ドイツ村に住民は?

2019-05-28 00:00:17 | たび
鳴門市ドイツ館は、板東俘虜収容所を記念して建てられたものだが、収容所のあった場所とは2キロほど離れている。何故、違う場所に建てたのかは不明。収容所の場所に建てると、歴史上なかったものを史跡の上に建築するということになるからだろうか。



収容所はベルサイユ条約のあと、捕虜がいなくなり、その後、帝国陸軍が利用することになり、さらに敗戦後は米軍が駐屯したようだ。その後、建物は壊される。土地の所有者は国だったか県だったかだろう。現在、収容所の跡地の半分くらいは時代がかった公団住宅が並んでいる。



そして、ドイツ村となっているが、本当の村ではない。なぜなら住民がゼロ人だからだ。記念碑があり、給水塔の遺構が残るが、収容所、陸軍、米軍の歴史の中で改造された遺構でもある。

そして、次の目的地には地元のバスで移動する予定なのだが、ドイツ村のバス停には、事前にネット上で調べていた発車時刻より20分早く着いてしまった。そこから5分ほど歩くと、映画「バルトの楽園」関連のロケで使われた建物が運び込まれ、収容所の遺構を使った観光地になっていたのだが数年前に営業不振で閉鎖になっている「バルトの館」があるのだが、疲れ果てていたので、パスをしたら数分でバスが来た。要するに、事前に調べたバス会社の時刻表が数日前に代わっているわけだ。ロケ現場の廃墟なんか調べに行ってバスに乗り遅れたら、もはやその日のスケジュールは全滅したはずだ。



ところで、第一次大戦で敗れたドイツは、高額の補償金を払うことになり、国力は激減。欧州最貧国となってしまう。その結果、ヒトラーが登場したわけだが、第二次大戦のドイツを再び作らないように、終戦後、日本をアジア最貧国にしようとは思わなかったのだろう。

そう思えば、第一次大戦後のドイツの運命は日本の戦後につながっているともいえるわけだ。ドイツに深謝しなければ・・
コメント

長い石灯篭の先には

2019-05-23 00:00:36 | たび
先週、板東にあるお遍路スタートの寺院である霊山寺まで書いたのだが、その後、お遍路を始めたのか、あるいはサッサと高徳線に乗って徳島にラーメンを食べにいったのか明示しなかった。実は、霊山寺からさらに奥の方に歩き始めた。

ooasahiko1


しばらくすると、突然、大鳥居があらわれる。突然に大鳥居が現れるのは、普通は新しい宗教団体のことが多いが、この鳥居は由緒正しい。

ooasahiko2


さらに視界から見えなくなるまで石灯篭が左右に並ぶ。これは見事である。何か、本数に意味があるのかもしれない。詳しく知らないし、数えながら歩くほど、物事に集中できるタイプの人間ではない。一、二、三・・・十が限界だ。

ooasahiko3


そして、その先に小さな橋があって神社が現れる。仏教じゃないので川を渡るときに小銭をもっていく必要はないが、参拝にはいくばくかのお金は必要だ。よくみると「サルに注意」と書かれている。

ooasahiko4


大麻比古神社といって、阿波の国、一の宮である。境内には樹齢千年の大楠がそびえている。本殿の周りや奥に広がる森林がパワースポットである。確かカメラを向けると、本来参拝客に与えるべきパワーがカメラに吸い取られるので、写さない方がいいとされている。

神社の名前の大麻は「たいま」ではなく「おおあさ」と読む。日本古来の繊維といえば綿ではなく麻だった。いまでこそ麻の方が高いが、麻は夏用で冬は寒い。東北地方の本格的な開拓が江戸時代になるまで遅れたのは、この衣類問題だそうだ。国内で綿が広く栽培されるまで、国民は寒さに耐えていた。

ooasahiko5


そして、この千年をはるかに超える歴史を持つ神社に、少し変わった遺跡がある。一つは、眼鏡橋、もう一つが独逸橋(ドイツ橋)。眼鏡橋は形状からそう呼ばれるが独逸橋はこの橋を架けたのがドイツ人であったからだ。

ooasahiko6


ドイツ人が九つの橋を神社の境内に架け、うち二つはそのまま残っていて、このパワースポットを、いずれ聞きつけてやってくるドイツ人観光客を待っているわけだ。
コメント

板東、お遍路の入り口に立つも

2019-05-15 00:00:11 | たび
高松の栗林公園に行ったあと、寿司店に入って、その日は終わり、翌日はどこに行こうかと考える。高知方面、今治方面には行ったことがあるので、それでは徳島方面に行こう、と考える。徳島市まで行くと、日本列島の中央構造線の上なので、とりあえず鳴門方面とし、途中の板東駅でまず何か所か回ろうかと思うのだが、どうもネット上の断片情報では実感が伴わないが、とりあえず高松駅から徳島行きの3両編成の特急電車に乗る。高徳線である。

