カール・ユーハイムと木見金治郎

2006-11-30 00:00:02 | カール・ユーハイム物語
このブログでは、いくつかの個人についてその人生をトレースしているのだが、特に力を入れた一人にカール・ユーハイムがいる。日本のバウムクーヘン王。

非常に簡単に彼の人生をまとめると、1886年ドイツに生まれ、幼少の頃にビール醸造業者だった父を亡くし、菓子職人の修業を積む。20歳の時に、ドイツが中国から長期租借していた青島(チンタオ)に渡り、ドイツ人街で菓子職人として仕事を始める。1914年、27歳の時、ドイツ人女性(エリーゼ)と結婚。

しかし、まもなく第一次大戦に突入し、青島は日本軍に占領されることになる。カールは捕虜となり、日本の大阪(後に広島)の収容所に送られる。その後、終戦となり1918年に釈放となるが、彼は妻子とともに日本に残る決意をし、明治屋銀座本店のドイツ料理店の菓子部門のマスターとなり、バウムクーヘンを焼き続ける。

そして、ある程度の蓄えができた1922年に独立し、横浜関内に、始めての店(ドイツ料理店)を出す。ところが、まもなく関東大震災が発生し、あとかたもなく店舗は壊滅。無一文で神戸に避難。

そして、彼ら一家は神戸で若干の幸運に恵まれ、三宮に喫茶兼洋菓子店を出店し、その後、業容を拡大していくのだが、やがて、時局は再び戦争の暗雲に包まれ、夫妻別々の時期に精神的疾患を患ったり、長女が早世し、長男がドイツ兵として出征(戦死)したりし、菓子の原料の配給もなくなり、1945年の神戸大空襲で再び店舗は壊滅。日本降伏の前日、8月14日に六甲山のホテルで天国に向かう。


3ba7a88c.jpg私は、戦争の世紀の大波にもまれた彼の人生を追うため、ある一冊の書物を入手していた。「カール・ユーハイム物語/頴田島一二郎・新泉社」。大変な苦労をして入手したのだが(もちろん合法的に)、相当、読むのが難しい本なのである。エピソードとか、歴史とか、かなり順不同で書かれている。因果関係がわかりにくい。この著者のこともよくわからないままなのだが、教師の傍ら、歌人として数冊の歌集を出版し、若い時分と晩年に伝記をしたためているようだ。

「カール・ユーハイム物語」はその晩年の作なのだが、カールの妻、エリーゼから聴き取った話や、カール・ユーハイム社の資料などから書いているのだろうが、何ヶ所かに年代的因果関係とか地理的関係とか疑問を感じていた。もちろん、一般的に、伝記には思い切って著者が補完、推論を入れなければ完成しない場合もあるが、読むだけならともかく、底本として、まとめ直そうというなら、今度はその人間の責任になる。

そのいくつかの疑問の一つが、神戸時代のエピソードとして、関西の将棋指しで、阪田三吉と人気を二分していた木見金治郎についての記述だった。頴田島は、著書の180ページから181ページにかけ、こう書いている。


<カールとチェス>
 夕方になると三宮バーに出かけるのは、ビールのためばかりではなかった。一つにはチェスの相手探しもあった。チェスともなれば時間はまたたく間にたつ、その末が店から女の子の迎えになるということだ。店に来るドクター・フォクトなども、つかまるとどこでも相手にされる。カールの坐る椅子は定まって三番テーブル、背中にナショナルのレジスター。その席で来客とチェスを闘わせている姿はよく見かけられた。
 大阪にいた将棋の木見金次(ママ)郎が店に来た時など、待ってたとばかり、チェスの相手にした。しかもカールの方が強かった模様で、「マツサン、負ケテモ、勝ッテモ、私オ金出シテ、食事サスノ」と、アマさんにいっていた。
エリーゼが病気静養にドイツに帰国中など、店から帰ってマツの料理で食事をすますと、
「サヨナラ」といっては、どこにともなくよく出かけていった。そして、朝になって帰って来たりした時は、
「私、東京ニ行ッテ来マシタ」と冗談と、はっきりわかる言い方でマツを笑わせ、朝食をすまして店に出かけるのだったが、それもチェスに思わず夜を明かしたのかもしれない。
 エリーゼがいたら、あまり遅くまでチェスに打ち込んでいると、電気を消されてしまうのだから。

最大の疑問は、「しかもカールの方が強かった模様で、・・・」というくだりで、実感として、将棋八段ともあろうものが、将棋とほぼ同じようなゲームであるチェスで、素人のカールより弱いというようなことがあるのだろうか?ということ。そして一つ疑いだすと、この底本に、疑問の数々が浮かんできていた。

まず、銀座に行くと、本に記載された何軒かの老舗の位置関係が違う。横浜では、書かれたとおりの場所では、関東大震災の時の記述との関係で若干無理がある。大阪の捕虜収容所から新築の広島の似島収容所への移送も、スペイン風邪流行のためとなっているが1年異なるとか・・

そういう部分を一つ一つ調べながら、新たなカール・ユーハイムを組み立て直さなければならなかったわけなのだ。

3ba7a88c.jpgそして、一方の木見金治郎も謎の多い人物なのだが、先日、やっとおぼろげな年譜が描けた。

1878年、岡山県倉敷の古鉄商の家に生まれる。カール・ユーハイムより8歳年上。その後、20歳頃までは実家でブラブラしていて、賭け将棋をしていたようだ。ところが、後の名人、関根金次郎という大強豪の前に一ひねりされ、古今の定跡書を読み、将棋の勉強を始める。1914年に家業を捨て37歳で東京に出てプロ棋士になる。その頃、カールは青島で結婚し、運悪く、第一次大戦で捕虜となる。

そして、戦争が終わった頃、再び古鉄の相場が上昇し、木見は大阪に戻り古鉄商を再開するが、将棋と力仕事の両立は難しく、うどん屋を開業し、弟子に出前持ちをさせながら、将棋棋士の道を進む。当時、大阪朝日の阪田三吉に対抗し、大阪毎日のスター棋士になる。その頃、カール・ユーハイムは関東大震災に罹災し、無一文で神戸に逃れてくる。

頴田島の記述の中で、エリーゼの帰国中に三宮バーで木見とチェスに打ち込むと書いているが、エリーゼが病気療養でドイツに帰った時期は、1926年から1927年なので、ユーハイムの神戸の店が軌道に乗った頃だし、木見にとっても、比較的平和で順調な時期だったはずだ。

そして、その後1937年に木見は東京に上京し、名人戦リーグに参加する。そして惨敗。また、同年、盧溝橋事件が勃発し、そのニュースを知ったカールは近づく戦火を予想したのか情緒不安定となり、入退院を繰り返すようになる。二人の二つの事象が関係あるのか、ないのかはわからない。

カールは1945年、58歳で亡くなり、8歳年上の木見は1951年、73歳で亡くなる。弟子に大山康晴、升田幸三という巨星を得る。向こうの世界ではカールの方が6歳年上になる。

頴田島は、チェスではカールの方が木見より強く、カールが勝っても、相手に食事を奢っているように書いているのだが、おそらく、木見の前歴から言えば、木見が賭けチェスで勝っていて、カールに食事代を払わせていたのだろうと推測できる。カールは、遅い帰宅の際、家人らに心配させないように言い訳をしていたのだろう。と、深読みして、微笑みたくなる。

