遠因二点

2005-04-30 19:38:24 | 市民A
9e09bb88.jpg「しょーと・しょーと・えっせい」では、この1ヶ月内に、「日本最初の鉄道」シリーズを書いていて、新橋と横浜の両サイドから攻めていた。次は品川付近と思っていて、日本最古の鉄道事故を紹介しようなど考えている内に、悲惨な巨大事故が起きた。したがって、品川の話は先に送るとし、少し事故の遠因を考えてみた。今後、約半年程度で国交省の事故原因調査委員会の報告書が公表されると思われるが、マイナーブログなりに、遠因を二点、書き示す。もちろん事故原因は、5個以上10個以下程度の複合要因だろうし、この遠因は、はるかに遠い要因なので、公式的には無視されると思うのだが、そう思えばさらに今、書いておきたくなる。

1.狭軌レールと標準軌レール
 線路幅には、おおよそ、狭軌レールと標準軌レールの2種類がある。JR在来線は狭軌(1067ミリ)である。今回のJR宝塚線もそうだ。そして新幹線は標準軌(1435ミリ)だ。私鉄はバラバラで関東で言えば、京成、京浜急行が標準軌でその他はほぼ狭軌。地下鉄は線によって異なる。相対的に私鉄も狭軌が多い。一方、関西の私鉄は、ほとんどが標準軌だ。

無論、標準軌と狭軌では、速度に対する許容度が異なる。阪神地区のJRが私鉄と張り合って同じ速度を出せば、危険なのである。JR宝塚線快速電車は、標準軌の阪急よりも速いことを売り物にしていたようだが、速度競争は無謀だ。京阪、阪急、阪神、山陽電鉄などの標準軌路線は多くJRと競合している。狭軌鉄道で単なる速度競争に陥れば、危険度が増加するだけであり、エネルギーは速度の二乗に比例することを考え合わせれば問題は根深い。

秋田新幹線を代表とする既存路線への新幹線車両導入の場合には、「標準軌と狭軌を各単線方式で走らせる方式」と「狭軌の外に1本追加する3本レール方式」の混用で運用しているが、全国を標準軌化(あるいは併用化)するためには駅のホーム間の幅、トンネル問題などに障害は大きい。

では、なぜ、現代のJRは、この狭軌鉄道になっているのか?実は遡ると、例の明治5年の横浜駅に戻るのである。少し前のエントリで「高島嘉右衛門なる実業家が、伊藤博文、井上馨などに対して運動をして、最初の鉄道を敷こうとしたが、認可されずに国策鉄道方式となった」と書いたのだが、この時期、同時に鉄道の幅も問題になっていたのだ。問題は、鉄道の幅であると同時に機関車の幅なのである。明治年間は日本は機関車を商業生産しておらず、輸入頼りだったのだが、最初に売り込んだのは、ロシアだったのだ。ロシア使者のプチャーチンが機関車を売り込んだのが明治3年。しかし、実際には機関車は英国から輸入することになったのだ。そのため、線路幅規格は、その機関車の車輪の幅に合わされたわけだ。

では、英国は日本と同じ狭軌鉄道かというと、「とんでもない」のである。標準軌だ。狭軌組は、オーストラリア、タイ、マレーシア、シンガポールなどだ。要するに英国の植民地向けバージョンだったのだ。どうして植民地と同じ機関車を使うことになったか、理由はよくわからないのだが、「だまされた」のではないかと思う。標準軌だと、ロシアはじめ、多くの国が売り込みをするだろうが、狭軌なら英国が機関車市場を独占できるからだ。一方、トンネルを掘る場合は狭軌の方が、有利だ。

しかし、さすがに狭軌では具合が悪いというので標準軌に変更しようという動きが明治時代にあったそうだが、限られた予算を、線路の拡幅に使うのではなく、線路の延伸に使おうという政治の声(我田引鉄)に押されて、あえなく粉砕。以後ずっとそうなのである。

私も、以前、総武線方面に住んでいたのだが、津田沼駅-幕張駅間には、まだ幕張本郷駅が完成する前で、長い駅間距離を国鉄と標準軌の京成が張り合って競争していたが、ほとんど京成が勝っていた。また、京急の快速特急は、速度ではJRよりかなり早いように思える。このレール幅の問題は今後も日本の鉄道の宿痾のままなのだろうか。

2.時刻に正確になるのはやめよう
 前の駅でのオーバーランのタイムロス1分30秒を取り戻すため、飛ばしたというのが中心的な事故要因ということになるのだろうけど、実際に乗っていた人の大部分は、その1分30秒に拘ってはいなかっただろうと推測する。もちろん、遅れは、さらに次のタイムロスを生み、最終到達場所ではもっと大きな時間差が生じるかもしれない。が、先日講演会を聞いた中国の女子学生の日本体験談の中には「日本人は、のんびりしていて、大国だと感じた」というのもあるぐらいだ。タイムカードなんか廃止して、なんとなく定時時間とおおむね同じなら、それでいいということにすべきなのだろう。数分の問題なんか実生活では大して問題にはならない。東急線なんか、2日に一度は遅れる。

鉄道と時刻表の問題をシリアスに考えたい人には驚くべき例がある。場所はスペイン。新幹線「AVE(アベ)」だ。首都マドリードからコルドバを経てセビリアに向う。最高時速は250Km/時だ。スペインは未だに国鉄方式なのだが、このAVEの料金方式は驚きだ。何と、ダイヤより1分でも遅れたら、全乗客の運賃を0円にするそうだ。これがあの毎日2時間の昼休みとシエスタの国でどうやって実行するのだろうか?と考えても日本人の常識では答えは見つからない。実際にAVEに乗って判ったのだが、定刻よりかなり早く走るのだ。マドリードからセビリアまでダイヤより15分短縮して運行していた。そして、発車時刻になると、何の前ぶれもなくいきなりドアが閉まるやいなや1秒後にはダッシュを始める。運悪く閉まるドアに挟まれてしまうと、どうなるのか判らないが、おそらく遅延払い戻し金額の大部分の請求書が届くのだろう。

あれこれ、日本人は、もっと時間にルーズになってもいいのだろう。

Dr.C:Labo は、◎なのだろうか?

2005-04-29 19:42:26 | MBAの意見
708e0eb4.jpg「ドクターシーラボ」という会社は、有名といえば有名、無名と言えば無名だ。1998年に会社として発足。化粧品の通販中心に、年商152億円。経常利益31億円。今年2月には、堂々と東証一部に上場することになった。26日午前、一部上場後、初めての株主総会が六本木ヒルズ49階、アカデミアヒルズタワーホールで開かれた。

会場の椅子の数は約400。驚くことにほぼ満席。そしてちょうど半分位は女性のようだ。要するに一般投資家、勢揃いだ。決算期が1月末ということで、多くの参加者があるのだろう。社長は石原智美さん。総会議長として取り仕切る。

決算書を見れば、売上高は前年比30%以上の伸び、経常利益率は測ったように20%キープ。借金ゼロ。自己資本比率73%、総資産は89億円なので、回転率は1.7。ちょっと低いような気がするのは、おカネの貯め過ぎだろう。売上げの6割は通信販売とのこと。一方、全国出店は続けていて、百貨店などへ出店(赤と白の制服きている)。3年後の中期目標が現在の2倍の売上ということは30%成長を続けるということだろう。ハワイ、香港、台湾にも進出。監査法人はトーマツ(こういう会社は気が楽だろう)。

議案はいくつかあったのだが、特筆すべき点は、新取締役選任の件。資生堂から引き抜いた49才男性。それと、例の「株主以外の者に対して特に有利な条件をもって新株予約権を発行する件」だ。ただし3,000株に限定だ。980,000株を発行しているため、この3,000株が何を起こすのでもないのだが、自社株買い付けを3,000株強行っているので、それの見合いなのだろうか?とりあえず、毒を一滴、垂らしてみただけか?