この高徳線だが、SUICAなどの交通系ICカードが使えない。しかも無人駅が多いようだし、単線なので、特急以外だと上下すれ違いに駅で待ち合わせが必要で、かなり時間がかかる。特急なのだが、高校生は通学に使っている。本数が少ないのだろう。

そして、板東駅は特急が止まらないので、普通電車に乗り換える。駅で降りると、改札の前で、乗っていた普通電車の車掌さんがホームを走ってきて切符を回収していった。たぶん、私が何らかの違法行為をしたのだろうが、よくわからない。

bando1


古風な駅舎で、味わいがある。赤い郵便ポストも必需品だ。

そして、駅から15分ほどで最初の行き先に到着する。霊山寺という寺院である。何が有名かと言えば、ここがお遍路さんの八十八ヶ所巡りの第一番なのだ。このお遍路さんの一番は誰が決めたかというと、弘法大師さま(空海)。京大阪方面から船で来ると、ここが最初になるらしい。実際、一番と八十八番では大違いだ。お遍路をしようとする人は、普通は一番から始める。途中で止める人も多いだろうから、一番の方が収益に恵まれるはずだ。

bando2


実際、霊山寺で観察すると、半分の方は、これからお遍路に出ようという人で、半分の方は、お気軽板東名所めぐりの人だ。しかも、お遍路については予備知識がない。

まず、山門だが、山門の二階に人が入れる(住める)構造になっている。これはよくある。そして大師堂がある。もちろん真言宗の中心人物である弘法大師を記念している。

そして、奥の方に荘厳な『本堂』があり、お遍路スタートする人は、ろうそくをはじめ仏教用小道具を購入して寄進することになっているように見える。実は私自身、宗派は真言宗であり。元首相のように「何かの償い」ではなく、「理由もなく」単にお遍路に出ても、何の問題もないのだが、やり方が調査不足だ。昨年の逃走容疑者はお遍路に扮して四国で時間稼ぎしていたが、そんなバイタリティもない。

bando3


多宝塔と呼ばれる塔に向かって手を合わせて、失礼することになる。お遍路は心の中にとどめておく。
コメント

栗林公園は広大

2019-05-14 00:00:12 | たび
ミシュラン・グリーンガイド・ジャポンで、三つ星評価がついている公園の高松市の栗林公園に行った。瀬戸内海の小島である男木島で山道を歩いた後なので、あまり歩きたくなかったが、成り行き上、仕方ない。

rirurin1


調べると、日本で一番大きな公園ということになっている。75万m3。うち平坦な部分は16万m3。もっとも、東京都千代田区千代田1丁目1番地を宅地ではなく公園と解釈すると、お堀の内法で115万m3、外苑まで入れれば230万m3もある。その1万分の1だけでも切り売りすれば、就職の決まっていない留学生の母親の借金など解決するのにと思うが問題はそういうことではないようだ。

もっとも、西太后の愛した北京の頤和園は290万m3もあるので、どうやっても勝てない。池の向こう岸が見えないのだ。

riturin3


栗林公園はその規模からいって大名の拵えかと思っていたが、そうではなく地元の豪族の佐藤氏が16世紀の終わり頃に庭園を築いたと言われる。その後は大名の手に譲られ(あるいは奪われ?)生駒氏、松平氏がさらに改造を加え、明治時代以降は上級国民ではない一般市民にも公開されることになった。

riturin2


園内の池には鯉や鴨がいるが、ウシガエルがモウモウと鳴いていて懐かしい。

riturinn4


奇景としては根上り五葉松というのがある。解説によれば、徳川11代将軍家斉から賜った盆栽の五葉松が大きく成長したものだそうだ。盆栽を地植えしたわけだ。将軍さまには内緒だ。

実は、この話で「もしかしたら」という予感が湧き出した。家斉公といえば有名なのが子沢山。16人の妻妾に産ませた子供は男子26名、女子27名の合計53人(55人説あり)と言われる。そして問題は27名の姫君(男子だって問題だろうけど)。結婚適齢期まで到達した姫は、諸大名の正妻として降嫁していた。その時、必要なのが持参金である。

