移民の世界史(ロビン・コーエン著)

2024-06-19 00:00:16 | 歴史
著者は南アフリカの社会学者。人類の歴史を、人の移動という観点で捉えている。この本の現代は「Migration」となっている。この単語の前にeをつけたemigrationは国外への移住のことでimをつけたimmigrationは海外からの移住のこと。



いうまでもなく、東アフリカで誕生したホモサピエンスはアラビア半島を経て、北回りや南回りで世界中に拡がっていった。途中でネアンデルタール人とデニソワ人という近縁の人類と交配して今に至っている。

つまり、ずっと東アフリカに住み続けるほんの少しの人たちを除けば、世界中が移民ということもいえる。

まず第一部が近世に近づく前の人類の移動について、
出アフリカ、探検家たち、宗教、遊動民、ロマ、太平洋諸島、奴隷貿易、インドの年期奉公、帝国主義、巡礼

そして第二部は
 アイルランドの飢饉、南アフリカの金鉱山、オーストラリアの囚人、アメリカへ、ユダヤ人、追われたパレスティナ、英連邦内での移動、トルコからドイツへ、ベトナムのボートピープル、ソ連解体、カリブ海内での移動、華僑

第三部は現代人の移動
 中国の国内移動の禁止、インドとパキスタンがそれぞれ独立。労働力の輸出国、セックスワーカー、政治的難民、労働力不足

第四部は未来へ向けての予測として、
 留学生、結婚、リタイア後、ツーリズム、こども、国境、拘留や送還、そして気候変動。

ところで、本の表紙の地図には日本が含まれていない。最新の研究では日本人のルーツは複数のルートで日本にやってきた人たちが混じり合ったものということはわかっているようだが、本書の中に様々な移民の形態のカテゴリーが書かれているが、なぜ、日本列島にやってきたのか。ほぼわかっていない。というのも大陸と日本をつなぐリンクにあたる種族が消滅しているからだ。つまり滅亡したわけだ。日本に来るのが正解だったわけだ。

三好長慶の役回りは

2024-06-12 00:00:10 | 歴史
戦国三大悪人といわれるのは三好長慶、松永久秀、斎藤道三。このうち斎藤道三は相当の悪人だろうが、残る二人はどうなのだろう。松永久秀が悪人とされるのは江戸時代初頭に、主君の三好義興(三好長慶の子)を毒殺し、足利将軍の足利義輝を殺し、東大寺の大仏殿を焼き討ちした、とレッテルを貼られたからなのだが、最近の研究では全部濡れ衣だろうといわれている。

では三好長慶だが、少し事情が違っている。これについては、研究家の天野忠幸氏の著『三好長慶・河内飯盛山城より天下を制す』に詳しい。ただ、氏は三好ファンに違いないということは少し記憶に留めないといけないが。



まず、室町時代の終わりの頃、一般に戦国時代というわけだが、当時の登場人物(大名)には二種類あって、武田、今川、上杉、織田というような名門の流れを組むものと、斎藤、毛利、北条のような身分を越えて成りあがった者。三好長慶も松永久秀も後者で細川家などに仕えていて機を見て勝組になっていったわけだ。

それで、基本的には日本国の構造について意識が違っていたわけだ。当時は天皇の下に足利将軍がいてその下に全国に対する発令がおこなわれていた(もっとも有力大名の領地は統治権を失っていた)。大名のほとんどは、周りの大名を打倒し、領地を増やそうと考えていただけで、天下統一などは程遠い目標だった。ただ、三好長慶の活躍したのは京都の周辺だった。政略をめぐらしたうえで細川氏を打ち破れば入洛は可能だった。事実、そういうことになった。

室町将軍義輝と守る細川氏と敵対し、鉄砲を買い込んで戦いを起して京都から追いだしてしまい、代わって政務を行い始める(将軍代理人)。その後、和解して京都に迎えるが、のちに実甥が義輝を二条城で殺してしまう。

長慶も実子の義継も義興も将軍を追い出したり殺したりした後に、特に次の将軍を決めようとはしなかった。実際には取り巻きが義栄を探し出して14代に据えた。特にいなくてもいいと思ったのだろう。

そして、三好長慶が畿内を統一したころ、織田信長が苦心惨憺の末、足利義昭を連れて京都に入るのだが、三好による畿内の統一がなければ、さらに畿内の大戦争があり、両者とも疲弊し、例えば毛利一族とか黒田官兵衛とか藤堂高虎とかの出遅れ組が出てきたかもしれない。天下人として、信長、秀吉、家康と並べるならその前に三好長慶を置いてもいいのではないだろうか。(四人)というのが縁起の悪い数字なので省かれているのかな。

