書評「銀むつクライシス」

2009-04-30 07:53:59 | 書評
1年ほど前に話題になっていた本。



今や高級魚の「銀むつ」をめぐる国際謀略小説かと思っていたら、ノンフィクションだったのだが、現実の世界は「小説より奇怪」ということもあり、それなりに考えさせるところが多い。

あらすじを書くのが面倒なので紀伊国屋書店による要旨によると、


2003年8月、南極大陸にほど近いインド洋南西部のハード島近海で、オーストラリアの巡視船がマゼランアイナメ密漁船を発見した。逃げる密漁船と、それを追う巡視船。

南氷洋を越え、南アフリカ沖大西洋まで約4000海里20日間、この一大追跡劇はいったいどこへ向かうのか。

日本の食卓でも銀むつやメロの名前で知られるマゼランアイナメは、数十年前まではだれにも見向きもされず、南の海でひっそりと暮らしていた。それが、学術的に不正確でも魅力的な名前(「チリ・シ-バス」)とともにアメリカ市場に持ち込まれ、様相は一変する。流行の食材になったこの魚は、絶滅が危惧されるほど乱獲で激減したのだ。



だが、いったい何が、なぜ、そこまで追い込んだのか。

飽くなき食への欲望がわれわれにもたらすものをスリルとサスペンスたっぷりに描きあげた、衝撃のノンフィクション。


ということになる。

しかし、実際、本書はこの要旨とはかなり異なったトーンである。二つの筋が交錯している。

一つは、オーストラリアの巡視艇サザンサポーター号と密漁容疑のある日本製高性能漁船ビアルサ号の20日間にわたるチェイス。南半球の8月は真冬である。凍結した南氷洋で、次々に止まるエンジン、長い追跡の末、漁船の船籍ウルグアイとの国際問題。途中で追跡に参加した乱暴な南アフリカ政府。そして高い費用を払ったあげく、取り逃がした場合の責任の行方。

もう一つの筋立ては、アメリカの高級レストランの事情。高級白身魚を牛肉のようにガツガツ食う文化によって、白身魚がどんどん海から消滅してしまう。そこにたまたま1980年頃に登場した、マゼランアイナメ。謎の大型魚で、50歳にも達するそうで最大2メートルに達する。

どこにいるのか、よくわからなかったのだが1982年にたまたまチリ沖で大漁を得たことから生息地がわかる。特に1991年からチリの軍事政権が外貨稼ぎのために漁を解禁したところから、一挙に世界に広まる。アメリカでは「チリ・シーバス」と呼ばれ、日本では「銀むつ」。その後「メロ」となる。



結果、他の激減絶滅種と同様にチリ沖から姿を消すと、南氷洋で乱獲をはじめるのだが、そこにはまた問題があって、CCAMLR(南極海洋生物資源条約)で、漁獲量を報告する義務がある。

さらに、絶好の漁場の中には、オーストラリア領の無人島であるハード島があり、この島の周囲200海里をオーストラリアは経済水域と宣言している。(1947年に英国から譲り受けた無人島を核に巨大な利権を主張するのも、どうかとは思うが、日本も同類である)

そのエリアにいたビアルサ号に密漁の嫌疑をかけ、追跡&逃走が始まる。まあ、どちらもその筋のベテランであるので、相手の考えや、燃料残量がわからないままに作戦を立てるわけだ。

そして、ついに南大西洋で逃走は終了し、来た道をバックして、乗組員はオーストラリアの法廷に立つのだが、ここでも大ドラマがあって、結局無罪放免となるのだが、そのかわりウルグアイ船籍では密漁が困難となる。

背後に潜む、船のオーナー会社のたてた戦略は二つ。

一つ目は、船籍を条約未加盟国に移すこと。つまりミサイル発射失敗国である。

二つ目は、マゼランアイナメの近縁種を探すこと。和名、ライギョダマシというソックリ魚が次の犠牲者になっているようだ。

肖像ケン

2009-04-29 00:00:24 | The room of Sora
sora旅行中に飼い犬を預けていたら、さっそくペットホテルのホームページのモデルに使われてしまった。肖像権というのは、人間だけに適用されるのか、あるいはペットにも適用されるのか、よくわからない。

もっともペット屋にすれば、預かっている期間中に、ホームページにアップしているのは、旅行先でパソコンを開けば、預けた犬がどういう状態であるかわかるのだから、気になる飼い主に対するサービスということらしい。

が、旅行先のホテルではネット環境に問題があって、結局、見ることができなかった。まあ、島だから・・

旅行から帰ってきてから、毎日の画像をチェックしてみると、散歩には行っていたようである。体重は、僅かに増加(犬も私も)。ドッグフーズやおやつもその店で買っているので、知らぬ間に、新種のおやつの餌付けでもされているのではないかと疑っているが、今のところ、確認できない。犬に聞いても、口裏を合わせているだろう。

そして、このペット屋のオヤジだが、実は、元の会社で部下だった男。会社をやめた後、紆余曲折の末、総合ドッグ産業を興す。本業は「家庭犬のしつけ」で、「犬の幼稚園」を開いていて、住宅地の中の小規模マンションの一階を借り切って、放し飼いにしている。顧客層は私を除いて、高所得家庭に限定すべく、各種サービスの定価は、普通のショップの約2倍である。例えば、ホテルの宿泊単価は一泊素泊まり1万円であるから、自分の旅行代金と同じ位になってしまう。散歩、無料幼稚園、デイリーレポート付き、ただし、フーズは持ち込みである。

今は、高級住宅地の主婦達に対しては、もみ手でお愛想を並べているが、彼の触れられたくないだろう過去を知る者としては、「(口止め料として、)もっとサービスあってもいいんじゃないの」と言いたいところではあるのだが、どうも、最近は「もみ手、お愛想並べ」の罠にはまっているような気もしている。

最もかわいそうなオス

2009-04-28 00:00:46 | 市民A
動物界のオスで、最もかわいそうなのは、何だろうかと考えてみる。

ただし、「最もかわいそう」というのは、「メスに比べてオスの方がかわいそうな度合い」という意味で、動物の存在自体が危うくなっている「稀少生物」という現代的問題ではない。メスは幸せなのに、オスは悲惨という格差が大きい動物のこと。

と言えば、案外、人間世界はオスがかわいそうなのかもしれないとも言えるわけで、格差婚破綻で、豪邸から賃貸アパートへ引っ越した芸人一名とか、結婚後、NHKのせいで格差が拡大して、まもなく豪邸とアパートに住居が分かれると想像できる役者一名とか、それはたいした差でもない。

人間の話の続きだが、古来、戦場に連れて行かれて、地球のコヤシになるのはオスの役割だったが、20世紀の戦争では、連れて行かれなくても上から爆弾が落ちてきて、タキギになってしまう。日本では縄文時代まで遡れば、男は食べ物を探しに一日25キロ歩いていたらしいが、当時の女もまた、食べ物を探しに15キロ歩いていた。

