成田山新勝寺に思い出を重ねる

2024-05-12 00:00:06 | たび
茨城県南部の旅行に行くのに千葉県の成田にあるホテルを出陣基地にしていたので、最終日は成田山新勝寺へお参りに行く。幼少期には千葉に住んでいたので、何回も行っていた、何度も行った理由は、実家が真言宗の寺院の檀家だったことだけではなかった。



駅前から続く参道が終ると山門があって、本堂に行く前に小さな橋があり、両側に小さな池がある。昔のままだ。ただ右側の池にある亀の形をした岩の上には、多くの亀が甲羅干しをしていたはずなのに、そうではない。コインが無数に岩の上に投げられている。コインが当たらないように水の中にいるわけだ。さらに水中の亀を観察すると、すべてがミシシッピー・アカミミガメ(いわゆるミドリガメ)である。人も寺も亀も変ったものだ。変わらないのは岩だけ。



そして、本堂。幼少の時は古い木造の建物で、そのうちピカピカの金色の本堂に変わった記憶がある。すでにピカピカではなくなっているのは世の無常ということだろうか。新しい物はいずれ古び、いずれ滅びるということか。

そして、記憶の中に複雑な感情と共に残っているのが本堂に向かって左側にあった易者の建物。何軒も並んでいて、母親がどれかの易者にはまっていて、何か家庭で決めなければならないことがあると易者の意見を聞きに行くわけだ。宗教にはまるよりはましだと思うが、改築する家の設計とかこどもの学校とか、旅行の行き先とか、い平安時代のような話だ。しかも、親子で意見が対立するときなど、「親の言うことを聞きなさい」としかる親はいるだろうが、「易者さんの言うことを聞きなさい」という親がいるだろうか。



記憶とほぼ同じ場所に広場があって、易者さんが並んでいる場所と土産物がならんでいる場所が向かい合わせになっていた。多くは廃業しているように見えるが開業している数軒の外には、順番で待っている人もいた。



そして、本堂から右奥に進むと成田山公園になっていた。記憶の中では大きな池の中央あたりの畔に食堂があって、行く度に鰻重か海老天重を食べた記憶があった。はたして池は見つかり、歩いていると蒲焼の匂いがしてきた。池の奥にある食事処からだ。記憶の場所とは位置が違うが、おおむね成田山に関する記憶は正確なので、食事処の方が移転したのだろうということにしておく。

日本三名園コンプリート

2024-05-06 00:00:00 | たび
茨城県の旅、最後は水戸の偕楽園。

岡山の後楽園、金沢の兼六園、そして水戸の偕楽園を日本三名園と呼ぶ。岡山の池田藩の秘密庭園だった後楽園にも、前田藩の大庭園だった兼六園にも行ったことはあったが、最後に兼六園が残っていた。



そして感想なのだが、他の二つの庭園とは、かなり感じが違うと思った。三名園と並べるのはどうかなというのは、第一に歴史的に偕楽園を開園したのは幕末の水戸藩主徳川斉昭公と言わるのだが、他の二園は江戸時代初期から代々の藩主が手を入れていた。ということで、規模や趣向に凝りが入っている。またそれぞれの藩の城に隣接し、主に藩主のための庭園という風情だが、そもそも水戸藩は御三家と言うことで、江戸定府ということになっていた。

実際に徳川斉昭公が水戸に住むのは井伊直弼との政争に敗れ、水戸蟄居の処分を受けてからだ。一方、正妻の吉子様は王女であり、江戸に在住中に後の15代将軍慶喜公を含め七人の子女の母になっている(斉昭公は多数の妾を囲い、37人も子がいたそうだが)。



園内は、梅ブロック、竹ブロック、杉ブロックと分かれていて、好文亭といわれる屋敷からは千波湖が眼下に広がる。こういう造りは後楽園にも兼六園にもない。好文亭は城内から側室の女性が景色を楽しみに訪れるという説明になっていたが、殿が江戸定府ということとどう結び付ければいいのかよくわからない。



水戸蟄居中の斉昭公が亡くなった後、明治維新が進行。明治の初期には未亡人の吉子様が居住することになったが、そういうことは、どこにも書かれていないので後で知ることになった。広島原爆の4日前の空襲で焼失した後、再建され、現在に至っている。