持参金にはいろいろなものがあり、江戸時代の初期には、大名家から将軍の側室に入れるために逆に持参の品々を納入していた。それらがかなり幕府の倉庫に眠っていたものを、姫君の持参の品に転用もしていた。リサイクルである。それから、石高増というのもある。魅力的なのは幕府のご天領の一部を持参金とし徴税権を譲るわけだ。そして有名な話だが第21女である溶姫が前田家に嫁ぐときは前田家の藩邸に大きく赤い門をプレゼントした。これが東大の赤門になった。将軍の娘を側室にはできないので正妻とすると、正妻は江戸に住むことになっていた。門は加賀藩までは運べないが、盆栽は高松まで持ち帰ったのだろう。

そして、家斉と高松藩の関係を見ると、第16女の文姫が高松藩主松平頼胤に嫁いでいる。つまり五葉松の盆栽は持参金だったわけだ。
コメント

男木島アートの島

2019-05-09 00:00:06 | たび
昨日の続きだが、瀬戸内国際芸術祭2019の直前に島を訪れれば、良いことがあるだろうと漠然と考えたのがいけないのだが、常設展示物以外を見ることはできなかった。

ogijima1


さらに、食事処も週末のみ開いている店が多く、その上、水曜日はほぼ全部の店がお休みになる。そして島を訪れたのが水曜日だった。

ということは、次の船便までの2時間を徒歩による島めぐりに費やすしかない。アートの島になる前は「灯台くらいしか見るところがない」と言われていたようで、灯台まで片道30分歩くべきだが、前の仕事では灯台をたくさん見ることになったので、足が灯台方面には向かわない。

ogijima2


まずは島の高台にある豊玉姫神社に行くことにするが、極めて細い道で、さらにかなりきつい坂だ。難攻不落の山城(やまじろ)に登るような感じだ。ただし距離は短い。

ogijima3


そして、男木島の豊玉姫は、海彦・山彦伝説の中の山彦(山幸彦)の妻(あるいは愛人)という役回りである。二人の間には男の子が生まれるのだが、その出産シーンを見てはいけないと豊玉姫に言われたのに、山幸彦は、こっそりのぞいてしまうわけだ。そうすると、豊玉姫の真の姿を見てしまうわけだ。姫の姿はサメだったわけだ。サメは魚類だが卵で出産するのではなく体内で孵化して魚の形ながら、あたかも哺乳類のように出産する。

そして、この男の子の孫が神武天皇ということだ。つまり天皇が男系子孫に限るというのは、実は先祖が魚類であることを皇室が知られたくないからだ。

そして、伝承によれば、豊玉姫=乙姫、山幸彦=浦島太郎、竜宮城=沖縄ということだそうだ。つまり、天皇家の先祖は浦島太郎ということになる。


ogijima5


それから常設アート作品だが、船着き場の男木交流館。見た通り屋根が奇抜だ。

ogijima4


歩く方船。

このあたり風が吹き抜けている。近くに猫がいる。

そして、島を去るのだが、本来は女木島に行くつもりだったが、気が乗らないわけだ。女木島随一の観光スポットは島の中央の高台になる「鬼の洞窟」。鬼が住んでいた洞窟があるそうだ。しかし、そこには鬼の模型が並べられているようだが、本当は、鬼というのは日本の先住民に違いないわけだ。そんな俗物を並べないでほしい。

そして、女木島で下船せず、一路、高松港へ。そしてそのままうどん店に急ぐ。空腹のため、うっかり肉うどんを注文した結果、だしの味が判らずじまいになってしまった。
コメント

男木島は猫の島と言えるか?

2019-05-08 00:00:49 | たび
瀬戸内海の島々はアートの島として生まれ変わりつつあり、瀬戸内国際芸術祭2019の始まる数日前に高松から数十分のところにある女木島(めぎじま)と男木島(おぎじま)を拝見させていただこうと思い立つ。始まる数日前ではなく数日後に行くべきなのだが、それではGWになってしまう時期だし、それは困難な予感があった。

meon


高松から「めおん」というフェリーで20分で女木島、さらに20分で男木島。つまり男木島には女木島経由でないと行けないわけだ。どちらから見るかという問題があって、時間的には男木島からの方がいいような気がした。実は違うのだろうが。

そして、男木島はアートの島であることの他、『猫の島』と言われているそうだ。猫がたくさんいるわけだ。そして、それを目当てに行く人が多すぎて、みなさん餌を持っていくため猫が増えて、地元の島民の生活に影響が出て、「猫を減らそう」ということでもあるようだ。といっても猫を食べモノで集めて、漁網でバサッとやるわけにはいかない。法令で猫の虐待は犯罪となっているわけだ。

といって、フェリーの中には猫の写真を写そうとハイテンションの人が数多くいるようだ。肌の白い人や本格的に黄色い人、その他この島で何らかのCM撮影をしようとしているグループ+数人の女性モデル。さらに、数日後に始まるフェスを先取りしようとする私。