織田信長も当初は将軍義昭を利用したが、結局都から追いだし(1568年)、次を決めることもしなかった。長慶に倣ったのだろう。

やはり長慶も久秀と同様に江戸時代の封建的統治制度の中で、悪人伝説を作られたのだろうと思う。

ところで、室町時代の終わりの年問題だが、15代将軍義昭が都を追われた1568年とするのが通説だが、実際には義昭は1588年に出家するまで将軍職だった。信長はだいぶ前に本能寺で行方不明となり、秀吉も晩年だ。京都にいないと幕府ではないというなら、前任の義栄は一度も京都に入っていなかった。

松永久秀は極悪人か

2024-06-03 00:00:00 | 歴史
松永久秀という戦国大名のこと。極悪人といわれる。戦国大名の三悪人といえば、彼と彼が仕えていた三好長慶と斎藤道三ということになっているが、一体、何をやったのかについては検証の必要があるかもしれない。

ということで、小説家ではなく歴史学者による『松永久秀(金松誠著)』を読んでみると、極悪人という説の基となるのは、『常山紀談』という備前池田藩の儒学者が書いた歴史書。この中に信長が家康と対面した時に傍に控えていた松永久秀について、世の人がなし難い三つの事柄を成した男と紹介している。一つは将軍足利義輝を殺害したこと。二つ目は主君の三好義興を殺害したこと。三つめは奈良の大仏殿を焼いたこと、としている。



『常山紀談』は200年も後の書だが、もっと戦国時代に近い1605年に太田牛一(信長公記の著者)による『大こうさまくんきのうち』にも同様の記述がある。

松永久秀は、これも悪名高い三好長慶の下に入り当時の首都圏(京都奈良大阪兵庫)を支配下に入れていたのだが、研究の遅れていた三好長慶について研究資料が増えるにつれ、松永久秀の歴史もよく見えてきたということのようだ。

まず、将軍殺しの件だが、そもそも室町幕府は六代将軍足利義教が恐怖政治を行ったため暗殺されている。その後、権威は地に落ち将軍が京都にいることも少ないような状態だった。足利義輝は三好長慶の庇護化にあったのだが、1564年に三好長慶が亡くなると実権を取り戻そうと動き出したわけだ。長慶が亡くなる一年前には嫡男の義興が城内で謎の死を遂げていて毒殺説があり、久秀主犯説が言われているのだが、まだ親の長慶が存命の時には、着手しないだろうと思われる。

その後、三好家は後継の幼年の(長慶のおい)三好義継と長慶の取り巻き三人(三好三人衆)と久秀という三極化となり、三人衆が中心となり、言うことを聞かない将軍を襲い自害させた。これも主犯とは思えない。

最後の東大寺大仏殿の焼失だが、三人衆+筒井順慶と三好義継+松永久秀という二つのグループの争いが始まり戦場が東大寺で、戦火が飛び火したという説と、義継+久秀軍が東大寺に入って陣営を築いていた時に失火したという説があるようだ。焼き討ちばかりしていたのは信長だ。

ということで、それほど悪人ではなさそうだが、結局、信長・秀吉・家康による天下平定の世になり、来し方の暗黒時代をことさら醜悪化するために悪人代表にされたのだろう。

なお、最後の足利将軍、十五代足利義昭にそそのかされ信長と戦うことになり自害することになった久秀の最期だが、巷間いわれるように、茶釜の名器である平蜘蛛に火薬を詰めて自爆したというのは無理があるそうで、まず、信長に首が届けられていることと、茶釜は打ち壊された形で多羅尾光信が回収し、修理したとされている。壊したのは確かだろうが火薬ではないのではないかと書かれている。

ただ、釜は鉄製なので、爆風を抑え込んだので釜も体も粉々にはならなかったのかもしれない。実験してみれば真偽がわかるだろう。

品川歴史館へ

2024-05-30 00:00:25 | 歴史
大森貝塚を見学したあと、今年の春に完成した品川歴史館に行く。貝塚跡から5分ぐらい。まだ、ピカピカというところだ。一枚の画像に入りきらない。東京都は金持なので、あちこちに文化施設が増えている。神奈川は新設の予算はないので、リニューアルばかりだ。千葉県は美術館も図書館も数十年前のままで、あまりにも古びていて、映画のロケに使われる始末だ。次の県知事には落選後の都知事を招聘した方がいいかもしれない。



ただ、品川の歴史というのは、少し苦しい。江戸時代の宿場町といっても、人々の楽しみは遊郭だった。それも公営の吉原と違って、非公認の岡場所だった。品川宿は今の品川駅より京急で一つ横浜寄りの北品川駅のあたり(品川駅より南にあるのに北品川というのが通っぽい)。