また、大きな声では言えないのだが、業績好調の陰には「地球温暖化」があるそうだ。夏は「美白」、冬は「保湿」がキーワードになっているそうだ。私見だが、温暖化を騒げば騒ぐほど、心配になって商品が売れるという構造なのだろう。石原社長には温暖化の責任はないだろうが・・

そして、Q&Aタイムだが、さすがに大量保有者らしい人からは、熾烈な質問がある。( )内は私見。
Q:研究開発費は?
 A:売上げの1%以内。
Q:少なすぎる!もっとつぎこむべきでは?
 (少ないことを喜ぶべきか悲しむべきかは不明だ)

Q:連結決算から単独決算を引き算すると、海外子会社は相当赤字ではないか?
 A:お説のとおり、まだ売上げは低すぎる
 (指摘される前に言ってほしかった)

Q:ネットオークションに安価で大量出品されているが、流出ルートは?
 A:毎日、ネットを見ているが、ルートは不明だが、・・・。
 (なるほど、いろいろあるものだ・・・)

Q:製品の生産は自社で行っているのか?
 A:薬事法上、自社で製造することになっていて、他社とはああだこうだ・・
 (意味不明だが興味なし)

その他は、つまらない話
Q:女性役員が少ない。
Q:従業員のマナーが悪い。
Q:株主優待がケチだ。
Q:配当性向を上げないのか?(そうだそうだ)
Q:株主総会の場所がわかりにくい(○なかものめ!)。

悪口ばかり書いているが、実は株式は損切り済みだ(ただし1月末時点では株主だった)。他の株主は儲けているのかな?悪口を読んでくれて株価がもっと下がれば、リターンマッチに参戦するつもりではあるのだが・・・

そして、株主総会の後、隣のパーティールームに移り、懇親会。まあ、アルコールはないのだが、生ハムにはありつけた。本場スペインの生ハムには遠く及ばないが、国内で食べた中では最高クラスの味だ。なんとなく、女性たちが群がっているメインテーブルは事故にまきこまれそうなので、端っこのテーブルのデザートから逆順で進む。立食パーティーの必勝法は「逆順」だ。最後にオードブルとスープを飲んで、お昼代を浮かした。

帰り際に、ビタミンサプリとコラーゲンゲルとをもらった、足の裏のウオノメ除去跡が角質化しているので、塗りこんでみよう。情報では、これから商品購入券が届き、さらに税金天引き後の若干の配当金が入ってきて、それらの合計額はキャピタルロスのごく一部分をうっすらと覆ってくれることだろう。

事件は眼の前で起きた!

2005-04-28 19:43:53 | 市民A
856067e2.jpg外堀通り、溜池交差点近くにある石焼ビビンバ店で「事件」は発生した。
先週のある日(関係者に配慮し、ちょっと曖昧にする)、通常の昼間の仕事が終わった後、夜間の一仕事に備えて、夕方の早い時間帯にカウンター席に座る。店の造りは、多くの牛丼店と同様の全席カウンター。客数は夕方早かったこともあり、5人以上10人以下。近隣では結構有名な店で、一人で食事をする人には受けている。値段は相当安く、普通の石焼ビビンバで490円。カルビ丼とかその他いくつかのメニュウがあるが、最高でも600円台。きちんと焼いた石鍋に食材が乗せられ、卵の黄身と一緒に、自分で撹拌して食べる。

その時、店側は調理を担当している店長と、若い女性の従業員の二人だけだった。

事件は、あっと言う間に起きた。私の一つ空席をあけて隣の席のダークスーツの男が、食べ終わるやいなや、席を立ち、自動ドアの向うに消えたのだ。「食い逃げ」だ。無銭飲食ともいう。女性従業員が店長に報告し、店を出て探しに行ったが、30秒で帰ってきた。まあ、そんなもので深追いする手はない。暴力行為は危険だ。店長は石鍋を火にかけて炙っているので、これまた、外出は危険だ。

店の場所は、首相官邸の近くで、警官は日頃から多数歩き回っている。「無銭飲食」は担当外とはいえ、眼の前に犯罪者が現れれば、すぐに捕まるだろう。なにしろ重装備である。市街戦対応だ。(重装備過ぎて、無装備の逃走犯を捕まえるためには催涙弾の乱射しかないかもしれないが)しかし、犯人は、店の外に見える外堀通りの横断歩道の信号が青から赤へと変わる直前を狙っていたわけだ。思えば、上着を着たまま、食事をしているのは暑そうだな、と一瞬感じていたのだが、逃げることを念頭にしていたのだ。

問題は、この後だ。この「食い逃げ」というのは、きわめて後味が悪い。何か、従業員の責任のような感じになってしまう。そして、店内には、嫌な空気が流れるのだ。私の席は、入口(逃げ道)に近いところだったので、「オレは違うゾ!」って言っておきたいのだが、口にするわけにはいかない。気が弱いので、まだ食事中なのに、すでに財布を取り出して支払う財力があることを示しておく。

他の客も、急によそよそしく食事を進める。見て見ぬ振りというわけではないが、従業員がかわいそうになるのだが、どうすることもできないので、気まずくなるのだ(だからと言って、格闘までして取り押さえようとまではしないけど・・。焼けた石鍋が店内を飛び交ったりしたら最悪だから・・)。

店長の落ち込みもヒドいのだが、収支的に考えれば、つり銭間違いで現金残高が合わないことと同じなのだが、気分が違うのだろう。つまり、1食ずつ、鍋を適温に焼き、ゴマ油を塗り、食材を盛り付け、一人一人に配膳するという行為は、値段が安いと言っても、牛丼店とはかなり異なる。「調理」なのである。おカネを払うと言う行為は、食事に対する対価であると同時に調理に対する謝礼でもあるわけだ。だから「食い逃げ」は気分を害する。つり銭間違えは単に自分のミスなので、気分を害することはないのだ。しかし、数百円の被害では警察沙汰にはならないだろう。手間がかかり過ぎる。

さらに、もう一つ、嫌な気分になるのは、その時、着席していた来店客の一人は、40歳くらいの白色系外国人である。日本の恥を見られてしまったわけだ。あーあ。彼の本国向けのWeekly Reportには、「日本料理の最高傑作は石焼ビビンバであるが、一部の客はこの高額料理店で無銭飲食を企てるのであるが、裕福な日本人たちは、一向にとがめることもない」と書くのである。

そして、私も犯人の顔を覚えているわけでもない。都会のマナーというか、カウンター席の隣人の顔を覚える趣味はないので、逃走するまでの記憶はほとんどない。記憶があればここに人相書でもさらすのだが、残念だ。

できることは、犯人に投降を呼びかけることだけだ。
「早く自首しなさい!!現場に落ちていた髪の毛から、君の遺伝子情報は特定されている。溜池交差点のビデオカメラにもはっきり画像が記録されているのだぞ!」

江戸城には謎が多いのだ(1)

2005-04-27 19:48:30 | The 城
1ac5d1fe.jpgお城シリーズblogを書くため、図書館で調べることがあるのだが、お城関係の本は多い。結構、数十冊のシリーズ本になっていたりする。そして「完本」とか「定本」とか権威を主張するのだが、案外、それぞれ記載事実が異なっている。うかつに他人の説には乗れない。大著になると、「監修OOOO」といった形で、胴元の先生の配下で、大勢で手分けして書くようになっているが、実際には各地の社会科の先生が書いていたりするようで、内容が手前味噌のように感じる場合が多い。

そして、今回は江戸城に触れるのだが、東京駅徒歩10分の場所にあるにもかかわらず、謎が多い。江戸城の謎をまとめた本もある。はっきりしないことが多い理由は、江戸、明治~昭和と権力の中心であったために、批評するのが憚られたに違いない。そして、資料は警備的な理由であまり明らかにされず、また実地調査も限定的になってしまう(城郭の一部が使用中であるからだ)。しかし、現在は江戸城天守閣跡、本丸跡、二の丸跡は公開されていて、誰でも入苑できる。江戸時代に各種発表された「お城ランキング」でもいつも番外(行司の欄に書かれている)になっているほど大きい。「最大の城」の風を感じるため、昼休みに小走りに行く。正面の大手門から外界を振り返ると、現代と中世が融合して見える。

今回のメインテーマの一つは、本丸黒書院の跡地を確認したかったのだ。別途、将棋blogも書いている都合、確認したい場所なのである。毎年11月17日に、時の名人や弟子達が江戸城に登城して「御城将棋」を指していた座敷が、「黒書院」と言われる場所であり、日本将棋連盟は、その11月17日を「将棋の日」と決めてしまったのである。しかし、私が調べてみると、11月17日には将棋だけではなく、「御城碁」も黒書院で同時に行われていたというのだ。囲碁界の方では「御城碁」の記述はあるが、「御城将棋」についてはシカトだ。お互いに東アジア各国と同様、難しいものだ。

さらに調べると、黒書院は合計78畳であるが田の字型に四つの部屋に分れ、入口から見て左奥が上段の間、左手前が下段の間、右奥が囲炉裏之間、右手前が西湖之間と言うことになっていた。左側の上段の間と下段の間が正式な客間で右側の二部屋が控えの間という感じだ。そして、果たして同時開催の囲碁と将棋とでは、どちらが上段の間に座っていたのだろうか?ということなのだ。広い苑内の散策を開始する。

