代り目(演:柳家さん喬 落語)

2024-04-22 00:00:40 | 落語
この演目だが、噺家によって大きく内容が変わる。一方、二ツ目でも真打でも演じるわけだ。

内容が、酔っ払いの話で、酔っ払うと無茶苦茶なことを言い出すという筋なので、いくらでも派生形ができる。とはいえ、終盤は、おでん屋やうどん屋が登場するとか、酒の肴を女房が買いに行ったと勘違いし、女房を愛しているというような独白を入れたり、上げたり下げたり忙しい。

最後まで行くと「代り目」の意味がわかるのだが、単に「銚子の代り目=もう一本飲み始める」というようなことなのだが。うまく決まっているのかよくわからない。

現代は酔っ払いに否定的な世論が圧倒的に多いわけで、古典落語の演目も生き残れないようなものが増えているように思う。

酒は×、たばこも×、廓も×、借金取も×、不倫も×、さらに家でゴロゴロしているのも×ということだ。享保の改革のようだ。

たちきり(演:柳家さん喬 落語)

2024-04-16 00:00:33 | 落語
たちきり(演:柳家さん喬 落語)

元々、上方では本格的な人情噺だったものを明治時代に東京で演じるようになる。上方では、非常に長い時間をかけていたが、東京では簡易型になって前半を大幅にカットしているようだ。

まず、枕の部分で芸者の花代の話に触れる。お客は芸者と遊ぶときは、金で時間を買うわけだ。たとえば1時間で一両とか。江戸時代には時計はないのでそれの代わりが線香で、1本燃え尽きるまで何分で何本でなんぼというところ。予備知識を刷り込むわけだ。

ただ、この枕を唐突に話すと、客は「一体、何の話?」と察しがつくので、それとなく違う話に振ってから、商家の放蕩若旦那のことを語り始める。

若旦那なのに、遊びが大好きで商いに身を入れず芸者遊びに入れ込むので、親類一同が、どうしたものか、と相談を始めるわけだ。上方では、この後、車引きにして過労死させようかとか、船遊ぶにつれて行って海に落としてしまおうとか、家を追い出して浮浪者にしようかとか、ここでたっぷり時間をかける。

一方で、若旦那は「お糸」という芸者と懇ろになり、女将も公認の切れない中になっていく。

ここのバランスが難しく、「放蕩」でもあり「純情」でもあることにしないと、後で困る。

そして親戚一同が決めた方策は、百日間の土蔵押し込め。つまり監禁である。

一方、お糸は、突然に来なくなった若旦那のことを思い、文をしたため送るのだが、それが土蔵の中に届くことはないわけで、何度も何度も返信があるわけもない文を送り続けるうちに憔悴仕切ってしまい床に臥せることになる。

そして、百日が過ぎ、自由の身になった若旦那は、行き先をごまかしてお糸に会いに行くのだが、その時には既にお糸は亡くなっていたわけだ。事情を女将に説明し、仏様に線香をあげ、仏前に座るとどこからともなく三味線の音が聞こえてくる。若旦那がかつて好きだった曲を聞きながら思い出にふけっていると、線香が燃え尽き、三味線もとまる。女将が、「線香が断ち切りになりました」となるわけだ。

つまり、演じるのが難しいわけだ。若旦那の行為を肯定するのか否定するのかによって、悲劇とも喜劇ともいえるわけだ。

なんとなく、座を沸かせようとして顰蹙を巻き起こす失言を繰り返す政治家も数多いが、本演目は特に難しいような気がする。『自分の悲劇は、他人の喜劇』ということわざもあるわけだ。(知らなかった人は、今、覚えておこう)

死神(落語:柳家権太楼演)

2024-03-05 00:00:23 | 落語
古典落語の名作、『死神』。

稼ぎの悪い男が家に帰ると、妻から「稼げないなら出ていけ」と言われ、ついに首を吊ろうと松の木を探していると、貧相な老人に呼び止められる。老人は死神と自称し、「まだ寿命があるのだから医者でもやらないか」と持ち掛ける。

そして、ある呪文と、死を免れない病人とまだ死なない人間の差を教えられる。枕元に死神がいる場合は、もうダメ。足元にいる死神がいる場合は、呪文を唱えると死神がいなくなり助かる。ということで、死神が見えるようにしてくれた上、呪文を教えてもらう。

そして、帰宅してさっそく小さな看板に「いしゃ」と書くと、すぐに大店の番頭が来て、多くの名医から匙を投げられた主人を助けてほしいと哀願される。さっそく初仕事と、病人の元に行けば死神が足元に座っている。しめた、と思い、もったいをつけて呪文を唱えると、死神は退散し、病人は目を覚まし元気になる。

その後も成功が続き、男の手には大金が溜まりだす。ところがその大金を使って、妻を追い出し妾を囲い、関西方面に大名旅行をするようになり、たちまち金はなくなり、妾も去る。

困った男の所に、江戸随一という豪商の番頭が来る、主人が死にかけているが、どうしても家督相続の問題があるので1ヶ月でも延命してほしい、といって二千両を積まれる。渡りに船だ。

ところが、駆け付けてみると、男の枕元に死神が座っていて、病人は虫の息だ。本当に困ると人間の頭脳は煌めくわけで、男は番頭に4人の屈強な男を用意させ病人の周りに配置し、じっと頃合いを待つ。そして半日たち、さすがの死神も疲れてきて、ついウトウトとした瞬間に、合図を出すと4人が布団の四隅をもって瞬時に180度回転させてしまう、と同時に男が呪文を唱えたため目を覚ました死神が慌てて逃げだし、主人は生還し、男は二千両を手にする。

