ロンドン超特急

2006-05-31 05:53:27 | 日本最古鉄道
2008年の北京オリンピックの次、2012年はロンドン大会に決まっている。さらに2016年には、東京が立候補する予定である。ロンドンは1908年、1948年につぐ3度目の開催である。不吉な話をすると、今から70年前、1936年にはベルリン大会が行われ、次は1940年の東京、1944年のロンドンという予定だったのだが、世界大戦が濃厚になり、まず東京が返上。急遽代打に決まったヘルシンキだが、結局第二次大戦が始まり中止。さらに44年のロンドンも中止。結局、大戦終結後1948年にロンドン、1952年にヘルシンキという順になる。

その例にならえば、中国内乱で北京が返上。急遽、東京が代打に立つも第三次大戦が始まり、ロンドン大会順延。2016年ロンドン、2020年東京大会になるのだが、まあそんなことはないだろう(たぶん)。


ロンドン大会の話は、あまり報道されていないのだが、新幹線の話がある。1994年にドーバー海峡に鉄道トンネルができたあと、パリ、ロンドン間にはユーロスター号が走っている。所要時間約3時間である。ところが、高速で走るのはフランス側だけで最高時速300キロなのに、英国に入ると100キロ超と半分以下になる。日本海の海岸を走る特急いなほ号より遅いわけだ。原因はシステムの古さと路盤の悪さということらしい。

ところが、2009年開業を目指し、高速新線が建設される。ロンドンから英国南部のアッシュフォードまで最高速度225キロの新幹線である。90分かかっていたところが40分になり、オリンピックメイン会場のストラッドフォードを経由するそうだ(ただし、パリに行くには、途中で乗り換えになるのだろうか?その辺、よくわからない。さらにストラッドフォードというのはシェークスピアの町ということなのだろうか?これもよくわからない。)。

そこに日本の「日立」の車両が納入されることになった。6両28編成分(168両)。400億円相当らしい。単純平均すると、1両あたり、2.38億円となる。

ed72beeb.jpg一方、日本国内ではJR東海とJR西日本が新幹線に「N700」という新型車両を2007年から2009年にかけ、導入する。最高速度時速300キロ。16両の54編成で合計864両で2,600億円とビッグだ。割り算をすると1両3億円となる。英国の最高速225キロが1両2.38億円で、日本の最高速300キロが1両3億円というのは、かなり比例しているのだが、では4億円出すからといっても400キロのものが買えるわけではない。

ところで、英国の新幹線に日立製車両が使われることに対して、一部の報道では、明治初期の日本へ鉄道が導入されたときのことを引き合いにして、「第一号汽車は英国製の新品だったことを考えれば、隔世の感が・・・」というような平和ボケの記事が目立つ。

ところが、当時の日本が1872年に開業した鉄道の導入を決めた時の、技術導入については、英国、米国、ロシアの三カ国がしのぎを削ったことは、すっかり忘れられている。このうちロシアは線路の規格がシベリア鉄道スタイルの広軌で日本的でないので脱落。米国も英国も標準軌だったのだが、当時、英国は自国の植民地用に安上がりな狭軌を展開していた。そのため、明治維新で金策に苦しむ日本政府は、植民地仕様の狭軌を採用してしまう。つまり、車両は英国から輸入するしかなかったわけだ。僅かに米国は、北海道の鉄道とか、新橋駅舎の建設とか限定的脇役に追いやられる。

ed72beeb.jpgところが、そのうち日本は機関車を国内生産しはじめたので、英国の独占輸出の野望はあっけなく崩れる。そして、東京オリンピックを機に日本にも標準軌の新幹線が登場するのだが、そうなると、英国の新幹線レールの上には日本の新幹線をそのまま乗せればいいということになってしまう。

しかし、となれば英国も、何も新型を買うまでもなく、日本で「N700」の導入で不要になる中古車両を購入するなら、相当安くなるような気もする。

が、プライドの高い英国人にそんなこと勧められるわけもないのだろう(電流の違いとか、改造の必要もある)。  

明治の時刻表は鬼のように正確だ

2005-05-11 14:51:47 | 日本最古鉄道
b5f0bd41.jpg時刻表が2つあった。

一つ目は、鉄道運航開始の日の時刻表。明治5年5月7日、駅が横浜と品川の2駅。単純だ。
まず、横浜駅を08:00(八字と書いてある)発、品川駅08:35着。
次に、品川発09:00で、横浜着09:35。
ずっと時間があいて横浜発16:00、品川着16:35。
そして品川発17:00、横浜着17:35。1日2往復。
まあ、最初はこんなものだろう。列車が遅れても何も起きない。逆に乗客は、乗り遅れたら1日がフイだ。

