「みんぱく」って・・・

2007-01-31 00:00:25 | 美術館・博物館・工芸品
9c07141a.jpg大阪の万博記念公園内に、「みんぱく」がある。「みんぱく」という語感は何となく「民宿」に近いのだが、関係なし。正式には国立民族学博物館という(民宿の方は「民間宿泊施設」だろうか?)。この民族というのもアブナイ表現で、本当は展示の内容からいうと「民俗」が正しいような気もするが、やはり民族なのだろうか、とか考えてしまう。ヒトラーはドイツゲルマン民族を第一種民族、その東側のポーランドあたりを第二種民族として、世界中の残りの民族全部は粛清して、民族動物園で種の保存を行おうと考えていたらしい。最初のジェノサイトの途中まで進んだところで、破滅した。

9c07141a.jpg黒川紀章氏の設計した博物館の建物は、外観に虚栄は感じないが、また、まったく存在感がないというのも、多少寂しい。しかし、万博会場跡は広大で、博物館の床面積は広い。そして、常設展示は、世界をエリア別に分類し、各地の文化を、主にその地の生活で使われている農耕器具や狩猟用の道具。装飾品や、宗教的祭祀の紹介や住宅の調度品などさまざまな文化を、あくまでも「物」を通して考えようということなのだ。エリアは順路に沿って、オセアニア→アメリカ→ヨーロッパ→西アジア→南アジア→東南アジア→朝鮮半島→中国→北アジア→中央アジア→アイヌ→日本と続く。最後の方で近隣諸国に配慮したのか、朝鮮半島と中国とは手厚い展示をしている。よく、北海道にアイヌ民族博物館とかあるが、それを大拡大して世界中の博物館を一箇所に集めたようなもの。

9c07141a.jpg実は、1時間程度でぐるっと回ってと、思っていたのだが、まず、館内を歩くだけで延々と時間がかかる。ある意味、1時間でも1週間でも全部をよく見ることなどできることない、というような、膨大なコレクションである。”よくぞ、世界中から集めたり”なのだが、下賎な話に落ちてしまうが、一つ一つの展示品の金銭的な価値はほとんどないかもしれない。木製の食器とか、古いドイツの農民宅から持ってきた鍬や鋤、南インドの仮面などを評価することは困難だろうが、例えば、火災保険とかどうなっているのだろう。もっとも、これだけの世界中からのコレクションが焼失してしまったら、再度集める気力には、とてもならないだろう。大英博物館、ルーブル美術館、故宮博物員、メトロポリタン博物館といった世界のナショナルミュージアムの日本版なのかもしれないが、たぶん、略奪品はあまりなく、全部、おカネをかけて集めたのだろう。価値より費用の方がずっと多いだろう。自衛隊みたいだ。


9c07141a.jpgそして、館内を巡回しているときに、どこに向かって歩いているのか、方向感覚がなくなってしまうのは、あちこちに中庭があるせいもある。黒川紀章の罠。そして、少し考えないとわからないのだが、展示内容がエリア別になっていて、衣食住についての民俗学展示のようになっているので、同時代性というのが見えないようになっている。逆に時代別の部屋にすると具合が悪かったのだろう。文明国と途上国みたいになってしまう。ところが、実際には、この民族ごとの現代に向かう進歩の時間差が、民族間の優劣と誤解され、ジェノサイトを生んだということなのだろう。

個人的に印象が残ったのは、ヨーロッパの農耕器具の「ゴツさ」であって、やはり寒いところで地面がコチコチで栄養分のないところで小麦を作るには大苦労が必要で、結局、農業はそこそこにして、牧畜業みたいになっていったのだろうと、半ば同情する反面、これが侵略文化の起源なのかもしれないと、なんとなくナットク。


そして、ぐるぐると館内を歩き回って、それなりに面白いので、体も脳みそも疲れ果ててしまうのが、まったくの大問題で、建物から出ると広大な公園の奥の方で、帰路は、駅(万博記念公園)まで果てしなく遠いことを思い出す。公園内なので、タクシーはいない。雨が降ってきても、コンビニがないので傘は手に入らなかった。

9c07141a.jpgところで、この博物館は三十数年前に開館したのだが、初代館長は梅棹忠夫氏、二代目が佐々木高明氏、三代目が石毛直道氏、四代目が現在の松園万亀雄氏だが、この中の三代目の石毛直道氏は、ある学校で私の先輩にあたる。若い頃から、「住居空間の人類学」「食いしん坊の民族学」「食卓の文明論」などで学術的民族学探検家で有名だった。その多くの著書は読んでいる。彼の後を追いかけて、京都大学探検部に進もうかと思っても、入部できる可能性はほとんどゼロだった。探検部としては、西の京大、東の早稲田ということで、京大からは、梅棹氏はじめ、本多勝一氏、今西錦司氏などを輩出。一方、早稲田出身はエジプト学で有名な、吉村作治氏、作家の船戸与一氏などだ。こちらの探検部に入部できる可能性はゼロということはなかったのだが、あまり知性を感じないので辞めた。

同郷の探検家ということで言えば、椎名誠氏は小学校の先輩だったようだし、小野田寛郎少尉をルワング島のジャングルから連れ出した鈴木紀夫氏は出身地の隣の市の出身。彼は1949年生まれ。少尉生還の1974年には、まだ25歳。1986年にヒマラヤで行方不明になり、翌年、雪中から発見された時、38歳。もし、今、現代に蘇ることができれば58だ。生還したときの小野田少尉より6歳も年上になっているはずだ。

陰陽経済学でご託宣

2007-01-30 00:00:32 | 投資
b87f6efd.jpg先日、リチャード・クー氏の講演会に行った。現在の肩書きは野村證券主席研究員。つまり、野村證券が顧客サービスの一環で主催しているわけだ。クー氏の講演は第二部からで、私が行かなかった第一部では、新春投資セミナーがあったようだ、早い話が「どの会社の株を買えばいいか」というレッスン会で、そういうややこしいのが嫌な方は、ファンドという名の「一任勘定」にされたらどうか、というようなことだろう。マーケット・メーク株というのは、要するに「個人客がまとまって仕手筋になること」なのだが、当然ながら、人為的に上がるだけだから、5%程度の儲けでサッサと確定しないと奈落に落ちる。売り時は誰も教えてくれない。

そして第二部に合わせて会場に行くと、すごい熱気だ。トイレには長蛇の列。巨大会場は満席に近い状況で、さすが野村、さすがリチャード・クーだ。一望して出席者の平均年齢は62歳。こういう人たちが、10桁台の預金を持っているのだろう。そして、ペイオフ以来、迷える子羊になっているのだろう。ハーメルンの笛吹きが野村でありクーさんなのだろう。一体、沈黙の羊達をどこに連れて行こうとしているのだろうか。

もちろん残念ながら、クー博士は個別の株や、特定の産業などの下品な話は論じない。あくまでもマクロ指標から日本経済を分析し、債券や株価や景気指数や為替や金利や商品市況やその他様々な予測を行うわけだ。個人的には、NKCデアル証券や不二家やN本航空の死活判定とか聞きたいのだが、あり得ない。少し前は、かなりテレビに登場していたが、最近はあまり見ないと思っていたら、少し、髪が白くなっていた。本人は、「いつも同じことばかり話すから、マスコミに飽きられた」とトークしていたが、本当は、別の理由のような気がする。

b87f6efd.jpg彼は、元々は、ケイジアンだと考えられるが、小泉-竹中路線になんとかケチをつけたい(あるいは、批判的な意見がないとニュースにならない)という勢力が、利用していたのではないかと思っている。実際、バブル経済崩壊過程の中途では、クー博士のいうように赤字国債依存の財政出動がなければ経済崩壊で原始経済化した可能性もあるのだろうが、2002年あたりからは経済が好転してきたのだから、結局、どちらの側も同じことを言っているだけということもできる。早い話が、なるようになっただけともいえる。安部政権は、まだ何をするのかもよくわからないし、「経済成長なければ財政再建なし」といって「4%成長」というスローガンは、極めて快感的フレーズだが、問題は、「そうなるかどうか」であるのは言うまでもない。一方で、「期待がないから失望もない」という声もある。

実際、クー博士も証券会社に所属しているわけで、勝手なことを言うわけにはいかないのも必然で、現在の日本経済について、「根底的問題はすべて片付き、これからは成長に向かうのではあるが、個別には循環的ないくつかの問題がある」と用心深い。(念のため、野村證券の今年の株価の予想は、日経平均が一旦15,000円台まで調整したあと、年後半に上昇に転じ、18,000円台を目指すということらしい。もちろん、保証なしだ。)

特に、日本経済の現状では、投資資金の動きについて、本来、家計部門の貯蓄を銀行が介在して企業に融資するという古典的プロセスが崩壊していて、企業部門は借金返済に走り、家計部門がリストラなどの原因で預貯金取り崩しという逆パターンにはまっていた、とし、最近になり企業部門の資金バランスが返済と借り入れとイーブンから少し借り越しバランスに変わってきている、と指摘。今後、企業部門の業績好調になると、資金需要が復活していくだろう。と予測している。長期金利が2%を超えるかどうかが鍵らしい。

ところが、懸念材料としては、個人消費というか、個人の所得が増えなければ、家計部門で預貯金する資金供給がないし、結局、日本経済も輸出主導型で、世界経済の一部であるに過ぎないということになるだろうし、海外からは日本の春闘に注目が集まっているらしい。(社員の給料も上げられないというのは、将来に自信のない経営者とみなされるのだろう)。

b87f6efd.jpgクー博士の話を全部まとめるわけにはいかないが、例の「陰陽経済学」の話になった。さすが中国人である。バブル経済崩壊下においては資産価額の暴落により、バランスシート不況に至り、後ろ向きの対策を連発しなければならなくなって、通常のケインズ経済学が機能しなくなった、という話だ。要するに、”これからはオレの経済学が正しい”と言っているわけ。

しかし、実感としては、マクロとミクロの違いがあるわけだ。企業収益といっても日米ともに、多国籍企業の海外事業での利益が反映されているし、ほとんどの労働者は給料上がってない。長短金利は逆転しているし、為替も一旦ある方向に向かえば止まらないし、資源価格も読めない。陰陽理論にも限界を感じざるを得ないのだ。

