06年1月、検索ランキングベスト20

2006-01-31 00:00:03 | マーケティング
daa69233.JPG月末恒例の自ブログの検索ランキングを作ってみる。はじめに、このランキング、来月以降続くかどうか未定。理由は、livedoorだから。事件の後、100万人のブログ難民と一緒になるのが嫌なので、とりあえずgooにサイトを開いて、ぼちぼちとコピーを張っているのだが、やはり大変。使い勝手が似ているのでgooとFC2に逃げ出す方が多いらしいが、FC2は極めて小規模の会社なので、数十万人の受け入れは??と思える。それで、本来はlivedoorの方が住み心地はいいのだが、gooの方に来訪される方もいらっしゃるので、合計ランキング作成は困難かもしれない。今回はlivedoorのデータである。

さらに、1月28日までは、普通のアクセス状況だったのだが、1月29日にAsahi.com:be on Sundayに現存12城シリーズが紹介されてしまったため、妙なものになってしまった。

こんな記事だった。

おおた葉一郎のしょーと・しょーと・えっせい(blog.livedoor.jp/ota416/)のテーマの一つが城。中世の姿の天守閣を残す城は、12カ所あるという。 紹介されている5泊6日の「現存12城、一挙攻略の旅」が面白い。北は弘前城から南は四国の4城まで、移動距離4350キロ、鉄道の乗車時間が37時間57分。「現地見学時間30分」という城もある強行軍だが、城好きの主宰者が、これまでの経験を集大成したというものだけに、きっと参加してみたい人も多いだろう。

実は、ネット上だけでなく、リアル新聞紙面にも紹介されていたことを発見。「朝日」を購読しているのに、当初、見過ごしていた。それで、不正確な検索が大量にやってきた理由なのだろう。

ランキングと関連URLは以下。

1   おおた葉一郎
2  blog.livedoor.jp/ota416/ 
3   ギッフェン財  虎ノ門のギッフェン効果
4   おおた葉一郎のしょーと・しょーと・えっせい
5  日本橋    日本橋上の首都高移設で検討会設置
6  葉一郎
7  しまむら   「しまむら」探索
7  枕絵      多摩川沿いで浮世絵名品展を
9  横浜    ?
10 モーツアルトイヤー モーツアルトイヤー
10 モーツアルト  モーツアルトイヤー
12 アメリカ  ?
13 日本    ?
14 男女比率  人口問題の第二弾は、ちょっとシリアス
15 おおた
15 リサイクルショップ 関東最大(級)リサイクル店?
15 検索  ?
15 鴨池公園 近隣事件簿(4)鴨池公園殺人事件+おまけ
19 ブログ  ?
20 ユニクロ  ?
20 羽生   ?
20 寒川神社 初詣は寒川神社へ
20 現存12城 5泊6日の城めぐりplan(1)現存12城攻略アーカイブズ
20 首都高  日本橋上の首都高移設で検討会設置
20 将棋   ?

しかし、気になるには3位の「ギッフェン財」。1月28日まではトップだったのだが、「価格が下がると、需要が減る」という性質の経済現象をドイツの経済学者が説明したのだが、「経済学者はなんと非現実的なことを考えているのだろう」という例に使われていた。エントリを読んでもらえばわかるが、国民の階級が上下二分化すると、下側の階層の中に、こういう現象が現れるのかもしれない。と思いながらも、どこかの経済学部のレポートに吉野家の話が多発しているのだろうか?と心配になる。

ninjaで分析しているのだが、「生ログ」を眺めていると、記事を一つずつさかのぼって読み進まれる方もいて、ありがたいと思うし、同一IPから1時間に連続150アクセスがあったりすると、何か機械的な行為が行われているなって疑うこともある。では、  
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GO!GO! Freedom!

2006-01-30 00:00:11 | 市民A
17b7a73f.jpg先週末、HIS社の株主総会があった。HISは格安航空券販売から出発した旅行会社だが、今や日本のトップ企業。創始者の澤田秀雄氏は今でも3割強の株を持つ大株主で、代表権は鈴木社長に任せているものの実質的には彼の会社である。

そして業績は17年10月期も昨年比売上げ15%アップ。株式分割は一昨年1:1.5で実施したが、1年で分割前の株価に戻った。つまり、持っているだけで資産が1.5倍になるわけだ。ところが、先日株価が急落した。原因は、澤田氏が持つ、もう一つの会社であるHS証券の副社長が沖縄で怪死したことによる。

新宿のヒルトンで行われた株主総会では、それに関しての質問があった。澤田氏本人から聞きたかったのだが、総会議長の鈴木社長が「資本関係も、取引関係もない」と説明した。まあ、予想通りだが、半分くらい安心できた。実際には、澤田氏がコケるとHISもコケる可能性があるということなのだから、HIS側の回答だけではやや不完全か。沖縄の事件のその後は、よくわからないし、壇上の澤田氏の表情からは何も読めなかった。

そして、質疑だが、あまりリアルに書くと株主として損なので、アバウトで書くと、「チケットサービスは良好だが、ホテルが今一。有名ホテルの低級な部屋になる傾向が多い」とか、「ネットサービスが充実していない」とか「クレジットが使えない」とか「海外スタッフが・・・」とか「従業員の勤務時間が長い」と書くと、ややクレーマー風なのだが、むしろ「もっと、稼ぐにはどうすればいいか」ということへのアドバイスのようなものが多い。いつも為になる株主総会だ。

ただ、売上げが15%増に伴って人件費とシステムを中心にコストが10%アップになっているのだが、「ネット展開と採用人員増」というのは矛盾した方向であり、ちょっと気になる。今後、「シニアと法人の取り込み」という方向は、今までのHISの「自由旅行」という方向と何かそぐわないのも気になる。ある株主から「団塊世代なんて顧客としては切り捨てればいい」という趣旨の発言があったが、出席している株主の多くは団塊世代であるようにも見えたのが皮肉なものだ。

そして、去年は新大久保のホールで開催されたのに、今年はヒルトンホテルということは、総会後にパーティがあるということを意味する。旅行会社にふさわしく、世界の料理が振舞われる。

が、別に世界中の料理を食べるわけでもないので、高額素材に絞ることにする。中華コーナーにアワビがあった。アワビはみかけが地味だから、パーティの最初には誰も気が付かない。そのうち、あちこちから小さな声で「アワビ・アワビ」とか聞こえてくるのだが、先回りする。そして、カニと牡蠣をつまみ、ケーキ類を口にして、ヒルトン特製のバナナ味のホテルパンをお土産にいただき、一足先に会場を後にする。思えば、一週間に3回もパーティだった。

ホテルを出たあと、よく考え直すと、もしかしてまだ会場に残っていたら、一等「ハワイ旅行」の抽選会でもあったのではないかと、心配になったが、二等「SHINJO 選手のサイン入り野球帽」など当たっても困るので、すっかり忘れることとした。

それにしてもHISのコピー、”GO!GO! Freedom!”ってまったくSHINJOのためのことばだ。  
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千葉市美術館のスイス現代美術展

2006-01-29 07:36:31 | 市民A

58d25277.jpg千葉市美術館で「リアル・ワールド=スイス現代美術展」が開かれている(2月26日まで)。新しい美術館であるとは知っていたが、行ったことがなかった。1995年の開館だが設計が1989年ということで、「バブル系」かと思っていた。私見だが、東京近辺のバブル美術館としては、東京都現代美術館、世田谷美術館、横浜美術館の3館だと思っている。広い庭園、石造りの建物、室内も石質タイル、レストラン付き。そして、広い展示ルームにはなぜか生涯7万作を描いたピカソの絵画が・・・