人間でのオスメス較差は、そんなものである。


よく、かわいそうなオスとして、頭に浮かぶのが、カマキリ。よく知られた話として、メスが産卵する前に、栄養源として餌と化すわけだ。同じようでもスズムシを集団で飼うと毎日個体数が減っていくのは、単に彼らが大食いなだけだ。

まあ、カマキリのオスであるなら、多少痛くとも男子の本望ということだろうか。もっともメスの方だって、産卵してまもなく昇天してしまって、子孫の顔を見ることはできない。

カマキリに似ていながら、もう少し卑怯感が漂うのが、大部分のクモ。クモはクモの巣(網)を張って餌を捕るのだから、大きな網を作れるクモほど、多くの餌を食べることができ、体も大きくなる。そして、基本的には大きな網のどこかを自分のホームプレースにしている。だいたいは中央に住んでいる。

ところが、中央にいる個体というのは、メスなのである。自分で作った網の世帯主である。

では、オスはどこにいるかと言えば、この大きな網の端っこの方に間借りしている。体も二回り小さい。追い出されたどこかの役者みたいである。しかも家賃は払わないし、餌も横取りする。

メスにすれば、そんなオスが気に入るわけないので、基本的には、クモのオスはメスにとっては、単に餌の一種である。

しかし、困ったことに、オスには仕事があるわけだ。交尾である。ところが、交尾するためにはメスに近づかなければならないが、メスの方が体が大きく、近づくと食われてしまう、という困難を極める状況になるわけだ。さらに男らしくないのは、サッと一瞬の隙を突いて交尾した後、食われないように逃げ出そうというわけだ。

統計はないだろうが、結局はいつか、メスに捕まって食われる運命にあるのかもしれない。いつも逃げ回っているのは、たぶん、カマキリと違って、食われる時に痛いからだろう。少しかわいそうだ。

ribonuoで、やっと本題。

最近の海洋生物の研究で、いままで三つの科とされていた深海魚が、実は同種の魚の「子、メス、オス」であったことがDNA鑑定で、わかったそうだ。形があまりにも異なるため、今までは3種別々の種として、別の科が与えられていた。

その三種は、「リボンイワシ」、「クジラウオ」、そして「ソコクジラウオ」である。かなり形も異なるし、生息場所や、そのライフスタイルが異なる。

まず、子魚のリボンイワシ。まだ雌雄の差ははっきりしない。リボン状の尾をヒラヒラさせ、クラゲになりすますそうである。深海ではなく、浅瀬で食料の豊富な場所に住んでいるそうだ。何となく「小女子のくぎ煮」をイメージさせる形状である。

そして、雌雄較差が表面化するのが成魚になってから深海に住まいを移動する頃からである。成魚は、深さ1000メートルから4000メートルに生息する。

まず、メス。

ribonuo名前を「クジラウオ」というのは、大きな口とずんぐりした体を持つ。いかにも、何でも食べて大きくなる相撲取りみたいな体型である。

そして、問題はオスの方である。いままでは「ソコクジラウオ」と呼ばれていた。

普通、人間を含めた生物には、いくつかの「欲」がある。人間の場合の欲と言えば、「食欲」「性欲」「出世欲」あたりだろうか。動物と同じだ。

ところが、このオスの「ソコクジラウオ」の場合は、極端である。メスと違う形状に変わってしまう。

まず、口の機能がなくなってしまう。食道も胃も消滅。つまり、いかなる食べる楽しみも奪われるわけだ。体は痩せ細る一方で、細い体に残るのは、エネルギーを溜め込んだ肝臓と生殖のための精巣だけ。

ribonuo出会いの少ない深海で、何も食べず、子孫を残すことにだけに全力を傾けることになる。嗅覚が発達しているのは、フェロモンを嗅ぎだしてメスに近づくための機能らしい。

要するに人間で言えば、「ラヴマシーン」になってしまうのだが、それはそれで楽しそうではあるが、「メシが食えない」のは、やはり、かわいそうとしか言えないだろう。それとも、ダイエットの一種として、唇を縫い合わせて、Please try?

「えびめし」って

2009-04-27 00:00:58 | あじ
ebimeshi総理大臣が記者会見をして、「えびちゃん」知ってますか?という妙な街が東京だとすると、西日本にある、某県庁所在地の一角で流行っているという噂の食べ物がある。

えびめし。

さっそく、トライ。

見た目は、「そばめし」と同じである。

と書くと、「そばめし」の説明が必要になるのだが、「そばめし」はソース焼きそばのそばの量を半分にして、残りをめしに換えたものだから、味はきわめてソース焼きそばに近い。

えびめしの色は、どうみても「ソース焼きそば」、「そばめし」と同じだ。

ほぼ、疑いの念を捨て、スプーンで一口。

まったく違っていた。

少し奇妙な味なのである。

あきらかに感じるのは、カレー味。ドライカレーの味が半分である。

残りの半分がよくわからない。広島焼きで使われる甘口ソースの味も感じる。若干、香草的なスパイスの匂いもある。

色も不思議だ。カレーなら黄色味が強いはずだが、もっと黒い。

単に私見だが、あまり好きにはなれなかった。調理が下手ということではなく、微妙な味があまり好きじゃない。カレーであるなら、毛髪の先まで電気が走るように辛いのが好きだし、甘口ソースなら甘く、辛口ソースなら辛く。まあ、きょうは焼きそば、明日はカレーと食べればいいのではないかと思うだけである。

なぜか、白い皿ではなく、デザインの入っている皿に載せられていたので、画像を見るとどこの店かわかるようになっているので、これ以上の評価は書かないことにしておく。

今後の流行の広がりを予測すると、徐々に流行地域を拡大するのではなく、例えば、札幌、仙台、さいたま、千葉などの人口は多いが、東京的にはなり切れず、さらに、町に土着的な味がないような場所に散発的に出現するのではないだろうか。

草事件を考える

2009-04-26 00:00:45 | 市民A
ゴールデンウィークに先立ち、格安旅行に行っていた。帰ってみれば、色々な事件が起こっていた。何から考えようかと思ってみれば、最も重要な事件は、「海賊退治法案」が成立したことで、2番目は「千葉市長の賄賂」かな。日銀白川総裁の「『偽りの夜明け』講演」は秀逸と思ったが、G7では思いきり無視されてしまった(苦笑)。公益法人の日本将棋連盟は、漢検と同じような道筋を進んでいて、極めて不安定な状態になってきた。「議員世襲制問題」は、これに頼って議員数を確保していたのだから、今さら自民党に明治維新は無理だろう。

また、旅行から戻るや、次のミニ出張で成田空港に行ったのだが、日本の玄関も情けないことになっていたのだが、元サッカー選手風の旅人ブログになりそうなので、もう少し熟成させておく。北米大陸でブタフルが発生。現在、詳細不明だが、思い起こせば、人類最初のパンデミックである「スペイン風邪」は、実はスペインではなくアメリカ発だった。