私見なのだが、資金需要の話に戻っても、マクロという平均の指標では均衡状態としても、いまだにバブル期の隠し債務の清算を続ける会社もある。また、自己資本比率の高い会社はますます、借り入れを減らして自己資金投資を行うし、一方で、またもバブル的冒険的投資を始めた会社もある。二極化、三極化という視点が必要なのではないだろうか。そして、日本経済という範疇で考えれば、得意分野はゲームソフト、ゲーム機、パチンコ台、カラオケ、携帯、漫画・・といったどちらかと言えば低資本、高マージン産業へ向かっているような気がする。すると、さらに自己資本(高マージンによる手元資金)投資等で銀行の出る幕がなくなっていくように思えてならない。

b87f6efd.jpgそして、講演のほとんど最後に登場した話なのだが、日本の経常収支の話に重要な問題が潜んでいるような匂いがした。本来、経常黒字と貿易黒字というのは、ほぼ同じ意味を指していたのだが、2004年以来、大きく変貌しているわけだ。経常黒字のうち半分が貿易黒字であり、残りは海外投資収益ということになっている。つまり、例えば自動車を米国に輸出して売った利益は、日本の円に精算してから、仕入先や社員給与として払うべきものだったが、最近は外貨のまま運用して、外貨建ての運用利益になっていることを示している。

つまり、今、危険領域として噂される「円キャリートレード」の問題と同根なわけだ。一旦、円高へ向かうと、あっという間(おそらく1日以下の時間単位)に数十円の円高大崩壊が起きる可能性があるわけだ。早い話が1ドル80円とかだ。しかし、その時期を推定するのは地震予知以上に困難だ。

ところで、クー博士のプロフィールだが、1954年生まれ、神戸の生まれだ。両親は台湾。米国のカリフォルニア大学バークレー校からジョンズ・ホプキンス大学で博士になる。FRBを経由して野村に入ったのだが、ある自著では、ピアノ・メーカーに就職していたと書いてあるそうだ。同じバークレーでもバークレー音楽院と誤認され、採用されたのだろうか。ピアノが弾けない人間がピアノ会社に就職するとは思えないので、何曲かは弾けるのだろう。経済も輪舞曲のように循環性があるということだろうか。趣味は、カメラとプラ模型ということで、まあ常識の範囲だ。セーラー服の収集や北新地通いが趣味では困るからだ。(そういえばセーラー服好きの方も野村だった。→そして、調べてみると、クー氏と植草一秀氏は長い間同僚であったことがわかる。主張もほぼ同じだ。どう考えればいいのだろう。)

Yahoo!古地図にちょっと怒る人たち

2007-01-29 00:00:23 | マーケティング
9bce5f24.jpg今、Yahoo!のポータルの右上のあたりに、「江戸、明治の古地図で、東京めぐりを楽しもう」と表示されていて、クリックすると、現代の東京の地図と江戸の地図と明治の地図が、重ね合わされて見ることができる。例えば、都心に勤務している方が、その事務所の場所で、四十七士の切腹があったとか、振袖火事の出火現場だった、とか不吉な場所であることを知ることができるわけだ。そして、多くの大名屋敷がその後、明治時代に誰の手に渡り、なぜ鹿鳴館が保険会社のものになったのだろうか、とか考えさせてくれるわけだ。

ただし、ちょっと、不愉快と思う人たちもいると思う。私もその一人。そして、チャリンコブログ界の大御所”Tea time diary”さんも同様のようだが、要するにこのソフトは、エーピーピーカンパニーというところから、「江戸・明治・東京重ね地図」として市販されている。18,900円とのこと。実は、私がもっているのは、その前年に「江戸・東京重ね地図」という明治抜きのバージョンで9,975円のもの。第12回東京ブックフェアで9,500円で購入。その後、明治が組み込まれる。明治がないと、例えば井伊直弼の屋敷が桜田門のそばの憲政記念館の場所ということしかわからないが、明治の地図があると、そこが陸軍参謀本部だったことがわかる。

実は、昨年の第13回ブックフェアで、この明治の入ったソフトを購入しようと探したものの、エーピーピーカンパニーの出展ブースが見つからないと思ったら、Yahoo!と一芝居を準備中だったわけだ。Yahoo!の説明を読むと、1月25日から3月15日まで無料利用できることになっているが、その先はどうなるのだろう。間違っても、ソフトの既存購入者に代金の一部を払い戻ししよう、などということにはならないだろう。

まあ、怒るのはほどほどにして、少し前に、足を伸ばした両国あたりを検索してみる。勝海舟とか吉良上野介のあたり。

9bce5f24.jpg現在、勝海舟の生地というところには碑が立っているので、その場所を現代の地図で探し、江戸に変換してみると、勝という家はない。江戸の地図は1856年(安政3年)であるから、勝家があってもおかしくないのだが、生地の家には、男谷精一郎と書かれている。よくわからないので、wikipediaで読んでみると、わかってきた。勝海舟は男谷家の三男として1823年に生まれた。そして三男だからということで、勝家に養子に出されてしまう。1830年、7歳のこと。養子先の勝家は、両国の隣駅錦糸町の両国寄り。つまり800メートルほどのところだ。そこに住んでいたのだが、23歳、1846年に赤坂田町に引越す。錦糸町のあたりをいくらさがしても勝家の表示がないことを考えれば、家の買い替えだったのだろう。買ってから売ったか、売ってから買ったかは知らない。

ところで、このYahoo!古地図のページを繰っていると、「有名人のお宅訪問・江戸編」という特集があり、なんと、遠山の金さん、井伊直弼に続き、勝麟太郎(海舟)、男谷精一郎、・・・となっている。勝の家は赤坂田町になっている(確かに1856年には赤坂に住んでいた)。そして勝の次に表示されている、幕末の剣豪である男谷精一郎の家を訪問すると、そこが勝海舟の生家になっているのだが、この情報はYahoo!にはまったく書かれていない。このブログを読んでいる、あなたと私だけの秘密だ。

9bce5f24.jpgもう一つ、気付いたのだが、吉良上野介の屋敷も、勝の生家のそばなのだが、こちらは、忠臣蔵で斬られて、世間騒擾の罪でお家取り潰し。時代が違うから、吉良の存在を示すものは残っていないが、その屋敷跡は、本多内蔵助という武士の館になっている。吉良を斬ったのが大石内蔵之助だったことを考えると、内蔵助つながりになっている。何の因果だろう。
  

太陽の塔、36歳。まだ現役。

2007-01-28 00:00:21 | 美術館・博物館・工芸品
157d9c99.jpg大阪梅田から3種類の私鉄を乗り換えると、40分ほどで、万博記念公園に着く。最後はモノレールだが、非常に高い場所を走る。3種類の鉄道会社にブツ切り料金を払うので片道590円もかかるが、そのかわり、無料で太陽の塔は見える。ただし、公園の外からだ。250円払って、記念公園に入場し、太陽の塔の足元まで行く。前に来たのは1970年。大阪万博の時だから36年前。入場者6000万人のうちの一人だ。幼少の頃だったので、よく覚えていないが、こういうメイン会場では人混みのイメージしか残っていない。今、すべての構築物が太陽の塔の周囲から取り除かれ、この塔だけが威容を残している。

157d9c99.jpg当時の話だが、お祭り広場は、丹下健三が、広場をすっぽりと大屋根で覆うような設計を行っていたのだが、シンボルタワーを設計した岡本太郎の塔は高さ70メートルと屋根の高さを大きく越えてしまう。タワーの高さを屋根より低くするように丹下健三が強要したのに、岡本太郎がこれを拒否。話し合いは行き詰まったのだが、最後は、万博会長石坂泰三の裁定で、大屋根に穴をあける折衷案に決定する。太陽の塔という命名は、この屋根に塔で穴を開けるという行為が、現東京都知事が二日間で書き上げた生涯最高作品の「太陽の季節」の一節を思い起こさせることに起因するという説もあるが、たぶん違うだろう。

157d9c99.jpgそして、実は、太陽の塔を後ろから見たことなどなかったので、後ろに回って見上げると、「そこにも顔があった」ので驚いてしまった。この背中の顔はなかなか怖い。さらに、後ろからのフォルムを見ると、まさに36歳。これから中年に向かう人間の肩の丸みを感じてしまう。酒に酔って、最寄り駅から自宅まで前かがみで歩くサラリーマン秋の夕暮れという図だ。一応、俗称は、背中の顔は「過去の顔」。正面の体についている顔が「現在の顔」。そして、頭の上についた金色の顔が「未来の顔」というそうだ。1970年から見れば、過去というのは1945年の終戦の頃なのだろうか、日本が苦しかった時代。1970年の現在の顔は高度成長経済のにほんの拡大期。そして未来というのはバブルのことだったのだろうか、あるいは沈滞した1990年代。あるいはちょうど現代のことか。

そして、「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」と言ったのはCMだったが、実は、太陽の塔には4つ目の顔があったそうだ。それもごく最近までだ。

157d9c99.jpgその前に、この塔は、土台の直径が20メートルで、高さ70メートル。右手と左手はそれぞれ25メートルで、万博当時は内部を利用していて、「生命の樹」というモニュメントが体内に展示されていた。原始時代から動物が進化を続け、恐竜を経て人類にいたる過程を円谷プロのアシストを得て299体のフィギュアに表現し、ピアノ線で吊るされていた。そして、4列エスカレーターで、その中を巡回できたわけだ。ところが、万博終了後、この内部の秘宝については長く封印されてしまう。わずかに川崎市にある岡本太郎記念館の中の展示写真により、その内部展示の状況を知ることができるだけだったのだが、2003年になり、突如、期間限定で内部公開が始まる。その後も、希に公開期間を設けていたのだが、それが、今年(2007年)3月の公開をもって、しばらく休止になるそうだ(再開のめどなし)。名鉄観光のパック・チケットももうすぐ売り切れそうである。少し悩んでしまう。

そして、当時、この塔の地下展示室の底にあったのが「地底の太陽」という顔なのだ。この顔の存在が明らかになったのは2000年頃だったそうだ。兵庫県の県立美術館の建設計画が持ち上がった時に、兵庫県が先行して購入。倉庫で保管しているうちに、建設計画が消滅してしまう。そして、数年後、忘れられた「地底の顔」についての捜索が始まったのだが、今や、杳として、行方知らずということらしい。