まあ、数枚の浮世絵で、そういう町であったことも表示されていて安心する。

展示資料の中に、延喜式の中で「大井」という「駅」が定められていることが地図として展示されていた。延喜式は927年に完成し、967年に改定された法律(律令格式例の中で具体的定め)。道としての、東海道の中の一つの駅。今の大井町のことかな。実際には三浦半島の東側から千葉県に向かう航路と品川に向かう航路があったはず。大井と豊嶋の間に道があったことになる。現在の地図を見ると、ほとんど同じ場所に道路がある。大井ジャンクションから大井町の駅から荏原を通り、学芸大学や三宿屋から中野通りと呼ばれ、中野駅から豊島区の東長崎へ道がある。



さて、前段で「道としての東海道」と書いたのは、地域としての東海道という言葉もあるから。五畿七道といって全国の行政区を七つの地域に分けていた。(東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道、西海道の七つの道と畿内五か国)。たとえば品川歴史館の地図の区域は東海道の一部と東山道の一部が含まれている。現在の東京・埼玉が武蔵、千葉は安房・上総・下総、茨城が常陸、神奈川が相模でここまでは東海道。群馬が上野、栃木が下野、この二つが東山道といったところ。

さらに、上総・下総、上野、下野のように上下対や前後対になっている国も全国に多い。豊前・豊後とか肥前・肥後とか。備前・備中・備後とか越前・越中・越後とか三点セットもある。ということは、総とか野とか豊とか備とか越といった大きな国があったことになる。つまり、ヤマト朝廷が全国統一をするころの地名ということになりそうだが、記録がないわけだ。ただ、ビンとかブンとかヒとかビとか普通の日本語では聞かない発音であるわけだ。(品川の話からは大きくはずれたわけだが、何年か先にはリニア新幹線の出発駅(つまり日本の中心)ということになるわけだ。

大森貝塚?貝墟?

2024-05-28 00:00:40 | 歴史
先週、都内でちょっとした空き時間があったので、思いついて大森貝塚(跡)に行って見た。JRの大井町駅と大森駅の中間にある。もとはといえばアメリカの動物学者のモース博士が鉄道に乗っているときに線路脇に貝殻が層になっている場所を見つけ、「貝塚だ!」と確信して調査を始めたということ。



大森駅のホームには『日本考古学発祥の地』という碑が立っている。100年後に建てられたものだ。

貝塚のことは、以前、加曾利貝塚の近くに住んでいたことがあるので、ある程度詳しいので、それ自体のことよりも周りの環境なんかが知りたいと思っていた。



そして、大森駅から池上通りを大井町方向に歩くと、貝塚碑の場所があった。通りから右に向かう小径があり、線路沿いに「大森貝墟」と書かれた縦長の碑があった。碑の背面には昭和5年四月建之と書かれている。

そのまま帰らなかったのは、その先に完成したばかりの「しながわ歴史館」があったからだ。少し歩くと、「品川区立大森貝塚遺跡庭園」という公園があった。違和感があったのは、さきほどの碑から少し距離がある。さらに庭園は品川区立となっているが、そもそも大森というのは品川区ではなく大田区だ。大森区と蒲田区が合併するときに、大森の大と蒲田の田をつなげて大田区にしたはず。大森貝塚がなぜ品川区にあるのだろう。



そして庭園の中を散策すると、こちらには、横長の「大森貝塚」の碑がある。昭和四年五月二十六日起工と書かれている。



何が何だかわからない。そもそも碑に刻むのは竣工とか建之といった完成した日で起工日を刻むのは普通じゃない。

後年わかったのだが、国の記録にはモース博士の発掘調査に当たって品川区に補助金が交付されている。つまり、横長の碑の方が本物と言うことなのだろうか。

さて、貝塚のことを書かないといけないが、時代的には縄文時代後期から弥生時代の初頭にかけての遺跡が発掘されている。

伏見城址にあったのは

2024-03-28 00:00:00 | 歴史
豊臣秀吉によって建てられた伏見城は江戸時代の初期に廃城となり、現在は立派ではあるが主がいなくなった模擬天守として中途半端なことになっている。しかし、伏見城の中枢というか本丸や天守閣は近隣の別の場所にあったとされる。

急に行くことになったので、スマホで来歴を調べても土地勘もないし、頭に入らない。そのうちJRの桃山駅についたので、歩き始めることにした。



が、どうも道が立派過ぎる。廃城に続く道とは思えない。地図を見ると伏見桃山陵となっている。伏見桃山城と見間違えたようだが、とりあえず、この立派な道を歩いてみることにする。ただ、アスファルトではなく細石舗装。そして、思いもかけないことに道は遠くまで続く。少し怖くなる。

