亡くなったダブルチャンピオン

2007-03-31 00:00:53 | しょうぎ
3月26日、達正光六段が逝去された。41歳。心不全ということで、色々、憶測があるようだが、文字通り、心臓疾患で自宅で急逝されたようだ。最近は、プロ棋士の傍ら、父親の会社を手伝っていたと聞く。また、体調があまりよくなかったという話もあるようだ。1984年にプロ四段となり、23年間の通算成績が347勝377敗と若干負け越しているが、それは、羽生、谷川といった超強豪たちが多くの勝星を持っていってしまうため、普通の棋士は少し負け越しになっていくということだ。

棋士の寿命ということを少し考えてみたのだが、本当はよくわからない。統計母数が少なすぎるのと、過去に亡くなった棋士の平均値を出しても、存命中の高齢の退役棋士とか、どうやって平均値を出すのかよくわからないからだ。

しかし、一般的に言えば、プロ棋士というのは、不健康な生活に陥りやすく、病気になりやすいものである。直近では、将棋連盟の森下卓九段が腸捻転で入院したり、詰将棋王でもある宮田敦史五段が胃潰瘍で長期治療中だったり、女流でも坂東香菜子さんが気胸で苦しんだり、やや罹病率が高いような気がしている。

棋士が不健康になる生活的理由にはことかかないが、まず、運動不足。それも日常的であり、さらに対局中にはもっと体は固まっているわけだ。そして、不規則。対局は週に1回あるかないかで、その時は朝から夜までだ。順位戦以外は夕食休憩がないから空腹でも指し続けることもある。そして、普段はなじみの道場に稽古にいったり、オンラインで入手したプロ棋士の棋譜で研究。ついつい、酒を飲んだり、ギャンブルにも手を出す。

そして、何と言っても最大の不健康リスク要因は「ストレス」と思われる。プロは勝ち負けで自分の給料もポジションもすべて決まる。普通の社会と違って、完全な二極化で、勝負には勝ちか負けしかない。早い話、弱くなって、1勝もできないと、何年か先にはヒドイことになる。もちろん、30歳あたりをピークとして、徐々に弱くなっていくのが普通だ。人生、右肩下がりの所得曲線(いや直線?)になってしまう。

達六段の最後の一局は、3月6日の順位戦C2組の18年度最終局。実は、この一戦で破れ、3勝7敗で降級点(下位から9番目まで)をとっている。勝てば免れたのである。そして、このC2組の降級点というのは、大きなダメージを意味するのである。

今さら、順位戦リーグの降級ルールでもないが、簡単に書くと、リーグは上から、A、B1、B2、C1、C2と五つのクラスがある。上の2つ「AとB1」は総当たり制なので、成績下位の2名が降級し、昇級者に席を譲ることになる。しかし、その下の「B2、C1、C2」の三クラスは人数も多く、総当りではなく抽選で年間10局だけが組まれるため、「降級点制度」というのがある。成績下位になると、降級点1がつくことになる。「B2、C1」においては、累積降級点が2になると降級、一番下の「C2」は降級点3回で降級ということになるのだが、その下にはリーグはないので、「フリークラス」という二度と出られない別ボックスに入ることになる。そして、順位戦に出られないため、収入が激減する仕組みになっている。さらに、このフリークラス制度だが、もっと上のクラスの棋士が自主的にフリークラス宣言すると、最終退職年齢が65歳なのだが、C2クラスから陥落すると、60歳が定年となる。

もう一つ、この降級点制度の特徴は、一度(ある年)、成績が悪くて降級点を取ったとしても、その後リーグで勝ち越し(6勝4敗以上)するか、指し分け(5勝5敗)2回で帳消しにすることができるわけだ。だから、そう悔やむこともないのだが、問題は達六段が所属していたC2リーグなのである。前述したように、このクラスは降級点3回でフリークラスへ陥落なのだが、1回目の降級点というのは、一度取ってしまうと、帳消しにできないルールなのである。棋士間では「イレズミ」と呼ばれているようだ。そして、このイレズミが一本は入ると、若い棋士でも、非常な精神的ダメージを受けるわけだ。つまり、その後、いくら成績がよくても昇級できない場合は、一度病気とか不調に襲われると、容赦なく2回目の降級点が加えられるわけだ。そして、その段階で直ちにフリークラス宣言をすれば、65歳まで「棋士」の肩書きを得られるものの、翌年のリーグが始まってから負け続けると、定年は60歳ということになってしまうわけだ。

さらに、このC2リーグだが、下の奨励会から生きのいい若手が年間4名加わるのだが、C1に昇格できるのは年間3名。強いのが一人ずつ増えていく仕組みだ。どう考えても毎年レベルが上がっていき、年配者に厳しい計算になるわけだ。

世は「再チャレンジ」の時代。少なくても、C2の最初の降級点のイレズミも帳消しにできるルール改正くらいは必要なのではないだろうか。

ところで、達六段は小学生名人戦と中学生名人戦の二つの大会で優勝している。そういう過去のプライドというのも重荷になるのだろうと思ってしまう。それぞれの大会の優勝者の多く(羽生さんや渡辺明さんなど)はプロになっているのだが、この小・中両方のタイトルホルダーは過去に3名しかいない。

二人目は清水上徹さん。その後、高校・大学・そして現在は田町にシャトル型の本社をもつ電機会社に就職。数々のアマチュアタイトルのコレクターである。同じ系列の瀬川さんはプロになったが、清水上さんはその道は狙わないのではないだろうか。

そして、三人目が島村健一さん。奨励会二段で退会。目標が今ひとつ明確ではないが再チャレンジ中なのだが、そのターゲットの一つは、プロ棋士のようである。彼もストレスの塊のように思える。

それで、これを書いている私だが、特にストレスはないのだが、詰将棋に凝りはじめると、どうしても運動不足になる。たまには、難攻不落の山間の古城跡めぐりとかしなければならないわけだ。


342db9c9.jpgさて、前々週3月17日出題の実戦型問題の解答。

▲3二竜 △同玉 ▲4四桂 △同銀 ▲4三銀 △同香 ▲4二金 △2二玉 ▲4四馬 △同香 ▲3二金打 △1二玉 ▲1三香 △同玉 ▲2二銀 △1二玉 ▲1三香 △同桂 ▲2一銀不成まで19手詰

竜を切った段階では持ち駒があふれる様にあるのだが、景気よく捨てていくと、一見、カナ駒がなくなっていく。手元になぜか香車が二枚残るが、きわめてつまらない用途に使うことになる。それなら香ではなく歩が二枚でもいいではないかと思うが、それが詰将棋というものだ。


342db9c9.jpg今週の問題は、きわめてきわめて教科書的な手筋を繋げて作ったもの。ショートプログラムというところだ。技術点重視。こういう論理的な作は、たいてい同一作や類似作があるもの。やはり詰将棋は入玉、双玉、合駒選択問題というような技が、三つ以上決まらないと、感動を得られないかもしれない。

解けたと思われた方は、最終手と手数、酷評などをコメント欄に記入されれば、正誤判断。

国連の裏側

2007-03-30 00:00:11 | 市民A
323c5522.jpg先週、北岡伸一氏の講演会に行った。前国連日本代表部次席代表。もともとは歴史学者と自己紹介されていた。研究範囲は江戸時代から明治、大正、そして太平洋戦争が始まるまでということで、第二次大戦以降は政治学者の範疇ということだったそうだ。しかし、1989年のソ連崩壊以降、冷戦型政治学者の失墜により、現代史を始める気になった、ということだそうだ。そして、2001年に一時外務省が機能不全状態になった時、急遽、内閣の対外関係タスクフォースに参加したところから政府と関係ができる。

その後、民間からの外交官採用という外務省の看板事業用に、人畜無害国の大使職就任要請があって、断り続けていたところ、国連の次席大使(3人の大使の2番目)というポストが提示され、面白そうなので見てこよう、というつもりで引受けた、ということだそうだ。そして、計画通り、無事帰ってきて、計画通り、その国連の裏側についての講演をしている、ということである。講演会場は麹町のFM東京ホールである。


まず、国連の目的とか全体像という話なのだが、三本の柱があるそうだ。

 1.平和と安全
 2.経済発展
 3.社会と人権

そして、この三つの柱のうち、国連の歴史上、効果を上げているのが「社会と人権」。本来、「平和と安全」は安保理と総会が担当するもっとも重要な案件であるが、冷戦時代にはまったく機能しなかった。とはいえ、冷戦後のPKO活動は、それなりに効果があり、特定国の単独の軍隊が常駐するよりPKOから派兵すると1/4程度の戦力で足りるそうである。そして、「経済発展」の柱については、まったく各国の自助努力の結果ということだそうだ。

そして、もっとも効果を上げている「社会と人権」問題については、多数の委員会があり、そのすべてに委員を送り自国の意見を反映させようとすると、膨大な人員が必要になるそうだ。そして、朝昼晩のパーティが続き、一枚の文書について、各国が訂正の要求を果てしなく続けるというようなことだそうだ。


そして、北岡さんのニューヨークでの在任期間中の最大の課題が「常任理事国入り」。いわゆるアナン国連改革案である。

まず、日本、ドイツ、ブラジル、インドのG4プランだが、2005年当時、大島大使を中心に、総会決議の寸前までいって、あきらめて、投票まで行かなかったのは大変残念、ということだそうだ。当時の加盟国191ヶ国の2/3の賛成が必要とされていて、必要128票中、110票程度は獲得できたであろうから、まずは1回はチャレンジすべきだった、と考えられているそうだ。中国が国連に加盟したのにも何度もチャレンジが必要であり、そのうちチャンスはめぐってくる、と考えるべきだそうだ。