157d9c99.jpg少なくても、美術品の価値のわかる人間が美術館計画とか立案するのではないだろうか。もちろん計画頓挫した時の後始末もだ。大阪市の倉庫で永遠に未完になるだろう市立美術館の開館を待っている150億円の美術品ほどではなくても、いくらかの資産価値はあるだろうし、何しろ管理能力最低の役人的話だ。あるいは、合法、非合法入り混じった所有権移転の末、メキシコの倉庫で長く眠っていた壁画「明日の神話」のように、突如として現代に再登場するのだろうか。

日本は倉庫料金が高いから、たぶん、すでに”南無”だろうとは思う。

日本が過去の歴史を見失ったのもこの「地底の顔」と同様なのだろうか・・  

竜王就位パーティに

2007-01-27 00:00:36 | しょうぎ
e266ff2e.jpg1月22日に都内のホテルで開かれた読売新聞社主催の竜王就位式のパーティに潜り込んだ。まず、受付の記帳の列に並ぶのだが、毛筆で名前を書こうとすると、私の前に記帳されていた名前は「中井広恵」と書かれていた。ということは、列で前にいた女性は、中井さんだったわけだ。後姿でわからなかった。最近、あれこれと記帳の機会が増えてきたせいか、毛筆も若干上達してきて、「へたうま字」を中井達筆の横に並べることができた。

さっそく米長会長のスピーチだが、読売新聞社と将棋担当のS記者に配慮してか、朝毎共催の名人戦問題は一切なし。これから始まるネット棋戦や渡辺竜王の将棋ソフトとの対局などを軽く流す。1988年に始まり、19期にわたる竜王戦史の必ず一番上に登場する第一期竜王戦七番勝負の米長邦雄×島朗戦、その結果の「0勝4敗」を何とか記録から抹消してしまいたいのだが・・とぼやいていた。その5年後に逆に米長は中原誠から4勝0敗で名人位を獲得するのだが、秘かに知りえた元弟子の女流棋士と対戦相手とのラブアフェア情報を活用したのかどうかは不明だ。

その後、白瀧呉服店の社長が挨拶。渡辺竜王の対局用の和服は、すべてこの呉服店が一任勘定で保管しているそうだ。それでは、もしやレンタル着物では?などとつまらない勘ぐりは不要だろう。何と、獲得した賞金は3,200万円だ。

しかし、渡辺竜王のスピーチというのも、普通のことを喋っているのに、どこかおかしい感じがする。落語家の素地ありだ。あるいは、人気のブログを書いているうちに、話の筋のサービス精神が豊かになったのだろうか。

そして、今シリーズの7局全部を振り返っていたのだが、特に2連敗の後の第三局の終盤の最後の最後に、将棋史に残るような奇跡の△7九角という手があって、シリーズの流れが変わったのだった。確かに、その手は、「角の捨駒」という感じがする。詰将棋以外で捨駒を見るのはあまりないだろう。例えて言えば、タクシーに乗って、降りる時に財布を忘れたことに気付いて、「困った!」と思った瞬間に、床に一万円札が落ちていたようなものだ(例が悪すぎるかな)。

そして、いつものようにパーティにはまだ幼児である竜王の長男も出席。幼児記憶には父親が主役のパーティがどのように残るのだろうか。そして、何十人かの出席棋士の中には、先日、米長会長を著作権侵害で訴えた武者野六段もいた。まあ、会長が和解金を払って解決したから「和解した」ということでいいのだろう。

e266ff2e.jpgまた、人気先行の、プロなりたて、まだ未勝利の美少女棋士伊奈川女流2級も高校の制服で出席。もちろん、そっくりさんのお姉さまも一緒だ(制服は異なる)。同門の方々と懇談している場に近づくと、先輩棋士に恐ろしい質問をしていた(ように聞こえたが耳の錯覚かもしれない)。「(対局中の)昼食休憩中に(別室で)駒を動かして考えていいのでしょうか?」って・・。即座に、「頭の中で考えて下さい!」と一喝されていた(ように聞こえたが、耳の錯覚かもしれない)。それはそうだろう。駒を動かして考えているところを他人に発見でもされたら・・・、翌日には、全棋士の笑い物になってしまうだろう。似たような話だが、以前、中原氏の話を読んだことがあるが、二日制のタイトル戦には磁石駒付きの携帯用将棋盤を持っていったそうだ。1日目の夜に検討するのだろう。伊奈川さんも早く二日制のタイトル戦に登場して、羽生さんを打ち破ってもらいたいところだ。パーティの遠景写真に伊奈川姉妹が写っていたのだが、肖像権に配慮し、花束の陰で失礼。

e266ff2e.jpgそして、女流将棋協会(仮称)設立準備委員会の方々は、ほとんどがこのパーティに出席されているようだった。女流棋士の幹部の方々は、あれこれ密談風なのだが、「今度は、反対派の○○を除名しようかしら」などと物騒なことを相談しているのだろうか。そして、除名で思い出したのだが、読売のS記者だが。出身のK大学将棋部から除名されているという噂を聞いたことがある。詳細は不明だ。

前々週の問題は、オーソドックスな詰将棋。▲2一飛 △1三玉 ▲1二桂成 △同玉 ▲2三銀 △1三玉 ▲3五馬 △2四合 ▲2二飛成まで9手詰。1五角は、9手目▲2二銀不成という変な余詰の対策。原案は、攻方2四桂1枚、玉方2二玉・3三歩・1一香の3枚、持駒、飛・金なのだが、金を銀に変えるところから改造開始した。




e266ff2e.jpg今週もオーソドックスな問題(とも言えないかな)。捨駒はないし・・。わかったと思われた方は、コメント欄に最終手と手数と酷評いただければ、正誤判断。
  

二人の「赤い靴はいてた女の子」。

2007-01-26 00:00:41 | 市民A
愛読しているネット上のエッセイに、日経ビジネスオンラインの「宋文洲の傍目八目」がある。宋さんは中国出身だが日本でIT企業家として大成功。一方、日本と中国の社会の違いについて、きわめて公平な見方で正論を書き続けられている。1月25日に紹介された最近の中国での悲話について、私が昨年、書いていた「童謡『赤い靴はいてた女の子』:岩崎きみちゃんの物語」と、どうしても比較しなければ、という気持ちになった。

私が、追いかけた、岩崎きみちゃんの軌跡を簡単に追うと、

1902年 静岡県清水で岩崎かよの長女として生まれる。非嫡出子。父親はやくざ者できみちゃんの出生時は服役中。

1903年 岩崎かよは身寄りもなく、生活苦からきみちゃんを連れ、函館へ渡る。翌年、母かよは鈴木志郎という男性と出会い、結婚。北海道内の開拓村に向かう。その時、2歳のきみちゃんは、母と離れ、米国人牧師の養女となる。そして4年間、札幌の教会に住むのだが、その間に開拓村は崩壊。鈴木一家は詩人石川啄木や野口雨情の勤める北鳴新聞社で糊口をしのぐ。

1908年 牧師夫妻に米国のメソジスト教団本部より帰国命令が下り、夫妻はきみちゃんを連れ、横浜港から米国向けに出国しようとするが、既にきみちゃんは胸を結核に冒されていて(別説あり)、麻布にある鳥居坂教会の孤児院に預けられることになる。

1911年 闘病の甲斐なく9歳で永眠。現在、青山墓地に眠る。


1921年 実母である岩崎かよは、牧師が米国に帰国したということを後に知り、娘も米国に渡ったと誤解。詩人である野口雨情に懺悔の気持ちを語っていたのだが、雨情は童謡「赤い靴はいてた女の子」を作詞する。

1973年 岩崎かよの末娘である女性から、実在モデルについての情報が北海道新聞にもたらされる。そして、その情報を取材した北海道テレビが大調査の上、全国ネットで特集を放送する。(当時の記者である菊地氏は、現在は北星大学教授である)

さらに詳しくは、私のブログを読んでいただければいい。


一方、中国の赤い靴の少女は、現代の実話である。2年前のことだ。

ネット上の新聞社の記事は、一定の期間が過ぎると読むことができなくなるため、あえて、宋文洲氏のNIKKEIの記事、全文をここに紹介する。

捨て子の少女の死と、脱・格差社会のもと  2007年1月25日 木曜日 宋 文洲

1996年11月の四川省の寒村。若い未婚の男性農夫が草むらに捨てられた女の子の赤ちゃんに気づきました。赤ちゃんを育てるのは、貧乏な彼にとって重い負担。そう考える彼は何回も赤ちゃんを抱き上げては下ろし、立ち去ってはまた戻りました。最後、彼は命が尽きそうな赤ちゃんに呟きました。

「私と同じ、貧しい食事を食べてもいいかい」と。

独身のまま1児の父親になった農夫は、粉ミルクを買うお金もないため、赤ちゃんはお粥で大きく育てられました。病気がちな体は心配の種でしたが、聡明で近所からとてもかわいがられたのは、お父さんの救いでした。

女の子は5歳になると、自ら進んで家事を手伝うようになりました。洗濯、炊飯、草刈りと、小さな体を一生懸命に動かして、お父さんを手伝いました。ほかの子と違ってお母さんがいない少女は、お父さんと2人で家をきり盛りしました。

突然押し寄せた不幸
小学校に入ってからも、少女はお父さんをがっかりさせたことはありませんでした。習った歌をお披露目したり、学校での出来事を話したりと、お父さんを楽しませました。そんな平和な家庭に突然の暗雲がたれ込みました。

2005年5月。ある日、少女は鼻血がなかなか止まらない状態になりました。足にも赤い斑点が出たため、お父さんと病院に行くと、医者に告げられた病名は「急性白血病」でした。

目の前が真っ暗になりながら、お父さんは親戚と友人の元に出向き、借りられるだけのお金を借りました。しかし、必要な治療費は30万元。日本円にして400万円です。中国よりずっと裕福な日本でも、庶民にとっては大金になるような治療費を、中国の農民がどうにかできるはずもありません。集めたお金は焼け石に水でした。

かわいい我が子の治療費を集められない心労からか、日々痩せていくお父さんを目にして、少女は懇願しました。「お父さん、私、死にたい。もともと捨てられた時に、そのまま死んでいたのかもしれない。もういいから、退院させてください」と。