そして、ついに目的物があらわれる。明治天皇陵だった。



特に解説が書かれているわけではなく、大きな柵の先に鳥居があって、さらに先に柵があり、その先に古墳状の墓が見える。

さらに奥に皇后陵もあるようだが、残念ながら体力の限界に近付いている。万歩計はまもなく2万歩。

今来た道を90%戻ってから伏見城を目指したのだが、途中で道が分かれていて、桓武天皇柏原陵があると書かれている。



明治天皇は生涯の大部分は東京にいたので、京都に陵があるのは意外だが、桓武天皇は、平安京=京都を首都に決めたいわばキング・オブ・キョウト。それにしては明治天皇陵よりもかなり小さい感じだ。違和感は後の調べに任せることとし、関東に戻ることとした。

そして、今、この文を書きながら調べていると、今回の天皇陵には曰くがあることがわかった。まず、桓武天皇陵だが陵地全体の面積は65,154㎡。明治天皇陵は皇后陵と合わせて804,920㎡ということで12倍。

しかし、平安時代の記録によれば桓武天皇陵は伏見の山に縦横11町(1200m)あったとされ、面積は1,440,000㎡と明治天皇陵の1.8倍。その中のどこに埋葬されたかは、現代では特定されない。というのもその場所に秀吉が城を築いたからだ。

つまり桓武天皇陵の上に秀吉が城を建て、その場所に明治天皇陵ができ、桓武天皇の陵は隣接地に移され、その隣に鉄筋コンクリートの模擬城が建った。

その広大な桓武天皇陵だが遺言により伏見と決められたのだが、子の平城天皇は京都の北にしようとしたが、上賀茂神社の猛反対にあって遺言通りの場所になったそうだ。


ついでに調べたのだが大正天皇、昭和天皇の眠る武蔵野御陵だが、460,000㎡。その中に大正天皇、皇后、昭和天皇、皇后が眠っている。墓地そのものは天皇が2,500㎡、皇后が1,800㎡で独立している。現在の上皇は、縮小化ということで皇后との間に森を置いたりせず、隣接して並べることを決めている。また土葬ではなく火葬ということも決められているそうだ。火葬にするのは別の意味もあるのかなと思っていたが、御陵が手狭にならないようにということのようだ。

紫式部追跡(8)

2024-03-26 00:00:44 | 歴史
滋賀県にある三井寺でも「紫式部」関連行事が進んでいるようだ。実は、紫式部と三井寺の直接的関連を示すものはないのだが、しかし関連があるようにも感じている。

実は、紫式部の母親の兄弟(つまり母方のおじ)、藤原康延は三井寺の僧侶でそれなりの住職だった。さらにNHKドラマ『光る君へ』では登場していないが、父為時の妾の子(つまり異母兄弟)定暹も三井寺の僧侶なのだ。

一説では、紫式部は1014年に40代の初めに亡くなり、当時越後守だった為時が世をはかなんで2年後に任期一年を残して三井寺で出家したともいわれる。

しかし、それでは納得できないことも多い。まず、1014年には手塩にかけていた一人娘の大弐三位はまだ15歳。彼女はその後も順調に藤原一門の中で活躍し、百人一首の中でも紫式部の次(58番目)に登場している。紫式部が早世して為時も出家していたら、そういうプッシュができないはず。また、紫式部の墓が、為時の家とかなり異なる場所(雲林院付近)にあり、その近くに住んでいたという説もある。為時が出家したため、紫式部が家を売却し雲林院方面に新たに自宅を構えたのではないだろうか。

そして紫式部ではなく彼女の弟は父と同行して越後にいたのだが、その期間中に亡くなっている。為時がむなしい気持ちになり出家したのは、そのせいではないだろうか。

また、紫式部があまり三井寺のことを書かなかったのは、おじや異母兄弟が所属していたからなのだろう。筆は災いの元ということを彼女は知っていたと思う。



京都に住んでいた紫式部は石山寺に行く時は逢坂の関を通り琵琶湖に到達したあとは舟を使って石山寺に行っていたはず。その行き帰りには三井寺の親戚に会っていたのではないだろうか。さらに父と一緒に越前に赴任した時は三井寺付近を通るため、その時も逗留したのではないかと想像する。

ところで、三井寺の歴史も相当古く、用明天皇(585年~587年)の頃というので紫式部の頃には既に400年以上経っていた。同じ天台宗でも延暦寺とは犬猿の仲で大規模な抗争を続けていて、紫式部の時代でも993年には焼き討ちにあっていた。おちおちと観光気分で出かけて、焼き討ちにあったりしたら目も当てられない。


ということで、国宝だらけの三井寺だが仁王門。山門というのは延暦寺で三井寺は寺門と言われていた。


釈迦堂は現在は弥勒菩薩が祀られているが、もともとは僧侶たちの食堂だった。いわゆる社員食堂。研究者にはうれしい建物だそうだ。


三井の晩鐘という鐘がある。由緒はそれほどではないが、日本三大釣鐘といわれ、声の鐘といわれている。実は寄進をすると鐘を撞くことができる。


そして、金堂。


弁慶の釣鐘。紫式部の時代から150年ほど後でも延暦寺と争っていて、当時延暦寺の暴力僧が怪力僧の弁慶で、三井寺の釣鐘を戦利品で持ち帰ったが、鐘から怒られてしまい、谷に捨てたと言われる。