そして、千葉駅から10分ほど歩いたところにある千葉市美術館。確かに建物は立派だ。都庁の建物の最上部の10階分とデザインは同じように見える。しかし、庭はなさそうだ。そして、建物に入るとわかったのだが、美術館として使っているのは、7階から9階までで、下のほうは区役所になっている。エレベーターに乗ると1階から5階までは区役所で7階から上が美術館。それでは6階は?というと、なぜかエレベーターのボタンもない。1、2、3、4、5、7、8・・。そうなると6階に何があるか知りたくなるのが人情だが、よくわからない。私の想像だと、「区長室」ではないだろうか。時代劇では、指名業者が風呂敷包みを持ってくる部屋だ。

そして、スイス現代美術といってもよくわからない。第一、スイスの評判は日本ではよくない。秘密講座や、妙なファンドを作って年収1億円以上の日本人契約社員に怪しいビジネスをやらせている。例の社長の会社も関係があるらしい。しかし、こんなことを書いていると前に進まないので、美術の話をする。最近、日本で現代美術展と言えば、東アジアの喧騒と自信と映像というようなにぎやかな作品が多いのだが、西欧の現代美術はだいぶ趣が違う。東アジアの芸術が、20世紀末に忽然と姿を現したのと対照的に、西欧タイプは宗教画から始まる西洋美術史の中の現在進行形の1ページということだ。だから、強烈さはないが、安心感がある。

58d25277.jpg最初の展示室はモゼール&シュヴィンガーの作品で、暗い展示室の片側に木製のステージがあり、椅子とマットがある。そして反対側の壁にはヴィデオ映像が映し出される。ステージの上の木製の椅子には座っていいのだが、ステージに上がっただけで、きしむ様な音がしたので断念。

私が感心したのが、ウーゴ・ロンディノーネの137枚の写真の部屋。それぞれ海辺で男と女が写っているのだが、どうも男の側から見た女と女の側から見た男が表現されている。自己と他者という実存主義なのだろう。あやまって、一枚に二人が写ったシーンがないか、探したのだが、そんなへまはしていない。

ファブリス・シーズ作の赤いエアマットは、地上1メートルくらいの高さで、エアでビニールマット膨らませているのだが、上に乗っていいことにはなっているのだが、誤って穴をあけてしまうと、ただのゴミと化してしまうので、遠慮。

まあ、全体にこういうものだろうと思うが、入場料(800円)の割りに、作品が少ないようなので、併設して行われていた千葉市高校美術工芸展をのぞく。実は、私も同じカテゴリーだった。入学する時の偏差値が高いだけの高校での3年間で、5段階評価で「5」を取っていたのは美術だけだったのだが、最近のレベルはどうかなってちょっと興味あり。さきほどの有料展覧会の作品数は少ないが、無料の高校生大会は大量の出品だ。出身校の美術部の作品は、ちょっと平凡。なにか技巧に走り、感動が無い。「イノチヲカケル」といった意気込みがまったく感じない。

ところが、会場の中で他校より3段階位レベルが上の高校があった。「県立千葉南高校」。全員、レベルは群を抜いているのだが、中でも3年生の池田真実さん(さんか君かよくわからないが)は、プロ領域だ。もう完成されてる。美術館に並べても遜色ない。「人物」2作。そして、一歩劣るが2年生の井澤明希子さん。「花」を出品。プロまであと一息。この二人、進路はどうなるのかよくわからないが、「命がけ感」が漂う。ネットで検索してもこの二人の名前が拾えないところを見ると、まだプロではないのだろうが、もしギャラリー関係者で、金の卵を育てて金儲けしたいなら、すぐに千葉南高校美術部へ電話の一手だろう。  

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最近の図

2006-01-29 07:29:56 | 市民A
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棋士彩々の竜王戦就位式

2006-01-28 07:25:45 | しょうぎ

「就位」(しゅうい)は、大昔は「襲位」と書いたのだが、「襲う」という漢字は新聞にふさわしくないということで、廃止されたのだろうか?とかいきなり考えてしまう

さて、将棋界の最高峰は、江戸初期から繋がる「名人戦」であるのは間違いないのだが、朝日・毎日の名人戦争奪戦争の結果、貧乏な毎日新聞がスポンサーになってしまい将棋連盟も金策に困っていたのだが、社の方針が「娯楽記事中心」という読売新聞と相互の短期的目途が一致した将棋連盟が、「(賞金額)最高位のタイトル戦」と打ち出して「竜王戦」を作った。

fbab3538.jpg今回の竜王戦は、昨年タイトルを獲得した21歳の渡辺明竜王が挑戦者の木村一基七段を七番勝負で4勝0敗と粉砕。内容的には全く盛り上がらなかったのだが、「仕事は早いほうがいい」という一般的な勝負の鉄則通りだ。

就位式は、米長邦雄将棋連盟会長のスピーチで始まったのだが、列席の読売新聞の重役達を意識して、読売新聞を持ち上げるのだが、正力松太郎氏をずいぶんほめていたが、竜王と同じ苗字の人物のことは、一言もなかった。「本人がいないところでは、シカトする」という新聞社内のルールをよく知っている。

そして、允許状の授与のあと、読売から優勝カップと賞金授与。大きな祝儀袋の中身は3,200万円なのだが、和服の懐に入れず、椅子の上におきっぱなしにして、オードブルのテーブルに行ってしまったところを見ると、中には現金は入ってないのだろうと推測。あるいは、彼にとっては大金ではないのかもしれない。


ところで、将棋界にも派閥構造が存在する。大きくは、中原前会長を中心とした「高柳派」と言われるグループと米長邦雄現会長を中心とした「佐瀬派」というグループだ。そして、今回のような新聞社主催のパーティには、両派が出席するが、普通の「○○八段昇段パーティ」というような私的なパーティは、派閥内で行なわれるのだが、中間派は情勢を見ながら、あちこち重心を移動させる。プロの四段になるには、奨励会に入らなければならないのだが小学校高学年の時だ。その時の師匠が所属する派閥が、強いか弱いかなんて、見極められるはずもないのだが、結構、後でこれが物を言う。

普通、プロ棋士の収入は対局料だけだと思われがちだが、色々と副収入はある。公開対局のように立派なのもあれば、将棋大会の審判長とかこども将棋の客寄せ、あるいは雑誌に掲載される詰将棋だって有名棋士の名前になっているが、下請け、孫請けの世界だ(あまり書くと、石の下にいる師匠に破門されるのでここまで)。棋士はすべて個人事業者であるから、仕事=おカネということになる。カネの流れの上流を押さえることが、一門の繁栄のためには重要なのだ。

ところで、少しためになった話がある。彼の書籍の発行元である浅川書店の社長の話なのだが、渡辺竜王は、1年前にタイトルをとった直後から、既に1年後の防衛戦のことをイメージしていたそうだ。彼の予感の中には、最強男である羽生善治が、7大タイトルを1年間で全部奪っていき、防衛戦の時には、自分の持つ「竜王」以外のすべてのタイトルをとり、最後の一つになっている、という予想していたというのだ。カメラはすべて羽生六冠の顔を写すために、自分の後ろに回ってフラッシュを光らせる。そういう心理的に不利な条件を頭に思い浮かべてイメージトレーニングしていたそうだ。

そして、実際には、羽生善治六冠にはならず、四冠止まりであり、さらに竜王戦の挑戦者にはなれなかったわけだ。

驚くことに、このイメージトレーニングの話は、パーティの数日後には全棋士や強豪アマには知れ渡り、将棋指しのブログを読むと、イメージトレーニングを始めたものばかりだ。(といって全員がこれをやれば、効果はない。あくまでも平均勝率は50%になのだから)


ところで、パーティの主役はもちろん渡辺竜王だが、4歳年上の奥様と1歳半の長男と一緒で被写体になってくれた(というか、みんな勝手に写していた)。こどもの目つきがきつい。彼のブログを読んでいるのだが、将棋の駒をニギニギして放さないそうだ。ナニワ方面には「あきんどの 子はにぎにぎを よく覚え」という一句があるが、この子の将来も楽しみだ???

