1973-1998 二つのカンパネラ

2007-01-03 00:00:06 | 音楽(クラシック音楽他)
0eec127f.jpgサラリーマンを長くやっていると、年始休みとGWと夏休みというほぼ均等に割り振られた休暇を、どう使うかというのが、一つのテーマである。旅行や、体力補強(寝てるだけの別称)やホームページの修理など。今年の正月は、体力補強パターンなのだが、それでも所用は多い。やっとの思いでCDを聴く。「ラ・カンパネラ1973/フジ子・へミング」。

フジ子・へミングは、その長い長い長い演奏家としての人生の最初の頃は、時代に押し流されていた。第二次世界大戦。そして、その演奏に磨きがかかった40歳代の半ばに、まさに欧米の音楽界の中心で飛び立つ寸前に、大きなアクシデントに見舞われる。その後の苦しい時代に欧州各地で「中年のだめカンタービレ物語」を続けていた。その頃の1973年のイイノ・ホールでのラ・カンパネラと、1995年に日本帰国したあと、1998年の音大奏楽堂でのラ・カンパネラと、時代を超え、両方が収録されている。

まず、フジ子・へミングのことを超簡単に書くと、本名はイングリット・フジ子・フォン・ゲオルギー・へミング。非常に複雑な構造の名前であるのは、ピアニストである日本人の母と建築家であるロシア系スウェーデン人の父との子であるから。そして、出生地はドイツ・ベルリン。では、彼女はどこの国籍なのかと言えば、現在は無国籍ということだそうだ(HPより)。最初の国籍権があったスウェーデンに長く戻らなかったために国籍がなくなったということだそうだ(この辺は、彼女の実弟である俳優の大月ウルフの経歴とはやや矛盾を感じるが、彼女が生まれたと想定できる(非公表)昭和2~3年(1927~28年)の世界状況から言えば、些細な矛盾なのだろう)。

そして、母とともに日本で幼少時代を過ごし、青山学院高校在籍中にピアニストとしてデビュー。ちょうど終戦前後のことと考えられる。彼女が師事したのもドイツ人であり、オーストリア、ドイツなどの作曲家がオハコというのも時代なのだろう。しかし、その時には既に彼女の右耳は聴覚障害により、ほとんど聞こえない状態だったらしい。その後、29歳で日本を離れ、ドイツに向かう。そして、1971年、当時ウィーン・フィルを率いていたバーンスタインが、彼女を発掘。共演が決まった矢先に巨大な不幸が遅いかかる。風邪をこじらせてしまい、それがもとで聞こえていた方の左耳の聴力をも失うこととなる。

その時の悲嘆というのは、考えるだけで悲しくなるのだが、その後、治療を続けながら、僅かずつ戻ってくる左耳の聴力を頼りに、ピアノを弾き続けていたわけだ。

そして、長い時間が流れ、1999年にNHKが彼女を特集する。ETV特集『フジコ~あるピアニストの軌跡~』。この放送が大爆発して、一躍、日本クラシック界のスーパースターとなる。そしてCDが発売され、門前列をなすようになってきたわけだ(NHKというのも、ずいぶん成功作品と失敗作品の波が大きいものだ)。それまで実に人生70年余。


さて、CDだが、全12曲の冒頭1曲目が1998年のラ・カンパネラ。長くこの曲を弾き続けたからなのだろうが、音の一つずつが宝石のような輝きを持ってピアノを弾く指の間からあふれ出してくる。僅かに残った聴覚が、音の粒を美しく磨いているように色彩さえ感じるような、あくまでも柔らかい彼女しか創りえない世界である。もっともカンパネラを愛した女性ということだろう。この演奏を聴いて、もっとも驚くのは、作曲家であるリストだろう。リストはこの曲を人生の多くの時間をかけ、熟成させ、完成させた。彼自身が聴いた時間はかなり短い。

そして、タイトルである1973年のカンパネラは最終12曲目である。冒頭の1998年演奏の方は5分49秒となっているが、1973年の演奏は5分1秒。一気呵成にメロディの流れで押してくる。カンパネラの語源は教会の鐘で高音部分を早鐘のように一定のリズムで弾き続けるわけだが、彼女の激しい気持ちの起伏がよく感じられる。おそらく、自分の運命の空しさと戦いはじめた当時の思いがこめられているということだろうか。よくイイノホールでのコンサートの音源が保存されていたものと誰かに感謝するしかない。


ところで、中段で書いたバーンスタインとウィーン・フィルだが、多くのヴィデオ映像が残されているようで、現在、DVD化が進んできている。これから、少し調べてみると、彼女の痕跡が見つかるのだろうか、あるいはないのだろうか。余裕があったら調べてみたいとは思う。


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