まず、基礎知識だが、現在の江戸城には天守閣がない。いつ消失したかというと1657年に起きた明暦の振袖火事で全焼して以来だ。(当時50万人いたという江戸の人口のうち、11万人が焼死したというが、50万にも11万にも諸説ある。)1636年に家光が完成させた大天守閣は、わずか21年で消滅した。この天守閣は三代目で、初代は太田道灌作で、二代目は家康作、そして家光作になるが、この辺の事情は、続編で触れることにするので、今日はスルーパス。

御城将棋は、この天守閣のない本丸で行われたのである。この本丸の構造であるが、大手門から入ると、いくつかの番所があり、馬で来た者も駕籠で来た者も、すべて、徒歩になる(現代的に言えば、入口脇に駐車場があると考えればいい)。そして最初にあるのが「大広間」である。大名や旗本が一同に集まるのがこの部屋で、大概の行事はここで終わる(講堂のようなもの)。さらに奥へ進むと廊下があり、「松の廊下」と呼ばれる。「L字型」に曲がっている。L字型になったのは、特段の意味はなく、他の建物との関連であったように思える。以前、浅野某氏が一暴れしたと言われるが、実際の犯行現場は別の場所だ。

そして、その後ろにある建物が、「白書院」である。幕府の公式的な来客に対して使われる部屋で、皇室や外国からの使者などとの面会に使われている。そして、さらに奥に位置するのが、「黒書院」。部屋の序列から言うと、「白書院」が上で、公式的であるのに対し、「黒書院」は私的性格の強い部屋で、他の建物が檜作りに対して、赤松材を使っていたということだ。将軍の趣味の部屋ということだったのだろう。

そして、その先は「中奥」と言われるエリアで、日頃、将軍や側近たちが政務に勤しむ建物群があった(首相官邸&省庁)。そしてその奥が将軍の自宅と言うべき「大奥」である。

位置的には、家光時代は、大手門から、本丸、中奥、大奥とストレートに並び、大奥の先が天守閣であったのだが、明暦の大火以後は、建物が大きくなり、中奥と天守閣跡(天守台)との間隔がなくなり、天守台に向かって右側の空きスペースへ大奥は移動することになった。

現在は、一帯に、まったく建物はなく、本丸跡ということで、広大な芝生のスペースが広がっている。不謹慎な言い方をすると、ゴルフのロングホールを横に二つ並べたようなスケールだ。そして、いくつかのポイントには表示があり、「松の廊下跡」は位置を特定できるようになっている。だが、・・・

いくつかの江戸中期の配置図によれば、松の廊下の先に、白書院、黒書院があるはずの場所は5メートル位の高さの土手になっていて、何本かの松が植えられている。どうも位置関係がおかしい。廊下の先にあるのは同じ高さの建物であったはずだ。「松の廊下」が「L字型」であったことを考慮してもやはり、そこの土盛は不自然に感じる。少し全体の地形を見ていると、左側の土手から何ヶ所かで土盛が右側に突出していることが感じられる。このあたりは家康の時に全部人工的に作られた(旧太田道灌の城の上に2メートルの土を入れたそうだ)ので、やはり変だ。

ここから先は、単に推測であるが、この白書院、黒書院のあたりの土盛の下には、幕末の大火で焼け落ちた本丸の残滓が埋められたのではないだろうかと想像するのである。その後、本丸は再建されていない。まさか身元不明になった大奥のお嬢様方のご遺体は埋まってはいないと思うが、焼け残った材木などは、まとめてから土を掛けたのではないかと思うのである。史事では、江戸城は13回も火事に遭遇している。幕末の1859年の火事では本丸、西丸の両方とも炎上し、1年後には両丸ともに再建されたが、続く1863年の火災でも両丸炎上。しかし、西丸だけしか再建されなかったのである。そして、本丸の跡地は140年後の東京都の完全なる中央部に、「真空地帯」を作ったわけである。

ということで、黒書院の座敷の秘密にはまったく近づけなかったのであるが、ちょっと歴史脳を刺激された1時間だったのだ。それにしても、江戸城見物客の半分以上は、白色系外国人であることも、当然とは言え、意外な発見なのだ。

健康増進式横断歩道橋

2005-04-26 19:49:18 | 市民A
d4f49e71.jpg親切な横断歩道橋を見つけた。場所は東京都港区愛宕二丁目。竣工から数年しか経っていない42階建てのMORIタワーには、英国に本社をおくVodafoneの日本法人も入るが、そのビルの前の交差点にかかる横断歩道橋である。何と「コの字」型。そして、横断歩道はまったくない。すべての人が、交差点にかかる横断歩道橋を使うことになるのであるが、問題はこのVodafone側から道路の向かい側に歩こうとする人だ。どう考えても、「コ」の字を一筆書きしなければならない。すごい健康促進体操だ。

もしも、英国本社から、昨年就任したばかりのCEOが来日して、「どうせ巨額の赤字になり、オレのクビも1年間だ」と観念し、「東京観光に徹しよう」などと不埒なことを考え、さらに、日本本社からすぐ隣に見える東京最大の観光の目玉である東京タワーに歩いて行こうと思ったら、大変なことになる。外人の巨体には、横断歩道橋は狭く、かつ傾斜がきつくて大変だ。「非関税障壁だ!」と思うかもしれない。今年4月に三流大学から入社した新入社員がおんぶして上り下りしなければならないだろう。そして、その功績でその社員は5年後には日本法人の社長になり、20年後には世界のメディア王になるのだが、現在はそれを知るよしもない。

そして、その新人社員にはサラリーマン生活最大の困難が待っているのである。実は、その次に現れる「芝公園3丁目交差点」も全く同じ向きに開いた「コの字」型の横断歩道橋なのである。

「将軍のアーカイブズ」展に行く

2005-04-25 19:51:08 | 美術館・博物館・工芸品
dde0812d.jpg東京竹橋の国立公文書館で開催されている「将軍のアーカイブズ」展に出かける。4月24日までなので閉幕直前。徳川将軍家の図書館だ。以前なら「ライブラリー」と言っていたものを、最近は「アーカイブ」という。複数形のSをつけると、特に所蔵品を示すことになる。Sをつけない場合、所蔵館のことを示す場合もある。

徳川家康は本を読むよりも、集めるのが好きだったようだ。収集癖があるように感じた。全国の領地を独り占めにしたのも収集癖のせいかもしれない。古事記の写本をはじめ、古典類の複写をかなり集めている。それらの家康本をベースとして、さらに蔵書は増加し、特に読書家の8代吉宗が将軍の時にはかなりの蔵書があったようだ。そして明治維新と同時に、ほとんどは明治政府に引き渡され、その後、現在にいたる。

ガラスのケースの中に展示されてはいるが、家康本人が手に取り、読んだ書物が、そこにある、というのが展覧会の醍醐味なのだろう。いくつか感じたことを書いてみる。

まず、家康の蔵書には古事記、吾妻鏡、などの稀少本が多く含まれるが、ことごとく「原本ではなく写本」である。家康ほどの権力者が原本をかき集めようと思えばできたはずだが、写本を集めたというのは、「もはや書籍文化財は略奪の時代ではない」という歴史認識があったのだろう。そして家康の想像どおり、江戸時代には出版業が盛んになり、時代を追うごとに出版物は増えていく。

次に徳川吉宗であるが、おそろしいほどの読書家であり、彼の時代からは、将軍がどの本を読んだか記録することになったのだが、彼は年間200冊以上読んでいたとのこと。日本史の上でもっとも勉強した為政者ということになる。余計なルールを作ったものだと、後継の将軍は困っただろう。

そして、驚くことに、将棋の本(詰将棋)が多数見つかっているそうだ。10代将軍家治はおそるべき将棋マニアで、自分で詰将棋の本を書いているくらいだ。(腕前は、「強いアマチュア」といったところだ。公開されていた家治将軍作の詰将棋を解いてみたが47手詰(専門用語でいうと「エスカレーター往復趣向」を使用)。長い割に、好手は1つだけだから、難しいとは言えない。旦那芸という言葉が思い浮かぶ。

だいたい、徳川将軍15代までのうち重要な将軍は5人くらいで、その他の将軍は、政務は実務官僚任せだったわけだ。この家治も、その他大勢の方だろう。高校の歴史の先生は勉強家であったが、家治の将棋好きを揶揄して、「毎日、天守閣から江戸の町並を見下ろして、将棋の升目に喩えていた」とキツイ評価をしていた。しかし、実は、江戸城天守閣は4代家綱の時、明暦の大火で焼け落ちてしまい、以後、再現されていないので、「天守閣に上った」というのはありえない。しかも大天守閣は約80メートルの高さだったので毎日上るのは大変だ。高校の先生が歴史に自分の想像を書き加えてしまったのだが、誤りに気付くまで長い時間がかかった。