ハイライトはこれから。

二千両を手にした男が帰る道に、現れたのが死神。嫌がる男を洞窟に連れていくと、何本ものロウソクが燃えている。それぞれが人の寿命といい、まもなく燃え尽きるロウソクをみて、「これがあんたのロウソクだ。死に行くものを助けた分、あんたのロウソクが短くなった。まもなく消えるぞ」と言い渡す。泣きながら許しを求めた男に、死神は別のロウソクを渡し、こちらに火を移しなさいとラストチャンスを与える。しかし、消えそうなロウソクが燃え尽きる寸前になっても、手が震えて火が移らない。そして、ついに、「ああ、消える!」ということになり、落語家がバタンと倒れるというのが、正統な『死神』。


ところが、別のサゲもあって、

着火に成功して、単に助かる。
着火には成功しても、うっかり消してしまう。
着火に成功したが、死神が吹き消してしまう。
着火には失敗したが、今度は男が死神になる。

というパターンがあるようだ。

また、最初は「消えた」という予定でも観客の中に本当に消えそうな人がいる場合、生還パターンに変えたりする演者もいるそうだ。

私が聴いたのは互いに姿が見えないオーディオブックによるので、一切容赦なく、「ああ、消えた」という定番コースである。

抜け雀(柳家さん喬演 落語)

2024-02-22 00:00:08 | 落語
『抜け雀』はサゲが少し難解ということはあるが、話が濃厚なので、結構有名だ。

小田原宿の三流旅館に無一文の絵師の男が泊る。何日分かの酒代を支払うように亭主に迫られ、逆に居直って払う払わないということになる。そして宿のついたてに雀五羽の絵を描いて、これが酒代と言い残していなくなる。

ところがこの絵師の書いた雀だが、衝立から抜け出して、外で餌を食べた後、部屋に戻って衝立に貼り付く。

それが噂になり、旅館は千客万来状態に。そこに現れた老人は、この衝立の雀だが、籠も止まり木もなければ雀は疲れ、もうすぐ死ぬ、と予言する。

そして、衝立に鳥籠の絵を描くと、立ち去って行った。

その後程なく雀を描いた絵師が戻ってくるが、小田原藩主に衝立を売ってもいい、とうことになるのだが、老人が鳥籠の絵を描き加えたことを聞き、はたと驚く。老人は絵師の父親だったわけだ。

そして、親を「かごかき」にしてしまったということでサゲる。

つまり、親をかごかきという身分にしてしまったということだが、かごかきといえば今はタクシードライバー。職業差別だ。

もっとも、本来の上方落語では、親の担いだ籠に乗ったというイメージだったそうだ。遊女が乗ったかごを担ぐのが親だったということ。風俗嬢の前に父親が客として現れたというシーンかな。いや、違うな。

鼠穴(落語、演:柳家さん喬師匠)

2024-02-15 00:00:19 | 落語
鼠穴とは屋敷や土蔵の隅にネズミが齧って穴をあけた状態を指す言葉だ。ようするに内側と外側をつないだ空間(トンネル)のようなもの。もちろん、ネズミより大きい物は通れない。

この演目は結構長い。ストーリーが長いので途中で端折ることが難しい。火事のシーンや兄弟げんかのシーンも迫真性が求められる。

主人公は竹次郎。親から任された身上(現金や田畑)を兄と二人で折半にしたのだが、コツコツと働いて元手を増やしていく兄と異なり、竹次郎は悪友と遊び惚けて無一文になってしまった。

しかたなく兄に泣きついて使用人にしてほしいと願い出るが、兄は他の従業員への悪影響を怖れ、現金を紙につつんで竹次郎に渡して、「これを元手に一旗上げるように」と追い払う。ところが、表に出て包を確かめると、たったの三文。二束三文ということばがあるように、わらじ代にしかならない。

とりあえず、米屋に行って、「さんだらぼっち(後述)」を買い、銭を通すサシ(財布)を作って売り歩く。この段階で、米屋で売っている「さんだらぼっち」とは何か見当がつかないが、流れに乗るしかない。小銭が溜まったところで、またも米屋に行って米俵を買って、これでわらじをたくさん作って、売り歩くことにした。なかなか大変だ。その後、朝は納豆、昼は豆腐、夜は稲荷寿司と売り歩くことになる。いわゆる「棒振り稼業」だ。

そして十年経ち、竹次郎は働きに働きを重ね、蔵前に三戸前の店を出す。三戸とは蔵の扉が三枚という意味で商いの量が多いことを意味する。江戸時代の商売は掛け売りが主流だが、在庫は資金繰りの一環と認識されていた。妻をめとり、幼い娘も育っている。

そして竹次郎は、ついに兄の店にあの時の三文の礼に行くことにする。しかし、当時、江戸市中には火事が頻発していて、竹次郎は店を離れる時に、ある胸騒ぎを覚えていた。蔵にいくつかも鼠穴が開いていたことだ。その鼠穴から火の粉が吹き込んで、蔵が燃えてしまったら商売はできない。破産になる。ということで、番頭に、外出中に鼠穴を塞ぐように命じたのだ。ところが番頭はすっかり失念してしまう。

