“道灌以後”の戦国争乱

2019-07-28 00:00:45 | 歴史
横浜市歴史博物館で閉幕間近の『“道灌以後”の戦国争乱』を見に行く。一応、「おおた」を名乗っているので、不明なことが多い「太田氏」のことをチェックしてみたかった。



まず、太田氏の起源だが大きく二説あるようだ(本当は30近い太田氏があるともいわれる)。一説は清和源氏の子孫ということで、丹波の国の太田郷より苗字を決めたというもの。もう一説は横浜にある太田郷の豪族だったというもの。

もっとも先祖が天皇でも豪族でも関係ないのだが、太田氏は上杉家に仕えていた。太田道灌の本名は太田資長。当時の関東は、上杉、武田、今川の三家の力が拮抗してた。さらに千葉には里見、茨城には結城と血も涙もない残虐な新興勢力がいた。

道灌は主君である上杉家内の分裂をおさめるため奔走し、抵抗するものは厳しく処断していたとされている。その結果、伊勢原市で入浴中に暗殺される。

その後、ラフに言えば二つに血筋はわかれる。一つは岩付太田氏、もう一つは江戸太田氏。華々しいのは岩付太田氏で、あっちに付いたり、こっちに付いたり。特に北条氏に近づいたり離れたり。一方、江戸太田氏は意図していたわけではないだろうが、細く長く生き延びていた。結局、いくつかの小規模大名や旗本として明治を迎える。

いずれにしても、はっきりしないことが多い。末裔に入れてもらおうかな。
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足王と言っても靴じゃない

2019-05-05 00:00:36 | 歴史
「駿足」という子供用の運動靴が売れているようで、「足王」というと新しい靴の名前のようだが、実は神社の名前。(ついでに地下足袋メーカーに「力王」というのもある。)岡山県の赤磐市にある神社で、足の神様が祀られている。岡山に用があったので、ついで旅で足を伸ばす。岡山駅からバスで30分で、神社の前に到着する。

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この神社の由来だが、一応の起源としては江戸時代の末期に稲作の神様である手名椎之命(てなづちのみこと)と同じく稲作の神様である足名椎之命(あしなづちのみこと)の二神を祀って社を建てたそうだ。豪農であったそうだ。

本来、農業労働に手と足は重要な役割を果たすのだが、鎌や鍬といった道具は、それなりに危険で事故もあったのだろう。また腰を曲げての作業では、あっちが痛いこっちが痛いということも想像できる。

いつの日か、この神社に祈願すると、足の病気が治るという話になり、参拝者が鎌を納めるようになった。たぶん神社としては大量の鎌をもらっても困るはず(数千の鎌が鎌殿と言われる倉庫の中に眠っているそうだ)。鎌をお金に換えるのは難しいだろう。

農業の必需品である鎌は、病気の根を刈るということの象徴となっているようだ。といって鎌をもってバスに乗るわけにはいかないので、少額金員にて代用したのだが。

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実際にバス停の高さに神殿はあるのだが、そこから下り階段をかなり降りていくと鳥居があり、よく狛犬がいる場所に足の石像が左右一対並んでいる。自分の足の病気の部分と同じ場所を石像に探してなぜると病気が治ると言われている。整形外科医の敵だ。

右の足首と左の膝に捻挫の古傷があるので、左右間違えないように気をつけて触ってみる。くれぐれも水虫がうつらないように気を付けなければならないが、足の裏を触ることはできないようになっている。神社ではなく皮膚科にいくべきだ。

しかし、この足の像にたどり着くまでかなり階段を下らなければならず、帰るときは今度は階段を登らなければならない。足が悪い人には酷な話だ。


ところで、この赤磐市の隣には和気町がある。歴史上、有名になったり(紙幣の肖像にもなったりした)、無名になったりする人物がいる。和気清麻呂(わけのきよまろ)という人物である。清麻呂氏は、女性天皇が破戒僧である道鏡に取り入られ、道鏡を天皇にする企てに発展したときに、姉と一緒に必死に抵抗して、それがため鹿児島県に流されたのだが、天皇が亡くなった後、道鏡が失墜し、再び都に戻り重臣となり、平安京への首都移転チームの一員として活躍する。和歌の方は、うまくなかったようだ。

この大部分が実話の中に、神話的な話があって、配流地へ籠に閉じ込められて送られるときに足の腱を切られていた(実際は足が萎えたのではないだろうか)のに、多くのイノシシが彼を背中に乗せて運んでいるうちに足が治ったということで、京都にある護王神社(和気清麻呂を祀っている)も足が病気の人が通っているようだ。

なぜ清麻呂の評価が揺れ動くのかというと、天皇制との問題がある。彼がふんばらなかったら、天皇制はまったく権威のないものになっただろうし、続くこともなかっただろう(復活はあるかもしれない)。それで、どうなったのかというのは難しいが、違う日本にはなっただろう。かといって、武家時代の為政者は天皇を煙たく思っていただろう。

こうして、1945年の夏までは、「天皇」と「政権(国家)」という二つの機能の軽重によって清麻呂の評価がなされていた。そして、現在は「国民」という軸が生まれたわけだ。つまり、「国民」「天皇(皇室)」「政権(国家)」の三権分立になったわけだ。そして、天皇と政権とは直接関係を持ってはいけないのだから、必然的に天皇は国民との関係を強化することになるのだろう。
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二人の日本人残留兵

2019-03-28 00:00:29 | 歴史
海外で生活している移住者のことを調べているうちに、インドネシアに太平洋戦争中、兵士として従軍したまま、帰国しなかった人たちが約900人いたことがわかった。独立戦争を手助けしたそうだ。もちろん戦争なので、それらの人たちも戦死したり行方不明になったりして、最初の調査では531人になっていたようだ。

その後、内戦も終わり、日本に戻るかインドネシアに定住するかを確認する段になって、日本帰国を希望する数が45人。インドネシア残留を希望する者が324人ということだったそうだ。またも合計数が減っていく。