誰しも「先生」や「教科書」を完璧と思いこみやすいのである。

さて、今回の展示であるが、欲を言えば、歴史上に残る重要書類をもう少し、公開してほしかったような気もする。もう一つは、アーカイブズの中の分野別の比率とか全体をイメージできる統計のようなものがあれば良かったかな・・・(入場料無料なのでヨクバリな望みかもしれないが)


追記:この展覧会の前には「鉄道」展があったらしい。先日来、追いかけている明治5年の鉄道事情なども詳しい資料があったようだ。気が付けば行ったのだが、当時はそれほど「鉄道」に興味はもっていなかった。横浜=新橋間の初期路線図のマイクロフィルム版がネット上で見られるようなので、品川駅周辺の事情を調べるのに大きな威力を発揮するだろう(さらに謎が広がると嫌だが・・)。

贋金王・日本花街史など

2005-04-24 19:53:59 | 書評
21db64ad.jpg最近、ブログを書くための資料として、近くの図書館で借りてきた3冊をまとめてコメントしてみる。

「文化財保護法・文化庁」
要するに、現存12天守閣のうち、4つが国宝、8つが重要文化財となっている。戦前は、焼失した他の城もまとめてすべて国宝だったのに、この差はなんだろうかということを調べる目的だったのだが、実はよくわからなかった。この本は、重要文化財の下のレベルの登録文化財のことを詳しく書いてあるのであった。が、それはそれで、参考になっているのである。国の制度の他に、地方公共団体が「史跡」とか「特別史跡」とか名前をつけて、予算をつけていたりもしていて、そして、どのレベルであっても、妙な委員会があり、委員の選出段階から様々な問題があることが臭っている。

「日本花街史・明田鉄男」
この本、大著に近い。614ページ。実は、旧新橋停車場が汐留に建設され、東京駅方面まで伸びてこなかった理由は、新橋(現銀座八丁目)の遊郭が立ち退かなかったためではないかと仮説をたてて、書物にあたろうと思ったからなのだ。しかし、その件は不明。なにしろ、この本は大部分が京都の花街の歴史とそれにリンクした花街の実態を調べたものだったからだ。江戸の記載はほんの僅かだ。しかも、原文の引用が多く、大変な難儀をした。こういうのも、いつか役に立つのだろう。面白いのは、人口あたりの出店数や、その手の職業の女性数から見ると、京都は江戸の5倍も桃色だったそうだ。どこにでも風俗店がある歌舞伎町状態だったのだろう。
そして、参考になる話としては、幕末の京都の芸者物語ということかもしれない。まずは、長州の井上馨は君尾という芸者にはまってしまう。そして新撰組の襲撃を受け、瀕死の重傷を負ったのだが、とどめの一撃を受け止めたのが、君尾からもらって懐にしのばせていた手鏡であったということだ。同じ手鏡でも植草先生とは使い方が違ったわけだ。次に近藤勇だがこちらは深雪という芸者がお相手だったのだが、つい、手伝いのお孝に手を付けてしまい、一人の娘が生まれる。そして父の名にちなんで勇(ゆう)と名づけられ、後年は下関で芸者になるのだが、何とさっき登場したばかりの井上馨や伊藤博文が可愛がっていたそうである。

614ページの最後には花街年表が付くのだが、その最初はこうだ。
天平2年、大伴旅人筑紫の水城で遊女と和歌を交換。

そしてその最後の行はこうだ。
昭和末年、特殊浴場などの名で管理売春、飛躍的隆盛に。

「贋金王・佐藤清彦」
この本は、古今東西(といっても日本が多いが)のニセ札作りのエピソードをまとめた本だが、一口では言い難い奇妙さがある。内容を詳細に紹介するには問題があるのだ。

普通の人間なら、この本を読むと、「やはりニセ札作りは割に合わない」と思うだろう。しかし、ほんのちょっとだけ普通でない人が読むと、たぶん、「ニセ札を作ろうかな」って思うのではないだろうか。つまり本書は犯罪の手口と検挙された理由、迷宮入りした理由などを結構詳しく書いてあるのだ。
今、まさに贋金作りを決意した犯罪予備者はこの本を読んだほうがいいかもしれない。読んだ結果、犯行を止めるかもしれないし、逆に犯行に及んだ場合でも、少しは巧妙な作戦が立てられる。

しかし、さすがに世界の珍奇なニセ札事件集である。常識破りのいくつかの話を紹介してみる。

まず、自販機専用ニセ札。人間の目には一目でニセとわかるのであるが、銀行のCDの読取装置のみを騙せるように作り、大阪中心街の銀行で500万円奪った事件。

2日に1枚の割で100円札を手書きで作っていて捕まった後、全国からカンパが集まった極貧夫婦の事件。

1920年代のポルトガルの事件は手がこんでいる。正規の紙幣を印刷している印刷会社に対して、大蔵省から増刷要請の依頼書が届く。そして、印刷された本物と同じ「札束」を引き取った運送会社が途中で持ち逃げ(もちろん最初の発注書も引取り業者もニセモノだ)。その結果、通常の紙幣の20%もの大量の本物と同じ、見分けのつかない通貨が流通してしまった事件。

そして最後の事件には、考え込んでしまう。戦時中、日本国内で中華民国経済を破壊しようとニセ札を印刷したわけだ。印刷した場所は特殊任務の拠点なのだが、現在の明大生田校舎である。そして、中国の大都市で、少しずつばらまいて、インフレを起こそうとしたわけだ。ところが一方の蒋介石は、日本が持ち込むニセ札の情報をすでに掴んでいて、対策として、本物の札の発行枚数を減らしたのである。当時、蒋介石は紙の入手にも苦慮していて、日本の持ち込む偽札は渡りに舟になったのだ。つまりニセ札を本物の札として流通させてしまえということだ。こうなると、最大のニセ札作りは国家だ、という暴論もわかるような気がする。

また、日銀が印刷して流通させるやいなや、ババ抜きのジョーカーのようなスピードで流通をはじめる2000円札は、「逆ニセ札」とでもいうべきかな。

そして、登場したばかりの新券がニセ札攻撃を受けている。駅前の弁当屋にも妙な張り紙が現れた。

 お客様各位
ニセ札事件が急増しております。警察の指導により、お札を確認させていただく場合もございますので、ご理解のほど宜しくお願いいたします。 OOOO 店主

そして、たまたまそこで使ったのが樋口一葉さんだが、なんとなく図柄が少ないような気もしたが、気にしない。見つけた方が損だからだ。そして受け取った店員さんも、札をよく見たりしない。問題の先送りだ。
(この本を読んで、製法を研究し、自信をもって偽札作りに着手したとしても、犯罪者に対してもまた国家に対しても、何の責任も無いことを確認しておく)

西安からきた女子学生たち

2005-04-23 19:55:15 | 市民A
97f1223e.jpg中国陝西省(首都は西安)で日本語を学ぶ2,000名の学生の中から、選抜された3名の弁論大会優秀者が来日。経済広報センターのモニターになっている関係で、21日の東京大手町での発表会に参加した。折からの日中関係の悪化を心配してか、会場には大勢が集まっていた。選抜された3名は全員女子学生の方で、団長は男性の方1名。この方は日本語は喋れない(一人多く来るのは中国ビジネスでもよくあることだ)。

そして3名の方のスピーチは、奇しくも日本語を始めたきっかけというところで、すべて「優しい日本人」というところに一致する(審査の過程は不公正がないように日中両国の審査員が採点し、すべて公表するそうである。いつも必ず、「不公正がある」と騒動が起きるからだそうだ)。

一人目の王さんは、「ひらがなの美しさ」に興味を持ち、日本語を勉強しようと父親に相談したところ、近所のおばあさんを紹介されたそうだ。そのおばあさんは残留孤児だったのだ。中国人の男性と結婚して、今では孫までいるそうだが、どうしても故国日本で自分の親類に会ってみたいと夢を持ちつづけているそうだ。王さんが日本の魅力に引き込まれていったのは、そういう残留孤児のために何かできないかというところに原点があるということだ。

二人目の何さんは、離婚した父親が選んだ継母が日本人で、最初はコトバも通じず、よそよそしい関係だったのに、継母は中国語の学習に努力し、何さんが音楽学校の受験前に高熱の病気で倒れれば、寝ずの看病をしてくれたこと。そして、受験から帰ってきたら、不幸にも継母が交通事故で亡くなった知らせを聞き、呆然としてしまったこと。そして、なくなった継母の気持ちをどうしても理解したいという気持ちで、日本を知りたいという。