このあたりで、聞いている身としては、「大不幸が訪れるのだろう」と予想するわけだ。番頭の怠慢のため、全財産を失うストーリーだ。まるでシェークスピア劇だ。

この後、竹次郎は兄と再会し酒を酌み交わして鼠穴が気にかかるものの、ぐっすり眠りこんでしまう。

そして、予想通り不幸の連鎖反応が始まる。

火事を知らせる半鐘が始まり、場所は蔵前。慌てて戻った竹次郎の目の前で一つ目の蔵からは火柱が上がり、二つ目、三つ目の蔵と順に焼け落ちてしまう。

無一文になり使用人に払う給金も出せず、最後は全員が辞めていく。泣く泣く兄に無心に行くが、掌を返したように追い返されてしまう。

途方に暮れた竹次郎は娘から「わたしを吉原に売ってください。まだ幼いので客を引くまでに借金を返してくれればいい」と言われ、実際にそういうことになり、二十両を借りて吉原大門を出たところで、スリに二十両全部を盗まれてしまう。

そして手ごろな高さの松の木を見つけ帯をほどいて首に巻いてしまうわけだ。

この後は、省略。

結局、この噺は何を意味しているのだろう。

・鼠穴の修理は、思い立ったら直ぐに塞ぐ。
・修理箇所は店主が自分で確認すること。
・そもそも悪友と付き合わない。
・草鞋の編み方ぐらい覚えておくこと。
・他人の家で飲み過ぎて寝込んではいけないこと。


ところで、「さんだらぼっち」だが「桟俵法師」と書く。「桟俵(さんだわら)」と同じ。それでは「桟俵」といえば、米俵のふたの部分の平面のことだそうだ。要するにドラム缶をイメージしてもらえばいいが、天と底の平な円の部分が桟俵で、胴体の部分が俵となる。つまり草鞋を作るには長い縄が必要だが、桟俵には長い縄がないため、銭を通すほどの長さの縄しか作れないということなのだ。

不動坊の難しさ

2024-02-08 00:00:00 | 落語
柳家権太楼師匠による古典落語『不動坊』をオーディオブックで聴く。落語の要素の一つは演者の身振り手振りであり、とりあえずそれは想像しながら聴くことになる。

最初の場面は、長屋の家主が店子の利吉へ、ある話をするところから始まる。それは、縁談。

長屋きっての美人のお滝さんは講釈師の不動坊火焔の妻だった。ところが不動坊は地方への巡業中に急病に罹り、急に亡くなってしまう。ところが不動坊は生前の乱脈生活で借金が100円溜まっていた。お滝さんは返そうにも家具一式を売っても50円にしかならず、水商売に行くしかないと家主に相談があったとのこと。利吉は長屋にいる独身男性の中で一番の働き者で蓄えもあるだろうから、100円払ってお滝さんを引き受けたらどうだろうか、という話だ。


一方、利吉の方は、以前からお滝さんのような女性と結婚できないかと前々から念じていたようで、話は即決。早くも、今夜にも祝言をということになってしまう。そして家主は、部屋を片付けることと、銭湯に行って綺麗な身なりになっておくことを言い渡す。

ということで、突然の吉報に舞い上がった利吉は銭湯の中で、長屋の住人に事の成り行きを話してしまうが、ついでに他の独身者が選ばれなかったのは、それぞれ不細工だからだろうと勝手な憶測をしゃべってしまう。

その話は瞬速で不細工仲間に広まり、仕返しをしようということに決定。手法は幽霊。売れない落語家を連れてきて、不動坊の幽霊として空中遊泳させ、「四十九日も済まないうちに再婚するとは許せない」と語ることになっていた。

そして、深夜、屋根裏から木綿さらしで吊り下げられた幽霊が、口上を述べたのだが、逆に借金の件を非難されることになる。そして10円札を渡されて、追い返されることになったのだが、吊るしていた男たちはさっさと逃げ出していて、宙に舞うのは売れない落語家という図に仕上がるわけだ。


この落語は、利吉が銭湯で浮かれる場面が、かなり長い。嬉しくて我を忘れて次から次へと妄想をしゃべりはじめて、その中に、長屋仲間の悪口が入ってくる。一方、最後の場面では、幽霊と言う怪しい存在に対して、理路整然と正論で反論するわけだ。この二つの場面の演じ方が難しいのだろう。まったく違う人物の様に豹変してしまうと観客には嘘っぽく感じられるだろう。俗に言う二枚舌。信頼できない政治家と同じだ。そうではなく、同一人格の中で「我に返った」感で話さなければならない。

演者により、さまざまな変化が加えられながら生き延びている古典のようだ

大安売り(落語)

2024-01-29 00:00:00 | 落語
大相撲初場所も終わり、13勝2敗とハイレベルな優勝決定戦の結果横綱照ノ富士が優勝した。13勝2敗というと勝率87%。あの将棋の藤井八冠の勝率とほぼ同じだ。かなり高い数字が求められる職業ということだ。横綱は降格しないということになっているので弱くなるとクビになる。横綱以外の力士は負けが込むとどんどん地位が下がっていき、十両から落ちると無給になる。タダ働きとなると労働基準法に完全に違反しているわけだ。

今回の落語は『大安売り』。八百屋の話かと思っていたら相撲の噺。終わってもなぜ題目が『大安売り』なのか調べないとわからなかった。元々は上方で演じられていたようだ。

町内出身の力士と町の衆の会話である。

先場所の成績を聞かれた力士は、「勝ったり負けたり」だったというわけだ。

それで、初日から順に取り組み内容を語るのだが、「勝ったり」の日の取り組みは技を出して相手が勝つことを意味し、「負けたり」というのは自分の技が決まらず負けることを意味していたわけだ。つまり、全部が黒星ということ。

芸としては、15日分の取り口を立て板に水の様に話さないといけない。念のため、忘れた時のために2,3日分の予備ネタも用意しているのだろうか。

それで柳家権太楼師匠の「大安売り」はこれで終わるのだが、時間があれば、「その前の場所は、全日、土つかず」という展開に進む。これも詳しく進むと「休場していた」ということになる。

