「みんぱく」って・・・

2007-01-31 00:00:25 | 美術館・博物館・工芸品
9c07141a.jpg大阪の万博記念公園内に、「みんぱく」がある。「みんぱく」という語感は何となく「民宿」に近いのだが、関係なし。正式には国立民族学博物館という(民宿の方は「民間宿泊施設」だろうか?)。この民族というのもアブナイ表現で、本当は展示の内容からいうと「民俗」が正しいような気もするが、やはり民族なのだろうか、とか考えてしまう。ヒトラーはドイツゲルマン民族を第一種民族、その東側のポーランドあたりを第二種民族として、世界中の残りの民族全部は粛清して、民族動物園で種の保存を行おうと考えていたらしい。最初のジェノサイトの途中まで進んだところで、破滅した。

9c07141a.jpg黒川紀章氏の設計した博物館の建物は、外観に虚栄は感じないが、また、まったく存在感がないというのも、多少寂しい。しかし、万博会場跡は広大で、博物館の床面積は広い。そして、常設展示は、世界をエリア別に分類し、各地の文化を、主にその地の生活で使われている農耕器具や狩猟用の道具。装飾品や、宗教的祭祀の紹介や住宅の調度品などさまざまな文化を、あくまでも「物」を通して考えようということなのだ。エリアは順路に沿って、オセアニア→アメリカ→ヨーロッパ→西アジア→南アジア→東南アジア→朝鮮半島→中国→北アジア→中央アジア→アイヌ→日本と続く。最後の方で近隣諸国に配慮したのか、朝鮮半島と中国とは手厚い展示をしている。よく、北海道にアイヌ民族博物館とかあるが、それを大拡大して世界中の博物館を一箇所に集めたようなもの。

9c07141a.jpg実は、1時間程度でぐるっと回ってと、思っていたのだが、まず、館内を歩くだけで延々と時間がかかる。ある意味、1時間でも1週間でも全部をよく見ることなどできることない、というような、膨大なコレクションである。”よくぞ、世界中から集めたり”なのだが、下賎な話に落ちてしまうが、一つ一つの展示品の金銭的な価値はほとんどないかもしれない。木製の食器とか、古いドイツの農民宅から持ってきた鍬や鋤、南インドの仮面などを評価することは困難だろうが、例えば、火災保険とかどうなっているのだろう。もっとも、これだけの世界中からのコレクションが焼失してしまったら、再度集める気力には、とてもならないだろう。大英博物館、ルーブル美術館、故宮博物員、メトロポリタン博物館といった世界のナショナルミュージアムの日本版なのかもしれないが、たぶん、略奪品はあまりなく、全部、おカネをかけて集めたのだろう。価値より費用の方がずっと多いだろう。自衛隊みたいだ。


9c07141a.jpgそして、館内を巡回しているときに、どこに向かって歩いているのか、方向感覚がなくなってしまうのは、あちこちに中庭があるせいもある。黒川紀章の罠。そして、少し考えないとわからないのだが、展示内容がエリア別になっていて、衣食住についての民俗学展示のようになっているので、同時代性というのが見えないようになっている。逆に時代別の部屋にすると具合が悪かったのだろう。文明国と途上国みたいになってしまう。ところが、実際には、この民族ごとの現代に向かう進歩の時間差が、民族間の優劣と誤解され、ジェノサイトを生んだということなのだろう。

個人的に印象が残ったのは、ヨーロッパの農耕器具の「ゴツさ」であって、やはり寒いところで地面がコチコチで栄養分のないところで小麦を作るには大苦労が必要で、結局、農業はそこそこにして、牧畜業みたいになっていったのだろうと、半ば同情する反面、これが侵略文化の起源なのかもしれないと、なんとなくナットク。


そして、ぐるぐると館内を歩き回って、それなりに面白いので、体も脳みそも疲れ果ててしまうのが、まったくの大問題で、建物から出ると広大な公園の奥の方で、帰路は、駅(万博記念公園)まで果てしなく遠いことを思い出す。公園内なので、タクシーはいない。雨が降ってきても、コンビニがないので傘は手に入らなかった。

9c07141a.jpgところで、この博物館は三十数年前に開館したのだが、初代館長は梅棹忠夫氏、二代目が佐々木高明氏、三代目が石毛直道氏、四代目が現在の松園万亀雄氏だが、この中の三代目の石毛直道氏は、ある学校で私の先輩にあたる。若い頃から、「住居空間の人類学」「食いしん坊の民族学」「食卓の文明論」などで学術的民族学探検家で有名だった。その多くの著書は読んでいる。彼の後を追いかけて、京都大学探検部に進もうかと思っても、入部できる可能性はほとんどゼロだった。探検部としては、西の京大、東の早稲田ということで、京大からは、梅棹氏はじめ、本多勝一氏、今西錦司氏などを輩出。一方、早稲田出身はエジプト学で有名な、吉村作治氏、作家の船戸与一氏などだ。こちらの探検部に入部できる可能性はゼロということはなかったのだが、あまり知性を感じないので辞めた。

同郷の探検家ということで言えば、椎名誠氏は小学校の先輩だったようだし、小野田寛郎少尉をルワング島のジャングルから連れ出した鈴木紀夫氏は出身地の隣の市の出身。彼は1949年生まれ。少尉生還の1974年には、まだ25歳。1986年にヒマラヤで行方不明になり、翌年、雪中から発見された時、38歳。もし、今、現代に蘇ることができれば58だ。生還したときの小野田少尉より6歳も年上になっているはずだ。