そして、最後の二人ということで、日本語による「じゃかるた新聞」によると、2013年10月16日、宮原永治さんが91歳で亡くなられてジャカルタの英雄墓地に埋葬された。

台湾に生まれ、軍属としてジャワで終戦を迎え、その後独立戦争に参加。東京で働いている孫のジェバンさんは永治さんが亡くなる3日前に生後5か月の栄治君(ひ孫)を連れてジャカルタに戻り、永治さんに面談しているそうだ。どちらも「えいじ」だ。

そして、最後の残留日本人は小野盛さん。残念ながら、宮原さんとは知己の仲だったそうで、気落ちしたのだろうか、宮原さんの没後、約1年の2014年8月25日、94歳で他界されている。
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オアフ鉄道、そして移民の話

2019-03-21 00:00:06 | 歴史
ハワイ移住150年ということで、明治元年に日本を離れたいわゆる『元年者』の話を昨日書いたのだが(実際は数日前)、その時の事情は、米国にとって南北戦争の後で、国内需要が旺盛で特にお菓子類の大量消費が始まって、キューバとハワイ諸島が代表生産地となったことと、奴隷制度が崩壊したことにより、サトウキビの生産や砂糖工場での加工に労働力が不足していたわけだ。

しかし、実際に特に日本から大量(2万9千人)の移民が渡って行ったのは1885年の官約移民協定からである。なぜ、突然、そういう方向になったのか。元年者の記事は、公立の「海外移住資料館」の資料を基に書いたのだが、なんとなく引っ掛かるものがあった。

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1906年の「ホノルル府要図」というのがあって、日本人街の近くの地図の画像を眺めているうちに、地図の左側に鉄道の線路があって『オアフ鉄道停車場』とあり、始発駅であることがわかる。まず、この日本人街の場所を特定してみよう。もっとも鉄道は、現在、オアフ島にはない。(後述するが、ホノルル・レール・トランジットという鉄道が建設中で2020年に一部開通する。)

当時の地図を見て現在の地図にあてはめるのだが、道筋が三角形になっている場所に記憶がある。さらにアアラ公園やリヴアーと書かれた川(運河?)を手掛かりにすると、ワイキキの西側、国際空港の東側、現在のチャイナタウンの場所であることがわかった。つまり、過去の日本人街がチャイナタウンになったのも不思議だ。

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ということで、このオアフ鉄道の路線や建設した状況を調べ始めると、オアフ島の南側(ホノルル市の中央から南海岸から西海岸の海岸沿いに沿って島の半分を通っていた。

1886年にオアフ鉄道という会社が設立、1889年に一部(9マイル=15キロ)が開通した。車両の多くは貨物車で、一部客車が連結される。当初はサトウキビの輸送に使われていたが、その後、真珠湾の海軍基地が米軍によるフィリピン攻略の起点となり、多くの軍人や軍用資材が運ばれている。真珠湾の東側(ホノルル)に港湾があり、西側が農園である。

この1886年という年は、実はハワイはアメリカではなかった。ハワイ王国という独立国で国王はカラカウアといってアメリカ資本がハワイに進出してくる中、アメリカ人が増加することに不安を感じていた。歴史の事実として、この翌年の1887年に最初のクーデターがあり、さらにカラカウア没後の1893年に次のクーデターが起こり米国傀儡政権としてハワイ共和国が成立し、5年後の1898年に米国の準州に組み入れられ独立国が世界から一つ減少した。

遡ること数年、1881年にカラカウア国王は訪日して、明治天皇と重大な会合をもっている。天皇家とハワイ王室と婚姻関係を結び、さらに移民を増やして関係を強めようという提案があった。つまり米国ではなく日本と同盟国になろうとしたわけだ。それは通常の条約を超えた大規模な提案であり、王位継承権のある王女と日本の皇族の婚姻を図ると同時に、米国とではなく日本と連邦国を作ろうというものだった。

しかし、明治政府は当時の日本の国力と米国の国力との差を脅威と考え、移民増加に絞って協力したわけだ。実に1890年の段階でハワイ総人口の40%が日本移民になっていたそうだ。実際、上述の米国によって仕組まれたクーデターの際は、後の日露戦争で軍神となった東郷平八郎はまだ一介の艦長であり、邦人保護の理由で軍艦「浪速」他一隻を率いて真珠湾で米艦隊を牽制するように艦を並べていた。

歴史に「if」は禁物だが、あちこちに「if」を考えたい話だ。

そして鉄道の話に戻ると、1948年にオアフ鉄道はすべての営業を終了し、その遺構の多くは朽ちているのだが、真珠湾の北側に観光用として細々と営業が再開されている。日本のトロッコ列車というか軽便鉄道といった趣である。

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そんなホノルル市は海岸沿いに市街地が横に並ぶ街の構造上、一日中渋滞で苦労しているわけだ。そこで、今進んでいるのが、ホノルル・レール・トランジットという電車である。西側がカポレイでエリア1、エリア2は真珠湾の北側、そしてダニエル・イノウエ空港のあるエリア3、そして官公庁や企業のあるシティセンターがエリア4になる。エリア4の終点が、アラモアナセンターである。つまりワイキキにはほんの少し足りない。ワイキキのホテルからは、JCBのピンクの無料バスに頼らないといけない。一応、ワイキキの北側のハワイ大学が最終目的地という話もあるが、途中にはゴルフ場がある。

旧オアフ鉄道と比べると、エリア3とエリア4の区切りのあたりが旧オアフ鉄道始発駅だったので、そこから東側に街の中心が移動したことになる。第一期工事として、エリア1とエリア2が2020年に開通で、エリア4までは2025年となっていたのだが、ごく最近、エリア3までで、予算を使い切るのでエリア4は期日未定という報道がなされ、騒ぎになっているようだ。なにしろ、エリア4のシティセンターに通勤する車で渋滞になるのだから本末転倒ということだ。しかも、エリア3で終了!ということになれば、それでは旧オアフ鉄道と同じになるだけだ。
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ハワイ「元年者」を調べてみた