それで、相撲部屋では、ちゃんこ係として働いているので、クビにならないわけで、親方は力士の四股名を「大安売り」にしてしまったというオチになるそうだ。


相撲ネタといえば、この演目を得意にしている噺家に三遊亭歌武蔵という真打がいるそうだ。力士から転身したと言われるが、ケガにより半年で廃業というか脱走したようだ。

掛取万歳(落語)

2024-01-25 00:00:00 | 落語
柳家さん喬師匠による『掛取万歳』。オーディオで聴く。枕の部分で「年の暮れという設定の演目」ということを鈴本の観客に確認すると、笑いが飛ぶ。どうも夏の終わりにこの題を選んだようだ。場面は年末恒例の掛け売り残高の精算のこと。

演題から察すると、金を払わないお客から何とか満足いく額を回収して、万歳をするように思えるが、なぜか逆だ。不払の方が万歳をするわけだ。

そもそも、万歳=バンザイ!ではないのだ。

噺は四話に分かれる。つまり、長屋住まいの貧乏人の八っつぁんのところに四人の債権者がやってくるわけだ。共演はこの四人に加え、おかみさん。昨年の大みそかは、棺桶を用意して死んだことにして逃れたが、同じ手は使えない。棺桶を買う金もない。

一人目の厄災は大家。家賃滞納だ。かみさんに聞くと狂歌好きと言うことで、狂歌の話題をしてから金にまつわる歌を詠み合って、延納合意に辿り着く。

二人目は酒屋。これは芝居好き。役者のようにセリフを決めながら忠臣蔵に持ち込み、秋口まで猶予を得ることになる(ただし大石内蔵助は討ち入る前に借金は返済していた)。

三人目は魚屋。困ったことに喧嘩好き。「払う/払わない」で口喧嘩になり、暴力沙汰になる前に、言い負かして買掛金そのものをゼロにしてしまう。

四人目が三河屋。三河漫才に嵌っている。掛け合い漫才で、調子よく「待っちゃろか、待っちゃろか」ということになり、最後は「百万年たったら払おうか」というオチになる。実は、この落語の演目はこの三河漫才に因んで、『かけとりまんざい』ということ。万歳=漫才=まんざい。

演者や持時間に合わせて四つやらなかったり、創作物といくつか入れ替えるということらしい。特に、三河屋の段は三河漫才を知らないと上手くできないため、省略されることが多々あるそうで、その場合は、単に『掛取』ということになる。

ところで掛け取りと言えば、毎月末にNHKの集金人が走りまわっていた時期があった。以前、勤めていた会社は貸ビル内の同じ階にNHKの集金隊が入っていて、月末近くになると、ドアを閉め切って、目標達成のパーティをしていた。ドアを閉めることからすると、後ろめたいのだろうと感じていた。途中で万歳の声が聞こえていたが、その場合は、バンザイ!ということになる。

NHKにしても新聞の押売にしても、ジャーナリズムの信用を落とすようなことが平然となされるわけだ。

水屋の富

2024-01-17 00:00:00 | 落語
『水屋の富』(演:柳家さん喬)は落語の演目だが、その前に本日1月17日は何の日かということから。

歴史上の1月17日を調べると、1995年に阪神淡路大震災が起きている。思えば、この日から連鎖的に大地震が起き始めた。

1966年同日に大事故が起きていた。地中海上空で米軍機同士が衝突し墜落。そのうち一機には水素爆弾4発が搭載されていた(4つも一緒に積むな)。海中に一発が沈み、残る三発がスペインの陸地に落下。一発は無傷だったが二発は起爆用のTNT火薬が爆発していた。水爆の構造上、核融合反応を起こすための高温を得るために原爆を使う。その原爆を爆発させるためにTNT火薬をつかうわけで、火薬が爆発した以上、原爆が爆発し、その結果水爆が炸裂したかもしれない。しかも全部で原爆二つと水爆二つ。不発だったもう一つの水爆(&原爆)も誘爆したに違いない。

1991年同日、米軍がクウェートに侵攻していたイラクに空爆を開始し、湾岸戦争が始まった。空爆と同時に原油価格が暴落。当時石油会社にいたので大忙しの数年間だった。

2008年同日には、英国ヒースロー空港で北京からの到着便BA38便が空港直前でエンジン停止、なんとか空港直前の平地まで滑空して胴体着陸。機体は大破したが乗客は全員生存。当初事故原因は不明だったが10ヶ月後に同じ北京発のアトランタ空港行きが着陸前にエンジン不調。出力を調整しながら復調させ難を逃れる。この時の調査で、給油したジェット燃料に少量の水分が含まれていて上空で細かな氷粒が発生し、着陸前に出力を上げた時に一気に詰まったものと判明。1月の事故も同原因とされた。世界のどこでもジェット燃料の水分対策には何重にも気をつかっているのだが。

ということで、1月17日はそんなにめでたい日ではないのだが、前段はおいて、今日は年賀はがきの「お年玉抽選」の日。年賀状には縁のない人も多いだろうが、対人関係の個人史的位置づけに関わる問題なので人それぞれだろうか。数十枚なので下二けたの四等当選率は百分の三なので、通常は2枚程度なのだが、今までに三等に2回当たっている。三等は下四桁で何枚かであり、一万分のいくつといった確率なので一生当たらないはずだが、10年に1回程度当たっている。そろそろ3回目の時期なのだ。(後記:抽選が終ってから調べると、今は二等が廃止になって、一等確率は100万分の1で30万円、二等は1万分の1で通販商品(5000円?)、三等は100分の3で切手シートになっていた。お年玉廃止も検討中で、郵便料金の大幅値上げ「ハガキは63円から85円へ38%アップ、封書は84円から110円へ31%アップ」も報じられている。雪崩を打つように事業が崩壊するような予感がする)