そして、何と言うか「草事件」というのが起こる。まったく奇妙な展開であると、ほとんどの人が思いながら、思いもよらない方向に事態が進んでいった。上に書いた白川総裁の講演の中にも、「すべての人が同じ方向を向くと、バブルになり、またパニックになる」という意味が含まれていたが、どうして冷静になれない人が多いのだろう。だいたい、誰の生活にも関係ないじゃないのって・・

しかし、この話題に触れないと、逆に「変人」扱いされそうだし、私は「変人」ではない(たぶん)ので、事件から考えたことを列記してみる。

1.一番驚いたこと

  脱いだ服を、たたんで一ヶ所にまとめていたこと。

 わたしなぞ、酔ってなくても、服を脱ぎながらたたむという芸当はできない。育ちの違いなのだろうか。弁護士は、服をたたんでいたことから、”自宅に帰った”と過誤したのだろうと推定していたが、私もそう思う。が、私は自宅に帰っても、脱ぎながら服をたたんだりはしない。

2.逮捕は厳しすぎるのではないかという意見について

  そりゃ、厳しすぎるわけ。だいたい、最後の一枚まで脱いだから逮捕されたわけだが、パンツをはいていたら何事も起こらずに「ただのお疲れさま」ということになったはず。もしかしたら、ジーンズの下にパンツをはいていなかったのではないかと、少し思った(線が外に出るから)。この厳しすぎる捜査の背景は、以下。

3.家宅捜査の、なぜ?

  薬物疑惑を持ったのだろうが、順番が変だ。本人は警察署にいるのだから、仮に疑惑があっても証拠隠滅の可能性はない。要するに、「警察権力」は隙さえあれば、すぐに市民のプライバシーに侵入してくるということを明らかにしたわけだ。

4.赤坂住民に対するやっかみ

  赤坂の警察に勤務している警察官に、赤坂に住んでいる者はほとんどいないだろうと思う。郊外から通勤しているのだろう。絶対に、住民に対して深層心理では反感を持っているはずだ。

5.家のそばで飲むと、ついつい深酒になる。

  報道を見ると、赤坂6丁目や7丁目で「はしご酒」をしたことになっている。となれば、事件を起こした公園とは徒歩5分から10分。どうやって公園にたどり着いたか記憶にないということだが、歩いて来たに決まっている。いつもなら公園に着くと、「もう自宅だ」という気分になっていたのが錯覚を起こして、服を脱いでしまったのだろうか。

  これが、銀座や池袋で飲んでいれば、歩いては帰れないのだから、泥酔の一歩手前で踏みとどまっただろう、と思う。

6.同じような店ではしごをすると、何軒目かわからなくなることがある。

  これも報道では、居酒屋風をはしごしたようだが、例えば二軒目はもっと高級なところに行くとか、カラオケに行って「夜空ノムコウ」のキムタクのパートを唱ってみるとかすれば、いいのに・・

7.やはり「死神」だったのでは

  「最低人間」発言をした鳩弟のこと。

  芸人を見下していると思われる。また、すぐに怒って暴言を吐く性格から考えれば、死刑乱発も同根だった可能性もある。

8.中川昭一泥酔事件との差

  どちらが重罪かと言えば、考えるまでもないのだが、「中川事件」は、「大騒ぎになれば、国民の恥」というべく共同心理があったために、「殿、ご切腹を」という冷静な結末になっただけ。騒がなくても国民の怒り度は100倍位違うのだが、ジャーナリズムも国民離れしているのだろう。

9.地デジ推進キャラクターのこと

  酔って裸になっただけで、並みいる重大ニュースを押しのけてしまうようなニュースヴァリューの持ち主なのだから、まさに、うってつけと思うが、まったく別角度でいえば、メジャーになった人は、CMなんかに出たらダメなんじゃないかな。一つの理由は、CMって自分の思っていないようなウソをついて、「ビールと間違えてしまいました」とかやるわけで、みっともない。もう一つの理由は、そんなに稼がなくてもいいんじゃないの、ということ。

10.もしかしたら、日本のライフスタイルに変化?

  逆説的になるが、「お酒の飲み過ぎが、すべての原因」、ということになると、「お酒の飲み過ぎ」という古来から世界共通の「人間の性」が否定され、お酒は「ビールなら3本」「日本酒なら2合」「焼酎ならお湯割り3杯」でやめましょう、2軒目なんて、とんでもない。という国民的コンセンサスが醸成されるのではないかと、ちょっと心配。というか、自分的にはそれの方が心配ではないのだが。

作りにくい5手詰

2009-04-25 00:00:57 | しょうぎ
ab5手詰ハンドブック(浦野真彦七段著)を解き終わる。

先に、5手詰ハンドブック(2)の方を解いていたのだが、ちょっとした複合的な目的のために、探していて、やっと大型書店で見つけた。詰将棋の本の回転は早く、2004年3月の刊を書棚で見つけたのは奇跡かな(というかamazonで注文すればいいのだが)。

複合的な目的の一は、短手数詰将棋の創作が苦手で、来年の日めくりカレンダー用の5手詰のアイディア作り。昨年までは9手詰までだったのが、2010年版は、最長7手に短縮されたので、5手詰には好作が殺到するような予感があるからだ(盗作しようというのではないので、念のため)。

もう一つの目的は、2週間前に開かれた職団戦対策。一夜付けならぬ一朝付け。会場に向かう約1時間の朝の電車の中で、脳を将棋的に活性化しようと思っていた。(結果的には、脳が疲れただけで、職団戦の最後の方の対局は、よれよれになってしまった)

その電車の中で、全200問を最初から解いていたのだが、やはり、浦野七段は5手詰の達人である。瞬間的に詰筋が見えず、数分考えこむ問題もある。もちろん簡単なのもある。結局、112問目まで解いたところで、本を閉じる。

残り88題を残しておいてもしょうがないので、後で、解き始めたのだが、やはり気力がわかず、毎日少しずつ、寝る前に、一瞬本を見て問題を覚えて、目を閉じたまま解く方式で、やっと終わった。

ところで、amazonの書評を見ると、「実戦型なので解きたくなる。」というような評が多いのだが、私見だが、将棋が強くなるように実戦型詰将棋を解く、というのは、大きな勘違いではないか、と思っている。

実戦で、いわゆる実戦型の囲いで詰があるとすれば、何手もかけて囲いを作っても意味がないことになる。詰将棋になるのは、いかにも実戦的な配置だが、どこかに欠陥があって都合よく詰むことになっている偽実戦型ということである。