2019-03-20 00:00:04 | 歴史
昨年(2018年)は、『ハワイ日本人移住150周年』だった。ということは、2018-150=1868ということで、西暦1868年。ということは、明治元年である。

本題とは異なるが、明治元年のことだが、1868年は、そもそも慶応4年だった。1月に鳥羽伏見の戦いがあり戊辰戦争が始まる。そして、あっという間に薩長軍が江戸に進撃し5月3日、江戸城が明け渡しになる。そして9月4日に「慶応」が「明治」に改元になると同時に江戸も東京に名称変更となる。

ただし、その時、正月に遡り明治とするということになったので、慶応4年は、なかったことになる。ここまでは、わかりやすいのだが、当時は太陰暦(旧歴)であり、旧暦の方が約1ヵ月先行していた。ということで、明治元年(慶応4年)1月1日というのは、西暦1868 年1月25日であるため、西暦1868年1月1日から24日までは、慶応3年ということになる。

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で、話を戻し、ハワイ移民の件だが、明治元年5月17日153人が帆船サイオト号で横浜からハワイに向かって出港している。そして6月20日に151人がハワイに上陸した。江戸城開城から僅か2週間後にあわただしく出国しているのだが、実は、新政府はもともと幕府がハワイ王国と前年に「臨時親善協定」を締結したことを認めなかった。ところが、この条件は、国内の農民には格段の好条件だった。移民は月26日労働で4ドル。食事と住居はハワイ持ちで3年契約という条件だった。サトウキビ畑の仕事が待っていたわけだ。

ということで、混乱に乗じて、当初予定の300人に満たなくても、無許可で出航したわけだ。

ところが、上手い話はなかったわけだ。炎天下でサトウキビ畑は辛いし、鞭で叩かれたり、そもそも日本語通訳もいない。そして、日本政府にSOSとなる。その結果、新政府が交渉することになり、42人の即時帰国が行われた。3年後には、さらに帰国するものが現れ、結局90人がハワイに残ることになり、正式な移民となる。

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その後、明治18年(1885年)には官約移民の労働約定書が制定される。約定書によれば、3年の契約中、一ヶ月9ドルの給料と6ドルの食費、サトウキビ畑の作業は1日10時間、砂糖工場で働く場合は1日12時間労働と定められている。

15ドルの給料を換算すると、当時の日本国内に比べ、3~7倍ということだそうだ。こうして、官約移民は10年間に29,000人以上の移民をハワイに送り出すことになる。そして47年後には、すっかり日系人のことを忘れたかの如く、日本人街に近い真珠湾を爆撃したわけだ。
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カフェ・パウリスタのこと

2019-03-06 00:00:48 | 歴史
長くブログを書いていると、以前、何気なく書いていた話が、まったく想像も付かない出来事と関係していることに気付くことがある。それが本日のテーマである『カフェ・パウリスタ』。銀座の喫茶店である。明治時代から存在する喫茶店で、ジョン・レノン+オノ・ヨーコが来日した時は、三日続けて通ったと言われる。現在でもコーヒーとケーキのセットが人気らしい。

昭和初期には、さまざまな文豪が集まってくる場所であったが、画家たちも集まっていたそうだ。その中に、長谷川利行がいた。2011年1月9日「絵画・カフェ・パウリスタ物語」に一枚の絵画の事を紹介した。1930年に『カフェ・パウリスタ』を描いた絵画だ。行方不明になっていた。長谷川が酒浸りの貧困生活をしていた時に貸間の家賃として家主に渡していた。この絵は、その後、徐々に汚れてしまい、判別が難しい状態だったのだが、所有者の孫がテレ東の「なんでも鑑定団」に持ち込み、正体が判明。1800万円の鑑定値が付く。

そして竹橋の国立近代美術館がこれを入手し、あざやかな色調を取り戻すことに成功。館内で展示されることが多い。

と、片側に奇跡のイベントがあるのだが、もう一つ、この『カフェ・パウリスタ』そのものの成立に別の物語があった。その謎を解明する単語が「パウリスタ」。サンパウロの人という意味だそうだ。

少し歴史を語ることになるが、通例によらず近い方から遠い方に向かって書こうと思う。

『カフェ・パウリスタ』の開店は1911年である。さらに横浜、名古屋、大阪と立て続けに支店を出店している。日本最初の喫茶店であり、社長は水野龍という人物。自由民権の闘士だったのだが、海外で移民の排斥運動が起きているのを見て、移民の生活改善を目標と考えた(と言われているが、実は私には確信がない)。彼は、ブラジルのサンパウロ州政府と日本人移民3000人の受入契約をまとめることになる。1908年に第一回の移民781人がブラジルに移住する。その功績をたたえ、サンパウロ政府は、水野に、ブラジルコーヒーの豆を“ただ”で提供した。

実は、ブラジルは危機に陥っていた事情がある。アメリカの南北戦争の後、世界一般に奴隷制度が禁止されていくことになった。ブラジルもそういう事情で、鞭で奴隷を叩くわけにはいかなかった。コーヒー農園の維持拡大が困難になったわけだ。南米ではブラジル以外の国がスペイン語を使い、ブラジルだけがポルトガル語を使用している。ポルトガルとスペインとは、世界の制海権をめぐり争ったのだが、手打を行って、事業ごとに分割したわけだ(二国間の比較優位理論そのままだ)。ポルトガルが専門に行うことになったのが、米大陸向けの奴隷取引。アフリカ大陸から主要な奴隷中継地であるジャマイカまで奴隷を連れてきて、受入れ各国の奴隷商人に売却していた。(ジャマイカで逃走して山に逃げ込んだ逃亡奴隷の子孫が短距離走で活躍しているという俗説もある。また欧州での取引はリバプールだったが、そこで逃げても高い山もないし、寒いから生き残れない)

つまり、ブラジルでは、奴隷がいなくなったため奴隷のように働く移民が必要だったという事情があった。

水野は、その後、自らもブラジルに移住し、別の州(パラナ州)で農園を経営するも、うまく行かず1941年には日本政府に善処を求めたが、もはやそういう時代ではなかった。第二次大戦が始まり、日本とブラジルは敵国関係になった。交換船で日本に帰国した者も多い。
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どうして馬は倭国へやって来たのか(講演会)

