの薩摩と幕府との戦闘開始が決定的になった瞬間に、早馬に乗って東海道を西に向ったのだろうか、あるいは、船に乗ったのか。資料に残る体型は身長174センチ、体重138キロ。超メタボ体型。馬や、駕籠かきはさぞ苦しんだのだろうか。


そして、調べた通り、戦闘で捕虜になった者たちは江戸各地の牢獄につながれ、記録上は多くが獄死、または刑死している。刑死というのは、お調べの上、死刑判決が下されるわけで、薩摩藩士Aが死刑ならBも死刑のはずで、結局、西郷が3ヵ月後に東上した時に生存者はいないはずだが、そうでもないのだ。

歴史をひもとくと、またも勝海舟になる。

捕虜にした中から3人が、出獄し、勝邸預かりになっている。

益溝休之助、南部弥八郎、肥後七左衛門

その当時の勝の自宅は、氷川神社の近くで、現在の地形を見ると、崖地で、あまり広い屋敷ではなかったはずだ。狭い自宅を慈善事業で捕虜収容所にしたはずはない。

そして、さらに調べてみると、歴史上はいかにも西郷=勝会談で江戸開城が決まったように考えられるが、実は、東上する西郷と静岡で事前交渉を行ったのは、勝の密使である山岡鉄舟だった。そして、山岡は、講和交渉に行くにあたり、勝邸に預かりになっていた益溝休之助を同行させたようだ。要するに、静岡に無事に到着するまでの人間の盾だったのだろう。


しかし、その他の二人、南部、肥後両名の運命は、いまだ、よくわからないのである。一方、薩摩藩で幕府挑発活動を行っていた中心人物伊牟田尚平は、せっかく、命からがら海路、江戸を脱出し兵庫へ上陸、京都に到着したものの、部下の乱暴狼藉の責任を取らされ、まもなく切腹を命じられてしまう。江戸市内での挑発活動自体を歴史上からもみ消す工作だったのだろうか。


こうして、明治が始まった。

(おわり)

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薩摩藩邸焼討後日譚(上)

2007-05-30 00:00:11 | 歴史
c30266fe.jpg東京田町にあるNEC本社は、最近では製品の話題ではなく、社内ゴルフコンペのトトカルチョを社内コンプライアンス委員会が握りつぶしたり(さらに所管警察も逃げ回ったり)、ある事業部長以下大勢が係わった架空取引による業務上横領事件を部外者である国税庁に発見されたりと賑やかだが、その場所は、江戸時代は薩摩藩邸だった。藩邸といっても上屋敷、下屋敷など色々あるが、御禁制の南方貿易で財を築いた同藩のこと、多数の藩邸を持っていたが、おおむねこの田町周辺に固まっていた。NECの場所そのものは薩摩下屋敷だった。そして江戸幕府の最後の最後、慶応三年12月25日に幕府方による薩摩屋敷焼討事件がおこる。そして、僅か数ヶ月後には、逆に京都から攻め上った薩長軍の前に江戸開城となる。その最初の戦いである。

実際、怒涛の勢いであっという間に高輪(品川)に到着した西郷隆盛は、勝海舟と慶応4年(=明治元年=1868年)3月13日に一回目の江戸開城交渉。そして翌14日に田町で二回目の交渉を行い、翌15日の江戸総攻撃はとりやめになった。総攻撃すれば、木と紙でできた江戸の町はきれいさっぱり大平原に戻っただろうし、一方の勝海舟も江戸の町を焼き払って戦おうと思っていたらしく、焼き払い派が二人で交渉して、歴史の偶然で街は残った。(しかし、その後、別件で二回も焼けてしまった)。

c30266fe.jpgこの二回目の交渉の場所が今ひとつ特定されてなく、田町駅近くの薩摩藩蔵屋敷跡という説が濃厚である。私もそう思うのは、そこは薩摩藩のプライベートバース(専用港)で、藩の交易活動に使われていた。開戦前日の混乱の中、勝海舟はその名前どおり、江戸城から海路辿り付いたのではないだろうかということ。

しかし、その場所は、焼け残った薩摩藩邸と僅か徒歩2分ほどのところである。同志多数が亡くなった現場のそばで、西郷は平然と講和条約を結んだのだろうか。(明治になって、その近くの土地を入手して大学を作った福沢諭吉は、焼け残った薩摩藩邸を目にしているので、焼け跡は長く放置されていたようだ)

もう一つ気になっていたのは、薩摩藩邸攻撃の時に薩摩藩士約50人程度が戦死して、靖国神社に祀られているそうだが、かなりの数が捕虜になったそうだ。また、逃亡に成功したものもいる。捕虜になったものの運命はどうなったのだろうか。西郷=勝会談ではまったく、その件は触れられていない。西郷があまりに大人物で「大事の前の小事」ということになったのだろうか。あるいは、焼討の原因となった、薩摩藩士による江戸市内の付け火などのゲリラ作戦が後々問題にならないように、口封じを考えたのだろうか。


この捕虜情報は鹿児島に行かないと糸口がないのか、と思っていたのだが、かなり有力な書物を発見した。ただし、一部がわかれば、また別の一部が知りたくなるとか、果てしなく不明なことは続いていくのだが・・


c30266fe.jpg書籍の名は「幕末維新全殉難者名鑑(全四巻)・明田鉄男編(新人物往来社)昭和61年」


この四冊には、幕末の戦いで亡くなった、幕軍・官軍、さらに巻き込まれた民間人など、わかる範囲で一人一人の名が記載されている。戦闘毎という大分類があり、所属藩毎という中分類順に見ていけばいい。例えば、土方歳三は、巻三「戊辰戦争」→「函館の戦」→「新撰組」ということだ。彼は、「日本で最後の武士」だと個人的には思っているが、実は武家の子ではない。当然、所属藩なし。新撰組という特別カテゴリーで記載されている。もちろん、靖国神社には所属していないし、今後も無理だろう。

その第二巻に「江戸薩摩藩邸攻撃(慶応三年12月)」という分類がある。そこに、この事件での戦死者の一覧がある。列記された薩摩藩士の名簿は、主に、現場で戦死、負傷逃亡中に死亡、捕らえられて獄死といったところだ。ただ、例外は色々あり、その例外こそ歴史マニアの宝の山なのかもしれない。そして、この事件で現場にいたのに、うまく逃げおおせた人間のことは大部分は読み取れない。それは、また別の資料が必要だろう。

調べているうちに、色々と他の情報もわかってきたので、それらでも補足してみたい。上・下2回に分けて書いてみる。


まず、薩摩藩所属の藩士の戦死者のこと。歴史の表側である。

1.現地で戦死した者
   62名
    内、女性(藩士の妻)2名
    内、医師 2名
    内、藩船「胡蝶丸」船長など船員4名

2.現地、または逃走中に捕縛された後に亡くなった者
    3名
     獄死または刑死
   逃走ルートは、藩船翔風丸で遠路兵庫方面に逃げ、助かった組と、小舟で羽田付近に上陸し、捕まったり逃げ切った者がいる。

3.負傷が元で後日死亡した者
    1名

4.後日、藩船(胡蝶丸)の焼失の責で自害した者
    1名

当事件での薩摩藩の犠牲者は、合計67名になり、内、靖国に祀られているのは41人である。祀られているかいないかの基準は厳密とは言い切れず、おおむね武士としての身分の上下に関係があるようだが、例外も多い。

(下につづく)


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君に逢えなくなっても・・

2007-05-29 00:00:48 | 音楽(クラシック音楽他)
9ae8a951.jpg坂井泉水さん、慶応大病院で亡くなる。5月27日。40歳。ZARDのボーカル。がんの治療中、日課の散歩から病室に戻る途中に足をすべらせ、病院のスロープから転落したとされる。

