3.11から2年が経ち、もちろん被災地に住んでいた人たちは、すべてなにがしか人生の方針が変更となり、被災地に住んでいなかった人たちも、それぞれ心の落ち着きが戻っているのだろうが、その二つのグループの間を、いまも行き来している人たちも多い。
相田みつを美術館で開催していた『3.11 時のイコン-六田知弘写真展(東日本大震災の記録)』。
まず、驚いたのは、写真家が現地を訪れたのは震災後3週間だったということ。そして、本来はカメラを通して気持ちを伝えるべきプロが、「写真を撮れなかった」と回想していること。写真を事実報道として伝えるべき報道カメラマンすら何を写すべきか何を写さざるべきかを迷ったような事態の中で、被写体と作品の間にアートの心を入れるべき立場として、心の整理がつかないままカメラの乱れ打ちみたいなことはできなかったのだろう。
その後、数ヶ月おきに現地を訪れ、風景と言うよりもむしろ、既に誰のものとも言えなくなった置き忘れられた日常品たちの画像を収集することにより、地震の記憶とすることに写真家の方針は決まっていく。
それらの遺された物品は、その瞬間までは、所有者の明確な衣類であったり愛用品であったり、記念品であったのだ。そして、その瞬間から後は、所有者の手を離れ、それぞれ別々の運命を辿ることになったわけだ。
相田みつを美術館で開催していた『3.11 時のイコン-六田知弘写真展(東日本大震災の記録)』。
まず、驚いたのは、写真家が現地を訪れたのは震災後3週間だったということ。そして、本来はカメラを通して気持ちを伝えるべきプロが、「写真を撮れなかった」と回想していること。写真を事実報道として伝えるべき報道カメラマンすら何を写すべきか何を写さざるべきかを迷ったような事態の中で、被写体と作品の間にアートの心を入れるべき立場として、心の整理がつかないままカメラの乱れ打ちみたいなことはできなかったのだろう。
その後、数ヶ月おきに現地を訪れ、風景と言うよりもむしろ、既に誰のものとも言えなくなった置き忘れられた日常品たちの画像を収集することにより、地震の記憶とすることに写真家の方針は決まっていく。
それらの遺された物品は、その瞬間までは、所有者の明確な衣類であったり愛用品であったり、記念品であったのだ。そして、その瞬間から後は、所有者の手を離れ、それぞれ別々の運命を辿ることになったわけだ。