紫式部の話はこれでおしまい。本来は、特急サンダーバードで福井県にある紫式部公園に向かうべきだったが、思いつかず、京都の別の場所をめざす。

紫式部追跡(7)

2024-03-25 00:00:15 | 歴史
今回は、紫式部のパワースポットの話。紫式部の時代、多くの女流作家が物語や日記を書いている。その頃、彼らの日常の中に、観光というか息抜きというか寺社巡りがあった。



考えてみれば、江戸時代に下っても江戸っ子たちは、近くは伊勢原の大山詣とか、お伊勢参りとか旅行に出ていった。平安時代でも同じだし、その足跡を追随しようと1000年も経ってから京都の寺社をウロウロする私とて同じようなものだ。



そこで登場するのが、下賀茂神社と上鴨神社。



創建の年もわからないほど古い神社だが。上賀茂神社(賀茂別雷神社)は雷大神を祀っていることからいって、「天」を祀り、下鴨神社は「神」を祀っているということからして、京都市内からより遠い上賀茂神社の方が霊感度が高いということだと思う。



紫式部は石山神社に7日留まって源氏物語の中段部分の構想を書いたと伝わっていることから、54帖もの長編「源氏物語」を書くにあたっては、何度もパワーチャージするために上賀茂神社に行ったとされている。距離からして、上賀茂神社参拝は1日仕事で下鴨神社は半日仕事といったところだろうか。彼女たちの残した日記にも葵祭が登場するが、両社共同の祭りである。



源氏物語の中で、感じているのだが、夜の描写がすばらしいと思っている。平安時代なら昼と夜とは全く違う世界だっただろうし、陽の下の世界と月光の中の秘め事。現世と妖怪。そして男と女。



紫式部追跡(6)

2024-03-24 00:00:19 | 歴史
今回は、紫式部とは強い関連性がない貴船神社のこと。鞍馬寺よりも奥にある。賀茂川の源流である貴船川の水神を祀っている。神話時代から続いているかもしれない神社である。実質的には水という人や神を超える自然物に対する人間の存在が霊感を生み出していると考えられる。弥生時代の信仰と通じるものが感じられるというか、源流なのかもしれない。



現在の貴船神社は、本宮、結社、奥宮と続いている。平安時代には奥宮が信仰の中心だったが、大洪水の後、下流に本宮が移された。



京都北山の奥にあり、公共交通機関もここまでというのに多くの参拝者が訪れていた。確かにパワースポットのように自然の力に包まれている。



平安時代の女流作家と言えば和泉式部が夫の愛を取り戻すために貴船神社に祈願をし、思い通りになったとも言われる(ただし、夫は短命に終わることになる)。おそらくは魅力的な女性であって多くの皇族や上級貴族と濃厚な恋愛を重ね、紫式部からは「品がない」とあきれられていたようだ。今回のNHK大河に登場するのか、その場合、誰が演じるのか。今回のキャストはすべて個性的俳優ばかりなので、あまりに品のない光源氏の女性バージョンのような女優が登場すると一気に喜劇化してしまうかもしれない。

平安時代に戻ると、多くの貴族の娘たちは人生に思うところがあると、それぞれお気に入りのパワースポットへ行っていたようで和泉式部にとっては貴船神社、だったのだろう。

赤染衛門はあちこちにお得意の寺社があったらしく、清少納言はもっと現実的に近場の下賀茂神社を愛用していたような気がする。では紫式部のパワースポットはどこだったのだろう。

紫式部追跡(4)

2024-03-21 00:00:00 | 歴史
紫式部はどこで源氏物語を書いたのだろうと思う方が多いだろう。通説では1002年からと考えられている。この時期、父為時は無官状態を乗り越え、越前守(福井県知事)という要職を得て、下級貴族から中流貴族に格上げになっていた。紫式部は父の赴任先から戻って結婚し、女児(後の大弐三位)を出産したが、夫が疫病で急死してしまう。1002年という年は娘が3歳になり、育児に余裕が出てきた頃なのだろう。(もっとも相当な教育ママで、娘も一流の文化人となっている。百人一首の57番が紫式部、58番が大弐三位。)



今回、紫式部関連を回ったのは、もとより「光の君へ」をNHK大河ドラマとしては初めて見ているからで、事前に調べると、石山寺に「ドラマ館」ができたということだった。なぜ、そこにドラマ館があるのかと石山寺のHPで調べると、「源氏物語は石山寺で書き始められた」かのような記載があったから。書き始めの七日間を、ここで過ごしたというようにも読めるわけだ。それならもっともなことだろうと思っていた。誤解だったのだが。



