これを見ても江戸城は語りきれない

2007-01-08 00:00:07 | The 城
f9967cdc.jpg2007年のミュージアム漁り第一弾は「江戸城」。両国の江戸東京博物館。混雑していた。「これを見ずして江戸は語れない」というキャッチコピーが効いたのだろうか。入場料は1200円だが、65歳以上は600円。これから65歳以上が増えるのに、正しい単価設定ではない。逆の方がいい。

実は、1年強前に、広尾の東京都中央図書館で開かれていた「江戸城を建てる展」の方が、江戸城という建物にこだわったマニアック性があって、やや専門家好みだった(それに無料)が、今回の展覧会は総花的で、江戸城をとりまく歴史や文化や、さらに江戸城以外の城郭の展示まであった。実は、江戸城自体の話は、展示されているもの以上に詳しく知っていて、城好きの知人と一緒だったのだが、江戸城内の各部屋の役割などについて、私が解説していると、学芸員と勘違いされ、周囲に人が集まってきてしまったりだ。

それと、入場して二つ目の部屋の入口の辺りに長い列が滞留してしまうのだが、やっと展示物にたどり着くと、江戸城ではなく大坂城や安土城の資料だったりする。どういうことかよくわからない。私が補足すると、江戸城天守閣は高さにおいても横幅においても日本一を目指したため、安土城より高く、大坂城より広くというコンセプトだったのだろうと考えている。

そして、天守閣は江戸時代においては、3回にわたって立て替えられてる。簡単にいえば、家康、秀忠、家光の代である。なにしろ、執務に励む本丸と子作りに励む大奥が肥大化していき、城郭の真ん中にあった建物群が徐々に北の方に拡張していった。そして、3本目の天守閣も大火で焼失し、もはや天守閣より江戸城下の復興が先ということで家光の時代から再建されていない。実は、現地に足を運ぶと感じるが、大火のあと大奥の建物は天守台の北側に配置されたわけだ。もし、天守が立ち上がれば、大奥の日当たりはきわめて劣悪になってしまう。当時、大奥を牛じっていたのは春日の局。日照権問題で、再建しなかったのではないか、とは私の邪推。

さらに、江戸城エピソード集の一つとして、仙台伊達藩は幕府へのご機嫌伺いとして、二本目の天守閣を取り壊した後、自分の仙台の城を修理再建するための中古建材として拝領し、わざわざ所領まで運んで行ったのに、そのまま捨ててしまい、新品を建て直したそうだ。先輩社員からもらった使い古しのゴルフクラブをそのままゴミの回収に出して、キャラウェーの新品を買うようなものだ。

さらに、少し注目したのは江戸初期の二本の天守閣の造作は「中井家」という御大工頭が取り仕切っていたようだが、その後は「甲良家」が取り仕切るようになった。巨大な建物群のすべての設計図は甲良家が管理していたのだが、この家は滋賀県出身で、同郷の藤堂高虎が、江戸の町割りをする際に江戸に連れてきた家系である。まあ、一社受注というのも色々と問題がある。

ところで、今、ここに書いていることのほとんどは、展覧会では登場しない話なので、念のため。

そして、今回の展示の中で、やや力を入れていたのは、徳川家ではなく、その前の太田道灌のことである。これは勉強になった。(念のため、道灌は私の先祖でも親戚でもない)。

実は、江戸城展の真の主役は太田道灌といってもいいのだ。江戸城の築城は1457年3月か4月(二つの説がある)。今年が築城550年になる。場所はちょうど江戸城の中央のあたりとされている。太田道灌は清和源氏の流れを引くとされ、関東の実力者だった。ちょうど足利の上杉定正が関東に勢力をはっていて、太田道灌は会社でいえば専務のような要職だったらしい。文武両道といわれ、古今の和歌にも詳しく、山吹の花で一首詠んだのが有名だ。

そして、展覧会では、最初の方のコーナーに太田道灌の自筆の手紙が二通あった。全部で道灌の自筆は10通残っているそうだ。展示されているうちの1通は、日常時の知人への手紙なのだが、武人とは思えない美しい達筆である。ただし、あえて欠点を言えば、筆遣いに自我流が見受けられ、幼年の頃、文人教育をあまり受けていないことが覗われる。そして、もう一通は、戦場の陣中から知人への手紙であるが、文字は大きさもばらばらだし、墨はかすれ、まったく別人のような筆運びである。戦場の興奮が伝わってくる。この二通の比較は、私の推薦する、この博物館の華だ。(もちろん、そういう解説も、会場では表示されていない)

そして、江戸城を築いてから29年後、1486年に道灌はあっけなく落命してしまう。江戸を離れ、神奈川県中部の伊勢原市糟谷の上杉家の館にいる時に、上杉定正の手の者に暗殺される。専務が社長に保険金殺人を仕掛けられたようなものだ。湯屋で入浴中に斬られたそうだ。まさか、江戸から伊勢原まで温泉に浸かりにいったわけじゃないだろう。おそらく所用で上杉屋敷に向かったのだろう。

道灌は、末期の一言として、「当方滅亡」と叫んだそうだ。当方というのが、道灌自らのことなのか、屋敷の主人である上杉家に対する怨みなのかはわからない。実際には道灌の二人のこどもはその後別々に家を興し、徳川に仕えることになる。今回の展示に出品された品々は、遠江国掛川5万石を拝領した江戸太田氏の末裔の方からの提供だそうだ。実は、先日、掛川城に行った際、太田氏のことなど現地では話題ではなく、掛川を見捨てて高知の大藩に慶び勇んで遁走していった山内一豊のことばかり宣伝していた。NHKの大河ドラマのせいで、歴史が歪められたわけだ。実際には、掛川の太田氏は、江戸幕府の歴史の中で、老中に二名、寺社奉行に三名を輩出した大変有能な家系なのである。