そして、拒否権についてだが、「拒否権を持たない常任理事国」というのでないと絶対的に席は得られないだろう、ということだそうだ。何しろ「拒否権付き」では、既存の拒否権を持つ国は、絶対反対するし、拒否権を持たない国も、絶対に反対するだろうから、賛成国は1国もないだろうということだ。

そして、今後の作戦の一つに、モデルBというのがあって、非常任理事国の任期2年ではなく任期4年から5年の長期非常任理事国の枠を作り、アジア増枠ということになれば中国も拒否できないだろうし、それならば間違いなく日本は席にありつけるだろうから、それを10年ほど続けてから、恒久的理事国(超長期理事国)化すればいいのではないだろうかというところだそうだ。

そして、前回、G4作戦が行き詰まった最大の原因は、「首相に熱意がなかったこと」と、常任理事国になってもメリットがないではないかという「一部の世論」のせいと分析していて、常任理事国のメリットという話題があった。


つまり、世界には色々と難しい問題があって、どんな国でも後ろめたい部分はあるわけで、いつ、様々な委員会で槍玉にあげられるかわからないわけである。そういった時に、安保理の理事国には、こっそりと事前相談がくるそうなのである。日本が非常任理事国になった期間は加盟50年間で18年間と1/3くらいだが、それでも普段交流のない国からの相談とかで、いながらにして情報を得ることができるそうなのだ。英国やフランス、もちろん中国、ロシアのような国は、自然に外交上手になっていく仕組みということ。

それに、日本の行ってきた、対外援助というのは、日本国内では評価されないが、国際的にはかなり評価されているそうなのである。金のバラマキとか兵隊の派遣とかではなく、インフラ整備とか、細かな部分に口を出して援助するのが日本流で、援助の見本となっているそうである。

そして、安保理常任理事国問題については、9月の国連総会で安部総理が何を発言するのか、というのが大きなポイントではないか、というのが北岡氏の意見である。(おおた注:参院戦で討死してなければの話である)


講演の後のQ&Aの中で、アメリカ、中国、北朝鮮の外交についての所見が述べられたのだが、

アメリカの外交は、最善でないが、資源も豊富、国土も大きく、国民も多く、多少の失敗や制度上の無駄があっても大国であることはまったくゆるがないから、それはそれでいいのだろうが、その他の国々ではそうはいかないだろう、とのこと。特に小国は大国と対等に渡り合える国連を非常に重視していて、国家的エリートを送っている、とのことである。

中国の外交、特に日本の安保理常任理事国入り問題で、拒否権を使うか使わないかという大きな問題は、多分に「中国国内問題」ではないだろうかと考えられるそうだ。つまり江沢民派(反日カード)対胡錦濤派というように読むべきだろうと言われていた。

そして北朝鮮外交に日本外交はいつも振り回されているのではないかという質問に対しては、北朝鮮は部分的な外交戦術には長けているが、そういうことを繰り返しているうちに国民は苦しみ、国家は疲弊の一途を辿っているのだから、まったく成功などしていないと思う、といわれていた。

さらに、もともとのヒストリアンとしての立場から言えば、と文脈を改めた上、「もし、日本の幕末の指導者が、今の北朝鮮の指導者であるなら、すぐに核放棄して開国し、自由主義を目指すだろう」と講演を締めくくられたのである。(おおた注:日本で開国を決定したのは井伊直弼であり、彼の人生の史的結末は、北朝鮮でも知ることはできるのである)  

インフルエンザとインフルエンサー

2007-03-29 00:00:19 | 市民A
今週は、病気や手術や薬学会とか医薬系ブログになってしまったが、ついでにインフルエンザの話から。

「タミフルとインフルエンザと異常行動」についての関係を考察していたのだが、まず、厄介なのはインフルエンザに関する統計というのが、きわめてあいまいであるということ。たとえば、老人ホームでインフルエンザが原因で亡くなっても、肺炎になったり心不全に分類されたりすることが多い、ということが言われる。日本の統計上の死因というのは、病気の種類で言う場合と、その病気の結果で言う場合がある。アメリカより老人のインフルエンザでの死亡率が大幅に低いということは、考えにくい。

さらに、米国やフランスでは「予防接種」が一般的なインフルエンザ対策で、国民の過半数が接種しているのに対して、日本では極めて接種率は低い。予防接種の場合、接種していない人に対して罹る率が約30%で、死亡率は約20%に低下する。日本では、逆に罹ってからタミフルを飲むという方式になっていて、世界一のタミフル輸入国である。

つまり、異常行動とタミフルの関係について統計的に考えようにも、相当のあいまいさがある、ということである。

そして、異常行動(飛び降り)は圧倒的に男性、特に10代に多いのだが、「タミフル副作用」説と「インフルエンザ脳炎」説の二つの説がある。タミフルは、天然植物「八角」を10回化学変化させ、抽出するそうで、なかなか、副作用についての、結論が出ないのではないかと、思ってしまう。結論を出したとたんに、責任問題が始まるに違いないのだが、それは日本ではもっとも回避されがちな選択である。もちろん、私もまったく詳しくないので、コメントできない。

しかし、なぜ日本では、タミフル頼りになって、米国では予防接種に偏るかという問題はなんとなくわかる。

日本は、予防接種が健保対象外なので、費用もバラバラ。一本1000円台から4000円まである。罹るかどうかわからないインフルエンザの予防接種より、タミフルの方がイージーということだ(もちろん日本でも、入試などのイベントの予測される人は、予防接種をするのが一般的である。)。

一方、アメリカでは、罹ってから診療を受けると高額になるという事情があるし、さらに、日本ほど労働環境が良くなく、病欠するとその分給料が減るというシステムの人が多いのだろうと思う。

そして、そういう違いのほかに、日本医師会の思惑や、タミフルメーカー(ロシュ社・中外製薬)や予防接種のワクチンメーカーなどの思惑が交錯・ぶつかり合い、果たして統一的な結論に至るのだろうか?


実は、数週間前に、職場のある課長がインフルエンザに罹った。一応、私の数少ない部下の中の一人だが、会社の社員ではなく関連会社からの借り物である。派遣なのか出向なのかあいまいなパターンである。最近、勤務上の命令権とか法的問題になっているケースだが、管理職だし、どうせ仕事もイマイチなのでふだんは問題ないが、「巨大問題」が発生した。

彼は、発病後、1日休み、「すぐに医者に行ってタミフルを飲んだから治った。」と言い張り、マスクを二枚重ねにして、ゴホンゴホンと咳き込みながら出社して、席について、パソコンをチャカチャカといじくっているわけだ。そして20分ごとに青い顔をしてトイレに姿を消すわけ。これこそ「異常行動」。会社は地上から数十メートルにあるのだが、一応、窓を開けることは可能だ。

そして、何より、彼の周りの席の社員が怖がって、職場放棄、というか自分の席に付かないわけだ。つまり、「帰宅命令」を発しなければならないのだが、先ほどの指揮命令権とか問題になるわけだ。あまり強気にも出られない。そして、最大の問題は、感染の危険を冒し、彼に近づいて、帰るように説得しなければならないわけだ。しかも、ちょうど重要な輸出案件があって、私が休むわけにはいかない状況なのだ。だいたい、「なんで、あんたのために俺様がタミフル飲まなければならないのだ・・」と心の中で思ってしまう。

しかし、しょうがないので、パソコンカチャカチャ氏に早足で、近づき、

 葉一郎 「治ってないようなので、早く帰宅してくださいね。」
 カチャ氏「仕事を整理したら、帰りますから。カチャカチャ・・」
 葉一郎 「早くしてね。みんな、あなたのために、『何で自分がタミフル飲まなきゃならないのか』って思ってますからね」

そして、息を吸わずに声を出すという、特技を行ったあと、ちょっと所用を思い出し、ビルの向かいのカフェの窓側の席に陣取ることにする。彼が、退社したのを目視確認したのは、さらに40分後である。やっと、社内に戻ると、大半の社員が、外出中になっていた。

その後、彼の異常行動について、社内では二つの推定意見に分かれることになる。

一つは、「タミフル説」である。そして、もう一つの説は、「会社のパソコンで何かビジネスをしているのだろう」ということだ。


ということで、あいまいなまま、病気の話はすべて終わりにして、次は「インフルエンサー」について。

最近、米国のアルファブロガーがよく日本に来て講演をしているようだが、その中でよく登場するコトバである。「その発言や行動によって、大衆に影響を与える人たち」というようなことを意味する。もちろんインフルエンザと同根語だろう。ところが、米国と日本とでは、このインフルエンサーは大きく質が異なっていると思うのだ。

だいたい、ブログでもそうだが、米国のアルファブロガーは数十万PVという単位で、これぞインフルエンサーと呼ぶべきかもしれないが、日本では、そもそも、そんなに個人崇拝のようなことにはならない。それでいて、日本人のブログのアップ数は世界一らしい。つまり中位集中型とでもいうべき。もっと簡単に言えば、「意見がバラバラ」ということだ。よく言えば「民主主義」ということなのだろう。

実は、このインフルエンサーなる概念だが2年前、2005年の衆議院選挙の時に、梅田望夫氏が言っていたように思う。この選挙で小泉政権は圧勝したのだが、日本版インフルエンサーがブログ上でほとんど小泉支持になっていたことから、彼は、小泉圧勝を予測していたそうだが、その時、梅田氏の持った日本のオピニオンリーダーのイメージというのは、100人の代表という単位だそうである。日米、どちらがいいのかはよくわからない。


