津和野観光の中心は殿町通りといって、津和野藩の家老職など上級武士の館が並んだ町並みで、堀河には大きな鯉が泳いでいる。津和野出身の有名人といえば、明治時代には森鷗外外(文豪)、西周(哲学者)が双璧で、昭和・平成でいうと画家の安野光雅氏ということになる。時間の関係で、今回は殿町通りの東側の安藤忠雄氏設計の安野光雅美術館には寄らずに西側の森鷗外関係の旧跡の方へ行った。
ただし、森鷗外(本名森林太郎)が津和野にいたのは10歳まで。藩医の家に生まれるも、御維新により藩は解体。漢方医を続けるわけにもいかず、家族で東京へ上る。これをもって故郷を捨てたとは言わないだろう。そして天才少年は11歳にして、東京大学医学部予科に入学。規定の3年を経て、医学部本科に14歳11か月で進学する。これは東大入学最年少記録だそうだ。というのも、予科受験の時に年齢を2歳年上に偽っていたためだ。また規定の5年間の就学の結果、卒業時の年齢も最年少記録だそうだ。年齢詐称はカンニングよりずっと罪が軽かったのだろう。
旧宅が残っていて庭先から室内を見ることができる。六畳間×2、四畳半×2、四畳×1の5部屋に台所とトイレと風呂ということで5Kということかな。ただし、畳のサイズを庭側から指尺で計測したところ、関東で普通の江戸間サイズより一回り大きいので、江戸間の部屋より2割ほど大きいと思う。百年以上経っているため、生活感は残っていない。
そして、10歳までの津和野生活で学びの場になっていたのは、津和野藩の藩校の養老館。邸内の庭に、森鷗外の遺言の碑が建てられている。遺言といってもお金の分配といった低俗なものではなく、「石見人として死ぬ」とか「墓には余計な事を書かず、森林太郎の墓とだけ書け」とか「陸軍軍医として後日、顕彰の話があっても断る」というような内容だ。
この森鷗外を尊敬する人たちの中に、同じ津和野出身の画家、安野光雅氏がいる。薄い色彩と軽いタッチの水彩画で有名だが、2011年に、森鷗外訳アンデルセン原作『即興詩人』を口語訳している(山川出版社)。600ページの大著で、重たい本なのでデスクトップパソコンの振動防止用の重しに使っていたのだが、PCを買い替えたところハードディスクではなく記憶媒体がSSDになったために振動がなくなり、再び書棚に戻っていた。
そもそも、鷗外が現代人から敬遠されているのは、かなりの作品が「擬古文」で書かれていること。他の鷗外作品も口語体に書き直していただければありがたいが、すでに別世界に旅行中となっている。
即興詩人の書き出し
(森鷗外訳)
羅馬に往きしことある人はピアツツア、バルベリイニを知りたるべし。こは貝殼持てるトリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井ある、大なる廣こうぢの名なり。
(安野光雅口語訳)
ローマへ行ったことのある方は、きっとバルベリーニ広場にも行かれたことがあるだろう。そこには、ギリシャ神話に出てくる海神トリトンがホラ貝を吹いているところをかたどった噴水が水を噴き出しているのを見られたに違いない。
実際には、本作品はアンデルセンによってデンマーク語で書かれ、ドイツ語に翻訳され、さらに擬古文になり、さらに口語訳になったということで原文からどれだけ離れているのかは知る人ぞ知るということだろうか。