大名庭園として三名園に匹敵するとすれば、高松の栗林(りつりん)公園と熊本の水前寺公園かな。かつて9年間だけ存在した日本最高のレベルだった佐賀の観頤荘については、いつか文献で読んでみたいと思っている。

牛久大仏は、とにかく大きい

2024-05-03 00:00:20 | たび
そもそも大仏という言葉は、「大きな仏様」という意味であるが、大きいというのは物理的に大きいというのか、心が大きいという意味なのか、あるいは態度が大きいということなのだろうか。

どうも物理的に大きな仏像を意味するようだ。大部分の大仏は座像だが中には立像もある。たとえば三重県にある純金開運宝珠大観音は高さ33mで金1トンが使われている。1g10,000円とすると100億円だ。大金だが盗まれる心配はあまりない。



それらに比べ牛久大仏は圧倒的に大きい。掌の上に奈良の大仏が乗るそうだ。

高さ120m。1993年に完成。



像の中に構造模型があり、高層ビルと同様に内部は鉄骨組になっていて、体のパート別に銅板で作られ、鉄骨の上にとりつけられているそうだ。近づいてよく見ると継ぎ目が見えるのだが、近づくのは難しい。

像の後ろ側から内部に入り、エレベーターで像の中段から除き窓で外を眺めることができるが、外を見ても周りにはあまり美しい景色はないようだ。

日本三名瀑の一つ、袋田の滝

2024-05-02 07:06:33 | たび
日本三〇というのがあって、それが夜景だったり、庭園だったり。

茨城県には有名な滝がある。それが袋田の滝。「ふくろだ」ではなく「ふくろた」だそうだ。「いばらぎ」ではなく「いばらき」のような感じだ。

日本三名瀑といわれるのは、1、2位が不動で華厳の滝と那智の大滝。3位はいくつか候補があるようだが、自分で行けそうなのは袋田の滝だが、それでもかなり遠い。



やっと町営駐車場に辿り着き、川沿いの道をしばらく進むと滝が見えてくる。



かなりの奇景だ。

華厳の滝や那智の大滝は、川の流れが崖に到達して、水がズドンと落下する感じだが、こちらの滝は岩山から水があふれるというような異常な景色だ。



冬になると、水が凍ってしまうらしい。もっとも極寒の時にここに辿り着くのは容易じゃない。

展望台から滝を見ると、滝のある岩は全体で一つの様にも見える。

大洗海岸に鳥居が

2024-05-01 00:00:59 | たび
宝くじの欲望にかられた人たちの心の平和を満たすべき『酒烈磯前神社』には、同一系の『大洗磯前神社』にも参られるようにと案内があり、宝くじを買った後、大洗海岸に向かう。

酒烈より大洗の方が相当立派だ。大きいし。隣が有名なシーサイドゴルフ場だ。

大洗磯前神社の御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)と小彦名命(すくなひこなのみこと)。大己貴命はいわゆる大黒様。皮を剝がされた兎を治療したように、医療関係の神様。小彦名命は一寸法師のモデルで、非常に小さい。これも医薬系で、大己貴命というも一緒で、いわば看護師のような存在だ。

一方、酒烈磯前神社の御祭神は小彦名命だけなので、看護師だけで医者のいない医院のようなものだろうか。



記録に依れば、西暦856年12月29日に大洗の海岸に二神が御降臨されたそうだ。もとは日本創始の頃に日本に来たのだが、そのうちどこかに帰っているうちに日本に疫病が蔓延し、これでは困るということで、再度、御降臨を賜ったわけだ。

おそらく疫病とは天然痘かはしかであっただろうと思われている。838年から839年に帰朝した遣唐使が持ち帰って流行させたと考えられている。

その後、大陸との往来は激減したため、小さな流行を繰り返し、大流行は江戸時代に起こっている。



海岸の岩場に鳥居が立つが、鳥居の前で海水に浸かると完治すると言われている。

なぜ、京都ではなく大洗に降り立ったのかは、誰も教えてくれない。「洗」という文字が良いのかもしれない。病を洗うのは良い行為だが、脳を洗うのは問題があるが。

買ってから撫でるか、撫でてから買うか

2024-04-30 00:00:22 | たび
ひたち海浜公園でネモフィラとチューリップを愛でた後に行こうと思っていたのは、酒烈磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)。宝くじがよく当たる神社として有名だ。具体的には、海浜公園の向かい側にあるジョイフル本田の一階にある宝くじ売り場が開所した時に開所式を磯前神社が行ったそうだ。そして高額当選者が磯前神社にお礼に行ったことから、その後、多くの人が当該売り場と磯前神社を両参りすることになったそうだ。