そして、35歳の新四段の瀬川氏も来ていたが、並ぶと私より背が高い。プロはこどもの時分から正座するので、私より背が高いのは少ないのだが、150人のプロの中でも上から5番目くらいではないだろうか。

そして、ついうっかり、ある暴力棋士(九段)のいるテーブルにいることに気が付く。数年前、成田空港で乗り遅れた腹いせに航空会社のカウンターで暴力行為に出たところを逮捕された。パーティの初めの頃はウーロン茶を飲んでいたので、他の棋士も寄ってきていたのだが、そのうち誰も近づかなくなった。よく見ると飲み物が水割りに変わっている。何しろ、このパーティに出席しているメンバーはプロでもアマでもほとんどが高段者で知能指数が高い(はず)。暴力棋士の飲み物が危険物に変わったことを見逃すわけはないのである。

そして、私も危険を察知し、ローストビーフ、天麩羅、握り鮨、鯛茶漬けをたいらげデザートを口に押し込み会場から逃げ出すことにする。  
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PROOF OF MY LIFE

2006-01-27 00:00:55 | 映画・演劇・Video
2a99a4d4.jpg数学者の映画が二作上映されている。一つは「博士の愛した数式」という小川洋子原作の映画化で、あちこちで評判なのだが、もう一作「プルーフ・オブ・マイ・ライフ」の評判は、あまり盛り上がらないので、応援に行く

監督ジョン・マッデン、主演女優グウィネス・パルトロウといえば、アカデミー賞7部門を受賞した「恋に落ちたシェイクスピア」の快作コンビで、当時は2回、劇場に足を運んだ。本作は「2006年アカデミー賞最有力候補」などと書かれているが、よく考えればあまりそのコピーには根拠はないかもしれない。「オリバー・ツイスト」も有力ではないかな。まあ、賞なんかどうでもいいが。

詳しく、ここに筋立てを書くのはマナー違反なので、あっさり書くと、シカゴに住む数学博士とその娘の話で、若い頃に世界的権威だった博士(アンソニー・ホプキンス)が、精神的疾患を病み、世話をしていた娘が替わって研究を引き継ぎ、そのノートを発表するのだが、そのノートは娘が書いたのか、博士が書いたのか、証明(プルーフ)は困難であり、そこに娘の恋人であり、かつ博士の弟子の男性がからむというような話。結構、「博士の愛した数式」と重なる。

この作品は、ともかく重く、グウィネスの狂気じみた表情・演技が続くので、ファンにはたまらないのかもしれない。ただし、「シェークスピア」の時のように、どこまでも明るく、まっすぐな意思を持ち、すべての出演者が個性をぶつけて人生を前進するというような、単純さはまったくない。

出演者の誰が正しく、誰が間違っているのか、あるいは何のために人は行動するのか、そしてこの映画は、どこからきて、この後、どこに向かうのだろうか?何も答えはない。

そして、思い出さなければならないのは、「シェークスピア」は1999年の作。911の前と後では、映画は変わり、ハリウッドはすべてこんな調子だ。この映画がアカデミー賞で評価されるとするならば、アメリカ自身神経症の国になっているのだろうと予測しておく。


余談1:いつも、思うのだが、上映の前に、次々と広告映画が映されるのだが、グウィネスの映画を観にきている人に、眼球から緑の血が噴出すようなフィルムを見せても、まったく効果はないと思う。そして、怖いので目を閉じていると、本編が始まってしまった。

余談2:英語で数学を習う機会がなかったのだが(というか、回避した)、虚数(二乗するとマイナスになる数)のことを「i」と書くが、英語では、imaginary number という美しいコトバで呼ぶことがわかった。「虚数」では可哀想だ。もう一つ、素数は、prime number と言っていたが、こちらは事務的な言い方だ。  
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田勢康弘氏講演会

2006-01-26 00:00:06 | 市民A
f9b1b734.jpg先週末、田勢康弘氏の講演会へ行った。日本経済新聞社に所属するコラミストという妙な肩書きだが、おそらく社内の定年制とかの関係で、社員のような社員でないようなという微妙な位置に座っているのだろう(と勝手に憶測)

1944年中国で生まれ、日本経済新聞社記者として政治畑を歩む。1996年には「政治ジャーナリストの罪と罰」という名著を書き、栄えある”記者クラブ賞”を受賞。日経という「経済紙の中の政治記者」という微妙な立場が、逆に彼のような個人パワーのある人間を作ったのだろうと推測。朝読の記者の方は何人かずつ知っているが、要するに良い記事を書くということと良い地位を得るということが、直結しない(というか無関係というか)ところから、何か言動に信用できないところがある(逆に日経の経済部門の記者はどうかと言えば、感情を表に出さない人が多いように思える)。

講演会は夜7時から東商ホールで行なわれたのだが、「小泉後の日本政治はどうなるか」という、漠然としたテーマ。「特に原稿は用意しないよ、まじめに聞かないでほしいな」というようなテーマではあるが、政治記者に未来の予測ができるわけでもないことは自明のことだから、まあいいかな。

まずは、小泉総理のことから。
誰でも知っている血筋のことや、信長と決定的に違う「性格の臆病さ」について例をあげて紹介。中曽根元老からクーデターと言われた「永年保証の議席を奪った」ことや、田中真紀子外相を「クビ」にした時の小心行為が笑いをとる。そう言われると、平服で賽銭のコインを投げた「みっともなさ」も、彼の行動形態としてはわかってくる。資産に対する欲望もなく、もっとも親しい友達は土井たか子ではないか、と田勢氏は言う。役所や会社という団体に所属したことがなく、慶応大を+2年で卒業後、ロンドン大学で遊学中に、親の訃報を受け政界入りしたので、もとより派閥的行動というのがわからないのだろうということらしい。

そして政策課題は、信長のように、すべて反対者をつぶしながらここまできたものの「皇室典範改定」だけは無理ではないか?という読みが出た。唐突すぎて、「なぜ、今・・」という声が多いそうだ。次に、昨年の総選挙の話。まず、昨年の衆院解散直前のドタバタについてだが、例の小泉-森会談の直後に、森氏がテレビカメラの前で潰したビール缶と乾燥チーズを手にもって、首相の「死んでもいい」という発言を紹介した段を、「芝居ではないかと思っている」と発言。(私は、見て1秒後に「下手な芝居だ!」と確信したが、案外、真に受けている人が多いらしい。私は「クールビズ」も選挙用に準備された仕掛けの一つだろうと見ている。)そして、自民優勢という状況で迎えた投票日直前に自民党本部に入る小泉総理を自民党本部の職員が迎えるとき、全員が起立して迎える、という図は、数年前の北朝鮮と同じだそうだ。(ホワイトハウスでもブッシュになって、毎朝こうなったそうだ。ブッシズムというらしい。)

そして、今年の総裁選の大きな要素として、今回の83人の新人議員の動静が大きいと分析。つまり、今、噂される候補でも、83人の存在を無視しては、小派閥においては20人の国会議員の推薦もあぶないのではないかということだ。

そして、総裁選の話。
まず、早期退陣説が浮上しているが、そういう説が流れている限り、任期いっぱいまでやるのではないかということ。そして、本当は、どういう流れになるかわからないが、という前提での発言だが、首相が次の候補として強く希望している人物は、「誰もいない」のではないだろうかということらしい。特に「安部」とは絶対に思ってないだろうと。要するに「節のない青竹」だからだそうだ。ただし、あえて心の中にうっすらと映っている名前は、「1.竹中、2.武部、3.中川(秀直)」ではないかと予想されていた(私も竹中だとは思うが、そこに誘導するプロセスが問題なのだが、そこに例の「小泉命の83人」が登場するのかもしれない)。

後段のQ&Aの時間に、「小泉続投の可能性は?」というQがあったのだが、確かに、政権交代直前に、支持率が上がっていくというのは史上例がないと前置きし、好きなオペラや映画、書籍などのタイプから言うと、惜しまれながら拍手をもって去るのが好きそうだ、ということから「一回は退陣し、消費税増税と外交問題で次期政権が短期でボロボロになるのは目に見えているので、選挙用にもう一回再登板するのではないか」とシニカルに予測していた。(細川護熙と陶芸の釜を並べるのは、そのあとかもしれない。)