2019-02-21 00:00:11 | 歴史
建国記念の日の特別企画として、横浜市歴史博物館で開催された『どうして馬は倭国へやって来たのか(講師白石太一郎氏)』を聴いた。会場が一杯で、隣の部屋でライブ中継を見るという形になったため、マイクに入らなかった声は全く聞こえないので、ところどころ意味不明はあったが、おおむね理解できた。1年ほど前に堺市で大仙陵(仁徳陵)をガイドさんの説明で見ていたので、結構リアルにわかったが、現地は現地で別のアングルでも捉えているようだ。

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さて、古代史というものへのアプローチは大きく二つ。一つは文献史的アプローチ。もう一つは考古学的アプローチである。

ただ、文献の数は余りに少なく、出尽くしていると思われる。いわゆる魏志倭人伝に登場する邪馬台国が代表である。実際、邪馬台国論争に明け暮れ古代史が停滞しているのも事実だ。邪馬台国の存在は3世紀の末、西暦280年から300年あたり。その後、国が乱れて台与という女性が登場して再び世が治まるのだが、いつのことなのかよくわからない。漢の倭の那の国王というのが、日本を代表する国家だったのか、一部の王で中国の力を借りて国内統一を狙ったのかもわからないし、結果としてそうはならなかった。

そして、日本書紀と古事記というものがあるが、最初の頃の天皇の存在がはっきりしない。もともと天皇と言っていなかった。大王のわけだ。

そして、馬の話だが、魏志倭人伝には、日本には「牛馬なし」と記載されていたのだが、どうも各地の貝塚のような場所から馬の骨が発見されていて、馬は古くから日本にいたのではないかと言われていたのだが、最近の考古学でフッ素分析を行うと、もっと後世の馬の骨であることがわかってきた。つまり3世紀には魏志倭人伝の通り、日本に馬はいなかったようだ。

そして馬が倭国(日本)に入ってきたのは4世紀とされる。実在が認められる崇神天皇の陵や仁徳天皇といわれる陵の側から馬具が見つかっている。おそらく奈良の南にあった倭国(邪馬台国と思われる)が、1世紀をかけて本拠地を北上させ堺(大阪南部)までたどりついたと思われている。古墳の移動がそういう動きになっている。その間に大王の世襲が続いたのか、あるいは大王同士の権力闘争があったかはわからない。

馬に話を戻すと、朝鮮半島から戦争兵器として伝わったことは明白ということで、子馬製造工場である「牧(すなわち牧場)」は国家事業として全国に作られ、極端にいうと江戸幕府も引き継ぎ、明治政府が引き継ぎ、現在でも続いている場所がある。たとえば成田空港の場所だって、御料牧場にするかという論もあったのだが、まさにそこは4、5世紀からの牧場だったわけだ。

では、なぜ日本に朝鮮半島の戦闘用具である馬の生産地があったのかというと、四世紀の東アジアの事情があった。まず、中国が弱体化して漢民族の国家が南部に押しやられて、北部は前秦、さらに朝鮮半島は、北に高句麗、西に百済、東に新羅、南に伽耶という分裂状態で、特に新羅が高句麗と同盟を組んだため、日本からは遠い方の百済が日本に助けを求めに来て連合を組むことになった。

ということで、百済から多くの人たちが渡来してきて、全国各地に広がっていったようだ。特に牧は渡来人がもっぱら運営していたということらしい。


つまり、馬のことを講演しているようで、実は古代日本の成立と朝鮮半島との関係を語っていることになるわけだ。とはいえ、それでは大和朝廷成立までに記紀に書かれているような内乱というのは4世紀のことなのか、あるいは、まったく違う時代の事なのか、どうも古代史は不思議だ。
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仁徳天皇陵の発掘

2018-11-27 00:00:18 | 歴史
一か月ほど前のニュースで、堺市の仁徳天皇陵を宮内庁と堺市が共同で発掘調査すると報道されていた。平成の最後に「開かれた皇室」が、こういう形で実現するのだと、感慨したのだが、もちろん、その発端ではあるものの、今回、何かを期待しても何もないだろうと予言できるほど小規模らしい。

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実は昨年、堺市の観光の一環で、そこに行ったわけだ。正式には、大仙陵古墳とか、仁徳天皇百舌鳥耳原中陵とか言われる。後で触れるが、確実に仁徳天皇の墳墓であるとは、まだ言い切れない部分もある。そして、大変な大きさなのだ。高さも40m近くあり、奥行きも500mほど。ところが今回の発掘は、取り囲む濠の外側の堤のごく一部だそうだ。つまり墳墓そのものは対象外のような感じだ。

つまり、崩れかけている部分の補修工事の前に調査しようということのようだ。しかも、その目的が、「世界遺産登録のため」らしい。この周辺には多くの古墳があるので、一括申請しようということらしい。

確かに堺市には観光地がいくつかあるが、それぞれがかなり日本的な歴史遺産で、しかもオリジナリティが少ない。例えば、与謝野晶子と千利休の生家はわかっているが、建物はない。坂田三吉の生家の場所もわかっているが、家はない。あえていえば鉄砲鍛冶町は残っているが、ポルトガル人から技術を盗用して国内にとどまらず東南アジアまで鉄砲を輸出していたというのが評価されるのだろうか。合羽橋ではないので、鉄砲鍛冶から工場直売で火縄銃を買うわけにもいかない。それに比べて、天皇陵はリアリティそのものだ。

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で、では誰が何のために巨大な古墳を作ったのかということになる。なにしろ古墳時代に最大の権力をもっていたのが第16代仁徳天皇(天皇というコトバは当時はなかった)。むしろ、仁徳天皇は墳墓の主ではなく墳墓をつくったのではないか、つまり仁徳天皇の父である応神天皇ではないかという説がある。