そしてもう一枚の時刻表は本格的だ。明治7年。駅も増えて鶴見駅まである。順序は、
 横浜(現桜木町)→金川(現東神奈川)→鶴見→川崎→品川→新橋だ。

1日12往復で、横浜=新橋間を「58分」で結ぶ。横浜駅と新橋駅とも朝07:00が始発で「1時間15分刻み」で発車する。つまり列車は両端の駅で「17分の停車時間」があり、その間に「機関車の向きを180度回転させたり、石炭や水を補給しなければならない」のだから相当忙しい。(機関車の向きをどうやって変えたのかは全く見当がつかない。誰か教えてくれないだろうか?)そして夕方の19:30発のあと2時間半あいて「22:00発22:58の最終列車」があることなど、現代の終電車的だ。酔っ払いばかりだったのだろうか?

そして各駅ごとに細かく着時刻と発時刻が決まっている。駅ごとの停車時間は、新橋行きは神奈川2分、鶴見1分、川崎2分、品川1分だ。横浜行きは、品川、川崎各2分、鶴見、神奈川各1分だ。

そして、最大のポイントは単線であること。すれ違わなければならないのだ。そのすれ違いに利用されたのが、川崎駅だったのだ。横浜=川崎間は12.6Km・26~28分(平均時速約30Km/h)。川崎=新橋間は16.3Km・30~32分(平均時速約35Km/h)。つまり川崎は中間点より横浜よりなのだが、本当の中間点は多摩川の上になる都合でここを使ったのだろう。そのため、横浜=川崎間には駅を二つ(金川、鶴見)おいたり、ゆっくり走ったりしていたのだ。時刻表で確認すると、まず横浜からの到着車両が川崎駅に到着。2分間停止していると、新橋方面からの列車が到着し、停車すると同時に、今まで停車中の車両が走り出すことになる。

計算上は、2台の列車で往復していたものと思われるが、予備車両があったのかどうかよくわからない。いずれにしても、ほとんど時間の余裕はなかったものと思われる。こういうのが過密ダイヤという日本の悪癖につながっていったのだろう。

さて、この時刻表の左側に細かな文字が記載されていて、実はここが情報の宝庫なのである。現代語訳ではこういうことが書かれている。

1.旅客の列車はこの表に示す時刻の発着にて、東京、横浜の間を往復します。

2.乗車したい者は、遅くともこの表示の時刻より10分前に駅に来て、「切手」買入れ、
 その他の手続きをして下さい。そして、「賃金」の定数を、おつりのないよう、あら
 かじめ用意するよう願います。ただし、発車ならびに着車とも、必ずこの表示の時刻
 と違わないようにすることは請け合えませんが、できるだけ遅滞ないようにします。

3.旅客は出札所の窓口を離れる前に、その「切手」ならびに釣り銭などを改めてくださ
 い。あとで間違いなどを申し出られても、聴き入れできません。

4.「手形」は、その日限り、乗車一度にしか使えません。

5.四歳までの子どもは無賃です。それより大きく十二歳までは半額です。

6.旅客はすべて、鉄道規則にしたがい旅行してください。

7.「手形」検査のときは「手形」を出して改めを受け、また、「手形」取り集めのとき
 は「手形」を渡してください。

8.旅客の日用に欠かせない旅具、すなわち、小包・胴乱などは無賃ですが、もし損失が
 あっても、自ら責任をとってください。そのほかの手回り荷物は、東京・横浜の間、
 重さ三十斤までは二十五銭、三十斤以上六十斤までは五十銭を払い、その中間の駅は、
 いずれもその半賃銭を払い、荷物係へ引き渡し、引き取り証書をもらっておいてくだ
 さい。もっとも、一人につき重さ六十斤までとします。

9.手回り荷物はすべて、姓名かまたは目印を記してください。

10.旅客が乗車できるかできないかは、車内に場所があるかないかによります。

11.犬一匹につき、東京・横浜の間、賃銭二十五銭、その中間の駅は、いずれもその半賃
  銭を払ってください。しかし、旅客車に載せることを許しません。
 「犬箱」或いは「車長の車」で運送します。首輪・首綱・口綱を備えて渡して下さい。

12.発車時限をきちんと守るため、時限の三分前に駅の戸を閉ざします。

13.喫煙車以外ではたばこを許しません。

注目点は、まず、「2.必ず表示の時刻とは請け合えない」って。(遅延による損害賠償不可)そして2と12をあわせ読むと、「07:00の電車に乗るためには06:50までに、お釣りのないように小銭(現在価値8,000円位か。米15kg分)を準備して切符を買い、06:57までにホーム(といっても高くなっていないようだ)に入って待っていなさい。」ということだ。それにもかかわらず10に書いてあるように、「満席だと乗せてもらえず」に、かといって「切符は当日限りだし」困ったな・・・ということになる。
一方、「ペット持込と禁煙の話はやたらに現代的」だ(木製の客車だったから火に弱い)。
3と6と9は「余計なお世話」ということだ。