自ら治療を放棄すると退院
お父さんは少女に背を向けて、溢れ出た涙を隠しました。長い沈黙の後、「父さんは家を売るから、大丈夫だよ」と言いました。それを聞いて、女の子も泣き出しました。「もう人に聞いたの。お家を売っても1万元しかならないのでしょ。治療費は30万元ですよね」と。

6月18日、少女が読み書きできないお父さんに代わって病院に「私は娘への治療を放棄する」との書類を提出しました。彼女はまだ8歳でした。幼い子につらい思いをさせてしまったことを知ったお父さんは、病院の隅で泣き崩れました。そして娘を救うことのできない自分を恨み、運命の理不尽に怒りを覚えました。

娘は生まれてまもなく実の父母に捨てられたうえに、貧乏な自分と1日も豊かな生活を経験したことがありません。8歳になっても靴下さえ履いたことがありません。それでなくてもつらい人生を歩まなくてはいけなかったのに、さらに追い打ちをかけて病に苦しめられるとは。

退院して家に戻った少女は、入院する前と同じように家事をし、自分で体を洗います。お父さんに、自分は勤勉で、かわいく、そして綺麗好きな娘として記憶に残してほしい。そう願いながら、1つだけお父さんに甘えました。

新しい服を買ってもらい、お父さんと一緒に写真を撮ってもらったのです。それもお父さんを思ってのこと。「これで、いつでも私のことを思い出してもらえる」と。

70万元の寄付が集まり、治療を再開
ささいな幸せの日々も、終わりが見え始めてきました。病気は心臓に及び始め、ついに彼女は学校に行くのもままならなくなりました。苦痛から、学校に向かう小道を、1人カバンを背負って立ち尽くすこともありました。そんな時には、目は涙で溢れていました。

少女の死が近づいたころ、ある新聞記者が病院側からこの話を聞き、記事にしました。少女の話はたちまち中国全土に伝わり、人々は彼女のことで悲しみ、わずか10日間に70万元の寄付が集まりました。女の子の命はもう一度希望の火が灯され、彼女は成都の児童病院に入院し、治療を受け始めました。

化学治療の苦痛に、少女は一言も弱気を吐いたことがありません。骨髄に針を刺した時さえ、体一つ動かしません。ほかの子供と違って、少女は自分から甘えることをしないのです。

訪れた運命の日
2カ月の化学治療の間に、何度も生死をさまよいましたが、腕のよい医師の力もあって、一時は完全回復の期待も生まれました。しかし、…。やはり化学治療は、病が進行し衰弱していた少女の体には、無理を強いていたのです。

化学治療の合併症が起き、8月20日、女の子は昏睡状態に陥りました。朦朧とした意識の中で彼女は自分の余命を感じます。翌日、看病に来た新聞記者に女の子が遺書を渡しました。3枚もの遺書は彼女の死後の願いと人々への感謝の言葉で埋め尽くされています。8月22日、病魔に苦しめられた女の子は静かに逝きました。

少女のお父さんは冷たい娘をいつまでも抱きしめ涙を流しました。インターネット上も涙に溢れかえり、彼女の死のニュースには無数の人々がコメントを寄せました。8月26日、葬式は小雨の中で執り行われました。少女を見送りに来た人にあふれ、斎場の外まで人で埋まりました。

女の子の墓標の正面には彼女の微笑んでいる写真があります。写真の下部に「私は生きていました。お父さんのいい子でした」とあります。墓標の後ろには女の子の生涯が綴られてありますが、その文面の最後は「お嬢さん、安らかに眠りなさい。あなたがいれば天国はさらに美しくなる」と結ばれています。

殺人は微増にとどまるが…
紹介した話は、僕が中国で旅している間に偶然に耳にしたものです。詳細に興味を持つ方はどうぞ僕のブログをご覧ください。

セレブの奥さんが夫を、医師を目指す兄が妹を、バラバラ殺人する事件が相次いで報道されたり、息子が父親のしつけに耐えられなくなり、母親と幼い兄弟を放火殺人してしまったり、とここ最近、家族同士の殺人事件のニュースを聞かない日がないくらい増えています。

家族同士の殺人事件は、今に始まったことではありませんが、どうも最近はこれまで以上に凄惨になり、数も増えている気がします。

2006年版の警察白書によれば、刑法犯で警察が被害届を受理した件数(認知件数)は2001年度に273万5000件だったのが、2005年度には226万9000件と減り、殺人事件は同じく1340件が1392件と微増、放火は2006件が1904件と減っています。検挙件数で見ると、殺人は1261件が1345件と、これも増えてはいますが、目立って増えているわけではありません。

白書の統計の中で、家族間の殺人がどのようになっているのか分からないので、凄惨な家族殺人が増えているというのは単なる印象論なのですが、どうも現代の日本は、家族の絆や生命の重みを大事にする気持ちが、薄まりつつあるのではないかと感じます。

カネや国に頼る前に、必要なこと
もちろん勘違いだとは思いますが、そう感じるのは「カネ」さえかければ的な議論が先行し、何をするにしても基本である人の気持ちが置き去りにされているようだからです。例えば、現在、安倍内閣が掲げている教育再生や少子化対策などの是正の議論の中では、必ずといっていいほど、国が対策を講じず、必要な予算をつけなかったから「学校が荒廃した」「子供を産めない夫婦が増えている」というものがあります。

カネがないからダメになった、という意見に、僕は素直に賛成できません。紹介した中国の少女の家庭は貧乏だったけれども、少女を優しい思いやりのある子供に育てました。お金はなかったですが、少女には夢があり、家族愛が育まれました。

この少女が生きた四川省の農村部では、1人当たりの年間現金収入は1000元(約1万4000円)も届かないと聞いています。ですから治療費の30万元というのは、年間収入が500万円の人が15億円の治療費を負担するようなものです。

思いやる心がない社会の寒さ
少女の話がまたたくまに中国全土に広がったのは、中国も最近の経済発展でカネがすべてという退廃した空気が充満し、そして日本をはるかに凌ぐ格差社会の実態があるからだと思います。少女の話からお金よりも大事にしなくてはならないものがある、いくらお金があっても得られないモノがあるのだということに気づかされ、それがなんの見返りもない寄付という形になったのだと思います。

お金は、あることに越したことはありません。予算もそうです。教育再生、格差社会の是正に限らず、どんな改革を実行するのにも、予算は少ないより多い方がましです。しかし、お金をかければ、必ずいい結果が出るものでもありません。

学校が荒れているのは、教育予算の規模も関係しているかもしれませんが、僕には家族が、人を思いやる心を子供に与え、教えていないことに根本の原因があると思えます。もちろん家族だけが人を思いやる心を教えるものではありません。家族が教えられなくても、教師、地域、仲間が代わりを務めることもあるでしょう。

暖冬の中、寒々しい話をたびたび聞くにつけ、心のぬくもりについて考えてみました。


日本の赤い靴の少女は、100年前、日本が富国強兵策で急成長を始めた時期の社会の片隅のできごとである。現代の勝ち組、負け組論争など比較にならないほど富のアンバランスが存在していた。農村であふれた人間は、海外移民したり、身売りされたり、そして軍隊に入っていった。そういう、社会の怒りの塊は、残念ながら、特定勢力に利用され、日本を危険な方向に向かわせてしまったわけだ。

そう考えると、現代中国の現実は、社会保障制度などまだ未成熟であるにもかかわらず、こういう目立ちはじめた社会の歪みを、国民が共有して解決していこうという良識が芽生えてきたのだろう、と、少女の貴重な一生に、大きな意味を感じる。おそらく、中国は、いずれ普通の国になるのだろう。

そして、こういう情報の共有という状況が、ネット社会の同時代性であり、世論形成の構造なのだろう、と思う。

(記事の中に登場した宋氏のブログは、念のため画像データにも編集したので、クリックして拡大すれば、読んでいただけるだろう。できれば、彼女が赤い靴をはいたことまで読んでいただければ、と思う。)

耐震強度疑惑の深さ

2007-01-25 21:24:15 | 市民A
先日、弊ブログ2006年11月12月号「西武の売り物」で、千葉市幕張でプリンスホテルが手放した高層ホテルをAPAグループが買い取り、改装。目付きの悪い用心棒のような社員に恫喝された話を書いたのだが、やっと天罰が下りた。京都の二つのホテルでの耐震強度偽装が発覚!

実は、現在、閉鎖中のホームページで以前読んだのだが、イーホームズの藤田東吾社長からの、「APAホテルでも強度偽装が行われているのに、再調査しないのは政治的圧力があるからだ」という旨の発表に対して、ホテル側は強く否定していたのだったが、政治的圧力をかけようにも物理的圧力にホテルが耐えられないのでは、隠しおおせるはずもない。政治的圧力というのが、グループの会長である元谷外志雄氏が現総理の後援会副会長であることを指すのか、あるいはグループが強く応援する地元石川県選出の馳浩氏のことかはよくわからない。なお、馳氏は、高見順の娘である高見恭子の夫であるのも先日の2006年12月29日「高見順のこと」で触れたが、一見、関係ない自分の記事があれこれ関係していたのを知るのは気持ちがいいものでもない。

そして、APAといえば、ビジネスホテル業界では東横インを追いかける最有力企業。かたや東横インは、客室数偽装事件(身障者用の客室や駐車場スペースを一般客室に改造)を起こしたのは記憶に新しいのだが、どちらもコストダウンのための違法行為とは言っても、「客室数をごまかすこと」と「ホテルの耐震強度をごまかすこと」とは、とても同列に並べることはできないのは自明だ。

もしも、APA自体が係わっていたとするなら、急拡張しているチェーンの全建物について、ホテル側に意図的に偽装行為があったのかが問題になるのだろうが(そしてもちろん強度不足のホテルの営業は停止になるだろう)、不二家の事件もそうだが、どうして一発見つかると即会社がつぶれるような巨大な企業犯罪を犯すのだろうか。幕張のホテルにしても高層ホテルの3フロアを海の見える共同浴場に改装したらしいのだが、強度は大丈夫なのだろうか。水は意外に重い。地震の時にガラスの割れた高層階から、お湯と一緒に地上に落下するのは、御免だろう。

建物の方は、耐震強度が不足していても、震度5程度までは耐えうるのだろうが、会社経営の方を揺るがしているのは震度10の大地震なのだろう。ホテルの用心棒はいても、会社には用心棒がいなかったのだろう。