何のために、という謎には合理的な説明がある。当時の都は今の大阪市の南部(難波宮)だった。堺は大阪より南なのだが、海外(中国や朝鮮)からの使者が来日するためには、対馬を経て、下関から瀬戸内海に入るしかなかった。太平洋は危険すぎるわけだ。そして淡路島の北側の明石海峡を経て、やっと大阪なのだが意図的に堺を国際港としていた。大阪の町の面前で船を南に回頭させ、堺の海岸沿いに航送して港に到着する。その時に仁徳天皇陵の長辺と同じ方向に進むので、日本の大王の権力は極めて大きいと思わせる効果があった。

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朝鮮半島には古墳が多くそのため皇室の祖先は半島出身という説もあるが、逆に、朝鮮半島からの使者に対して、日本では韓国より大きな古墳を使っていると威張るために、作ったのかもしれない。なにしろ決定打がない。
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将門の首塚

2018-09-16 00:00:19 | 歴史
将門とは平将門のこと。平安時代の中期に東日本で武力闘争を始め、天皇に対して新皇を名乗った。結局、官軍による成敗を受け、額に矢が刺さって討死し、首を切り取られたうえ、京都の河原で獄門になった。台の上に首をのせられて晒しものになるわけだ。

ところが、三日後、その首が光を放ち、空の彼方、東の方へ飛んで行ったわけだ。将門の出身地は茨城県なのだが、燃料切れになって、東京に落下する。大手町だ。

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実は、徳川家康は大の将門ファンだった。どうも官軍と戦ったのが気に入ったようだ。そのため、かなり大規模に祀った。江戸城の鬼門にあたる落下位置に首塚を建て、お気に入りの神田明神の神様の一人とする。

ところが明治になると、評価が一転。逆賊として、大悪党とされかける。というか、なかったことにするために、首塚を壊して大蔵省を建ててしまう。

その結果かもしれないが、大蔵省では祟りともとられる不審な事件や事故があったと伝えられる。そして、戦後になりバブルの時には、再開発も考えられたが、見送られ、現在は隣のビルが建て直しの工事中なのだが、誤って工事資材を首塚に落としてはいけないとばかり、この敷地の上空に鉄製のネットが張り巡らされている。

これでは埋められた首が、地中の栄養分を吸い上げて元気になり、当初の最終目的地である茨城県まで飛んでいこうとしても、いきなりネットに捕まるわけだ。
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敵討ちの話

2018-09-10 00:00:18 | 歴史
敵討ちの話。一般論で書くと大変なことになる。日米開戦やリベンジポルノも含まれてしまい文化論に至るのだが、そんなことを書きまくるわけにはいかない。日本古来の敵討ちの話。一例を上げれば忠臣蔵だが、実は狭義の敵討ではない。主君の浅野某がご乱心し、江戸城内で抜刀したため切腹になったので、斬りそこなった相手を主君の敵ということにして集団で襲ったわけだ。無許可である。切腹を決めたのは国家権力だし、悪いのは自分の主君だ。

本物の敵討は、親殺しなどの時にこどもが、犯人を見つけ出して殺したいと申し入れると、国家権力が、「好きにやりなさい」という許可を出す。必然的に武士の世界の話になりやすい。

実は、江戸時代の終わりの頃(1857年)に現在の石巻市の海岸で越後新発田藩士久米幸太郎が父の仇として林右衛門なる男を斬ったのが最後の敵討として知っていた。しかも父が斬られてから41年もかかっていて、九州や山陰までも捜索して僧侶に身を隠していた林を意外な場所で探し出したわけだ。最近の警察以上の能力だ。この41年というのも少し前までは日本最長とされていた。菊池寛が「恩讐の彼方に」の参考資料にしたので知れ渡ったのだが、それを超える期間で成就した例が見つかっている。53年かけて母の敵を討った「とませ」という女性がいる。また、1857年では、あきらかに最後の敵討ではない。

その事件は、久米幸太郎の父が殺されたのは、藩邸で指されていた藩士たちの将棋に、横から見ていた久米の父が横から助言したため、対局後、負けた武士が逆上したらしい。まあ、口を出すのはいけないが、殺すほどのものではないわけで、切った方の林がそのまま藩外に逃走してしまった。将棋界にとって黒歴史の1ページになっている。


そして、これから紹介するのは、もっと後の時代の幕末から明治にかけて。この時代、多くの武士が運命のように亡くなっているのだが、特に不条理なのは、最初に倒閣を決意した各藩の急先鋒隊の人たち。国中が動いている中で、ゆれ戻しがあり、薩摩藩だって寺田屋事件のような急進派の虐殺が起きている。そういう関係で、理不尽な死を遂げた武士の息子にとっては、斬った相手に復讐しようと思うのが当然なのだが、幕府も明治政府も許可しない。いい加減な奴ほど出世して新政府の要職になっている。ということで、いくつかの事件が発生している。

最後の敵討を自称する候補を並べてみる。

1.1868年(明治元年)筑前秋月藩内の方針の対立で殺された臼井亘理の子が1880年(明治13年)に両親と妹の敵を討った。既に敵討は禁止されていて、殺人罪となる。

2.1869年(明治2年)金沢藩家老本多政均が軍制改革に反対する旧守派に城内で斬られる。これに対し家老の旧臣12名が、1871年(明治4年)3名を惨殺。無許可報復として12名全員が切腹。

3.1861年に肥後藩藩士下田平八が江戸藩邸内で斬殺され。息子の恒平が1871年(明治4年)に敵を討ち、跡目相続が許可される。(もっとも、武士という階級は廃止になるわけだ)

4.これは少し歴史的に有名なのだが、1857年(安政5年)土佐藩士広井大六が棚橋三郎に謀殺された。船で沖に出たところ、海中に落とされての水死である。そして息子の岩之助の公認敵討が始まるのだが、いきなり脱藩ルートを使って土佐を出ようとして捕まる。それを助けたのが、坂本竜馬である。彼が手引きして岩之助を江戸まで連れてくる。そして、竜馬の師匠だった勝海舟に紹介するわけだ。勝は幕府の要職にいたため、棚橋三郎の動向を把握していて、和歌山県の加太に潜んでいることを岩之助に教える(ちょっとずるいか)。以下、決行は1863年だった。