しかし、これを見ていると、鉄道ダイヤの正確性は単線時代からの産物なのかもしれない。これだけきっちり時間が決まっていると、運転士や機関士の精神的プレッシャーは相当あったのではないだろうか。しかも現代のように正確な時計もないし、事務所や対向車との連絡方法もない。

しかし、意外なことに現代は、また単線の時代ということでもあるのだ。IT技術により、在来線の複線区間のうち、片側を狭軌から標準軌に交換して、単線X2というスタイルで新幹線を走らせていることが多いと聞く(フランスの超特急も単線運転をしながらもう一本の点検整備を行っているそうである)。もちろん、すべての車両の現在位置や将来の予想位置が把握できることが前提である。しかし事故の常として、無数の予見しずらい危険ファクターの組合わせに起因することが多いことを思い起こすと、すべての危険要因に対応して超高速運行しているのだろうか?万に一つということ以上に億に一つも事故は起こりえないように考えられているのか?少し怖い。

品川駅は、ほとんど海だった。

2005-05-09 14:55:24 | 日本最古鉄道
f4364f41.jpg品川駅の古写真を2枚見つけたのである。ちょっと著作権とか心配だが、鮮明ではないので許してもらいたい。上の写真は相当古い。単線である。一方、下の写真は明治30年代らしい。写真右側が海ということは、東京の方を向いて写しているわけだ。着物に袴にパナマ帽で肩に鞄をかけている。結構奇妙な服装だが、よくみるとプラットホームはない。気をつけないと列車に触れそうでかなり危険だ。遠景の先に丘が見えるが、愛宕山かもしれない。山の上にNHKの放送博物館があったり、楽天の三木谷社長が毎年元旦に社員と一緒に登る愛宕神社の「出世階段」がある。

しかし、品川駅は本当に海岸だ。ソニーのビルもNTTの病院も、日航も三菱自動車も海の中だ。ついでに手鏡教授の逮捕現場も海の中だ。ある意味で、東海道も海岸道路だったことがわかる。線路のすぐ内側が第一京浜(旧東海道)だし、薩摩藩下屋敷のあったパシフィックホテルもこのすぐ脇だ。東海道の最初の宿場ではあるが、江戸発の旅人が、実際にここにとまることは少なかっただろう。いや、江戸に入る前に寄ったのかもしれない。最新江戸情報を仕入れたり、旅の汚れを落としてから大都会に入ったのだろうか。よく、品川の飯盛り女というのが有名だが、実際にそんなところで遊ぶシチュエーションは、よくわからない。

次は、川崎駅だが、どうも今の位置にあったようだ。そちらはかなり内陸に位置していて周りは水田だったそうだ。そして、なぜこんな位置に駅ができたかは、次のエントリに書く。

もしかして、川崎駅がもっと南側にあったとすると、日本有数のおフロ地帯の中になってしまうので、困ったなと思っていたが、違った。おフロシリーズ実録blogはもっと若年層に任せよう。

最古鉄道と薩摩藩邸の関係

2005-05-05 15:13:09 | 日本最古鉄道
29bb6c22.jpg明治5年5月(旧暦)に横浜=品川間で日本で最初に暫定開業された鉄道は、数ヶ月後に品川=新橋間まで延伸した。それでは、その品川=新橋間の開業が遅れた理由を調べてみると、いくつかの発見があった。一つ目は幕末の薩摩藩の藩邸の問題である。二つ目は海上敷設技術と発注先である。そして、それには若干の関連がある。

まず、駅の数は5ヶ所である。新橋、品川、川崎、神奈川、横浜。このうち神奈川駅は現在の東神奈川の近くである。そして横浜駅は、現桜木町駅とほぼ同じ場所である。品川・川崎は現在の位置とほぼ同じであることは写真が残っているから間違いない。総延長は29Kmだ。そして種々の文献をNETで調べると、総延長29Kmのうち約10Kmが海上を走っていたと記載されている。実は、以前に書いたが横浜=神奈川間は入江になっていて、直線的に海上に堤をつくって、鉄道を走らせている(その内側はその後、埋め立てられ、現横浜駅周辺になっている)。地図で測ると横浜地区で約4Kmだ。そして、神奈川=川崎=品川は内陸を通っているようだ。鉄道は水田の中を通っていたとされるので海から離れている。仮に多摩川にかかる六郷橋を海上と認定すれば約1Km、残るはあと5Kmということになるが、現在の新橋=品川間は4.9Kmである。つまり品川=新橋間は、ほとんど海上敷設であったことになる。

