耐震強度疑惑の深さ

2007-01-25 21:24:15 | 市民A
先日、弊ブログ2006年11月12月号「西武の売り物」で、千葉市幕張でプリンスホテルが手放した高層ホテルをAPAグループが買い取り、改装。目付きの悪い用心棒のような社員に恫喝された話を書いたのだが、やっと天罰が下りた。京都の二つのホテルでの耐震強度偽装が発覚!

実は、現在、閉鎖中のホームページで以前読んだのだが、イーホームズの藤田東吾社長からの、「APAホテルでも強度偽装が行われているのに、再調査しないのは政治的圧力があるからだ」という旨の発表に対して、ホテル側は強く否定していたのだったが、政治的圧力をかけようにも物理的圧力にホテルが耐えられないのでは、隠しおおせるはずもない。政治的圧力というのが、グループの会長である元谷外志雄氏が現総理の後援会副会長であることを指すのか、あるいはグループが強く応援する地元石川県選出の馳浩氏のことかはよくわからない。なお、馳氏は、高見順の娘である高見恭子の夫であるのも先日の2006年12月29日「高見順のこと」で触れたが、一見、関係ない自分の記事があれこれ関係していたのを知るのは気持ちがいいものでもない。

そして、APAといえば、ビジネスホテル業界では東横インを追いかける最有力企業。かたや東横インは、客室数偽装事件(身障者用の客室や駐車場スペースを一般客室に改造)を起こしたのは記憶に新しいのだが、どちらもコストダウンのための違法行為とは言っても、「客室数をごまかすこと」と「ホテルの耐震強度をごまかすこと」とは、とても同列に並べることはできないのは自明だ。

もしも、APA自体が係わっていたとするなら、急拡張しているチェーンの全建物について、ホテル側に意図的に偽装行為があったのかが問題になるのだろうが(そしてもちろん強度不足のホテルの営業は停止になるだろう)、不二家の事件もそうだが、どうして一発見つかると即会社がつぶれるような巨大な企業犯罪を犯すのだろうか。幕張のホテルにしても高層ホテルの3フロアを海の見える共同浴場に改装したらしいのだが、強度は大丈夫なのだろうか。水は意外に重い。地震の時にガラスの割れた高層階から、お湯と一緒に地上に落下するのは、御免だろう。

建物の方は、耐震強度が不足していても、震度5程度までは耐えうるのだろうが、会社経営の方を揺るがしているのは震度10の大地震なのだろう。ホテルの用心棒はいても、会社には用心棒がいなかったのだろう。

ラフマニノフもまた苦闘人生だった

2007-01-25 00:00:24 | 音楽(クラシック音楽他)
80b93318.jpgフィギュア・スケートで選曲に困ると登場するのがラフマニノフである。特にピアノ協奏曲第二番と第三番は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番と並ぶ前ロシア最後を飾る名曲である。また、ラフマニノフの曲は、いきなり地上1メートルに浮き上がるような不安定な最初の一小節で、すぐに彼の作とわかる特徴を持つ。先週、スクリャービンについて、モスクワ音楽院の同級生のラフマニノフと張りあったことに無理があった、と書いたのだが、ついでに伝記ラフマニノフ(ニコライ・バジャーノフ)を読む。463ページでニ段組の大著。新幹線の車中、5時間ほどかける。

まず、この伝記を書いたバジャーノフさんだが、すでに1985年に86歳で亡くなられている。ベラルーシ出身だがソ連からの独立を待つことができなかった。本著は元々、1933年に第一版が出版され、1966年に第二版になっている。この第二版を元に2003年に日本語版が翻訳されている。ラフマニノフ本人は1943年3月28日に70歳まであと4日、肺病のためビバリーヒルズで亡くなる。本著の中で、生前、自分の許可なくでたらめな自伝が出版されそうになり、発行直前に気付き、部分的には修正したものの、かなり違っていると言っていたそうだから、おそらく本著もそのラフマニノフが筆を入れた、若干事実と違う自伝の影響を受けているものと思われる。ただ、大きな人生の流れとしては、正しいのだろうと考える。