それよりも、中空に浮かんだ手がかりのない王将を見慣れぬ手筋で長手数で絡め取る筋を発見するほうが、将棋の読みの力は上達するのだろうと思っている。


さて、浦野七段は、2004年3月に本著5手詰ハンドブック、2005年3月は、3手詰ハンドブック、2006年3月には5手詰ハンドブック(2)、2007年3月に3手詰ハンドブック(2)を上梓している。発刊パターンからいえば2008年と2009年には続刊を出版する気にはならなかったのだろうか。

発行元は日本将棋連盟であるが、このたび出版事業の多くを、毎日コミュニケーションズへ委託したようだが、今までの既刊書の権利はどうなるのだろうか。案外、全部絶版処理とかなるのだろうか。場合によっては、在庫本を買い占めてしまえば大もうけできるのだろうか。あるいは、売れる本の版権だけが売買されて、売れない本は、”the end”となったのだろうか。

著者のほとんどは棋士なのだから、理事選挙が近づいた今日この頃、大いに気になるのではないだろうか。


今週の問題は、軽量級。



定額給付金で焼肉をたらふく食べた後の、あっさりデザートに好適かな。

追いかけるのか、捕まえるのか。

縦列「と金」の守備力は、最強か?最弱か?

わかった、と思われた方は、コメント欄に、最終手と手数と酷評を記していただければ、正誤判断。

人的資源の組織戦略(4)

2009-04-24 00:00:49 | MBAの意見
6.人事制度の変換は可能か

日本企業の現在の人事制度は源流の一つは、戦前の重商主義時代の官僚的なピラミッド型の組織であろう。また二つ目の流れは、戦後の大量生産型高度成長期に確立した終身雇用制、企業城下町型の出資会社下請け制などのクローズドシステムである。

一方、米国では1930年代の不況下に雇用と解雇に関するルールが芽生え、その後海外から流入する多国籍の労働力と資本をベースとした開放型の組織が発展したと考えられる。一方、米国でもカソリック協会のような縦長ピラミッド型企業もあるし、CEOは社内から内部昇格(適任者がいればだが)させるべきとの考え方も根強い。

しかし、一般的に見れば、米国はオープン型、日本はクローズド型と考えられる。

日本においては、旧来のシステムの大部分を残したままで、部分的に退職金前払い、社外取締役、契約社員の増大、レイオフの代わりのワークシェアリング、コンピタンシー評価などの新手法が組み合わされている。

しかし、私見であるが、旧来型の終身雇用、クローズ型のシステムを手直ししたところで、うわべだけの米国流におわるものと考えられ、中期的には収拾不能になるのではないかと考えられる。たとえば、日本流の評価を15年続け、40前頃に管理職になると同時に米国流の評価法に切り替えるなどというようなことは、実際は困難であるといえる。

伝統とか組織を変えることは、今までその企業にいるほとんどの役員や従業員にとって居心地の悪い事態であって、まして日本では株主が経営権に積極的に介入するのは、経営危機の際くらいであることを考えれば、抜本的な転換は困難と考えられる。

むしろ、景気低迷で冷え込んではいるが、新興企業、個人企業が組織力で既存の旧システムの会社に対抗するという図式が見えてくるのである。

論文終了

あとがき

2003年の論文を2009年に読むと、時代は、さらに60歳以上の再雇用制度、そして製造業の派遣労働者問題という新たな難問に直面している。

この二つは、マクロ的には表裏一体関係にあり、年金給付開始の65歳と企業定年の60歳の穴埋め制度の対象は「団塊世代」であり、団塊世代が引退しないために「団塊ジュニア世代」のある比率が正規従業員になれなかった、という関係にある。とはいえ、団塊世代はおおむね5年で65歳に到達するのだから、雇用問題が縮小に向かうのは5年後ということになる。


私見ではあるが、終身雇用型の正規社員と短期限定の派遣社員という二元論ではなく、期間数年の「契約社員」という形態の中間的な雇用形態をもっと多く活用すべきだろうと考えている。普通預金と30年国債の二種類だけではなく、定期預金があってもいいじゃないか、ということである。


人的資源の組織戦略(3)

2009-04-23 00:00:43 | MBAの意見
4.評価

評価には、日常的な個人の業績に対して業績評価による給与の上下を行い、生産性を向上させる狙いがある。一方、生産性の悪い従業員は、その結果として低いPAYを受け続ける結果となる。しかし、実際に評価というのはあくまでも基準があっての話であり、また数値的あるいは具現的な結果に対するものでなければならない。基準としては、前年比とか業界の平均といった外部的水準を用いるのが一般的であるが、往々にしてコストプッシュ要因により、評価配分財源をインナーで固定してしまうケースがあるが(絶対評価でなく相対評価)、自分の成績を上げることのみならず、他人の成績が落ちることも有効な評価材料になることから、足を引っ張るといったマキャベリズムが横行することになり、企業業績にとって全体ではマイナスになる。また最近では個人目標を明確化することが重要なことと認識され、事前に決定した目標に対する達成が問われることになるが、実際には現実の世界の変化に対応するように目標そのものが柔軟に変わることが多く、完璧を欠く。

また、組織的には日本ではほとんどの企業は内部昇格制が採用されており、ピラミッドの階段を昇るかどうかも評価の結果である。従来の大企業では、多少の速度差があっても大部分の従業員は徐々に、地位を上げて行き、ポストの不足は出資会社への出向や移籍により対応してきたが、無闇にさして重要でない事業のため出資会社を作る制度そのものがあまり正しくないと考えられており、行詰り感がある。

また昇格に対する考え方については、上下移動のポストを増やせば、業務スピードが遅くなる結果を招くため、簡素化の方向となりピラミッドの階段数は少なくなり、かつ階段の上と下では、業務内容が大きく変わる。そのため、下の階層で実績を上げたからといって上の階層で業務を行えるかどうかは未知数であり、内部昇格制度との折り合いには問題がある。

評価と裏腹な問題は、インセンティブであり、結果としてはモラールの問題である。

しかし、単に給与だけでモラールを高める(あるいは維持する)には限界もある。よく給料を10%上げても生産性は5%しか上がらないし、逆に10%下げれば20%生産性は落ちると言われる。この言い方をつきつめれば、あまり給料は変化させない方がいいと言う事に他ならない。また裏側には、終身(あるいは長期)雇用の保証があるため、どうしてもプラス側よりマイナス側への下ぶれの方が大きくなると考えられるのである。


5.退職制度

退職制度には大きく、定年制による退職と、自己都合による任意の退職との2種類と考えられていた、このうち定年制についていえば「終身雇用制」の裏返しとしての制度であり、また従業員から見れば、日本的な慣習である若年時の低位な給与(右肩上り)と年代別に必要な資金計画(30台から40台に集中する学費、住居費)とのギャップを借入れで穴埋めするための将来の所得を担保に考えるという制度である。

