誇り高き京都人を見下ろす場所として、かつてより有名なのは清水寺で、清水の舞台からパラシュートなしで飛び降りたつもりで都知事になった女性もいたが、この清水寺ブランドを脅かそうと整備されたのが、将軍塚青龍殿である。場所は南禅寺などのある蹴上(けあげ)から裏山を登っていくのだが公共交通機関が乏しく、今のところ外国人や東国からの田舎者には行きにくい場所である。京阪バスが週末と11月全日に細々とバスを運行しているが、京都駅付近には近づかない。
そして、10月の終わりの週末にやっと攻略の機会があったのだが、あいにく台風到来の前日であり、雨は激しく降ったり、つかの間上がったり。
ということで、雨に霞む京都を眺めることになったのだが、まず「将軍塚青龍殿」というのは、二つの単語「将軍塚」と「青龍殿」からなり、別の物である。
青龍殿というのは、この近くにある青蓮院という天台宗延暦寺を開くために作られた住房「青蓮坊」が起源の名刹の飛び地境内に、新たに落慶したのが平成26年10月。ここからの景観や夜景がビューティフル!ということで観光地となった。(もともと、観光地にするために建てたと思われてもしょうがないだろう。)
一方、将軍塚と言うのは、桓武天皇が奈良の寺院権威から政治的独立性を求めて、長岡京を経て新都として山城国のこの場所に遷都した際に、新都を一望できる場所に、京の守護として「将軍の姿の像に鎧兜を身に付けさせ、ここに塚を立てて埋めた」とされる。
よく、桓武天皇と初代征夷大将軍の坂上田村麻呂が、この場所に立って軍事的観点で「ここらにしまへんか」となったとも言われるが、天皇が相談したのは和気清麻呂というのが正しいようだ。それなら、塚に入っているのは坂上田村麻呂ではないかというと、彼は塚ができた後も生存して、別の場所に墓がある。
しかし、桓武天皇と言うのは周囲に空海も含めて様々な人を集めていて、奥様も半島の人だし同時代の中ではかなり異質な人間のような感じがある。お友達政治の元祖ということだろうか。
そして雨の中、京阪バスは予定時間を約5分遅れて、目的地に到着。眼下に広がる光景は、雨でよく見えないが、鴨川の流れが見えれば、もうそれでよしということだろう。市街の周囲は険しくはないが山に囲まれ盆地状である。72年前、米国が原爆投下候補都市5か所を選定していた時、その中に含まれていたことを思い出した。
そして、10月の終わりの週末にやっと攻略の機会があったのだが、あいにく台風到来の前日であり、雨は激しく降ったり、つかの間上がったり。
ということで、雨に霞む京都を眺めることになったのだが、まず「将軍塚青龍殿」というのは、二つの単語「将軍塚」と「青龍殿」からなり、別の物である。
青龍殿というのは、この近くにある青蓮院という天台宗延暦寺を開くために作られた住房「青蓮坊」が起源の名刹の飛び地境内に、新たに落慶したのが平成26年10月。ここからの景観や夜景がビューティフル!ということで観光地となった。(もともと、観光地にするために建てたと思われてもしょうがないだろう。)
一方、将軍塚と言うのは、桓武天皇が奈良の寺院権威から政治的独立性を求めて、長岡京を経て新都として山城国のこの場所に遷都した際に、新都を一望できる場所に、京の守護として「将軍の姿の像に鎧兜を身に付けさせ、ここに塚を立てて埋めた」とされる。
よく、桓武天皇と初代征夷大将軍の坂上田村麻呂が、この場所に立って軍事的観点で「ここらにしまへんか」となったとも言われるが、天皇が相談したのは和気清麻呂というのが正しいようだ。それなら、塚に入っているのは坂上田村麻呂ではないかというと、彼は塚ができた後も生存して、別の場所に墓がある。
しかし、桓武天皇と言うのは周囲に空海も含めて様々な人を集めていて、奥様も半島の人だし同時代の中ではかなり異質な人間のような感じがある。お友達政治の元祖ということだろうか。
そして雨の中、京阪バスは予定時間を約5分遅れて、目的地に到着。眼下に広がる光景は、雨でよく見えないが、鴨川の流れが見えれば、もうそれでよしということだろう。市街の周囲は険しくはないが山に囲まれ盆地状である。72年前、米国が原爆投下候補都市5か所を選定していた時、その中に含まれていたことを思い出した。