ということで、なんだかゆるい感じの講演会は終了。個人的感想からいうと、田勢氏の話は、ちょっと話の筋立てが長く、一つの文脈が終わるまで結論がどこにいくのか見えにくいことが多く、ちょっと聴くのが辛いところがある。部下をずいぶん泣かせただろうと推測。そして、竹中以外に私の予測する次期総裁候補は、もう一人の中川である中川昭一ということにしておく。  
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劇場型警察国家の片棒かつぐマスコミ

2006-01-25 00:00:05 | 市民A
ライブドア事件は1月16日の東京地検によるライブドア本社、新宿のサーバー、社長宅の一斉捜索で、スタート。マスコミ情報の共通項からいえば、役員からの事情聴取が済み、その結果、堀江社長はじめ4人が逮捕される。一方、ライブドア側は、違法行為にあたらないと主張を行っている。解釈の違いということだろう。東証は一時は即時上場廃止をほのめかしたものの、有罪にならなかった場合、自分の方が取引所廃止に追い込まれることに気付き、意味のないマイルドな方法をとる。そして、システム不備が露呈。

そして、マスコミは特にフジテレビをはじめ、推測と地検からの情報操作に乗り、犯罪行為と断定し、世論を煽っている。

ところで、ここまでの報道をみていて、少しは企業会計のことを知っている人なら、ずいぶん首をかしげている向きも多いはずだ。方法が古典的過ぎる。

まず、
1.連結前の会社の利益を取り込み、単独決算をよく見せた件。
 よくある話ではないだろうか。むしろ、実質的に支配下にある会社を連結外において、財布のように使っている会社が多いのではないだろうか。売上げを借りて、出荷前の倉庫の中の製品を売り(空売りということもある)、保管契約に変えたりするわけだ。「これくらいはどこでもやっている」と80KM/H規制の道路で100KM/Hで走ったようなものだろう。(念のため書いておくと、どこの会社がそういうことをやっているとか具体的に知っているわけではない。)

2.投資事業組合をからませ、買った株を一時的に隠しておいて、これから買うような発表をする。
 一部はクロで一部はグレーだと思う。スイス人の考えそうなことだと思ったが、やはりそうだったようだ。

3.分割手法
 場外取引と同様、実施時点では合法。

普通の会社と違うのは、「粉飾行為」は会社がつぶれそうな時に行うので、同情を買い易いのだが、今回(粉飾と断定されたとしてだが)は会社を大きくしようとした時に行われていること。

そして、およそ会社の経理部というのは、こういう決算操作を行うための部であるといっても過言ではないのではないか。世間には会計事務所はたくさんあり、自社内に経理部社員を抱え込むより長期的には安い。第一、本来、SAPとかを導入している会社なら、決算期が終了した翌日でも決算ができるはずなのに、公表するのは1ヶ月以上先になる。米国だと10-20日後に決算は発表している。それと、経理出身者が役員に入っている会社は、たいていダメだ。錬金術に頼っている。

次に、
「重要な意思決定がメールで行われている」と報じられているが、「そんなはずはない」と思う。SB社の例を聞いたことはあるが、電子決済ではあるが、メールでできるとは思えない。だいたいメールとは一方通行である。まさかチャットでもないだろうし、その辺は、会社の意思決定ルールがあり、それが基準となるはずだ。メールで○○しなさい、と指示をしても、後で電話で取り消したとか言われれば、証拠にするにも簡単ではないはずだ。

そして、グレーゾーンをクロと言う人とシロという人が交錯しているのだが、今までの日本はじめほとんどの国は、グレー=シロだ。だいたい、リスクの質を見極めできる人間だけが投資に参加すべきなのだから、グレーで泣いても自己責任だと思える。第一、ライブドアの株価はライブドア単体決算の黒字で評価されているわけではない。

そして、錬金術と決定的に違うのは、ライブドアはM&Aの過程に錬金術を用いるだけで、取得した企業を本物の金にすべく努力は行っている。営業不振で株価が安くなった企業を再生させて、コングロマリッド化しているのだから、投資ファンドより立派ともいえる。

もう一つ、注目点は、こういう事件で本来もっとも責に問われるべきは、社長ではなく「監査役」なのだが、有価証券報告書に記載されている常勤監査役(その他、非常勤2名)はS氏というのだが、経歴がおそろしい。
 昭和18年12月9日生まれ(62歳だ)
 昭和43年3月 警視庁警察官
 平成12年9月 神田警察署署長
 平成15年12月 ライブドア社監査役
つまり「用心棒」? 何のための用心なのかは、わかるような気もするが・あるいは、「・・Y?」。彼の受ける罰則には注目だ。


東証のこと
 未だにわからないのは、1日の取引件数総数規制。普通、発注すると、即座に約定する。だいたいそういうものだ、瞬間的なピーク時で上限があるという説明なら納得しやすいのだが、全体件数というのは、よくわからない。たとえば、2時59分まで誰も発注しないで、2時59分に突然500万件のオーダーが殺到しても対応できるということなのだろうか?

ライブドア上場廃止の件をほのめかしたようだが、早い話、違法かどうかはっきりしていないし、ライブドア側がシロといっている段階で上場廃止するのは乱暴すぎるのだが、仮にこのまま株価が下がり続けると、今度は巨大なマネーゲームが発生するような気がする。

よく言われるのだが、日本の東証一部は日本の大学と同じで、入るまでが大変だが、入ってからは怠けていていい、という状態だ。東証一部を超えるスーパー証券所を設立したらどうなのだろう。もちろんシカゴグローベックスと同様、24時間オープンにする。

不透明といえば、みずほ証券のジェイコム誤発注事件でも、もともとのオーダーである1株というのが、どういう経緯で、顧客の手に渡されていて、なぜ上場当日直ぐに売却されたのかということについては、一部に流れているうわさのとおりとしたら重大な問題があるわけだからこれだって調べなければまずいだろう。

そして、今回の強制捜査が16日夜から12時間にわたって行われたということについて、アネハ事件隠しとの声があった。確かに国会での証人喚問から目をそらす効果は十分にあったのだが、最初はこれはある政権上の力が仕組んだのではないかとも勘ぐっていたのだが、冷静に考えてみると、目をそらしたかった動機が一番強い組織は、「警察」そのものではないだろうか。

アネハについては、これこそマンションという動かぬ巨大な証拠品がありながら、大きな罪を構成できていない。かといって共同謀議を立件するには共同意思が必要だが、それを証明することは難しい。そのうち回ってくる批判をかわす必要があったのではないだろうか。何か、アネハ事件の方がライブドア事件よりも軽いと錯覚しそうになる。

そして、今一つ引っかかるのは、捜査時間の異常な長さ。証拠を押さえることができたのだろうか?100台のパソコンを持っていったらしいが、以前テレビで聞いた情報では、ライブドアはパソコンは社員が私有物を持ち込むことになっていた。会社に捜査が入って、個人のものを持っていったのだろうか?