一方、自己都合によるものとしては、単に文字通りの個人的な都合によるものが一般的で、会社の用意した終身雇用コースよりは低額な退職金が用意されるのが一般的である。このため(税制、年金制度も大いに関係するが)、早めに辞めると損という関係がなりたち、労働力の流動化がはかられない結果になっている。(もちろん急成長が必要な産業で、人材の不足の産業においてはまったく別である)

ところが、90年代になって、日本でも人材の生産性が大きなテーマ(コスト論)となり、早期退職制がとりいれられるようになるのである。

大別すると、特定事業の圧縮、廃止に伴う、「事業上の整理解雇」のケースと、従業員全体の過剰感を広く会社全体から退職募集するケースが一般的である。その他、違法とは知りつつ不当労働行為に抵触するような指名解雇も非組合員に対しては行われており、労働問題に詳しい専門弁護士は、労使どちらのサイドでも多忙を極めている。外資系企業の場合、特殊性をもって人材を確保するため、配置転換が困難なケースが多く、1年程度の予告あるいは退職金割増をもって、職場ごと整理解雇するケースが多いのだが、国内の大手製造業では希望退職の選択を行うことが多い。が、そのケースでは個別の指名を行うことができないため、企業にとって好ましくない結果(残すべき人材がやめる)が起こることが多い。希望退職にしても、数年前から残したい人材の処遇を上げ、残したくない人材の処遇を引下げるような施策を先行させるとか計画的に行わないと企業にとって不本意な結果となる。

また、現在、ベビーブーマー世代(世代の特徴としては内部抗争体質であって協調性を欠く人材が多いとされる)が50歳台後半になっていて、60歳まで待つことができなくなっているのが企業の現実と考えられる。

また、決算上は特別損失となるのだが、毎年毎年のように小出しに整理を行うのも、見通しが甘いと言わざるを得ない。


人的資源の組織戦略(2)

2009-04-22 00:00:08 | MBAの意見
2.能力開発

OJTからOFFOJTへという考え方がある。かなり以前、企業は大量採用時代には、一人一人の個を見て採用するのではなく、特定の指定校から大勢の学生を、就職協定という、あたかも平等感を装うルールにのっとり、きわめて短時間に採用していた。(就職協定などは、部分的な平等感が全体的としてみれば社会的不合理さを生み出す結果になるということにつながる)そのため、ひとりひとりの従業員は単に社員番号と学歴、経歴といったデータ管理の対象であっても、得意範囲とか人格、創造性とかいったきわめてアナログ的な情報で把握されることはなかった。また人材としても、きわめて一般化した没個性的な人間が必要であった。そのため、採用した多くの従業員は定期的に集合型の教育を行い、会社の必要なパッケージ型に成長することが好ましいと考えられていた。

しかし、その後何回かの不況や、人口構成上もベビーブーマー以降の世代になると、各企業の戦略も個性的になり、むしろ最初から教育は職場に合わせて行うという考え方に立ち、OJT型が中心となっていくのである。もちろん、教育にかかる経費もOJTの場合、人件費に埋もれてしまうので、特にうるさく言われるものでもない(もちろん、生産性の低い従業員が職場にいるということ自体はマイナスであろうが)。

ところが、90年代も終わりになると、必要な人材は非常に高度化し、特定問題の専門的分野になることが起こっている、たとえば、米国での法人の法律的問題とか為替予約のプロとかもちろん人事問題でも細分化された問題があり、専門的な知識が要求されるものである。また、専門性の世界では、技術や知識の進歩は日進月歩であり、OJTによる社員による教育では最新情報を教えることは困難である。したがって、専門のスクールというような形態により最新情報、最新理論を磨くことは、新人社員のみならず、多くの社員にとって有用なことと考えられる。

また最近よく言われるように、中高年が企業のほしい人材とミスマッチの状態と言えるが、それこそ、教育によりミスマッチを改善していくしかない。

以前は、「変節は人間として恥ずべき態度」といわれていたが、ことビジネスの世界では、「変節は、身替りの早さを示す」と評価される時代である。


3.組織論

孫正義氏が展開するビジネスそのものの評価は別にし、彼の組織論には興味を惹かれる。孫氏によれば、一人が管理できる人間の数は最大限8人である。また縦型に見て4層構造以上になると、企業のサイズが大きくなりすぎ、社員の管理の上でも、社長が目を届かせることが困難になる。彼の言う4段階とは、社長-部長-課長-一般社員であろう。ピラミッドを組み立てれば、人数的には1+8+64+512=585となる。実際にこれを超えた組織では、縦、横の通風が悪化し問題点が多くなる。もちろん中規模企業では1+8+64=72人が適正な規模であり、小企業では1+8=9名というのが妥当な数値であろう。

しかし、多くの古典的企業においては、リストラによって、人員の削減は行うものの、実際的な意思決定までのプロセスを抜本的に変えることは難しい(部の統廃合とかいう算数的な処置を行うにとどまる)。しかし、既存の組織では扱えないような、一時的な課題や、縦割り構造の企業組織を超越しておこなうべきプロジェクト型の業務は頻繁に発生することになり、縦型の表面的組織に加え、横型の組織が発生することが多い。横型の組織について言えば、TPM活動的なボランタリー組織や、臨時的な委員会組織、もっと組織的になった臨時(期間限定)のプロジェクト型組織などがある。しかし、縦型意識の強い組織で、横型の業務を行うことは、違和感が発生するし、また様々な副作用がある。
  
IT化の組織に与える影響も大きい。初期段階では、表向きの縦割り型組織に対して、上下左右の関係をまったく無視した情報の流れが発生し、いわゆる「根回し」がLAN上でスピーディかつ細部にわたり念入りに行われることとなり、職務上のキーパーソンとはことなる、ネット上のキーパーソン(場合によれば社外に存在することまである)が別に現れたりする(表面化することはない)。これによって組織は実質的には、ある意味では効率的になるのだが、組織論的にはまとまりがつかなくなるのである。

次にERPの動きであるが、世界的にみて、企業活動は一社完結型から、複数の独立的企業が契約によって有機的に組み合わせになる連携型になる動きが顕著である。一見して企業内統一システムであるERPがSAP社、ORACLE社の2社に集約されていく流れを考えると、その2社のシステムが、連携型企業の情報連携の共通言語化するものと考えられる。もちろん自社開発システムで出資会社のすべてをカバーしようという動きもあるが(国内の場合、むしろ動機はQ毎の連結決算をすばやく作成する目的が多いが)所謂デファクトスタンダードの理論により、今後は高額であっても上記2社に収斂するのではないだろうか。


人的資源の組織戦略(1)