バブル崩壊後の「失われた10年」、日本全体が苦しんでいた時に、彼女の声に励まされた人たちがどれぐらいいるのだろう。百数十曲のZARDのほぼ全ての曲を作詞し、透明で力強い高音は、忘れられることなく、永遠に愛されていくのだろうと、思う。


CDラックから1枚を取り出してみたものの、聴くとさらに悲しくなりそうなので、頭の中にフレーズを思い出してみる。

君に逢いたくなったら
その日までガンバル自分でいたい
青く暮れかけた街並み
また思いきり騒ごうね
 (君に逢いたくなったら)

 *

想像力の中で世界はぐんぐんふくらんで行く
誰よりも今近くに君を感じているから

息もできないくらい ねえ 君に夢中だよ
月の照らすジェットコースターが闇をつき抜けていく
 (息もできない)


ところで、慶応大病院と言えば、1985年に亡くなった夏目雅子さんのことも思い出してしまう。享年27歳。数えてみれば、生還していてもまだ40代。

神は不公平な才能をねたむのだろうか。才能ある(と自覚する)人は健康診断をこまめに。


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学校経営とは・・

2007-05-28 00:00:29 | The room of Sora
ab2c1426.jpgゴールデンウィーク中に、近くの”犬の幼稚園”に行った。犬の知能は三歳児並とは言うが、人間の三歳児の方が上の分野もあれば、下の分野もある。というか、犬の三歳児は成犬である。

うちのSORAは1歳半だが、犬同士の付き合いが苦手である。他の犬とのコミュニケーションが不得意で、嬉しそうにワンワン吼えるが、相手が怖がって逃げてしまう。

おそらく、根本的な問題は、生後すぐに親や兄弟姉妹と別れたため、犬社会に慣れていないことがある。少しでも共同生活をした幼犬を入手した方がいい、という説もあるが、ペット屋としては、小さいほうが可愛いし、大きくなって売れ残ると大損害だから、一刻も早く売ろうとするのだろう。

また、この犬種の専門書によると、生まれてまもなく断尾してしまうので、シッポをつかった犬同志のコミュニケーションサインがうまくいかないことがある、ということだそうだ(それなら切らなければいいのに、と思うが、今さら返せといっても返ってこない。中国の宦官の場合は、切り取った一物を甕に入れて保存しておき、亡くなった時に一緒に墓に埋めていたようだ。)。

そして、半年前に行った幼稚園は、飼い主と一緒に参加が条件で、色々と面倒だった反面、結局長続きできず。そのため、最近、近所で噂の幼稚園に行く。店名X。有名で、かつ、単価が高い。店主が○×△(と英語三文字だが、覚えられない)という家庭犬適正飼育のライセンスを持っているらしい。さらに、併設のペットホテルは1泊1万円。幼稚園は1時間800円というのは時給みたいな単価だが、時給はもらえるのだが、ここでは払わなければならない。

まあ、慣れないところに長くおいておくのはかわいそうだから1時間だけなら、高いとか安いとかあまり関係ないので、ためしに行ってみると・・

「あっ、○○○さん」

「あっ、○○○さん」

とまったく同じ言葉が飛び出す。

驚くことに、知り合いだった。前の会社で、近くのシマにいた社員だ。10歳くらいは私より若い。そして、本名の姓が同じで、よく彼がツケで飲んでいたお店からの請求書が誤って送られてきたような気がする。確か5年前位に辞めたような。

「俺のシマで無断で開業していいのかい?」
「ワンワン」

とか、話を聞いていると、○×△の資格は全国で十人強らしい。その他、専門用語を並べられてしまったが、この店だけじゃなく、手広くビジネスを展開していることはわかった。会社にいる時から、時間を見つけては、コツコツを勉強して、開業準備していたそうだ。まあ、脱サラはなかなか成功しないが、彼は非常にうまくやったということだろう。会社の時は、無愛想だったが、何か、そのやや専門的で職人風の客扱いやトークが、高マージンの原因だろうと思う。

そして、当然ながら、私が彼を発見した話は、私の一言で、マダガスカル島で新たなキツネザルを発見したかのごとく、あっという間に前の会社中に広まってしまったのだが、それを聞いた社員の反応は、まったく正反対に二分されるのである。

まず、彼の成功を素直に喜んで、「機会があれば、寄ってみるから」というスタンスの人。ざっと5割。

しかし、まったく逆の人も多い。「よく、会社を休んで、あっちが痛いとかこっちが痛いとか言っていたのは、なんだったの。許せない。許せない。許せない。・・・」5割。まあ、「ネタミ」は日本人の三大精神欠陥の一つだから。

さらに、「彼が許せない」といった人からの話では、会社を辞めるときの理由が「学校経営関係の仕事をするから」ということだったそうだ。「犬の幼稚園」だったわけだ。

ところで、結局、顔見知りということで、この高額店に自分の財力を上回る金額を(入会金とかペットフーズ、トリミングとか)つぎ込みつつある。しかし、どうみても、預かった何匹かの犬をマンションの床に放し飼いにしているだけのように見えるのだが、そんなものでいいのだろうか。と、少し不安。

そして、そんなにビジネスがうまくいくのなら、サービスとか商品とかにつぎ込むのではなく、共同出資とか共同経営とか、資本の部につぎ込んで、リターンを・・と考えたいくらいだが、その考え方は、「オネダリ」・「ヨコドリ」という日本人の三大精神欠陥のうち二つに該当するのかもしれない。


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モネ大回顧展 さすが国家予算

2007-05-27 00:00:38 | 美術館・博物館・工芸品
a5bdc0ce.jpg国立新美術館にモネを見に行く。全97作。さすがに国立。国家予算をつぎこんだ上、観覧料は1500円。それだけにモネ好きにはたまらない。もう少し絞った言い方をすると、モネの印象派が好きな人にはたまらない。

印象派といえば、モネ、ルノアール、セザンヌといったところを中心に1870年代から1900年頃まで、世界に一瞬の平和が訪れた時代を中心に大発展する。特にモネこそ、ザ・印象派である。1873年の「印象・日の出」が印象派の出発点といわれる(今回、日の出は来ていない)。特に、「光」「階調」「色彩」それぞれにモネ流の公式を編み出し、点描画法など、簡単に真似をしようとしても無理だ。だいたい、光や影、朝もや、水、霧などは描くのにもっとも難しい題材で、大変に挑戦的ともいえる。

a5bdc0ce.jpgしかし、モネは1840年生まれ。「日の出」を描いたのが33歳のときなので、それまでは印象派というわけではなかった。今回は、その印象派の前のモネの絵も見られる。ただし、今回の展示方法は、テーマ別になっているので、例えば睡蓮のコーナーでは睡蓮の絵を初期の頃から晩年にいたるまで比較できるようになっている。庭のコーナーでもそうだ。個人的には、テーマ別ではなく、常識的な時代別に展示してほしかったような気もする。

a5bdc0ce.jpgそして、彼の絵が売れ出し、生活に余裕が出てきたのは35歳を超えた頃。それまでは、借金取りとの戦いを続けていたらしい。幸か不幸かモデルには妻のカミーユと長男のジャンが多くモデルに登場するのは、モデルを雇う金がなかったのだろう。

そして、睡蓮はじめモネの絵画に多数登場するのが花である。また大量の花々の咲き乱れた庭である。生活の苦しかった時代に花のある庭を維持するのは難しかっただろうが、思うに妻のカミーユが庭の管理をしたのだろうか。いや、愛するカミーユに先立たれた後も、後妻とともに転居先で大掛かりな庭を造っているところからして、モネ自体が庭作りの名人だったのだろう(高知県にモネの庭のコピーがある)。「庭のカミーユ・モネと子供(1875年)」