5.1862年(文久2年)に赤穂藩村上天谷は急進的な尊王攘夷派7名に殺害された。その子や助太刀を含めた7名が1871年(明治4年)に、復讐の敵討に成功した。本来なら無許可であるのだから、殺人ということになり裁判で死罪になるところ、西郷隆盛の一言で死を免れる。その判決の日(明治6年2月7日)に「敵討禁止令」が発布された。

形式的にはピカピカなのが4のケースだろうが、背後に坂本竜馬や勝海舟がいるのが、少しズルいようにも思える。

いずれにしても、武士身分が消滅したことにより、古来からの敵討文化は消滅したといえるわけだ。
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天皇の戦争宝庫(井上亮著)

2018-06-18 00:00:12 | 歴史
先日、神宮外苑の絵画館で観た『振天府』という絵画から、皇居内にある振天府という木造建物の中にあるのが日清戦争での日本の戦利品の数々であることを知ったのだが、さらに振天府のようないわば戦利品記念館が合計5棟あること(北清事変、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争)、それらの戦利品は現在は建物内には存在しないことがわかった。

一方で、絵画そのものは、他の絵画が記録写真のように事実を写実的に描いてあるのに対し、この作品は、あたかもシャガール画のように一枚の中に部分的にさまざまなカットが描きこまれているということもわかった。



しかし、戦後73年にもなり、そのかつて存在した正体の証人もほとんどいなくなる。大部分の建物そのものは、現在も倉庫として存在しているが皇居の公開範囲が徐々に拡大している現在でも写真すらも撮影が認められていない。

ということであれこれと考えているうちに、2017年(つまり昨年)8月10日にちくま新書として発刊された『天皇の戦争宝庫』という書に辿り着いた。著者は井上亮氏といって日本経済新聞社のジャーナリストであり、以前、昭和天皇が靖国神社参拝を中止した理由について「富田メモ」を発見している。



といっても、彼が現在の宮内庁と関係がいいとか悪いとかということはないようで、本書を書く上で宮内庁の記録としての振天府はじめとする五つの御府の過去の内部写真などは公開されている(過去の内部写真は公開し、現在の外観の撮影は許可しないというのも変だが)。

ただ、ある意味、直接の証人はほとんど生存していない上、特に終戦間際はもはや記録も残せない時代であったようで、明治以降の資料もいくつかの矛盾を持ちながら、ある程度は著者の想像力による推論で補わざるを得ない状況と思われる。

そういう厳しい状況の中で、御府の正体に迫っていく著者の執念、つまり本書を書くまでの資料の捜索と整理はかなり伝わっている。

最初の振天府を作った時、いわゆる二つの流れがあった。一つは、軍からの要望で、戦利品(分捕り品と言っていた)を並べて国民を鼓舞しようという考え方。もう一つは明治天皇の意向から、戦死者の名簿と写真を捧げる場所にしようということで、結局は当初のこの二つの流れがずっと続いていくことになる。(注:二つの流れということを著者が書いているわけではなく、私の印象)

それと、このあたりで書いておくが、書名の「宝庫」ということについては、少なくとも著者は「お宝ザクザク」ということはまったく触れていない。軍旗とかそういうものを宝と考えれば別だが。本の営業上の理由だろうか。

しかし、文化財という観点で言うと2006年に明らかになった鴻臚井碑(渤海国の石碑)というものがある。日露戦争の戦利品として中国の遼東半島の旅順から持ち帰ったものである。現在は日本にある。当時、渤海国というのが沿海州というか高句麗というか満州というかそういう一帯を指していて、それが中国の一部だったか、別の国(朝貢国)だったのかという証拠になる碑だそうだ。中国の一部であれば、朝鮮は中国の一部だったということに近づき、別の国であれば朝鮮は独立国だったということにつながるらしい。

もっとも碑に書かれていた文字は記録されているので、どこにあっても構わないのだが、韓国は、日本が中国に渡すことに反対しているようだ。そもそも日露戦争の略奪品なら、一旦はロシア(ソ連)に返して、さらに中国に返すべきものだが、国家として中国から返還要求は起きていないそうだ。

この戦利品の返却だが、実際には武器については、戦後、全国の小学校などにも散らばっていたものを占領軍が回収して、鉄屑として溶かしたことになっているが、その他の品々は、返却がおこなわれたことになっているが、確たる証拠はない。また明治天皇の肝いりだった戦死者の名簿や写真についても行方不明になっているそうだ。もっとも第二次大戦の夥しい死者を記録したり写真を集めることは、パールハーバー以降はすぐに困難になっていたようだ。

なお、戦死者の範囲は、戦死と戦病死とわかれていて、戦死のみにする予定が、日清戦争では戦死者千六百余名に対し、戦病死者は一万五百余名と約十倍になり、さらに皇族の子息が病死したことから、どちらも戦死ということになったようだ。

なお日露戦争では六万二千五百余名が戦死、二万五千五百余名が戦病死。第二次大戦の戦没者は範囲によっては二百万人強から三百万人強とも言われるが百万人以上は餓死によると考えられている。

対米開戦前に、主に日中戦争で、毎年2万人が戦没していたそうで、既に戦略はうまくいっていなかったということだろう。
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伝説のディベロッパー吉田勘兵衛の遺産

2018-06-11 00:00:39 | 歴史
横浜は、ペリーのごり押しで日米和親条約が結ばれた地である。場所は神奈川県庁よりも山下公園寄りの場所で、現在は横浜開港資料館が建っている。その際、急遽砂浜を伸ばして、体裁を整えたとされるのだが、その砂浜から内陸部も江戸時代の初めは入り江だった。

現在の桜木町と関内の間に川がある。また石川町と山手の間(元町の裏手)にも川がある。この間の土地は海だったわけだ。

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そこを干拓したのが吉田勘兵衛という干拓業者で、1660年の頃だ。実は若いころは木材商人で江戸で仕事をしていた。幕府御用達ということで、いわゆる公共工事を請け負っていたのだが、公共工事の常として、工事費を前決めしてから材木の調達をするので、黒字だったり赤字だったりとけいえいが安定しなかった。