そして、今頃は、あちら側の世界で、二人でチェスを楽しんでいるのだろう。ただし、持ち時間はいくらでもあるのだが、食事代を賭けるわけにはいかない。

ボードゲームにもドーピング検査が・・

2006-11-29 18:00:59 | スポーツ
ロイターがチェスのドーピング検査問題をとりあげていた。

アジア大会=新競技のチェスにもドーピング検査
[ドーハ 28日 ロイター] 来月ドーハで開幕する第15回アジア大会では、新たに正式競技となったチェスの代表選手にもドーピング(禁止薬物)検査が行われることになった。国際チェス連盟(FIDE)が28日に発表した。
 ただFIDE幹部によると「一体どの薬物にチェス選手のプレー改善作用があるのかは見当がつかない」という。
 今回の決定は、チェスを将来オリンピック競技に昇格させるための布石にしたいFIDEの思惑もあるとみられる。
(ロイター) - 11月29日14時2分更新

”どの薬物にチェス選手のプレー改善作用があるのかは見当がつかない”→見当がつかないということはなく、見当はついているだろう。例えば、認知症で投与されるドネベジル(アリセプト)とか、ドーパミン、ノルアドレナリン、セロトニンといったモノアミン神経伝達物質が思い当たる。また、オピオイド(脳内麻薬様物質)という怖い物質もある(恐怖感を取り除く)。

ところが、どのクスリにもかなりの副作用があり、また、習慣性があり、やめるとボーっとしてしまうわけだ。


しかし、見方を変えてみると、どのクスリが禁止薬物になるか、ということが公表されたならば、逆に、そのクスリが脳に効く、ということを明らかにするようなことになるわけだ。それによって、大学入試の前に「ドーパミンドリンク一本飲んでおこう」とかということにならないことを祈っておく。

もちろん、チェスの世界に限らず、将棋や囲碁の世界だって、「名人位を取れるなら、寿命が20年短くなっても、廃人になっても構わない」と思っている棋士は多い。いずれ、対局後に尿検査が必要になるかもしれない。

が、羽織や袴といった嵩張る和服は、尿検査をごまかすための手品のタネのような怪しい仕掛けを仕組むにはもってこいというような気もする。  

イグ・ノーベル賞日本人受賞者

2006-11-29 06:34:19 | 市民A
268c75f8.jpgノーベル賞のパロディ版とも言えるイグ・ノーベル賞は1991年に創始されてから16年となる。ノーベル賞が6部門なのに対して、約10部門である。「約」というのは、もっと多かったり少なかったりと、適当だからだ。そして、日本人にとっては、本物のノーベル賞よりも、もっと頻度高く受賞している。有名と無名が混じる。

1992年 医学賞 神田不二宏(資生堂研究員)ら
 「足の匂いの原因となる化学物質の特定」という研究

1994年 物理学賞 気象庁
 「地震はナマズが尾を振ることで起こるという説の検証」という7年間にわたる研究

1995年 心理学賞 渡辺茂(慶応大学教授)ら
 「ハトを訓練してピカソの絵とモネの絵を区別させることに成功」

1996年 生物学的多様性賞 岡村長之助(岡村化石研究所)
 「岩手県の岩石からミニ恐竜、ミニ馬、ミニドラゴン、ミニ王女など1000種類以上に及ぶミニ種の化石を発見したこと」

1997年 生物学賞 柳生隆視(関西医科大学講師)ら
 「人がガムを噛んでいるときに、ガムの味によって脳波はどう変わるのか」という研究

1997年 経済学賞 横井昭宏(ウィズ)、真板亜紀(バンダイ)
 「たまごっち」により、数百万人分の労働時間を仮想ペットの飼育に費やさせたこと

1999年 化学賞 牧野武(セーフティ探偵社)
 「夫のパンツに吹きかけること」で浮気を発見できるスプレー”Sチェック”を開発した功績
 
2002年 平和賞 佐藤慶太(タカラ)、鈴木松美(日本音響研究所)、小暮規夫(獣医師)
 犬語翻訳機「バウリンガル」の開発によって、ヒトとイヌに平和と調和をもたらした業績

2003年 化学賞 廣瀬幸雄(金沢大学教授)
 「ハトに嫌われた銅像の化学的考察」。兼六園内にある日本武尊の銅像にハトが寄り付かないことをヒントに、カラス除けの合金を開発。

2004年 平和賞 井上大佑(会社経営者、大阪府)
 「カラオケを発明し、人々に互いに寛容になる新しい手段を提供した」業績
 
2005年 生物学賞 早坂洋司(オーストラリアワイン研究所)
 「131種類の蛙がストレスを感じているときに出す特有のにおいを全部嗅ぎ分けてカタログ化した」、骨の折れる研究『においを発するカエルの分泌物の機能と系統発生的意義についての調査』

2005年 栄養学賞 中松義郎(ドクター中松)
 「34年間、自分の食事を撮影し、食べた物が脳の働きや体調に与える影響を分析したこと」

結構、日本人にとっては、ノーベル賞よりも広き門かもしれない。まじめな製品が多いようだ。たまごっち、カラオケ、バウリンガルなどだ。いくつかは、もう少し調べてみたいような気もするが、徒労に終わるような気もする。

そして、ドクター中松、34年間ご苦労様です。

そしてバウリンガルとは犬語を人語に翻訳するものなのだが、人語を犬語に変換する方が難しいだろう。次は、そういうのを開発してほしい。

そういえば、ノーベル賞落選者である村上春樹氏の「海辺のカフカ」には猫と話せるナカタさんなる登場人物がいる。作者になりかわり、ナカタさんにも何か賞を考えてもらえないだろうか。  

狂犬病報道の怪

2006-11-28 00:00:06 | 市民A
0155182a.jpg日本国内で36年ぶりの狂犬病による犠牲者が相次いで二名発生した。いずれもフィリピンで犬に噛まれたのが原因とされている。致死率は極めて高い。一方、韓国での鳥インフルエンザの大量発生のニュースも流れる。恐怖感を煽られても、理性をもって冷静に考えなければならない。

まず、狂犬病と鳥インフルエンザの問題は、大きく質が違うということ。

狂犬病は古来から存在する既知のウイルスによるものであり、ワクチンがある。致死率が高いというのは、発症してからの話で、犬に噛まれてからワクチンを何回か注射すれば、なんとか助かることが多い。ウイルスの体内での増殖速度は比較的遅い。脳に到達するまでの時間内にワクチンが効けば助かる(つまり、顔を噛まれるとまずいが、足先を噛まれれば発症は遅くなる)。そして、噛まれたら、徹底的に消毒することが肝心。

一方、鳥インフルエンザの場合は人間に感染したときのウイルスの変異に合わせてワクチンを後追いで作り続けることになるから、怖いわけだ。どれくらい怖いウイルスになるかは、今の所、誰にも予見できない。

さらに、多くの報道に登場する数字として、フィリピンの狂犬病死者が毎年数百人いて、世界全体では毎年5万5千人がなくなっているという推計が紹介されている。

読売:比でかまれ、60歳代の男性重体(2006年11月22日)
・・・フィリピンでは、年間250人前後が発症。世界保健機関(WHO)の推計では、狂犬病による死者は世界で年間約5万5000人に上り、インド、中国などで特に多い。・・・


朝日:横浜の男性が狂犬病発症「比で犬にかまれた」(2006年11月22日)
・・・厚労省は「狂犬病による死者は世界で年間5万5000人とも推計されるが、海外に渡航する日本人は増えており、36年間もなかったことが驚きなのかもしれない」としている。・・・


毎日:狂犬病「過去の病気」油断禁物…世界では年5万人超死亡(2006年11月21日)
・・・世界保健機関(WHO)などのまとめでは、狂犬病による死者は世界で年間5万5000人と推定される。このうち、3万1000人がインドや中国、ミャンマーなどのアジアで、残りの大半はアフリカだ。逆に近年狂犬病が発生していないのは、日本のほか、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイ諸島、イギリス、スウェーデンなど12国・地域に過ぎない。・・・