亡くなった植木等氏は、戦後社会の象徴なのだろうが、今思えば、彼の名前である「植木等」の意味こそ、日本の戦後民主主義を現す符号そのものであったのだろう、と思うのだ。  

「神の手」の講演会

2007-03-28 00:00:42 | 市民A
3月26日「神の目」の講演会の続き。

次に、国崎主税先生の胃がんの方の講演(横道だが、彼の両親は忠臣蔵のファンだったのだろうか。何か国税局みたいな名前である)。腹腔鏡補助下の胃の切除手術の話。

まずは胃がんのリスク要因からだが、こちらは、タバコ、アルコール、肉・魚のこげだそうだが、近年、話題になったのはピロリ菌。オーストラリアのマーシャル、ウォーレンの二人の教授が80年代初頭に偶然発見した菌で、酸性のきつい胃の中でも、体の回りにアンモニアをばらまいて中性化して生き延びるそうだ。そんな奇抜な話は誰も信じないので、自分達で菌を飲み込んで胃炎を起こして証明したという現代ではあり得ない実験を行い、2005年に二人揃ってノーベル賞を受賞している。ノーベル賞の話題が、どんどん登場する景気のいい講演会だ。しかし、現在、明治乳業でコマーシャルに派手に登場しているのはマーシャル教授の方だけ。二人の間に何が起きたのだろう?

話を聞いているうちに、わかってきたのだが、2004年に胃がん手術後の生存率の病院格差が日経メディカル誌に掲載(癌研についで横浜市立病院は全国二位だったそうだ)されたのが契機になって、日本胃癌学界が胃癌手術をマニュアル化してしまったそうだ。患者保護という意味もあるが、病院間格差の隠蔽という匂いも感じる。癌の部位や進行度合いによって、切除する大きさや取り除くリンパ腺の数が、おおよそ統一化されたわけだ。言い換えれば、それまでの大量の治療データを得るまでの長い試行錯誤の間に、適切な治療を受けられなかった患者さんも大勢いたということだ。南無。

そして、横浜市立病院では、早期がんの場合は、おおむねこの腹腔内に数本の腹腔鏡を挿入して、ゴッドハンドならぬマジックハンドのような器具で大部分の手術を行う。出血量が少ないのと、手術時間が短いそうである。(早期がんと進行がんというコトバは誤解を招きそうで、胃壁の内側の表面層の内側の筋肉層に1ミリでも浸潤していると進行がんという用語で呼ぶそうである。コトバだけであきらめてはいけない)

この講演では、後半の30分間、実際に腹腔鏡を使った手術のヴィデオ画像を見ることになる。「気の弱い方は目を閉じていて下さい」とは言っても、30分も続く。まず、上向きにした患者の腹の4隅に小さな穴が開けられ、さらに胃の上に5センチほどの切れ目を入れる。体内に挿入される手術器具は、要するにファーバースコープとマジックハンド。血管にクリップを打ったり、脂肪をはがしたり、リンパ腺を切り取ったり、すべての体内作業は画像を見ながらの遠隔操作。

前の工藤先生の講演の大腸内視鏡は、要するに「見る」ということに重点があるのに対し、国崎先生の講演の方は「胃の一部ないし全部を切る」ところに重点がある。会場内は、息をする音も聞こえないほどの異様な静けさが包む。そして、5センチの穴から胃の下部と十二指腸をひっぱりだして、何らかの方法で糸を使わず縫合して(よくわからない)再度、体内にきちんと戻すと会場内には安堵のため息が・・

ああ疲れた・・(最後のQ&Aの時、今度は、手術費用を聞こうという方はいなかった。いくらかかろうが、なったらやるしかないわけだ。)

以前「ミクロの決死圏」という絶賛されたSF映画があったが、映画を観た時に「もしかしたら、現実になるのではないか」と微かに予感があったことを思い出す。


そして、しばらく、焼肉を食べる気にはならなくなり、そして、イカの塩辛もちょっと・・(両方とも胃ガンハイリスク食品だから、それでいいかな)  

能登沖地震で秘かに大童な人たち

2007-03-27 00:00:57 | 企業抗争
大童は「おおわらわ」と読むのだが、大人がこどものようになる状態を示す言葉であるのだろう。余談だが、こどもに将棋を教えたりしていると感じるのだが、小学校の1年の春が過ぎると、社会的な考え方や合理的な考え方ができるようになる。つまり、大童というのは、大人が幼稚園的な不合理な行動をとる意味なのだろう。


3月25日に起きた能登沖地震で、まず、すぐに頭に浮かんだのは、例のホテルである。金沢、そして富山といえばAPAホテル。経営者は現首相の後援会副会長であり、耐震強度疑惑の噂を抱えたままだ。幸いにして、ホテルの被害は報告されていないが、売り物の、ワンフロアを使った大浴場はどうだったのだろう。これも超ラッキーなことに地震発生が朝9時42分と、もっとも風呂に入る人が少ないと思われる時間だったので、目撃情報は耳にしないが、本当は津波警報はAPAホテル内大浴場と、その下の階の泊り客に伝えるべきだったかもしれない。お湯の重みで床が抜けたり外壁が崩れたりしたら重大事故になる。ホテルの首脳たちは情報収集に「大童」なのではないだろうか。

そして、次なる大童は、思わぬところにいるはずだ。

日本薬学会。

実は、この3月28日(水)から三日間の予定で、第127年回の学会を隣県の富山市で開催予定になっている。もちろん大学会であるから、関係者など万の数の人間が参加することになっている。人口大移動である。実は、参加者に知人がいる。そして、地震は週末に起きたため、この学会についての情報がはっきりしていない(26日23時の時点)。何しろ、富山でも余震が続いていて、震度3は頻繁に起きている。無論、余震の方が本震を超えることはほとんどないという経験則があるのだが、実際の展示ブースなどはどうなってしまうのだろうか。

さぞ、事務局は「大童」ではないかと、思うし、おそらく事務局というのは単なる事務局であって、会議を中止するとかいう大権を持っているはずもないだろうから、あれこれ学会のボスとかのお伺いを立てたりして、責任転嫁作業のため、無為に時間が経っていき、さらに「会議はあるのかないのか」といった問い合わせ電話が殺到しているのだろうと、推測。


そして、この二つの大童は関係しているのである。学会といえばいつも問題になるのが宿泊施設。よく地方都市へ出張するときに突然、ホテルの手配ができないことがある。たいていは、○○学会か、ゴルフの○○トーナメント。特に富山はホテルが少ない。そのため、今学会の公式ツーリストである近ツリの用意したホテルは、富山市だけでなく、金沢市内にも多く用意されたわけだ。そして、その中にはAPAホテルグループも多く含まれるわけだ。


くれぐれも、会議(やその他)の疲れを癒そうと、大浴場に浸かる時は、すぐに脱出できるように「海水パンツを着用」しておくことをお勧めしておく。さらに、会議に出ないで金沢見物をしようとしていた方々が、前田家の残した遺跡めぐりをする際には、石灯篭には近づかないようにということだ。

そして、観光なんかしている場合じゃないから、といって、シンポジウムにまじめに参加しようとしても、それだけの人間が集まることなど予想していなかったため、手狭な会場に入りきれなかったり、パーティの料理が不足してしまっても、決して怒ってはいけないわけだ。

どこの飲み屋でも、うまい「白えび天丼」くらいは食べられるはずだからだ。  

「神の目」の講演会

2007-03-26 00:00:25 | 市民A
少し前に、検診の結果、大腸内視鏡をすることになったのだが、その時にお世話になったのが昭和大学横浜北部病院だった(結果はシロ)。そして、そこには世界最高の「神の目」と言われる工藤進英先生がいた。というよりも、工藤先生が自分の技術を世界中に広げようと、日赤秋田病院を退職しここに来たのだ。昭和大学が、大学の命運をかけ、超巨大病院を建てた、という言い方もできる。横浜に世界中から研修医が集まっている。もちろん、内科・外科という分類は廃止され、消化器センターという統一組織になっている。

”幻のがん”と呼ばれる陥凹型がんが、ごく一般的な大腸がんであることを発表したのと同時に、オリンパスと提携して、そのフラットな形状の陥凹型大腸がんを容易に発見できる内視鏡を開発する。

先週、地元で行われた講演会では、この工藤先生による「今、増えている大腸がん」の講演と、もう一人こちらは「神の手」というべき横浜市立病院の国崎主税先生の「胃がんに対する腹腔鏡補助下胃切除術の進歩」の二つの講演を聴く。横浜市立病院は2004年に日経メディカル誌による調査で、胃がん手術後の生存率全国2位ということである。

まず、工藤先生の講演から。

現在、大腸がんの比率が高い国というのは欧州、米国、アルゼンチン、豪州、そして日本だそうだ。要するに食肉文化地域である(特に牛肉だろうか?)。現在の予想では、日本では、2015年にはがんの中で大腸がんが男女とも死因の一位になるだろうと推定されているそうだ。女性は既に乳がんを抜いて大腸がんが一位だそうだ。

そして、ちょうど今春から「Brave Circle」という活動をはじめたそうだ。歌手の加藤邦彦氏、ANRIさん、平原綾香さんがキャラクターになっている(それぞれの方にはキャンペーンに参加したいわれがあるそうだ)。乳がん撲滅のためのピンクリボン運動は世界中で有名になってきたが、Brave Circle運動は日本発。この運動でも工藤先生は、あちこちで講演しているそうである。何しろ、海外でも100回以上講演しているそうだ。