ということで、本日は、猫の写真に限って話をすると、いわゆる島の観光資源とは異なる場所に猫が住んでいるわけだ。普通に考えると、猫が島の高台の森の中にひそみ、人間は海岸の漁港の周りに居住する、と考える。

しかし、猫は高いところにも僅かにいるのだが、大部分は海岸の方にいる。漁港の岸壁の上を歩いていたりする。小魚とかありつけるのだろうか。実際には、本土からの観光客には餌を持ってこないように告知してあるし、全国の猫愛好家からの寄付金で島民がキャットフードを買ったり、増殖防止策を施しているそうだ。戦後のベビーブームに驚いて卑劣かつ俗悪な政策を行った日本政府のようだ。

猫の写真はGIFアニメ化したので、
neko

↑スマホの方は、画像の1タップを1回または2回!↑


島の猫たちの一般的態度だが、野良猫のような鋭い眼光ではないのだが、といって飼い猫や猫カフェのような媚びるようなしぐさでもない。カメラマン&カメラウーマンには難しい課題だ。「孤独を楽しむ猫」というのが正しい表現なのだろうか。
コメント

万歩書店を覗く

2019-05-06 00:00:39 | たび
日本で一番大きな古本屋と呼ぶ人もいるのだが、万歩書店に行く。場所は、岡山駅から山陽線を一駅下った北長瀬駅から徒歩15分。国道沿いだ。そこに行く前にブックオフもある。

manpo1


実際、建物の敷地は広く、横幅が大きく、縦幅はもっと大きい。もちろんジャンル別に書棚はあるのだが、入りきらない本は横積みに重ねられている。確かに日本一かもしれないが、全国の古本屋を知らないので断言できない。神田には何階建てかになっている店もあるのでなんともいえない。

manpo2


店名の「万歩」は一万歩も歩いても全部捜し歩けないことを示しているようだ。


ただ、在庫が多すぎるようにも見える。両側の書棚は地震でもあれば、一気に崩れ、本の中に眠り込むことになるだろう。救出されるまで本を読めばいい。

実際、長く探している詰将棋の本を探すことができず、店員の方に聞いてしまった。要するに将棋コーナーは充実してはいなかった。詰将棋本は一冊もなかった。

manpo3


一万歩を歩いても何もならないので、二冊だけ購入する。ファンタジー系か、あるいは悪魔本か。
コメント

玉の井を歩く

2018-03-01 00:00:25 | たび
東武線東向島駅近くに用があった。この駅は旧名は「玉ノ井」といって、実は「玉の井」という巨大売春窟の入口であった。この駅から都心に通う女性会社員は定期券に駅名が書かれることによって、そこに通う女娼と間違われないように、一駅遠い駅からの定期を買っていたとも言われる。

そしてこの地をこよなく愛して小説にした作家が二人いて、一人は永井荷風。昭和11年に「墨東奇譚」を書き、なんと朝日新聞に売春小説が連載される。もう一人は吉行淳之介。昭和26年に「原色の街」を書き、なんと芥川賞候補になる。(常識が当時と違うといえば、そもそも昔は春を売る方が捕まっていたのに、今や買う方が捕まる時代だ。)

ところで、玉の井にはそれなりに歴史があって、荷風と吉行の通った場所は、まったく別の場所なのだ。

tamanoimap1


まず、玉の井が巨大売春窟になったのは関東大震災が契機だった。浅草のあたりが焼き尽くされ、場所がなくなって川向うに流れてきたわけだ。場所は東武線と水戸街道と北側の大正通り(いろは通り)に囲まれたデルタ地帯である。複雑な路地が入り組んでいて、荷風によればラビリンス(魔窟)だそうだ。銘酒屋(めいしや)と呼ばれていた。

そして、その魔窟も対米戦争の末期に空襲で焼けてしまう。焼け広場は戦後区画整理され道路は直線になり、その手の商売はなくなるのだが、宙に浮いた欲望が舞い降りたのはやはり玉の井だった。大正通りの北側が焼け残っていたため、そこに移転したわけだが、さらに場所が足らなくなり、水戸街道を南下した場所から隅田川に向かって細い路地があり、そこが「鳩の街」と呼ばれるようになる。吉行が描いたのは、この街にある一般住宅のような娼家である。表通りには見えない場所にある。

ところが売春関係者と愛好家にとって悲しいことが起きたのが、昭和32年(1957年)4月1日。売春防止法が施行され、売春窟は一夜にして魔法の様に消滅したことになっている。

tamanoi2


ということで、歴史の残証探しとして、あまり期待もなく、まず戦前の玉の井のデルタ地区を歩くが、やはり事前調査の通り、その手の名残はまったくない。最近、大正(いろは)通り沿いに「玉ノ井カフェ」が開店したとのことだが、週二回の定休日にあたっていた。