2009-04-21 00:00:47 | MBAの意見
1.採用-終身雇用制の維持の困難性

従来の大量生産型大企業のピラミッド型組織では、まず社員を学歴別に大学卒業以上のホワイトカラーと高校卒以下のブルーカラーにわけるところからはじめる。最初から2つのピラミッドが存在するのである。そして30から40年にわたる期間、勤労意欲が減退しないような仕組みとして、10段階程度にわけた階層の中を、小刻みに給料が名刺の肩書きと一緒に上昇し続けていく仕組みになっていた。また、退職金制度は、実際には給与の一部であるのだが、無金利で会社に退職時まで貸し付けているような制度であり、従業員の固定化の一因ともなっていた。また、ピラミッド型組織にするための中高齢者対策としては、キャリア途中から子会社、孫会社といった一見アウトソーシング的な仕事と一緒にグループ会社という枠の中に囲い込む戦略が一般的であった。

このような制度は、高度成長時の慢性的な人員不足に起因していると考えられるのだが、一つは日本経済の産業構造の変化により、大量生産型の製造業から、第三次産業へと構造変革が進んだこと、二つ目としては、企業の国際化及び資本の国際化の中で多くの人的コストを抱えることができなくなったこと、3点目としては雇用される側の人材が多様化したために企業自体が魅力的な組織を作らない限り必要な人材を確保できなくなってきた事情(人員よりも人材)がある。大量生産時代には、人間の個人差が生む差は大きくなかったかもしれないが現代では個人の資質の差が企業業績に及ぼす差はかなり大きいといえる

また、実際に「企業30年説」他、20歳前後の採用後、60歳前後までの40年間、成長を続け、ピラミッドの底辺と高さを大きくしつづけられると考える人は、就職をしようという側にもいないだろうし、そういう意味でどちらの責任もまた限定的であるといえる。

企業の側からみた不確かな時代の採用は理想的には固定、変動、臨時の組み合わせとなるのであろう。社員中でコア人材(むろんコアビジネスという考えが先であり、1割かも知れないが5割かもしれないが)は長期安定的な確保が必要であり、長期にわたる人事プランが必要であるだろう。もちろん給与だけで人材が確保できるわけではなく、パッケージ化された制度は、その企業独特のシステムになることが予想される。大きな流動化を考えているわけでもなく、また給与だけの魅力では、それ以上の給与を提示する他社には対抗できないからである。

次に、変動部分であるが、企業業績や生産高、生産製品のライフサイクルなどから2年から5年にかけての限定的な(もちろん結果としては長期間になる場合もある)人員数が必要なケースでは、専門的過ぎる人材の囲い込みに走れば、将来の人材ミスマッチや、勧奨退職制度などの好ましくない(副作用の多い)結果となる可能性が高く、むしろ期間の短い中高齢者の雇用や。2-5年といった期限付きの契約(退職金を前払いにすることも有効)制度が有効である。また、付加価値のない仕事については、長期に一定の仕事が続くのならばアウトソーシング、短期的な人員増であれば臨時的雇用の形態が望ましいと言える。

しかし、一方従業員(あるいは求職者)の側からみると、長期安定高給の職場が好まれるのは(一般論として)当然であるわけで、本来、コア事業にふさわしくない人材もスクリーニングの網をもれることもあるだろうし、また完全に3分割するような仕組みは、モラールや競争心(競争も成果における競争が必要なのであるが、時によりベビーブーマー世代では、仲間の足を引っ張るようなディフェンシブな競争が起こることがある)を失わせる結果になる。そのためには、プロモーションや社員教育といったその他の施策を組み合わせる必要がある。


人的資源の組織戦略(0)

2009-04-20 00:00:46 | MBAの意見
ほんのしばしの間、ネット環境のないところに遊びに行くので、更新停止しておこうかとも思ったのではあるものの、「livedoor blog」にも、裏口の「goo blog」にも、予約機能が付いているので、2003年に書いた拙小論文を5回分にちぎって連載することにした。

題目は『人的資源の組織戦略』

要するに、会社の人事制度のこと。

とはいえ、今は2009年。世界同時不況の折。一見、「雇用維持」が日本全体の最大課題のように思われている時節に、詰将棋の駒のように「大ゴマはどんどん捨てよう」とか「詰め上がりの駒は少ないほうがいい」というような徹底した合理主義は、いかがなものか、と思われるかもしれない。

しかし、マクロの話とミクロの話は、まったく逆が正しいことが多い。

景気が良くて給料が上がり、労働市場に余剰労働力が払底しているような時には、どんな戦略的な人事政策を考えたところで、実行すれば、「冷たい制度だ」と思った社員がどこかに転職してしまうだけであり、経営者の思惑は大失敗に終わることになる。

不況の時こそ、経営者は、「従業員に冷たく厳しい制度」を導入することが容易になるわけだ。

ということで、読んで怒らないでほしいなあ、と思うし、実際のところ、何らかのお叱りのコメントをいただいたところで、コメントをお返しするのは、帰ってきて、脳が日常モードに戻ってからになるので、悪しからず。


『人的資源の組織戦略』

0.序

会社の組織には様々な体系がある。従来的な社長をTOPとしたピラミッド構造もあり、ピラミッドの高さは10段以上のものもある。しかし、一方フラット型の組織の会社もある。また、多くの場合、労働組合と労務協定を結んで、給与のレベルや、転勤のルールなど多くの社内ルールが決められていく。

企業には、それなりの歴史があり、ほとんどの日本企業の場合は、現在適応になっている人事上のルールや給与のレベル、昇給曲線などは旧来のルールに国際基準である米国型の人事施策の一部をとりこんだものが中心であり、そのために個々の企業ではそれぞれに異なる人事上の組織戦略を持っている。

しかし、本来、かなり異なる日本的人事制度と米国流の人事制度を混ぜただけでは矛盾が生じる事となる。もともと人事制度は、長期にわたって考えれば、どうしても予測しがたい要因により、最適な制度とは離れていくものであり、一方日本の終身雇用制や年功序列型の制度の構造的行き詰まりも目立ち初めていて、人事部自体をアウトソーシングする中堅企業もあるが、やはり理想ともいえない。

人事の扱う領域は、採用、教育、解雇、労組との交渉といった現場的な分野が一方にある反面、長期的な人員計画や、効率的な経営が可能な組織作り、社員のモラールを向上させるための諸施策、終身雇用制の検討といった、中長期にわたる政策的な課題まで幅広い。

一般的な日本の諸制度の一部と米国型の制度をとりいれた場合の問題点とその克服を中心に政策的な観点から触れていきたい。


写真家がとらえた日本人画家たち

2009-04-19 00:00:00 | 美術館・博物館・工芸品
shashinka少し前に、大原美術館で「テーマ展」が開かれていた。木村伊兵衛、土門拳、渋谷龍吉、秋山庄太郎といった写真家がレオナルド藤田、林武、梅原龍三郎などの画家を写す。