そして、マスコミ側は勉強不足から取材能力が低下し、警察情報に頼りきりになっているとしか思えない。団塊世代引退後の技術伝承問題は、時々問題にされているが、マスコミもその例に漏れないのだろう。

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金しゃちビールいただく

2006-01-24 00:00:14 | マーケティング

23269c55.jpgカール・ユーハイム物語をとりあえず書き終える。本来ならすぐに後書きを書くべきだが、少し疲れたので数日後にする。それと1週間色々なことが起きた。だいたい普通のブログを書けなくなったのではないか、とも自信なし。

さて、先週、都内の某所で相互愛読者関係にあるpuramuさんと、会食。普段、中京地区をホームベースとしているpuramuさんが、上京されたおりに、ということで。

ところで、ブロガー同士が、外で待ち合わせる場合、色々困ることがある。双方初対面なので、顔がわからない。こういう場合、色々な方法があるが、以前、あるカタカナ系生命保険会社の方から、トレード話があった時は、都内のホテルのロビーに、相手の会社の方が、「It's a SONY」という紙袋の手下げをぶらさげてきた。今でも、時々その紙袋を持った人間を見かけることがあるが、進歩なしなのだろうか・・・

もちろん携帯電話もあるが、いい大人がはずかしい。「もしもし、puramuさんですか」「はい、私です」と電話ではなく、隣の人にいきなり肩を叩かれるパターンである。そして、もう少し、先進的な方法として、画像を送る方法がある。事前に先方に自分の画像をメール添付して送る。そうすると、同様に画像が返ってきた。ブログの内容から想像するのと95%は似ていた。

そして、当日・・・画像と本人の差は5%以内だ。つまり、50メートル先から本人を特定できることになる。そして、近づくにつれ、第一声をどのように話し掛けようか、歩きながら思いをめぐらす。そして、口を開こうとした瞬間に、puramuさんから「おおたさんですか・・」。先手を取られた。50メートルの間の思考と作戦はすべて飛んでいってしまった。そして、飲み屋に直行。

以下、記憶は定かでないのだが、岡崎城が明治維新の時に解体され風呂屋のたきつけになったことや、江戸城の石垣の焦げ目の不思議や、マクロベースではサラリーマンの給料を上げて、自社製品をたくさん売りまくりたいものの、ミクロベースでは自社の社員の給料だけは上げたくないと発言しているある自動車メーカーの会長の話をしたような・・

そして、嬉しいことに「金しゃちビール」を頂いた。青ラベルと赤ラベル。ココストアーで買われたそうだ。ラベルが派手だ。にゃっ、にゃごやあ、だ。・・・。そういえば、金色ランドセルも・・・

さっそく、飲んでみると、青ラベルの方は、濃厚系で「うみゃ~うみゃ~」(赤ラベルはスタウト系で、「まあ」といったところか)。大手メーカーより製造コストが高い(規模のメリットが生かせない)分、どうしても、小メーカーは高級志向に向かうのだろう。テイストは日本ビールとドイツビールの中間か。カール・ユーハイム氏に飲ませてあげたい。麦芽とホップだけでできている。この味も、関東にくれば受けるのに・・と思ってしまう。

ひつまぶしや味噌煮込みうどんの老舗がどうして東京にこないのか、前から考えていたのだが、最近、個人的には結論を出した。

「ケチ」だからだ。

補足すると、「うまいものを他国の人間に食べさせたくない」のだろう。

それにしてもビールのラベルは多くの社が金ぴかなのはなぜなのだろうか。さらに京橋の旧麒麟麦酒本社の前に立つキリンのモニュメントもアサヒビール本社の上に乗る謎の物体も金色である。

そして、金しゃちビールのお土産返しを持って、そのうち「にゃごや訪問」をすることを約束したのだが、さてお土産は何がいいのだろうか。関東産の金色グッズ。確か東京タワーの展望台に金色の模型があったかな?金色ではないが、金太郎飴とか、それともエバラ黄金のたれとか?多少色が違うが、自分では一度も食べたことのない「東京ばなな」でもいいのだろうか。と、浅く悩む。 

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カール・ユーハイム物語(8)

2006-01-23 00:00:00 | カール・ユーハイム物語
ユーハイムはもちろん、ユーハイムズ(JUCHHEIM'S)であった。カールとエリーゼの夫婦の二人で築き上げたものであることは間違いない。となれば、1945年8月14日にカールが亡くなった後のエリーゼについても書かなければならない。

カールは六甲山ホテルで亡くなったのだが、もはや日本には棺となる木材も満足にない。急を聞き集まった在留ドイツ人たちは海軍の水葬に使うような麻袋にカールを包み、皆で火葬場へ担いでいったということだ。何度かの新規開店の際、金銭的余裕なくベッド代わりに麻袋の上で寝ていたカールには、それも似合いなのかもしれない。エリーゼはすっかり骨になったカールを背中のリュックに背負い、自宅に持ち帰ってから、お手伝いの女性に、「この中に、だんなさん、いる。」と短く言ったそうだ。

そして、エリーゼにはさらに苦難の道が続く。連合国の指示により、長く在住した日本からドイツに送還されることになる。長男ボビーの行方はまだわからない。ボビーの妻、マルゲリータと4人の孫たちと一緒にニンローデに向かう。この町は、カールが神経症で入院した町であるとともに、ボビーとマルゲリータが結婚式をあげた町なのだ。

そして、エリーゼは23年前、関東大震災の時、行方のわからなくなった9歳のボビーを探し回った時と記憶を重なるかのように長男の消息を追う。戦友を訪ねまわり、彼がノルウェー、フランス、イタリア、ギリシア、キプロスと各地を転戦したあと、ドイツが全面降伏した1945年5月にはウィーン郊外で情報班下士官だったことまでをつきとめる。しかし、今度は幸運はなかった。ドイツ降伏のわずか2日前、5月6日、ボビーは流れ弾にあたり死亡していた。30歳だった。

7c5b2037.jpgしかし、ユーハイムは死ななかったのだ。かつての職人たちが連絡を取り合い、ブランドの再興をめざしたのだ。神戸生田に店舗が復活したのが1950年(昭和25年)。そして1953年にはついにドイツから再び、エリーゼ・ユーハイムを迎えることになる。エリーゼが自ら店頭に立っている写真も残されている。

この後、ユーハイムには河本春男というこれも変わった経歴の持ち主が加わり、社長となったエリーゼを支え、近代的な大会社に育てていく。

そして、ついに1971年(昭和46年)5月2日、六甲の麓でエリーゼ・ユーハイムは永眠する。79歳。彼女もまた運命と苦闘した一人の偉大な地球市民であった。

夫妻は今、故郷から遠く離れ、芦屋市にある芦屋霊園の一つの墓に眠っている。




7c5b2037.jpg私は、このシリーズを書き終えるにあたり、ユーハイムのレストランを探していた。どうもルーツの一つである銀座や横浜などにはないようだった。ネット上で調べているうちにJR中央線千駄谷駅近くにあることがわかり、近くに所用があったこともあり、遅い昼食をとることにした。東京体育館の向かい、津田ホールの地下にレストランはあったのだが、かつてこの道を故あって100回は通っていたことに気付く。

初めて入った店内は地下ではあるが明るく、若い女性達で華やぐ。初めてユーハイム夫妻が横浜に出店したときのランチが1円25銭だったことを思い起こし、税込み1,350円のランチにしようかとは思ったが、スープ、オムレツ、ハーフパスタ、パン、デザートにコーヒー付きを食べられるほどの胃袋は過去のものだ。ドイツの香りが欲しく、ハンバーグランチにする。たまねぎやパン粉といったつなぎをほとんど使わないハンバーグはやや固めではあるが、甘みは少ない。そして、付け合せはマッシュルーム、ナスのバター焼き、クレソン、そしてジャーマンポテトという組み合わせなのだが、ジャーマンポテトを口にしたところ、ますます胸がいっぱいになってしまった。

外に出れば、折から雪雲がひろがり、北風が笛を吹き、めまいと息苦しさに襲われ、空を向いて歩くことにした。
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カール・ユーハイム物語(7)

2006-01-22 00:00:32 | カール・ユーハイム物語
巨大な津波が押し寄せる前には、突然に潮が引き、美しい砂浜が現れるという。ユーハイム家にも一方で平和と希望の兆しと、他方、迫り来る運命の足音が交錯することになる。

1932年(昭和7年)、ドレスデンにあるフリーメーソン系の学校に行っていた長男ボビーが退学し、日本に戻ってくる。そして、菓子職人の道を進むことを宣言する。17歳の決断。もちろん、両親ともそれが、最高の望みだったわけだから、家に活気が出てくる。そして、一応の技術を教えたあと、再度本国の専門学校に送り出すことになった。ボビーはその後、1939年(昭和14年)に日本に戻るが、その時はすでに2年前に結婚したマルゲリータ夫人とこどものカールハインツと一緒であった。ボビー夫妻はこの後、続けて3児を出産する。