歩道もなく歩きにくい大正通りの反対側は戦後に娼家が並んだとされるが、売防法から60年も建ち、ほとんど新しい家に代わっている。一階が住居風で二階が飾り窓になっていて窓二つなら二部屋とかわかるようだが、それっぽい造りの二階建てもあるが、そもそも普通の家だってそういう造りもあるし、仮に娼家を改修して普通の建物に変えたとしても、あえて口外する人もいないだろうから、確信はもてない。ただし、道は迷宮のような構造で無秩序である。

tamanoi3


次に水戸街道を南下して「鳩の街」に到着するが、入り口の店が火事で焼けたばかりだ。よく延焼しなかったものだと思う。本当に僅かに右や左に蛇行する細い路地である。小説によれば、表通りにはなく、裏の方にあったということなのだが、どうも60年の歳月でほとんどが立替えられたようだ。またこの地区では、一般の家のような構造で営業していたようなので、捜索は困難だ。

ということで、実際には何も見つけられなかったということだが、それはそういうことなのだろうと考えるしかない。努力は重ねないと銅メダルにも届かないわけだ。

tamanoi4


ところで、どういうわけか「墨東奇譚」も「原色の街」も文庫本が自宅にあった。悪口かもしれないが永井荷風はそれほどの大家ではないような気がするのだが、文章を読むと、ややまわりくどいような文体で、もしかしたら私の文章は荷風に影響されているのではないかと震撼するところがある。吉行淳之介の文章は粘着質なり。
コメント

奥の細道むすびの地

2018-02-22 00:00:53 | たび
大垣駅から大垣城に向かって歩いているうちに、その先の方に「奥の細道むすびの地記念館」があることがわかってきた。歩きスマホで確認すると、松尾芭蕉の「徒歩で行く奥の細道ツアー」の解散地がこの大垣だったようだ。江戸を出て5ヶ月、2400Kmの終点である。旅行会社のツアーの場合、出発地まで戻って解散することになっているのだが、なぜ大垣で終わったのか。

basho1


突然、芭蕉のことを書き始めても江戸の初期の人のことに詳しい方は少ないだろうし、実際、その「むすび記念館」でも「漂泊の詩人」とか「旅を住まいとした」とか的外れな記載が多いのだが、ごく簡単に振り返ると、1644年に伊賀上野(藤堂藩)の下級藩士として生まれ、10代後半は、いわゆる「包丁侍」だった。城内の調理人である。

そして、あまりうだつが上がらずに20代に俳諧に染まったわけだ。そして30歳の時に思い立って江戸に住むことになる。このあたりの事情がいかにも怪しいわけで、後に隠密説が登場してそれが現在の主流になっている。伊賀忍者のふるさとの出身であり、江戸に出て2年後には日本橋に住み、神田上水の下流の水道工事を行っていた。当時の日本橋は今もそうだが江戸市中の超一等地。伊賀から出てきて2年で住めるはずはない。

もっとも、藤堂藩と幕府の間には様々な特別な関係があったと推測されるので、まだ全貌がわかったわけではない。芭蕉の指折りの弟子のひとりの河合曾良は奥の細道に同行したのだが、この方の墓所は長崎県の壱岐にある。そこで亡くなったのだが、何をしていたかというと巡見使という仕事で、幕府の意を受け、全国を歩いて反政府テロが起きないか検査していたわけだ。つまりこちらの方が隠密そのもののわけだ。つまり曾良の隠密活動を隠匿するために芭蕉の「奥の細道ツアー」を利用したとも考えられる。だから東北方面(伊達藩所領)では、黒羽で13泊し、名所の松島は一泊しかしなかったというのも、すべて曾良の都合ではないか、とも考えられるわけだ。さらに、曾良はツアーの途中で何度も姿を消したり現れたりする。「奥の細道」の編集をして、芭蕉の没後、発行したのだが、隠密的な記載は消し去っている。

で、30歳で江戸に出た芭蕉がロングの旅に出るのは、40歳になってからの「野ざらし紀行」、「笈の小文」、「更科紀行」そして、45歳の時の「奥の細道」である。「旅に生きた」とまでは言えない。奥の細道以降は東海道を何往復かし、50歳で大阪で亡くなっている。辞世の句が「旅に病んで夢は枯野をかけ巡る」であったことと、西行法師をこよなく愛していたことから、一生旅をしていたと思われることになったが、それほどではない(西行法師没後500年で奥の細道ツアーが始まる)。

basho2


それで、大垣で旅が終わったのは、一つは大垣の有力な支援者のところに行ったということらしい。その場所が記念館になっている。そして、その後、芭蕉は舟に乗って水門川から木曽川に出て、下り切って伊勢湾に出ると、そこが桑名で、さらに自分の故郷を目指したわけだ。つまり大垣は陸の中にあるのに水運の重要ポイントだった。