神社には『撫で亀』といわれる石像があって、それにご利益があるらしい。



ところが、直前に決めた行き先なので、「くじを買ってから撫でるのがいいのか」、「撫でてから買うのがいいのか」よくわからない。物流合理性の観点からは、公園の前の売り場で買ってから神社に行けば、そこで終わりになる。神社の方が南にあるので宿泊先の成田のホテルまでも無駄がない。神社まで車で10分ほどなので先に神社に行くと、また公園前まで戻って、さらに南に行くので往復時間が重複する。もちろんそういう問題ではないのだが。



そして熟考してみると、どちらが先か問題は、奥が深いことに気が付く。もちろん亀に効力があるとした場合だが。

まず、先に買っていると、すでに手元には番号の決まったくじがあるわけだ。くじの番号を変えることはできないから、亀の効力はくじの当選番号を変える力と言うことになる。だいぶ離れた場所だ。

逆に、撫でてからくじを買う場合だが、撫でて効力を得た段階ではまだくじを手に入れてないので、効力は撫でた人間に与えられる。そしてそのまま手を洗わないで、宝くじ売り場に並べば当たりくじを引き当てることができそうだ。

ということで、先に神社に行くことにしたのだが、後で再考してみると、いずれにしても宝くじを買う段階では、まだ当選番号は決まっていないのだから、同じことのような気もしてきた。



高額当選金を得られた場合は、お礼参りに行かないとまずそうなのだが、最高金額だったら自宅からタクシーで往復してもかなり余りそうだ。

チューリップの行方

2024-04-29 00:00:32 | たび
国営ひたち海浜公園では見晴らしの丘のネモフィラ以外では、たまごの森フラワーガーデンではチューリップ畑が広がっている。



普段、あまりみない各色のチューリップが開花している。

世界初の金融バブルがオランダ起こったチューリップの球根だったというのも、こういう怪しげな色合いのチューリップだったのだろうか。日本産の鯉も海外で高額で取引されているのも、同じような事象なのだろうか。



花畑の一角では、既に咲き終わった種類のチューリップの花の剪定が行われていた。球根を太らせ、来年に再利用するための準備かと思い、作業している方に聞いてみると、来年は別の球根を植えるので、この球根は使いません、とのこと。



もったいない限りだ。色が混じったり、生育が悪い球根があるかもしれないが、袋に詰め直して10個1000円くらいで売り出せば購入者は数多くいるだろう。

とはいえ、国営公園ということで「一般入札」ということなのだろうが、業者向けということで、球根1トンで〇〇万円というようになるのだろうか。

国営ひたち海浜公園へ

2024-04-28 00:00:42 | たび
ネモフィラとコキアで有名な国営ひたち海浜公園へ。



ちょうどネモフィラが満開を僅かに過ぎたあたりなのだが、フラワーカレンダーを見ると、4月末には水仙が終り、チューリップとネモフィラが終りかけ、5月の中旬までが空白期間で、その後、バラとポピーに主役が変わるということで、運が悪いと何も咲いてない時期にあたるかもしれない。出発前に確認した方がいいかもしれない。



そして、とにかく人間が多い。ネモフィラ(秋にはコキア)は公園の奥の方、つまり海に近い「みはらしの丘」の斜面をすべて覆っている。丘の頂上に向かって一列に歩いていくわけだ。列に並ぶしかないが、自分の意志で歩いているのか、歩かされているのかよくわからなくなるが、もちろん長く止まることは難しい。



実は、一面にネモフィラだけかと思っていたが、なかには雑草がかなり生えていたり、不均一に生えているところもある。遠くから眺めると見えないものが近づくと見えてしまう。