いつまでたっても落語の話にならないが、『水屋の富』だが、「水屋」というのは江戸で飲料水を売っている商売だ。説明が必要だが、教科書的に言うと、江戸時代初期には井の頭公園あたりから神田川を使って川の水を江戸市内に供給していた。いわゆる神田上水(多摩川からは玉川上水)。松尾芭蕉も幕府公認の水道業者だった。ところが江戸中期になって関西から最新の井戸掘り技術が江戸に伝わると、市内に井戸がたくさん掘られ、供給量の点では上水より多くなっていた。このあたりが統計的な話だが、神田上水より東側(山手線の東側)は海が近く埋立地だったりして、井戸水は出るが塩分を含んでいて、洗い物や入浴用にはいいが、飲み水としては不適切だったそうだ。そのため、神田上水側の水を甕や樽に入れて売る職業があった。それが水屋だった。ところが水は重い。若い時は難もないが四十にもなると重労働に感じてくる。

そこで一攫千金をもとめて富籤を買うわけだ。売っているのは寺社奉行からの免許を得ている特定の寺社だが、無届の闇籤もあったようだ。現在価格の3万円程度だったようだ。そして水屋の男は、大当たりを出して、別の職業の株を買おうとしたわけだ。

そして1等の一千両をあててしまう。胴元の寺などが2割を中抜きにするため手取りは八百両。それでも大金だが、長屋に持ち帰っても隠す場所もない。仕事にも行けないし、銭湯にもいけない。あれこれ苦心惨憺、床下に隠すことにしたのだが、それでも不安は募り、毎晩落ち着いて眠ることもできない。悪夢を見るわけだ。それも強盗に刺されるとか、長屋の仲間から長屋の立ち退き通告が来ているので長屋を買い取って欲しいとか。睡眠不足で体調不調となる。要するに小市民なのだ。裏金造りに良心の呵責を感じない某政党議員とは正反対だ。

そして、ついに床下の八百両を留守中に盗まれることになった。「これでやっとぐっすりと眠れる」ということになる。ある意味で八百両で自分の命を買い戻したようなものだ。

「花見の仇討」「お化け屋敷」

2024-01-09 00:00:00 | 落語
「花見の仇討(あだうち)」(演:柳家さん喬)
花見を題材にした落語はいくつかあるが、その一つが「花見の仇討」。長屋の四人組が引き起こす小事件簿だ。

江戸に花見の名所はいくつかあるが、ただ花を見るだけでは楽しくないので、一芝居してみようと四人が相談。それで決めたのが偽装仇討。仇討とは敵討ちでもある。敵討ちと言っても主君の敵討ちもあれば、親の仇ということもあるが、四人組の方は偽装なのだから宗旨はどうでもいい。仇役が一人、追っ手側が一人と助太刀が一人、そして最も重要なのが、間に割って入る仲裁役の一人。仲裁役によって、仇討が中止され、仲直りの酒が酌み交わされる予定だった。

追っ手側と仲裁者が巡礼服を着ることになっていた。ところが仲裁役が親類の家に三味線を借りに行くと、これから四国に行くのだからと酒宴になって、酔いつぶれてしまう。

さらに追っ手の二人は花見に行く途中で、侍と出会い、敵討ちの話をうっかりしたもので、「助太刀つかまつる」ということになってしまった。そして、やっと花見の場所で切られ役を見つけ、「やあやあ」と乱闘を始めるが、仲裁役はいつまで経っても出てこない。さらに騒ぎを聞きつけたさっきの侍が登場して、「助太刀つかまつる」と白刃を振り回したため、三人揃って逃げ出すことになる。


「お化け長屋」(演:柳家権太楼)
講談ではなく落語なので、お化け屋敷も怖くない。長屋の一角が空いていて、それを共同荷物置き場として利用していた店子たちが、大家が他人に貸さないように、部屋の下見に来た町人に、家賃は無料だが、殺人事件があった部屋なので幽霊が出ると言葉巧みに事情を話す。そうすると誰も借り手がつかず、次々と撃退できていたのだが、ある日の希望者は、まったく異なる態度だったわけだ。


横浜市の電子書籍図書館のオーディオブックスでの落語のリスニングも約60本の残りもわずかなのだが、講談社の落語文庫(読み上げ機能付き)というのも見つけたので、もう少し深みに入るかもしれない。個人的には講談のような語り文学も興味を感じ始めているのだが、単に歳のせいなのかもしれない。

『笠碁』と『茶の湯』

2023-12-10 00:00:26 | 落語
『笠碁』(演:柳家さん喬)
商家のご隠居二人は長い間の囲碁友達。きょうは「待ったなし」ルールで対局していたが、悪手を指した一人が、「一回待った」をしようとした。そこで喧嘩が始まる。囲碁や将棋では特に「待った」でもめ事になる。

私も将棋教室の講師をしているのだが、将棋を始めて指すこどもたちに指導するときに最初に「待ったなし」を徹底させる。楽しいはずの将棋が、大げんかの場になるからだ。

大の大人でも子供と同じで待ったを認めるとか認めないとかの話に過去の因縁の話なんかが持ち出される。金を借りて返せなくなったときは一月待ってくれたのに、碁の待ったは認めてくれてもいいじゃないかとか。そのうち、相手を「ヘボ」とか「ザル」とか言い合うわけだ。