ラフマニノフもまた苦闘人生だった

2007-01-25 00:00:24 | 音楽(クラシック音楽他)
80b93318.jpgフィギュア・スケートで選曲に困ると登場するのがラフマニノフである。特にピアノ協奏曲第二番と第三番は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番と並ぶ前ロシア最後を飾る名曲である。また、ラフマニノフの曲は、いきなり地上1メートルに浮き上がるような不安定な最初の一小節で、すぐに彼の作とわかる特徴を持つ。先週、スクリャービンについて、モスクワ音楽院の同級生のラフマニノフと張りあったことに無理があった、と書いたのだが、ついでに伝記ラフマニノフ(ニコライ・バジャーノフ)を読む。463ページでニ段組の大著。新幹線の車中、5時間ほどかける。

まず、この伝記を書いたバジャーノフさんだが、すでに1985年に86歳で亡くなられている。ベラルーシ出身だがソ連からの独立を待つことができなかった。本著は元々、1933年に第一版が出版され、1966年に第二版になっている。この第二版を元に2003年に日本語版が翻訳されている。ラフマニノフ本人は1943年3月28日に70歳まであと4日、肺病のためビバリーヒルズで亡くなる。本著の中で、生前、自分の許可なくでたらめな自伝が出版されそうになり、発行直前に気付き、部分的には修正したものの、かなり違っていると言っていたそうだから、おそらく本著もそのラフマニノフが筆を入れた、若干事実と違う自伝の影響を受けているものと思われる。ただ、大きな人生の流れとしては、正しいのだろうと考える。


まず、こども時代から、彼の運命は翻弄される。ノヴゴロド州の貴族階級に生まれたのだが、9歳の時、家は破産。土地や屋敷を失い、ロシア北部の都市ペテルブルグに移住。まもなく、父は家を出て行く。母子家庭である。(スクリャービンは自らが産まれる時に母を亡くしている。)ただし、ラフマニノフの母方の祖母は教育熱心で、音楽の英才教育を続ける。何しろ、既に5歳の頃から、ベートーベンやショパンのピアノ曲を即興で編曲して弾いていたそうだ。普通の人が聴くと、原曲がわからないほどの腕前だったそうだ。そして、ペテルブルグ音楽院幼年クラスを経て、モスクワ音楽院に入学。

ここで、スクリャービンと同級生になるのだが、伝記では学校時代の二人のライバル関係については触れられていない。ラフマニノフから見れば、スクリャービンとは芸術観が合わず、付き合いはしても、音楽上の影響はないということらしい。そして、この音楽院在学中に作曲とピアノ演奏の二本立て人生が始まる。後年、指揮も行っている。ピアノ協奏曲は有名な2、3番だけでなく1番と4番もすばらしいが、1番は18歳の時、作曲。そして、音楽院を卒業する19歳、1892年に最初の大仕事を行う。プーシキン原作「アレコ」の歌劇化に伴い、卒業制作として「オペラ・アレコ」を作曲。審査員のチャイコフスキーを泣いて喜ばせる。チャイコフスキーはロシア最高の芸術家であり、このお褒めの言葉がラフマニノフの自信を深めることになる。しかし、チャイコフスキーは喜び過ぎたからかどうかわからないが、翌年急死する。


80b93318.jpgそして、彼の音楽はほとんどが前例のないメロディの連続であり、発表時は酷評されている。もちろん、彼はガックリだ。当時から、ピアニストとしての評価が高く、ほとんどの収入は演奏会からのものだった。ベートーベンやリストの曲に混ぜ、1曲だけ、自分の作曲を混ぜて弾いていたそうだ。


以前聞いた話では、ピアノ協奏曲第3番は「鬱病で入院のあと退院した時」に作曲されたというのだったが、雑用に追われ、多忙で神経を消耗して短期間入院したように書かれている(真偽不明)。事実、第一次大戦開戦直前に、アメリカ、英国、フランス、イタリアと演奏旅行を敢行している。そして、ロシア革命を避けるように、家族でロシア脱出。スウェーデン経由で米国ニューヨークへ。そして米国を中心に作曲・演奏活動を続け、53歳でピアノ協奏曲第4番、63歳で彼の作曲家としての頂点と言われる交響曲第3番。そして68歳で第二次大戦開戦。その頃から胸を病み、演奏会でもピアノ演奏終了後、立ち上がれずにそのまま幕を下ろして、関係者が抱きかかえるような状態だったそうだ。

そして、転地療法で暖かいカリフォルニア、ビヴァリーヒルズへ移る。入院中も、ピアノが弾けなくなることをもっとも恐れ、音の出ない紙の鍵盤の上で指を動かす練習を続けていたそうだ。


そして、本著は感動的に幕を閉じるのだが、実は、大きなひっかかりがあったのは、モスクワ音楽院卒業制作の「オペラ・アレコ」の件。

本ブログでも前に書いたのだが、昨年、オープンした青森県立美術館が県民の非難を浴びながら大枚15億で購入した美術品が「アレコの背景幕」。シャガール作。このアレコは1942年に米国で演じられたのだが、4幕物の1幕ずつに背景に幕が使われ、こちらも米国亡命中のシャガールが手がけたもので、オペラの作曲はチャイコフスキーということになっていた(4幕うち3幕は青森県立美術館が購入し、1幕はフィラディルフィア美術館が死守している)。ということは、チャイコフスキーが盗作でもしたかのようだが、どうも元のアレコの初演は1893年だが、現代版アレコに作り直したらしく、音楽はチャイコフスキーの曲を編曲したものを使っているようだ。

しかし、現代版アレコが演じられたのが1942年とすれば、ラフマニノフの亡くなる1年前である。ラフマニノフは自分の曲が封印されてしまったことについて、どう思ったのだろうか。案外、それでガックリして冥界入りしまったのではないだろうか。この件は、伝記にはまったくか書かれていない。謎は尽きることがない。オペラ・アレコの新旧比較でもしなければとDVDを探さなければ・・

オールコックの江戸

2007-01-24 00:00:30 | 書評
e420fa9f.jpg「オールコックの江戸・佐野真由子/中公新書」を読む。江戸最末期の外交問題に首を突っ込みたく、当時の英国の駐日公使であるラザフォード・オールコックの特集本を読む。

当時対日交渉で先行して、幕府お抱えのアドバイザーになっていた米国のハリスにライバル心を持っていたり、英国外務省の中のエリートでない彼の組織内の奮闘ぶりが書かれている。

紹介したいエピソードの1としては、彼の経歴として、医者の家系で40代までは有能な外科医(軍医)だったのだが、ある時に両手の親指が効かなくなるという奇病にかかり、外科医人生をあきらめる(仲間からは、指のせいで治療事故があったのではないか、と疑われていたようだ)。そして歳を食った再チャレンジで、英国外務省にもぐりこむ。

エピソード2は、日本国に対し、もし独立国であるとするなら、ロンドンで開かれる第一回万国博覧会(エキスポ)出展するように強く勧め、国家として漆器をはじめとした特産品を並べさせたことだ。幕府も特に対外政策には有能な人材をあて、薩長側よりも強く「国家の行く末」を考えていたらしい。現地ロンドンでは、多くの日本人関係者は、展示品を世界の一流国と比較し貧相さに恥ずかしがっていたそうだが、独立国家への目覚めということだろう。しかし、逆に外国人の方は、「漆器」については日本製は世界の頂点であることを認識していた。漆器=japanという英単語になったのだ。

80b93318.jpgそして、3番目のエピソードだが、熱海に彼の記念碑がある。来宮(きのみや)の近くの大間欠泉の前に大小二本の碑が建っているそうだ。1本目はオールコックその人の記念碑であるのだが、もう一本は彼の愛犬トビーのためのものだ。1860年にオールコックが外国人(この場合の外国人とは、原日本人である縄文人を侵略した半島系の弥生人を除く)として初めて富士山に登頂した帰りに2週間熱海に滞在。間歇泉から突然お湯が噴出し、スコッチテリアである愛犬トビーがそれを被ってしまい、火傷でなくなったそうだ。

その愛犬の碑が残っている。碑の前で「Poor Tobby!」と呼ぶと、同時にお湯が噴き出したとしても驚いてはいけない。ただの偶然だ。もちろん現在はタイマー付きのお湯の噴水になっているので音声認識センサーを付ければ可能だ。

この大間欠泉の傍に、以前勤めていた会社の保養所があって、将棋合宿とかしていたのだが、業績不振で売却済み。無能社員退社済み。もちろん、オールコックと熱海の関係を知ったのは数日前なので、「Poor Tobbyの碑」には、行く由もなかった。

ところで、熱海も財政破綻市長宣言の町である。「寛一お宮」という架空の小説で観光誘致を図るだけではなく、実在の日本贔屓の英国人も観光目玉商品にすることも考えればいいのに、と・・・。

新憲法草案(自民党案)を読む

2007-01-23 00:36:11 | 市民A
f5f63a5e.jpg安部内閣は参院戦の争点として、「『憲法改正』を打ち出す」と、言い始めた。実際には、この内閣、あまり実行力がなく、総論ベースの掛け声は大きいが、各種の諮問委員会は、論客を集め過ぎているからか、まとまらない。そういうことで、憲法改正問題がどこに漂流していくのか、今のところ誰もわからない。とは言え、平成17年11月22日に自民党が「新憲法起草委員会」でまとめた48ページの小冊子を某自民党議員から入手。

まず、この「新憲法起草委員会」だが委員長が森喜朗(最大派閥)。事務総長が与謝野馨。前事務総長が中曽根弘文。全部で101名。元首相5名が含まれる。国会議員リストの筆頭に安部晋三の名があるが、単に、アイウエオ順だからだ。そして、この小冊子は奇妙なことに、36ページまでの最終案とは別に、参考資料として、平成17年7月7日にまとめられた「要綱・第一次素案」を参考資料として12ページを使って追加している。最終案の前の「素案」が、なぜ公開されたのかというのも妙な話なのだが、わたしの推測では、第一次案は、憲法の前文について「前文の考え方」を記載したのが中曽根康弘氏だったからかもしれない。そして、その「中曽根前文」は、最終案になって、すっぽり欠落している。中曽根弘文氏が事務局長を辞めたのは、そこに理由があるかもしれない。

