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江の島、海の三景

2025-04-21 00:00:20 | たび
江戸時代から観光地だった江の島を題材にした浮世絵として有名なのは、歌麿の『風流四季の遊 弥生の江之島詣』、広重の『相州江之嶋弁財天開帳参詣群衆之図』、北斎の『富岳三十六景 相州江之嶌』と三巨人がそろい踏みになるが、「弥生の江之島」は春の江の島に向かう二人の美人画だが、広重・北斎の江の島は、島を陸側から見る構図になっている。

ところが、現代の江の島だが、島から見た海が絵になる。

まず、三浦半島方向のヨットハーバー。遠く三浦半島の西側が続く。




次に、「山二つ」と言われる場所からのぞき込むような南の海。こういう地形がどうやってできるのか、見当がつかない。




三つめは岩屋がある海岸から南に向かっての海景。



南の方に何があるかというと、まず伊豆大島がある。そこから南に行くと、ニューギニアになり、次は豪州。その先は南極になる。

江の島へ

2025-04-17 00:00:15 | たび
暖かくなったので、江の島に行く。ちょっとした目的があった。江の島は、島なのだが、橋があり、なんとなく陸続きに思えるが島の反対側までの渡し船も運航している。実際には、帰りに乗る心つもりだったが、帰るころには波が出てきて欠航になってしまった。



対岸(つまり本土側)の水族館には何度も来ているが、もしかしたら幼少期に来てから橋を渡ったことがなかったかもしれない。

基本的には観光地で、高いところにはシーキャンドルと呼ばれる展望灯台がある。江戸時代の江戸っ子の旅行先として、まず伊勢原の大山神社に行き、帰りに江の島と鎌倉を回るというのが黄金コースだった。今は鎌倉と江の島をセットにする人もいる。江ノ電利用ということ。



交通手段は、鎌倉と藤沢を結ぶ江ノ電の江ノ電江ノ島駅と小田急線の藤沢からくる片瀬江ノ島駅、そして大船からの湘南モノレールの終点の湘南江の島駅の三駅がある。駅としては小田急の駅が奇抜なデザインだろうか。モノレールだけが「江の島」で江ノ電と小田急は「江ノ島」となっている。

(そういえば、東急線には「溝の口」という駅があるが、JRの方は「武蔵溝ノ口」となり、実際の地名は溝口となっている。)

萩で維新のことを考える

2025-03-04 00:00:15 | たび
以前、萩に行った時は、松下村塾と萩城だけ観たのだが、今回は武家屋敷(中流武士)。長州藩は関ケ原で西軍に属したため江戸からかなり遠い場所に幽閉された恨みで倒幕運動の中心になったとされているが、それよりも松下村塾という狭い萩のさらに山に囲まれた視界不良の土地で、世界の情勢を考えたという点が、心に残っていた。



ペリー来寇以降、幕末の日本は、揺れに揺れてそれぞれの勢力が朝令暮改のように思想を変えながら進むのだが、わかりやすく考えれば、4つのチームと考えればわかりやすい。
A:江戸幕府
B:朝廷
C:長州藩
D:薩摩藩

それぞれの中に武闘派と慎重派がいて、4派が内部抗争をしながら、組み合わせを変えて争ったわけだ。このほかにも脇役として水戸藩というのがあるが、途中消滅してしまう。



高杉晋作の生家を見学したが、他藩の武家屋敷よりも広いように思えた。貧乏な藩ではなかったのだろう。



長州藩といえば、高杉晋作、久坂玄端、桂小五郎、井上馨、伊藤博文といった人物が列挙されるが、どうも高杉晋作が一番人気のようだ。意外に久坂玄端の銅像も勇ましいが、蛤御門の変(禁門の変)という歴史の逆流時の戦いで朝敵とされ戦死してしまう。

萩の雛飾り

2025-03-03 00:00:10 | たび
萩といえば、長州藩の城下町。かつて訪れた時は、城と松陰神社および松下村塾の見学をしただけだったので、今回は家臣の家や商家の見学も行う。まず、萩名物の一つである雛飾り。

