両国散策で軽い考察(上)

2007-01-16 00:00:07 | 美術館・博物館・工芸品
ちょっと用があって、両国に行ったのだが、ついでに両国駅周辺を散策。いくつも歴史スポットがある。そして、日本の都市の常として、今や見る影もないものも多い。

芥川龍之介関係
a9781f5f.jpg芥川龍之介は両国で育ったそうだ。「芥川生育の地」というのが表示されているが、その場所は家やビルが密集し、地面に隙間がない。少し離れた小学校に記念碑がある。なぜ誕生の地ではなく、生育の地かというと、龍之介は芥川家の生まれではないから。新原家のこどもだったのだが、母が病気のため母の実家芥川家で生育する(どうも生育というコトバは人間向きじゃない)。11歳の時に母が亡くなると正式に芥川家の養子となる。

そういうことなどは、両国の記念碑を見るだけでは何もわからないようになっている。それに、ちょっと歴史としては近すぎる。とは言え今年は没後80年ということで岩波から全集が出る。全部読んで共感しすぎて毒をあおりたくなると嫌だから・・そんなことないか

勝海舟誕生の碑
a9781f5f.jpgこちらは普通の公園の中にある。こどもはいなくて、大人がベンチに座って居眠りしている。どうしたことか。居眠りする前に、江戸市民はこの勝海舟と西郷隆盛との会談で江戸焼き払いが中止になったことに感謝すべきなのだろう。幕府の全権代表になるほどの英才なのだが、なぜか両国で生まれた。

両国は、江戸と下総(千葉)の両国にまたがるからという理由で地名が付いたとも言われるほどで、江戸からみれば大川(隅田川)の先だ。通称「川向こう」だ。本来、武士が住む場所じゃない。いざ幕府が臨時召集をかけた場合、直ぐに駆けつけなければならないのだから、川向こうなど論外だ。相当の貧乏侍の家だったのだろう。あるいは、幕末には武家株を売ったり、借金の担保に出したり入れたりしていたのだろうか。だから、町人と混住するようなことになったのではないだろうか。毎日、両国橋を渡って通勤する若き勝海舟は橋上の風をどのように感じていただろう。何しろ橋には見張りがついているのであるから、上級武士に対する心理的対抗心があったのではないだろうか。

さて、勝海舟のことを調べてみて、非常に感じる話がある。江戸開城交渉以降、勝が西郷に会ったことは一度もないという事実だ。幕末の幕府方最高の英才は、その英才なりの身の引き方の中に、果たして、自分流の個人主義、プリンシプルを貫いたのだろうか。


吉良邸・討ち入られ現場
a9781f5f.jpg両国で見つけるとは思いも寄らなかったが、忠臣蔵では敵役で登場する吉良上野の上屋敷跡がある。わずか10坪程度の神社になっているが、卑しくも大名の上屋敷なので、この神社の30倍くらい大きな敷地だったのだが、今は、その惨劇が起きた場所は住宅やオフィスビルが建ってしまい、この神社の小スペースに首洗い井戸があるだけ。

勝のところでも書いたが、吉良は大名としてはみっともないというか川向こうに上屋敷を構えている。これだけで同情してしまう。要は貧乏大名だった。それに、最初に斬りつけたのは浅野側であり、江戸城殿中なのだから、小大名の身分で、やたらと刀を抜いての斬り合いをするわけにはいかない。だいたい、浅野に切腹を命じたりお家断絶させたのは、幕府であって、吉良がそうした訳ではない。当時から幕府内にも、討ち入りは、敵討ちにはあたらない。敵を討つなら、相手は幕府そのものではないだろうか、という意見も多く、あれこれ審議の結果、全員切腹ということに落ち着いた。

それなのに、天下騒擾の罪として、吉良家はお取りつぶしとなる。幕府が世論に負けた。しかし、吉良家には、もう一系列があり戦国時代は世田谷を拠点としていた。そちらは小田原北条家に仕えていたのだが、秀吉の小田原攻めの時、北条を裏切り、豊臣家に泣きつく。秀吉も困り、一旦、吉良という名を消し、横浜の蒔田で蒔田氏としてリニューアルさせていた。その後、吉良はさらに徳川になびき江戸時代をひっそり過ごそうとしていたのだが、忠臣蔵の後に幕府は蒔田家から吉良の名前に改姓させ、吉良家は復活している。

一方、大石内蔵助は、私の好きな現存12天守閣に関係がある。岡山県の山中にある備中松山城の城代を勤めたことがある。難攻不落の天守閣の片隅には「装束の間」という切腹用の一間があるが、結局、違う場所で切腹した。

「忠臣蔵人気」自体も、明治政府の反徳川キャンペーンの一つなのだろうから、冷静に吉良家のことも考えてやりたいものだ。