産経:狂犬病 予防の重要性を忘れるな(2006年11月19日)
フィリピンでイヌにかまれた京都の男性が、「狂犬病」を発病して死亡した。世界では毎年、狂犬病で5万5000人が、命を落としている。ワクチンを打たないで発病すると、100%死ぬ恐ろしい感染症である。・・・


wikipedia:(2006年11月27日現在)
・・・流行地域はアジア、南米、アフリカで、とくにインドでは毎年30,000人が発病して死亡、全世界では毎年50,000人が死亡している。・・・

世界最大級の国の数字と世界全体の数字に違和感がある。そして、調べていたらWHO(国連・世界保健機関)に1999年の統計があった。加盟193ヶ国中、93ヶ国のデータだが、中国、インド、アメリカ、ブラジルなど主要人口大国のデータは入っている。狂犬病(rabies)について、人間の感染者と動物の感染個体の両方の数字が表に書いてある。

私の拙い英語力では解読できないのかどうかわからないが、人間の感染死者数は1,866名のように読める。問題のフィリピンは401人。次が中国で341人、パキスタン188人、ネパール159人、インドネシア135人、・・・アメリカ75人、・・・日本0人。うつされた原因動物別には、犬1,325頭、猫17頭、コウモリ15頭、・・・不明494

そして動物感染数の方が、34,141頭となっている。最大頭数は米国で7,067頭(アライグマ、スカンク、コウモリなど)ブラジル6,130頭(犬と牛など)、ロシア2,484頭(各種動物)、フィリピン1,995頭(犬)・・・日本0頭。

なんとなく、まあ、人間も動物の一種と思えばいいのかもしれないが、どこかで人間と動物の数字の間違いがあるのではないだろうか・・


ところで日本ではすべての飼い犬には登録義務があり、また狂犬病のワクチンを接種する義務がある。しかし、実際には、登録されている比率は約70%と推定されていて、さらに登録数のうち、ワクチン接種率は74%である。つまり、犬全体のちょうど50%しかワクチンが接種されていないことになる。国政選挙の投票率が60%の国にお似合いの数字であるが、ことは選挙より重要であるわけだ。前述のWHOの意見では、接種率が70%以上ないと、海外からウイルスが侵入してきた時に国内で押さえ込むことができないそうだ。つまり、犬の登録率とワクチンの接種率の両方を上げなければならないわけだ。

一方、日本は島国であるのだから、国内に感染犬を持ち込まなければいいではないか、という単純な発想もある。もちろん、それが守られればいいのだが、以前、稚内にカニを食いに行って、あぶないなあ、と思った光景がある。

ロシアのカニ船が来航した時なのだが、ロシア船には家族で乗船している例が多いのだ。そして、着桟すると、カニの荷揚げの一方、船員家族一同が陸地に上陸し、短いくつろぎの時間を過ごすのだが、その傍らには船から降りてきた大型のロシア犬が走り回り、地元の人間(物売り)や犬たちと交流をはかっているのである。もちろん、中には、久しぶりの陸地に狂喜して、どこかに逃亡してしまう犬もいるのではないだろうか。

そして、ワクチンをサボっている飼い主への忠告なのだが、「飼い犬が他人を噛んで狂犬病をうつした場合、その賠償責任は犬の方ではなく、飼い主の方であり、その場合、仮に個人賠償責任保険に加入していた場合でも、”事故防止のための重要な努力を怠った”とされ、適用が可能かどうかよくわからない」ということを書き加えておく。  

冥王星、イマイチ

2006-11-27 00:00:04 | 音楽(クラシック音楽他)
4b0b7830.jpgホルスト・組曲「惑星」(マシューズ作曲「冥王星」付き)をアサートン指揮/BBCウェールズ・ナショナル交響楽団で聴くというか観るというか・・

最近、クラシックもDVD盤を探している。といっても、まだ少数派だ。名演というのはマスターテープに残っているが、ヴィデオ画像が残るものは僅かだし、古い画像は画質にも問題がある。カラヤン物が先行してシリーズ化されて発売されているが、個人的にはカラヤンが好きでもない。バーンスタイン/ニューヨークフィルのシリーズが出てきたので期待しているが、ちょっと高い。この組合わせのモーツアルトの交響曲40番のCDは絶品なのだが、DVDで発売されるのだろうか。

さて、有名な「惑星」に、最近、惑星失格宣告された「冥王星-再生の神」がおまけに演奏されることが多くなっていたのだが、DVDを入手。「冥王星」はマシューズさんという現代の作曲家の手になるのだが、このDVDでは6分14秒である。火星、金星、水星、木星、土星、天王星、海王星と7つの星をイメージした各曲とほぼ同じ時間である。つまり、もともと、この組曲の最後に付け加えるために作られたものなのだろう。

ところが、この「冥王星」だが、評判が悪い。「ない方がいい」という声が多い。そして、実際に聴いて見ると・・・

「ない方がいい」。

もともと、冥王星のことなどほとんど解ってないのにイメージを形成しようとうのが無理な話。他の惑星は、1曲ずつに覚えやすい基本的主題があり、安心して聴けるのだが、この冥王星は短い時間内に、いくつかの主題が登場し、忙しい。早い話が組曲の中の一つではなく、自己完結型になっているように思える。もちろん完成した組曲の後ろに追加する、と言うのも寄生虫的なので、作曲家マシューズの沽券もあったのだろうか。いや、冥王星だけを作ったのだから、寄生虫的という範疇であるのは疑いがない。

4b0b7830.jpgだいたい、ホルストは組曲を完成させた段階で、海王星の最後に、組曲の締めを置いたわけだ。誰であれ作曲のツボの一つは、最初と最後である。交響曲であれば、第一楽章の冒頭の部分と第四楽章のクライマックスとエンディングである。その後に誰かが書き加えたらおかしいではないだろうか。

さらに、年譜を追って考えると、ホルストは1874年生まれで没年は1934年。「惑星」は1914年から1915年にかけて作曲されている。惑星の発見順で言うと、目視できない惑星では、天王星が1781年の発見。海王星が1846年。そして冥王星は1930年である。これらを並べて考えてみると、ホルストは40歳の頃に海王星までの作曲を行っていたのだが、56歳の時に冥王星の発見を知るわけだ。つまり、自分で作曲することができたにもかかわらず、追加しなかったわけだ。

それを、2000年になって、冥王星が追加されたのだから、違和感があって当然。「商業的配慮」なのだろうか。

案外、この曲ができたことが理由で、冥王星を惑星からはずしてしまえ、という暴論が通ってしまったのではないだろうか、と邪推までしてしまう。たぶん、音楽の世界でも、この「冥王星」はなくなるのではないだろうか。冥王星が惑星であったのは76年間ということになるのだが、冥王星が太陽の周りを一周するのは249年かかるのだから、僅か30%ほどの期間だった。また、マシューズの冥王星は2000年から2006年までの6年間ということになってしまう。耐用年数は公転周期の2.4%だった。


ところで、冥王星が惑星からはずれることが報道された時に、”銀河鉄道999”の作者である松本零士氏は、「それでも、冥王星の存在を信じる」との迷言を残したのだが、槙原敬之と盗作裁判を始めるようだ(裁判官も多趣味でないとやってられない)。どうでもいいような話がこじれた原因なのだが、槙原側から不用意に出たある発言「銀河鉄道というタイトルだって・・(宮沢賢治を指すのだろう)」で頭に血が上ったのだろう。