余計な心配だが、借金取りがモネ邸に訪れて、「庭を造るカネがあるなら、こっちへ払えねえの」などと息巻いたりしたのではないだろうか。

a5bdc0ce.jpgそして、彼はいつしか、「黒」を絵画に使わないことにしてしまう。だいたい、パレットの上で絵の具を混ぜ始めると、たいていは濁ってしまうのだが、パレットの上で混ぜるのではなくキャンバスの上に点や線を配置し、見る側の網膜の上で色を混ぜることに成功する。「積みわら、夏の終わり、朝(1891年)」ではわらの山から延びる影は黒ではなく青色系である。

a5bdc0ce.jpgまた、モネは1900年の前後にはロンドンにいて、テムズ川を多く描く。チャリング・クロス橋をモネより美しく表現した画家が、かつていただろうか。そして、彼もゴッホと同様、日本の浮世絵に大いなる影響を受けている。北斎や広重だろう。かつて、日本も美しかったのだろうか。そして一生描き続けた睡蓮。睡蓮の絵を見るだけで、彼の画法の変化がわかる。具象的テクニックから印象派的に、そして最晩年80歳を過ぎた頃から抽象的な画風に変っていく。抽象的というか、ものの本質だけを描くというべきかもしれない。

a5bdc0ce.jpgそしてモネは86歳までの長寿を極め、1926年に亡くなる。人生に満足できたかどうかはわからないが、人類に大いなるプレゼントを残していった。そして、日本人はこぞって印象派が大好きで、多くの絵画が現在、日本の美術館に点在している。


a5bdc0ce.jpgところで、いつも美術館に行くと、何枚か気に入った作品の絵葉書を買っておくのだが、ここのショップはオバサン客、多すぎである。まったく人の群れに入れない。買い物あきらめてしまうしかない。できればトイレのように、売店も男女別にしてもらいたいものだ。


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某将棋会館の未来は?

2007-05-26 00:00:30 | しょうぎ
5月25日に行われた将棋連盟の理事選挙の結果、8人の理事が決まり、互選により会長が決まった。米長会長以下西村、中川、田中寅、青野、桜井、淡路、西川。一体、それぞれ何票だったのか、また会長選挙はどのように行われたのか、このエントリをアップしている時間にはもれてこない。そのうち、徐々に漏洩するのだろう。

a5bdc0ce.jpgそして、そして、ここ数回の選挙(任期2年)で会長選挙で重要な意味を持っているのが、関西の2票。結果、関西のことはアンタッチャブルになっていたようだ。つまり、中原×米長という対決軸に内藤派が絡み、某政党のようにキャスティングボートになっていた。

しかし、昨年、関西本部にあった将棋博物館が廃止になった。多くのファンは、将棋博物館の廃止と言う問題を、「将棋文化に対する冒涜か否か」というような論点で捉えていた。私もそうだ。しかし、深く考えていると、別の可能性があるのではないか、と疑いはじめてきたのだ。

今回、中原立たずという背景で、対立軸がほどけたということは、「米中連合」で、関西征伐に乗り出そうということではないだろうか。

「関西本部廃止」である。


そして、その推察の背景は、東京千駄ヶ谷の連盟本部ビルの問題である。まず、狭い。そして老朽化対策、OA対策、耐震工事など問題点がある。さらに、現連盟のビルを取り壊して、千駄ヶ谷の同じ場所に建て替えようとしても、周囲は高級住宅地。確か、同じ床面積のビルは建たないはずである。つまり、いくらおカネを集めても、今の場所にはいられない。となると選択肢は絞られるわけだ。

 1.ビル所有をやめ、貸しビルに入る。

 2.地価の安い別の場所に新たにビルを建てる。

おそらく、2なのではないだろうか。ただし、都心の新聞社から離れた所では担当記者様方に不都合になる。そうなると、郊外ではなく、都内で用途的に地価の安い場所ではないだろうか。あるいは大手都銀が持っていた接待用のクラブなどはそのまま使えるかもしれない。しかし、この場合の最大の問題は、キャッシュである。そうやすやすと銀行が融資するとは思えない。なるべく現金が必要になる。となると、

 1.千駄ヶ谷の土地売却額

 2.寄付金

ということになる。女流独立派が寄付を集め始めたときに「パイを奪い合う」と反対されたことも符号するが、寄付金の予測は不可能だろう。実は、ある件で昭和49年頃の将棋世界誌を読んでいたら、今の会館の建設にかかわる寄付金を集めていた。予想総工費6億円に対する20%、1億2千万円の寄付を集めようとしていた。(実際にいくら集まったかはよくわからない)

そして、私が予想しているのは、関西将棋会館の売却である。関西所属の棋士・奨励会員は数十人だろうが、普通の会社であれば、大阪支店に数十人いるからといって事務所ビルを所有したりはしないだろう。


先日、大阪に行っていた時に、ちょっと寄り道してみた(あくまでも寄り道)。大阪環状線で大阪駅から一駅西にある福島駅から3分程度の大通りに面している。千駄ヶ谷とは趣が違う。茶色のタイル貼りのビルは、一階の半分はレストランが入っている。どういう権利かわからないが、こういう店は立ち退きの時に大問題になるはずだ。二階は道場で顔を出してみたが、狭い。ただし、東京の道場よりも、あれこれと経営努力をしているように見える。そして、3階より上に対局室があるのだが、そこに行くわけにはいかないが、床面積から推定すると東京の半分くらいではないだろうか。

ビル自体は内観はやや汚れていて(掃除はきれいに行われている)、売却した場合は取り壊して、新築になるのだろう。

もちろん、関西本部がなくなったからといって、関西所属棋士が失業することではなく、対局のつど、上京ということになるのだろうが、経過期間のあとは、運賃補助ゼロ円、ということになるのだろうか。

ただし、将棋連盟に何らかの幸運が続いて、ますます隆盛となって「公益法人などやってられるか」と金儲け路線が大成功すれば、杞憂ということになるのだろう。


a5bdc0ce.jpgさて、先々週5月12日出題の短編の解答。

▲3二銀不成 △1二玉 ▲1一龍 △同角 ▲2一飛成 △1三玉 ▲2三龍まで7手詰。

2手目△3一角は▲同飛成以下7手詰 駒余り。

普通、7手詰好作ならば、好手が二つは必要、ということから言うと、▲1一龍だけが売りでは少し評価は細いか、と思う。と言っても、できてしまった作品なので。・・



a5bdc0ce.jpg今週の問題。あまり超すばらしい手はない。B級構想をつなぎあわせて作成。どこで詰むのか、それが問題だ。ヒントはドリブルのコツは反対モーション。

いつものように、解けた!、と思われた方は、コメント欄に、最終手と手数と酷評をご記入いただければ、正誤判断。


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ハンニバル・ライジングの次は?