また、経営が軌道に乗ったあとは、時間を見て夫妻で日本国内の旅行をしていたそうだ。奈良・京都はもちろん、夏を軽井沢で過ごしたり、菅平でスキーをしたり、箱根宮の下の富士見ホテルにも泊まっている。50歳を少し回った頃、彼は人生の前半での苦労を振り返り、長男への事業の相続を考え、残る余生を妻と楽しもうと、ごく普通に考えていたに違いない。

しかし、世界中の人々は、それからの10年を恐怖の剣の上で走り回らなければならなくなる。

1937年7月7日。7が三つ並んだ幸運であるべき日、カール・ユーハイムの頭脳に大きなハンマーが振り下ろされた。盧溝橋事件が発生。日中間で銃弾が飛び交う。この事件をラジオで知った瞬間、カールは大きな動揺を受けたそうだ。ショックでふさぎこむ。この後、カールの日常行動には徐々に変調が現れる。馬に乗って街を歩いたり、脈略のないことばを話したりするようになる。大阪長瀬の神経科に入院することとなるが、隙をみて逃げ出したりしている。このため、エリーゼは意を決し、再度、ドイツに戻りカールをニンローデの病院に入院させている。カールの精神には、再度近づく軍靴は耐え難かったのだろう。

一方、戦局の拡大は、ユーハイムの店にも大きな影響を与える。1938年(昭和13年)には、従業員の中から初めての召集があり、その後も一人また一人と櫛の歯が抜けていくのである。さらに、1939年(昭和14年)3月には今までチーフとして、大黒柱だったタムラ氏が通勤中に脳卒中で急死する。

さらに戦局は、アジアにとどまらず欧州で爆発。1939年9月1日。ドイツはポーランドに侵攻。9月3日、フランス、英国が対独宣戦布告を行う(西部戦線)。

1940年、多くの困難に囲まれたエリーゼは再びドイツにわたり、以前、カールの腫瘍摘出手術を執刀したヘカテル医師を訪ね、入院中の夫の病状について相談しようとする。しかし、ベルリンについた彼女を待っていたのは、数日前に死亡した、へカテル医師の死亡を報じた新聞であった。しかし、幸いなことに、カールは以前よりは回復していて、まさに世界戦争の間隙をつき日本に帰ってくる。1940年(昭和15年)6月。カール53歳。

ドイツは翌1941年6月22日に対ソ戦開始。日本も1941年12月8日、真珠湾を攻撃する。そして、歴史の非情さは、27年前、母国ドイツとは遠く離れた中国青島にいたカール・ユーハイムを運命の網に捕らえたように、とうとう、神戸にいたボビーにも手を伸ばしたのである。1942年(昭和17年)8月、神戸のドイツ領事館がボビーを呼び出す。召集。まもなく彼は、潜水艦によってドイツ本国に向かうのである。

その後、日本の国力は日々に低下し、ユーハイムは原料も入手できなくなる。かろうじて神戸に駐屯していたドイツ潜水艦水兵が持ち込む小麦粉でドイツ兵用のパンを焼くだけになる。まれに、配給でわずかな原料が入れば、そのまま闇で流せば儲かると知っていても、一枚でも多くと、できる限りの菓子を作っていたそうだ。

afa4be17.jpgしかし、カールの青島、銀座、横浜、神戸と39年間の菓子職人としての苦闘が終わる日が来る。1945年6月5日。神戸大空襲。エリーゼの避難していた六甲山の知人宅もカールが住んでいた自宅も難は逃れたものの、工場は壊滅。

失意の夫妻は六甲山ホテル109号室に住まいを移すことになるのだが、二つの新型爆弾の被害が報じられる中、1945年8月14日、午後6時、カールは安楽椅子に座ったまま、安らかに深い深い眠りに付いた。58歳。死亡診断書に記された病名は中風症。

時は、同日の御前会議でポツダム宣言受諾が決定し、最終受諾文書を作成中の時刻である。そしてカールの死の7時間後、1945年8月14日、23時、連合国側に打電。

永眠の数分前、エリーゼに語ったことばは、「私は死にます・・・けれど、平和はすぐ来ます・・・神様か、菓子は・・・」そして、ユーハイム物語は、最後の1ページを残すだけになっている。  
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カール・ユーハイム物語(6)

2006-01-21 00:00:00 | カール・ユーハイム物語
1923年9月1日の関東大震災のあと、東京、横浜に居住していた外国人の多くは、神戸に避難をしている。行方がわからなくなった9歳の長男ボビーを残し、カールとエリーゼの夫妻は生後2ヶ月の長女ヒルデガルドとともに英国船ドンゴラ号で神戸へ到着。9月6日に到着すると、とりあえず同胞で神戸塩屋のウィット宅へ間借りすることになる。

その時、家族を支えたのは、妻のエリーゼだった。長女の世話、傷ついた夫の介抱、さらに、長男ボビーの消息を知るため、連日横浜から到着する避難船の間を駆け回り、情報を求める。そして、夫妻への果報は9月10日、横浜からの最終便がもたらした。フランス人たちがフランス船籍で到着。待合場所のオリエンタルホテルに最後の望み持ち向かったエリーゼの前に、ボビー・ユーハイムが現れた。

横浜の店舗で父の救助のため、助けを求めるうちに煙に追われ、現在、横浜球場のある横浜公園に逃げ込むしかなく、そこで二晩を過ごしたということだった。そこを、ユーハイムの馴染み客の、あるフランス人夫人が見つけ、自分のこどもということにして、神戸まで連れてきたということだった。(実は、この時の横浜の瓦礫を海に埋めたことによって生まれた土地が、現在の山下公園である。そして、第二次大戦の横浜空襲の時は、この横浜公園で多くの市民が亡くなっている。)

奇跡的に家族全員が助かったのだが、とりあえず、無一文になったわけだ。そして、新たな職を探し始めたカール・ユーハイムの前には、神戸トーアホテルのコックとして、従業員になるしか道はないような状況であったのだ。さらに、カールはもう一度、横浜に戻っている。そして、瓦礫の山になった元の自分の店舗で営業することが、事実上困難なことを確認している。まさに壁にぶつかってしまったように思えた。

ところが、ここから、いくつかの幸運が始まる。まず、三ノ宮の近くで、横浜時代からの顔見知りであるロシア人舞踏家であるアンナ・パブロバ夫人と出会う。その時、彼女はなぜか、空家情報を持っていた。三宮一丁目電停近くにある三階建ての建物である。彼女はカールに強く出店を求める。そして、彼にとって、この願ってもない話を実現するには、まず金の工面であったわけだ。25c66d5d.jpg

まず、震災に伴う「万国救済資金」を1,500円調達。さらにドイツ救済基金からも1,500円。さらに、原料の仕入れ先として、横浜時代からの業者から商品代1,000円までは貸付という形をとることに成功。ようするに自己資本比率0%で勝負しようとしたわけだ。新たな店名として、ユーハイムズを選ぶ。ユーハイムの後に夫妻で経営するという「S」を付けた。当然ながら、開店前は、またしても過去数度あったように麻袋の上で眠ることになる。

そして、開店と同時に菓子はどんどん売れていく。初日の売上は135円だったそうだ。2週間で、仕入れ業者からの借りの1,000円を返済終了。横浜店の壊滅の結果、故郷静岡に戻っていた、タムラチーフを呼び寄せる。今度は日本人ばかりのベガ(職人)さんとなる。さらにラッキーが続く。万国救済資金から借りていた1,500円が返済免除になる。

そして、開店後1年たち、1924年には、大阪、神戸のいくつかのホテルから購入の申し込みが入る。さらに代理店として、ユーハイムの看板で洋菓子を売る小売店も登場。製菓能力が間に合わず、ついに、店舗の近くの土地を借り工場を建てる。競合店がまだなかったこともあり、経営は好調であった。