つまり、現憲法と最終案と中曽根素案というのは、それぞれ、かなり異なる内容なのである。もっとも、前文には具体的意味が無いと言えばそれまでなのだが、そうでもないのだ。

まず、現行憲法の前文は、(1)国民主権であること。(2)平和主義(前文では軍備放棄は触れていない)。(3)国家独立の相互主義(あまり意味は無い)。というような内容をかなり念入りに記述している。

これに対して、中曽根素案は、(1)国の生成として、日本が独自文化を形成し、和の精神で国民統合の象徴たる天皇とともに歴史を刻んできたこと。(2)国の原理として、国民主権主義に加え、公共の福祉に尽力することを規定。(3)明治憲法、昭和憲法の歴史的意義を踏まえ、日本史上、初めて国民自ら主体的に定める憲法であることを記載。

さらに、自民党最終案では全体がきわめてあっさりと短く、(1)日本国民は、自らの意思と決意に基づき、主権者としてここに新しい憲法を制定する。(2)象徴天皇制は、これを維持する。(3)国民主権と民主主義、自由主義と基本的人権、平和主義、国際協調主義・・・と羅列した最後に地球環境を守るため、力を尽くす。といたって事務的表現である。

つまり、この自民党最終案というのは、憲法第9条と憲法第96条「憲法改正」以外は中曽根素案の骨抜きになっている。第11条の基本的人権のところでも、現憲法では、「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」となっているのに対し、自民党案では「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務を負う」とより細かくなっている。しかし、現実は、勝手に道路建設計画で道路予定地と線引きされ、私有地の資産価額が激落したり、雇用関係では学歴・性別・年齢等の差別が横行している。誤認逮捕などしょっちゅうだ。人権については、今さら何を書いても・・という極みだ。

もっとも、中曽根素案を骨抜きにしたのも無理からぬところがあり、素案には、多くの点で首をひねるような部分が多い。日本文化は明らかに中国はじめ東洋や西洋の文化の影響を受けていて「独自」とは断言できない。天皇が国民の象徴だったのはそんなに長い期間でもない。明治憲法、昭和憲法と異なり、国民が自ら定めた憲法というのも言い過ぎで、明治憲法(伊藤博文憲法と言っていい)は、かなり長い期間、欧州各国憲法の研究の結果作られたし、現行(昭和)憲法も、大日本帝国憲法の改正案という法的形式をとっている。第一、新憲法と言っても、そのほとんどの条文案は現憲法と同じであり、そんなに国民の英知とか騒ぐのは変だ。

f5f63a5e.jpgそして、問題の第9条だが、

現行憲法第1項は、「日本国民は、正義と秩序を記帳とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する。」と書かれていて、これは自民党案でも同じ。

問題は第九条の2で、現行憲法の「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」を削除し、「我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮権者とする自衛軍を保持する。」とし、以下に、活動は国会の承認(あるいはその他の統制、というのがあいまいであるが)が必要ということと、海外活動の範囲を規定する。

要するに、自衛隊を自衛軍にしようということなのだが、実際には、戦闘範囲とかあやふやなので、豊臣秀吉みたいに半島出兵でもできそうな自由度がある。


それで、個人的意見なのだが、中曽根憲法はとんでもないが、自民党案にしても、「あまり賛成できない」。何しろ、自衛隊だからと言って、交戦権がない、と思っている国民は誰もいない。むしろ、一度も実戦経験がないために、「自衛隊は強いのか弱いのか、当の本人を含め、誰もわからない」という状態にあり、これが防衛上は具合がいい。近隣国から見れば、「交戦権がない」、と言っておきながら世界有数の軍備費を支出する油断のならない国と思われている。まして、交戦権がない国が核保有の検討までしようというのだから、早い話が、日本は何をするかよくわからないと思われているはずだ。それだけで、十分に怖いし、戦争抑止力を持っている。

すでに、交戦権がないはずの国が自衛隊を持っているのに、さらに憲法改正までして海外派兵できるようにするというのでは、それは周辺国から言えば怖過ぎるのではないだろうか。それに、最近の半島情勢を見ると、いつか、「軍備拡張」の強烈な意志を世界に表明しなければならなくなる可能性だってある。その時こそ、憲法を改定しなければならないかもしれないわけだ。「強い意志」は切り札の一つとして、とっておけばいいのではないだろうか。

さらに、もし変えるにも、暫定的変更という措置で、「半島情勢の不穏な時期が解消するまで」とか単に「10年間」とか期限付き変更というのも考えたらどうなのだろう。日本国憲法が60年間変っていない「現存する世界最古の憲法」になったのは、「崇高な理想」のせいではなく、単に「日本人の淡白さ(あきっぽさ)」から来ているに違いないからだ。安保条約だって、1960年の新安保締結の時には騒いだのに、10年経った後、1年契約の自動更新になったのに、誰も議論しなくなった。いつもそうだ。

二つのデッチアゲ

2007-01-22 00:00:29 | 市民A
二つのデッチアゲがあった。まったくデタラメな国だ。
「その1.婦女暴行未遂事件(富山)」
こんな状態だ。
 
富山県警氷見署が2002年に婦女暴行事件などで逮捕し、実刑判決を受けて服役した富山県の男性(当時34歳)が無実だったことが19日わかった。

 別の婦女暴行事件などで富山地裁高岡支部で公判中の松江市西川津町、無職大津英一被告(51)が犯行を自供したもので、氷見署は同日、大津被告を婦女暴行などの容疑で再逮捕した。

 県警によると、大津被告は、2002年1月中旬、富山県西部で少女を暴行し、3月にも少女にナイフを突きつけて暴行しようとした疑い。

 氷見署は同年4月15日、当時、氷見市でタクシー運転手をしていた男性を婦女暴行未遂容疑で逮捕し、男性は富山地裁高岡支部で懲役3年の実刑判決を受け、確定した。県警は同日、男性の親族に事情を説明するとともに、謝罪の意を伝えた。

この男性は、別の婦女暴行事件で有罪で、さらにもう一つ未遂事件が加わったわけだ。こうなると、もう一つの事件の方だってどうなのか、ということになってしまう。男性にはアリバイもあり、証拠の足跡の大きさも違うということになれば、早い話が何一つ調べていないのだろう。しかし、こういう調べもしないで、調書もでたらめなのだろうが、それで有罪になるとは、警察署、検察、弁護士、裁判所のすべてが機能していないことになる。そうでなくても冤罪は多い。さらに誤認逮捕は数々である。

背景には、日本の警察は「自供主義」で「証拠主義」でないから、とはよく言われるのだが、まず、憲法38条「刑事事件における自白等」の第3項の条文を読むべきだ。


何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。

「有罪とされ、又は刑罰を科せられない」では有罪だが刑を受けないように読めてしまうが、この辺が現行憲法の怪しいところだ。英語の翻訳風だから。とりあえず、自民党の新憲法草案では、「・・・自白である場合には、有罪とされない。」と解りやすくなっている。いずれにしても、自白だけでは有罪とならない、というのは戦前の特高、憲兵の暗い時代の反省からだ。さらに、敢えて言うなら、目撃者(被害者)の証言というのも、絶対的証拠とも言い切れない。憲法に追加するなら、「客観的な証拠が必要」というように書くべきなのではないだろうか。

それに、裁判官の国民審査については最高裁だけである。これは、三審制の最後の砦が最高裁だからなのだが、現実的には地裁の判事だって怪しいのは多い。少なくても冤罪判決に関与した裁判官は、国民審査の対象にすべきだろうと言いたいところだが、そうなると裁判官達も仲間内の保身に走るのだろう。名案が必要だ。


「その2.あるある大辞典2(納豆効果捏造事件)」
例の、関西人が納豆を買い漁り、関東人が納豆を食えなくなった張本人の番組だ。「笑止千万」とはこういうことを言うのだろうが、何しろ民放の奇妙なところは、人員の配置と放送時間のアンバランスなことだ。なにしろ、NHKでもないのに、報道関係の人間が多い。報道部のフロアなんて体育館みたいだ。ところが、放送時間は短い。圧倒的に放送時間が長いのはバラエティだ。そして、社員の給料は外資系証券会社に近い高給である。今回問題になった下請け会社や孫請け会社に対して、それぞれ、3倍、5倍ほどだろう。

つまり、極めて短い報道時間帯のために高給の社員が沢山いて、極めて長いバラエティ時間帯のために、薄給の下請け、孫請けがいることになる。そして「あるある大事典2」は、その中間物なのだろう。バラエティでもなければ、報道番組でもない。そこに落とし穴があったわけだ。未だにテレビ局の社長が反省していないようだが、テレビ側は「クイズ番組と同程度の高等バラエティ」という思いなのだろう。方や、視聴者は「学術番組」と思っていたのかもしれない。NHKの「きょうの健康」とか同類と・・

しかし、決定的にテレビ局側のあてがはずれたのは、クイズ番組では、仮に、答えが間違っていたとしても、出演者がファイナルアンサーで痛い目に会うだけの話で、視聴者には実害はない。ところが、「納豆で痩せる」というのはうけ過ぎたわけだ。つい数ヶ月前も、白いんげん豆(ファセオラミン)で嘔吐事件というのがあったばかりなのに、なんといういい加減さ、ということだ。痩せたいという人の中には、美容だけでなく、肥満起源の病気をもっている人も多いだろう。

おそらく、下請け、孫請け制作会社の立場では、「納豆で痩せるという番組作ってください」と言われれば、その線でことを進めるしかないだろう。先に結論があって、後で都合のいいデータを集める。集まらなければ捏造、というなら学術番組でも何でもない。「ナット・イフェクティブ」。そういう番組を社内のフィルターにかけることもできないとなれば、まったく社員の配置ミスというしかないだろう。

ところで、「痩せるとか太るとか」いうのは、摂取カロリーと消費カロリーの差がマイナスかプラスか、ということに尽きるのだが、白いんげんは消化を抑制しようというのだから摂取カロリー抑制側の効果だ。一方、納豆は代謝促進、つまり消費カロリー増の効果ということなのだろう。テレビショッピングで登場する数あるガラクタと同類だ。納豆のいいところは、粗大ゴミにならないことだろう。そして、今回、初めて2週間連続の納豆イート修行に勤めた関西人が、今後も納豆を食べるのかどうかだろうが、まったく期待薄だろうと予測。