昨年末は、同所でマン・レイによるミロやピカソ、マティスなどの写真が公開されていたそうだが第二弾だそうだ。

写真家からすれば、素人を写すよりも、芸術家のような個性的な人物を写す方が簡単なのか、あるいは個性のぶつかり合いになって難しいのか、微妙な気がする。

被写体として椅子にモデルを座らせる前には、「後で検閲とか修正要求には応じないからね。よろしく。微調整ぐらいは可能だけど。」とか、念を押すのだろう。

その点、画家が描く人物像は気が楽だ。もともと、全然似ていない。特に大家が描くと、元のモデルの輪郭すらわからないほど大変形してしまうからだ。


ところで、この写真群だが、横浜美術館が所有しているそうだ。高額地方税を支払っている先だ。そういえば、マン・レイのコーナーがあったことを思い出す。

この大原美術館は、資産家の大原孫三郎が画家で友人だった児島虎次郎に巨額を渡して、欧州の人気画家の絵画を買い集めることを依頼したことがすべての始まりだった。虎次郎は、人気画家というよりも、人気が出そうな画家(19世紀の終わりには、印象派の巨匠たちが、デビューしたばかりだった)を先物買いしたわけだ。それだけでは具合が悪いので、エル・グレコの「受胎告知」に大金をつぎ込んでしまう。

大原美術館と言えば、エル・グレコの印象が勝ってしまうのだが、本来はそういうものでもない。所蔵品の全体像の中では、ちょっと流れが違うような感じもある。手放してしまったほうが、いいのではないかと思うのだが、髪形を変えてイメージチェンジするのとは異なり、失った絵画は元に戻らない。

横浜美術館もピカソが多いのだが、誰があり余るほどの所蔵品を集めたのだろうかと、少し気になる。

よれよれ職団戦

2009-04-18 00:00:16 | しょうぎ
4月11日に将棋職団戦に出場。5人1チームの団体戦。場所は綾瀬の東京武道館。綾瀬という地名は神奈川にもあるが、東京の綾瀬はずいぶん遠い。遠いから参加希望者が少なくなり、補欠選手に声が掛かるということを補欠選手は知っている。春の大会が綾瀬で、秋の大会が千駄ヶ谷。結果として、綾瀬の大会だけに出席している。



今回は、Eクラス。(S、A、B、C、・・・)全7クラスの上から六番目。今まで、S以外のすべてのクラスで指しているが、このEは、奇襲とか変則とか、そういう人が多い。定跡型なら途中までは楽なのだが、変則型だと最初から読みを入れないと危ない。一局一局はいいのだが、何局も指すと脳が疲れてくる。しかも、前日、ある事情で乗り物酔いしてしまい、朝から目が覚めない。気合を入れて、会場までの電車の中で、浦野七段の5手詰集を112題まで解いたら、さらに疲れてしまった。

そして、第一局は奇襲攻撃を受ける。四間飛車に突破されるが、一応、駒得。2八の飛車を竜で狙ってきたので囮に使う。飛車を取らせた瞬間に、次の一手を着手。

shokudan『▲5五角』

後手は、飛車を取られては勝てないから、△2九竜に、▲8二金、△同玉、▲6一馬、△7一金、▲7二金、△同金、▲7四桂、△9二玉、▲7二馬で完全必死となる。罠にはまった、と相手が感じたのか、局後、色々言っていたが、まったく記憶にない。

第二局。今度は正統的振飛車穴熊と対戦。こちらも穴熊にして、じっと隙を待つ。相手も慎重になり戦いを起こさないので、ついに乱暴狼藉を決行。お互いに駒をはがしながら寄せ合いが始まり、こちらが詰ませにいった局面。ここで、うっかり▲6四桂と打つと、△同飛で負ける。かといって▲7七桂では△6一玉で、たぶん負ける。「勝った」と思った相手を詰めるのは心苦しいが、手筋を放つ。

shokudan『▲6三角』

打たれれば、5秒以内に詰んでいることがわかる。つくづく「悪いなあ」と思ってしまう。5人1チームなので、3人勝てばトーナメントの次に進むわけだが、ここまでの2局は一番先に終わり、長い感想戦になるのだが、感想戦ではいつも負けてあげるのである。

「これでも、あれでも、何をやっても私の負けですねえ」とか、「お強いですねえ、実力が出なかったですねえ」とか、そんな軟弱な感じなのだが、実は、周りへの目配りは怠っていなかったのだ・・

三つ離れた席の対局で事件発生!!

相手方の選手が金を斜め後ろに動かしたのを、見逃さなかったわけだ。その選手は、指を離した後、あわてて正しい位置に差し直したわけだ。むっとした気の弱い味方選手。

さっそく態度豹変して、加勢に出る。

「反則です!!」

なんとなくごまかされそうな気配を感じたので、追い討ち。

「斜めに下がった反則」と「指し直したのが『待った』」の反則2回です!
「有名企業なのに・・・!」

これで一件落着である。実は、相手の会社は、新聞紙面を時々、賑わせる建設会社。まさか自分たちが恫喝されることなど、思ってもなかっただろう。一人で二人分勝ったわけだ。この2勝にあと1勝が上乗せされ、3勝2敗で三回戦。

三回戦以降は、局面とか覚えていないのには理由がある。疲れ果てたのだ。なぜかというと、三回戦の最終盤に至って、金銀打ち換えタイプの8手一組の千日手となる。指し直し局は優勢だったのだが、混戦になり、入玉されそうになる。持将棋はまっぴらなので詰めにいって中段玉を仕留める(本当は詰んでなかったのだが、相手があきらめて投げてくれた。やれやれ)。

四回戦では、またも終盤で千日手になりそうになる。こちらに選択権があるのだが、手を変えると切れてしまう感じだ。しかし、他の選手よりも既に一局多く指していて、脳は爆発寸前である。しかも、既に当方のチームは3勝上げているので、頑張る意味はまったくない。わざと負けたとは言いたくないが、1敗。

そして、トイレに行く暇もなく五回戦。実は、近くで日本女子プロ将棋協会(LPSA)のチームが指していて、代表の方をはじめ女性棋士の方多数が、あれこれとお話合いをされていたのだが、まあ、女性が集まると、ついうるさくなるのが世の常で、疲れた頭がさらに混乱の窮みに落ち込んでいく。しかも、相手は変則駒組みから石田流へ。こちらは矢倉から穴熊へ変化。いくつかの石田崩しの秘伝を駆使し、ややポイントをかせいだところで、相手が無茶攻めに来る。そして、受け間違えて、勝てなくなってしまい、長い一日が終わる。

チームが勝っていれば、LPSAチームと戦うことになり、※ナガグループと抗争中と聞くmtmt氏ことMT氏に激励の一勝をプレゼントできたかもしれないが、「上のクラスで会いましょう」ということだろうか(抗争中の方々同士の場合は、「東京地裁で会いましょう」というのかもしれないけど)。

さて、4月4日出題詰将棋の解答。



▲6九金 △4八玉 ▲5九銀 △同飛 ▲同金 △同玉 ▲6九飛打 △4八玉 ▲3七銀 △5八玉(途中図1) ▲5九歩 △4九玉 ▲4七飛 △3九玉 ▲5八歩まで15手詰。