そういうこともあり、記念館の横には船着き場があり、灯台まであって驚く。

さらに気が付いたのだが、大垣に来た年配男が5年後に亡くなるということは、・・
コメント

神祇大社で踏みつけたもの

2018-02-15 00:00:05 | たび
伊豆ぐらんぱる公園の道路を挟んだ向かい側の丘に登っていくと現れるのが神祇大社という神社である。神祇は「じんぎ」と読む。有名なのは、お犬様の神社であること。たまたま本殿に繋がる階段を上っていたら犬を抱いて下りてくる男性とすれ違った。

jingi1


神社の入口にある手や口を洗う場所には別途、犬用の水場がある。ただし、人間用の神社の場合、「八方除専門」とか「金儲け専門」とか「足の病気専門」とか「交通安全専門」とか願い事別に専門化しているが、神祇神社の場合は「犬問題一般」が対象のようだ。

jingi2


もちろん人間の側にもご利益が必要ということで、用意されたのが地面の各所の敷石に刻まれた謎の文様。これは象形文字であって、その後簡略化されて現在に至った漢字が添えられていて、文字の意味が分かるようになっている。神社内のすべての象形文字を踏めばご利益があるようだが、寒すぎたし、境内各所には雪の名残があり、自分勝手に作業簡略化することにして、現代漢字「宝」という字の上で、繰り返し足踏みすることにしてしまった。作業簡略化が吉と出るか凶と出るか、いずれ結果はわかるだろう。

jingi3


そして、絵馬ならぬ絵犬。かなりたくさん掲げられている。しかし、読んでいると、ほとんど全部が「犬の健康」についての祈願である。それも特別の病気というわけではなく健康一般を願うということなのだから、愛犬との旅行中に気楽に立ち寄るのだろう。犬は伊豆にとって大きなビジネスチャンスになっている(というか人間観光客が減ってきたため、犬用に改修していることが多いのが実態)。

しかし考えてみれば、犬の健康を祈るというのは飼い主の気持ちとしては当然なのだが、犬の立場で考えてみれば、「今年こそステーキ一枚食べてみたい」とか「隣家の目つきの悪いオヤジに噛みつきたい」とか、犬の本性にのっとった愛情表現をしてみたいとか、色々あるのだろうと、犬に同情してしまうのだ。
コメント

城ヶ崎海岸の冒険者

2018-02-14 00:00:25 | たび
東伊豆に行っていた。伊豆は温かいだろうと思っていたのだが、宿泊地が高原のリゾートクラブであったこともあってほぼ横浜と同じようなものだった。

jogasaki1


ということで厚着して国立公園の城ヶ崎海岸を散策。溶岩が固まってできた海岸だそうで、大室山というシンプルな形の火山が爆発した時に海岸まで溶岩が流出したそうだ。そして、溶岩は脆いので、波に洗われたり風雨で岩が劣化して、ボロボロと壊れていき、現在の野性味の高い岩石海岸ができたようだ。一応、釣り橋と灯台が名物なようだが、景観にそぐわないような気がする。

jogasaki2


もっとも、自由に人間が歩き回ると危険すぎるので、遊歩道方式にしているようにも思う。

にもかかわらず、インスタ映えを狙い、岩場の上に登ってつま先を10センチ近く岩の外に出した画像とか、岩場に座って足を投げ出したりと、ハイリスク画像があふれているそうだ。そもそも岩が崩れて現在の状況になったわけで、地震一揺れで総崩れだって起こるはずだ。

また、後で調べると、この岩から本人の希望のないまま落ちる人は後を絶たないらしく、その場合、ほとんど全員が岩の上に落ちて違う世界(天国か地獄)に向かうそうだ。しかも救出(あるいは回収)も簡単には行えないわけだ。

海の上に落ちないとライフジャケットは役に立たないわけで、むしろ体に重りを付けた方が安全意識が高まるような気がする。

jogasaki3


当日も、遠くの岩場に目を凝らすと、どうも釣り人の用具である釣り竿のケースやアイスボックスが放置されているように見えた。近くに人影はないし、さらに既にうちよせる高波はアイスボックスを洗っているように見えている。

翌日の地元ニュースを確認したのだが、アイスボックスの運命について書かれているものはなかった。
コメント

禅と庭のミュージアム 神勝寺の門を叩く

2018-02-02 00:00:06 | たび
広島県の福山市に神勝寺なる禅寺が大改装の上、ミュージアム化したという情報を得ていた。頃を見計らい訪問することにする。天気は良いが、いささか寒い。当然ながら山中である。