三人目の徐さんは、京都の仏教系大学の学生が西安の寺院に来た時の経験が、原体験だそうだ。まったく中国の僧侶とは異なる現代日本の僧侶の卵が、西安の寺院で中国の僧侶と同じ経典を違う発音で唱え始めたそうだ。唐の時代から長く続く古い寺院の中に響くお経の声はそこに居合わせた彼女を含む多くの人たちの共感の空間になったということだ。つまり日中は多くの共通した文化の上に乗っているということを認識したという。

話に吸い込まれてしまい、3回もハンカチを取り出すことになっってしまった。

そして、彼女達は1週間の日本旅行の感想として、
1.京都・奈良には西安と同様、唐の時代からの建物が残っていて、深く感動したこと。
2.桜の花は本当にきれいであること。
3.日本人は親切だが、話を聞いても、はっきり意見を言わないので苦労すること。
4.国土のどこにも緑が豊富なこと。
5.そして、「経済大国」であることの本当の意味は、中国社会と違って、日本社会はのんびりとした「ゆとり」を感じること。
とのことだ。

さらに、西安の大学で日本語を教えていた日本人教師から、「現場の声」として、特に日本語科の学生の感じている「疎外感」が危機的であることを訴える。上海などと違い、情報も資金も教材も少ないし、日本人の研究者もこない(西安に行くのは、観光客とビジネスマンばかりなのだろう)。そして反日感情の中で、日本からの支援がないため、学校の中でも日本語学科が差別される傾向がある、とのこと。困難な状況の中で、日本語を学び、日本に関心を持つ学生に、夢や希望を与えて欲しいということだそうだ。

ここから先は、私見の範疇なのだが、言われてみれば、残留孤児の問題だって、戦後長い間ほったらかしてしまったし、中国にいる日本ファンをフォローすることも、政府ベースでは感じられない(もちろん中国以外の国に対しても同じだろう)。種も蒔かないのに水や肥料を上から振りかけても芽は出ない。スタンドプレーばかりやっていると、世界中のどこの国からも孤立していくのかなって思ってしまう。

最近のはやりのことばである「政冷経熱」であるが、案外日中間の問題だけでなく日本国内でもあたっているのではないかと考えてしまう。最近の政府の政策について、よく「説明責任の回避」とか言われる。政策について、はっきり理由や目標を明示しないために郵政問題でも靖国問題でも議論の焦点を得ないのである。郵政問題では、財政投融資を今後どのようにするのかとか郵便局が購入している国債はどうするのかとか微妙な問題があるはずだ。国内戦争である沖縄戦で亡くなった多数の民間人や、原爆や空襲で亡くなった市民をおざなりにしてまで九段に行くのは価値観が変じゃないのかとか冷めた目になってしまう人も多いはずだ。色々な反戦行事に出席して反戦の表明をしてから九段に行くなら理解を得ることもできるだろうが、何もしないでいきなり無口になって、九段に行けば、普通の感覚なら、隣国は驚くだろう。(もっとも他の反戦記念式典にも行っているのかもしれないがジャーナリズムを通じては見えてこないのかもしれない)

そして、発表会で、何度も中国の関係者からでてきた言葉がある。それは「一衣帯水」という魔法のコトバである。実は、よく聞くことばにも拘らず、意味に明るくなかったのである。帰ってから辞書にあたると、やはり思い違いをしていた。「一衣」と「帯水」に分かれるかと思っていたのだが、「一」と「衣帯」と「水」に分かれるようだ。衣帯というのは服の帯のことで、幅に対して深さが極めて浅いことを意味する。ちょっとした帯のように浅い海が二国の間にあるだけということだったのだ。まさか「大陸棚」のことを意味しているのではないかとか勘ぐってしまう(日本も中国大陸の大陸棚の上に乗っているだけ、とか)のだが、それこそ「一衣帯水の意味はなんですか?」って聞き直すところからでも両国間の誤解の解明作業がはじまるのでないだろうか。

維新のホリエモンか平成のカエモンか

2005-04-22 19:56:32 | 日本最古鉄道
4d618bfe.jpg明治5年5月(1872年)日本初の鉄道が横浜=品川間に敷設された件は2回書いているが、旧横浜駅の場所(現桜木町駅のそば)に立ち、そこから東京の方を向いてみると、疑問がわいてくる。つまり、次の旧神奈川駅(現東神奈川駅周辺)との間(現横浜駅も含めて)は、海(入り江)だったはずなのだ。では、そこを埋め立てたに違いないのだが、その目的は単に線路の敷設だけだったのだろうか?

各種資料を調べていると、埋め立てたのは、国家権力ではなく、「高島嘉右衛門(カエモン)」という一介の実業家だったのである。彼の名をとり、現代でも高島町という地名を残している。そして、このカエモン氏、この横浜鉄道プロジェクトそのものに深く関係していたことがわかったのだ。戻ること3年明治二年、カエモンは、鉄道敷設が日本の近代化には不可欠と考え、伊藤博文、大隈重信という若手官僚に対して、鉄道敷設プランをぶち上げているのである。そして、この東京=横浜間の路線と東京=青森間の(東北線)2本の開業申請を政府に申請したのである。そして待つことわずか、彼にとってとんでもない決定がやってくるのである。国有鉄道である。彼のアイディアをつかって、政府が事業を行うことになったのだ。(だんだんホリエモン的になっていく)

怒ったカエモンは政府にねじ込むのだが、もはや手遅れ。その代替案として、神奈川=横浜間の埋め立て事業を手にしたわけだ。そこから先がすごいのである。埋め立てには土が必要なのだが、現在の東神奈川と横浜との間の小さな山を買い取ったのである。そして、その山を切り崩して海(湾)を埋め立ててしまったわけだ。つまり山と海の組あわせで、広大な平地を手にしたわけだ。まさに土地の錬金術だ。おそらく、その時の利益から出資したと思われるのだが、その後、ガス会社、私鉄などさまざまな基幹産業をおこし、45歳で財界から引退する。そしてもう一つの顔である高島易断の祖としての活動に重きをおくことになっていく。この二つの顔をもった人物に興味をもち、彼の前半生をのぞくと、奇抜な人生を送っていたことがわかった。

出生は1832年とされる。父は材木商であり、本人は若い頃から商才に長けていて、20代前半には、東北で鉱山開発をしていたという。一説に易(占い)で明暦の大火を当て、材木で大儲けしたというのがあるが、まだ易は始めていない(むしろ材木商と火付犯はWIN-WIN関係とも言えるが、無論、何の証拠もない)。その後20代後半になり、日本が海外と交易を始めた頃、例の金銀の両替差の問題がでてくる。日本では金1に対し銀4の比率だったが海外では金1に対し銀10だったため、外人投資家はメキシコから銀を日本に持ち込み、金と1:4で交換の上、海外でまた1:10で金銀交換し、銀6を手元に残すというような取引で儲ける。そして日本国内の金が流出した。ただし、カエモンはそれをペーパー取引(あるいは、限りなくペーパーに近い形で)で行っていたのではないだろうか(実は詳しい情報はない)。つまり現代で言う、アービットラージである。決済日になるごとにNET差額が入ってくる。そして逮捕される。要するにおカネの取引は政府公認事業だから民間人が取引をしたら有罪ということだ。そして入牢ということになる。

当時の入牢というのは、未決囚ということなのだが、待遇は劣悪。1畳に8人押し込んだというので、判決をまたずしてどんどん弱って死んでいくそうだ。1牢につき死者の許容人数は1日4人までというような物騒な規則まであったそうで、5人目以降の死体は、とりあえず通路に放置されて翌日まで報告を待ったそうである。ただしカエモンは大金持ちであり、胴巻きに100両をしのばせ、牢役人にワイロを使いながら、待遇のいい部屋にいたそうだ。そして牢名主から易経の本を譲り受け、獄中で易の勉強を始める。それが易学のスタートである。

そして運命の転換点の事件が起こる。集団脱走事件である。カエモンの占いを信じて、牢獄から多くの囚人が逃げ出そうとして大混乱となり、囚人同士の殺戮に加え、牢役人が鉄砲の水平撃ちをしたため、牢内は死体の山になったのだが、運良くただ一人生き残ったため、すべて他人のせいにしてごまかしてしまう。当時の牢獄は湿気が満ちていて、衣類などは乾燥させるため、天井に吊るした大籠の中に入れておくことになっていたのだが、その天井に近い籠の中に潜み難を逃れたらしい。現代的に言うと「乾燥機」の中に隠れていたということだ。その後、島流しの刑が確定するのだが、流される場所は伊豆諸島でもなければ石垣島でもなく佃島だ。今や、東京のウォーターフロント。マンションが立ち並ぶ一方、佃煮店が並ぶ佃島は島流しの場所だったのだ。そして、その佃島で語学堪能なある政治犯と出会うのである。そして歴史は維新となり、昨日の政治犯や経済犯は今日の政治家や実業家と相成り、シャバで風を切るのである。