いくつかのスポットがあるが、久保田家の雛飾りをみて、驚いた。



江戸時代は豪商だったそうで、いくつかの大広間にずらりと雛飾りが並ぶ。



雛人形は七段飾りで15人のキャストによって成り立つ。



人形の衣類はいかにも平安調であるから最上段の二人は、天皇と皇后ということになるのだろうが、天皇は常に一人だが、皇后の他に中宮とか女御とか多くの女性に囲まれていたし、次の段の女官は天皇の世話をしていたのか皇后の世話をしていたのかとか、そもそも雛飾りの風習は日本中に広まっているのに、起源についてははっきりしないようなのも、はっきりしないらしい。


しかし、人形四百体に囲まれると、怖い。


角島大橋は日本海の南端なのか

2025-02-27 00:00:04 | たび
角島大橋は下関市の東端から沖合の角島を結ぶ架橋。なかなか趣がある橋だ。横から見るとカーブがあるように見えるが、それ程曲がっているわけではない。目の錯覚だろう。



説明書きではこの橋の(島に向かって)右側が日本海で、左側が響灘で橋の左のところで海の色が変わっていて干満の海面差があるということなのだが、

少し違和感があったのは、響灘という言い方。関門海峡の北西部の呼称だが、といって、東シナ海とは違うような気もする。



ということで調べると、国際海峡協会の取り決めだと日本海の北限は樺太北部の間宮海峡(日本人のほとんどのルーツは、この海峡が大陸と陸続きだった時に何らかの理由で逃げ込んだようだ)。東限は津軽海峡の東側。南側は長崎県の五島列島と韓国の済州島を結ぶラインだそうだ。

とはいえ、日本では便宜的に関門海峡より南の方を日本海とは呼んでいないそうだ。とはいえ南シナ海でもないだろうし。どこかに線を引くなら、対馬のところで日本海と東シナ海のラインを置くのがいいのではないだろうか。

島への橋というのは実は優雅な形が多く、私の実体験では、沖縄本島と古宇利島を結ぶ古宇利大橋や能登島大橋がいい。特に古宇利大橋は街路灯が少ないのが美観的にいい。

沖縄には、その他にも瀬底大橋がある。また宮古島と伊良部島を結ぶ伊良部大橋は無料の橋としては日本で最長らしいし、美観上邪魔な街路灯も極めて少ないし、橋自体が直線ではなく途中で少しカーブするという、絶景大橋の大きなポイントを二つ持っているわけで、いつか行ってみたいという「叶わぬ夢」を感じさせる。

元乃隅神社で海風に吹かれる

2025-02-26 00:00:15 | たび
山口県長門市の西側、つまり下関市との市境に近い海岸にあるのが、元乃隅神社。



地元の網元の方の夢に白いキツネが現れる。いわゆる「枕頭(ちんとう)の白狐(びゃっこ)」だ。この単語を知らなかった方は、今、覚えたらいいだろう。地域信仰の徴として、漁業の繁栄のみならず開運神として祀られている。と書くと、平安時代からの歴史があるのかと思われるかもしれないが、実は昭和30年(1955年)のことである。



そして見ての通りの朱色の鳥居の列だが、1987年から123基が並べられてのだが、それだけでは全国各地の稲荷神社にはもっと長いのがいくらでもある。やはり海岸の断崖ということだろう。美しいのは海の青色とのコントラストだろう。



世界に名を広めたのは、例によって「海外発」。ジャニーズ問題と同じ。2015年にCNNが日本の最も美しい場所31選の中に選んだこと。その後、観光客がどんどん海外から来訪。神社名の英語表記が長すぎるということで元乃隅稲成神社から元乃隅神社に短縮された。

そして、当神社のもう一つの名所は、賽銭箱。



神社の社務所側にある鳥居の上に設置されていて、参拝者は白キツネが守っている賽銭箱にコインをバスケットボール方式で投げ入れることになっている。強風の中で、だ。うまくいったら幸運が訪れるらしい。赤銅色のコインを10回以上、投げて、同じ回数だけ地面で拾って、最終的には地上にある小さな箱に収めた。

この神社、実は宗教法人でもないし、神社本庁には所属していないそうだ。だからといって、非難するのはお門違いだと思う。そもそも日本神話が誕生する前に沖縄を含む日本列島に住んでいた人たちにも神様がいて、その信仰対象は山だったり大河だったり、あるいは巨石、あるいは蛇だったりしたわけだ。海の神様に祈るというようなのは、どこでも行われている。