また、医師向けの講演の場では、ライブで検診なども行う。彼の開発した内視鏡は、まず、疑わしい部分に、青い染料を吹きかけられるようになっている。一瞬にして、正常な内壁と爛れのあるがん組織が見分けられる(もちろん最初に疑わしい部分を見分けるのは人間の目なのだが)。この染料からして欧米では市販されていないようだ。そして、その内視鏡は、数秒でズーム拡大が可能になっている。細胞の核まで見える。そして、小さながんはその場で内視鏡を見ながら切除する。この、最初に、「あやしい?」と見抜く眼が重要だそうだ。大腸内の画像がスクリーンに写されていたのだが、実は、私はほとんど正解箇所を見つけられた(次に自分の大腸内検診する時は、よく見張ることにする)。

実は、そのようなヴィデオ画像を使いながら講演が行われるので、行き詰るような臨場感のある講演会になる。もちろんライブではないので、そんなに緊張する必要はまったくないのだが・・

工藤先生は世界中で講演しているのだが、ノーベル医学・生理学賞の選考委員会と同義の、スウェーデンのカロリンス研究所で2回も講演されているそうである。となればノーベル賞の可能性は?、となるのだが、本人も意識しているようで、「医学賞は白人のための賞で、アジア人は一人も受賞していない。利根川さんは生理学の方。北里柴三郎も野口英世も医学賞候補になっただけだから、私は無理だ」といたって現実的だ。

それに、まだ「大腸がんはポリーブの延長」というのが欧米では主流の学説だそうだ。平たくえぐれた陥凹がんはポリーブがんが進行して崩れた状態というのが欧米の学説だが、工藤先生に言わせると、ポリーブが崩れて陥凹がんになるのならば、その途中の段階のがんが見られるはずだが、そういうものは見たことがないではないか、という反論しているそうである。何事も、天才はつらい。


そして、大腸がんのリスク要因だが、高脂肪、運動不足、ストレス、アルコールということ。特に、女性の大腸がんが急増している原因だが、工藤先生は、運動不足とアルコール量増加ということを強調していた。特に秋田では、男も女もまったく歩かなくなり、さらに冬になるとなおさらということだそうだ。日本人もわずか1万年前には、毎日、男は34キロ、女は16キロ歩いていたそうだ。まあ、そんなに歩くと儲かるのは靴屋ばかりだろうが・・

毎日の食事が、牛丼、カレー、ラーメンの三点セットというのでは・・

そして、講演の最後のQ&Aのコーナーで検査や手術の費用についての質問があって、米国の金持ち専用病院、たとえばノーベル賞受賞者6人を抱える”MAYO CLINIC”などには世界中から大金持ちの患者が自家用ジェット機で飛んでくるのに、日本で内視鏡で癌を除去しても5万円強(患者負担はこの3割)で、私の給料は全然上がらないけど・・とボヤイテいたけれど、・・・

まさか、・・・  

優雅なる冷酷は、「誰」?

2007-03-25 00:00:40 | 書評
323c5522.jpg塩野七生の著書は、エッセイについては何冊も読んでいたのだが、いわゆる表看板であるイタリア歴史小説類は読んでいなかった。しかし、彼女は今年、大作である「ローマ人の物語」全15冊を書き終えている。さて、”ローマ人”シリーズを読み始めようかどうしようか。また、読む場合、厚い単行本でいくのか、薄い反面大量冊数が予想される文庫本で読むべきか、一度に全部購入するか、分割購入するか、あるいは図書館コースなのか。とりあえず、1冊読んでから考えてみようと、「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」を読んでみる。

しかし、読み終えるまで10日もかかってしまった。長いカタカナの名前の登場人物が数多いと、なかなかペースがとりにくいものである。読了まで大苦労。というか、半分進むまでに手間取り、後は流れた。

ボルジア家のことは、悪評も含め、よく知らなかったのだが、要は、イタリアは西暦476年に西ローマ帝国が滅びたあと、分裂国家状態だった。ローマ教皇、東ローマ帝国、そしてイタリア、スペインなどのパワー・オブ・バランスが続いていた。その中で、何回かの武力統一を目指した動きがあったそうだが、その中の一人がチェーザレ・ボルジア(1475-1507)。一般にはボルジア家は悪の権化のように言われ、その中でも最も狡猾かつ危険な男という評価だ。

著者は、初めてこの本でボルジア家のことを知る読者のために、実は色々とサービスしている。系図を付けたり、本文の中で、さりげなく登場人物の関係を何度か繰り返したり、と。そして、もちろん読者が、チェーザレを大好きになるように美化している。

そして、本来、ここに長い書評を書くべきかもしれないが、一冊読んだだけなので、そういう野暮はしない。アマゾンの書評では18人中、評価しているのは2、3人しかいないが、そんなに拙い書とは思えない。たぶん、歴史上、「悪漢」評価を受けている人物を「英雄」として書くことに対しての、嫌悪感が保守的読者に受けないのだろう。

チェーザレを日本の歴史上の人物に重ねて考えていたのだが、北条早雲、織田信長といった人物が浮かぶが、日本の戦国大名の場合、自分以外、誰も信じられないという極限状況からスタートするのだが、チェーザレは、父であるローマ教皇やフランスやスペイン国王の背後パワーを巧みに利用する。マキャべリは後年、チェーザレを君主論のモデルにして、現在もマキャベリズムという単語の専売的使用権を得ている。本当はチェザリズムというべきかもしれない。

そして、歴史上のチェーザレは、父親(教皇)と同時にマラリアに罹り、それを機に、イタリア統一の夢が崩壊していく。あっと言う間に没落の泥沼に沈んでいくのだが、著者は落ちぶれるものには冷たく、後半は極めて短い。「ローマ人の物語」も多くの文明論とは異なり、繁栄をしっかり書いて没落はあっさりという評判である。それが彼女の趣味なのだろう。「優雅なる冷酷」とは塩野七生の性格そのものなのだろう。


さて、イタリアを翻弄したボルジア家に対して、皮肉な歴史家はこう書く。「ボルジア家の暴政はルネサンスを生み、スイスの平和は鳩時計を生んだだけだ」。イタリアが統一されたのは、1861年のことである。


実は、チェーザレの次にいきなり「ローマ人の歴史」の着手するのは、まだ早過ぎるような気もしている。さらに、次の一冊を読んでから、「ローマ人」攻略法を再考しようかと思っているのだが、考えれば「チェーザレ」は彼女の文壇登場の一冊のようなもの。ズルズルと引き込まれて、全部読んでしまうのではないかと、ちょっと心配になる。  

ソフトの弱点を見抜いた(?)竜王

2007-03-24 00:00:37 | しょうぎ
3月21日に品川プリンスホテルで行われた渡辺明竜王対将棋ソフト「ボナンザ」戦は112手で後手番の渡辺竜王が勝った。(いきなり余談だが、その対局場のすぐ近くで1868年3月13日に西郷・勝会談が行われた。)本人(渡辺竜王)の気分はどうだったかわからないが、結構、楽勝風の感じがする。本人のブログから察すると、かなり以前からボナンザの思考パターンを研究していたようなところがあり、弱点を知っていたような気がする。

まず、対局の棋譜だが、ネット中継を見るためにはスポンサーである大和證券に会員登録しなければならないのだが、登録すると山のようなパンフレットが送られ、大和に証券口座を開くように圧力がかかるのは間違いない。しかし、既に5社の口座を開いていて、それだけでもたいへんな情報量なのにもう御免だ。登録は嫌なので、結局、リアルタイムでは見られなかった。

fa6c50b9.jpgスポンサーは効果を求めるもので、この大和證券は新しいネット上のタイトル戦を作ったのだが、基本的に問題が起きるだろうと思うのは、「証券投資をしようという人は、既にいくつもの口座を持っているから、会員登録は嫌なので、この棋戦は見ない。」一方、「中継を見る人は、会員登録をしても、投資する気がないのでDMやパンフレットが無駄になる」といったジレンマがあることだ。

もちろん、リアルタイムでなくても、いずれ棋譜はわかるもので、入手して並べてみた。渡辺竜王は、要するに負けない手を指し続けて、終盤に自玉が詰まない形にしてから、連続詰めろをかけ続けて、受けなしにしている。

最初のポイントは47手目に先手が▲6五歩と自分から角交換を挑んだ局面。人間なら▲1六歩ではないだろうか。角交換後、すぐに角を打ち不発になっている。手詰まりになると打開に来る癖があるのだろうか。

次に、76手目は後手渡辺側が△2六銀と銀歩の駒損交換にきたところ。さらに96手目の△3九竜の竜金交換。こういう手はコンピューターには苦手だ。自分のソフト「東大道場」でも「大悪手」と評価されている。しかし、そのまま後手が、じわじわ包囲網を狭め、終局。

この一局だけみれば、ソフトの力はまだまだというところだが、竜王がソフトの得意分野に引き込まれないように指した結果のような気がする。だから、勝敗というよりも、ソフトのバグ探しのような一局のように見えた。




fa6c50b9.jpg今週の問題。なんだか、ふわっとした手触りで、どこから手をつけたらいいのか悩ましい。まさか、合駒選択問題になったら嫌だなあというところだが、実はそうなる。最後は並べ詰み型にした(手数を延ばしても難しくならないから)。