しかし、日向の次にくるのが夕焼けであり、さらに深い夜であるように、ユーハイムも徐々に影に包まれていくのだ。

最初の不幸は1925年3月22日。2ヶ月前、高熱で倒れた長女ヒルデガルドが闘病むなしく他界する。さらにカールは右目の下にできた腫瘍が拡大してくる。そして、娘を失ったエリーゼは精神失調に陥る。長男ボビーは学校からは素行不良と注意を受けることになる。家族の崩壊の危機だったのだが、カールの選んだ選択は、妻子を一時、ドイツに帰すことであった。

エリーゼをクーベンツスタインのサナトリウムに入院させ、ボビーはドレスデンのキリスト教系の学校へ入れる。結果、その甲斐あって、1年でエリーゼは退院し、1927年3月、再び日本に帰ってくることができた。そして、夫妻は、はじめて店舗以外の場所に住居を構えることになった。熊内八幡の近くである。さらに、カールは懸案だった眼球下の腫瘍の摘出手術を受ける。当時神戸にいたヘヤテル医師の執刀による。

そして、手術は成功。25c66d5d.jpg次に訪れる危機は経営上の問題だった。それまでは、ユーハイムから菓子を仕入れて売る店が多かったのだが、神戸大丸が洋菓子部門を始めると、大丸のブランドに押されるようになる。さらに競合店が次々に生まれる。「洋菓子のヒロタ」もその一つだ。さらに、当時、ピラミッド・ケーキと言っていたバウムクーヘンの製作技術がいつの間に他社に漏洩してしまう。人の好いタムラ・チーフが他社に教えてしまったのだ。(なぜ、ピラミッドケーキという名前だったか、よくわからないが、開店当時の店内の写真の奥の棚に展示してあるバウム・クーヘンは「円筒型」というより「円錐型」に近い。そこが味の秘伝だったのかもしれない。)

その経営危機に際し、彼らがどうしたかというと、ベガ(職人)の入れ替えを行なったそうだ。タムラチーフが知り合いを頼み、全国から新しい職人を採用したということだ(リストラ?)。最後は、その妥協を許さない本場の味で勝負することになる。1930年には、天皇の神戸来訪時にの食後のテーブルにのるケーキとして、ユーハイムが納品している。なんとか経営危機は免れ、その頃から「神戸のユーハイム」は、「日本のユーハイム」へと拡大していったわけだ。

ところがユーハイムが神戸で苦闘をしている間に、世界情勢には大きな変化が始まっていた。1931年5月。ドイツ総選挙で、ナチスが第一党となる。カール・ユーハイム44歳、エリーゼ39歳、ボビー15歳。  
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カール・ユーハイム物語(5)

2006-01-20 00:00:05 | カール・ユーハイム物語
現在の明治屋銀座店は中央通り銀座二丁目にある。そして、モルチェというビアレストランが、併設されている。このモルチェとユーハイムが勤めていたカフェ・ユーロップとの関係はよくわからない。しかし、現在の明治屋のホームページに記載された社史にも、カフェ・ユーロップや、カール・ユーハイムの名が登場している。3年の雇用契約が切れたからといって、簡単にサヨナラということになったとも思いにくい。おそらく、明治屋から独立するにあたっては、かなり事前に調査をしていたのだろうと推定できる。

その中の一つが、横浜であった。たまたま、あるロシア人が経営するレストランが不振で、店舗を売却できないか打診があった。もちろん、横浜には外人居住地があり、洋菓子の製造ではベーシックな売上げが確保できるとの思いがあったのだろう。af59b0dc.jpg

そして、夫妻で下見に行く。場所は、現在の桜木町駅から県庁方向に弁天橋を渡り、弁天通り沿いにあったらしい。県庁の手前か先かは今ひとつはっきりしないが、現在のマリンタワーの裏の方ではなかったかと思われる。売りに出ているロシア人の店舗はまったく顧客が入らない。地の利なしとあきらめて帰る途中に寄ったレストランで食べた食事は、まずい上に二人で10円(現在価値1万円程度)だったらしく、それもまた彼らの意欲を折るものだったそうである(月給が350円もあったのだから1円の食事で騒ぐこともないだろうが、それがドイツ人なのだろう)。

そして、数日後、商談に来たロシア人に、「顧客もいないし、周りの店はまずくて高い」と断ったつもりだったのに、その冷静なエリーゼの観察をロシア人は逆手にとり、「奥様なら、成功すること間違いなし」と、ことばたくみに、上げたり下げたりで、とうとう店舗の売買が成立する。店名は、エリーゼの頭文字である「E」を冠した「E・ユーハイム」。

しかし、この時、付帯条件として、「そのロシア人の残した借金も肩代わりする」といううかつな契約が後に禍根を残す。開店までの期間に、次から次へと借金返済の督促がくるのである。

しかも、2階建て建物の一階の大部分をレストランにし、残りを菓子工房と調理場にし、2階の大部分を賃貸マンションのように貸室とすると、自分たちの寝室もなくなってしまったそうだ。そして、夫婦は、開店する店舗の営業方針について苦労することになる。競合店の研究などした結果、とりあえずは「ランチサービス」に傾注することとした。周りの多くの店が5円(現在価値5000円)のビジネスランチだったのに対し、なんとE・ユーハイムの戦略は格安の1.25円(1,250円、コーヒー付き)だったそうだ。そして、二人の思惑通り驚異の売上げを達成できるのだが、それに合わせるかのようにその後も、時々、見知らぬ借金取りがあらわれることになる。af59b0dc.jpg

そして、その菓子製造部門の職工であるベガさんとして応募してきたのが、元外国船のコックであったタムラ氏である。彼はその後、長くユーハイムのチーフであったのだ。さらに特筆すべきは夫妻には長男のボビーについて二人目のこどもである長女ヒルデガルドが生まれる。1923年7月9日。

初めての店はきわめてうまくいき、歯車は急ピッチで回転していた。ただし、その歯車はヒルデガルド誕生から僅か2ヶ月弱でまたも大脱線することになる。

関東大震災で横浜が壊滅したのだ。そして、横浜港も瓦礫が散乱することになった。

当時の横浜の震災状況が写真で残っていた。横浜市が保管している。弁天通りの一本となりの本町通りの写真があった。まさに、都市崩壊だ。E・ユーハイムの店でも11名が犠牲となった。内9名は食事中のお客様だったらしい。やはり1階の方が危ないようだ。地震の時間が11時58分ということから想像すると、いつも定刻12時から店に来ても待たされると思って、少し早めの食事を取ろうとしたお客様だったのだろうか。

af59b0dc.jpg地震が発生した時、カールは1階で菓子の製造中であり、崩れるレンガ壁の中、外に出る途中で瓦礫に足をはさまれる。2階にいたエリーゼはヒルデガルドと一緒に瓦礫の中からベガたちに救出される。そしてボビーは父カールの救出が一人では困難であることから応援を頼みにいくところを煙に巻き込まれてしまう。一方、近づく火災に追われ、無理矢理足を瓦礫から引き抜いたカールは足の皮の多くが剥かれてしまうが、何とか堀川を超え、妻と娘とともに南側に脱出することができた。そして、外人専用の救助船に乗り込み、被災外人受入れ拠点となった神戸港に向け脱出することができた。

しかし、その時、家族の所持金は、偶然カールのポケットに入っていた5円札1枚だけになっていた。そして、避難船の上のユーハイム夫妻には、その時、長男ボビーの消息を知るすべはなかったのだ。

舞台はついに神戸に移っていく。
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カール・ユーハイム物語(4)

2006-01-19 00:01:00 | カール・ユーハイム物語
e478a7f3.jpg第一次世界大戦が終結。日本に抑留されていた約5,000人のドイツ人捕虜は、その大部分が兵士であったこともあり、三隻の帰還船で海路ドイツへ向かったのだが、約200人は、日本に残ることになった。