海風に吹かれていると、ボブ・ディランの“The answer is blowin‘ in the wind.”のメロディを思い出してしまった。

広島サミットのホテル

2025-02-23 00:00:05 | たび
今回の旅行での、広島の宿泊地はプリンスホテル。以前、ホテルの近くの造船所での仕事があって泊ったことがある。造船所は西武造船という会社で、ホテルとともに西武系だった。バブルの時代にクルーザー需要をあてにして、ホテルとともにクルーザー用に造船所を買収。ホテルの窓から見ると眼下に小型クルーザーが大量に停泊しているので、夏になると所有者が現れるのだろうか。造船所は別系列になっている。

記憶に新しいのは、映画「ドライブ・マイ・カー」のロケ地でもあり、重要場面もあった。キャストやクルーも泊まっていたのかもしれない。
ところが、映画の話は雲散霧消。今度はG7サミットのこと。



2023年に広島でサミットが開催し、このホテルが中心となった。なにしろ、小さいながら宇品島という島。本州との距離は20mで連絡は一本の橋と数航路の船便。海に突き出した縦長の島なので、三方が海。要人警護には最適だ。ただし、広島空港からは遠い。

フロント階にはG7に出席した7ヵ国の首脳とEUの委員長と議長の9人の署名が展示されている。
日:岸田文雄
仏:エマニュエル・マクロン
加:ジャスティ・トルドー
伊:ジョルジャ・メローニ
EU:シャルル・ミシェル(議長)
EU:ウァズラ・フォン・デア・ライエン(委員長)
英:リシ・スネル
独:オラク・ショルツ
米:ジョセフ・R・バイデン
1番、5番、6番、7番、9番は既に席を譲ったり奪われたりしている。3番の人は辞めると言っているが、辞めていない。辞めると言ったことを辞めるかもしれない。



岸田氏、メローニ氏、スナク氏のサインは、マネしやすいと思う。ショルツ氏のは?

宮島へ

2025-02-20 00:00:25 | たび
安芸宮島にある厳島神社は日本を代表する観光地になっているが、元々は593年に開闢され、1168年に平清盛が造営を命じ、今のような形となった。建物の多くは国宝や重要文化財になっていて、日本三舞台の一つになっている能舞台も歴史の風雨にさらされているようだ。

清盛はその後、日宋貿易を始め、さらに都を神戸(福原)に移してしまう。日本を海洋国家と定義して世界と交易をしようと思っていたそうだ。宋からは大量の通貨が輸入されていた。

日本の周りは全部海だが、東側の太平洋は世界最大の海で、風も波も巨大で、大航海時代より前には沿岸航路を除き移動困難だった。しかし、西側の東シナ海から関門海峡を経て瀬戸内海入る海路は波も静かだし、大和朝廷の頃から大陸との交流があったとされている。仁徳天皇陵にしても、中国大陸からの使者が日本に失礼な手紙を持ってくるときに上陸前に日本は強国であるとの心理的プレッシャーを与えるために堺に作られたともいわれる。

その瀬戸内海の中心に巨大な鳥居を作ったということは、ある意味、古墳と同意味だったのかもしれない。



神社内は予想通り、観光客の半数以上は外国人であったので、鳥居の正面ではなく向かって左にある能舞台あたりには観覧者も少なく、記念の写真を写すことができた。

もう一つ、現在は厳島神社の末社となっている豊国神社。豊臣秀吉がまだ正常人間だった1587年に、戦争犠牲者を祀るために着工された。自分で敵や味方を殺しておいて、後で祀るでは、千代田区にある鉄製の鳥居の神社と同じかなと思うが(鉄の神社は味方だけが対象)、豊国神社は、秀吉の生前には完成せず、そのまま現在でも未完成である。



内部は千畳閣という巨大な広間になっている。千畳といっても畳を敷いているわけではなく板の間で、実際の広さは857畳だそうだ。秀吉遺構の一つだろうが、大きすぎて、むなしい気持ちにはあまりならない。