結果として、その空間は、想像をはるかに上回る規模の空間であった。見どころのきわめて多い場所であり、いくつかの修行プランをぜんぶこなそうとすると、丸一日必要になる。

zen1


まず、総門から。これにも由緒がある。江戸時代には京都御所内にあったものが、明治以降、宮家をはじめ、何度も移転を続け、ようやくこの場所に落ち着いたようだ。

実はここから先、古い建造物はそう多くない。

山の斜面のかなり上に立派な建物がある。本堂と荘厳堂。そこに向かう道中に池があり、庭があり、いくつかの建物があり、利休由来の茶室がある。そして、振り返れば総門の近くには金色に輝く奇妙な構築物がある。

zen2


池は手前の方は手が入っている風情ではあるが奥の方は自然感が漂う。鯉が人を見ると集まってくるが、トレビの泉じゃないのでコインを池に投げ込む必要はない。

zen3


そして五観堂という「うどん定食」のみを食べることができる場所(これも修行)をすぎて、鐘楼門に着く。

zen4


自由に鐘を撞きなさいということになる。「ゴーン」ときわめて低く澄み切った荘厳な音が響く。音は大きくないが、かなり遠距離まで届きそうである。

そして、長い階段。

zen5


そして、大きな石庭。

zen6


そして、ついに荘厳堂に到着するが、ここは江戸時代の画家である白隠の作品を多く保有していて、コレクションの中から順に展示している。撮影自由で、落ち着いた展示室の雰囲気が楽しめる。

zen7


本堂はあくまでも広い。本堂に掲げられた古木の板書きは「院明無」と読める。この古木は木造船の底板が転用されたそうだ。というのも神勝寺のバックには「常石造船」という造船会社があるからだそうだ。

zen8


さらに本堂の近くにはまたしても鐘楼があり、こちらは大きな鐘である。さっそく、鐘を撞くが、こちらの音は、強烈に大きく、破滅的な破壊音(ガチャ-ン)である。山の下に拡がる鞆の浦海岸まで届きそうだ。煩悩を叩き潰すという意味なのか。

zen9


帰路には国際禅道場もあるが外国人修行僧はみない。ここを訪れる人たちは、みな日本人のように見える。要するに本来は修行の場を公開しているわけで、この不思議な空間が山奥にひっそりと存在することになるのか、千客万来になるのか、予想することは難しい。

zen10


そして、足早に山を下り、最初にみた金色の物体に向かい、中にはいるわけだ。瞑想空間なのだ。暗い室内にいくつかの明暗する光と海面をイメージする水の波が幻想感を高める(はず)。実は、瞼が視野の妨げとなっていて瞑想は、やや危険。シャトルバスにて福山駅に向かう。
コメント

六角堂(池坊)、謎多し

2018-01-25 00:00:23 | たび
烏丸御池と四条烏丸の中間に六角堂がある。本堂が六角形であるために、そう呼ばれているが、華道では唯一無二の超越的な家元の池坊の中心地である。ちかくには池坊会館や、池坊短大もある。

ikenobo1


池坊の起源は聖徳太子が六角堂を興し、その池のほとりの花を愛したことによるとなっているが、聖徳太子は平安時代の人物ではなくもっと昔の人なのだ。通常は斑鳩(奈良県)に住んでいた。蘇我×物部の戦いの結果、自分が支持していた蘇我の時代になったため、記念碑的意味で大阪に四天王寺を建立したのだが、その建設用の木材を探しに京都にきて烏丸の地に良材を発見し、そこに建てた寺が六角堂(紫雲山頂法寺)だった。

杉の木をバサバサと切り倒そうという時に、野に咲く花を切り取って池のほとりに花を捧げたのが生け花の起源というのも、ちょっと状況がイメージできない。作業員の人身事故の供養のためではなかったかとも脳裏を横切るが、不吉なことは一瞬で忘れることにする。

しかし、良材が多いということは平安宮への遷都の有力な条件になったのかもしれない。

ikenobo2


ところで、わからないといえば花を生けるというのは人類の共通の美意識によるものだろうが、そこに精神的な価値を見出して「華道」を定義するのが重要なのだが、よくわからない。花を生ける精神なのか、あるいは技術や知識なのか、単に自然主義なのか。