2007-05-25 00:00:55 | 書評
d7843747.jpg英語圏では2006年12月5日に刊行された「ハンニバル・ライジング/トマス・ハリス著」は日本語訳が4月1日に登場。何しろゴールデン・ウィークに映画が公開されるわけで、翻訳者(高見浩氏)は、さぞ出版社から「アメとムチ」をいただいたことと想像する。ただ、上・下二巻仕立てだが、一冊にまとめてもよかったのじゃないだろうか。

まだ上映中だし、新刊のあらすじを書くのは問題ありなのだが、ネット上の書評や映画評には酷評が並んでいる。まあ、特に日本じゃ酷評だろうと思うこともあるので、遠まわしに書いてみる。

まず、ハンニバルシリーズは前三作。「レッド・ドラゴン」、「羊たちの沈黙」、「ハンニバル」。主人公はハンニバル・レクター博士。狂気のスーパー殺人鬼である。犠牲者は100人弱か(いちいち数えられないが)。何度も捕まるが、奇妙なことにすぐに自由の身となる。特に「羊たちの沈黙」で登場した女性捜査官クラリス・スターリングとの攻防が、ハラハラドキドキということになる。映画でも、アンソニー・ホプキンスとジョディ・フォスターという二大スターが大暴れして大成功になる。三作目の「ハンニバル」では、同じ登場人物だが思わぬ結末となる。つまり、ハン二バルがクラリスを連れ去ってしまったのだ。その筋立てが気に食わなかったのかジョディ・フォスターは映画から降板。

そして、この四作目は、その後のクラリスの登場かと思ったら、まったく方向違い。ハン二バルが狂気の殺人鬼となった原因を心理学的に正当化するために少年時代にプレーバック。読者は、リトアニアで第二次大戦を迎えたレクター一家が受けた残虐行為の復讐、という理由を見つけるのである。しかし、そこで「悪」と認定されるのは、ドイツ軍、ソ連軍などである。いくら悪者に仕立てても、どこからもクレームがこないからだろう。

そして、どこの書評にも書かれていないが、最近起きた会津若松の母親殺しの加害者の少年だが、この本、または映画に影響されたのではないだろうか、と、ふと思うのである。やたらに首が切り落とされるわけだ。さらに、重要な登場人物である女性”ムラサキ”。

そして、基本的に、日本のことが大量に登場する。最初の首切り殺人に使われたのは日本刀。そして、大阪の陣の絵巻物に登場する首実検の図(以前、大阪の陣屏風のことはこのブログで触れた。)。その他。たぶん、トマス・ハリスは名刀正宗は伊達政宗と関係があると錯覚していると思えるが、菊正宗と伊達政宗が無関係なこともわかっていないだろう。

さらに、映画では、このムラサキを中国人女優コン・リーが演じるが、すでにコン・リーは中国人女優としてハリウッドでも有名である。日本人役を演じるのは、ちょっと違うんじゃないだろうか。

そして、この少年・青年時代にプレーバックした主人公の弱点は、いくら危険なシチュエーションに登場したからといって、決して死んだりしないことである。実際、警察に捕まってもすぐに釈放される。ミステリーの面白さの要素の一つである「スリル」がないわけだ。なんとなく、将来、何かを書くための辻褄あわせのための一作ではないか、という気もしないではない。

もっとも、本作が、あまりに不評ということになり、スポンサーがいなくなれば話は別だ。


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若桜町のこと

2007-05-24 00:00:23 | 市民A
b51f7854.jpg水曜日の午後7時から日テレ系の1時間番組に「1億人の大質問!笑ってコラエテ」というのがある。所ジョージがキャップで、全国各地をダーツでランダムに選び、そこへ行って、ご当地の自慢を調査する番組。

「ヤラセ禁止」となると、こういう番組も結構厳しい。何しろ、行った先に何もないと、番組にならない。そして、やや「カラ振り不安」を抱え、山間のある場所に行ったのが5月16日放送の「鳥取県八頭郡若桜町」である。八頭はヤヅと読み、若桜はワカサと読む。(なぜ、若桜をワカサと読むかについての推論は、後述)

番組で紹介されていた若桜町の話題は、大きく3点。

一つは、産地直結ソーセージ。養豚と豚肉加工工場が直結していて、新鮮なソーセージが食べられるが、ちょっと書きたいことと違うので、以下略。

二つ目が、戦艦大和。戦艦大和は沖縄特攻作戦の途上で爆沈したのだが、その時の生存者が登場。居間に模型の戦艦大和が飾ってある。自ら組み立てたそうだ。理由はわからないが、テレビを見ていて、思わず、涙腺が緩んでしまった。戦争は、既に、62年前のことである。

そして、この思わず感動したことについて、後で色々と考えたり調べてみた。

1.大和は1945年4月6日、岩国基地を出航し、すでに米軍と交戦状態に入った沖縄に向かう。作戦は沖縄までの片道燃料を積み、沖縄の海岸に乗り揚げ、砲弾の尽きるまで奮闘し、最後は乗員は陸上で敵陣突入し、艦船は自爆する予定だったと言われている。

2.しかし、出航翌日の4月7日、沖縄に向う途中で米軍からの攻撃を受け、大和は撃沈する。乗員3332名中、生存者は276名とされる。
その一人が、戦後、若桜町に帰ってきたわけだ。

3.大いに気になるのは、この特攻作戦の全貌を知っていたのは、3332名のうち、ほんの一部の人間だけだったのか、あるいは乗員全員が自らの運命を知っていたのか。おそらく、多くの乗員には、特攻とは知らされていなかったのではないだろうか。

4.一方、海軍大臣などの軍の上層部、あるいは、その大臣の上にいた人物は、この作戦を知っていたのか。児島襄氏の著書では知っていたことになっている。

5.生存者は、戦後、この特攻作戦を知り、どう感じたのだろうか。

6.後に、模型を組み立て、鎮魂の気持ちに至るまでに、どういう心の整理が必要だったのだろうか。

というようなことが、私の心の中で一瞬に組み立てられ、それが目の曇りになったのである。


ところが、最近の研究では、海軍上層部(軍令部)からの命令とは異なり、岩国基地で積み込まれた燃料は片道分ではなく、数往復分だったということがわかっているそうだ。通常の数量だけでなく、基地が秘匿していた簿外数量分も積み込んだということだ。軍隊とはそういうもので、員数合わせのために、簿外品を多数抱えている。おそらく、戦争の初期から艦船に積み込むべき燃料の適正数量を少しずつ削って溜め込んでいたのだろう。

また、大和はまっすぐ沖縄に向かわず、カムフラージュのためか一旦対馬方面に向かったあと、転針している。一体、大和は何をするつもりだったのだろうか。有賀艦長は特攻作戦以外のことを考えていたのだろうか。


三点目は、平家の落武者の話。この若桜町の山間に、平経盛の墓がある。平経盛は平清盛の異母弟である。清盛のこどもは根性なしが多く、清盛の病死後は、経盛は平家一族の重鎮という立場であった。が、平家の没落と源氏の攻勢の前になすすべもなく、最終壇ノ浦で戦死する。そして、僅かな平家一党の生き残りは山間に逃げ込み、落人となるのだが、その末裔の集落がこの若桜町にあるということで、その地域の苗字は、すべて「平家」さんというそうだ。

気になるのは、苗字が「平家」といっても、本当は「平」でなければいけないのではないか、ということで、よくわからないが、明治以降、姓を名乗る時に、一同で相談し、「平家」にしたのではないだろうか(ただの推論)。

次の疑問は、壇ノ浦で戦死した経盛の墓がなぜ、ここにあるのか。この疑問にはまったく答えられないのだが、調べているうちに、ここの地名である「若桜」をワカサと読んでいることの理由に近づいたような気がしてきた。

経盛は、長い間、若狭守(わかさのかみ)と呼ばれていたらしいのだ。もちろん、源氏に京都から追い出された後は別だ。おそらく、平家一族内、あるいは経盛のまわりでは「わかさどの」と呼ばれていたのではないだろうか。そして、経盛、またはその家来たちが、山間に隠れ住んだ時に、過去の栄華をしのび、「わかさ」と地名を付けた。が、そこは、カムフラージュが必要で、「若桜」と別の漢字を当てたのではないだろうか(ただの推論)。

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「野村の自由学校」に行く(新気象学)

2007-05-23 00:00:51 | 市民A
9b697ba1.jpgもともと、無料の「自由学校」だが(「野村證券に口座を持つ」ということが高額出費の元なのか大富豪への近道なのかはよくわからないが)、2本目の講演はオリジナルではなく、講師が最近、あちこちで語っている内容である。

「新気象学入門/気象予報士・村山貢司」。

村山氏は、まず、講演の冒頭で「気象予報士とは、予報を出すための資格であって、テレビで天気予報をしゃべる資格ではありません」と手厳しいことをいう。

おそらく、数年前までやっていたNHKニュース7の天気予報などの職場を、次々に元日銀ウーマンである半井小絵さんに奪われていることに対する、皮肉なのだろうが、若い女性に対する批判は、見苦しいようにも思える。何しろ、村山氏が23歳で日本気象協会に入社した、1972年に半井さんは生まれたのだから、と一行書くだけで、二人の年がわかるように工夫してみた。