広島でお好み焼きを

2025-02-14 00:00:14 | たび
先月末に中国地方に行った際、広島でも宿を取ったのだが、では広島らしい食べ物ということで、候補にしたのが、広島焼きともいわれるお好み焼き。それから牡蠣。さらに、あなごめし。

ということで、広島駅新幹線口にある「ekie」という駅ビルにあるレストラン街に入ると、お好み焼きの店が複数あった。事前調査で有名だったのは、「みっちゃん」と「麗ちゃん」。どちらも老舗で何軒も支店がある。口コミ投稿をみると、どちらの店も数多くの投稿があるが、総じて悪評が多いが支持層も多く極端に分かれている。

焼き方も違うようだが、部外者的にはどちらもそれぞれいいところがあるのではないかというように感じてしまう。ただ、「AもいいがBもいい」という投稿は少なく、「Aは絶対にダメ」とか「Bは絶対にダメ」とか「AもBもダメ」というようなのが多い。思えば、神宮球場でヤクルト×広島戦を観戦したときの広島ファンの興奮ぶりを見ると、広島焼についての熱い批判精神も理解できる。

「ekie」ではなんと、「みっちゃん」と「麗ちゃん」が並んでいて、どちらにも長い列ができていたので、長時間待つ余裕もないので、さらに隣にある「福ちゃん」という店に入る。両雄の顔を立てたわけだ。

それで、広島焼ができあがるまでに気が付いたのだが、『福ちゃん』には女性客も多いが、『みっちゃん』は男性客が多く、『麗ちゃん』はその中間ということ。




しばらくして広島焼が「福ちゃん」のテーブルに登場したが、気が付いたのだが、粉が少ない。極端に言うと焼きそばの上に薄く小麦粉の幕がおいてあるような感じだ。横浜では有名な梅蘭という中華料理店の焼きそばに似ているともいえる。



そして、牡蠣の鉄板焼き。牡蠣といえば広島か仙台かということだが、広島の牡蠣は小粒でも太っていて実に旨いと思う。(仙台の生ガキも旨いが)

埋め飯

2025-02-07 00:00:06 | たび
津和野を代表する食べ物は、「埋め飯」と「源氏巻き」だろうか。日本五大名飯というのがあって、「埋め飯」はその一つだ。参考までに残りの四は、岐阜の「さより飯」、東京の「深川飯」、埼玉小川町の「忠七飯」、そして大阪難波の「かやく飯」といわれる。「さより飯」のさよりはサンマのことだそうだ。サンマをぶつ切りにして一緒に炊くようだ。「深川飯」は駅弁にもなっている「あさりご飯」。「忠七飯」は皆目見当がつかない。

そして「埋め飯」は、物の本では、藩の倹約令により食事は一汁一菜でないといけなかったため、二菜目は見つからないようにおかずの上にご飯をかぶせて隠していたということによるらしい。

ということで、地元の観光客専用のような店で注文すると、丸型の三段重が出てきた。



上の重は海老天と練り製品2種、野菜とワサビ漬けだったかな。海老天は隠すのではないだろうかと疑問がわいてくる。そして中の重は、いわゆる盛りそば。そして下の重が『埋め飯』。ご飯の上にワサビが少々。これに出し汁をかけてご飯の中に隠された菜と一緒に食べるわけだ。しかし、海老天は隠されていないのだから、海老天以上の料理かなと思ったのだが、予想は大きく外れる。中に入っていたのは、大部分が野菜類を刻んだもの。となると豪華な食材を隠す目的ではなかったのだろうか。

どうも地元でいわれているのは、大根の葉とか刻んだものを食べていて、地域外からの客人には恥ずかしくて見せたくないので、飯をかけて隠していたというらしい。通説とは正反対だ。さらに津和野藩は貧乏ではなく周防、長門、石見の三国の接続点として賑やかな街だったようだ。

謎は深まるばかりなり。

森鷗外の生地、津和野

2025-02-06 00:00:21 | たび
津和野観光の中心は殿町通りといって、津和野藩の家老職など上級武士の館が並んだ町並みで、堀河には大きな鯉が泳いでいる。津和野出身の有名人といえば、明治時代には森鷗外外(文豪)、西周(哲学者)が双璧で、昭和・平成でいうと画家の安野光雅氏ということになる。時間の関係で、今回は殿町通りの東側の安藤忠雄氏設計の安野光雅美術館には寄らずに西側の森鷗外関係の旧跡の方へ行った。