途中、あぶない変化が、9手目の▲3七銀のところで▲3九銀という手。



以下同様に、△5八玉 ▲5九歩 △4九玉 ▲4七飛に唯一△4八角(失敗図)と合駒が登場。以下、▲3八銀直 △3九玉 ▲5八歩に△5九角(銀)打できわどく詰まない。玉側の2七歩の配置は、このためである。

初手から6手もかけて駒を取る(それも金と銀を打って飛車を取るような通俗的な手で)なんて作者の意地悪以外何者でもないという批判には、「その通り」ということにしておく。

動く将棋盤は、こちら




今週の問題は、少しだけ難しいと思う。というのも、少しの間、格安旅行中なので、たぶん、十分なネットフォローができず、解答を寄せられても対応できない事情があるから。




とは言っても、いつものように最終手と手数をコメント欄に書き入れていただいたり、漠然とした評価をいただくのはご自由にということ。帰ってから対応予定。最終手と手数を知っても、途中の筋道は想像できないと思うし。ただし、最後の王将の位置は内緒で。

ワーナー・ビショフ写真展

2009-04-17 00:00:34 | 美術館・博物館・工芸品
wb1東京・九段下にある昭和館で、スイス出身の写真家、ワーナー・ビショフが撮影した占領下の日本の写真60点が公開されている。
ビショフは1951年(昭和26年)に来日し、朝鮮戦争取材のため朝鮮半島へ渡航した前後約10カ月間に、占領下の日本国民の暮らしを撮影。朝鮮半島では戦場写真を、そして日本では廃墟から民衆が再興する姿を写す。
その後、彼は、アンデス山中でジープ走行中に崖から転落し、谷底で絶命する。
写真展は、没後に刊行された写真集『Japon』掲載の作品のほか、滞在中に撮影した未公開写真、愛用したカメラなどである。

マグナムグループの一員である。

写した時代1951年は、サンフランシスコ平和条約の締結の年。有効となるのが翌年であるので、占領下であるようなないような中間的な年だったはずだ。

この時代の日本を写した写真家は多数いるのだが、そこはスイス人である。日本人が写さないような「影」の部分を遠慮なく撮る。

原爆ドームの前で、ケロイド状の背中を見せる被爆者。NOOD劇場出演準備中のダンサー、街角でアコーディオンを弾く傷痍軍人。天皇陛下の列車の到着を迎えるこどもたち。米国大衆文化に傾く若い女性たち。そして、社会主義にのめりこむ男子学生。

wb1展示作の中には二人のモデルが登場する。

一人は、イイヌマ・ミチコさん。浦和に住んでいて、裁判官の娘で、杉野ドレメの生徒。休日には、お化粧をして、銀座のデパートに行く。本名、飯沼道子さん。

もう一人は、スマ・ゴロー君。京都の大学生で、学生集会によく参加。部屋は汚い。
本名は、成田洋一さんといって、京都大学文学部の学生だった。

この二人、1951年に20歳台初めとするなら、現在は70歳台後半。男性の平均寿命と同じ位である。現在、どこで、どうされているのか、昭和館で調査しても、わからなかったそうである。あるいは、わかっても、現在のその方々の状況から、過去をさらしたくないという事情があるのかもしれない。

wb1まあ、変な詮索はやめて、戦後日本の復興と、先人の努力、そして、不幸な写真家のことを、じっと思えばいいのだろう。

「trip」のこと(ただし旅行)

2009-04-16 00:00:34 | 市民A
「旅行」と「出張」という単語がある。レジャーとしての「旅行」と、仕事としての「出張」。

実際には、仕事の多くは「行かなくても済む」時代なので、わざわざ出張に行くというのは、ややこしい話の場合が多い。出資子会社から巨額配当金を引き抜くために、子会社社長に見返りとして「高級ゴルフ場会員権を進呈する」とか、こじれた関係先との修復のため、虎屋の羊羹+何かを運ぶとか・・

要するに、メールのように記録に残るような仕事ではないわけだ。

会社でなくても、役所関係で盛んな「視察」とか、学術関係の「学会」とか、行程の全部とは言わないが、かなりの部分が本来の目的以外となる。

日本での国際会議など、その例で、京都観光とセットになった京都の会議場。TDLとセットになった幕張地区。先日も、有明の会議場で、会議中に抜け出して、ロビーで夜の観光手配をしている東南アジア系の方々を見受けた(どこに行くのか知りたいところだが)。


ところで、かつて、シンガポールで同種の会議があって、会議場の入り口には、その後、数日間の会議一覧表とサマリーの資料が積まれていて、それさえ手に入れれば、適当に出張報告が書けるようになっていて、会議場に入らずにいきなりレジャーに変更する人たちが大勢いるわけだ。

結局、ほとんど人のいない大会議場で、よく聞こえない英語を聞いてもしかたないので、さっさとタクシーに乗り込むのだが、話し好きの運転手から、聞かれたわけだ。

「BUSINESS? or HOLIDAY?」

シンガポールは米語ではなく英語なので、holidayという表現が、ちょっと違和感があったのだが、「休暇」というような意味。「仕事?、遊び?」ということだろう。なかなか返事に詰まってしまうわけだ。

「HALF BUSINESS、HALF HOLIDAY.」

半々というちょうどいい日本語がある。実際は「一・九」あるいは、限りなく「〇・十」かもしれないが、総称して半々というようだ。

ところで、英語で旅というと、色々な単語がある。「trip」、「journey」、「travel」、「voyage」・・・。

それぞれ、少しずつ意味と範囲が違うが、よく使われるのが、一般論としての「travel」と個別論としての「trip」ではないだろうか。

日本では目的によって、「旅行」と「出張」と分けられるのだが、英語では「出張」でも、「trip」になるようだ。

 「a business trip」、「an official trip」。公務員は後者だ。学会の場合はどうなるのだろう?「academic holidays?」


ところで、「出張」ということばは、仕事で遠くに行くことを意味するのだが、「しゅっちょう」と読まずに「でばる」と読む場合がある。

「本日は、わざわざ遠いところを出張って(デバッテ)いただき、・・」という挨拶になると、これは「やの字」の世界になる。堅気の人には使わないはずだが、言われたことがある。誤った仕事のやり方をして別筋に紛れ込んでしまった場合だった。


「やの字」の世界では、自分たちの縄張りの外に出て、別の縄張りへ行って、何らかの話しをつけにいくことを意味するのだろう。だから、出張る時は命懸けになる。とはいえ、北条時宗のように交渉人そのものを殺してしまうと大戦争になってしまうので、まあ、一発顔を殴られる程度なのだろう。


「出張る」も「出張」も、同一の語源であるのだろうから、「出張」という言葉が生きていることこそ、日本が縄張り社会から脱していないことをあらわしているのだろうか。