「ららら科學の子」には続きが・・

2007-01-04 00:00:52 | 書評
0eec127f.jpg矢作俊彦は不思議な作家だ。そう多作ではないし、もちろん渡辺淳一のように、小説は「ビジネス」と思っているわけではないだろうが、二つの文体を持っているように感じる。案外、時代に乗ってベストセラーを狙った作品群よりも、この「ららら科學の子(以下、『科学の子』、と略す)」のような、どこからともなく出現したようなピカレスク風小説が読者を惹きつける。

さて、「科学の子」の主人公は、元全共闘の男。闘士ではなく「何となくバリケードの内側にいた」という青年だった。しかし、突如、突入してきた機動隊員に対し、瞬間的に階段の上から重い金庫を落とす。運良く逃げ延びたものの、その行為に殺人未遂という罪名が付いてしまうと、逃げ切るしかなくなる。両親と妹を残し、中国人スパイと身分を入れ替え、大陸に逃亡する。そして、紅衛兵運動の破綻と農村の崩壊、そして蛇頭の跋扈の中、突如バブル崩壊不況の真っ最中の1990年代後半の日本に密入国(というのは当たらないのだが)するところから小説は始める。2003年に初版。

この小説は、表面的にはあっさりと、主人公の帰国後の逃亡(隠遁)生活を追っていくのだが、伏流の一つとして、「日本の変化していった部分、そして変化していない部分」という対比が様々に登場する。銀座線の描写では、「駅に近づくと、一瞬電気が消えることがなかった」と書き、その他は「昔の銀座線のまま」というのは、そういうことだ。この伏流の行く末は、実は日本論につながっているように、よく見えてくるのだが、矢作は結論は書かない。

さらに、もう一つの伏流は、「自分さがし」。というか本来は、当時の全共闘世界の自分さがしなのだが、今の日本には、当時を何らかの評価するものは皆無。ナッシング・リメインということ。自分の両親の死と妹のエッセイストとしての成功を知る。都内にある両親の菩提寺に行き、墓が自動倉庫化されてしまい、画像上で墓参りすることに嘆き悲しむ。お台場の放送局のホールで妹の講演会に密かに訪れ、携帯電話で中国から電話していると思わずウソをつく。

丸谷才一の初期の名作「笹まくら」のような、逃亡中の恐怖という主題も、うっすらと小説全体に霞のように漂うが、それは本流ではない。いかにも伏線のように、時々本名を記録に残すのだが、その伏線はどこにも繋がっていないのが、奇異にも思える。


そして、この「科学の子」には、謎めいた登場人物が登場する。一人は、彼が頼って帰国した元同志。ところが、彼は二流の地上げ屋になっていて、彼とすれ違うようにハワイと思しき場所へ行ってしまい、そこから携帯電話(短縮001)で連絡をとるだけだ。そして二人目の謎の人物は女子高生。このあくまでも現代的で刹那的な女子高生が主人公の前に現れ、ただちに自分の携帯ナンバーを短縮001に書き込んでしまう。

その後、自分を取り戻そうと日本に帰ったのに、やや妥協的に他人名義のパスポートを入手。中国で家計上の都合で別居していた妻を日本に連れてこようと、突如、上海行きの飛行機に乗り込み、「科学の子」は終結する。一冊の小説の中では完結しない多くの謎を残したままだ。


0eec127f.jpg冒頭に書いたが、矢作俊彦は、本作の前に「スズキさんの休息と遍歴(以下、『スズキさん』)」というピカレスクを1990年に書いている。間違いなく、「科学の子」は「スズキさん」の続きであると考えられる。「スズキさん」は、主人公の男とその男の子が、ドンキホーテを読みながら全共闘時代の自分を見つめなおすため、シトローエン2CV(トゥーシーボー)で全国縦断の旅に出るという、いわば「自分探しの旅」であり、見事に青い鳥に行き着くのだが、「科学の子」はまだまだ、どこにも行き着くところがない。

もちろん「スズキさん(1990年)」と「科学の子(2003年)」の次作は、いずれ読むことができるのだろうが、それは2015年くらいになるのだろうか。こちらも長生きせにゃ・・・


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