安宅コレクションの一部を見る

2007-01-21 00:00:35 | 美術館・博物館・工芸品
917efc03.jpg先週末、大阪に立ち寄る機会があった。大阪と言えば「魔界」である。そういう魔界的なものを取材したいとは頭をかすめたが、なにしろ部外者にとっては、ディープ・ラビリンス。新宿歌舞伎町よりも危険を感じるので、そのうち現地ガイドを探してから突入することにし、とりあえずは「うわべの文化」の方をなぞってくる。それほど時間もなかったし。

そして、実は、あまり大阪のことは知らない。平日に行くと、仕事で時間がいっぱいになり、飲んでも7時頃で慌しくお開きになる。今回は、とりあえずデイタイム1日を使って、駆け足ベースとする。本当は「海遊館」という水族館も狙っていたのだが、それだけになりそうで、ハズレだと困る。また、通天閣地下の「日本最大の将棋道場」も今は閉鎖されているはず。とりあえずは、大阪城と万博公園とあと一つ二つの美術館、と思って、思いついたのが「藤田美術館」。先日、わざわざ東京世田谷の山を登って辿りついた三菱のお宝箱である「静嘉堂文庫」では、国宝の曜変天目茶碗は展示されていなかった。世界に三客あるとされる残り二つは、京都に一客、そして大阪藤田美術館に一客ある。江戸の仇は大坂で、と秘かに地図の用意もしていた。

が、大坂城の天守閣の上から、その傍に位置する藤田美術館に電話すると、美術館自体が、春と秋の数ヶ月間だけの会館で、その他の時期は開いていない、とのことだ。次は3月開館。段々わかってきたのだが、大阪では、このように多くの美術品が数奇な運命にある。藤田美術館のホームページを見ても、画像の著作権が岡山市にあるなどと、意味不明の記載がある。岡山市がカネでも貸してHP上の画像でも担保にしているのだろうか?そして、第二候補だった、大阪市立東洋陶磁美術館に向かう(その他の立ち寄りスポットの情報はまとまり次第公開予定)。美術館は、日本の商品取引所の発祥の地とされる北浜の近く、中之島である。

前段でも書いたが、大阪にある奇妙な美術品群の一つが、この東洋陶磁美術館にある「安宅コレクション」である。1976年に破綻した総合商社安宅産業が社費を流用して収集していた東洋陶磁器一式約5000点を住友グループが大阪市に寄贈。この中型の美術館の大部分はその安宅コレクションを展示している。

安宅産業の主力銀行は住友銀行で当初は住友商事への吸収が検討されていたが、途中で話がこじれ、結局、大部分の商権と小部分の社員が伊藤忠商事に吸収される。ほんの一部はイトマンに商権委譲されるが、このイトマンもバブルの時に不明朗な美術品取引を行い、そのコレクションもどこかに「イトマンコレクション」で保管されているはず。安宅産業の整理にあたっては、美術品などの資産も一括して住友銀行が回収したのだろうが、一挙に放出すれば、美術品価格の暴落を招くため、じっと抱えていたのだろう。全部展示しようにも多すぎる。

917efc03.jpgそういうことより、市立の美術館にそっくり寄贈してしまえば、市立美術館自体が住友美術館のようなものになるのだし、維持費もかからない。「寄贈」ということの会計上の意味はよくわからないこともあるが、とりあえず気にしない。


たまたま、美術館では「梅瓶展」が開かれていた。「メイピン」と中国風に読む。平たく言えばとっくりとは逆に上が広くて下が狭い容器のことを梅瓶と呼び、実用的には酒を入れていた。と言うか早い話が日本の徳利の先祖だと思う。日本は地震が多いから下が小さいと安定を欠き、ひっくり返って大事なお酒がこぼれてしまうから、とっくりは下の方が広くなったのだろうが、学術的には、そんな説は聞かない。日本・朝鮮・中国の各種陶磁器に同様の形が見受けられる。


そして、この安宅コレクションの質の高さを見せ付けるのが朝鮮磁器である。古代朝鮮から青磁の時代になり、さらに白磁の時代がくる。きめ細かな肌のつやは世界に例をみない。一つ一つが絶品としかいえない。社費で買い込んで会社がつぶれたのも無理からぬところだ。青磁から白磁に移る過程で、「儒教的な清潔さ」で白が好まれるようになった、とは表の理由で、裏の理由としては、中国から輸出停止措置を受け、「コバルトの入手ができなくなったことによる」と説明されていた。しかし、すばらしい青磁・白磁の歴史も20世紀になり、朝鮮半島ではさっぱりだそうだ(誰のせい?)。

また、気になるのは、日本では地方地方でまったく異なる文化として、各種の陶器が独自路線で多様化していったのにもかかわらず、朝鮮半島では、同時代統一性というべき現象で、どこでも同じものを作るということになっていた。そういう国と思えばいいのだろうか。

917efc03.jpgそして、中国コレクションになると、多彩なデザインが華々しい。そして何しろ歴史が古い。10世紀より以前の作も多数展示されている。「これは敵わないな」、という諸々の中に「国宝」があった。「油滴天目茶碗」。茶碗内側の模様が油の粒のようになっている。曜変天目ジュニア版だ。時代も12世紀の南宋ということで同じだ。思わぬところで、ジラされてしまった。

そして、目が肥え過ぎてしまい、昼食のバッテラ鮨をつまみながら、各種資料を読んでみると、大阪市には「幻の市立美術館計画」があるということがよくわかった。建設予定地を入手したものの、土地の汚染問題や、文化財の発掘問題などで遅れに遅れるうちに大阪市自体が財政危機に落ち込む。それでは、建設を凍結してしまえばいいではないかということなのだが、一方に大問題がある。既に展示予定の美術品を大枚約150億円で購入済みということらしいのだ。どこかの倉庫に長期保管されているはずだが、それは防犯上の理由で明らかにされていない。やっと陽の目を見るときに、ネズミの餌になっていたということがないことを祈っておかねばならない。まあ、安宅産業とやっていることは同じようだが、大阪市を吸収合併しようという都市もないだろう。何しろ、ここの市民が手強い。エスカレーター右立ち方式を新大阪以外のすべての大阪の駅で実行している。

もっとも、東京には新国立美術館のように、美術品がなく、建物だけを建ててしまった例もあるのだから、まったくうまくいかないものだ。 

女流棋士会独立で震撼している二人

2007-01-20 00:00:34 | しょうぎ
女流棋士会が日本将棋連盟から独立して、女性棋戦を独自運営する方向で協議や検討が進んでいる。1年後の2008年スタートの予定だ。未定のことだらけなのだろうから、ここで触れることもないのだが、女子ゴルフのような形態にはなるのだろう。そして、女流棋士の中で、ことのほか窮地に追い込まれている二人の女性がいる。女流棋士の中で序列15位の植村真理女流三段と序列17位の林まゆみ女流二段である。その理由は・・・

実は、現在、ほとんどの女流棋士は組織的には二重構造になっている。棋戦を運営する日本将棋連盟が女流棋士として認定をし、さらに親睦会としての女流棋士会に所属する。二人を除いてだ。その二人が、植村さんと林さん。別に女流棋士会に所属しなくても、現在のところ対局上は問題ない。日本将棋連盟に加入しているからだ。ところが、日本将棋連盟から女性棋戦が独立し、親睦会だったはずの女流棋士会が正式な女子プロ所属団体となると、どうなるか・・・そう、自動的に失業者になってしまうわけだ。

それなら、女流棋士会に入会すればいいではないか、ということだが、そんなわけにはいかない。二人とも、会を退会したのではない。除名されたわけだ。原因は、女流棋士会の様々なイベントに協力しなかったからということだそうだ。女流棋士会のホームページ上に書かれた除名の経緯はこうだ。


植村真理三段、林まゆみ二段脱会のお知らせ (06/2/9)

 このたび、植村真理女流三段と林まゆみ二段が1月5日付で、女流棋士会を脱会いたしましたのでお知らせいたします。
 
<藤森奈津子女流棋士会会長のコメント>
 日頃より女流棋士会に多大なるご声援をいただき、まことにありがとうございます。
 現在、将棋界は大きな改革の時期であり、それと同時に大きなチャンスを迎えているとも思います。私たち女流棋士も今この時期に会員全員の意思疎通をはかり、 心をひとつにして、女流棋界発展のために一致団結していかなければと思っています。
 しかし残念ながら、実際には女流棋士会の活動に非協力的な女流棋士(女流棋士総会・親睦会に欠席、女流棋士会からの呼びかけに対しても返答なし、等)がおり、数年前から問題になっておりました。
 昨年6月の女流棋士総会において「今後もその意識が改善されない場合はなにかしらの罰則をあたえる」ことが決定し、以来役員会として文書等で本人の意思確認を行い、その取り扱いについて討議してまいりましたが、このたび、植村真理女流三段と林まゆみ女流二段を女流棋士会から脱会扱いとすることに決定いたしました。
 「女流棋士」の資格は日本将棋連盟が認めるものであり、女流棋士会は対局や女流棋士としての活動を規制する権利はございませんが、以上の決定は担当理事にも報告の上、ご了承いただきましたので皆様にもご報告いたします。
 今後とも、女流棋士会は女流棋界の発展・女流棋士の連携と棋力向上・将棋の普及を目的として活動してまいります。これまで同様のご支援を、どうぞよろしくお願い申し上げます。



そういえば、女子ゴルフでも、スコア改竄選手に対し、男子の例の5年を上回る10年の出場停止処分があったように記憶する。自民党よりカンバックが厳しいのは確かだ。






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前々週の回答は、▲4四角 △同玉 ▲5四金 △4五玉 ▲5三金 △5五(4四)玉 ▲5四角成まで7手詰。解説不要か。  



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今週の詰将棋は、やや趣向が入った「入玉、双玉、合駒、逆王手」。知人間では好評。うなぎを捕まえる要領でいいと思う。つまり、少し泳がせるということ。できたと思ったらコメント欄に最終手と手数、酷評を書いていただけば正誤判断。

鰻重捜索記

2007-01-19 00:00:09 | マーケティング
0a1a60b6.jpg虎ノ門で、よく行く「うなぎ屋」が「鉄五郎」という。「ての字」ともいうらしい。うな重の並が1000円。1000円というのはランチで言えば、いい値段だが、うなぎで言えば安いともいえる。毎日うな重を食べるわけではないので、月に1回くらいは足を運ぶのだが、ここは「全国うなぎ百撰会」という同業者組合に加入しているようで、その組合が季刊誌を発行している。雑誌の名前はまさに「うなぎ百撰」。それが結構面白い。一流執筆者に依頼しているようだし、取材もキッチリだ。その2006年秋号からの話。