現在、村山氏は気象協会を退社して、民間の気象予報会社に勤めているそうで、気象庁と民間予報会社の予報精度の差について色々と話があった。私は、気象庁がスーパーコンピューターを使って予報を出しているにもかかわらず、それよりも精度が高い予報を民間で出すということは、気象庁の天下り対策のためだろうと思っていたが、そうでもないようなあるような・・

この講演は、何か、あることを言いたいということよりも、温暖化で、こんなことがおきたり、あんなことがおきたりというような事例集のようなものなので、体系的に書くよりもランダムな箇条書きの方がよさそうである。

1.日本全体で100年間に3度気温が上昇している。20年間で1度である。

2.東京は20年間で3度上昇。1度で100キロというので3度というのは東京が八丈島になったこと。

3.日本の海面は15年間で8センチ海面が上昇。うち半分が温度膨張で半分が極の氷の融解。

4.砂浜がなくなった結果、台風時の防波堤が心配。カトリーナは伊勢湾台風より若干強い勢力だったが、日本の堤防の基準は伊勢湾台風に合わせているそうだ。

5.ついでに、台風の巨大化が最近の特徴。そして、台風が日本直撃する年と全然来ない年とランダムだそうだ。

6.統計ではつかみにくい半径5キロ円での土砂降りや雷が多発しているそうだ。

7.その結果、水不足が予想される。降る雨の量が変わらなければ局地的に降れば、そこ以外は旱魃になる。

8.あと、2、3度、暑くなると、マラリア蚊の媒体となるハマダラ蚊が越冬するそうである。

9.夏が暑くなるため、スギ花粉は大爆発するだろう。

10.現在、九州では最高気温が25度以上の夏日が6ヶ月あるそうで、残り6ヶ月で3シーズンをこなしているそうだ。

11.その結果、米の生産に支障が出ていて、九州の稲作の生産量は今度40%減が予想されている。

12.かと言って、九州で、亜熱帯食物を作って、本州中部の農業を東北に移動して、東北の農業を北海道に移したところで、北海道で作っていたものはどこに行けばいいのだろう。今更、戦争して領土を獲得するわけにはいかないだろう。(と、過激なことをおっしゃっていたが、それを実際にやっているのが西アフリカかもしれない。)

と言うことで、問題点が山積みになったのだが、解決策に名案なしというとことだ。解決策を立てるのは気象予報士の仕事ではないのだろう。


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「野村の自由学校」に行く(アイアイ)

2007-05-22 00:00:14 | 市民A
「自由学校」とは、いい名前だ。元々、「自由」と「学校」とは相容れない概念で、私も学生の頃は苦労した。もっとも、「学校」よりもさらに「自由」と対決するコトバは、「刑務所」かもしれない(と、布石を打っておく)。

この「野村の自由学校」は、野村證券の投資家向けサービスの一環で、有名講師を招いての講演会である。通常は、「おカネ儲け」を中心とした話なのだが、5月の題目は、地球環境や気候変動とかに関連する話なので、聞きに行く。仕事柄、温暖化対策はメシのタネ(というか、メシが食えなくなるタネかも?)なので、気になる。

2e7a24b2.jpgまず、口座のある支店の近くのホールに行くと、大型ディスプレーが会場内6ヶ所に設置されていた。要するに、講師がくるのではなく、あらかじめNHKの関連会社が録画したものを、支店毎に放送するという仕組みだ。したがって、あとでQ&Aの時間はない。

最初の講演は、「アイアイに魅せられて/アイアイ・ファンド代表・島泰三氏」。

アイアイ・ファンドといっても投資信託ではなく、マダガスカルに生息する絶滅の危機にある原猿である「アイアイ」を保護しようという組織である。保護するための費用を捻出するために、アイアイの画像を撮影したりしなければならず、それがまた逆効果ではないかとも思えるのだが、よくわからない。



2e7a24b2.jpgまず、マダガスカルの地理的な位置だが、アフリカの南東部に浮かぶ島で大陸からは約300キロ離れている。南北に長い上、海岸沿いが熱帯雨林で、島の中央が高原で涼しく、植物は多様だ。いや、多様だった、というべきだろう。もともと、アフリカと南極とインド、さらに南アメリカは同一大陸で、プレートが移動することによって、アフリカからインドがビリッと離れたついでに、マダガスカルもアフリカ大陸からはがれたようだ。

その時期がカンブリア紀の前で、その後の多様な生物発生の前だったこともありマダガスカルは他の大陸とは異なる生物系だったらしい。そして、何らかの理由で、大陸から原猿がやってきて、ここがキツネザルの島になった、とされる。

というような話で、いつも疑問に思うのは、「なんらかの理由」でやってくるとは言っても、そう簡単ではないし、子孫を残すと言うことは、ツガイか妊娠中の猿が海を漂流する流木に捕まっていた、とかいうことよりないだろうが、そんなことがあるのだろうか、ということ。しかし、それでは前に話が進まないので省略。

このアイアイだが、キツネザルの一種である。猿は類人猿を示すApeと真猿類をあらわすMonkey、そしてこのキツネザルなどを含む原猿類をあらわすLemurに分かれる。マダガスカルはLemurの宝庫で、キツネザルが5科74種発見されている。そして、化石の研究により、2科15種が絶滅したことがわかっているようだ。さらに、多くが熱帯雨林の密林に住むため、森の奥の研究が進むにつれ、数年ごとに新種も見つかるそうである。絶滅したが体重200キロの大ザルもいたらしいし、30グラムの超小型サルも生息しているそうだ。

2e7a24b2.jpgアイアイの特徴は、大きさが猫ぐらいで、毛色は黒。夜行性だが、生活が不規則で、夜でも起きないこともあるそうだ。ラミーの木に住む。熱帯雨林のジャングルは、下層、中層、上層と生態系がわかれているそうだが、アイアイは上層に位置する。下層階級ではないため、贅沢で、ラミーの実を主食にしている。この実はクルミ並みに固く、鋭利な歯で割り、実の中心部をはしのように棒状に伸びた中指でつついて実の中心部を食べる。歯は爪のように伸びてくるそうだ。まさに世界の珍獣である。

しかし、現在、マダガスカルでは山火事が多発している。その結果として森林面積がどんどん減っていて、サルの場所がなくなっているのが現実だそうだ。(確かシベリアでもそういう話があった。)

ところで、このアイアイだが、上野動物園の夜行性館で見ることができるそうだ。夜行性館は動物にとって昼と夜が逆転するような環境をつくっているので、上野公園の夜行性カップルも昼間に行かなければならないわけだ。ただし、生活は不規則で見られる保証はまったくないそうだ。

そして、このアイアイ・ファンド代表の島泰三氏なのだが、動物学博士という顔の他に、もう一つの顔がある。若いときにあるグループの隊長だった。マダガスカル探検隊長ではない。「本郷学生隊長」。専門は安田講堂篭城である。原因と結果の関係で、その後、懲役二年。本人が「安田講堂」という中公新書でカミングアウトしているので、書いてもいいのだろう。マダガスカルの熱帯雨林の方が、まだしも、楽園なのだろうか。ということは動物園に無期懲役で服役中のアイアイは・・


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大阪は謎多し

2007-05-21 00:00:30 | 美術館・博物館・工芸品
週末に大阪に寄っていた。メインテーマが一つ。サブテーマが二つだったのだが、行ってみると、まったく違う物がたくさん見つかって、さすが歴史的大都市である。そして、魔都らしく、不合理な交通網に悩まされ、余所者はどんどん時間を無駄にする。