北斎風呂敷から発生する光線は

2006-11-26 09:48:25 | 美術館・博物館・工芸品
先週月曜のことだが、両国の江戸博物館で開催されている(~12/10)「ボストン美術館蔵・肉筆浮世絵展”江戸の誘惑”」へ行く。行くといっても「特別招待」である。まず、この日は休館日。実は、スポンサーであるフィデリティ証券の顧客サービスである。何と、この展覧会が「貸切」である。さらに、専門家の方の講義付き。そして、フィデリティといえば投資信託では世界有数の運用規模である。個人的には、何種類かの海外ファンドをここに頼んでいて、村上ファンド並みの成果を得ている(というと資産家みたいな書き方だが、スズメの嬉し涙の話だ)。

夜の部に間に合うように、すっ飛んでいく。ところが、閉館日は博物館の周りも暗く、館内も冷蔵庫のように寒い。やっとたどり着くと、50人弱といったところだ。出品数は68点なので、会場スキスキである。

当日の開館時間の途中に、ある専門家(名前はオフレコかな)の講義があるので、まず、一回観て、講義を聴いて、二度目にまた観るということにする。そして、今回は絶品揃いなのだ。「幻のビゲロー・コレクション」からのセレクト。

まず、現在、江戸の浮世絵は世界に200万枚ほどあるそうなのだ。そしてうち50%がUSAに、30%が日本、20%がEUにあるとのこと。どうしてそういうことになったかというと、江戸末期から明治にかけて日本から流出していったそうなのだ。日本人は浮世絵を美術と思ってなかったそうで、流出したからこそ、名品が残っているそうだ。(ビートたけしも、自著の中で、祖母が浮世絵を凧に改造したのを見て、こどもながら、「これでいいのだろうか」と思った、と書いている)浮世絵はだいたいが1枚20文(400円位)くらいで、売れ行きがいいと10,000枚ほど刷ったらしいので、芸術っぽくなかった(と、いうところが江戸社会の世界に誇るべきすばらしさである。広重1枚400円)。

b146d7cd.jpgそして、浮世絵と肉筆なのだが、浮世絵の原画が肉筆ということではないのだ(そう思っていたのだが)。肉筆は、ようするに金持ち階級が、絵師に高額を払って自分用の絵を描いてもらうことなのである。だいたい10両(10万円)から40両(40万円)位だったようだ。”世界に一枚しかないあなただけの絵画”ということだ(西洋美術ではもともと全部が肉筆ということ)。つまり、浮世絵もいいが肉筆もいい、ということだ。

そして、やはり、今回の作では北斎がすごいのだが、北斎以外の絵師から行くと、まず菱川師宣の「芝居町遊里図屏風」。肉筆のもう一つの特徴は、平面的な紙ではない素材に描く場合である。複製困難な物。屏風は8パートに別れ、右側が芝居観劇の様子で左側が吉原遊郭の図である。登場人物は200人以上300人以下という豪華版。芝居小屋と吉原は二大悪所と言われていたらしいが、芝居を見るのと、買春行為が同列の悪所であったということらしい。この屏風は本物なのだが、偽の師宣の印章が押されているというミステリーのような話になっている。仮に、自宅にこういう屏風があったら、飽くことのない時間が過ごせるだろうと思う気持ちを注文主も持っていたのだろう。

b146d7cd.jpg次に、鳥山石燕の「百鬼夜行図鑑」。妖怪たちが生き生きと自由に振舞う様子が描かれる。いくつかは、ゲゲゲの鬼太郎で見たことがある妖怪が登場する。

さらに、枕絵の絵巻が展示されている。巻物の一部だけが見えるだけなので、まったく興奮しない。一巻が12の図でできているそうだが、浮世絵大衆版の方も、12枚ワンセットで箱に入れてしまっておく。この12で1セットというのが浮世絵の基本。48手というのもこの12からきたのだろう。枕絵の話しを始めると先に進まなくなるので、北斎の話しに移る。

b146d7cd.jpgそして、北斎「鳳凰図屏風」。まず、枕屏風からで失礼。高さが40センチ程度の小さな屏風で、文字通り枕のところに置くもの。そして、本当は、前段の枕絵が描かれているのが多いのであるが、北斎はどぎつい赤と緑で鳳凰の絵を、羽根の一枚に至るまで細かく描く。その真意、誰もわからないそうだ。和服を着たままイタすポーズは「孔雀のポーズ」と言うらしいが、案外、北斎がこの枕屏風で鳳凰のポーズを発明したのが最初なのかもしれない。

b146d7cd.jpgそして、「朱鍾馗図幟」。幟(のぼり)には朱色の鍾馗(しょうき)様が描かれる。北斎晩年となれば、幟1本でも50万円以上が必要だったろう。誰が、何のために幟を発注したか?わからないそうだ。5月の節句か何かだろうか。これは、かなり近くで(10センチの距離で)観える。筆の勢いがそのまま伝わるし、麻布の質もいい。朱色一色で絵を描くというのも、結構難しいはず。線の太細で陰影感を出している。

b146d7cd.jpgそして、「鏡面美人画」。これは古来有名な作で、日本にあれば重要文化財だろうとのこと。右足が描かれてないことや、右手の角度がおかしいことなど不自然さをそのままにして、「北斎」の画風を押し通している。名人に定跡なしだ。

b146d7cd.jpgさらに、今回の目玉の一つが「提灯」二本。「提灯絵 龍虎」「提灯絵 龍蛇」。提灯本体が残ってなく、外に張られている紙の部分だけがボストン美術館に残っていた。あれこれ検討の結果、今回再現してみると、二つのちょうちんの大きさが異なっていた。竜は男性を指し、虎と蛇は女性を指すそうである。これは、製作難易度から言って、値が張るだろう。のしイカ状に展示していたらしいが、これからは常設展示でも特別なガラスケースに昇格になるのだろう。

そして、最後は唐獅子の風呂敷「唐獅子図」。すごい霊気を受けるのだ。何しろ、10センチの距離から観られということは、北斎もそれくらいの距離で描いていたのだからそれを考えると、心臓が鳴り出す。冷蔵庫のように冷えた館内だが、この唐獅子の眼光レーザーを受けると体内からうっすらと汗がにじんで来る。実は、70歳台になった北斎は、一時、毎日1枚の唐獅子を描いていたそうだ。理由は「魔除け」。だから風呂敷に描いても巧いはずなのだ。

b146d7cd.jpg私も、毎日ブログを書き、毎日詰将棋を作ることにしようか。何を除けようというのかはよくわからないが・・(前者は可能だが後者は無理だが)

それより、ボストンに行って、700点全部を観てくるべきなのかな。もちろん、ついでに某投手の視察も兼ね・・
  

木見金治郎の和綴本から

2006-11-25 00:00:23 | しょうぎ
b04fe834.jpg遠い過去に、遠い親戚で大阪方面で囲碁狂いしたのがいた。一応、堅気の世界で人生を全うし、いくつかの址を残した中に、なぜか二冊の将棋の本があり、私の手元にある。一冊は木村義雄の「将棋大観」で、もう一冊が、木見金治郎の「歩式将棋早指南」である。この二冊は、初心者向けの書なので、囲碁の気晴らしに将棋を覚えようとしたのだろうか。囲碁の定石本の方は散逸したのだろう。あるいは廃棄されたか。できれば、日向産榧柾目6寸盤時価500万円でも残してくれたら幸福な気持ちになるのだが、昭和2年の書物では、金銭的価値はないだろう。

和綴じの表紙を開けると、序文があり、本書は、江戸末期の大橋宗英という第9世名人の「将棋歩式」という書のダイジェスト版であることが記載されている。奇妙なのは、序文の最後には、「木見金次郎」と書かれているが、将棋史上は金「次」郎ではなく、金「治」郎ということになっている。内容は、各種駒落ち定跡や、平手定跡で、現代的にはあまり参考にならないが、特筆する点としては、振飛車高美濃囲いに組ませてから、先手の居飛車側が仕掛けの時期を得て▲4五歩と付ければ、それでよし、ということになっている。あとは、腕次第ということだったのだろう。詰将棋も桑原君仲の古典を何題もそのまま使っている。