丘の上の方から海の方を見ると、新港が見えた。そういえば石油会社にいた頃に、「もう少ししたら、ひたちなか市に新港ができて、物流の拠点になり、どんどん船舶がやってきて重油が沢山売れるので船舶用に重油を販売しないか」という話があったことを思いだした。重油を売っても赤字になるだけの話なので、当時は聞き流しただけだっだが、今はどうなのだろう。補助金次第かな。

北淡震災記念公園

2024-03-14 00:00:10 | たび
決して観光地ではないが、地震の記憶ということで、淡路島北部では、はっきりした形で断層のずれが地表に残ったということで、保存施設ができている。



1995年1月17日、六甲山から淡路につながる断層の下、つまり明石海峡の地下16キロを震源として直下型地震が発生。震度7、死者6000人以上の大災害となったが、淡路北部の地表に現れた野島断層が、そのままの形で保存されている。



野島断層は1~2mの横ずれと、1mの縦ずれが同時に起きている。2000年間眠っていた断層だそうだ。六甲山(海抜931m)はもともと海中にあり、南から北へ押し込まれて1000mも持ち上がったようだ。一回の地震で1mずつ高くなるとすると今までに1000回の大地震があり、それが2000年に一回の割だとすると、200万年ということになり、だいたい理解できることになる。地球の歴史からすると、それでも2000分の1。



しかし、本当に大きな地震、よく起きていると思う。阪神淡路大震災の時は村山富市内閣、東日本大震災の時は菅直人内閣と政治的バランスが変った時に震災が起きているのは単に偶然だろうが、そろそろそういう時期になっていているような気もする。

鳴門の渦を見に行く

2024-03-13 00:00:41 | たび
淡路島は島と本州や四国との間が海峡になっている。和歌山との間が広そうに見えるが紀淡海峡(あるいは友ヶ島水道ともいう)で間に4つの横長の島がある。明石との間が明石海峡幅が3.6Km、四国との間が鳴門海峡で幅が1.3Km。

以前、海運会社にいたが、会社所属船は鳴門海峡の航行を禁止していた。幅が狭く、漁船が多いというだけではなく、潮の流れが速く、潮流は最速で10ノット(18.5Km)にもある。通常の瀬戸内海での航行速度が10ノットなので、潮に向かえば前に進まないし、潮に乗れば通常の倍速になりどちらも危険。一日に2回転潮するので、間違えたら大惨事になる。太平洋と瀬戸内海を結ぶには鳴門海峡の方が2時間ほど早いが、リスキーといえる。

鳴門海峡の渦潮を見るには、方法としては観潮船に乗るか、鳴門大橋の下に設置された「渦の道」という徒歩の橋を歩くかになる。その道は徳島県側からなので、淡路島から行くには有料の橋を車で渡らないといけない。地元でレンタカーを借りているので、有料道路の通行料が必要だ。一方、観潮船は淡路からと鳴門市側からの両側から出ている。



ということで、まず淡路島南部の福良港に行って船を確認する。渦潮に巻き込まれてしまう小説があった。エドガー・アラン・ポーだったか。小説の結末は覚えていない。ちょっと嫌になったのは船の名前。『咸臨丸』となっていた。太平洋を渡った船のデザイン盗用の上、鳴門の渦潮1時間2500円とは、ちょっと主義が合わない感じで、歩きの方にする。それに船の上からではなく橋の上からの方が良く見えるのではないかとも思ったわけだ。



そして道すがら立ち寄ったのが、「おっ玉葱」。淡路側から海峡を望む場所だ。淡路島の名産。島に行く前に東京日本橋にある「すもと館」で情報収集した時に、館内で淡路特産の牛丼をいただいたのだが、淡路牛と玉ネギ、そして千光寺にちなんだ千光米で作られた牛丼はチェーン店のものとは別種の料理だった。鶏糞を肥料に使うのが淡路農業のようだ。



そして橋の下の有料駐車場から、凍えるような寒風の中を歩くこと10分で「渦の道」につくが、ここからさらに10分、凍えるようではなく凍り付くような強風のなか、海の上を歩いていく。