そして、書物によれば、海上を選んだ理由としては、「薩摩藩の藩邸を回避するため」と軽く書いてあるのだが、それで済ませないのが「しょーと・しょーと・えっせい」である。薩摩藩邸と言えば、幕末の西郷・勝会談で江戸無血入場が決まった場所として有名だったり、薩摩藩邸焼き討ち事件でも有名。それと同じ場所なのだろうかという素朴な興味がある。そして何か奇妙なのは、藩邸があると鉄道が敷設できないということは、海岸線の一部を薩摩藩が所有しているということだろうか(プライヴェートビーチみたいなもの)?という疑問である。そして、現場に行く前にNETや図書館で調べてみる。諸説があって信用できないものが多いため、いくつかの仮説をもってから足を運ぶ。

最初に向ったのは、JR田町駅だ。品川=田町=浜松町=新橋=有楽町=東京が山手線の順番だ。駅の西口を出ると、第一京浜国道、旧東海道である。都心の方向に歩くと数分で西郷・勝会談の場所に出る。(多くの資料には三菱自動車ビル前と問題企業の名前が書いてあるが、数年前に三菱自動車は品川駅港南口の三菱ビルに「様々な秘密事項とともに」移転していた。)

そして、そこには古地図をもとに各藩邸の位置と鉄道の位置が書き込まれているが、ちょっと怪しい。古地図の上に無理やり鉄道の線と田町駅を書き込んであるのだが時代が混ざっている。この藩邸跡は「蔵屋敷」と記載されていて、海岸に面していて砂浜から物資が陸揚げされていたようだ。そして、敷地の一方は東海道に面している。つまり物流基地として海と陸を繋ぐ絶好の立地になっているのだ。プライヴェートビーチであったのだ。大胆不敵だ。

次に、その蔵屋敷前は三叉路になっていて、日本橋に向う東海道と現在の芝公園方面に抜ける日比谷通りの交点がある。日比谷通りの方を都心方面に50m進むと、日本電気(NEC)の巨大なロケット型のビルとセレスティンホテルが並ぶのだが、その一帯がまた、薩摩藩の藩邸跡とされ、小さな記念碑が建っている。私の調べでは、そこは薩摩藩の上屋敷なのである。上屋敷とは上京中の殿様が在住する場所で、外様中の外様である薩摩藩は、やはり江戸城から遠いところに屋敷を構えていたわけだ。そして、二つの屋敷はすぐ近くではあるが、間に東海道があるため、別の敷地であったということがわかった。

ここで、幕末の江戸の歴史なのだが、江戸市中で薩摩藩が操る浪人による暴力事件が多発したため、幕府は佐幕派の庄内藩に頼み、この薩摩藩上屋敷を焼討ちしたのだ。1867年12月のことだ。しかし、わずか数ヵ月後には鳥羽伏見の戦いで幕府軍が破れ、薩長軍は1968年の3月には一気に江戸に押し寄せたわけだ。つまり、西郷・勝会談の時は、まだ上屋敷の方は焼けたままになっていたことと思われる。そして、この焼討ちの犠牲者は約90人と言われる。正確な屋敷の場所は、なんとNECのロケットビルの立っている場所らしい。不吉だ。ビルの形も、ロケットではなく、墓石と言われたらそう思うような形でもある。あるいは屋敷が燃え上がる炎と煙の形をイメージしたのだろうか。もっともホテルニュージャパンの跡地も外資系の高層ビルが建ち、外資系の会社がたくさんテナントになっている。不吉さにも時効はある。

ところが、調べると、勝海舟はいきなり西郷隆盛と手を握ったわけではないのだ。1868年の3月13日に一旦、薩摩藩下屋敷で予備会談をしたあと、翌3月14日に薩摩藩蔵屋敷で無血開城に合意している。勝と西郷が腹の探り合いをして、勝が自分の責任で合意したように思っていたのだが、即決ではなく、3月13日に薩長から提示された条件を幕府内で検討した結果、翌日、受諾したのだろう。

そして、3月13日の会談場所である下屋敷の場所は、現在は、品川駅前のパシフィックホテルということだ。(薩摩屋敷を3つも見つけてしまった。この辺を曖昧に書いてある歴史物は非常に多い。というか正確に書いてあるものはほとんどない。)1日かけて、西郷は品川から田町まで1駅分前進して圧力を強めたわけだ。そして、さらに雑学だが実際に無血開城だったのは、町人と幕府の高級役人の話で、下っ端の御家人たちは、見つかり次第、首をはねられていて、あちこちに首が転がっていたという目撃証言を読んだことがある。そして幕府側の残党が最後に集まって大量虐殺されたのが今の上野公園で、その場所で140年後の現代人は花見をして酔いつぶれる。ここにも不吉の時効がある。