ただし、森鷗外(本名森林太郎)が津和野にいたのは10歳まで。藩医の家に生まれるも、御維新により藩は解体。漢方医を続けるわけにもいかず、家族で東京へ上る。これをもって故郷を捨てたとは言わないだろう。そして天才少年は11歳にして、東京大学医学部予科に入学。規定の3年を経て、医学部本科に14歳11か月で進学する。これは東大入学最年少記録だそうだ。というのも、予科受験の時に年齢を2歳年上に偽っていたためだ。また規定の5年間の就学の結果、卒業時の年齢も最年少記録だそうだ。年齢詐称はカンニングよりずっと罪が軽かったのだろう。



旧宅が残っていて庭先から室内を見ることができる。六畳間×2、四畳半×2、四畳×1の5部屋に台所とトイレと風呂ということで5Kということかな。ただし、畳のサイズを庭側から指尺で計測したところ、関東で普通の江戸間サイズより一回り大きいので、江戸間の部屋より2割ほど大きいと思う。百年以上経っているため、生活感は残っていない。



そして、10歳までの津和野生活で学びの場になっていたのは、津和野藩の藩校の養老館。邸内の庭に、森鷗外の遺言の碑が建てられている。遺言といってもお金の分配といった低俗なものではなく、「石見人として死ぬ」とか「墓には余計な事を書かず、森林太郎の墓とだけ書け」とか「陸軍軍医として後日、顕彰の話があっても断る」というような内容だ。


この森鷗外を尊敬する人たちの中に、同じ津和野出身の画家、安野光雅氏がいる。薄い色彩と軽いタッチの水彩画で有名だが、2011年に、森鷗外訳アンデルセン原作『即興詩人』を口語訳している(山川出版社)。600ページの大著で、重たい本なのでデスクトップパソコンの振動防止用の重しに使っていたのだが、PCを買い替えたところハードディスクではなく記憶媒体がSSDになったために振動がなくなり、再び書棚に戻っていた。



そもそも、鷗外が現代人から敬遠されているのは、かなりの作品が「擬古文」で書かれていること。他の鷗外作品も口語体に書き直していただければありがたいが、すでに別世界に旅行中となっている。

即興詩人の書き出し

(森鷗外訳)
羅馬に往きしことある人はピアツツア、バルベリイニを知りたるべし。こは貝殼持てるトリイトンの神の像に造り做したる、美しき噴井ある、大なる廣こうぢの名なり。

(安野光雅口語訳)
ローマへ行ったことのある方は、きっとバルベリーニ広場にも行かれたことがあるだろう。そこには、ギリシャ神話に出てくる海神トリトンがホラ貝を吹いているところをかたどった噴水が水を噴き出しているのを見られたに違いない。

実際には、本作品はアンデルセンによってデンマーク語で書かれ、ドイツ語に翻訳され、さらに擬古文になり、さらに口語訳になったということで原文からどれだけ離れているのかは知る人ぞ知るということだろうか。

大山阿夫利神社で紅葉を鑑賞

2024-12-15 00:00:08 | たび
酷暑だと思っていたら急に寒くなり、「秋は短し」ということで、前々から行きたかった伊勢原市の大山阿夫利神社へ行くことにした。自宅近くの国道246号は、江戸時代は大山街道といわれて、旅行人気の一番だった。お伊勢参りは大旅行だが、大山参りは小旅行。それでも5日間くらいの旅行になるので講ができていて、旅行代金の積み立てが江戸の町内にあった。

ということで、よく調べずに、最寄駅から東急に乗って、小田急に乗り換えて、伊勢原駅で降りて、ケーブルカーに乗ると、本社に着く、とイージーに考えていて、調べ直すと、伊勢原の駅前からケーブルカーが出るはずもなく、バスで30分ぐらいのところまで行って、さらに急坂を歩いて登り、やっとケーブルカーに乗れる。ケーブルカーの終点からは本社はすぐだが、元気な人はこのあと標高差600mの登山道を登ると山頂に到達するそうだが、熊がいるらしい。