で、本書のことから少し離れ、木見の人物を追ってみた。ネット上でわかるのは、彼が、大山康晴、升田幸三、という稀代のライバル棋士の師匠であったこと。その升田の兄弟子の大野源一も振飛車の雄で、この3人で現代将棋の門を開いた、とも言えるわけだ。しかし、師匠である木見金治郎そのものについては、なかなか、その生年・没年すらわからなかった。

b04fe834.jpg一方、気になってたのは、自宅に残るこの一冊の本のことであり、さらに、まったく無関係に見えるある人物「カール・ユーハイム」の生涯を調べているうちに、彼と木見とは接点があることがわかる。これがカール・ユーハイムの歴史を調べる上の、一つのトゲになっていた(この件は、いずれ、別の日にアップを予定)。

日比谷図書館で調べていると、天狗太郎氏(将棋評論家)著「昭和『将棋指し』列伝」のある一章が木見に与えられていた。

木見金治郎は明治11年(1878年)6月24日、岡山県児島郡木見村に生まれる。村名と苗字が同じだ。実家は古鉄商である。商売上の都合で9歳の時、神戸に移住する。神戸には製鉄所や造船所などがあり、都合がよかったのだろう。明治初期はどんどん産業が熱くなる時期で人口も増え、内需も伸びる。

その時、十代の金治郎は、何をしていたか・・・。実は、「賭け将棋」である。とんでもない奴なのだ。そして、腕自慢で自分の腕で小遣いをかせいでいたのだが、19歳の時、たまたま神戸に来訪したきた関根金次郎(後の13世名人)に軽くひねられる。19歳の春である。そして、自己流の限界を感じ、定跡書を読みふけることになる。その一つが、大橋宗英だったのだろう。

天狗氏の書には両親のことは書かれていないが、何らかの理由で、古鉄商を引き継いだ金治郎だが、将棋の夢は捨て難く、ついに家業をたたみ、大正3年(1914年)の初夏に東京に出る。関根金治郎の門下に入り、プロ六段。その時、37歳である。40年ほど前までの棋界では、小学校卒業と同時に師匠の家に住み込み、内弟子生活でしのぎを削り、プロになるのが普通だったが、一度社会人になってからプロになる例もあり、中年組とか晩学組と呼ばれていた。この37歳というのは、もっとも遅くプロになった例かもしれない。関根から教わったのが「将棋」ではなく、「飲む打つ買う」だったことが、プラスだったかマイナスだったかは知らない。

ところが、時勢は第一次大戦後の武力増強期。古鉄価格が急騰。親戚の古鉄商に請われて、再び大阪に戻り、棋士と古鉄の二足のわらじを履く。が、人気棋士に力仕事のビジネスの余裕もなく、結局、大阪伏見五丁目の自宅に「大音」といううどん屋を開業する。大野源一は出前をやらされていたそうだ(大山・升田も内弟子だったが、まだ少年だったはずで、うどんの配達は免れたようだ)。

そして、東京では関東大震災が起こり、カール・ユーハイム氏も一文無しになって神戸へ逃れてくるわけだ。

b04fe834.jpgその後、関西棋界は、大阪朝日が抱える阪田三吉と、大阪毎日の木見金治郎の対立時代が続くのだが、昭和10年(1935年)になって、再び上京。名人戦挑戦者リーグに参加する。しかし、既に58歳となっていた木見には、名人への道は遠く、リーグでは2勝13敗と大きく負け越してしまう。その後、昭和17年引退。昭和26年1月7日没。74歳。江戸と現代を結ぶミッシングリンク棋士の一人だ。


さて、前々回出題の詰将棋の解答は、こちらへ。

変化と本筋と感じが違う作。変化部分だけで別の詰将棋に発展できそう・・

b04fe834.jpg今週の問題のヒントは、4手目注意、10手目注意。あまりコクがないのは、渋谷と赤坂見附間の電車内で作成のため。

解けたと思われたら、コメント欄に最終手と手数をいただけば、正誤判定。
  

チクっと痛い御用!

2006-11-24 00:00:18 | 市民A
今月の初めに、東京港区の田町駅近くに本社があるNEC(日本電気)の部内懇親ゴルフで、優勝準優勝者予想の連勝複式の勝馬投票券(馬券)をネット配信した賭博行為に対して、61人が書類送検された。日刊スポーツによれば、・・

1口200円!NEC社員ら賭けゴルフ 
 社内のゴルフ大会で1口200円で成績優秀者を予想させたとして、警視庁保安課は7日、賭博の疑いでNEC(東京都港区)の文教ソリューション事業部の部長(54)を含む社員43人と関連会社の社員18人の計61人を書類送検した。
 部長は「軽い気持ちでやっていたが、今思うと大変なことをしてしまった」と話している。賭けは数年前から行っていたという。
 調べでは、社員らは昨年10-12月に三回開かれたゴルフ大会で、プレーヤーを1-4人1組の枠に分け、スコア合計が少ない枠を予想させる方式で、的中者に配当金を渡す約束で1口200円の賭博をした疑い。
 合計537口集まり、的中者には2000-3000円の配当金が渡された。業務用の電子メールで「馬券」と称する申込書を配布し、実際にゴルフをプレーした40人のほか、21人が投票だけ参加していた。
 NEC広報部は「真摯(しんし)に反省するとともに社員の倫理意識を高めていきたい」としている。[2006年11月7日11時42分]

4e1512df.jpgしかし、水揚げ額10万円のこの行為が、問題というなら、この程度の法律違反など数限りなくあるのではないだろうか。少し詳しく考えてみる。

さっぱり情報はないのだが、「社員43人と関連会社18人」、「プレーした人数40人と馬券購入だけの21人」というのは、社員のコンペの馬券を関連会社の社員に押し付けたと読むべきなのだろうか?それだと、下請いじめということで、下請法とか優越的地位の濫用に該当するような気もする。

賭博行為に適用されるのは刑法である。
第185条 賭博をした者は、五十万円以下の罰金又は科料に処する。ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない。

一時の娯楽に供するものとは、昼食1回とかを指し、現金は指さない。さらに、馬券には胴元が必要である。さらに常習者には刑が重い。
第186条 常習として賭博をした者は、三年以下の懲役に処する。
 2 賭博場を開帳し、又は博徒を結合して利益を図った者は、三月以上五年以下の懲役に処する。

4e1512df.jpgつまり、罰金刑がつかないほど重い罪のわけだ。さらに、時効は3年である。

NECの例だと、「過去からやっている」と自供したということは、常習犯であり、さらに胴元は開帳の罪にもあたる。オツトメ先が変わるかもしれないわけだ。

そして、あきらかに警察に通報したのは「チクリ」なのだろうが、誰がチクッたのかは、結構、話題の中心なのだろう。一説では、いつも胴元をやっているある人物がいつも配当金を持っていくので、ゴルフが終わってから買っているのではないか?と疑われているようである。また別の筋では、社内の派閥争いの一環とも言われる。もちろん、馬券の押し売りがあれば、そこからの反発も考えられる。

それにしても、ゴルフが終わってから1年もしてから書類送検とは、なかなか容疑が固まらなかったのだろうか。「馬券は買っていない」と言えないように、証拠を押さえたからなのだろうか?さらに、書類送検の先に、起訴が待っているのか不起訴が待っているのか。それが問題だ。