さらに薩摩藩には中屋敷なるものがあったのかという問題は、未解決だ(普通は、上屋敷、中屋敷、下屋敷と三つ揃える。田町の蔵屋敷はこの中屋敷に相当するのか、あるいは別の場所に中屋敷があったのかは未発見である。あるいは歩いてみると上屋敷が大きすぎるように感じるので隣接して二つあったのかもしれない。)。


次に、海上に鉄道線路を敷設する方法についてだ。実際、薩摩藩だけではなく、この品川から新橋方向には東海道と海岸線が近く、ほとんど隙間がないために、海上に逃げるしかないと考えられるが、一方、薩摩藩のように港湾として利用しているものもいるので海上交通は確保しなければならないわけだ。その結果、海岸から沖合い50mに高さ4mの石垣の堤を作り、その上に鉄道を敷いたとされている。ミニ運河だ。

古い写真があった。結構な大工事なのだが、その辺が最初の鉄道敷設が英国技術で作られた理由なのかもしれないと思う。競い合っていたのが、アメリカとロシアであるが、その二国は海の上の線路とかトンネル技術なんかの経験が少ないだろう。大陸横断鉄道派である。アメリカの技術供与では新橋と横浜に同じ設計の駅舎を作ることは行ったし、北海道ではアメリカ人が鉄道を持ち込んだのだが。この本州の基幹区間を英国任せにしたことが、それ以降、日本の国鉄が狭軌鉄道という危険な宿命を背負った原因となったことは先日書いた。

鉄道シリーズblogはあと、品川駅と川崎駅のあたりを書いて終わる予定だが、どうも日本の列車が過度に定時正確性を追求する問題は明治5年からあったようなのでそれにもふれてみる。

追記:幕末当時、薩摩藩は江戸に7つの屋敷を構えていたことが判ってきた。しかも、現在の慶応義塾大学三田キャンパスは旧薩摩藩邸を払い下げしたものらしいのだ。となれば、薩摩藩は江戸の入口に巨大な勢力を持っていたことになる。さらに、京都の薩摩藩邸跡は同志社大学になっているそうだ。

維新のホリエモンか平成のカエモンか

2005-04-22 19:56:32 | 日本最古鉄道
4d618bfe.jpg明治5年5月(1872年)日本初の鉄道が横浜=品川間に敷設された件は2回書いているが、旧横浜駅の場所(現桜木町駅のそば)に立ち、そこから東京の方を向いてみると、疑問がわいてくる。つまり、次の旧神奈川駅(現東神奈川駅周辺)との間(現横浜駅も含めて)は、海(入り江)だったはずなのだ。では、そこを埋め立てたに違いないのだが、その目的は単に線路の敷設だけだったのだろうか?

各種資料を調べていると、埋め立てたのは、国家権力ではなく、「高島嘉右衛門(カエモン)」という一介の実業家だったのである。彼の名をとり、現代でも高島町という地名を残している。そして、このカエモン氏、この横浜鉄道プロジェクトそのものに深く関係していたことがわかったのだ。戻ること3年明治二年、カエモンは、鉄道敷設が日本の近代化には不可欠と考え、伊藤博文、大隈重信という若手官僚に対して、鉄道敷設プランをぶち上げているのである。そして、この東京=横浜間の路線と東京=青森間の(東北線)2本の開業申請を政府に申請したのである。そして待つことわずか、彼にとってとんでもない決定がやってくるのである。国有鉄道である。彼のアイディアをつかって、政府が事業を行うことになったのだ。(だんだんホリエモン的になっていく)

怒ったカエモンは政府にねじ込むのだが、もはや手遅れ。その代替案として、神奈川=横浜間の埋め立て事業を手にしたわけだ。そこから先がすごいのである。埋め立てには土が必要なのだが、現在の東神奈川と横浜との間の小さな山を買い取ったのである。そして、その山を切り崩して海(湾)を埋め立ててしまったわけだ。つまり山と海の組あわせで、広大な平地を手にしたわけだ。まさに土地の錬金術だ。おそらく、その時の利益から出資したと思われるのだが、その後、ガス会社、私鉄などさまざまな基幹産業をおこし、45歳で財界から引退する。そしてもう一つの顔である高島易断の祖としての活動に重きをおくことになっていく。この二つの顔をもった人物に興味をもち、彼の前半生をのぞくと、奇抜な人生を送っていたことがわかった。