そして、何年か経ち、再度カネを貯めた後が、本編冒頭の鉄道プロジェクトになる。その後、彼がなぜ突然実業界を去り、易学の大家になっていったのかは不明だが、経歴を見れば経営学的錬金術の大家だったのは間違いないだろう。金銀交換の件や山と海から陸をつくったり、鉄道事業を起こそうと思ったところを横取りされてしまうところなど、ホリエモンとほとんどダブってみえるのだ。

しかし、重ならない部分もある。まず、実業以外の部分でいえば、カエモンは易学に走ることになるがホリエモンには行く場所はまだない。しかし、現代的に言えば、ホリエモンが今後「新興宗教」の教祖にでもなれば、より類似的になる。

そして何より、長身でスリム体だったカエモンに対してホリエモンは肥満だ。起業家の友である「キンコーズ」の大型コピー機に横たわり、横方向のみの縮少率を50%にすればいいだろうか。あるいは、キンコ-ズの親会社であるFedexの宅配便で、自らの入ったダンボール箱を配達日指定で、六本木ヒルズ38階ライブドア社まで届ければいいかもしれない。配達指定日は、明治元年1月1日だ。

最後に、堀江貴文氏が平成のカエモンになるためにもう一つ付け加えるなら名前の改名だ。高島嘉右衛門に類似の名前、タカフミ・ホリエモンにでもすればどうなのだろう。

裏マニュアルとジョイポリス

2005-04-21 19:57:58 | 市民A
お台場にある人気アミューズメント、東京ジョイポリスのアトラクション「ビバ!スカイダイビング」で約6メートルの高さから男性客が落下し、死亡した。4月18日のことだ。不謹慎ながら、当初は自分の意志で本当にダイビングしてみたのだろうかなどと推理していたのだが、事実が明らかになってきて、裏マニュアルまであったという話を聞くと、まさに人為的事故の典型であるように思える。そして、問題はさらに広いのではないかとかいくつか考えるのである。

まず、事故の起こったアトラクションだが、何人かが横1列に座り、いったん地上10メートルの高さまで上昇。その後、座席が前方60度まで傾斜(つまり腹ばいに近くなる)。そのまま、上下に上がったり下がったりし、同時に前方のスクリーンにスカイダイビングをしているような映像があらわれるわけだ。そして、普通の人には、身近ではないスカイダイビングを実感できるわけだ。本物のスカイダイビングでは、パラシュートのヒモを引くのは自分自身であり、まさに自己責任のスポーツだが、本来ジョイポリスで安全が自己責任であるはずはないのである(そこまで危険を楽しみたい人は少ない)。そして、前方60度の体勢を保持するために使われるのは、一つはハーネス(安全バー)であり、もう一つがシートベルトだったのである。

そして事故が起きたとき、被害者の男性客はシートベルトをつけていなかったために、ハーネスの隙間から下にずり落ちてしまい、そのまま地面に落下してしまったのだ。そして、徐々に報じられてきた内容では、被害者は下半身に障害があり、歩行が不自由で介護者がついていたとのこと。そしてウエストが大きく、シートベルトの長さが不足したため、着用していなかったとのことである。となれば、常識的に考えれば、非常に危険なわけである。それなのになぜ、安全フィルターをすりぬけたのかということであるのだが、ここに「正規マニュアル」と「裏マニュアル」の2つがあったことが明らかになったのだ。

正規マニュアルでは、障害のある方については記載がないとのことである(YOMIURI NET)。従業員(アルバイト)は事前に介添えの人から可否を聞かれた段階で、「大丈夫」と判断して着席させたのである。問題は次に起こる。シートベルトの長さが足りなかったわけだ。これはセガがつくった正規マニュアルでは、利用禁止となる。そこで断れば、男性客が不愉快な気持ちになるだけで事故は起こらなかった。しかし、裏マニュアルでは、ここで現場責任者が管理者に確認することになっていて、事実、このケースでは管理者に電話で確認を求めているのだ。しかし、その時、男性客に障害があるという件は報告されていなかったわけだ。そして、管理者はいつものように本マニュアル逸脱許可を与えてしまい悲劇が起こったのだ。

いくつかの問題と疑問がある。

まず、正規マニュアルである。おそらく、安全操作用のマニュアルなのだろうと思うのだが、現場で接客している従業員の目前に現れるのは、お客様とのやりとりなのである。接客マニュアルも必要なのである。乗れないお客様に「危険だから」という理由で断る言い方が重要なのである。それがないとなかなか、断りにくい。先月は乗れたのに、今月はなぜダメなのか?とか言われたら困ってしまう。障害者禁止をマニュアルに書くのは「差別」と非難されかねないという側面もあるのだが、それなら、障害者用のシートベルトとか用意しておくべきだ。詳しくはわからないがファーストフード店は接客マニュアルのことばかり取上げられるが、ケンタッキーなんかは高温の油を圧力鍋で使っているらしいので、安全マニュアルも綿密なのではないかと思う。つまり、安全マニュアルが手抜きをされる裏側には、接客マニュアルの中の「イレギュラー事態への対応」に問題があるのではないだろうか。

次に、裏マニュアルの存在だが、裏マニュアルの方が厳しいなら事故はより減るのだが、そういう例は聞いたことがない。正規マニュアルでは利用禁止だが、例外的に考えようという場合である。例えば12歳以下は駄目なのだけど、身長が165センチなのでいいではないか?とかいうことだ。そして、ここでは、「管理者に電話で聞く」という対応をしていたわけだ。これでは話にならない。現場にいない管理者はどう判断したかというと、「今までシートベルトをしなくても事故がなかった」ので、今回も安全と判断したというのだ。結局、事故がないのは偶然ということだったのだ。もしかすると、日常的に、シートベルトを固く締めない人がいても動かしていたかもしれない。そして、裏マニュアルというのは、プロは作らないものだから、安全度外視の現場判断型のどこか抜けたものになってしまうのである。

さらに、実際にハーネス(安全バー)とシートベルトだけで安全なのだろうかという疑問があるのだ。急降下時にはかなりのGが加わるので肥満型の体型の方だとウエストなど変形してしまうことが考えられるのである。そしてレースドライバーのように肩と太ももを固定するようなベルトではなく腰だけの固定のようである。そして、安全バーは、絶対にプレー中には上がらないのだろうか?何か荷物が挟まったときなどのために、安全装置をはずしてハーネスをマニュアルで操作できるようなことにはなっていなかったかどうかである。例の東武線踏切事故のようなケースだ。ディズニーランドの時速5キロのカリブの海賊とは違うのである。

案外、設計者の方から見ると、10メートル程度の高さというのは危険を感じにくいのではないかと思うのである。もしかすると、設計者自ら飛び降りて安全を確認しているのかもしれない。設計段階で、スカイダイビングの経験者が加わっているには違いない。知人から聞いたのだが、千葉県にある自衛隊の空挺部隊では高い位置からパラシュートなしで飛び降りる訓練をしているそうである。それは戦場では、上空からゆらゆらと落下を楽しんでいると、たちまち機銃照射を受けてしまうので、小さなパラシュートでさっと降りる必要があり、衝撃が10メートルのところから飛び降りる時と同じくらいだそうだからである。最初は3メートルくらいからはじめて、徐々に飛び降りる高さを上げて訓練するそうだ。つまり、危険に麻痺してくるのだ。自分ができることは他人もできるはずだと・・とんでもない!
 