そして、「一罰百戒ということなのだろう」と思って調べてみると、いくつかの例があった。百戒になってない。

ウィニーで賭けゴルフ発覚
 近畿日本鉄道は17日、社員35人が、職場のゴルフコンペで現金1000~2000円を賭けていたと発表した。賭けの結果一覧が参加者のパソコンからファイル交換ソフト「ウィニー」を通じインターネットに流出して発覚した。同社は「賭博を禁じた法律に触れる」として全員を処分する方針。
 近鉄によると、35人は奈良県香芝市の五位堂検修車庫に勤務。04年9月、三重県のゴルフ場で開いたコンペで、プレーした20人を8組に分け優勝者と準優勝者のいる組を当てる方式で現金を賭け、35人全員が参加した。的中させた社員は最高で1万6200円もうけた。
 参加した40代の男性社員が、参加者の氏名、賭け金額、払戻額をまとめた「払い戻し一覧」を作成して自宅のパソコンに保存していた。流出したのは今月10日ごろとみられ、同社は15日に外部から指摘を受けて調査していた。週明けにも、奈良県警に事情を説明する。
 この社員は、車庫の電気配線などを示す社内資料も自宅に持ち帰ってパソコンに保存しており、同様に流出した。同社は持ち出し禁止の内規に触れるとして処分を検討しているが、安全上の問題はないという。[2006/3/18/日刊スポーツ]

 長野県警岡谷署は2日、職場のゴルフコンペで賭けをしたとして、賭博の疑いで岡谷市の岡谷塩嶺病院の医師や看護師、OBら計32人を書類送検した。
 調べによると、医師らは4月18日にあった病院のゴルフコンペで、優勝者と準優勝者を予想する賭博をし、一口200円で現金計約4万6000円を賭けた疑い。
 同病院は社会保険庁が設立し、岡谷市に運営を委託。約220人の職員のほとんどが市職員で、市は賭博発覚後の8月、院長と事務長を戒告、医師ら68人を厳重注意の処分にした。
 病院によると、賭博は約15年前から行われ、競馬新聞をまねた壁新聞を作って医局に張り出すなどしていたという。

要するに、賭博というのは、禁止されればそれだけやりたくなりということなのだろうか・・

ところで、問題になっているのは、第三者的な馬券だが、ゴルフでは、よくプレーヤー同士が「握る」ことがある。スコアやパット数やミスショットの数にかけるのだがこれも違法。しかし、果たしてこのタイプの「握り」と「馬券」とではどちらが悪いのだろうか。

ケースによって色々ありそうだが、「どちらも悪い」ということにしておく。

そして、私の知っているある会社も、馬券を廃止したそうだ。役員会で決まったそうだが、議事録には書かれないだろう。その会社では、馬券係を輪番にしていたため、時効まで過去に遡って胴元を牢屋にぶちこんでしまうと、社員がいなくなるという可能性があるということらしい(と、ずいぶん詳しく書いてみる)。ゴルフのプレーフィーの穴埋め財源がなくなった。


ところで、この事件で大量の検挙者を出した日本電気だが、発表された中間決算書を見たが、△マークがたくさん見受けられる。△が多いと、伸び率とか増減とか計算しにくくて良くなっているのか悪くなっているのかよくわからない。

4e1512df.jpgもともと、このNECの場所だが、江戸時代は薩摩屋敷だった。そして大事件が起きたのが旧暦1867年12月25日(新暦1868年1月19日)。焼討ちされたのだ。当時、藩邸には200人ほどいたそうだが、焼討ちの犠牲者が49人捕縛されたもの113人とのこと。30人余は逃げ出したのだろう。そして、その焼討ちから3ヵ月後には、歴史は急転直下動き出し、僅か100メートルの近く(薩摩藩蔵屋敷・言わば倉庫の中)で、西郷=勝会談が行われ、西郷の狙っていた「江戸中を火の海返しにしてやる」ことは免れた。

焼討ち事件の時に捕縛された113人のその後の運命については不勉強なのだが、西郷=勝会談でも捕虜釈放交渉がなかったところを見ると少し心配になる。

たぶん、49人の怨念(113人の方は別として)が、チクったのだろう。


ところで、賭博といえば、虎ノ門交差点付近で、ある建物の工事が行われている。確か文部科学省の新築工事。工事期間中に他所に入居していて事が足りているなら、新築後はテナント貸しすればいいだろうとは思うのだが、さて、工事用テントに何か赤いタレ幕が。少し近づいて見ると・・

6億解禁 日本初!最高6億円くじ BIG

4e1512df.jpg文科省の持つギャンブル枠「toto」である。売り上げの1/2をピンハネし、そのアガリから経費を差し引き、残った収益金をスポーツ団体に配り、さらに余ったら小学校の校庭に芝生を植えて、サッカー選手を養成しようという素晴らしい企画だったが、すべての元になる売り上げが大破綻。経費を引くと、その段階で赤字。それで、カネを配らないと、ただのギャンブルになってしまうため、銀行借り入れでスポーツ団体に補助金をばらまいたため、八方ふさがり。ついに6億円くじの暴挙に出る。文科省らしく、大変教訓的だ。

そういえば、NECの送検された部門も文教ソリューション事業部。何か教育基本法と関係あるのだろうか?

4e1512df.jpg  

オーストリア人は何に怒った?

2006-11-23 00:00:44 | マーケティング
オーストリアがオーストリーと日本語名を変えた。

理由は、オーストラリアと混同するから、というのだが、少なくても私の知っている限り、オーストラリアはオーストラリアでオーストリアはオーストリアで、自分で混同したことはない。確かに、日本人にとってはオーストラリアの方がなじみが深く、オーストラリアの場所を知らない人は少ないだろう。一方、オーストリアはヨーロッパの中部で、少し場所の特定が難しいが、地図を見ると、思っていた場所よりも東側にあることに気付くだろう。その東にある国というのが、「Österreich」で、エステライヒというような読み方になるのだろうか。

運悪く、英語では「Austria」になり、これが日本語名の元なのだろう。英語読みではオーストリアである。

一方、オーストラリアは英語国であり、「Australia」である。ただし、英米人は、オーストレイリアと発音する(現地の読み方は、どうだったか??)

そうなると、本来、読み方を変えなければならないのはオーストラリアではないかと思ってしまうが、二国間交渉でもしなければならないのかもしれない。

オーストリー大使館商務部では、こういうコメントを出している。


Österreich 日本語表音表記 の変更について
残念ながら、日本ではヨーロッパに位置するオーストリアと南半球のオーストラリアが混同され続けております。
この問題に対し、大使館では過去の文献などを参照し検討を行った結果、Österreichの日本語表音表記を 「オーストリー」 と変更する旨、ご連絡差し上げます。
暫くの間はオーストリアとの併記が行われますが、徐々に「オーストリー」の名前は日本の皆様の間に浸透し、定着していくことと存じます。
皆様のご理解とご協力をお願い申し上げます。

さっぱりわからないが、1945年(終戦)まではどうもÖsterreichを、ヲウストリとかオウストリと読んでいたようだ。墺太利と書く。しかし、原音とはかなり違う。というか「Ö」をヲとかオとか読むのは、例のゲーテをギョーテと読むようなものだからだ。

ところで、国名が似ているからといって実害があっただろうか、ということなのだ。確かに二カ国が並んでいたりすると、問題だが、地球の裏側ほども離れている。正月にモーツアルトを聞きに行こうとカンタス航空に乗ったりするはずはないし、コアラを見にいくのにロシア上空を飛ぶこともないだろう(たぶん)。誤ってミサイルを発射されたりすれば・・

問題があるとすれば、混同ではなく、「オーストリアそのものを知らない!」という人間がいるということなのだろう。主に”ハプスブルグ家”として世界史にでてくる地名だ。世界史未履修問題に関係があるのか??また、オーストリア語というのがないのも致命的だ。