ということで、車で行ったのだが、駐車場はケーブルカー乗り場のかなり手前にあるので、かなり歩くことになった。



ケーブルカーはもちろん江戸時代にはないので、これも登山道のような道を登っていたはずだ。江戸時代の大山参りは、江戸から伊勢原大山阿夫利神社へ行った後、江の島、鎌倉をめぐって江戸に帰ったそうだが。きっと大山に行かずに途中の宿場で沈没していたのではないだろうか。



社の歴史は古く、2000年前とされている。紫式部や藤原道長の時代が1000年前なので、その二倍。大山そのものを祀っていた。特に日照りが続くと、雨乞いを行っていたといわれる。「雨が降る」が変化して「阿夫利」神社と書かれることになった。



境内から南を見ると、遠く相模湾が一望できる。東京湾、相模湾、駿河湾とそれぞれ美味しい魚が違うのだが、魚介とは全く違うものを食べに行く。

士林夜市へ

2024-12-12 00:00:25 | たび
台湾やシンガポールなど東アジアで盛んな夜市。昼間が暑過ぎる国では中東などでも市場が盛んだが、台湾の夜市とはいささか違うような気がする。金のグラム売りとかペルシャ絨毯とかは台湾の夜市では売られていない。台北市内で最大といわれる士林夜市は地下鉄駅も近いし、店が多く、結構明るい。空を見なければ夜か昼かよくわからない。



なぜか入口(駅に近いという意味)の方に、古来から伝わるアナログゲーム店(日本でも祭りの時などに現れる)が常設で並び、奥の方では雑貨、衣料品、そして食べ物屋が多い。さすがに日本人は少なく、40%ぐらいの感じだった。



お土産を買いながら、名物の「胡椒餅」を食べる。餅の中身は、要するに肉まんということ。胡椒の味はほんの少々。



台湾でも、さすがに夜風に秋の便りを感じ、日本に帰ると、激寒ということを、思い出してしまう。

丸林魯肉飯でセルフ方式

2024-12-06 00:00:00 | たび
台北市の北側にある食堂。地上2階、地下一階だが、帰国後、HPをみると2階と地下は団体客用に広いフロアに回転テーブル席といったつくりで、一階は人の出入りも多い、普通の四角のテーブルで、椅子も小さい。近くの会社員も多く利用している。

システムは、入り口から入り、お盆を持っていくつかガラスケースの中に並んでいる小皿を指で指すと、係の方が取り出してくれる。それでレジに行くと合計額を元で払う。丸亀製麺みたいな方法だ。飲み物は注文することになっている。



肉、魚、野菜を一品ずつ選び、「ハマグリ汁」と「魯肉飯」を選ぶ。白身魚が特によかった。ハマグリは日本では高級食材だが、ハマグリ汁のハマグリはシジミ汁のようなもので汁に蛤エキスが含まれているし、身を食べてもうまくない。もったいないと思うが、周りを見て現地の方の食べ方を見ても、ハマグリを食べている客はいなかった。

行天宮

2024-12-05 00:00:34 | たび
台北市の中心にある『行天宮』は、後漢時代の中国の英雄、関羽を祀った神宮。願いごとがあるときにここに行って祈るといいらしい。注意事項は願いごとを口にするときに、自分の名前と住所を述べないといけないそうだ。事前に知っていたのだが、最初に龍山寺に行ったときに、混同してしまってそこで氏名と住所情報を小声で囁いてしまっていた。行天宮に行って2回目の住所報告では効き目が半分かもしれない。半分というわけにはいかない願い事もあるわけだが。



龍山寺と行天宮だが寺と神社という違いがある。浅草寺と山王神社といったところかな。龍山寺は庶民的な感じだが、行天宮はやや堅い感じだ。幸運を得るためには、他人に対して良いことをたくさんしなければならない、と教訓的なことを求められる。良いことをしないでも幸運を得たい人は龍山寺にいくのだろうか。

いや発言取り消し。幸運と不幸は表裏一体の関係にあるのだから、案件によって神にすがったり仏にすがったりすればいいのだろう。どちらも大切だ。