まず、こども時代から、彼の運命は翻弄される。ノヴゴロド州の貴族階級に生まれたのだが、9歳の時、家は破産。土地や屋敷を失い、ロシア北部の都市ペテルブルグに移住。まもなく、父は家を出て行く。母子家庭である。(スクリャービンは自らが産まれる時に母を亡くしている。)ただし、ラフマニノフの母方の祖母は教育熱心で、音楽の英才教育を続ける。何しろ、既に5歳の頃から、ベートーベンやショパンのピアノ曲を即興で編曲して弾いていたそうだ。普通の人が聴くと、原曲がわからないほどの腕前だったそうだ。そして、ペテルブルグ音楽院幼年クラスを経て、モスクワ音楽院に入学。

ここで、スクリャービンと同級生になるのだが、伝記では学校時代の二人のライバル関係については触れられていない。ラフマニノフから見れば、スクリャービンとは芸術観が合わず、付き合いはしても、音楽上の影響はないということらしい。そして、この音楽院在学中に作曲とピアノ演奏の二本立て人生が始まる。後年、指揮も行っている。ピアノ協奏曲は有名な2、3番だけでなく1番と4番もすばらしいが、1番は18歳の時、作曲。そして、音楽院を卒業する19歳、1892年に最初の大仕事を行う。プーシキン原作「アレコ」の歌劇化に伴い、卒業制作として「オペラ・アレコ」を作曲。審査員のチャイコフスキーを泣いて喜ばせる。チャイコフスキーはロシア最高の芸術家であり、このお褒めの言葉がラフマニノフの自信を深めることになる。しかし、チャイコフスキーは喜び過ぎたからかどうかわからないが、翌年急死する。


80b93318.jpgそして、彼の音楽はほとんどが前例のないメロディの連続であり、発表時は酷評されている。もちろん、彼はガックリだ。当時から、ピアニストとしての評価が高く、ほとんどの収入は演奏会からのものだった。ベートーベンやリストの曲に混ぜ、1曲だけ、自分の作曲を混ぜて弾いていたそうだ。


以前聞いた話では、ピアノ協奏曲第3番は「鬱病で入院のあと退院した時」に作曲されたというのだったが、雑用に追われ、多忙で神経を消耗して短期間入院したように書かれている(真偽不明)。事実、第一次大戦開戦直前に、アメリカ、英国、フランス、イタリアと演奏旅行を敢行している。そして、ロシア革命を避けるように、家族でロシア脱出。スウェーデン経由で米国ニューヨークへ。そして米国を中心に作曲・演奏活動を続け、53歳でピアノ協奏曲第4番、63歳で彼の作曲家としての頂点と言われる交響曲第3番。そして68歳で第二次大戦開戦。その頃から胸を病み、演奏会でもピアノ演奏終了後、立ち上がれずにそのまま幕を下ろして、関係者が抱きかかえるような状態だったそうだ。

そして、転地療法で暖かいカリフォルニア、ビヴァリーヒルズへ移る。入院中も、ピアノが弾けなくなることをもっとも恐れ、音の出ない紙の鍵盤の上で指を動かす練習を続けていたそうだ。


そして、本著は感動的に幕を閉じるのだが、実は、大きなひっかかりがあったのは、モスクワ音楽院卒業制作の「オペラ・アレコ」の件。

本ブログでも前に書いたのだが、昨年、オープンした青森県立美術館が県民の非難を浴びながら大枚15億で購入した美術品が「アレコの背景幕」。シャガール作。このアレコは1942年に米国で演じられたのだが、4幕物の1幕ずつに背景に幕が使われ、こちらも米国亡命中のシャガールが手がけたもので、オペラの作曲はチャイコフスキーということになっていた(4幕うち3幕は青森県立美術館が購入し、1幕はフィラディルフィア美術館が死守している)。ということは、チャイコフスキーが盗作でもしたかのようだが、どうも元のアレコの初演は1893年だが、現代版アレコに作り直したらしく、音楽はチャイコフスキーの曲を編曲したものを使っているようだ。

しかし、現代版アレコが演じられたのが1942年とすれば、ラフマニノフの亡くなる1年前である。ラフマニノフは自分の曲が封印されてしまったことについて、どう思ったのだろうか。案外、それでガックリして冥界入りしまったのではないだろうか。この件は、伝記にはまったくか書かれていない。謎は尽きることがない。オペラ・アレコの新旧比較でもしなければとDVDを探さなければ・・