それはともかく、石山寺は由緒ある寺で石山寺縁起が有名だ。天平年代747年に創建されたが1078年(つまり紫式部の産廃より後に)に落雷で半焼し1096年に再建されている。



まず、参拝者が目にするのが東大門。頼朝の寄贈とも言われる。そして寺院自体が文字通り岩山の上に建てられている。岩の間を登っていくわけだ。小雨交じりの日で注意深く歩かないといけない。滑ると入院7日間になりかねない。



そして本堂の一角にあるのが「源氏の間」。ここで紫式部が7日間逗留したということ。琵琶湖と月という情景の中で「須磨」や「明石」の構想を得たとされ、その時に使われた二池式の硯が残されている。濃い墨と薄い墨が共用できるすぐれものということで、両端使用の筆ペンみたいな効用だろうか。



ただ、大きな疑問が芽生えたのは、「須磨」や「明石」は物語の冒頭ではないわけだ。最初は「桐壺」。原文でも54帖のうち頭の5帖は注釈を見ながら読む進み、その先は与謝野晶子訳で読んだのだが、果たして第12帖、第13帖だ。まさか書き始める前にそこまで構想を練っていたとは思えない。

後で調べると、紫式部が石山寺に行ったのは2004年8月15日。書き始めてから2年後の満月の日である。主人公の光源氏が神戸の先の方に左遷され、月を眺めるシーンがある。石山寺で書いたのは、そのあたりの物語の素材を箇条書きしたりしていたのではないだろうか。創作ノートということだろう。

石山寺側の書き方では、時の中宮から「読みたいから早く書いてほしい」と言われたことになっている。すでに書き始めていなければ、そんなこと言われるわけはないだろう。中宮は藤原道長の娘の彰子。夫は一条天皇である。つまり一条天皇も、彰子も道長も源氏物語を読みたかったわけだ。そして、紫式部は翌年、宮中に上がっていくわけだ。



境内の紫式部像。ずいぶん細面である。平安時代の美人は吉高由里子のような焼き立てのパンのようなふっくら顔。石山寺には江戸時代に土佐光起が書いた画が伝わっているのでそれがモデルなのだろう。江戸時代は日本人のほとんどが丸顔であり、瓜実顔は美人とされていた。

紫式部追跡(3)

2024-03-20 00:00:57 | 歴史
前回書いたように紫式部の生家とも言われる藤原為時邸。人生のほとんどをこの家で過ごしている。では、彼女の人生を時系列で並べてみようと思うのだが、生年も没年も諸説ある。

特に生年については彼女の明確なライフイベントの時の年齢がわからないことになり、想像するのが難しいので、本稿では生年についての諸説(970年~978年)の中をとって974年とし、年齢については(±4年)をつけることにする。

986年:父親の藤原為時(949年-1029年)は中流以下の貴族で、花山天皇の教育係としての職を持っていたが、藤原北家の陰謀により986年に花山天皇が強制退位となった後に解職される。紫式部12歳(±4歳)。

10年間の記録はなく、紀貫之の子と結婚していたとする学者もいる。

また、宮中でなんらかの仕事をしていたという有力な説もある。宮中経験がないと源氏物語を書くのは難しいと思えることもある。

996年に為時は越前守(今でいう福井県知事)に任命され、紫式部は同行する。為時が一条天皇に窮状を訴えたので官位を得たとも言われる。また、当初は淡路守を拝命していたが、藤原道長が辞令を曲げ、大国だった越前守に差し替えたと言われる。紫式部への配慮とも言えるし、当時の中国(宋)からの貿易アプローチが越前にあったため漢語の特異な為時と入れ替えたともいわれる。

998年、24歳(±4歳)。赴任地に父を残し、紫式部は京の為時の家に戻り、藤原宣孝と結婚。宣孝は為時と同クラスで同年代の貴族で山城守(つまり京都府知事)。妻は四人と言われる。自宅は変わらず宣孝の通い婚。

999年。大弐三位を出産(紫式部生涯一人の子)

1001年。夫、宣孝が疫病で急死する。

1002年。28歳(±4歳)「源氏物語」を書きはじめる。



1005年。31歳(±4年)一条天皇の中宮である彰子(道長の娘)付の女官となる。もちろん道長の口添えだ。本来なら天皇の妻である中宮は平安宮の中にあるはずだが、この時は内裏での火事のあと、平安宮に隣接した場所に一条院という屋敷を構え、天皇も中宮(皇后)もそこを住居としていた。現在、西陣会館になっている場所と考えられる。その南側、現在は晴明神社になっている場所に安倍晴明(あべのはるあきら)の住居がある。大河ドラマ「光る君へ」では、藤原北家側について悪の限りを尽くして、何人も呪い殺したり、花山天皇追い落としの秘策を伝授しているが、その結果誕生した一条天皇の熱い信頼を受けていた。