まあ、考えることもなく六角堂を訪れたわけではないのだが、特に伝統とか精神とかを感じることもなかった。

とにかく、花についての素養もないし、鑑賞してもそれほど感動度は高くないし、華道の神髄に近づけそうな予感もない。


ところで、池坊の名前をさらに有名にしたのが大相撲の不祥事連発。評議委員会議長の池坊保子氏について、過去のご乱行が報道されている。

しかし、彼女は池坊家の妻であり母ではあるが、池坊代表を継ぐことはない。血縁上当然だが彼女の娘(池坊専好)が池坊専永の後継者になることになっている。

つまり、伝統を継ぐのは、彼女ではないということと、そのための教育や礼節も保子氏には無関係ということになる。
コメント

混雑する御金神社

2018-01-24 00:00:03 | たび
「おカネ神社」とは、人間の金銭欲をそのまま文字で表現した神社である。二条城からほど近いところにあり、敷地は相当狭い。また住宅の中に潜んでいるというタイプの神社であり、数十メートルに近づいても発見できず、スマホの位置情報に頼ったのだが、実は人だかりができるほど若い男女観光客が多かった。

okane


鳥居の前で写真を写す人が多いのだが、自分が写し終わったら、鳥居の下をくぐるのだから出てくるときには自分が被写体になってしまう。

しかし、晴明神社の絵馬は羽生弓弦関係ばかりだったが、御金神社の絵馬は「お金儲け」の話ばかりだ。大金を望む人もいれば、僅かな上がりを大切にする人もいる。

参拝者の多くが20代男女のように見えた。世代間の貧富格差が偏っているということだろう。パワースポットの一つになっているようだ。

よく考えると、「御金神社」というのが、お金持ちになる御利益がある「喜び系の神社なのか」、逆に、お金を失う危険を体験できる「絶叫型神社なのか」、どこにも説明は書かれていなかった。
コメント

一条戻橋から晴明神社、そして利休

2018-01-22 00:00:53 | たび
ちょっと、京都に行ってきた。冬の京都を堪能するなら迷わず鞍馬へ行くべきだが、軟弱なのでその手前の今出川から南に歩き始める。大目標と小目標があるのだが、昨年小目標だった晴明神社(安倍晴明を祀っている)と一条戻橋が今年は大目標になる。

昨年の京都のあと、気になっていたのが晴明神社に千利休の屋敷跡と井戸があることだった。たまたま堺に行った時に利休の生地に行ったのだが、堺の観光ガイドの人に切腹した場所のことを聞いたものの、何も知らなかった。もう一つ、年末に「安倍晴明」という映画(DVD)を観たのだが、創作とは言え、旧事に因ることもあった。

modoribasi


晴明は陰陽師であり、晴明の居宅(一条堀川)に行くには、一条戻橋を渡ることになっていた。晴明は橋を牛車が渡ると、自宅に客人が到達する前に訪問客が来ることを予感していたとされるのだが、今回確認したところ、晴明神社から戻橋は相当近く、ビルが立ち並んでいないなら自宅から橋が良く見えたはずだ。100m~200mしかない。予感などではないわけだ。

seimei


そして、今回まず驚いたのは、多くの若い女性が晴明神社を訪れている。しかも絵馬を見ると、9割以上が「羽生弓弦選手の負傷快癒の祈願」なのだ。つまり羽生選手が「SEIMEI」というプログラムを演じて以降、晴明神社が羽生ファンの聖地になっているからだそうだ。

kachi


私も、勝守(かちまもり)を有償でいただくことにする。


そして、利休の話。晴明神社の入口の鳥居の前に石碑があり、利休の聚楽屋敷跡となっている。これはどういうことなのだろう。時間的には、平安中期に亡くなった安倍晴明はその少し後に居宅跡に神社ができたことになっている。利休はその500年後の人間。しかもその500年後の現代には相変わらず晴明神社がある。重複感がある。

rikyu


こうなると、相矛盾した話を資料を読んでから考えないといけないのだが、さらに隠蔽されているのが千利休。聚楽屋敷で切腹をして、首は一条戻橋にさらされた。現地ではどこにもそういう記述は見当たらない。ますますわからなくなる。で、聚楽屋敷というのは聚楽第という秀吉が京都に作った城のことを指すのだが、秀次が失脚してから、有力武将が城の中にいたのを排除し、城を徹底的に破壊したそうだ。ということで、その大きさなどははっきりしないことが多い。

そして、この神社のわずかに西南の場所が聚楽第の北端だったとされているのだが、総合的に考えれば、聚楽第の城内に利休は館を持っていて井戸も汲んでいて、その聚楽第は秀吉が無理やり土地の強制収用をして、その中に晴明神社の敷地が含まれていたということなのだろ。つまり、利休や秀次の切腹や朝鮮派兵の失敗、さらには豊臣家の滅亡は、すべて安倍晴明の怨霊ということが言えるわけだ。
コメント (2)