国土は北海道より小さいし、人口810万。オーストラリアの方は国土は90倍、人口は2100万人。一人あたりGDPはどちらもいい勝負で結構高い。そして、この二つの国は、かなり異なる産業構造で、オーストリーの方は、木材関係とドイツ企業の部品工場になっていて、自動車や精密機械の部品のようなものを作っている。そしてオーストラリアは一次産品が中心で、鉄鉱石、石炭、牛肉、乳製品、羊毛など。本来、国名闘争などしないで、日豪墺三カ国間FTA協定を結ぶと極めて効果が高いだろう(とは言え、オーストリーは既にEU圏、また農産物のFTAには、日本の少数民族が反対している)。


ところが、先日、自宅で買ってきたある製品に。この二国間問題が登場したのだ。

ワイン

b04fe834.jpgオーストラリア産のワインを買ってしまった。小さな文字でAustraliaと書いてある。裏側の日本語のラベルにもオーストラリアと書かれている。しかし、一方のオーストリアは、古来、白ワインの名産地である。ついに、シマの掟が破られたわけだ。

日本を舞台とした、豪墺ワイン戦争の始まり。

国名で争わないで、価格で争ってほしいものなのだが・・

追記:Yahoo!検索で「オーストリア大使館」を検索すると、「オーストラリア大使館ではありませんか」と注意事項が表示されるが、「オーストラリア大使館」で検索しても、逆の注意は表示されない。 

井伊直弼考(下)

2006-11-22 00:00:59 | 美術館・博物館・工芸品
4d748247.jpg山門をくぐると、広い境内が広がるのだが、広い墓所は左側にある。そして、その墓所の中に、さらに大きな井伊家の墓地がある。以前は門があったようだが、現在では誰でも自由に入れる。行けばすぐわかるように碑が立っている。撮影する前に十分に手を合わせて供養することが大切だ。日本史上10本の指に入る大人物の墓である。桜田門外で襲撃側の水戸藩士らは愛宕山で集結したあと、現場に向かうのだが、井伊家から江戸城内までは5分か10分の距離。毎日正確な出勤が裏目に出たのと、江戸では、正確な時の鐘が機能していたことを示す。

そして、もはや幕末。武士道など関係なく、襲撃の第一弾はピストルが用いられ、大老の乗る駕篭に打ち込まれる。大腿部から腰に弾が貫通したそうだ。その後、駕篭から引き出され、首を落とされたのだが、襲撃側も江戸市中でほとんどが討死。首はその日のうちに井伊家に戻る。

ところが、当時の副首相格だった老中の安藤信正は、直弼の死を隠そうとし、首と胴体が藩医の手で縫い合わされた直弼邸に病気見舞いとして、朝鮮人参を送り届ける。ところがすでに、江戸中がテロを知っていて、いくつかの川柳が残っている。

 いい鴨が、雪の寒さに首をしめ(いいかも=井伊掃部守)
 人参で首をつなげと御使い

よく、歴史の本には、その時、安藤が直弼の死を隠した理由として、藩主が討たれた場合、斬られた方も、斬ったほうも、お取り潰しということになっていて、井伊家と水戸徳川家の両家の取り潰しなどできるわけないので、井伊家が生前に家督相続を行ったことにし、また水戸藩士を全部浪人者として斬り捨ててしまおうと考えた、ということになっている。しかし、もはや、そんな定法など、全国大名に外交政策のアンケート調査をした阿部正弘の時代に完全に失効しているだろうとは私の意見。単に、幕府の次の指導体制が決まっていなかったので死亡時刻をごまかして時間稼ぎをしたのに過ぎないだろうと思っている。(多くの独裁国や小渕総理急死の時も同じようなことが行われたとする噂もある)

そして、安藤も後に襲われ、ほうほうの体で城内に逃げ込んだぶざまさが問題になり、辞任。堀田正睦が老中首座に座るが、直弼に比べ、安藤、堀田ともに軟弱思考で、以後幕府は内部解体してしまう。


直弼の墓石は経年の割りに痛みが激しく、いくつもの傷が付いていて、それは桜田門で撃たれたり斬られたりした怨念の発現といわれている。また右手後ろにある白椿は、花の盛りに、花びらを散らさずに白い花弁そのものが、ポタリと落ちるそうである。

ところで、この桜田門外の変は、政治的クーデターとして、開国派の井伊直弼と尊王攘夷の水戸藩の対決ととらえられているのだが、奇説を読んだことがある。「醤油」に関係のある話だ。

当時、江戸の醤油は、銚子と野田が産地として有名だった。ヤマサ対キッコーマンということ。今もそうだが、江戸に近い野田の方が少し優位だったのだが、野田では醤油の原料である大豆をどこから購入していたかというと、ずっと水戸藩から買っていたわけだ。今も水戸納豆で有名で、大豆は水戸藩のドル箱商品だったわけだ。

ところが、前回触れたように、彦根藩には飛び地があったわけで、下野の佐野に領地があったのだが、ここが大豆を作っていた。そして、直弼は野田の醤油生産者組合に圧力をかけ、水戸藩からの大豆を締め出し、佐野の大豆を押し込んでしまう。それが恨みの原因であるという説だ。農作物問題とか利権問題が裏にあったということらしい。もちろん、そんな話は、公式的にはどこにも書かれていない。これだから歴史はよくわからない。

そして、何の因果か佐野市の大部分は井伊家の所領だったのだが、一部の小さな隣接地は堀田家の領地になっていた。さらに、堀田正睦は自分より若いのに先に出世した井伊直弼(直弼の前任者の阿部正弘はもっと若かった)を恨んでいて、井伊家から10万石を削ってしまう。理由は、桜田門での直弼の死を隠したことが理由なのだが、もう目茶目茶である。その後、頭にきた井伊家は幕府支持をやめ、早々と官軍派に回ってしまう。譜代筆頭が寝返り、また徳川家そのものが恭順してしまったので、東海道に数ある城郭はまったく戦うことなく、官軍の素通りになってしまったのである。

4d748247.jpgその因縁の堀田家の領地は千葉県の佐倉であるのだが、そこにはまた、家康の盟友だった藤堂高虎が飛び地として所領を持っていたらしいのである(詳細未調査)。この堀田家も歴代の藩主の中の一人が暴政を働き、佐倉惣五郎の投げ文事件を引き起こし、腹いせに惣五郎の妻子こどもまで処刑してしまい、以後、亡霊に追い回されていたと言われる。


さて、豪徳寺は井伊家から山門を譲り受けているとは昨日記したのだが、明治以降も財政に余裕があったらしく、ある藩の大名屋敷そのものを購入、境内に移設している。実は、何の因果か、その屋敷は堀田藩の屋敷なのである。あまり古びた感じがないので気付きにくい。なぜ、井伊家の天敵である堀田家の屋敷が豪徳寺にあるのかについて、今のところ、私にはまったく理解できていない。
(了)  

井伊直弼考(上)

2006-11-21 00:00:19 | 美術館・博物館・工芸品
歴史を読むのに、学校では古代から教えていく。因果関係上、歴史小説のように教えられるから、説明上便利だからだ(といってはみもふたもないが)。一方、逆に現在に近い方から昔に向かって進んでいく方法もある。実際、我々が、自分の祖先のことを考えると、まず両親のことに始まり、さらにその両親、さらに一代前と遡っていく。たいてい何代か先でわからなくなるが、由緒正しいのはそこまでということである。そこから先は怪しい限りである。

この遡及法で、日本史を辿ると、いきなり第二次大戦の因果関係ということになり、例の歴史認識問題にぶちあたってしまう。そして、大概はテロルの時代と軍国主義を陸軍のせいにして、長州、薩摩対決という話になり、幕末のところの官軍・幕軍という対決軸でみてしまうのだが、果たしてそれで済むのかよくわからない。