そして見たのが、さっきみた咸臨丸。渦潮見るのではなく、走り回って自分で渦潮を作っているようにもみえるが、船上から見るとどうなのだろう。



なんとなくそれっぽいのをいくつか見たが、20から30mの大型渦潮は発見できず。



余りの寒さに、特産品の鳴門金時の焼き芋に救われる。

神話の島

2024-03-12 00:00:04 | たび
淡路島は国生み神話と大いに関係がある。古事記によるとイザナギノミコトとイザナミノミコトの二柱の神が空の上から長い矛で地面をかき混ぜて矛を持ち上げるとしずくがボタンと落ち「おのころ島」になり、そこに両神が着地し、数多くの島を作り始めたと言われる。スプーンからスープがこぼれてテーブルクロスに染みができるような感じだ。

おのずから(自から)凝り固まった島という意味で、淡路島の近くの島ではないかと考えられている。淡路島は本州と同様に地上に降りた神様が作ったことになっているので二次的な島ということになる。




ということで、最初に島の南部の「おのころ島神社」に行く。淡路島は北中南別に、淡路市、洲本市、南あわじ市の三市にわかれ、それぞれ東と西、さして南あわじには南というパートに分かれる。「おのころ島神社」は南の西側。



どちらかというと、自然発生的な地神感がある。神社には神や人ではなく山や岩や森といった天然物を祀るという場合がある。また神話の神様を祀る場合、特定の個人を祀る場合などに分かれるが、ここは神が降臨するより前(あるいは神話が成立する前)の時代から信仰があるのではないだろうか。




日を改めて北部の淡路市(西側)にある「伊弉諾(イザナギ)神宮」へ。こちらの方が堅い感じだ。働き過ぎたイザナギノミコトが余生を過ごしたといわれる神社だ。立派感はこちらの方が上だ。岡山の『吉備津神社』と『吉備津彦神社』のようなのだろう。



夫婦(めおと)大楠という樹齢900年の大楠が、根元で合体してしまったように見える。夫婦大樹というのは楠に限らず杉だったり別種の樹木だったりして夫婦円満の象徴とも言われるが、それぞれの木からすれば、何百年も窮屈な思いをしているとも言える。相手が早く枯れればいいと思っているはずだ。だから夫婦と言われるのかもしれないが。

有馬温泉に蕎麦を食べに行く

2024-03-08 00:00:00 | たび
神戸に行くなら有馬温泉に足を延ばして、ダッタンソバを食べに行こうという気分になる。



到着したのはお昼前で、まず「ねねの橋」を渡る。「ねね」とは秀吉の正妻。秀吉が茶々(淀君)に熱を入れ、申し訳としてねねには有馬温泉に別宅を与えていたそうだ。妻の旅行中に愛人といい思いをしようというのだろうが、晩年には淀君とも有馬に行っている。


温泉の前に『ごんそば』に行く。狙いは韃靼蕎麦(ダッタンソバ)。

韃靼とは、なじみがある?ことばなら、タタールのこと。タタールに生えているソバから作ったもの。



この韃靼蕎麦と普通の十割蕎麦を半々で合盛りして食べることにする。

まず、蕎麦の色はやや黄色いのが韃靼そば。食べ方の注を見ると、
1. 蕎麦になにもつけずに食べる
2. 赤穂の塩をつけて食べる
3. 汁につけて食べる

というのが作法のようだ。



蕎麦の後は蕎麦湯。韃靼そばの蕎麦湯はかなりの黄色。これも作法がある。
4. 蕎麦湯になにも入れずに飲む
5. 赤穂の塩を入れて飲む
6. 汁を入れて飲む

つまり同じだ。


次に温泉。公共の湯は、金の湯と銀の湯だが、ちょうど銀の湯は建物の改修中で休み(もともと知っていたが)



金と言っても金の含有量があるわけではなく、湯が黄色から茶色ということで、鉄分が多いとのこと。錆といってもいい。そして入浴客は若い人が多い。先に上がって着替えしていると、大学生グループの一人が青い顔をして出てきて、更衣室で倒れ込む。足が真っ赤で顔が真っ青。足だけ湯に沈めていたのだろう。貧血というか湯当たりというか。

緊急介抱することになる。すぐに床に寝かせてタオルをかけ他の客に従業員への通報を頼む。意識が戻ったようなので、すぐに立ち上がらないように言ってから立ち去る。金の湯の源泉も近くにあった。



