スクリャービンと悪魔

2007-01-18 00:00:54 | 音楽(クラシック音楽他)
d7850fe4.jpg少し前の日の昼過ぎに、ある取引先の年配役員の方から、「ちょっと来ない?」と声がかかる。「まさか不吉な話では・・・」と、契約書の解約期限とか確かめてから先方に着くと、「ちょっと行きましょう」ということになる。行き先はNHK放送博物館。愛宕山にある。地上からはエレベーターである。あっという間に愛宕山ホールという録音用のホールに連れて行かれて、「土屋圭子ピアノリサイタル」に付き合うことになる。要するに、クラシック好きの1時間サボる口実のダシになったわけだ。

さて、土屋圭子さんはスクリャービン弾きで有名で、当日の演目はスクリャービン特集だったらしいというのだが、違った。モーツアルト、リスト、ショパン、スタンバーグ、ヨハン・シュトラウスと並んで、そのうち一つがスクリャービンということで、どうもラジオ放送用の録音会だったようで、小品を並べたようだ。そして、いずれの作曲家からも、あまり演奏される機会の少ない珍しい曲をそろえたということ。確かに、聴き覚えのない曲ばかりだった。どうも土屋圭子さんは発掘作業が好みのようである。

そして、オハコのスクリャービンは「24のプレリュードより(OP11-1~6)」ということで、なんだか、ややこしい調べである。ラフマニノフのようであり、またリストのようでもあり、初めて聞くものを拒むような爬虫類的な肌の冷たさもあり、「宇宙人」ということばが浮かぶ。そして、元アナウンサーである博物館長と土屋さんのトークの中で、この曲はスクリャービン初期の作で、これからどんどん神秘主義に突き進んでいく、というようなことが語られていた。さらに神秘的になるというのはどういうことかとちょっと興味を持つ。いずれにしても、突然にスクリャービンでは心の準備ができていなかった。

そして、後日、スクリャービンのことを調べると、1872年生まれのロシア人。父親は外交官である。ところがいきなりの不幸で母親を産褥熱で亡くす。母親替りになったのは伯母さんだったそうだ。(父親が再婚したのかどうか、とか余計なことは調べてないので、こども時代のことは割愛)

そして、ピアノの才能を見出され、1888年にモスクワ音楽院に入学。1歳年下のラフマニノフと同級生だった。そして、この二人の大音楽家はピアノと作曲で競い合う。人読んで「作曲のラフマニノフ、ピアノのスクリャービン」といわれたそうである。

しかし、よきライバル関係に致命的な問題が発生する。スクリャービンの右手首の故障である。よく、会社でも「海外事業のA、国内事業のB」とか言われているライバルの片方が、胃潰瘍で入院したりして失脚の穴に落ちることがあるように、スクリャービンの右手は鉛のようになってしまった。

ところが、ここからが、スクリャービンの根性で、左手を鍛えはじめたわけだ。そして左手の難解な曲を多数作曲する。どこかで聞いたことのある話と思う人は、「巨人の星」のことを思い出したはずだ。(将棋の世界でも、指し将棋が弱くなって、詰将棋の世界に転進して、「双玉、入玉、合駒、逆王手」などの難解手筋を乱発する人もいる)

その後、彼は、駆け落ち生活をしたり、精神生活にのめり込んだりして、徐々に難解な神秘主義に向かっていく。1900年頃までが初期、1905年頃までが中期、そして1915年に唇の虫刺されが原因で発熱して急死するまでが後期ということになっている。愛宕山ホールで聴いたのは前期の作だ。1915年に亡くなった彼は知らないのだが、2年後のロシア革命を逃れたラフマニノフは米国へ逃走し、1943年、ビバリーヒルズで亡くなる。

そして、ここまでの中で、いくつかの事実に気がついたのである。まず、ラフマニノフと競って右手を故障した件なのだが、スクリャービンの手は、非常に小さかったようなのだ。親指と小指のスパンが1オクターブなかったということらしい。これが、無理をした直接的原因とされるのだが、片やラフマニノフの手は異常に大きかったそうである。遺伝的問題があったようだ。指を広げると1.5オクターブ(ドから次の次のソまで)ほどあったそうだ。スパイダーマンだ。そこが、スクリャービンの落とし穴だったわけだ。そして、唇の虫刺されが化膿して亡くなったことは、もしかして、彼のお産の時に亡くなった母親の体質との関連があるのではないか、とは私の疑念。

d7850fe4.jpgさて、話を進めると、その後、私は、ただでさえ難解なスクリャービンの後期作品を聴くために、ホロヴィッツのリサイタルのCDを聞くことにした。もちろんホロヴィッツもスクリャービンに負けず劣らぬ難解な悪魔。一度聴いた感じは、「音楽とは思えない」というような感想。「黒魔術のバックグラウンド演奏」ということ。特に、スクリャービン最晩年の詩曲「焔に向かって(OP.72)」は、悪魔と人間の戦いを、悪魔側の立場で作曲し、悪魔の跋扈する情景をホロヴィッツが楽しそうに吼えているような印象を与える。「あな恐ろしきは二匹の悪魔かな」。

ところが、この旋律のどこかに、聞き覚えのある感覚が残るのである。それは、滝廉太郎が結核で死す直前、ドイツから帰国直後に発表した「憾(うらみ)」というピアノ曲である。彼が1901年、22歳からの1年を過ごしたのはドイツ・ライプツィッヒ王立音楽院。メンデルスゾーンが創立者である。この1年の間に、滝はスクリャービンの音楽に触れたのであろうか?