そのため、木材を売るだけではなく、土地を作るというところから始めたわけだ。ところが、既に江戸の町はおおむね完成していて新規事業が難しく、全国調査の旅に出たものの、事業に合う場所が見つからない。むなしく江戸に戻る直前に神奈川宿から一里ほど盲腸のような脇道になる海岸を南下して、この大きく凹型にくぼんだ砂浜の入り江を見つけたわけだ。

そして、共同出資者を募り水田の開発を行った。ちょうど入り江の中央に河川が流れ込んでいて、この川の水を二手に分けるため、中洲状の土地を作った。それから数十年の間に共同出資から権利の譲渡を受け、結局一人でこの地の貸元になったということ。

現在は、同じ場所に吉田興産のビルが建ち、不動産業を行っている。

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同様に藩ぐるみで幕府に内緒で干拓していたのが岡山の池田藩。要するに幕府から言い渡された石高はあるものの、それより沢山の米がとれれば大坂の悪徳業者に横流しできるわけだ。そのためには農地を増やそうということになる。

岡山市の南側にある玉野とか、どうみても元々は島だったはずだが、海を閉じこめて干拓してしまった。そこでは稲作を行うために川の水を運河や水路でつなぐことになる。さらに土地改良のため干した鰊の身が使われたそうだ。北海道の鰊が日本海を回り、蛸で有名な下津井港に荷揚げされていた。

池田藩は既存の農地にも川の水を潤沢に供給するために、街並みの中に水路をたくさん巡らしている。そのために現在では大きく二つの大問題が起きている。一つは運河への転落事故である。毎年10人程度がそれで亡くなっている。しかも、落下防止の柵も川の片側に設置されているだけ。両側に柵を作ると、落水した者が川から上がれなくなってしまうからということになっている。

もうひとつの大問題は公共インフラへの影響。間に運河があるため、地中に管を通すことができない。このため、ガス配管も難しいし、水洗トイレも設置が難しい。

本文に書きそびれたが、池田藩は密かに蓄財を進めたようだが、吉田勘兵衛は干拓した土地を検地している。
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関ヶ原、西軍側の視線他

2018-05-01 00:00:19 | 歴史
以前、会社に「小早川」という方がいた。本人と話したこともなかったのだが、なぜか「あの小早川の子孫」と陰では呼ばれていた。実際に子孫だったはずだ。裏切りは末代まで言い伝えられる。

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さて、石田三成の陣は山の上といわれるが、実地するとそれほど高くは見えない。ほぼ一直線に階段があるので登ってみることにする。

まず、登り口の左側に竹製の杖が置いてある(杖といってもただの竹)。ふだん杖など持ったことはないのだが、何か予感のようなものを感じたので一本の竹を握る。そして階段を登り始める。

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中腹から見下ろす関ヶ原平原は雄大だ。最も総大将が位置するにふさわしい場所だろう。逆に、毛利軍が動かず、小早川の裏切りを見た時の絶望感は凄まじいものだっただろう。と思っていると前方の空中に黒い点のようなものが浮かんでいる。熊蜂(くまんばち)だ。しかもかなり大きい。交尾の相手を探しているのか、上下に飛び回っている。避けようと思っても蜂の動きは読めない。同じ場所に留まったり、急に上空へ飛びあがり、次の瞬間はまた元の位置に戻る。しかも一匹二匹ではなくハチブンブンである。

しかし、ここまできて石田三成のいた場所まで、ほんの数十メートルで撤退するわけにはいかない。蜂がどこかにいくのを待たなければならないが、油断していたことに気が付く。これまでの蜂との遭遇の経験上、頭髪に何らかのワックスとか整髪料とか使っているとそれを確認するため蜂が集まってくることを知っていたのに、つい危険を忘れていた。ゴルフ場でコバエやアブが付きまとうのもそのせいだ。

そして、一歩一歩進んでいると後方の森の中の草むらでゴソゴソと音がする。動物だろう。鳥か蛇か猪か。思わず竹の杖を握りしめるが、正体を知る前にやっとの思いで展望所に到達。まさに戦場一望の絶好地である。

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しかし、その中央の観覧台は十匹ほどの熊蜂の円舞場になっていた。横からそっと決戦地を確認し、直ちに山を下り始めたのだが、なんとなくガサガサと物音が聞こえる。もしかしたら熊?熊蜂と熊に挟まれたらどういうことになるのだろう。一本の竹の杖だけが頼りだが、なんとなく一本だけでも大きな頼りに感じる。素手では話にならない。歌でも歌えばいいという説を思い出すが、頭に浮かぶフレーズは一つだけ。

ブンブンブン蜂が飛ぶ

すると、動物が動き出し自分から遠ざかっていった。大きさ的にはリスやキツネということはなく猪か子熊ということだろうが、背中の毛が茶色だったように思える。ヒグマはいないだろうから猪だったのだろう。

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帰宅後、岐阜県のクマ出没マップを見て驚愕する。
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関ヶ原、東軍側の視線

2018-04-30 00:00:40 | 歴史
関ヶ原の戦いは15万人の戦いと言われる。東西ほぼ同数。もちろん純粋武士もいれば狩り出された名もない足軽兵もいるし、夫の生還を祈るだけの家族もいる。どうみても天下分け目の戦いでどちらが勝つかもわからないのに、大名も家来も勝つか負けるか、運命は50:50だ。

西軍の足軽たちは敗勢になったとき、武具をすべて捨てて裸同然で山の中に逃げ込んでいったと合戦絵図には記されている。無事に逃げ帰れただろうか。あるいは逃げ帰ったとしても主君はいないし、うまく生き延びられたのだろうか。