そのサブテーマでもない、まったく偶然見つけたものをいくつか書いて見る。

d5c66541.jpgまず、川端康成出生の地があった。場所は大阪天満宮の正面だ。碑が建てられている。

川端の略歴を調べると、1899年の生まれ。父は医者だったようだが康成2歳の時に結核で死去。さらに母も翌年、結核で亡くなる。その後、父方の祖父母の住む茨木市に移るが、祖父母とも康成が15になったときには死別している。

川端の生家の跡地は、現在は「相生楼」という古い料亭の敷地の一部になっている。しかし、本当に天満宮の前だ。ぐるなびでこの料亭を検索すると、創業180年である。一人あたり予算は昼も夜も20,000円と相当高級だ。敷地の一部に医者である父が住んでいたというのは、どういう事情なのだろうか。まさか、業容拡大のため、地上げに応じない川端家一家が邪魔になって・・・・とか。いや、まさか。

川端康成の文章は一見、軽くスムーズに読めるが、ことばの一つ一つが手裏剣のように研ぎ澄まされ、文体の模倣は困難だ。知性でもなく理性でもなくリズムは軽く、意味は重い。まったく大阪的ではない。だいたい、彼の小説には、結構、ご当地物があって、雪国=越後湯沢、伊豆の踊り子=修善寺、古都=京都とかだ。大阪がテーマというのは、あまり記憶に無い。


d5c66541.jpgそして、その天満宮の近くにアーケード街があった。雨が降ってきたので、そのアーケード街を歩くと、予想を上まわる長さだ。地下鉄の南森町を過ぎて北上してもさらに1キロは続く。かつて、これだけの長さのアーケードを見たことがない。天神橋筋アーケードというのだろうか。そのうち、JR大阪環状線の天満駅(全国的に天満は”てんまんぐう”と呼ぶが、大阪では"てんま”と呼ぶ)についたので、歩くのをやめたが、まだ北側に伸びている。最低2キロはあるのではないだろうか。こうなるとアーケードのメンバーにならないと商売もままならないのだろう。

しかし、後でwikiで「アーケード」を調べると、自ら日本一の長さと自称するアーケード街は全国たくさんあることがわかった。特に九州方面だ。しかし、都道府県別に見ると、大阪府が圧倒的に多いことがわかった。この天神橋筋は「直線長さ日本一(2.6キロ)」ということだそうだ。それにも異論があるようだ。公平な第三者が、アーケードランキングを作ってみたらどうなのだろうか。

そして、JR大阪環状線というのもわかりにくく、本当はJR東西線で大阪天満宮駅に行けばいいのだが、環状線と東西線は時刻表のMAP上はつながりが悪いのだが、大阪駅につくと、東西線の北新地駅と大阪駅はつながっていることを発見。それなら同じ駅で駅長は一人ですむはずなのだが、駅長職が二つもあるというのは、大阪名物の「差別問題」の結果なのだろうか。

そして、さらに新幹線で東国に帰ろうとして、新幹線ホームをさがしても、なかなか見つからないのである。なぜなら、そこは新大阪駅ではなく、大阪駅だったからだ。新大阪駅の場所の決定についても、色々な勢力のせいだ、という説を読んだことがあるが、あまり詳しくはない。

そして、くたびれ果てていたので、そのまま一気に東国まで一眠りしてしまった。体力に余力があれば、京都に寄って、相国寺美術館で、秘蔵の「若冲展」を見て、さらにベンチャー企業社長ブロガーに会いに行こうかと企んでいたのだが、若冲展に土曜の午後に行っても入場制限で入れるかどうかわからないし、それほど大好きな画家でもない。またベンチャー企業社長に会うにしても土曜の午後という非常識時間のアポでは、はっきり断られるならいざ知らず、仮に、「気にせんと、寄ってくだはれやす」とか言われた場合、「NO」なのか「いやいやYES」なのか「YES」なのか、本心を見分けられるほどの京都通でもないので、やめた。

追記1:別の大阪を歩いていたら、福沢諭吉の生誕の地もあるようだった。それも意外。よく大阪三人種として「ヨシモト系」「ヤクザ系」「あきんど系」の3種と言われるのだが、川端も福沢もどれにも合致しないような気もする。それでもノーベル賞を取ったり、一万円札のモデルになったりしている。

追記2:新大阪駅のエスカレーターは東京のように右空けだったが、大阪駅は左空けだった。さらに大阪駅では二ヶ所でケンカが起きていたが、周りはまったく無関心だった。

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二つのいのちの火花

2007-05-20 00:00:23 | 美術館・博物館・工芸品
e1077cfe.jpgまず、一枚の写真から。この人物が誰だかわかるだろうか。

中原中也、と言えば、それは別人じゃないの、ということになるかもしれない。世間に流布した中也の写真はソフト帽を浅くかぶった美少年である。

その無理からぬ差は、帽子男の方は19歳の時の写真で、一方、切れやすいサラリーマン風の写真は後にNHKの入社試験を受けるための履歴書用である。不採用になった理由が左の髪に寝癖があったためかどうかはわからない。後に中也の愛人だった長谷川泰子を寝取った小林秀雄は、「いつも昔の写真を使って・・」と中也のことをぼこぼこに言う。

そして、中也と二年間にわたり、影響を与え合った詩人が富永太郎である。写真はレッドソックスの松坂によく似ている。こちらの写真は本物に似ている。

つまり、横浜の港のみえる丘公園の一番奥にある神奈川近代文学館で開かれている「中原中也と富永太郎展=二つのいのちの火花」に行ったのだ。ことしは中也の生誕100年であり、また没後70年でもある。つまり30歳で亡くなった。一方富永太郎は24歳でなくなる。二人が出会ったのは、太郎が亡くなる1年前の1924年。大正末期の京都である。中也17歳、太郎23歳。

e1077cfe.jpg実は、二人の資料が大量に展示されていて、またいくつかの資料は入手してきたのだが、情報が多すぎて簡単に二人のことを論じるわけにはいかない。もっと時間をかけて考えてみたいのだが、会場で直感的に二人の人格や作品からのイメージを言えば、移り行く時代の流れを「やや傍観者的立場で『時代に引きずられる悲しみ』を詠う富永太郎」と「自ら『世界の先回りを画す』新しい表現を好む中原中也」ということではないだろうか。会場内に流れるショパンのピアノの調べは富永太郎の世界で、ベルリオーズの幻想交響曲的なのが中也ではないだろうか。

ここから先は、近く、長時間新幹線で移動する機会があるので、その時、資料群を読み解いてみようと思うので・・いずれ別稿で

生きていれば中也は今年100歳なのだが、実は、彼の母親は101歳まで生きていた。長寿系だ。まったく想像することもできないのだが、もし中也が最近まで存命だったとしたら谷川俊太郎など粉砕して詩壇の大御所になっていたかもしれない。内面的な作風からいってノーベル賞は無理だろうが。


e1077cfe.jpgところで、みなとのみえる丘公園も、それほどみなとの海面が美しく見えるわけではない。埋め立てられ、倉庫が立ち並び、ベイブリッジまでできた。

e1077cfe.jpgそして、公園の一角に母子像があった。弊ブログ2006年9月27日号ある事故現場(2)の米軍機墜落事故で亡くなられた二人のこどもと、全身火傷の闘病の結果、その後数年で亡くなられた母の像である。現在ではよく理解できないことになったが、ここにこの銅像が設置され、台座に文字が刻まれるまでに遺族側と行政側の間に、長いイデオロギー的な闘争があったらしい。事件のことを知ってから、この像を見ると、悲しくなるばかりだ。

