副題が『家学からの視点』となっている。このところ夭折の作家・中島敦の話ばかりで辟易でしょうが、もう少しだけ。本作とあと1作、たぶん現在のところの最終的評伝というのがあるはず。そして、神奈川近代文学館で開催中の「中島敦生誕110年展」。伝記とは関係ないが、穴を掘っている時に見つけた横浜高等女学校のこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/22/b5bd46583b96978c0bd2626790f34158.jpg)
本著は副題の通り、中島家に共通の学問としての「漢学」の立場から中島敦を捉えようとした著作である。といっても簡単に言うと、代表作の「山月記」や「李陵」などは中国の歴史に題材を頼っているので関係があるのは自明なので、むしろ著者が綿密に調べたのが中島家の先祖からの流れである。家学が漢文学といっても実は先祖代々の話ではなかった。
いずれにしても中島敦に影響与えたと考えられる人物は祖父である中島撫山(ぶざん)という第12代であり、10人のこどものうち8番目の田人(たびと)の子が敦である。中島撫山という人物は漢学者としてはひとかどの人物で北関東(久喜)を中心に多くの弟子がいて、全国に教え歩いていたそうで、そのこどもたちの多くは影響を受けている。
ということで、中島家の始祖からの流れと中島撫山について記述される部分が全体の1/3、中島家の人々(敦を除く)が1/3、中島敦のことが1/3という構成になっている。ただ、敦については既に相当数の評伝があり、結局、どの作品が優れているということではなく、どの作品が好きだというような選択肢しかないように思える。また、謎に包まれた母の離婚問題とか、新婚早々別居していた理由とかについては、あまり肉薄はしていない。一方、先祖のこととか、父親のこと、斗南先生と呼ばれる伯父さんのことは詳しい。
順を追って、まず祖先のこと。中島という姓は遠祖が尾張の中島郡を領した中島氏であることによるとのこと。連(むらじ)であったようだが、連は大和朝廷時代の役職でもあり、地方の豪族という意味もある。いずれにしても戦国時代の末には京都にいたわけだ。
そして、戦国時代から江戸時代へ移ることが確定した大坂の陣で中島家は兄が豊臣側に回り、弟が徳川側に回る。結果は弟の勝。その結果、弟が初代清右衛門として江戸に移住することになった。
では、代々の当主が〇代目中島清右衛門と名乗った一族は江戸で何をしていたのだろうか。中島家の伝承では、『御乗物部』ということだそうだ。乗物というのは駕籠で御がつくのはその中でも引戸のついた最高ランクの物を指すようだ。いわゆる大名駕籠である。この駕籠の注文を受けて、駕籠の製作をする下請けに回していたようだ。士農工商の中でも工でもあり商でもある。
しかし、武士じゃなかったのに大坂の陣で二手に分かれたというのもよくわからないが、ともかく撫山の父である第11代は駕籠の製作販売を業としていて、それなりに豊かであった(豪商)そうである。
ところが撫山は、この代々の仕事がつくづく嫌になったそうだ。大名との取引となれば、重要なのは袖の下。そういう実態に我慢ができなかった。しかも幼少のころから漢学に親しんでいたので、いつか家を捨てようと考えていた。そして三十になった年に家を出て親しい漢学者の先生の家に住み着いてしまう。家出をするには年を取りすぎているが、孔子のいう「三十ニシテ立ツ」である。さらに幸運だったのは、ちょうどこの頃コレラをはじめ様々な病気が流行して、多くの漢学塾で指導者が亡くなったらしく、穴埋めのために新米先生の撫山の仕事は自然と増加していったわけだ。
そして、撫山のこどもたちのことだが、10人の子のうち男が6人、女が4人。まず家系図で気付くのは、中島家の人たちの長寿ぶり。この女4人の中には寿命百歳もいる。八十、九十は当たり前ということ。それなのに敦が33歳で喘息という病気で亡くなったことが、なんとなく受け入れにくい。喘息は伝染病ではなく、こども時代にはその気配もないことから、定説はない。家庭内に愛情がなかったことで、いつも黒猫を抱いて眠っていたことが原因ではないかとの親戚の指摘もあるが、真実は不明。
そして、敦の父親である田人だが、教員だった。中学の教員として朝鮮半島のソウルにも勤務している。つまり敦も中学時代はソウルにいた。そして一高、東大と進んでいく。田人については著者は小人物と断定していて、敦とは親子喧嘩が絶えず、前述の黒猫を蹴ったりもしている。現代のイジメ教師のようだったのかもしれない。敦は母親はいないは父は乱暴者ということで、一人で生きるしかなかったわけだ。
中島家の不思議なのは、11代目の家から家出して駕籠屋を捨てた撫山が結局12代目になる。撫山の弟はかなり年下であり杉陰といい、日本画家になったわけだ。駕籠屋の子が漢学者と日本画家になったわけだ。この杉陰の子には男児が得られず、ちょうど早世した敦の末子を養子として受け入れている。
そして撫山のこどもたちの中には海軍中将もいるし生涯独身の怪人物である斗南もいる。遺灰を熊野灘にまかせて海の神となって米軍の艦隊を撃沈しようとした男である。敦とは将棋の仲間で、敦自体、「将棋がきわめて強い」と知人評があるのに、斗南はさらにずっと強かったそうだ。本書には書かれていないが、敦は若いときに江戸時代の棋聖の記録を並べたりしていて、おそらく斗南の影響なのだろう。
ところが、中島家の人物の共通の特徴というのは「漢学と囲碁」ということだそうだ。囲碁ではなく将棋にはまったのは家への複雑な感情の表れなのだろう。