元祖 鉄道発祥の地で、・・

2005-04-20 19:59:37 | 日本最古鉄道
7feaab64.jpg4月11日号「汽笛一声は新橋駅ではなかった」の中で、旧新橋停車場について、「鉄道の発祥は、新橋駅ではなく、横浜=品川間であった」ことを書いたのだが、先週末、横浜旧市街に行く用件があり、その旧横浜駅を探した。場所は今のJR横浜駅とは全く異なり、京浜東北線(根岸線)「JR桜木町駅」の、ほんの少し関内駅方向に進んだ高架の下で、記念碑が残る。そして、またしても奇妙な場所に駅があることで、考え込むのである。

新橋駅の場所を決める際にも諸論があり、「外人は不便な場所で降ろそう」という考え方があったにもかかわらず、たまたま接収していた「会津藩・仙台藩の大名屋敷の敷地」があったという現実的な事実が勝り、汐留に駅ができたのだが、another side の横浜駅も中途半端な場所にある。つまり、明治5年の頃は、外人居留地は現在の関内駅の海側(横浜球場の先)にあり、徐々に、元町の丘の上の方にある山手地区に移りつつあったはずだ。そして輸出入も関内で行われていた。従って、この鉄道の始発を、あと1キロ近く関内方面に伸ばした方が、乗客にしても、貨物輸送にしても便利だったはずなのだ。

そこで、何らかの理由があって、この少しのスキマを作ったのではないかという疑問がわいてくる。が、それ以上、何かよくわからないままで、もやもやとしていた。しかし、そのあと、関内の歴史的町並みを歩いていて、不意に出くわしたある資料館に入ると、いくつかの問題がつながって見えるようになってきた。その建物とは、横浜税関の資料室だ。ちょっとしたミュージアム造りになっている。特に、税関が最初に置かれた頃の事情を探す。


もともと鎖国状態だった江戸幕府が米国との交易を開始したのは1858年の「日米修交通商条約」に始まる。そして、開国港を5ヶ所指定したのだが、それと同時に設けられたのが、「運上所」という通関組織である。米国側の資料にも、横浜に「Kanagawa custom」 があり、「Yakunin」がいたと記載されているそうだ。もしや「Yakunin」は最初に英語になった日本語なのかもしれない。

そして、修交通商条約に記されているのだが、「輸入禁止品」の項があり、幕府が「麻薬類」の輸入禁止にやっきになっていたことがわかるのだ。当時、中国はインドから持ち込まれたアヘンにより完全に麻痺状態になり、以後の列強の侵略を許すことになっていくのだが、そういう中国の情報は日本にも伝えられていたのであるのだろう。幕府が何より恐れていたのが、麻薬の輸入と江戸市内への流入であったろうと考えられるのである。逆に言えば、麻薬にばかり気をとられて不平等条約に気付かなかったのかもしれない。

神奈川運上所はその後、明治4年に横浜税関と名前を変えるが、最大の問題は、関税の算定、密輸防止と麻薬取締りであったのだろうと想像できる。したがって、東京直行便の鉄道始発駅「横浜駅」が、関内と若干の距離をおいた桜木町に作られたのは、そういう、禁制品の東京流入防止のハザードの目的ではなかったかと想像するのである。


ところで、駅の位置の問題の他、新たに横浜=東京間の路線について、付帯的な問題が二点、見えてきたのである。一つは、品川周辺の問題であるが、一部の路線は、海上を走っていたというのだ。理由として、当初の予定地が薩摩藩の藩邸内を通るというのである。そのため、海上に架橋を作って鉄道を通したというのだ。この話、何気なく聞けば、その文字通りなのだが、いくつかの幕末の史事と関連させて考えると、勝海舟と西郷隆盛の会談が行われた場所ではないだろうかと思いつくのである。そして、藩邸が邪魔な位置にあるということは、海岸までが薩摩藩の土地、すなわちプライヴェート・ビーチだったのだろうか。これは、もう現場を確認しなければと思ってしまう。(歴史物をさぐりにいくばあい、「いきあたりばったり」方式は難しい。およそ調べていかないと、目的地の手がかりが現存していないからだ。まさか品川区をくまなく歩くわけにはいかない。そういう意味で直ぐには出かけない。)

そして、もう一つの謎を調べているとある人物に行き当たることになった。旧横浜駅(現桜木町駅)から現東神奈川駅(旧神奈川駅)方面に線路は伸び、その先、川崎、品川と進むのだが、桜木町の先(現在の横浜駅も含めて)は、海(入り江)だったのである。そして線路をつくるために、一帯を埋め立てたのだが、その事業を行ったのは、ある個人なのである。「高島嘉右衛門(かえもん)」。時に39歳の青年実業家なのであるが、彼のことを調べれば調べるほど現代のある人物と重なってくるのである。その現代の人物とは「堀江貴文」なのであるが、それは次回に回す。

看板のカラーとネーミング

2005-04-19 20:01:59 | マーケティング
0aee6ed6.jpgカラーリング
4月14日に、「黄色」の看板の激安店の話を書いたのだが、この「黄色」は「安売り」をイメージする色とされている。さらに価格が安いイメージは「黄色と黒」の組合わせになる。たまに折込みチラシに入っている。ただ、「黄色と黒」だと品質に難がある(わけあり)という感じをもたせるため、できれば黄色と白の組み合わせの方がいい。たとえばShell石油のガソリンスタンドがこのパターンだ。

一方、「赤」は食欲を刺激する色と言われる。「安い、早い、うまい」と自画自賛する元牛丼チェーンの基本カラーを見ると、すき家は「赤」、松屋は「黄色」、そして吉野家はその二つの色をまぜた「オレンジ色」である。そして、夜の街に輝くマクドナルドの看板を見れば、まさに公式どおりのカラーを使っている。安く、うまい(かどうかは個人差があるが)。デニーズも黄色地に赤文字だ。

一方、清潔な感じを出すなら青とか紺色を使う。シティバンクやみずほ銀行の藍色は、経営や営業行為の清潔さや高級感をイメージしているのだが、ことさら強調するということは、「実態は清潔でもないし、高級でもないのかな」と、受取られる可能性もあるかもしれない。また、「緑」は環境に優しいことを示すのだが、これもそうでない企業が違うと、違和感を感じる。さらに郊外の森林環境の中では、自然の風景に埋もれて看板の役にたたないことがある。要するに、カラーリングは企業イメージを作る効果はあるが、実際にイメージに合わせる行為が伴わないと、「メッキ」が剥がれ落ちる。

そして、人間の認識能力からいって、2色仕立てが効果的だ。要するに、人間の本性は二元論だ。「好きと嫌い」「成功と失敗」「勝つか負けるか」・・・論理的思考は後付けが多い。つまり三色目が出てくると、あいまいになる。

ネーミングについて
いつもより、短いのでネーミングの話題を付け加えてみる。「濁音は覚えにくいが、忘れにくい」というのがある。ガザダバ行だ。ヴァ行ジャ行ギャ行などもそうだ。覚えてもらうまでは、大変だが、一度覚えると、長く記憶に残るといわれる。
ちょっと見回すと、Jリーグなどは濁音が多い。
ヴェルディ、ジュビロ、ジェフ、グランパス、ガンバ、ヴィッセル、ヴァンファーレ、ヴォルティス、ベルマーレ、ザスパ、ベガルタ。もう一つおまけに代表監督もジーコだ。DELLにVAIOにゼクシオにヴィッツ、VIERA、VEGA・・・。まあ、その他の世界でも色々とあるだろうが、濁音は語感が「ゴツイ」わけだ。しかし、半濁音のパピプペポでは、ちょっと力不足だ。おそらくP音は日本語に存在しない発音なので、何かよそよそしい軽薄感が漂うのかもしれない。

そういうネーミングの観点で、ぺ・ヨンジュンとBoAを並べて見ると、どちらがロングライフになるかは言うまでもないのだが、ドッグ・イヤー・スターは、それなりに「光と影」のコントラストをもって社会の記憶にポピュリズムを書き込むことになるのだろう。

1994年のF1サンマリノGP

2005-04-18 20:03:14 | スポーツ
238517e4.jpg2005年のF1はルノーが3連勝。2戦、3戦とアロンソが優勝するや、もうアロンソのフェラーリ移籍話が浮かび、ルノーが条件の改善(要するに契約金の引き上げ)を検討したりだ。フェラーリには、最速男ミハエル・シューマッハがいるのに、ずいぶんな話だ。スマトラ沖地震被害者に個人では世界最高の10億円を寄付したのを後悔しているかもしれない。

しかし、まだまだレースは続く。全19レースだ。そして、4月23日は第4戦サンマリノGP。場所はイタリアのイモラ・サーキット。フェラーリのサーキットだ。

ここで、どうしても記憶は11年前のイモラに戻る。1994年5月1日は、アイルトン・セナが亡くなった日だ。7周目の1コーナーでコースアウトした彼のルノーは、そのまま壁に激突してしまった。事故の原因は、長く論争され、ハンドリングミスということにはなったのだが、多くの人は信じていない。セナは大胆そうで、きわめて細かなところが計算できるレーサーで、レース全体の中で、他のレーサーの調子やピットインの回数などを考えながら作戦を変えていたそうだ。「F1走る魂」の中で、作家・海老沢泰久は主人公である中島悟の口を借り、コーナリングのたびに後続車に差をつけていく彼のテクニックを紹介している。もちろん中島は、いつも中盤で、セナの周回遅れになるのだが、周回遅れになったあと、セナのテクニックを盗むため、なんとか追走するのだが、コーナーをいくつか回っているうちに、視界から消えていくそうだ。