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将棋連盟理事選挙近づく

2007-05-19 00:00:19 | しょうぎ
将棋連盟は社団法人であり、構成員は平等な社員であり、およそ150人の現役棋士と50人弱の退役棋士によって構成されている。その他、もちろん職員がいる。そして女性棋士が約50人いたが、その身分は連盟の社員でもなければ職員でもない不安定なものであるところから分裂に至ってしまった。

そして、米長会長をはじめとする8人の理事の2年間の任期が過ぎ、この2007年5月25日に新理事の選挙がある。久しぶりに社会人からプロになった瀬川四段は「会社であれば平社員が社長選挙をしたり、重要な決定事項を投票で決めることなど考えられないのに・・」と感想を漏らしていたが、それは社員として平等の権利を持っているからだ。

さて、理事選挙の仕組みだが定員は関東6、関西2である。立候補は関東、関西別で全棋士は関東3票、関西1票を投じ、票数上位の者が当選。ここまでが第一ラウンド。次に、この8人が第二ラウンドの会長選挙を争うわけだ。だから第一ラウンドで1番になっても会長になれるというわけでもない。また、8という数字が偶数なのがいかにも不都合のようにも思える。

そして、既に立候補は締め切られていて関東は6人の枠に対して8人、関西は2名枠に2名が立候補となった。関東は、米長・西村・田中寅・桜井・大野・武者野・中川・青野。関西は淡路・西川である。そして、まず関西だが、信任投票が行われることになった。過半数が信任しないと失格になる。

そして、あと一週間の選挙戦なのだが、いくつもポイントはある。

まず、4年前の選挙の時は、派閥対決型になっていて、米長を含む佐瀬一門対中原を含む高柳一門の激突に、関西票をまとめている内藤派が絡んで、結果、中原会長になった。さらに2年前は「保守派」対「改革派」というイメージ選挙になって、中原政権から米長政権に移行。ただし、その時は、具体的な案件ということではなく、あくまでも「改革イメージ」が焦点だった。

しかし、この2年の間に、職員のリストラや名人戦移管問題、そして女流棋士分裂問題と具体的な問題が俎上に載ることになったわけだ。それで、立候補者のスタンスをよく考えてみると米長派と確実に見られているのは、米長・西村・中川であり、おそらく反米長は桜井・武者野・青野。態度が怪しいのは田中寅・大野ということだろう。そして今のところ関西の二人は内藤の指示で米長派と見られる。

しかし、関東8人のうち2人が落ちるのである。落ちそうなのは武者野・大野・西村の3人の中ではないだろうか。結構、微妙だ。さらに関西の方も、大問題のテーマがある。将棋連盟ビルの統一というような筋だ。手狭になった千駄谷の連盟本部を建て直す時に、関西本部を手放す案だ。もちろん、まだ秘中の秘であるだろう。

こうして、選挙結果について、想定不能のまま5月25日の投票日になるのだろう、と想像している。

8d0ae650.jpg前々週5月5日出題の詰パラ4月号掲載(短大コース)の解答。詰パラの中では易しい問題ではないかと思うが、客観的にはよくわからない。何しろ、短大コースは19手詰から29手詰を5題掲載しているが、一目で答えがわかるのは自作だけだからである。

まず、初型で逆王手。特許を申請できるのではないかと思っているが、まず、類似作とか同一作はないはずだ。なるべく危険から逃れるために、▲4二玉としたいが、△3一金と打たれ、▲同龍(王手)、△同角(王手)で、王手掛け合い負けになる。したがって、初手▲3二玉だがこれに対する後手2手目の正解は△3一桂である(A図)。もっと激しく△3一香と打ちたいが、▲同龍、△同角、▲1二歩以下、先手の角が登場して香を頭に載せられる。つまり、前に進む駒は合駒できないわけだ。そして3手目以降、▲1二歩 △同玉 ▲3四角。

8d0ae650.jpgこれであっさり後手が△1一玉と引くと、▲3一龍 △同角 ▲2三桂以下簡単に終わる。が、後手の捨駒が登場する。△2三桂打(B図)!。つまり、前述のとおり進んで先手が桂を打つ場所を消しておく。この△2三桂打の「打」という字を書き忘れると、はっきりいって失格になる。ある意味、この問題で最も間違えやすいところかもしれない。

以下、▲2三角成 △1一玉 ▲3三馬となる。ここで後手の正解は△2二金!(逆王手)(C図)。飛車か金で逆王手をかけないと▲3一龍となるからだ。以下、▲同馬 △ 同角 ▲2一金 △1二玉 ▲2二金 △1三玉に▲3五角と空中に打つ(D図)。

ここからが収束になる。△1四玉 ▲1五歩 △同玉 ▲2七桂 △1四玉 ▲1三角成! △同玉 ▲4三龍 △同桂 ▲2三金 △1四玉 ▲1五香(終型)まで29手詰。ヒントで書いた「拾ったボールでショートパット」になる。もちろんゴルフでは「失格」である。

一応、手順だけを書くと、▲3二玉 △3一桂 ▲1二歩 △同玉 ▲3四角 △2三桂打 ▲同角成 △1一玉 ▲3三馬 △2二金 ▲同馬 △同角 ▲2一金 △1二玉 ▲2二金 △1三玉に▲3五角 △1四玉 ▲1五歩 △同玉 ▲2七桂 △1四玉 ▲1三角成! △同玉 ▲4三龍 △同桂 ▲2三金 △1四玉 ▲1五香まで29手詰。


8d0ae650.jpgさて、今週の問題。手数の割りにかなり簡単な問題。というか、手数伸ばしのテクの試作品。前半部分は詰将棋的になっている。8手目、少し注意。

わかったと思われた方は、最終手と手数をコメント欄に記入していただけば正誤判断。酷評の予感あり。


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川崎の「あしびなー」

2007-05-18 00:00:00 | あじ
アシビナーとカタカナで書いてみると何かドイツ語的になる。ユル・ブリンナーとかピルスナービールといった語感だ。しかし、まったくそうではないわけだ。過去・現在・未来と続く「沖縄のコトバ」である。

軽く検索すると、沖縄には同名のアウトレットモールがある。小劇場がある。また沖縄タイムスには、あしびなーコーナーがある。沖縄タイムスの解説を引用すると、


「あしびなー」は、古くから沖縄で使われている言葉です。芝居や神行事、遊楽などを行う空間。若者や男女が集い、交流する場として、暮らしの活力になっていました。このコーナーが「あしびなー」のように利用され、愛されてほしいという願いから、この名前になりました。

つまり、もっともつまらない単語で言い換えると、公会堂ということになるのだろうか。いや、公会堂やホールは「演じる者と観る者」という二極対決型空間になりがちだが、どうも沖縄のあしびなーは、「参加型空間」ということなのだろう。

そして、関東にもいくつかの「あしびなー」があるのだが、まあ、それは「飲食店」の看板の名前になっているわけだ。東京都内では中野や渋谷にあるようだ。もっとも、沖縄出身者が集まってくる、ということから考えれば、「ミニ・あしびなー」なのかもしれない。

fc6568fe.jpgそして、沖縄出身でもない人間達が、川崎の「あしびなー」に行くことになった。場所は、近代的なシンフォニーホールを持つ「ミューザ川崎」ビルの1階にある妙な飲食店空間である「40番街」の一角である。

しかし、なぜ、日本で最も斬新(と言い切れるかどうかはよくわからないが)なデザインのコンサート・ホールに飲食店街が併設しているのかよくわからないが、23時半までの営業だから便利と言えば便利だ。当日は、コンサート抜きで、6時半の予約を友人に連絡しておく。

ところが、「40番街」だが、慣れてないと簡単には行き着かない。1階にあるのだが、川崎駅から普通に歩いていくと、建物の二階に入るわけだ。大エスカレーターは階上のホールに向っているので、そのフロアを1階と勘違いしてウロウロと探し回ってしまいがちだ。そして、1階には下りエレベーターに乗らなければならないことに気付いても、その一階をどうさがしても飲食店街には辿りつかない。