そして、もう来るな!というところまでエスカレート。売られた喧嘩は買うのが江戸の流儀だったようで冷却期間が始まる。

ところが、3日ほど雨が続き、外にも出られず、隠居達はやることもなく、なんとなく碁を打ちたくなるのだが、碁会所に行くほどの腕前でもない。喧嘩別れした隠居も同じような状態だろうが、まさか別の相手をみつけてはいないかと、偵察に行こうとするが、あいにく家に一本の傘は連れ合いが使っていて、旅芸人がかぶるような陣笠しかない。傘と言うより帽子に近い。

それで相手の家の前を伺うが、ばつが悪くて家に入れない。そのうち、家の中から「このヘボ!」と声がかかり「このザル!」と言い返すと、ヘボとザルのエールの交換が始まり、どちらが弱いか試してみようということになり、碁を打ち始めるのだが、気が付けば、やってきた隠居の濡れた陣笠から雨水がぽたぽたと落ちてきた、と結ばれる。

人情噺というところだろう。哲学的に言うと「友情の破綻と再生の物語」ということか。

落語を少しまとめて聞いていて気が付いたのだが、登場人物として「ご隠居」というのと「旦那」というのがある。ご隠居と言うのは記号のようなことばで、現役引退後の余裕ある老人を意味していて、無個性であるのが特徴。一方、旦那と言うのは多彩で、はっきり差別化できるような個性を持たせてストーリーを進めていくというのが多い。

本作も主人公が旦那であれば、陣笠ポタポタの後に、再び「待った」発生場面を入れてみたい。


『茶の湯』(演:柳家権太楼)
この題目だが、あとで考えると、少し教訓的なところが感じられる。
主人公は、大店のご隠居。店を息子に譲り、郊外に家を買い、小僧と二人の生活を始めたが、退屈極まりない。

たまたま、手に入れた家に未使用の茶道セット一式があったので『茶の湯』をやってみようということになった。

ところが、現役の当時は仕事一筋だった隠居は楽しみ方を知らない。今のようにスマホで動画を調べたりはできない。小僧にも無知を知られたくないので、適当なことをいって。緑色の粉を買ってくるように指示する。

その結果、小僧は青きな粉を買ってくる(青大豆を原料としたきな粉)。そして湯をかけて茶筅でかき回しても泡は出ない。そのため、次に椋の皮の粉を買ってきて投入する。そうすると見事に泡が立つ。というのも椋の皮は洗剤として使われていたからだ。

そして飲んでみるが、旨くない。きな粉に洗剤を入れた液体が旨いわけない。しかも腹をこわして、雪隠と寝床を往復することになる。しかしあきらめない。長屋の人間を集めて茶会を開くが、誰もやってこない。それならと、茶菓子を購入して人寄せをするが、茶菓子だけ食べて客人は去る。

ということで、今度は手製の茶菓子(饅頭)を作るが、これまた最悪。客人たちは雪隠の窓から饅頭を投げ捨てると、近くの畑の農夫にあたる。農夫は「また茶の湯か」ということになる。

教訓としては、
1. 知ったかぶりしない。
2. 隠居(定年後)の趣味は現役の頃に始めるべき
3. 趣味を他人に強制しない
といったところだろう。

『福禄寿』と『寝床』

2023-11-21 00:00:35 | 落語
『福禄寿』(演:柳家さん喬)
深川万年町の福徳屋万右衛門。実子が八人、養子が五人、早世した兄弟のこどもを養子として引き取って育てている、店を継いだ惣領の禄太郎は派手なことが好きな道楽者で、失敗ばかりで財を失うこと何度もある。 一方、次男の福次郎は遊びもせずに地道な商売一筋で、店を繁盛させ、両親を本家から迎えて親孝行をしている。禄太郎は何度も福次郎から金を借りては散財したり、事業に失敗したりを繰り返していた。

ある歳の暮れ。雪の中、万右衛門の喜寿の祝いを催して親類一同が集まるが、敷居が高いのか、禄太郎は顔を見せなかった。

福次郎は母親の身体に気をつかって離れの隠居部屋に先に引き取ってもらう。そこにあらわれたのが禄太郎。福次郎から三百円借りてくれとせがむわけだ。母親は実の息子の禄太郎の借金をこれ以上養子の福次郎に頼むことはできないと押し問答の時、福次郎がやってくる。あわてた禄太郎は炬燵の中に隠れるが、福次郎は母親に困った時のためにと三百円と灘の酒を置いてでていく。

福太郎は、大喜びで灘の酒を五合も飲んだうえ、三百円を懐に入れて雪の中を去っていくのだが、酒のせいか家の前で転んでしまう。

その後、福次郎が帰ってくると、家の前で落とし物の三百円を見つけてしまうわけだ。

この後、普通なら禄太郎は川に飛び込むか強盗でもやるのだが、事態は好転し福次郎は再生の道を歩み始めるわけだ。北海道に行って開墾村を立ち上げたそうだ。


ある意味、笑うところがない落語なのだが、原作は落語中興の祖ともいうべき圓朝。北海道で聞いた実話を元に書いたそうだ。というのが一般的に言われているが、圓朝の実子の朝太郎というのが禄太郎と同種の人間だったそうで、イメージが重なっているそうだ。ちなみに朝太郎は小笠原に行ったそうだ。


『寝床』(演:柳家権太楼)
長屋の大店の主人が、義太夫にハマり、下手な素人芸を長屋の店子達に聞かそうとする。料理や酒をたっぷり用意して大広間を準備し、番頭に人集めを命じるのだが・・・
10軒ほどの住民はそれぞれ病気とか所要とか理由をつけて、行きたがらない。大店の番頭はその結果を怖れながら主人に報告すると、主人は激怒する。