そして、1994年のシーズンと2005年は、かなり嫌なパターンが符合していることに気付いている。1994年のシーズンは、ライバルのプロストが引退したため、圧倒的にセナが有利と考えられていたわけだ。そして、セナはマクラ-レンからルノーに移籍。そして、慣れぬ車体に苦労しながら第1戦、第2戦を失う。そして第3戦の予選で、やっとの思いでPP(ポールポジション)を獲得し、先頭でスタートしたまま7週目に向ったわけだ。そしてその年、第1戦と第2戦を勝っていたのは、M・シューマッハだったのだ。セナ自身、当確をあらわした時には、ニキ・ラウダの引退の時期にあたっていた。あれこれ考えれば、2005年のイモラでM・シューマッハに勝利のチャンスが転がってきた時こそがもっとも危ないのだろうか。フェラーリのホームコースという入れ込みも危険要素だ。そして、問題は、いまだに見えない雨天のタイヤ性能だ。無事に終わることを願いたい。

しかしルノー以外の、フェラーリ、トヨタ、ホンダはそれぞれ分野の違う話だが、頭に血がのぼっているのは間違いない。

さて、ここ2週間でのF1のいくつかのニュースを紹介。

今年のトルコGPについで、シンガポールやメキシコも開催を希望しているそうだ。もちろん日本も、鈴鹿だけでなく改装なった富士スピードウェイもF1主催を画策するだろう。何しろ、親会社のトヨタが、F1開催が可能なサーキット(グレード1)とあちこちで宣伝している。

ホンダは、予算を増額するそうだ。しかし、まったく手遅れだろうがね。

福山城から撤兵(番外)

2005-04-17 20:06:00 | The 城
33074336.jpgお城シリーズ番外。年初から、何度も福山市を中心に仕事をしていたが、先週、何とか形がついたのでしばらくは、さようならになる(その間に松江城まで足を伸ばせなかったのが心残りではあるが)。最後に、夜の福山城のライトアップの写真を撮影しようとデジカメを構えたとたんに、まっくらになった。夜桜用に夜10時まで公園を開放していたのだが、1分オーバーしてしまった。地方都市の夜の常で、公園は深い闇につつまれ、園外に出るのに難儀をした。翌朝、写し直し。鉄筋コンクリート6階建て、昭和20年の米軍の爆撃で焼失後、昭和41年に再建。

江戸時代以前に建てられ、現存する天守閣は12城と言われる。日本にあった数百の城のうち、さまざまな理由で城は滅びて行ったのだが、何と言っても第二次大戦下の焼失の痛手は大きい。数々の国宝と違い、大き過ぎて隠すことができない上に爆撃の目標物になったのだろう。調べてみると、ほとんどが終戦前の数ヶ月に失われているのがわかる。(別の話だが、ゴッホの「ひまわり」の中の一枚も終戦1週間前に芦屋で焼失している)

ところで、同じ再建された城でもいくつかは木造で作られていることがわかる。
郡上八幡城(昭和8年)・伊賀上野城(昭和10年)・掛川城(平成5年)・白石城(平成7年)
芸術的にいうとこれらは第二グループというべきなのかな。

そして、鉄筋コンクリート造りでも、「エレベーターなし」、と「エレベーターあり」というのでは、結構、思想の差があるのではないかと思っている。エレベーターは不要と思う。別に復古主義者というのじゃないのだけど、芸術として復元したいなら、なるべくオリジナルの築城者の意図を変えないほうがいいのかなと思っているわけだ。宇和島城や、備中松山城なんかを見てくると戦国時代の先人の必死の思いが伝わってくるのだ。そういう意味では和歌山城なんかはなかなかよくできていて、最近まで本物と思っていたのだけど。

そして、完全に番外なのは、根拠なく天守閣を作ること。千葉城なんかそうだ。それから竹下内閣の時に、全国に撒いた1億円で、天守閣風の記念館を建てた町がある。先日、ある場所で、ちょうど前を通ったのだが、人の気配は感じなかった。町で一番高い山の上にあるので、歩いていくわけにいかず、広大な駐車場だけがあり、来場者は1日で一人(館長)なのだろう。まあ、1億円の城なんて、その程度のものだ。管理費は毎年の予算の中で、端数だ。高利回りの地方債を発行すれば、いくらでも売れる。


実は、現存12城のうち国宝が4で、重要文化財(重文)が8だ。
国宝:姫路、松本、彦根、犬山
重文:丸岡、弘前、松江、備中松山、伊予松山、丸亀、宇和島、高知だ。

そして、この国宝と重文の差についてしばらく調べていたのだが、やはりよくわからないことが多い。
原因か結果かわからないのだが、国宝の4城はいずれもピカピカしている。天守閣だけではなく庭園や登城路も整備が行き届いている。一方、重文の8つは、いずれも渋い(まだ3ヶ所には、行っていないが)。そして、こわれそうで、少しあぶなげな感じを受ける。ピカピカだから国宝なのか、国宝になったからピカピカになったのか。

少し制度について触れると、現在の文化財保護法の中では、国は重要文化財を指定することになっていて、全国で約20,000件を指定している。さらに、その中で「世界文化の見地から価値の高いものでたぐいない国民の宝たるものを国宝に指定することができる」となっている。そして重文の約1/10の2,000件が国宝の指定を受けている。

つまり、重要文化財の中で、以上の条件を満たしたものの中から、任意に選ぶことになっている。かなり恣意的な基準である。世界文化の基準とかたぐいない国民の宝といっても・・・

さらに、重文から国宝になっても条文上はそのメリットに差があるようには見えない。簡単に書くと、指定文化財になると、修理や固定資産税の「全部または一部」が国の負担になるということで、規定上両者に差はないのだが、もしかすると、国宝は費用の全部が国の負担で、重文は費用の一部が国の負担ということなのだろうか?闇の中だ。

もう一つの闇は、この文化財のジャッジメントをするのは誰かということだが、「文化審議会」というのがあるのだ。そしてその下部に国語審議会、著作権審議会、文化功労者選考審議会とともに「文化財審議会」がある。そして、さらにその下に第一から第五までの専門調査委員会があり、天守閣のような建物は「第二専門調査委員会」が行うことになっている。しかし、おぼろげに見えてきたのは、この上中下構造の中間に位置する「文化財審議会」のメンバー(5名?)が実権を押さえているらしいのだ。そして、その人選については、「問題あり」という声も多く存在するらしい。なにしろ、補助金の配分の胴元だからだ。まあ、城の歴史というのも血生臭いものが多いのだから、補助金の交付比率が生臭いというのもお似合いの話なのだろうか。

そして、重要文化財の選定のための最低基準の一つは、木造では100年超ということらしいので、現代の再建天守閣ではまず指定の見込みがない。50年たつと各種税金の減免を受けられる「登録文化財」という制度が利用できる可能性もあるのだが、これまた審査が必要になるし、メリットは重文に比べて極めて小さい。

少し調べても、今ひとつ核心に迫れなかったのが残念だが、「補助金の額の差」で「天守閣の命運が尽きる」なんて恥ずかしい話だけは聞きたくないのだ。


追記1:もし、これから木造再建するなら、お勧めの場所を見つけた。兵庫県朝来郡和田山町にあった「竹田城」。難攻不落の山城。巨大な石垣が今に残る。

追記2:掛川城(静岡)は平成5年に木造で再建されたが、以前の天守の仕様がわからなかったので、当初築城した山内一豊が同時期に作った高知城を参考にしたと言われるのだが、外観の写真を見ると、両者はまったく同じとしか言えない。設計料をケチったのだ。
そして、高知までいかなくても高知城に登れる。そしてピカピカの新品だ。

ブログのリアリティ実感!

2005-04-17 20:04:43 | 市民A
弊ブログ3月3日号「会議中に眠った司会者の運命」に登場いただいた、ピアニストの古川貴子さんから、コメントをいただいた。

ベートーヴェンのピアノソナタ31番を聞いていて、本物のベートーヴェンのような、すっきりした弾きかたではないかな、ということを書いたら、お礼のコメントいただいたわけ。

以前、11月26日号で、たかはたけいこさんの「「だからお店は面白い」のかな?」にも著者ご本人からのコメントをいただいたりしているのだが、こういうのは、ブログだからできるのだろうとうれしくなってしまう。(それと、うかつなことは書けないなって・・・)