地図を見れば、一条院と為時邸は近い。勤務形態はよくわからないが、行き来していたと思われる。執筆をどこで行ったかはわからないが、一条天皇が愛読していたとされ、道長が原稿用紙(紙)を提供していたということから多くは一条院で書いたのではないだろうか。あるいは一条院で下書き、為時邸で清書とか。

1009年。為時は帰京し任官。

1011年。為時(62歳)は越後守として赴任。紫式部の弟が同行するが、越後で病没してしまう。

1014年。紫式部40歳(±4歳)。為時は自ら越後守を辞職する。原因は不明だが1016年に三井寺で出家する。二人の子に先立たれ悲しみによるとして、紫式部の没年とするのが最も早い没年の説だが最長1031年没説もある。つまり978-1014年(36歳)から(970-1031年(61歳)までの幅があることになる。



そして、紫式部の墓というのがあるのが京都市北部にある雲林院の近く。現在は島津製作所の所有地の中だが、見学は可能だ。雲林院は、現在は臨済宗だが平安時代には天台宗の大寺院で源氏物語にも度々登場する。そもそも当時の貴族の息抜きといえば寺社を詣でることで、雲林院はその通り道にあった。



一説だが、冒頭に書いた紫式部の生家問題だが、雲林院の近く(紫野)で生まれたのではないかとも言われる。その後、母の急死により父親の家に引き取られたが、父親の出家により主のなくなった為時邸を手放して、生地である雲林院の近くに引っ越していたのではないだろうか。亡くなった時は父の方が後だったので、天台宗の三井寺のつてで雲林院に葬ったのではないだろうか。その後、雲林院は一時没落して、その後に小規模で復活したため、彼女の墓地が寺の中にはないのではないだろうか。

紫式部と言われるが宮中では藤式部といわれていた。藤の色は紫、雲林院のあたりの地名は紫野。源氏物語に登場するのが紫の上。「紫」の因果関係はよくわからない。

紫式部追跡(2)

2024-03-19 00:00:00 | 歴史
NHK大河「光る君へ」でも紹介されているように紫式部の父親は藤原為時。中流貴族だ。母親は藤原為信の女(娘)。女子二人、男子一人をもうけたといわれる。ドラマでは現代の普通の家庭の様に父と母がいて男子と女子の二人の子がいて、ある日上流階級の藤原道兼(道長の兄)に母が不条理に殺され、それがドラマ前半の底流に流れていくのだが、ちょっとおかしいと思うわけだ。



その前に、紫式部が為時の家で育ち、その後も生涯の多くの時間を過ごしたのは事実。家は、現在の京都御苑の東側、鴨川に近い場所にある。河原町通りを挟んで京都府立病院の反対側。今は蘆山寺(廬山天台講寺)という寺院になっている。





現在、冬の京都ということで特別拝観中。もちろんドラマ便乗だろう。堂の入口では紫式部がお出迎えである。顔の表情はまさに吉高由里子そのもの。巻物に何かを書こうとしているが、巻物は机がないと書けないはずだ。硯もない。



この父の藤原為時だが曾祖父が藤原兼輔という一流歌人で、彼はこの地に居を定めた。現在でこそ京都御所の隣だが平安時代には御所は異なる場所にあった。鴨川の堤がそばなので堤中納言とよばれていた(堤中納言物語とは関係ない)。それから四代目の為時まで約百年経った家なので、見栄えは悪かったのではないだろうか。

紫式部の幼少期だが、母親は紫式部の弟(あるいは妹)を出産のときに亡くなっているという通説もある。為時には妾がいて数人のこども(紫式部からみれば異母兄弟、異母姉妹)もいる。



そうであれば、ドラマにでていた母親は一体誰なのか。母親が殺された時、弟は既に少年になっている。何回目かで頭の悪い弟が姉(紫式部)に「父親が違うかもしれない」と冗談をいうシーンがあったが、もしや重大な伏線なのかとも思う。何しろずっと後には紫式部の娘はドラマの上では母の仇の道兼の息子と結婚するわけだ。つまり矛盾が生じる前、源氏物語完成あたりでドラマが完結するのだろうか。

紫式部追跡(1)

2024-03-18 00:00:00 | 歴史
NHK大河ドラマ『光る君へ』。主人公の紫式部について、その名前と「源氏物語」は知らない人はいないだろうが、読んだ方は少ないかもしれない。全54帖と長い。さらに紫式部について本名は不明だし、生年も没年もはっきりしない。藤原道長の同時代人で極めて親しかっただろうということはわかっているが、源氏物語の主人公の光源氏と道長とは立場は重ならない。