この号の特集というのは、うなぎ川柳で、尾藤三柳氏というプロの川柳作家が川柳一般の奥深さを語り、その中でもうなぎを取り上げて解説するという企画。実は、江戸の川柳については別稿を予定していて、まだ書くにいたらない。その他の特集として「割り箸」について書かれていて、これは面白いと当初思っていたのだが、書かないで放置しているうちに、段々面白くなくなった。注意深く観察していると、昨今、高級店でも安っぽい箸を使っている。それにほとんどが中国製。コンビ二の箸など、使用後に食洗機に入れると、僅かな熱でひん曲がったり、縮んだりしてしまう。曲がった箸では正しく握る術もない。

ところが、読み直しているうちに、別に興味を惹くコラムがあった。作家でフランス文学者である鹿島茂氏が寄稿した「あまからの美学」。美味いうなぎ屋の話だ。要するにたいていのうなぎ屋はタレが甘いか辛いかどちらかで、偏っている。飯粒も硬いか柔らかいかどちらかだ。この中間の「辛くもなく甘くもなく、硬くもなく柔らかくもなく」といううなぎ屋を見つけたという話だ。

それでは、そんな美味いうなぎ屋には直ぐに行かねばならないのだが、少し問題がある。鹿島氏はその店名を明らかにしていない。神田神保町のさくら通りの店という書き方だ。どうも百撰会じゃないようなのだ。そりゃまずいだろう。百撰会メンバーの店で読んだ季刊誌を元に、未加入の店に行く。まあ、客の側には無関係だ。

そして、もう一つの手がかりは、うな重の値段。並が1600円、上が1900円、特上が2200円となっている。高めだ。鹿島氏自体も、この値段について、大きな不安を感じていて、いつも店の前を逡巡していたらしい(しかし、1600円のうな重で不安を感じるような方が、本誌に寄稿などしていいのだろうか?)。しかし、意を決し、入店の上、「並」を注文したそうだ。

つまり探す手がかりは、”さくら通り”と”うな重の値段”。

0a1a60b6.jpg神保町のさくら通りは、古書店街の一本裏道で、竹橋側から岩波ホールのところまで、そこから先はすずらん通り。意外に短い。そしてはじから歩くと、クラシックな店構えのうなぎ屋がある。近代的ガラスの虚構のような集英社ビルの前だ。その名も「今荘」。蒲焼の匂いが漂う。いかにもだが、最大の問題は入口ののれんの左に、紙が張ってある。「うな重 1800円(きも吸付き)」。価格情報と一致しない。まあ、細かな差異はよくあるものだから可能性は捨てがたい。とりあえず、記憶に留め、さらに進む。

すると、岩波に近い方、コンビニの隣にペンシルビルがある。ガラスの二重ドアになっていて、奥に店舗がある。入りにくい雰囲気だが、店頭にある定価表を見ると、1600→1900→2200の三段跳び単価が書かれている。店の名は「なかや」。ここだ。店名からして中間的な微妙な味がイメージされる。鹿島先生と同様に、意を決し、なんとなく入りにくい二重構造のドアを突破して突入する。空いている二人席に一人で座り、注文するのだが、「重の並」と恥ずかしくもなく言ってしまう。

その後、徐々に店の状況がわかるのだが、注文も人様々だ。「いつもの」という人もいる。「普通の」という人もいる。昼から酒の人もいる。きも焼きなんか注文している。どうも出版関係のようだ。年配の方の多くは「特上」を注文している。こういう方々の預金通帳には、1,000,000,000円とか書かれているのだろう。そして、たいていの人は一人で来る。だから店内は静かで、テレビからバラバラ殺人のニュースの声が聞こえる。

0a1a60b6.jpgそして、待つことしばし、ついに並がくる。

評価なのだが、甘くもなく辛くもなく、ということもない。うなぎはやや辛く、飯粒は逆にやや甘い。鉄五郎とは反対パターンだ。そして、気が付いたのだが。私の重にはキモ吸がついてない。キモ吸は300円なので、要は、並と上の差はキモ吸の有無によるということだ。特上は質の差なのか量の差なのかよくわからない。となると、さっきスルーした「今荘」も気になる。1800円キモ吸付きだ。またいずれ、ということにしておく。

そして、帰りに岩波書店の直売店をのぞく。岩波文庫の昭和7年の第一回配本全23巻21000円セットを冷やかす。岩波文庫といえば、昨年、ある作家が亡くなったことにより、文庫のすべての作家が冥界入りしたそうだ。あと50年後にはすべての著作権は消失し、岩波書店は大儲けになる(はずないか)。  

スクリャービンと悪魔

2007-01-18 00:00:54 | 音楽(クラシック音楽他)
d7850fe4.jpg少し前の日の昼過ぎに、ある取引先の年配役員の方から、「ちょっと来ない?」と声がかかる。「まさか不吉な話では・・・」と、契約書の解約期限とか確かめてから先方に着くと、「ちょっと行きましょう」ということになる。行き先はNHK放送博物館。愛宕山にある。地上からはエレベーターである。あっという間に愛宕山ホールという録音用のホールに連れて行かれて、「土屋圭子ピアノリサイタル」に付き合うことになる。要するに、クラシック好きの1時間サボる口実のダシになったわけだ。

さて、土屋圭子さんはスクリャービン弾きで有名で、当日の演目はスクリャービン特集だったらしいというのだが、違った。モーツアルト、リスト、ショパン、スタンバーグ、ヨハン・シュトラウスと並んで、そのうち一つがスクリャービンということで、どうもラジオ放送用の録音会だったようで、小品を並べたようだ。そして、いずれの作曲家からも、あまり演奏される機会の少ない珍しい曲をそろえたということ。確かに、聴き覚えのない曲ばかりだった。どうも土屋圭子さんは発掘作業が好みのようである。

そして、オハコのスクリャービンは「24のプレリュードより(OP11-1~6)」ということで、なんだか、ややこしい調べである。ラフマニノフのようであり、またリストのようでもあり、初めて聞くものを拒むような爬虫類的な肌の冷たさもあり、「宇宙人」ということばが浮かぶ。そして、元アナウンサーである博物館長と土屋さんのトークの中で、この曲はスクリャービン初期の作で、これからどんどん神秘主義に突き進んでいく、というようなことが語られていた。さらに神秘的になるというのはどういうことかとちょっと興味を持つ。いずれにしても、突然にスクリャービンでは心の準備ができていなかった。

そして、後日、スクリャービンのことを調べると、1872年生まれのロシア人。父親は外交官である。ところがいきなりの不幸で母親を産褥熱で亡くす。母親替りになったのは伯母さんだったそうだ。(父親が再婚したのかどうか、とか余計なことは調べてないので、こども時代のことは割愛)

そして、ピアノの才能を見出され、1888年にモスクワ音楽院に入学。1歳年下のラフマニノフと同級生だった。そして、この二人の大音楽家はピアノと作曲で競い合う。人読んで「作曲のラフマニノフ、ピアノのスクリャービン」といわれたそうである。

しかし、よきライバル関係に致命的な問題が発生する。スクリャービンの右手首の故障である。よく、会社でも「海外事業のA、国内事業のB」とか言われているライバルの片方が、胃潰瘍で入院したりして失脚の穴に落ちることがあるように、スクリャービンの右手は鉛のようになってしまった。

ところが、ここからが、スクリャービンの根性で、左手を鍛えはじめたわけだ。そして左手の難解な曲を多数作曲する。どこかで聞いたことのある話と思う人は、「巨人の星」のことを思い出したはずだ。(将棋の世界でも、指し将棋が弱くなって、詰将棋の世界に転進して、「双玉、入玉、合駒、逆王手」などの難解手筋を乱発する人もいる)

その後、彼は、駆け落ち生活をしたり、精神生活にのめり込んだりして、徐々に難解な神秘主義に向かっていく。1900年頃までが初期、1905年頃までが中期、そして1915年に唇の虫刺されが原因で発熱して急死するまでが後期ということになっている。愛宕山ホールで聴いたのは前期の作だ。1915年に亡くなった彼は知らないのだが、2年後のロシア革命を逃れたラフマニノフは米国へ逃走し、1943年、ビバリーヒルズで亡くなる。

そして、ここまでの中で、いくつかの事実に気がついたのである。まず、ラフマニノフと競って右手を故障した件なのだが、スクリャービンの手は、非常に小さかったようなのだ。親指と小指のスパンが1オクターブなかったということらしい。これが、無理をした直接的原因とされるのだが、片やラフマニノフの手は異常に大きかったそうである。遺伝的問題があったようだ。指を広げると1.5オクターブ(ドから次の次のソまで)ほどあったそうだ。スパイダーマンだ。そこが、スクリャービンの落とし穴だったわけだ。そして、唇の虫刺されが化膿して亡くなったことは、もしかして、彼のお産の時に亡くなった母親の体質との関連があるのではないか、とは私の疑念。

d7850fe4.jpgさて、話を進めると、その後、私は、ただでさえ難解なスクリャービンの後期作品を聴くために、ホロヴィッツのリサイタルのCDを聞くことにした。もちろんホロヴィッツもスクリャービンに負けず劣らぬ難解な悪魔。一度聴いた感じは、「音楽とは思えない」というような感想。「黒魔術のバックグラウンド演奏」ということ。特に、スクリャービン最晩年の詩曲「焔に向かって(OP.72)」は、悪魔と人間の戦いを、悪魔側の立場で作曲し、悪魔の跋扈する情景をホロヴィッツが楽しそうに吼えているような印象を与える。「あな恐ろしきは二匹の悪魔かな」。

ところが、この旋律のどこかに、聞き覚えのある感覚が残るのである。それは、滝廉太郎が結核で死す直前、ドイツから帰国直後に発表した「憾(うらみ)」というピアノ曲である。彼が1901年、22歳からの1年を過ごしたのはドイツ・ライプツィッヒ王立音楽院。メンデルスゾーンが創立者である。この1年の間に、滝はスクリャービンの音楽に触れたのであろうか?