有馬温泉街もかなり賑わっている。画像を撮ろうと思ったが、狭い道路で観光客しか映らないのであきらめる。

神戸中華街が賑やかで驚く

2024-03-07 00:00:34 | たび
日本三大中華街は横浜・神戸・長崎と言われる。長崎は江戸時代には中国人街だったので一番古いが、行ってみると賑やかなことはない。中国料理店が限られた場所に多めにあるということ。横浜中華街は規模が大きく常に人があふれているが、震災や空襲や米軍の街になったり、日本の政治史の縮図のような場所だ。

神戸中華街(別名、南京町)はコロナより前の頃に行った時は閑散としていたので期待していなかったが、人出であふれていた。日本はどうなっているのだろう。得体のしれないバブルの風が吹いているのだろうか。天狗の仕業かもしれない。



当日は、朝食のあと9時間も食事をしなかったので、食べ歩きではなく広東料理店で飲茶をいただくことにする。



料理の名前は、まったく記憶に残っていない(小籠包だけは覚えている)ので画像だけになるが、美味しい中華料理というのは、今まで食べたことがない料理をおいしく食べられることだろうか。そういう意味で初めての食感の料理もあったのだが、口に合う料理だった。さすがに広東料理だ。



食後、北京ダックを食べ歩き、というか共同広場で頂く。しっかりしてよく焼けているし、奥の方には皮ではなく肉の部分も含まれていた。よく、皮だけ食べて、肉はどうなるのだろうと疑問を持っていたが、やはり食べていいのだろう。以前は広場にはゴミ箱があったが、撤去され、購入店のゴミ箱に入れるようになっていた。不届き者がいたのだろう。

灘の生一本

2024-03-06 00:00:10 | たび
関西方面に旅行していた。京都、淡路島、神戸。京都のテーマは紫式部。淡路は純然と観光。神戸には何度も行っているが、移動時間の調整的に個別攻略したいところがいくつか。

ということで、今週は神戸。

まず、最初は、灘の酒蔵。阪神住吉駅の周りでは以前、櫻正宗と菊正宗の見学と試飲はしているので今回は『白鶴資料館』へ。本当は『浜福鶴』優先だったが、スケジュール的に休館日だった。



白鶴酒造は昨年が創業280年。もっとも、酒は平安時代から飲まれていて、『紫式部日記』には、関白藤原道長が、孫が産まれたうれしさに、酒を飲み過ぎて酩酊して宮女たちを冗談で笑わせる場面が書かれているのだが、考証すると真冬のできごとで、熱燗で飲んだに違いないと考えられるそうだ。平安時代は酒を鍋で温めて飲んでいたそうだ。私の想像だがおそらく紫式部も道長と杯を重ねたことがあると思う。



白鶴酒造は1743年(吉宗の時代)に材木商人の治兵衛が灘・御影郷で酒造業を起こしたことによる。異業種進出である。そして4年かけて辿り着いたのが「白鶴」。

灘は江戸の酒飲みの酒蔵となり、海に面している灘は大樽積の樽廻船で江戸に送られていた。江戸へ送るのを下りと呼んでいたため、「灘の生一本」のブランドに適さない品質の落ちる酒は「下らない酒」ということで、「くだらない」という単語の語源になったそうだ。



江戸の人たちは大変な酒飲みで、一人当たり毎日二合平均で消費されていたという推計もあるそうだ。



ところで、無料の試飲だが、ビール工場では缶ビール1本、ウイスキーの工場ではシングル1杯というのが相場だが、当資料館では猪口1杯分というところだろうか。残念。たぶん、運転していることを隠して飲む人間がいるからだろうか。あるいは単に。

若い女子が富山脱走中

2023-12-21 00:00:16 | たび
富山のテレビで聞いたのだが、人口減少の中でも特に若い女子の県外への流失が多いそうだ。手近なところでは隣の石川県の金沢市。そして東京。

原因としては、富山県は工場の誘致が盛んだった結果、若い女性の好む就職先がないということが一因だそうだ。工場勤務ということ。

別の原因だが、アンケートの結果では、「遊ぶところがない」という理由が多いそうだ。確かに美術館や博物館ばかりでは飽きてしまう。

こちらの原因は、日本全国、多くの場所で起こっているのだろう。関東や大阪周辺なら友達と日帰りで遊びに行けばいいだろうが往復新幹線は高いし。市内にホストクラブでも誘致した方がいいのかな。