そして、長屋の全員に三日後に家を出ていけ!と番頭を通じて通告。長屋側の意見は二つに分かれる。一つは、義太夫を聞くぐらいだったら河原で生活する方がましだ、というグループと、こどもたちには何の罪もないので、嫌でも死ぬ気で聞きに行こうというグループだ。

そして、住人たちは番頭に対し、もう何人もの番頭が義太夫の犠牲になって辞めていったという話をするわけだ。

柳家権太楼師匠の録音はここでまとめられるのだが、これでは題目の「寝床」の意味がわからない。

ネットで調べてみると、この『寝床』は名作として知られていて、この話の先は、大店の従業員が大広間で義太夫を聞くことになるのだが、酒と料理を食べて、一人を除いてみんな眠り込んでしまうわけだ。義太夫を読み終わった主人が広間を見渡すと、ただひとりの小僧だけが涙ぐんでいたわけだ。

そこでオチが入るわけだ。

寝床場面に到達しなかったのは、たぶん、時間の尺が短かかったからだろう。


ところで、義太夫は演じるのも聴くのも大変だが、最近、講談に少し興味が湧いてきた。20年ほど前に素人講談師と知り合ったことがあるが、付き合いを深めると出演するチケットを買わされそうなのであまり近づかなかったが、惜しいことをしたのかもしれない。

なお、「義太夫」のところを「カラオケ」に変えると、そのままでいけそうだ。

今回は『鰻の幇間』と『肝つぶし』

2023-11-14 00:00:12 | 落語
今回は『鰻の幇間』と『肝つぶし』。

『鰻の幇間(たいこもち)』(柳家権太楼)は、まったくの喜劇。暑い夏の日、野太鼓(我流の太鼓持ち)は昼飯を奢ってくれる旦那を探していた。すると、大人しそうな旦那を見つけ、「久しぶりですな」という具合に話しかけ、昼飯を食べることになる。行き先は鰻屋だが、少々古びた店で、座敷には店の子だろうか、よしお君という子がメンコで遊んでいた。よしお君を追い出して、なぜか客が卓を拭き、うな重を待つ。

程なく、二人の前にうな重が並ぶが、少々固い。幇間の方はどうも旦那とは面識がないことに気付くが、なんとか話をつないでいたのだが、旦那が、「ちょっと厠へ」と席を外し、いつまで経っても帰ってこないので探しに行くと、店の方から「先ほど帰られた」と驚きの一言。

さらに「御代は残った幇間が払うから」と言われたそうだ。つまり「奢ってもらう」つもりが「食い逃げされた」ということになる。さらに代金が高い。お土産五人分持ち帰ったそうだ。失意の彼に追い打ちをかけたのが、商売用の派手な草履がなくなっていたこと。自分の草履は紙に包み、派手の草履を履いて帰ったとのこと。食い逃げの上、履き逃げだ。

演はここまでだが、おそらくその旦那は、鰻屋の回し者だろう。

『肝つぶし』(柳家さん喬)は、悲劇と喜劇の混合型だ。ある意味で、ベニスの商人的だ。

世の中に「恋煩い」という病気がある。不成就に終わった恋を自己中心的感情で悲観し、食が細くなり寝込んでしまい、さらに悪化するとまずいことになる。そういう男の大親友が話を聞くと、恋をした相手は大店の娘だが、それも実在しない夢の中の娘なのだ。したがって解決方法もないのだが、やぶ医者の見立てでは、唐土(今の中国)の医書に、恋煩いに効く薬として、猪歳の猪月の猪の刻に生まれた人間の生き肝を食わせると治ると書いてあったと無責任に言い残す。とはいえ、非現実的のはずだった。

ところが、大親友には妹がいて、たまたま芝居を観に江戸の市内に来たといって家に寄り道してきた。話をしていると、妹は以前、亡くなった母親から、「あんたは生まれた年も月も刻も猪で長生きできない」と言われていたと話をする。

ここで、寄席の雰囲気がガラリと変わる。つまり「生き胆」が現実化してくる。この兄妹は幼少の時に父母を亡くし、本来は路端で行き倒れるところを恋煩い男の両親の善意で引き取られ一緒に暮らしていたわけだ。現代的に言えば養子になった妹から生の心臓移植を受けるような話だ。

そして、都合のいいことに、妹は横になって眠りこんでしまい、兄は台所から包丁を持ち出すわけだ。

そして、最後に題目が『肝つぶし』であることに繋がる。

落語家の腕試しか(金明竹)

2023-11-07 00:00:18 | 落語
今回聴いた演題は、『金明竹』と『蛙茶番』。いずれも演は柳家権太楼師匠。

『金明竹』は途中の早口語りが売りで、これを何度でも繰り返す。第一部が骨董屋の店頭で起こる小僧のバカさ加減で笑いをとることになる。そして第二部は旦那が外出中で、お上さんが縫物仕事をするので店番を小僧がするのだが、あらわれたのが上方からの御用聞き。上方言葉で、まくしたてる。