わかったと思われた方は、最終手と手数と酷評をコメント欄にいただければ正誤判断。


fa6c50b9.jpg先々週の問題。あれこれ右往左往して4題も露出してしまったが、改造図と第1図だけの解答だけ書けば十分と思う。

改造図:▲7三銀成 △同玉 ▲7四飛 △同玉 ▲6四飛成 △8五玉 ▲7五竜 △9六玉 ▲9七歩 △同玉 ▲7七竜 △9八玉 ▲9七角成 △同玉 ▲8八銀 △9八玉 ▲8七銀 △8九玉 ▲9八角 △同金 ▲同銀 △同玉 ▲8八金 △9九玉 ▲9七竜まで25手詰。

第1図:▲7三銀成 △同玉 ▲7四飛 △同玉 ▲6四飛成 △8五玉 ▲7五竜 △9六玉 ▲9七歩 △同玉 ▲9五竜 △8八玉 ▲9九竜 △7七玉 ▲7九竜 △7八合 ▲6七金まで17手詰(最後、▲7九竜に△7八金と醜く手を伸ばす手があるが、「二手長駒余り」となる。ツメショウガーの中で是認論と否認論と意見が分かれるところである)。  

勝海舟転居歴を調べると・・

2007-03-23 00:00:27 | 歴史
普通、歴史上の人物のことを調べるには、歴史書を読んだり、著作にあたったり、伝記を探したりから入るものだ。生涯の転居歴を調べて、どこに住んでいたかというような、私立探偵の張り込み浮気調査みたいな手法から始めるはずがない。

が、運悪く、勝海舟の居宅跡というのに、最近、何箇所かでめぐり合うことになった。妙な方法だが、転居歴から入っていくと、若干、色々と感じることがあった。そして、その転居先の一部はわからないままだ。これ以上、簡単にはわからないような状態となったので、わかったこと、わからないことを含めて書いてみたい。

まず、生年は1823年。両国駅の近く、現在の両国公園にある男谷家の屋敷である。先日、弊ブログで紹介。現在、公園内に石碑が立つ。なぜ、勝家ではなく、男谷家で生まれたかは、はっきりしないが、父親の勝小吉は男谷家から勝家に入婿だったから実家で産んだ、とされるが、産むのは母親の方なのでちょっと明解にならない。

さらに、8歳になるまで両国近くで2回、転居している。これも理由はよくわからないが、経済的理由なのだろうか。そして、1830年に、遠くではないが、現在の錦糸町駅近くに転居。ここに1846年まで16年間住んでいる。そして、1845年に23歳で2歳年上の女性と結婚。ここまでが、隅田川を渡った先の「川向こう人生」である。

f8b2e7a0.jpgそして、1846年に赤坂田町に転居。田町といっても田町通りではなく、みすじ通りである。赤坂通りからみすじ通りに入ってすぐのところにある。「北の家族」から5軒ほどいった木造の鳥屋、「一鳥」までの間が、勝海舟の5ヶ所目の住居である。狭いような広いような。現在は、雑居ビルが立ち並び、日韓共催といった店揃えである。今まで住んでいれば、勝家は赤坂の帝王になったかもしれない。そして、この家には少なくても10年間は住んでいたのだが、最後の方がはっきりしない。1853年、30歳の時に幕府の要職についたので、ここから彼の出世は始まる。赤坂に引っ越したのは、定説では、彼が師事した蘭学の先生が近くにいたからということになっているが、結婚後1年。これから幕府の要職を狙おうと思ったのではないだろうか。なにしろ川向こうに住んでいると、残業がきつい。

そして、次に登場するのが、同じ赤坂でも氷川神社方面。田町からは徒歩5分。1859年から1868年までである。氷川神社の近くで、現在はソフトタウンというマンションになっていて、一本の木製の碑と解説版が設置されている。後に近くに転居するので、とりあえずここを「氷川邸1」としておく。斜面地のようで、あまりいい場所ではない。この地が幕末、彼がもっとも活躍した時の住居である。つまり、田町からいきなり氷川邸1に移ったのか、あるいは短期間、別の家に住んだのか、よくわからない。公式的には田町の次が氷川邸1である。

f8b2e7a0.jpgそして、ここに住んでいたときに、幕府で大活躍する。まず、移転した1859年11月に、米国派遣が決まる。そして、翌1860年1月に咸臨丸に乗って米国へ行ってしまう。伝承では、妻には「品川に行ってくる」と言ってでかけたそうだが、妻に嘘をつくのはどういった事情だったのだろうか。良く解釈すれば、情報がリークして暗殺されたりすることを気にしたのだろうか。あるいは、単に妻と不仲だったとか、別居中だったとか。

そして4ヶ月後に帰国してから、彼の出世が始まる。主に海軍、国防関係。そして、江戸幕府が崩壊した1968年初めには、陸軍総裁にもなる。要するに、幕府側の全正規軍のボスになる。

そして、先に急げば、西郷隆盛による江戸総攻撃を3月15日に控え、江戸焼き払いという防衛策を胸に秘め、勝は西郷と二回の会談をする。3月13日は高輪。そして翌14日はさらに江戸城に近づいたJR田町駅近くの薩摩屋敷である。

この2回目の会談場所については、実は、特定されていない。現在、碑が立っている場所には薩摩蔵屋敷といって、薩摩藩のプラーベートバース(舟からの荷揚荷積桟橋)があった場所で、倉庫があったのだが、薩摩藩焼討事件の現場のそばであり、少し違和感はある。

しかし、私の大胆な推測だが、仮に、その場所で会談があったとしたなら、勝は江戸城のどこからか城外へ出たあと、舟で会談場所に向ったのではないだろうか。既に両軍がにらみ合い、幕軍内でもハト派、タカ派の抗争が繰り返されていたのだから、降伏条件の交渉に行く勝海舟が安全だったはずはない。海上ルートを予測していた者はいないだろう(現に、今までそんな説を読んだことはない)。それならば、ごく限られた者しか、会談場所を知ることはないし、目撃者もいないはず。現在でも場所をはっきり特定できない理由も説明できる。


歴史家ではない私には、この3月14日、勝が段取りをまとめ、江戸城に帰り、関係者と打ち合わせが終わったあと、家に帰ったかどうかとかつまらないことが気になる。

たぶん家に帰ったのだろう、と思う。思い入れの強い家だ。彼も人間だから深い眠りが必要だっただろう。その後、彼は江戸城引渡しの残務整理をするのだが、この年の10月まで江戸城で勤務している。9月に元号が変わり、家族は9月、本人は10月に静岡に転居(というか仮住まい)。

しかし、まだ榎本武揚や土方歳三が函館で奮闘中にもかかわらず、11月には新政府が勝に出社命令を出す。またも上京。この時にどこに住んだのかよくわからない。既に氷川邸1の住居は閉鎖している。諸説を見ても彼が氷川邸1に住んでいたのは1859年から1868年までとしている。つまり次の家まで4年間の空間がある。

その後、「氷川邸2」になる。1872年(明治5年)、2500坪の土地を得、そこが彼の終の棲家となる。その土地は、後に氷川小学校になるのだが、さらに現在は老人ホーム等になっている。新政府も彼に仕事をいくつか頼むが、要するに閑職。執筆活動を続けるが、こどもに先立たれたりして、1899年、静かな最期を迎える。


彼の政治家としてのクライマックスは、もちろん、1868年3月13・14日の江戸150万人都市の開城交渉なのだが、その交渉がスムーズに行われた背景として、過去に西郷と面識があったことが言われる。3年半前の1864年9月11日に、大坂で「神戸開港問題」で密談している。どちらも神戸開港を推進していたのだが、幕府方の準備が遅れたことについての真意の説明、ということだったそうだ。

実は、西郷と勝の関係だが、この1868年が過ぎ、明治政府が本格稼働を始めた以降は、方や要職、方や閑職ということで身分が離れる。その後、新政府内部の意見の対立で西郷は野に下り、大爆発して西南の役で戦死する。途中、新政府は勝を西郷に対する特使に起用しようとするが、勝は断っている。

それを考えると、勝と西郷は明治になってからは顔を合わしたことがなかったのだろうと思っていたのだが、一度、会ったことがあるという説があるそうだ。場所は、勝の所有していた二つの別荘のうち一つである千束池(大田区)の近くとのことである(もう一箇所は葛飾らしい)。会ったのは、いつなのか。西郷が鹿児島に戻る前の「水杯」の挨拶だったのだろうか。そして、二人は、何を語ったのだろうか。そのうち、千束池に足を運んでみようかと思っている。(その前に「氷川清話」を読めって?)

