日米交換船について、鶴見俊輔氏他の著書とともに、日本郵船の作成した小冊子を読む。交換船や引揚船や病院船などの多くは日本郵船の所有船または所属船が行っていて、結局、多くの船員犠牲者を出している。当時の大株主が皇室であったことから避けがたいことではあったが、現在の日本郵船は当時の反省として、経営者も船員も軍国化には反対している。
本冊子は、船会社らしく、交換船の航路や日程などから論を進めている。まず、開戦直前の状況だが、欧州ではすでに英国を中心とする連合軍とドイツ+イタリアを中心としたファシズム国家の戦いが始まっていた。まだ中立国だった日本は、欧州にいる日本人が戦渦に巻き込まれないように日本への引揚船を準備していた。それが「箱根丸」や「鹿島丸」だった。後にノーベル賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一郎もこの時に英国から帰還している。
同様に北米に対しても開戦間近の時に第一次引揚船として「龍田丸」「氷川丸」「大洋丸」があてられた。この際、「龍田丸」が潮流に流されたという理由でハワイ近くを航海したことが後の真珠湾攻撃の下見であったことがあきらかになっている。
そして問題の第二次引揚船。鶴見著によれば、この第二次引揚船で、なるべく多くの日本人を引き揚げるために、公使館から在米邦人一人一人に、手紙が届けられたそうだ。かなり強い要求があったものの、当時は開戦前夜であり、日本より米国の方がいいから米国にいるのだから日本に帰らない人が多かった。そもそも日本で食えないから米国に行く人もいるわけだ。
ところが、第二次引揚船にあたった龍田丸だが、船長だけは真の目的を知っていた。1941年11月20日の出航予定がずるずると遅れ、12月2日に出航し、なぜかハワイ方面に向かっていた。民間船がハワイに行くのだから攻撃はないだろうと思わせて、真珠湾攻撃を知ったとたんにフルスピードで横浜にUターンした。偽装航海であり、米国での積極的な帰還勧誘もすべて偽装工作に仕組まれていたわけだ。
そして開戦。短期間で邦人の逮捕と収容所送りになったのは、米国が前から準備していたのだろう。
日本が用意したのは、浅間丸とコンテ・ヴェルデ号の2隻。米国は大型のグリップス・ホルム号。
日本の2船は横浜・上海・香港・サイゴン・シンガポールをそれぞれ分担して経由し、南アフリカのポルトガル領のロレンソ・マルケスに向かう。米国側はニューヨークとリオ・デ・ジャネイロを経由してロレンソ・マルケスへ。
実は、第一次日米交換船のことは少しずつ解明されているが日英交換船や第二次日米交換船については詳細は不詳だ。ただし、気がかりは日英交換船で、日本に向かう途中のシンガポールで多くの人が下船し、そのまま、兵士として徴用され、南方で戦い、そのまま亡くなっているようだ。日本の土を踏む前にだ。
なんとなく、これほど多くの人の人生を捻じ曲げても、「戦争という大事」の前の「小事」ということになるのだろうかと強く思うわけだ。日本側が特に強く交換船を言い出したのは、帰還者の兵力化としての価値からではなかったのかという疑いは僅かに感じられる。
本冊子は、船会社らしく、交換船の航路や日程などから論を進めている。まず、開戦直前の状況だが、欧州ではすでに英国を中心とする連合軍とドイツ+イタリアを中心としたファシズム国家の戦いが始まっていた。まだ中立国だった日本は、欧州にいる日本人が戦渦に巻き込まれないように日本への引揚船を準備していた。それが「箱根丸」や「鹿島丸」だった。後にノーベル賞を受賞した湯川秀樹や朝永振一郎もこの時に英国から帰還している。
同様に北米に対しても開戦間近の時に第一次引揚船として「龍田丸」「氷川丸」「大洋丸」があてられた。この際、「龍田丸」が潮流に流されたという理由でハワイ近くを航海したことが後の真珠湾攻撃の下見であったことがあきらかになっている。
そして問題の第二次引揚船。鶴見著によれば、この第二次引揚船で、なるべく多くの日本人を引き揚げるために、公使館から在米邦人一人一人に、手紙が届けられたそうだ。かなり強い要求があったものの、当時は開戦前夜であり、日本より米国の方がいいから米国にいるのだから日本に帰らない人が多かった。そもそも日本で食えないから米国に行く人もいるわけだ。
ところが、第二次引揚船にあたった龍田丸だが、船長だけは真の目的を知っていた。1941年11月20日の出航予定がずるずると遅れ、12月2日に出航し、なぜかハワイ方面に向かっていた。民間船がハワイに行くのだから攻撃はないだろうと思わせて、真珠湾攻撃を知ったとたんにフルスピードで横浜にUターンした。偽装航海であり、米国での積極的な帰還勧誘もすべて偽装工作に仕組まれていたわけだ。
そして開戦。短期間で邦人の逮捕と収容所送りになったのは、米国が前から準備していたのだろう。
日本が用意したのは、浅間丸とコンテ・ヴェルデ号の2隻。米国は大型のグリップス・ホルム号。
日本の2船は横浜・上海・香港・サイゴン・シンガポールをそれぞれ分担して経由し、南アフリカのポルトガル領のロレンソ・マルケスに向かう。米国側はニューヨークとリオ・デ・ジャネイロを経由してロレンソ・マルケスへ。
実は、第一次日米交換船のことは少しずつ解明されているが日英交換船や第二次日米交換船については詳細は不詳だ。ただし、気がかりは日英交換船で、日本に向かう途中のシンガポールで多くの人が下船し、そのまま、兵士として徴用され、南方で戦い、そのまま亡くなっているようだ。日本の土を踏む前にだ。
なんとなく、これほど多くの人の人生を捻じ曲げても、「戦争という大事」の前の「小事」ということになるのだろうかと強く思うわけだ。日本側が特に強く交換船を言い出したのは、帰還者の兵力化としての価値からではなかったのかという疑いは僅かに感じられる。