出生は1832年とされる。父は材木商であり、本人は若い頃から商才に長けていて、20代前半には、東北で鉱山開発をしていたという。一説に易(占い)で明暦の大火を当て、材木で大儲けしたというのがあるが、まだ易は始めていない(むしろ材木商と火付犯はWIN-WIN関係とも言えるが、無論、何の証拠もない)。その後20代後半になり、日本が海外と交易を始めた頃、例の金銀の両替差の問題がでてくる。日本では金1に対し銀4の比率だったが海外では金1に対し銀10だったため、外人投資家はメキシコから銀を日本に持ち込み、金と1:4で交換の上、海外でまた1:10で金銀交換し、銀6を手元に残すというような取引で儲ける。そして日本国内の金が流出した。ただし、カエモンはそれをペーパー取引(あるいは、限りなくペーパーに近い形で)で行っていたのではないだろうか(実は詳しい情報はない)。つまり現代で言う、アービットラージである。決済日になるごとにNET差額が入ってくる。そして逮捕される。要するにおカネの取引は政府公認事業だから民間人が取引をしたら有罪ということだ。そして入牢ということになる。

当時の入牢というのは、未決囚ということなのだが、待遇は劣悪。1畳に8人押し込んだというので、判決をまたずしてどんどん弱って死んでいくそうだ。1牢につき死者の許容人数は1日4人までというような物騒な規則まであったそうで、5人目以降の死体は、とりあえず通路に放置されて翌日まで報告を待ったそうである。ただしカエモンは大金持ちであり、胴巻きに100両をしのばせ、牢役人にワイロを使いながら、待遇のいい部屋にいたそうだ。そして牢名主から易経の本を譲り受け、獄中で易の勉強を始める。それが易学のスタートである。

そして運命の転換点の事件が起こる。集団脱走事件である。カエモンの占いを信じて、牢獄から多くの囚人が逃げ出そうとして大混乱となり、囚人同士の殺戮に加え、牢役人が鉄砲の水平撃ちをしたため、牢内は死体の山になったのだが、運良くただ一人生き残ったため、すべて他人のせいにしてごまかしてしまう。当時の牢獄は湿気が満ちていて、衣類などは乾燥させるため、天井に吊るした大籠の中に入れておくことになっていたのだが、その天井に近い籠の中に潜み難を逃れたらしい。現代的に言うと「乾燥機」の中に隠れていたということだ。その後、島流しの刑が確定するのだが、流される場所は伊豆諸島でもなければ石垣島でもなく佃島だ。今や、東京のウォーターフロント。マンションが立ち並ぶ一方、佃煮店が並ぶ佃島は島流しの場所だったのだ。そして、その佃島で語学堪能なある政治犯と出会うのである。そして歴史は維新となり、昨日の政治犯や経済犯は今日の政治家や実業家と相成り、シャバで風を切るのである。

そして、何年か経ち、再度カネを貯めた後が、本編冒頭の鉄道プロジェクトになる。その後、彼がなぜ突然実業界を去り、易学の大家になっていったのかは不明だが、経歴を見れば経営学的錬金術の大家だったのは間違いないだろう。金銀交換の件や山と海から陸をつくったり、鉄道事業を起こそうと思ったところを横取りされてしまうところなど、ホリエモンとほとんどダブってみえるのだ。

しかし、重ならない部分もある。まず、実業以外の部分でいえば、カエモンは易学に走ることになるがホリエモンには行く場所はまだない。しかし、現代的に言えば、ホリエモンが今後「新興宗教」の教祖にでもなれば、より類似的になる。

そして何より、長身でスリム体だったカエモンに対してホリエモンは肥満だ。起業家の友である「キンコーズ」の大型コピー機に横たわり、横方向のみの縮少率を50%にすればいいだろうか。あるいは、キンコ-ズの親会社であるFedexの宅配便で、自らの入ったダンボール箱を配達日指定で、六本木ヒルズ38階ライブドア社まで届ければいいかもしれない。配達指定日は、明治元年1月1日だ。

最後に、堀江貴文氏が平成のカエモンになるためにもう一つ付け加えるなら名前の改名だ。高島嘉右衛門に類似の名前、タカフミ・ホリエモンにでもすればどうなのだろう。

元祖 鉄道発祥の地で、・・

2005-04-20 19:59:37 | 日本最古鉄道
7feaab64.jpg4月11日号「汽笛一声は新橋駅ではなかった」の中で、旧新橋停車場について、「鉄道の発祥は、新橋駅ではなく、横浜=品川間であった」ことを書いたのだが、先週末、横浜旧市街に行く用件があり、その旧横浜駅を探した。場所は今のJR横浜駅とは全く異なり、京浜東北線(根岸線)「JR桜木町駅」の、ほんの少し関内駅方向に進んだ高架の下で、記念碑が残る。そして、またしても奇妙な場所に駅があることで、考え込むのである。

新橋駅の場所を決める際にも諸論があり、「外人は不便な場所で降ろそう」という考え方があったにもかかわらず、たまたま接収していた「会津藩・仙台藩の大名屋敷の敷地」があったという現実的な事実が勝り、汐留に駅ができたのだが、another side の横浜駅も中途半端な場所にある。つまり、明治5年の頃は、外人居留地は現在の関内駅の海側(横浜球場の先)にあり、徐々に、元町の丘の上の方にある山手地区に移りつつあったはずだ。そして輸出入も関内で行われていた。従って、この鉄道の始発を、あと1キロ近く関内方面に伸ばした方が、乗客にしても、貨物輸送にしても便利だったはずなのだ。