うなぎややけたかな

2007-03-22 00:00:56 | あじ
取引先の中間管理職の方が、転勤になる。2年前にアジアA国から帰ってきたばかりだが、その前もアジアB国、その前もアジアC国。米国に行っていたこともあるそうだ。要するに、細かなインターバルで日本と外国の間を動く。今度はロンドンだそうだ。英転。本人にはまったく悪いが、ピンボール人生というか、ビリヤードのナインボールのような感じだ。9番目のボールのことなどは、ゲームの最初はどこにあるのか意識しない(下手だからかもしれないが)。そのうち。攻守交替になって、9番目のボールは、あちらこちらに転がっていって、たいてい邪魔者扱い。下手同士で球を撞いていると、そのうち時間切れで、「じゃあ、飲みに行くか」とか穴に落ちる前に放置される。そこで、送別ランチをセッティング。

葉一郎:「殿。和洋中、何が、よろしゅうございましょうか?。」
9球氏:「そりゃ、昼めしは、うなぎに限るのじゃ・・」

(確かに、「美味いうなぎ」というのは、海外で口にするには苦労するだろうが、逆に、そんなものを食べてから渡英すると、さらに逆苦労するような気もする。ペルー大使館で人質になった青木駐ペルー大使は、「寿司とうなぎと蕎麦が食べたくて」思わず人質解放の時に脱出順位の前の方に並んでしまった。)

adf0f35f.jpgということで、赤坂の鰻屋に行くことにしたのだが、赤坂の鰻屋といえば、二つの有名店がある。一つは、「重箱」。江戸時代の「うなぎ番付」にも幕内力士として記載されている。滅び行く江戸老舗食処の中で、大きく輝く超高級店。自民党のある派閥では「重箱会」なる集まりにも使われている。賄賂関係の公判記録に数々登場することでも有名だ。一人当たり2、3万円は必要だ。自分がロンドンに遊びに行った時に臨時無料市内ガイドに頼もうという下心があるとしても、やり過ぎ感がある。

そして、もう一つの有名店である「ふきぬき」にする。以前から、時々行っている。価格帯は「重箱」の1/4。ランチタイムはさらに安い。もっとも「重箱」のことを知らないゲストには、この辺の計算は関係ない。ぐるなびなどで見ると、「ふきぬき」は”大正12年創業”と誇らしげに書かれている。

ところが、ここで気付いた方もいるだろうが、東京で「大正12年」というのは特別な意味を持つわけだ。

「関東大震災」 大正12年9月1日。

創業は、関東大震災の前なのか、あるいは後なのか。この店の社史を書くなら、まずそこからだ。新規開店のピカピカの店が、一瞬で壊滅し、「愛と涙の再建物語」となるのか、焼け跡の廃墟を格安で入手して、火事場からの「成り上がりストーリー」なのか。まあ、そこまで考えることはないかな・・

そして、江戸のうなぎならば、うな重かうな丼かなのだが、あえて、「東京で一番(本場名古屋の味とそっくりという意味)の”ひつまぶし”」にする。ナインボール人生のゲスト氏は、”ひつまぶし”をよく知らないそうだ。昼食はランチメニューから選ぶので貧富の差なし。夜になると、大富豪用から大貧民用まで階級性メニューが登場するが。

さて、ひつまぶしの場合、うなぎと飯とその他のトッピングをそのまま食べたり、ダシ汁をお茶漬け風にかけて食べるか、各人好き好きにすることができる。トッピングなし、きざみ海苔、ねぎ、わさび、それらの組み合わせ、ダシ汁かけ、なし。

adf0f35f.jpg遠慮がちに飯のお代わりはできるようだが、トッピングとダシ汁のすべての組み合わせを作ると16通りになるので、すべてを一度にトライすると、胃袋が破裂して病院送りになるから注意が必要。

個人的には、きざみ海苔にわざびというのが好きだが、あまりひつまぶしにハマるとビジネスの発想が名古屋風になりそうでこわい。

彼が、次に日本に帰ってくるときには、飲めないかもしれないということでサッポロビールのグラスを重ねる。デパートの閉店セールみたいだ。飲めばうまいじゃないか。

うな重とは異なり、ひつまぶしの鰻は名古屋流らしく深く蒸していない。名古屋以西では鰻の焼き方は店によって千差万別。うなぎの焼き方、さばき方で、「東国の均一性と西国の多様性」という東西文化論でも書けるかもしれないが、取材費が高そうで実現しないだろうし、そもそも鰻を毎日食べると口が飽きてしまうだろうなと思ってしまう。


彼の赴任地のロンドンでは、某商社の金庫に、適当に買い集めている「金」を保管しているのだが、「そのうち磨きにいくから」と軽い冗談がまったく通じなかった。ロンドンで買うと日本への輸送費と消費税がゼロになるのだが、まあ、彼にとって「知らない方が幸せなこと」の一つかもしれない。また、新装なったウェンブリー競技場の法人向けボックスシートはまだ売れ残っていることや、セント・アンドリュースの位置情報まで親切に教えてあげたのだ。


そして、うなぎ店を後にし、すぐそばにある、旧勝海舟邸跡を案内する。要するに、その住居跡の敷地の真ん中にあるのがドトール・コーヒー店であり、酔い覚ましコーヒーを一杯というわけだ。勝海舟の話は、次回・・

アウト・バーン制限速度問題

2007-03-21 00:00:47 | 市民A
75d7d3a9.jpg「無制限」。一般的に、このコトバを好きな人と嫌いな人はどれくらいの比率なのだろう。何となくだが、積極的、攻撃的という性格の方は、「無制限」が大好きで、逆パターの方は嫌いではないだろうか。話は、高速道路の制限速度。先進国では唯一の速度無制限の高速道路をもつドイツ・アウトバーン。

制限速度について、CNNJが報じている。

アウトバーンの速度規制、54%が130キロに賛成
2007.03.17 Web posted at: 15:44 JST- CNN/REUTERS

ベルリン――ドイツのアウトバーン(高速道路)に速度制限を設ける問題で、同国国民の54%が最大時速130キロに賛成していることが地元テレビの世論調査で分かった。10%がそれ以下を希望。35%は制限は必要ないだった。

ロイター通信によると、少なくとも三分の一のアウトバーンでは速度制限がある。残りについては、130キロの勧告速度があるが、無視されている例も多いという。

ドイツの環境保護団体、欧州連合(EU)欧州委員会も、エネルギーの無駄としてアウトバーンでの速度制限を提言しているが、ドイツ運輸省は消極姿勢を示している。

BMW、ベンツ、ポルシェなど強力エンジンを誇るドイツの車メーカーは、アウトバーンでの速度規制は売り上げ減につながりかねないと懸念しているという。

この記事の中では、速度無制限区域は全体の2/3と書かれているが、もう少し少ないという説もある。アウトバーン以外の道路の上限は120キロであり、トラックにはさらに低い制限があるそうだ。また、文中の130キロというのは推奨速度であるが、速度制限がないので、推奨しても守る義務はない(ちなみに、先日、アメリカで女性宇宙飛行士がヒューストンからオーランドまで同僚を捕獲殺害しようと飛ばした時の平均速度は130キロくらいで、米国では速度違反であるが道路上では捕まらなかった)。

たぶん、最大の問題は、最後に書かれている、自動車メーカーの戦略のところのような気がする。さらに言えば、高速自動車三社の中でも、「ポルシェ」なのだろう。「フェラーリ」と並ぶ世界最高速車。もちろん、技術的にも、最高の技術開発が必要とされ、その技術のお裾分けで大衆車の安全性が向上しているのも事実だが、速度が上がれば加速度的に燃費は悪化し、事故のダメージも増加。

一方、現実的には、ドイツ人の大好きな省エネ問題がある。さらに、EU圏拡大に伴い、EUの地理的中心部にあるドイツの交通量が増え、200キロで走ることが難しくなってきたこともある。

まあ、妥協的な結論とすれば、「さらに無制限区間を減らす」というような妥協的なものになるのだろうか。


かたや、日本では、速度制限を100キロから120キロに上げるために第二東名を造ったり、既存の高速道路の改造をしようという利権型政策誘導をたくらむ者が蠢いている。これこそ、最悪である。アウトバーンはヒトラーが軍用機の離発着にも使えるように直線部分を長く設計したから高速運転できるのだが、日本では建設費が高くなるように道路族が道をぐにゃぐにゃ曲げたせいで、高速走行しにくくなっている。宿命を負ったまま我慢するしかないだろう。


ところで、本当に無制限速度で運転したければ、深夜の第三京浜を走ってみるといいかもしれない。片側三車線を様々な速度と様々なポリシーと様々な能力のクルマが好き勝手に走っている。ただし、全長は、わずか16.6キロしかないので、時速200キロで走ると5分で終点だ。そして、制限速度は80キロなので、その後、免許証がどういう運命に至るのかは自分で調べておいてほしい。


そして、制限速度の問題で言うと、3月22日に東京高裁で、ある交通事故についての裁判がある。弊ブログ2005年11月29日近隣事件簿(1)サレジオ学院暴走車突入に取り上げたサレジオ学院前歩道突入事件。加害者の男性が時速40キロ道路を100キロで走行させようとしたため、カーブを曲がりきれず高校生の列に突入。二名死亡七名が負傷したとして危険運転致死傷罪が適用される。一審では懲役16年。

この事件、現場で見ると、100キロで走ると言うのは、プロレーサーでも考えないような場所。タイヤ残溝の磨耗とかの複合原因ではないかと思えるのだが、この100キロ出ていたのか、出ていなかったのかというようなことが裁判で争われるわけだ。

北京故宮博物院展

2007-03-20 00:49:05 | 美術館・博物館・工芸品
ecd67b90.jpg横浜高島屋で開催中だった北京故宮博物院展に会期終了直前に滑り込む。先日、デパートでドイツ製腕時計を買ったら、別室に招かれ、厚さ1センチの本になった取扱説明書(もちろん日本語)とともに、おまけにもらったチケットがあった。本家北京でかなり前に行ったことがあり、そこに展示されていた明・清時代の工芸品をイメージしていたのだが・・

実は、故宮博物院展といっても、その中の、ある部分にフォーカスされていた。

西太后(1835-1908)と溥儀(1906-1967)である。この二人の使った文物が展示の中心であった。が、溥儀は男だから所有品はつまらない。さらに既に没落皇帝だったので、事実上、生涯が監禁生活だった。一方、西太后は事実上の皇帝のようなものだったし、西洋の高官との交流もあり、豪華きらびやかな中国版マリーアントアネットである。