というのも、この飲食店街のレイアウトが奇抜なのは、普通のビル内店舗と異なり、各店舗の入り口がビルの外側に向っていることだ。とうもろこしの輪切りみたいなイメージだ。だから、「川崎駅→ミューザ2階→ミューザ1階→一旦ビルの外に出る」という複雑な経路により、やっと、この「あしなびー」に到着する。なので、6時30分の約束なのだが、相手が遅刻することを計算に入れて6時39分に入店すると、計算通り1分後に友人が到着。「やあ、待たせてしまい申し訳ない・・」と疲れ目だ。ワリカン勝ちが決定する。

そして、この店は、基本的に沖縄県なのである。「まず、ビール」というとオリオンビール登場。つまみに島らっきょうと海ぶどうを注文して、乾杯。以後、豆腐チャンプルー、ポチギ(ソーセージのこと。アクセントは栃木と同じ)、・・・と続いていく。本場よりも調理に細かな気を使っているような。厳選素材といった感じだ。酒は泡盛だけではなく、奄美の黒糖焼酎もあり、私は軟弱に奄美の方で妥協。

fc6568fe.jpg最後はミミガーのガーリック炒めという過激料理をポリポリかじる。ブタさんのお耳だ。たぶん、耳の皮をえぃっとはがし、中の軟骨を千切りにしてガーリックを漬けた油で炒めたのだろう。「女性の耳を齧るのとは、食感が・・」と訳のわからない会話になるが、まったく、わけがわからない。

そして、最後に登場はタコライス。蛸とは無関係。タコスと関係があるらしいが、よくわからない。これだけ食べて飲んで、二人で1枚で足りるのが不思議だ。

ただし、最初に登場した島らっきょうだが、極めて強烈。20時間くらい口の臭いに悩まされてしまった。「あしなびー」に女性同伴して「おしのびー」を企てるつもりなら、島らっきょうからではなく、ミミガーから始めた方がいいかもしれないが、「耳の固さを比べてみたいなー」と思わず口走ってしまった場合の結果については、まったく関知しないのである。


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あかちゃんのこと×2

2007-05-17 00:00:20 | 市民A
二つの話のどちらから始めようかちょっと考えてみたが、まず、ウルトラマンのこどもから。

元モー娘の「辻ちゃん」辻希美(19)さんと、ウルトラマン・コスモスの主演だった杉浦太陽(26)さんが、結婚することと、妊娠二ヶ月であることを公表。本当に二ヶ月かどうかはずっと後にわかるのだが、その時、計算し直す人は誰もいないだろう。

そして、その記者会見の様子をTVで観たら、大変に違和感のある質問をした男性芸能記者(リポーター)がいた。

質問:「避妊することは考えなかったの」

座が白けるという表現ではなく、何か会場に軽蔑の雰囲気を感じた。

つまり、記者としては、仕事をほっぽいて、こどもなど作って無責任じゃないか、と言いたいのだろうと思うのだが、この発言は、たぶん最近の世間の風を少し読めてない、と思った。閉鎖社会に棲息していて、旧態とした世界観を持っていることがよくわかる。そして予想通りその発言は無視され、辻ちゃんの”また芸能界に復帰する”と営業用の発言で終わる。

まあ、聞かれて「辞める」という人はめったにいないので、本当に復帰するかどうか、まだ、そんなことまで深く考えてないだろうと思う。目先の問題から順番に片付けるというのが、こういう場合の常道だ。少なくても甲斐性の無い中年男と付き合ってクビになった相棒とは運命が逆方向に進み始めた。

そして、よく考えれば、26歳と19歳が結婚してこどもを産むこと自体、最近少ないだけで、元々おかしな話じゃないし、第一、日本はこれから少子高齢化でもだえ苦しむ国なのだから、「少子化撲滅キャンペーン」のモデルになって、これから1ダースくらい位でもこどもを産んでほしいところだ。ウルトラマン一族も私が少し目を離しているうちに、親戚が大膨張しているようだ。

ところで、口の悪い筋からは、「こどもがこどもを産むみたいだ」という声もある。若さに対する妬みということなのだろうが、心配ないわけだ。政府公認の「親学」が始まるらしいからだ。それはそれで、既存の固い頭の大人から見れば「こんなことまで、政府が言うか・・」と言いたいところだろう。

しかし、「親学」の恩恵を受けるのは、「無知な親の方」ではなく「罪のないこどもの方」の人権なのだから、”念には念を入れて丁寧に書き過ぎる”ということでもいいのではないだろうか(ちょっと読んだだけだが、パチンコ中に駐車場に置き去りにしないこと、というのが抜けていたようだ)。

そして太陽君の方も、一時は暴力行為の濡れ衣を被って追放寸前に追い込まれた経験を持つ。芸能ジャーナリズムの底の浅さを見切っているのだろうと思う。


そして熊本の慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」。5月10日の午後、3歳の男児が父親と思われる男性から50センチ×60センチの箱に押し込まれてしまった。

「こうのとりのゆりかご」が運用を開始するまでに、賛否両論があったのはご存知のとおりで、賛成論にしろ反対論にしても「やむを得ず」とか「できるならやめてほしい」というような留保的意見が多数だろう。今回の3歳児の件では、ほとんどの国民は心を痛めているのではないだろうか。

しかし、・・

このこどもは自分の名前をしゃべる。おそらく、もっと詳しく状況を説明できるかもしれない。連れてきた男性が父親なのかどうかもわからないが、直ぐに身元がわかるのではないだろうか。そして、直ぐに身元がわかることは、連れてきた男性だってわかっているはずだ。つまり、まったく、本来とは逸脱した目的でこどもを押し込んだのではないだろうか。

例えば、と考えたくないことを列挙すると、「1.既に男性は何らかの理由で自殺してしまった」、「2.○○○○○教○○弁護士殺害事件のようなことがあって、こどもだけは助けよう、と犯罪者が考えた」とか、もっと軽薄に考えれば、「3.妻に逃げられた夫が、こどもをだしにして妻の帰還を画策した」、とかだ。3くらいであることを祈りたい。何しろ、手間のかかる3歳まで育てて、何で今だ。


個人的には、「こうのとりのゆりかご」が全国で1ヶ所とか2ヶ所というなら、それでいいのじゃないかと思っている。特に日本の中央部から離れている熊本というところならば、電車に乗り継いでいかなければならない。匿名で飛行機に乗ることは簡単ではない。たとえば東京から新生児を連れて熊本まで一気にいくのは難しい。1日、2日という日数が必要だろう。そういう親子の旅を続けている間に、考えが変り、引き返すことは十分過ぎるほど考えられる。

しかし、ドイツのように全国に80ヶ所も作ってしまうのは、やりすぎだ。「こどもは国家のモノだ」と内心考えているかもしれないコンサバティブ・アベだって反対している。あくまでも全国1、2ヶ所ということではないだろうか。

日本は近世を通じて、堕胎と間引きで人口調整していたらしいが、欧州では捨て子(差別用語)が一般的とされていた。グリム童話なんて捨て子物語そのものだ。全編、森と狼とこどもの話だ。そこで、宗教者としての教会や修道女院の登場になり、現代的にポストに変質しているわけだ。

そして、こどもを置き去りにする親が知らなければならないのは、こういう実質的な親のいないこどもたちの未来だ。日本でも宗教が絡んでくる。ある組織では積極的に信者が養子をとることを推進している。結果、多くは日曜日に聖書を持たされて、戸別訪問に歩いているようだ。


おそらく、今、熊本のゆりかごのことを考えている親は、誰にも相談していないのだろうと思う。が、今の20代・30代前半の人たちは、そんなに利己主義的ではなく親切な人が多いと感じている。まずは、身近な人や児童相談所などへ、小さな勇気で最初の一言を・・

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