そう思うと戦場で亡くなったとされる数万(推定最大値は4万)以外にも多くの兵の人生とその家族の人生が失われたと考えるべきだろう。

一方で、では西軍が勝って、家康が切腹していたとして、歴史は変わったのだろうか。研究家によれば石田三成の描く未来も徳川家康の描く未来もほとんど同じだったはずと言われる。ただ、西軍が勝ったとして、豊臣家と三成の関係が良好に行ったのかはわからない。

さて、東軍が勝った翌日の関ヶ原の戦場はおそらく凄まじい光景だっただろう。バラバラになった死体、血の海、野犬や野鳥が群がっていただろうし、金目の所持品を狙う追剥ぎとか。中には生死不明のままのたうち続けていた者もいただろう。

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家康は戦場の南側に二つの首塚を作っている。東首塚と西首塚。東西と言っても東軍と西軍をわけたわけではなく一緒に弔ったそうだ。見分けつかないからともいえる。首だけ埋めたのか体全体も埋めたのかは何の記載もないのでわからなかった。近い方の東首塚に行ってみる。おそらく土地を掘れば出てくるのだろう。

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そして、家康は最初は後陣に構え、戦況が熟したところで陣を敵陣近くまで進めている。何しろ最大勢力だったので温存できる状況ではなかった。いずれの陣も何もない平らな平原である。400年経っても平原であるということは、単に偶然なのか、あるいは血塗られた土地に積極的に住む者はいないということだろうか。第二次大戦中は関ヶ原に弾薬庫があったといわれ、やはり住居にするには気持ち悪いからかもしれない

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そして、決戦地。というか東軍の再先鋒はこのあたりにいて、朝霧が消えたら目の前に敵がいてすぐさま戦闘が始まり、目前の敵と撃ち合い斬りあいになった。決戦地から周りを見渡すと、西軍の各隊が山の上にいたとされるが、石田三成のいた山ですら高いわけではなく小早川が満を持していた山など、むしろ坂と言った方がいいようだ。
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お花見以外の皇居あれこれ

2018-04-04 00:00:10 | 歴史
先週、皇居内乾通り公開に合わせて皇居内の花見(=散策)の際、桜以外の特記場所について書いておきたい。

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まず、宮内庁。坂下門から入ったところにある。省庁の中ではかなりクラシックで、豪華だ。クラシックだけなら気象庁もそうだが、気象庁は豪華ではなく貧相だ。

花見以外でも参賀の時も、この建物の前を通ることになるので、比較的馴染みがある。なんとなく皇居の門番のような場所だが、仕事は門番そのものである。

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次に道灌濠。江戸城は太田道灌が最初に築城したのだが、案外、見る目がある男だったのかもしれない。現在の広大な皇居のほぼ中央に城を築いたわけだ。その屋敷の前に池付きの庭をこしらえて風雅を楽しむ武人だった。「山吹の花」で一首詠む程度で驚くべきではないのだ。そして、彼は山城とか壮大な石垣とか好きではなく、あちこちの平地に城を作り、遊軍的に戦闘を起こしていた。伊勢原の温泉で裸で斬られるという予想外の結末を迎えた。

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蓮池濠から富士見櫓。我々庶民が通常入場できるのは東御苑という部分。実は江戸幕府の頃はこちらが中心地だった。明治維新のあとは西側に御所が置かれたことにより、そちらに中心が移動し、東御苑は御用馬の練習地になった。

そのめったに入れない御所側から東御苑を望むと、間に蓮池濠があって、さらに上の方に富士見櫓がある。内部は公開されている。しかし、どうみても、二つの地区の間には濠や石垣があるし、石垣の形状からいって江戸時代からの組み方で、一部は崩れたあと、補修の跡がみられる。江戸城の各種解説を読んでも、この城内構造の謎は解けない。そもそもこの広大な江戸城のどこかには巨大武器庫があったのだろうか。それもよくわからない。


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そして、東御苑に入ると、一般観光地であり、大きな天守台が組まれている。江戸城は、太田道灌が1457年に築城した後、たいした価値があるとは思われなかったのだが、秀吉がライバルである家康を東国流しにした時に脚光を浴び、町が再開発されたのだが、天守閣が建ったのは、かなり遅れて1607年である。位置は東御苑の中心近くとされる。その後、業務多忙になり城が狭くなり1638年に北側に天守閣が移り、執務エリアが拡大した。古い城の部材一式は仙台伊達藩が幕府へのごますりの為に譲受け、仙台城の改修に使うことにして、実際は薪にしたそうだ。

ところが1657年の大火で江戸城は炎に包まれ、天守閣も焼け落ちてしまう。ということで綱吉の時代に再建計画があり天守台を作ったのだが、なんらかの理由(諸説あり)で中止になった。

そして、現代になって「江戸城再建計画」が現れているのだが、認可されていない。

というのは、大阪城が代表的な例だが、「偽物」が横行しているからだ。場所も違うし、形も違う。元々天守閣がないのに作ってしまったり、平安時代の砦が天守閣になったり。

そのため、現在は、旧来の天守閣と同じデザインでないと認めないということになっている。

天守閣が消えた時期というのは、おおむね3つの時期がある。徳川幕府誕生後、一国一城制度となり戦国時代の城の多く(小さい城)が解体された。次に明治維新。武士が失業して新ビジネスを始めてさらに没落。城は風呂屋の燃料になった。そして第二次大戦末期。大都市爆撃が行われ、天守閣はB29のパイロットの目印となった。大きな城は、多くがこの時に炎上。

B29が原因の場合は、元の城の情報は十分にあるし、明治維新の時の棄城については、運よく外国人カメラマンが残した写真が手掛かりになることが多い。ところが江戸時代の最初の頃に消えた城については、情報が乏しく、再現することは困難な状態にある。

ところが江戸城の場合、燃えてしまった二本目の天守閣の情報は明らかではないが、再建する予定だった天守閣については、場所も設計も残っていて、完成図まであるわけだ。つまり「再建」というより「新築」に近いわけなので作ってみたらどうだろうかとか思ってしまう。

個人的には作る価値があると思うのは、信長が建てた安土城、徳川ではなく秀吉の建てた方の大坂城、そして江戸城の三本なのである。
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