さらに、彼女は既に写真時代の人物で、数多くの記録写真が残っているため、どういう生活をしていたか、とか、どの王冠をいつ使ったとかよくわかっている。

もともと清王朝は漢民族ではなく蒙古系であり、衣類については、現在のモンゴルの人たちが着ているのと同じようなデザインになっている。しかし、素材や色は漢民族の派手な赤や青、黄色といった原色を使い、刺繍なども十分に漢民族的である。清の時代には、その二つの文化が融合したのだろうか。

そして、よく中国の女性は纏足をしていることが言われるが、展示された写真を見ると、さらに、手の爪を延ばしている。何本かの爪が、10センチほど伸びた状態になっている。結構、怖い。爪の長さが不揃いであることからして、「つけ爪」でないことがわかる。

西太后の時代からは約100年が過ぎているのだが、元の素材が高級だからだろうが、衣類や冠はその輝きを失っていない。逆に、歴史上の重大人物である彼女が体に付けていたもの、が眼の前にあるという実感が軽いめまいを起こさせる。

そして、彼女は、衣服や靴にはお金をかけているのだが、彫刻や陶磁器、調度の類にはあまり強い関心はなかったのかもしれない。そうすごいものは展示されていなかった。


むしろ、西太后は頤和園はじめ皇室庭園に巨費を投じていたらしい。頤和園にも行ったことがあるが、万博記念公園(サッカー場も含め)並の広さだ。日本では金閣寺でも銀閣寺でも、狭い敷地に高額の建物を建てるという発想なのだが、中国人は違う。


ところで、故宮博物院は北京と台湾にある。大陸人に言わせると、蒋介石が本土から逃げるときに、運び出せるお宝を袋につめて持っていってしまった。北京に残っているのは紫禁城の建物だけだ、ということになる。確か、返還要求を出していたはずだ。

しかし、よく考えると、北京政府は、「台湾は自国の領土」と主張しているのだから、返還というのも理論的におかしいかもしれないわけだ。そこにあればいいというのではないだろうか。まあ、この話題を書き始めると、まったく違う方向に行ってしまうのでやめることにする。

ペコちゃんのせいにして・・

2007-03-19 00:00:55 | マーケティング
ペコちゃんとお別れの日が近づいているのだろうか。余命1年?なんとも唖然の報道を読む。読売3月17日(画像:読売より)。

 来週中に洋菓子の販売再開を予定している大手菓子メーカー「不二家」(本社・東京)で、イメージキャラクター「ペコちゃん」とは別の、新たなイメージキャラクターを作る構想が浮上している。

 有識者の改革委員会が先月、「新キャラクターを作るぐらいの気概を持て」と助言したのがきっかけだ。これを受け同社は社内に特別チームを設置、新キャラで「新生・不二家」をアピールする狙いだが、ファンの間からは「ペコちゃんに罪はない」と擁護論も出ている。
 「ペコちゃん」が誕生したのは1950年。子牛の愛称「べこ」が名前の由来で、年齢は6歳という設定。翌51年、ボーイフレンドとして誕生した「ポコちゃん」(7歳)とともに、練乳入りキャンデー「ミルキー」の箱に印刷され、子どもたちの人気者になった。
 日本中の販売店の店先には、首を振る「ペコちゃん人形」が登場。76年には南極の昭和基地にも運ばれたほか、98年にはポコちゃんとともに、特許庁から「立体商標」の第1号に認定された。

 しかし、今回の不祥事でペコちゃんはすっかり肩身が狭くなった。東京都大田区のフランチャイズ店では、店頭のペコちゃん人形に「こんなに長くケーキを作れなくなってしまい、本当にごめんなさい」と書いた紙が掲げられた。
 そうした中、「外部から不二家を変える改革委員会」(委員長=田中一昭・拓殖大教授)は2月中旬、「さらに前進するという気概を持って、新しいキャラクターを生み出すぐらいの活力が必要」という提言を打ち出した。
 不二家は、若手社員を中心に「キャラクター分科会」を設置。約1年かけてキャラクター戦略を練る方針だ。同社の永森徹・特別顧問も3月1日の記者会見で「ペコは大事に守っていくが、新しい不二家を象徴するような何か視覚的なものが欲しい。ペコに並ぶキャラクターなど幅広く検討中」と話した。

 だが半世紀以上にわたって親しまれてきたペコちゃんを応援する声は根強い。
 不祥事が発覚して以降、本社や各店舗には「ペコちゃんは悪くない」といった激励の手紙が多数届いた。東京の飯田橋神楽坂店で「ペコちゃん焼」が復活した5日には、早朝からファンが列を作った。
 ペコちゃん関連グッズを100個以上も集めているという経済アナリストの森永卓郎さんは、「他の企業キャラクターと比べ、長く万人に愛されているという点でペコちゃんは圧倒的な存在。再生記念の限定グッズを発売するなど、ペコちゃんこそ新出発の象徴に掲げてほしい」と提案する。 2007年3月17日15時51分 読売新聞

81e1b315.jpgあまり、数値で考えにくい問題を書くのは、難しいが、簡単に言うと、

1.今までの経営は「ペコちゃん」というブランドを持っていたため、ブランド頼りになって、経営努力を失ってしまった。

2.従って、古いキャラクターとは決別し、

3.新しいブランドのもとに社員は結束しよう。

といったところなのだろう。森永卓郎氏が「ペコちゃん存続」と言うなら廃止したほうがいいかもしれない、と言うのは冗談とし、少し考えてみる。

まず、「ペコちゃん」があったから、その効果で経営努力が不要だったか、どうかだが、それは「潜在的効果」だったのではないだろうか。キャラクターが商品に直結している「ミルキー」自体の売上げは極めて少なかったと思うが、「洋菓子やレストラン」という実態のある商品やサービスと「不二家」という企業と「ペコちゃん」というブランドが横型に三連結だったのだろうと考えられる。つまり、レストランに行こうと考えると、不二家レストランを思い出して、さらにその潜在意識が「ペコちゃん」というイメージキャラだったはずだ。

つまり、ペコちゃんを変えるということは、企業側の勝手な理由ということで、既にイメージを認識しているユーザーを捨てることになる、ということが、まず一点。もちろん、新しいユーザーがそれ以上増えればいいのだろうが。

次に、不二家の経営的問題は、言い尽くされているが、同族経営の悪例というところに根がある。一概に「同族=悪」とは言いすぎだろうが、「裸の王様」ということだったのだろう。徐々に競争力を失い、ついに削ってはいけないコストに手を付けた。結果はご存知の通りだ。だから、「ペコちゃん」とは無関係だ。マスコミは勝手に「ペコちゃんのブランドイメージは大きく毀損された」とか書くが、「不二家」という企業名のブランドイメージが毀損されたのであって「ペコちゃん」のイメージが毀損されたわけじゃない。

「ペコちゃん」が悪いわけではなく、「ペコちゃんの会社の社長や社員」が悪いということは、幼児にだってわかるはずだ。「サンタクロースの秘密」より明解だ。

不二家が出資して、製造しているサーティワンアイスクリーム(日本国内)への影響はほとんどなかったことを見ても、「不二家」という創業家「藤井家」の名前を刷り込んだ企業名の方こそ毀損しているわけだ。仮にサーティワンへ影響がでていれば、米国の合弁親会社は、遅滞なく不二家を切り捨てただろう。


一方、角度の違う話だが、読売の記事の中で、

>不二家は、若手社員を中心に「キャラクター分科会」を設置。約1年かけてキャラクター戦略を練る方針だ。

とあるが、たぶん、考えるのは、最終的には、不二家の社員ではなく、「山崎パンの社員」ということになるのではないだろうか。山崎が不二家の救済に手を貸した理由のうち、かなりの部分は「ペコちゃん」ブランドだったのではないだろうか。山崎パンは、身の丈に相応しいブランドを持っていない。食パンには向かないとしても、「ペコちゃん」を菓子パンに冠するつもりだったのではないだろうか。山崎側は「廃止なんて、とんでもない。子会社ごときに・・・」と思っているのではないだろうか。

それに、もう一つ。ペコちゃん関連グッズを100点以上集めているという森永卓郎氏。「ペコちゃん廃止」になると自分の関連グッズの評価損が発生するのだろうか。あるいは逆か。その前に、その100点だが、どうやって集めたのだろう?