もともと捕虜になったところからして日本側の意図が不明なのだが、その多くは中国青島で何らかの職業を営業していたものであった。つまりスペシャリストである。そして、本国ドイツを離れ、青島まで仕事に行くというものの多くは敗戦後のドイツに戻っても生活の糧を得ることは容易でないわけだ。

一方、日本側の事情も、貴重な欧州の人材をなんとか活用したいとの思惑もあった。たとえば現在、ハム・ソーセージを製造販売している「ローマイヤ」も、その時の職人の一人が興したのである。そして、カール・ユーハイムに目をつけたのが、当時、横浜に本社をおき、京橋に東京支店を出店し、さらに銀座にレストランと洋菓子店を進出させようとしていた「明治屋」である。そして、ソーセージ製造主任1名、レストラン主任1名と一緒に洋菓子部門の責任者として高額のサラリーと3年という複数年契約が提示されたわけだ。

記録によると、カールの月給は350円。カールの下には15名の日本人職人がいたのだが、「ベガさん」と呼ばれる彼ら職人の給料は15円から25円までだったそうなので、いかに当時のカールの給料が高いかわかる。

e478a7f3.jpg銀座の店舗は「カフェ・ユーロップ」という名前で、瞬く間に東京の名所となるが、他店の3倍もの単価だったらしく、著名人が多く出入りし、いくつかの文学作品の中に残像が残っているようだ。そして、そのカフェ・ユーロップの場所を調べたところ銀座尾張新町17番地。本当に銀座の真ん中である。中央通りと三原橋通りの交差する交差点(いわゆる銀座四丁目交差点)。日本でもっとも地価の高い場所である。現在の和光ビルの後ろ側の部分にあたるようだ(交差点に面した特等地には交番があった)。そのころから85年経ち、現在も元の位置にあるのは三原橋通りをはさんだところにある安藤七宝店くらいだ。

建物は地下1階、地上3階で、地下はソーセージ工場。一階が洋菓子工場と売店である。カールの仕事場である。そして2階が喫茶+レストラン。当時はドイツ料理というのが日本では好評だったのだろう。特筆すべきは、レストランであっても、一階で靴を脱ぎ二階に上がったそうである。そして、この2階にはもう一つ重要なことがある。それは、カールの妻、エリーゼが手伝いとして働いていたことだ。よくわからないが、例の20円くらいの給料だったのかもしれない。ただし、エリーゼは決して夫の職場には顔を出さなかったそうだ。

この時、妻がレストランの仕事を続け、その要領を覚えていたことが、その先の彼らの運命に影響することになる。さらに彼女は、結婚前、経理学校に通っていて、数値管理の知識を持っていたわけだ。

ここで、銀座でのカールの働きぶりなのだが、「仕事の鬼」だったそうだ。そして、徹底的にドイツでの仕事を再現していく。妥協なし。毎朝8時に出勤するや、窯炊きから始まるのだが、これが石炭2俵を燃やし尽くして熱を封じ込める。さらに、例のバウムクーヘンを焼く時には、3日にわたり樫の木の薪を燃やし続けたそうだ。そして、石炭機関車のように3年間働き続け、カフェ・ユーロップは繁盛し、3年間の雇用契約満了の日が近づく。そしてユーハイム夫妻は、夢であった米国行きを心に秘めてながら、国内各地での出店をさぐるわけだ。そして、彼ら夫妻と長男ボビーの家族の次の舞台は、横浜へと移るのである。1922年2月のことである。  
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カール・ユーハイム物語(3)

2006-01-19 00:00:05 | カール・ユーハイム物語
fb1e6187.jpgカール・ユーハイムが青島から捕虜として連行された先は、大阪捕虜収容所であった。1915年9月。この時、約5,000人のドイツ人捕虜を収容するため日本全国に16の収容所が用意されていた。大阪には540余人。実際、捕虜は特に何をするわけでもないが、長い戦争が終わらないと処遇が決まるわけでもない。さらに、当初はドイツの勝利を疑わなかった捕虜も徐々に憂鬱の度を増していくことになる。中には、ノイローゼになったり、見込みのない脱走に走るものが多発するようになり、カール自身も一日中、物思いにふけることがあったようだ。

実際、こういう状況は日本政府にとっても困った問題になっていた。単に、戦機を捉え領土拡大に走ったものの、長期にわたる捕虜の収容など想定していなかったわけだ。そのため捕虜たちの気晴らしのため、いくつかの企画が行われるようになる。例えば、2000坪の空地が用意され、フットボールが行われたり、一部の職人が大阪市内のパン工場に働きに出ていたりしている。少し後になるが徳島県の坂東収容所でベートーベン第九交響曲が本邦初演という記録もある(近く映画が上映されるらしい)。

そして大阪ではクリスマスパーティが計画されたのだ。といってもドイツではないので、とりあえずたいしたことはできない。舞踏会、音楽会、仮装行列といった企画が立てられたのだが、カールが菓子職人であることを知っているものから、クッキーが焼けないか?と提案があった。パン工場へ働きにいっているものが、小麦粉と砂糖を調達し、寒さよけに使われていた七輪で、スペコラチウスという人形型のクッキーを焼いたのだが、これが非常に好評で、この日以降、収容所内で各種ドイツ菓子が作られていくのである。ただし、バウムクーヘンは無理だ。

戦局は、その後膠着状態になる。一つの動きはアメリカの参戦。1917年2月。もう一つはロシア革命である。1917年。ドイツが仕組んだ特別列車でスイス亡命中のレーニンをモスクワに送り込む。革命の混乱の中、1918年3月3日、ロシア(ソ連)はドイツと単独講和。このため、ドイツは再び息を吹き返し、西部戦線に集中するが、結局連合国軍の前に屈服。1918年11月11日。戦争終結。

一方、世界は第一次大戦末期にもう一つの大惨事に見舞われていた。スペイン風邪だ。インフルエンザの大流行に人類が初めて見舞われる。世界人口の半数が罹り、死者は4000万人から5000万人と推定される。第一次大戦の戦死者数は、軍人900万人、民間人1000万人。第二次大戦の死者は、軍人1500万人、民間人3800万人と言われるのだが、わずか2年のインフルエンザはこれらに匹敵する犠牲を出している。

そのため、狭い収容所でインフルエンザが流行した場合、まったく対応困難となるため、大都市大阪から捕虜収容所は瀬戸内海の小島に移転することとなった。広島県似島(にのしま)。もともと日本軍の検疫所があった孤島である。まったくさびしい限りである。そして、ここでも捕虜たちは退屈の限りであったのだが、彼らの高い技術を見込んで、広島市でドイツ物産展が開かれたのだ。展示即売会だったそうだ。手芸品、家具、ハム、ソーセージとならび、この時、ドイツ菓子も出展。そして、カールの念願でもあったバウムクーヘンが焼かれている。この時の日本人のカールの菓子に対する高い評価が、彼に日本での開業を意識させたのである。

そして、この時、展示会が行われた場所は、「物産陳列館」という建物であったのだが、今でも残っている。原爆ドームだ。

その後、1917年11月に第一次世界大戦が終わり、捕虜がすぐに釈放されたかというと、そうはならなかった。欧州の列強に米国、日本が加わり、長い長い戦後体制をめぐる会議が始まる。パリ講和条約の交渉は1920年8月までかかってしまう。途中、カールら捕虜の釈放が行われたのは1918年11月。原則はドイツまたは青島へ送還されるのだが、エリーゼとの手紙では、青島ではとても営業できないとのこと。また荒廃して領土の狭くなったドイツに帰っても生活できないという状況とのこと。カールはひとまず妻子を日本に呼び寄せることとした。日本で生活するか、米国へ行くかはまだ決めていなかった。

1919年1月25日、神戸港にエリーゼとカールフランツ(ボビー)・ユーハイム上陸。カールとボビーはこの時、初めて顔を合わしたのだが、ボビーは毎日、エリーゼからカールの写真を見せられていたということだ。

時にカール32歳。そして、さらに彼らの運命はねじれていくのである。  
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