わては、中橋の加賀屋佐吉方から使いに参じまして、先度、仲買の弥市が取り次ぎました、道具七品(ななしな)のうち、祐乗(ゆうじょ)・光乗(こうじょ)・宗乗(そうじょ)三作の三所物(みところもん)。ならび、備前長船の則光(のりみつ)。四分一ごしらえ、横谷宗珉の小柄(こづか)付きの脇差……柄前(つかまえ)な、旦那さんはタガヤサンや、と言うとりましたが、埋もれ木やそうで、木ィが違うとりましたさかい、ちゃんとお断り申し上げます。次はのんこの茶碗。黄檗山金明竹、遠州宗甫の銘がございます寸胴の花活け。織部の香合。『古池や蛙飛びこむ水の音』言います風羅坊正筆の掛物。沢庵・木庵・隠元禅師貼り混ぜ[の小屏風……この屏風なァ、わての旦那の檀那寺が兵庫におまして、兵庫の坊(ぼん)さんのえろう好みます屏風じゃによって、『表具にやって兵庫の坊主の屏風にいたします』と、こないお言づけを願いとう申します


江戸っ子にわかるわけはなく、何度も聞き直すがそのうち使いは帰ってしまい、旦那が帰ってきて小僧に聞くもらちが明かず、お上さんに聞いてもよくわからず、古池の句を聞いたことだけは説明できた。そして何か買ったかと言うことになり、「蛙(かわず)」ということになる。

有名な寿限無が終了すると金明竹ということだそうだ。

『蛙茶番』こちらは、かなりの下ネタで、町内の出し物として舞台をやることになる。町内総出で参加するが、頭の悪い主人公には役目が付かないが、場内整理係のような役が決まった。舞台の横に胡坐をかいて座っていればいいのだが着物の裾からふんどしが見えてしまう役で、それならと派手なふんどしを締めようとするが、あいにくふんどしを質屋に入れてしまっていた。そのため釜を代わりに質に入れふんどしをとりもどしてお湯に行ったのだが、ふんどしを忘れて帰ってしまい、そのまま舞台の裾であぐらをかくのだが、そうすると大事な大道具が見えてしまうのだが気付かれないわけはない。まあ、そんな話だ。

『芝浜』・『だくだく』

2023-10-23 00:00:50 | 落語
今回の落語は二題。『芝浜』と『だくだく』。

『芝浜』(演:柳家権太楼)
働き者だが大酒飲みのため、貧乏な魚屋の勝五郎が主人公。魚屋といっても棒手振りといって、天秤棒の両側に籠をつなぎ、毎朝、魚問屋から仕入れた魚をなじみ客などに届けるのだが、なにしろ競争が激しいし、毎日きちんと歩かないと、ライバルに客を奪われるのだが、大酒飲んだ翌日は寝過ごしてしまう。

借金取りの要求も厳しくなり、とうとう女房はブチ切れて、酒を禁止し早朝から芝の浜にある魚問屋に追い出す。ところが2時間ほど時間を間違え早すぎたので、顔を洗おうと川に入ると、大金の入った財布をみつけてしまう。これが50両。財布に入れる金じゃないから訳ありだろうか。この川は田町のあたりで海に注いでいたようで、おそらく今も暗渠として流れていると思われる。

喜んだ勝五郎は、友だちを集めて大酒盛りのあげく寝てしまう。翌朝、女房に「財布などない、それは夢だ」といわれ、改心した魚勝は禁酒して商売に専念、生活に余裕ができる。3年経ったおおみそか、女房は夢といってだましたことをわび、改めてお上に届けたあと引き取り手が現れず、下げ渡された財布を出す。感激した勝五郎は、女房の勧める酒を口までもってゆくが「よそう、また夢になるといけねえ。」というところでサゲる。

芝浜は今でいう芝浦で、JRの新駅公募で人気第三位だったそうだ。落語、講談の世界では「芝」というと「いいところ」ということになり、その逆に語呂合わせで「千葉」というと笑いが起こることになっている。クールじゃないということだろう。同感だ。


『だくだく』(演:柳家さん喬)
この題目の「だくだく」だが意味がわかるのは最後の最後。なんとなく語感は酒とか川の水とか液体をイメージする。大量にあふれる様子が目に浮かぶ。

主人公は、貧乏人の八五郎。家賃の支払いにも苦労する男が、家財道具を全部換金して、新しい部屋に引越した。断捨離の極みだ。そこに近所の画家がやってきて、部屋に何も家財がないのに驚くと、八五郎は画家に頼みごとをする。

家に何も家財がないのは寂しいから、家具の絵を描いてほしいと頼む。壁画とか天井画ということだ。画家の名前がミケランジェロとかホクサイだったら、そのままタイムマシンで現代に来れば100億円の価値があるが、支払代金はゼロ。これが江戸時代人の人情だろうか。

それで、タンスどころか掛け軸やら眠りネコやら金庫まである。さらに槍を一本壁にかけた。いや、槍の絵を壁に掛けた絵を描いた。

そして、八五郎は多くの高額の家財道具と金庫の中に入った現金の山という絵に囲まれて、ウトウトと眠ってしまった。

そこに現れたのが盗賊1名。猫が眠っているのを見て部屋に入り、豪華なタンスに狂喜してさっそく開けようとするが、絵なので開かない。さらに金庫の中の巨額の現金も手に取れない。そのうち、住人が眠っていることに気付くが、無一文の男の哀愁に同情し、風呂敷包にお宝を詰め込む「つもり」のパフォーマンスを始めた。

実は、八五郎も目が覚めてきて、盗賊の一人芸を見て楽しんでいたが、金庫の中の大金を盗まれた「つもり」になると、急に腹が立ち、立ち上がって槍(の絵)をつかんで、盗賊の腹にブスリと刺したつもりになる。そして、盗賊は「無念。血がだくだくと出たつもり」とオチになる。

最後に、盗賊が「もはや、これまでのつもり」と付けたり、「画家が駆け付けたつもり」と付けることもあるそうだ。


非現実性を語るというのは、難しい。これも笑いの総てが、オチに集約されるため噺家はドキドキしながら最後の瞬間を迎えることになる。