そこで、何らかの理由があって、この少しのスキマを作ったのではないかという疑問がわいてくる。が、それ以上、何かよくわからないままで、もやもやとしていた。しかし、そのあと、関内の歴史的町並みを歩いていて、不意に出くわしたある資料館に入ると、いくつかの問題がつながって見えるようになってきた。その建物とは、横浜税関の資料室だ。ちょっとしたミュージアム造りになっている。特に、税関が最初に置かれた頃の事情を探す。


もともと鎖国状態だった江戸幕府が米国との交易を開始したのは1858年の「日米修交通商条約」に始まる。そして、開国港を5ヶ所指定したのだが、それと同時に設けられたのが、「運上所」という通関組織である。米国側の資料にも、横浜に「Kanagawa custom」 があり、「Yakunin」がいたと記載されているそうだ。もしや「Yakunin」は最初に英語になった日本語なのかもしれない。

そして、修交通商条約に記されているのだが、「輸入禁止品」の項があり、幕府が「麻薬類」の輸入禁止にやっきになっていたことがわかるのだ。当時、中国はインドから持ち込まれたアヘンにより完全に麻痺状態になり、以後の列強の侵略を許すことになっていくのだが、そういう中国の情報は日本にも伝えられていたのであるのだろう。幕府が何より恐れていたのが、麻薬の輸入と江戸市内への流入であったろうと考えられるのである。逆に言えば、麻薬にばかり気をとられて不平等条約に気付かなかったのかもしれない。

神奈川運上所はその後、明治4年に横浜税関と名前を変えるが、最大の問題は、関税の算定、密輸防止と麻薬取締りであったのだろうと想像できる。したがって、東京直行便の鉄道始発駅「横浜駅」が、関内と若干の距離をおいた桜木町に作られたのは、そういう、禁制品の東京流入防止のハザードの目的ではなかったかと想像するのである。


ところで、駅の位置の問題の他、新たに横浜=東京間の路線について、付帯的な問題が二点、見えてきたのである。一つは、品川周辺の問題であるが、一部の路線は、海上を走っていたというのだ。理由として、当初の予定地が薩摩藩の藩邸内を通るというのである。そのため、海上に架橋を作って鉄道を通したというのだ。この話、何気なく聞けば、その文字通りなのだが、いくつかの幕末の史事と関連させて考えると、勝海舟と西郷隆盛の会談が行われた場所ではないだろうかと思いつくのである。そして、藩邸が邪魔な位置にあるということは、海岸までが薩摩藩の土地、すなわちプライヴェート・ビーチだったのだろうか。これは、もう現場を確認しなければと思ってしまう。(歴史物をさぐりにいくばあい、「いきあたりばったり」方式は難しい。およそ調べていかないと、目的地の手がかりが現存していないからだ。まさか品川区をくまなく歩くわけにはいかない。そういう意味で直ぐには出かけない。)

そして、もう一つの謎を調べているとある人物に行き当たることになった。旧横浜駅(現桜木町駅)から現東神奈川駅(旧神奈川駅)方面に線路は伸び、その先、川崎、品川と進むのだが、桜木町の先(現在の横浜駅も含めて)は、海(入り江)だったのである。そして線路をつくるために、一帯を埋め立てたのだが、その事業を行ったのは、ある個人なのである。「高島嘉右衛門(かえもん)」。時に39歳の青年実業家なのであるが、彼のことを調べれば調べるほど現代のある人物と重なってくるのである。その現代の人物とは「堀江貴文」なのであるが、それは次回に回す。

汽笛一声は新橋ではなかった!

2005-04-11 20:17:38 | 日本最古鉄道
b375128d.jpg汐留再開発で生まれた街を総称してシオサイトというのだが、高層ビルが林立した一角に2階建ての石造り風の洋風建築が再建された。旧新橋停車場を模した建物で、その中に「鉄道歴史展示室」が入っている。

一般に、鉄道は新橋=横浜間に運行されたのが最初とされ、明治5年10月14日(1873年)、明治天皇を乗せた御覧列車が新橋=横浜間を往復した日を記念して10月14日を鉄道記念日という。いきなり天皇陛下が文明の利器に乗るというのも「ちょっと変だな?」と引っかかるものがある。現代で言えばリニアモーターカーのようなものだ。そしてもう一つ、かなりこどもの頃から謎に思っていたことがある。それは、「なぜ始点が東京駅でなく新橋駅だったのか」ということだ。そして、その謎を解くために、入場料無料の鉄道歴史展示室の資料にあたったのだ。実は、目的の新橋駅選定の理由にはおぼろげしか肉薄できなかったのだが、もっと驚いたことに、最初の鉄道は、新橋発ではなかったことを発見したのだ。実に、会社の昼休み3回を使って足を運んで調べた。(その割に書き栄えは?だが)