繰り返しになるが、本著では中島敦そのものではなく、彼の親類筋の記載が中心になっているので、ここで筆を置く。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/22/b5bd46583b96978c0bd2626790f34158.jpg)
本著は副題の通り、中島家に共通の学問としての「漢学」の立場から中島敦を捉えようとした著作である。といっても簡単に言うと、代表作の「山月記」や「李陵」などは中国の歴史に題材を頼っているので関係があるのは自明なので、むしろ著者が綿密に調べたのが中島家の先祖からの流れである。家学が漢文学といっても実は先祖代々の話ではなかった。
いずれにしても中島敦に影響与えたと考えられる人物は祖父である中島撫山(ぶざん)という第12代であり、10人のこどものうち8番目の田人(たびと)の子が敦である。中島撫山という人物は漢学者としてはひとかどの人物で北関東(久喜)を中心に多くの弟子がいて、全国に教え歩いていたそうで、そのこどもたちの多くは影響を受けている。
ということで、中島家の始祖からの流れと中島撫山について記述される部分が全体の1/3、中島家の人々(敦を除く)が1/3、中島敦のことが1/3という構成になっている。ただ、敦については既に相当数の評伝があり、結局、どの作品が優れているということではなく、どの作品が好きだというような選択肢しかないように思える。また、謎に包まれた母の離婚問題とか、新婚早々別居していた理由とかについては、あまり肉薄はしていない。一方、先祖のこととか、父親のこと、斗南先生と呼ばれる伯父さんのことは詳しい。
順を追って、まず祖先のこと。中島という姓は遠祖が尾張の中島郡を領した中島氏であることによるとのこと。連(むらじ)であったようだが、連は大和朝廷時代の役職でもあり、地方の豪族という意味もある。いずれにしても戦国時代の末には京都にいたわけだ。
そして、戦国時代から江戸時代へ移ることが確定した大坂の陣で中島家は兄が豊臣側に回り、弟が徳川側に回る。結果は弟の勝。その結果、弟が初代清右衛門として江戸に移住することになった。
では、代々の当主が〇代目中島清右衛門と名乗った一族は江戸で何をしていたのだろうか。中島家の伝承では、『御乗物部』ということだそうだ。乗物というのは駕籠で御がつくのはその中でも引戸のついた最高ランクの物を指すようだ。いわゆる大名駕籠である。この駕籠の注文を受けて、駕籠の製作をする下請けに回していたようだ。士農工商の中でも工でもあり商でもある。
しかし、武士じゃなかったのに大坂の陣で二手に分かれたというのもよくわからないが、ともかく撫山の父である第11代は駕籠の製作販売を業としていて、それなりに豊かであった(豪商)そうである。
ところが撫山は、この代々の仕事がつくづく嫌になったそうだ。大名との取引となれば、重要なのは袖の下。そういう実態に我慢ができなかった。しかも幼少のころから漢学に親しんでいたので、いつか家を捨てようと考えていた。そして三十になった年に家を出て親しい漢学者の先生の家に住み着いてしまう。家出をするには年を取りすぎているが、孔子のいう「三十ニシテ立ツ」である。さらに幸運だったのは、ちょうどこの頃コレラをはじめ様々な病気が流行して、多くの漢学塾で指導者が亡くなったらしく、穴埋めのために新米先生の撫山の仕事は自然と増加していったわけだ。
そして、撫山のこどもたちのことだが、10人の子のうち男が6人、女が4人。まず家系図で気付くのは、中島家の人たちの長寿ぶり。この女4人の中には寿命百歳もいる。八十、九十は当たり前ということ。それなのに敦が33歳で喘息という病気で亡くなったことが、なんとなく受け入れにくい。喘息は伝染病ではなく、こども時代にはその気配もないことから、定説はない。家庭内に愛情がなかったことで、いつも黒猫を抱いて眠っていたことが原因ではないかとの親戚の指摘もあるが、真実は不明。
そして、敦の父親である田人だが、教員だった。中学の教員として朝鮮半島のソウルにも勤務している。つまり敦も中学時代はソウルにいた。そして一高、東大と進んでいく。田人については著者は小人物と断定していて、敦とは親子喧嘩が絶えず、前述の黒猫を蹴ったりもしている。現代のイジメ教師のようだったのかもしれない。敦は母親はいないは父は乱暴者ということで、一人で生きるしかなかったわけだ。
中島家の不思議なのは、11代目の家から家出して駕籠屋を捨てた撫山が結局12代目になる。撫山の弟はかなり年下であり杉陰といい、日本画家になったわけだ。駕籠屋の子が漢学者と日本画家になったわけだ。この杉陰の子には男児が得られず、ちょうど早世した敦の末子を養子として受け入れている。
そして撫山のこどもたちの中には海軍中将もいるし生涯独身の怪人物である斗南もいる。遺灰を熊野灘にまかせて海の神となって米軍の艦隊を撃沈しようとした男である。敦とは将棋の仲間で、敦自体、「将棋がきわめて強い」と知人評があるのに、斗南はさらにずっと強かったそうだ。本書には書かれていないが、敦は若いときに江戸時代の棋聖の記録を並べたりしていて、おそらく斗南の影響なのだろう。
ところが、中島家の人物の共通の特徴というのは「漢学と囲碁」ということだそうだ。囲碁ではなく将棋にはまったのは家への複雑な感情の表れなのだろう。
繰り返しになるが、本著では中島敦そのものではなく、彼の親類筋の記載が中心になっているので、ここで筆を置く。