ということで、諸説色々の紫式部の人生を実際の土地を歩いて感じてみようと思ったわけだ。

最初に、人生の節目ごとの彼女の所在地といわれる場所を尋ねた。

生家とされる場所(父の藤原為時邸跡)
晩年に住んでいた場所と墓所(近く)
執筆に関係したされる場所 石山寺 一条院
お気に入りの場所 上賀茂神社
その他の関係場所 下賀茂神社、鞍馬寺、貴船神社

最初に、現在の地図に平安京の地図を書き込み、その上に訪問地をドットしてみた。

まず平安時代の平安京は中央の朱雀通りが現在の千本通りということになる。山陰線の南北が中央にあり、奥の一条より南に平安宮があり、その中心に内裏といわれる天皇の場所があった。現在の京都では平安京の右側半分(左京)が賑やかになっている。

現在の京都御苑(御所)は平安京の右の端で、かつ北側は平安京を突き抜けている。何度も内裏での火事があって再建を重ねている。

紫式部の時代も内裏が燃えた後、平安宮の北東に密接した場所に「一条院」という屋敷を建て、天皇以下そこに住んでいた。つまり平安宮の外側にいたわけで、紫式部もそこで働いていたわけだ。そして道長もその建物にいたわけだ。

京都市街地


京都周辺



大倉山梅園で菅原道真の歌を思い出す

2024-02-21 00:00:00 | 歴史
梅の季節になった。手近な場所にある大倉山梅園に行く。



大倉山という地名は、横浜の他にも神戸や札幌にもある。ホテルの名前にもなっている。すべて大倉財閥が起源になっている。横浜の大倉山には、立派な洋館もある。洋館の裏手が梅園となっていて様々な梅が花開いている。

昨年は、一月にコロナ感染して、体力温存のため年の初めは出歩かなかったのだが、それまでの記憶の中では梅の匂いが漂うはずなのに、ある一本の紅梅の匂いしか気が付かなかった。コロナの後遺症なのかもしれない。一本の紅梅は梅園の中ではなく、梅園に向かう途中に咲いていた『唐梅』。



そして、梅の香で思い出したのが、菅原道真の一首。

東風(こち)吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春をわするな

左遷先の大宰府で、京都の自宅に植えていた梅の木のことを思い出し、詠嘆した一首だ。



伝説では、この歌を詠むと京都から梅の木が空中遊泳して大宰府に着陸したとされ、『飛梅』として境内に今でも生えていることになっている。また歌を知った人物が京都の梅の木の根の一部を大宰府に運んで再生したとも言われる。

自分の過去アルバムを調べると、2004年の2月28日(つまり20年前)にこの飛梅を撮影している。道真は901年に左遷され、食べ物にも困窮し、903年に亡くなっているので、梅を見たのも2回だけだろう。命日は2月25日。梅の匂いとともに現世から消えていったのだろうか。

神奈川の大井戸

2023-01-02 00:00:05 | 歴史
東神奈川にある宗興寺は、ヘボン博士が診療所として使っていたことで有名で、博士の碑まであるが、隣接した場所には「神奈川の大井戸」と言われる井戸が保存されている。

江戸時代には東海道の名井戸として宗興寺よりも有名だった。寺のことを大井戸寺と言っていたらしい。現在では海岸からは相当離れているが、昔ながらの漁具の店や海運関係の建物も多く、江戸時代はほぼ海岸だった場所だ。丹沢水系の地下水がここまできていたのだろうか。



江戸初期には徳川将軍が宿泊するための「神奈川御殿」がそばにあり徳川将軍もこの井戸の地をたしなんていたそうだ。

そして、井戸の水量の増減で翌日の天気を知ることができると言われ「天気井戸」とも呼ばれていた。



おそらく地下水の末端で水圧が低く、気圧の変化で水脈の水流が変わっていたのだろう。そいうところからも丹沢水系のような気がする。

なんとなく、現代の「道の駅」の名産品を想起させる。


ところで神奈川宿付近にあった徳川将軍専用の御殿はどこにあって、どうなったのだろうか。残念ながら正確な場所は特定されていないが、東神奈川駅の横浜寄りにすぐのところにあったのは間違いないらしい。諸説あるようだが1622年に設営され、1655年に解体されたとも言われる。秀忠、家光は宿泊している。

ではなぜ解体されたのかは記録がないそうで、勝手に解釈すると将軍が江戸市外にあまり行かなくなったのではないだろうか。何しろ、危険がある。由井小雪のクーデター(慶安の変)が起きたのは1651年だ。

また、幕府の財政も悪化していて、1657年の明暦の大火で燃え落ちた江戸城天守閣も再建をあきらめることになる。

そういうことで神奈川宿はなくなったが、その理由についてはマル秘にされたのではないだろうか。