何しろ、明治5年当時の事情につき、丹念に資料にあたると、いくつかの食い違う記載があることがわかる。明治は遠くなりにけりだ。そして、乗車運賃の表などを見ていてやっとわかったのだが、日本で最初に鉄道が走ったのは、明治5年5月7日である。そしてその時の区間は、横浜=品川の2駅間である。要するに部分開業である。そして、4ヶ月間の商業運転の後、品川=新橋間が開通した。既に運行している列車なので、明治天皇も安心して乗車することができたわけだ。

5月7日の早朝に横浜駅から汽車は走り出し、途中駅なしで品川まで約1時間で到着する。その後まもなく、横浜=品川間に神奈川と川崎という2駅が誕生。そして4ヵ月後に新橋まで鉄道ができたわけだ。実際に鉄道が新橋まで延伸したのは記録上は9月12日なのだが、後に太陽暦に換算され10月14日に改められている。途中駅が品川、川崎、神奈川というのは、今の東海道線(湘南電車)とほぼ同じだ。時間は1時間強で1日6往復。料金は上等が1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘だ。当時は米1斗(15kg)が37銭5厘だそうだ。下等でも米15kgとイコールということは8,000円くらいと考えられ、かなり高い。が新幹線に1時間乗って静岡まで行くと12,000円くらいだから、それほどおかしくもない。


「汽笛一声新橋を」は鉄道唱歌だが、この唄が発表されたのは、27年遅れて1900年である。すでに、東海道線も東北線も中央線も開通していて、唱歌の中で各線ごとに駅が順に紹介されていくのだが、最初が新橋駅ということだ。そして、当時は東北線は上野が始発で、中央線が東京になっていた。要するに各線バラバラで不便だったわけだ。欧州の大都市ではよくある形態だ。

現代でも、鉄道路線の予定地選定となれば混迷するのだが、当時も鉄道路線については大論争があったわけだ。技術的には、なるべく海岸線に近いところを走れば、資材の運搬に便利だし、平らである。しかし、これに反対したのは、「漁民」である。要するに、魚が逃げるということだろうが誤解だ。それで、若干海から離れたところに線路が敷かれた。そして、問題の新橋駅の場所だが、いくつかの要素がある。

まず、今でも「外国人(投資家)打払い令」を出しかねない政党もあるぐらいだが、当時も外人問題があったそうだ。外人が多く住む場所の一つは横浜である。そして東京市内では築地居留区である。現在の聖路加病院や新阪急ホテルのあるあたりだ。築地に近いところに駅を作ると、外人がどんどん横浜から東京へ入ってくるではないかとの危惧を持つ筋がいたわけだ。その人たちは、今の浜松町のあたりを終点に考えていたらしい。これも無論、誤解だ。また兵部省は浜離宮のあたりを海軍基地にしようとしていて、そうなると浜離宮より品川寄りの浜松町止まりにしなければならなかった。もし浜離宮から内陸に向って海軍基地になっていたら現東京の都市機能は大いに変わっていたはずだ。

ところが論議が密室で続けられている間に、線路より先に駅舎の用地が決まってしまったのだ。それが、この汐留の銀座寄りの場所である。そこにあったのは二つの大名屋敷で、一つは会津藩、もう一つが仙台藩であるが、どぢらの藩も官軍ではないため、おそらく政府に没収されていたのだろう。結果として、築地に近い新橋に駅ができ、あっという間に線路が敷かれたため、浜離宮が海軍基地になることはなかった。その新橋駅は、現在の東海道線より少し海寄りに位置するため、さらに都心まで延伸しようとすると新橋遊郭をなぎ倒す必要があったはずだ。そういうのはいつの時代でもなかなか立ち退かないものだ。

そして、時代は移り変わり、現代の「旧新橋駅停車場」は、一見石造りの鉄筋コンクリート石張り仕様で復活したわけだ。しかし、「駅舎」そのものを忠実に復元することは可能でも、その駅までの「線路」を復元することは極めて難しい。なにしろ、新橋停車場から横浜方面に線路を敷き直すためには、いくつか邪魔なビルを取り壊す必要がある。まず最初に倒すのは、完成したばかりの高さ215メートル43階建ての汐留シティセンターだ。次に倒すのがロイヤルパークホテルと日テレのビルだ。駅舎の横の松下電工ビルは倒さなくても支障がないと思われるのだが、こちらは松下電産と経営統合するのでビルが不要になる可能性があるのかもしれないのだ。