そして、もしもペコちゃんが廃止になった時、現在、店頭にならぶ「ペコちゃん」は、どうなるのだろう。人畜無害であっても保管には場所をとる。「燃えないゴミ」ではもったいなさ過ぎる。名案としては、こちらも心を入れ替えて働きはじめる会社「日本郵政公社」に譲ったらどうだろう。若干の改造は必要だろうが、「郵便ポスト」に転用したらいいのではないだろうか。 

Fiction for the Real 近代美術館(東京)

2007-03-18 00:00:53 | 美術館・博物館・工芸品
Fiction for the Real(リアルのためのフィクション)」へ。竹橋の近代美術館は、金曜日8時まで開館しているので、ちょっとした時間のすきまがある時は足を伸ばす。入場料も常設展と合わせて420円と格安。もっとも、建物は大きいが、作りが大部屋方式で、壁が少ないので、展示の数は少ない。年間何回か入れ替えが行われている。

さて、企画展は4人の現代女性アーティストの作を紹介している。イケムラレイコ、ソフィ・カル、やなぎみわ、塩田千春。余計な話だが、4人とも雅号にこだわりがあるようだ。「おおた葉一郎」みたいなものだ。我々の周りの世界は、本来、リアルのはずなのだが、多くがディジタル化して、さらにフィクションや伝説の世界につながっている。この混沌とした世界をリアルの方にとりもどすための「感覚の砥石」としての作品ということだそうだ。

645c97ae.jpg「まず、ソフィ・カル。リアルを取り戻せないあなたは、まず「フィクション」を自ら設定して、それを忠実に記録する。少女とネコが戯れる作品はリアルなのかフィクションなのか。”「B,C,W」よりBの文字(1998年)”では、なんらの解決もできてないような気もするが、それは彼女の狙い通りなのだろう。





645c97ae.jpg「やなぎみわの”案内嬢の部屋1F(1997年)”。左の案内嬢はリアル。右の動く歩道はフィクションだ。リアルの方の動く歩道のずっと先が暗くなっているのに対して、フィクションの方は先に明るさが見える。これ以上の解説困難。





645c97ae.jpg「イケムラレイコの”横たわる少女(1997年)”。会場の中で、この絵には存在感がある。少女は、なぜ横たわっているのだろうか。疲れたのか、祈っているのか、あるいは嘆きの象徴なのか。いずれにしても腹ばいに横になるというのは、リアル的行為。




645c97ae.jpg「絵画にとどまらず、”White Figure(1991年)"、"Cabbaged Head(1994年) ”では、人間の顔を造型しようとしている。成功か失敗かよくわからない。




645c97ae.jpg「4人のアーティストの中で、もっとも大胆な作品は塩田千春の”Bathroom(1999年)。映像芸術だ。浴槽だと思うが泥水につかり、頭から泥を浴びている。DVDは5分で終わるが、入浴=みそぎと考えれば「泥をかぶる」という熟語を思いつくが、発想が貧弱か。しかし、モノクロ作品で一見泥を浴びているように見えるが、そんな生易しくないのかもしれない。本当は、赤色の泥だったり・・


そして、この近代美術館の収蔵品をつらつら眺めてみると日本の絵画は1930年代に成熟時期にきていたことがわかる。その話は、またいつか・・  

女流棋士独立問題と二つの選挙

2007-03-17 00:00:52 | しょうぎ
将棋連盟理事会と女流棋士の交渉は容易ならざる事態までこじれてきているようだ。全貌は外部からはわからないことだらけで、「言った言わない」とか単純な話のようにも聞こえるし、要するに興行権の問題だけのように感じているのだが、さらにスポンサーの側の態度保留も事態の複雑化の要因の一つだ。本当は危ない話は書きたくないが、きょうのエントリはすべて、私の空想で書いているということにしておく。

まず、マクラの話からだが、新たな女流プロが誕生した。熊倉紫野2級である。2006年度後期の女流育成会リーグを11勝0敗で突破。18歳で、この4月からは早稲田大学教育学部に進学予定とのこと。茨城県古河市出身。教育学部はなかなか休みにくい学部なので、対局との折り合いをつけるのが厄介かもしれない。

実は、彼女の画像写真を見て、「ああ、あの時・・」と思い出したことがある。一足先、半年前にプロ入りした伊奈川女流2級のデヴューパーティが都内のホテルで行われた時のこと。伊奈川2級は兄弟子に渡辺竜王を輩出する最近隆盛の○○一門に所属している。若手棋士や奨励会、女流育成会在籍者も多く、いわば、一門のお祝いという性格のパーティでもある。そして、当日は、その他にも大勢の男女の棋士が集まっていたのだが、その時、ある女性たちの小集団に熊倉さんが含まれていたように思う。知らない顔だなあと思っていたが、伊奈川さんの友達の育成会グループだったのだろう。その後、パーティが終わった後、三々五々となるのだが、クロークの列に並んでいると、前の方に彼女がいたのだが、ある男性棋士(一門ではない)が、彼女に近づき、何か声をかけていたのだが、軽くかわしていた。「家が茨城で遠いので・・」と聞こえた。

かくのごとく、男性中心の将棋連盟というのは、とんでもない男尊女卑の封建的組織であるのだから、男女別組織にしたほうが、若い女流棋士の親の方々は安心できると思うのだが、・・・。


それで、独立状況はと言えば、相変わらず混迷していて、連盟側が、残る人と出て行く人と分離しようとアンケートを始めた。いわゆる組合交渉ではよくある「切り崩し工作」なのだが、これが火に油になったようで、連盟側がいう「スポンサーは渡さない」ということが、スポンサーとの合意事項なのかそうでないかというところで、「虚偽文書かどうか」ということに発展している。さらに、1年前に女流幹部に対して、米長会長がしゃべった内容のメモがある女流棋士のブログに掲載され、それに対して会長が自分の掲示板で下品な反撃をしたことから、さらに混迷。「(あなたの)親の顔をみたい」と書いたのだが、その親本人からも、ある場所で口激されていたのを隠している。外部からではわからないだろうが、そういうことは棋士はすぐ見抜いてしまう。

そして、女流棋士は約50人いるのだが、さまざまな理由で、どうしても将棋連盟に残留するという人と、どうしても新組織に参加するという人で二分されるわけではないわけだ。要するに、大多数の棋士(女性のみならず)は、数多くの対局ができて、多くのイベントに出演して収入を得なければならないわけだ。つまり、その情報が無かったり、間違った情報を与えられたりしたら判断がつかないわけだ。元々、男性と女性とは別の大会に出ているわけだから、分離・独立は、それほど難しい話ではなかったはずだ。

では、スポンサーはどうなるかというと、これが複雑なわけだ。まず、既存スポンサーの中には、例えば、女流名人戦の報知新聞のように連盟寄りのところもあるはずだ(読売子会社)。しかし、多くのスポンサーは、「組織が分裂していても、棋戦に全女流棋士が参加するのが主催の条件」というような態度をとることが大いに考えられる。ところが連盟側は、連盟所属棋士の非所属棋士との対局禁止という方針を打ち出しているため、極めて矛盾してしまう。結果、契約しようにもできない、というのが実態だろう。


そして、事態は硬直化してしまいそうなのだが、新たな霍乱要素があるのではないかと個人的に想像していることがある。都知事選挙である。

にわかに激戦風になってきた石原vs浅野両陣営なのだが、何で将棋に関係するかと言うと、まず石原側。渦中の米長氏は大親友である。ホームページにも登場している。どちらが相手に封建思想を教えたのかわからないが、現在、米長氏は教育委員まで拝命している。

次に、浅野氏側の話の前に、この独立騒動には両者とも弁護士が登場する。連盟側弁護士は木村晋介氏。彼は椎名誠・沢野ひとしと同じアパート仲間だったことが有名で、社会派弁護士のはずだった。「将棋好き」というだけで、とんでもない場所に引き込まれてしまったと思っているかもしれない。方や独立側の弁護士は二人。一人は宮坂幸子さんと言われる方だが、もう一人は錦織淳氏。この方は元衆議院議員で民主党所属である。もともと弁護士は依頼主の秘密を暴露してはいけないのだが、本件は依頼主自ら秘密をどんどん暴露しているわけだから、守るべき秘密もないだろうし、「石原盟友である米長会長の男尊女卑思想」というようなネガティブ・キャンペーンが張られるのではないかと、思わないでもない。

さらに、このまま突き進んでいけば、本来、開けては面倒な人権問題のパンドラの箱である「○○問題」や「●●問題」やらその他・・、秘密の小箱が次々と爆発するのではないかと、と思いながらも、そういうのもこの際いいではないかと、思わないでもない。

そして、都知事選よりも(将棋界では)考慮しなければならないのは、米長会長を含む8人全員の理事任期2年がまもなく終了すること。5月には新理事を選び、その理事の互選で会長を決めることになっているのだが、それについて現在、予測できることは何もない。現会長が再選の座を狙うとしても、まず、理事選挙に当選し、次に当選した8人の互選で選ばれなければならないのだが、まだすべてが不確かな状況だと、考えられるわけだ。


ところで、女流棋士の総数50人というのは、実は、かなりトーナメントには好都合の数であり、興行的にも自由度が高い。そういう新スポンサーの狙い目や、それに合わせた対局ルールなどについての個人的なアイディアは、また後日ということにする。

追記:一部、不正確な部分を修正しました。


358a6173.jpgさて、前々週3月4日出題作の解答。穴熊問題である。

▲8一金 △同金 ▲7三角成 △8二金打 ▲8一竜 △同玉 ▲7二銀 △同金 ▲9一金 △7一玉 ▲6三桂 △同金 ▲7二銀まで13手詰。

「最後に金を残さなければ」と思っていると前に進まない。11手目の桂捨ての後は頭金と相場が決まっているが、手元には銀が残っているわけだ。人生、融通が必要だ。特に独身女性のパートナー選びがそうだ。「銀でもいいや」とか・・


今週は、時節柄、きわめて実戦問題。

358a6173.jpgこの実戦型というのは、一つのパターンとして人気がある。「奇妙な配置の難解作はとっつきにくいが実戦型なら解く気にもなる」という方は多い。目も慣れているし、それほど奇抜な手もない。事実、比較的普通の手筋を組み合わせることで作る(解く)のだが、たいてい類型作になる。一見詰みそうな筋が複数見えるもので、その中の最後に読む筋が正解、というのが多い。ゴルフで言えば、クラブ設計通りに振っていくと無難にパーで終わるという安心感が微妙に漂う。本作はどうなのだろう。

二枚の香車は比較的低価値に使う。二人の係長が交代で注文伝票を書くようなものだろうか。よく考えると、香車に限らず、多くの駒は使い捨てになる。連盟会長にいじめられている女流棋士のようなものだ。

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