江戸時代も末期になると、江戸初期とはまったくパワーバランスが変わっていて、実際には、老中を中心とした江戸政府という集団官僚体制になっていて、地方の巨大な大名はもはや幕府が一方的に改易とかできない状態になっていた。

そういう危うい構造の中で登場したのが水野忠邦だったのだが、経済政策に矛盾があり不発に終わる。重商主義に向かうための資本が枯渇していた。年貢を上げようにも田畑は荒廃。結局、緊縮財政を図るが、役人の抵抗で破綻。そして、登場したのが、俊英の阿部正弘(1819-1857)。幕府の期待を一身に集めた英才だったが評価が分かれる。国難にあたって、全国の大名にアンケート調査をする。○×式でなく記述式アンケート。八方塞の幕府が再生するならば、彼しかいなかったのかもしれないが日本の針路が決まる最も重要な時期に早世してしまう。いわゆる過労死である。そして次の宰相が井伊直弼(1815-1860)。

そして、直弼が桜田門で斃れた後を継いだのが安藤信正、そして堀田正睦ということになる。安藤も堀田も暗殺されそうになる。総理大臣が連続3人も襲われるのだからひどいものだ。テロルの時代。

そして、歴史上、悩ましい問題は「井伊直弼」の評価なのである。これが大きく異なるわけだ。開国推進派だった。もちろん、長州も薩摩も攘夷といってはいたが、仏英にひとひねりされる。(その時の賠償金のつけを幕府が払うことになり、さらに明治政府が引き継ぐことになった。)その後、明治になって、新政府の役人は、こぞって米国や欧州に視察旅行に行ってしまうのだから、開国の恩人は井伊直弼ということになる。下手をすれば薩英戦争ではなく日英戦争や日米戦争になっていたかもしれない。

ところが、彼の評判が悪いのは「安政の大獄」を行い、開国反対派を押しつぶしたこと。特に水戸藩士は標的になっていて、それが桜田門外の変につながったというのが通説である。水戸藩士は攘夷の他に尊皇思想に固まっていて、話はややこしくなっていく。果たして、直弼の評価は?

15b39cc9.jpg実は、井伊直弼の墓は、彦根にあるのではなく、東京の世田谷にある。小田急の駅名にもなっている豪徳寺に井伊家代々の墓地がある。まずは、供養に行かねばならないか。

その前に、なぜ、世田谷に井伊家の墓があるかというところを押えなければならないのだが、少し、長い。

井伊家は何といっても徳川家康の家臣をしていた井伊直政という大人物が、すべての始めである。まず、信長が本能寺の変で殺された年(1582年)に4万石を得ている。その後、家康の家臣として12万石に加増。当時は三重県(上野)に領地があった。そして、1600年の関が原の戦いで大活躍し、18万石となる。近江の佐和山城に移る。(元々、藤堂高虎の出身地の近江に井伊家が入り、井伊のいた伊賀上野に藤堂家が回ってくる。)

さらに、加増や分家を繰り返し、大坂の役での活躍で25万石となり、彦根に移る。彦根城は現存12城の一つで、付属の彦根城博物館は、名古屋の徳川博物館とならぶ”お宝の宝庫”だ。そして1633年に最後の加増が5万石あり、30万石となるのだが、それは「飛び地の支給」だったわけだ。要するに、単に領地を増やすといっても、領地の隣に空き地があればいいが、お取りつぶしでもなければ、それは無理。もう、全国の色分けができていたわけだ。(井伊35万石とも言うが、本家と分家の合計のこと。実は分家の方が30万石。)

そうなると、そういう少しだけ加増するために、幕府があちこちに持っていた天領をつぎはぎにして飛び地で与えていたわけだ。段々、幕府が貧乏になったのも頷けるわけだ。そして、井伊家に与えられた最後の領地は、関東五万石として、栃木県の佐野と世田谷の15村だったわけだ。なかなか難しいのは、では佐野は実質17,000石で、世田谷の方は3,000石にも満たないとされ、公称5万石、実質2万石ということだったようだ。しかし、この5万石を合わせ、井伊30万石という名目で、譜代大名筆頭というきわめて重要な地位を得るのである。東京に紀尾井町という地名があるが、紀伊と尾張という御三家とカップリングになるほどの地位である。

そして、江戸での井伊家は上屋敷が江戸城のそば、現在の憲政記念館のあたり。そして、下屋敷は遠く離れて、原宿の明治神宮そのものである。この二ヶ所は、徳川・豊臣間の橋渡しをしていて変死した加藤清正の屋敷であり、この清正、井伊直政、そして藤堂高虎、さらに堀田氏は江戸の歴史の後の方まで、因縁をもって絡み合っている。特に、後年、井伊家と堀田家は政治の場で大小数々の対立を生む。

そして、井伊家は飛び地だった世田谷の農家集落の中にあった豪徳寺を菩提寺に指名し、代々、庇護することにする。何といっても彦根は交易の大中心地で金満の藩。東西南北の商流が集まる場所で、商業資本が充実し、お金持ち、お宝持ちだったのだ。ところが、現在の地価で考えれば、25万石の彦根の地価と1万7000石の佐野の地価と3000石弱の世田谷の地価はどれが一番高いのだろうかと考えてしまう。

なにしろ、豪徳寺は世田谷の中でも区役所に近い中心地。「The Setagaya」。住宅が立ち並ぶ中に、地価総額想定不能の広大な敷地の豪徳寺があるわけだ。そして、その入口には巨大な山門があるのだが、私の知識では、この山門は井伊家の上屋敷にあった門が移設されたものであるはず。1860年の3月3日の大雪の日に、この門をくぐり、わずか10分にも満たない出勤ルート上で、直弼は襲われ、首と胴とが別々に帰宅した。
(つづく)  

誕生パーティ続く

2006-11-20 00:00:49 | The room of Sora
0e50956c.jpg昨日の誕生パーティは、あくまでも「女流棋士誕生」パーティであって、本物のパーティではないが、きょうは本物の誕生パーティ。なにしろ、血統書に記載されている。1歳。ワン。女流犬ソラ。

ペットショップで犬用ケーキを買うと3,000円以上する上、さらに甘くないので、人間はクリームを塗りたくって食べなければならないし、犬にとって、ケーキより好物はたくさんあるのだから不合理、ということで、ケーキは人間用にして、犬には蟹を。ところが、あまり蟹は好物ではなかった。

美食は長寿の敵であるのは、人間と同様なので、甘いものは、毎日、ほんの少しだけにしている。経験的には、リンゴのスライスを好物の大関格とすると、横綱はアイスクリームとマスカット(アレクサンドリア)。もちろん糖尿病になるから一口だけ。チェリー系はまったく口に合わないようだ。佐藤錦を口から吹き飛ばしたことがある。

0e50956c.jpgところで、この犬種は、ミニチュアシュナウザー(略してミニシュナ)だが、出身地はドイツ南部。犬種として固定されたのは1899年ということで、新しい方だ。スタンダードシュナウザーにプードルとアーフェンピンシャーがかけられているということなのだが、さらに遡ると、このスタンダードシュナウザーは、プードルと狼灰色スピッツとピンシャーとで作られたということだそうだ。スタンダードシュナは体高45センチ程度で、ミニシュナは35センチ、体重8キロ程度まで(ところがソラは、それよりちょっと大きい)。プードルはフランス産、ピンシャーはドイツ産、そして狼灰色スピッツはオランダ産だが現存していないそうだ。アーメン。

そして、このスタンダードサイズのシュナウザーは15世紀に現れたそうだが、となるとハプスブルグ家関係なのだろうか。現在では愛玩用なのだが、元々は厩舎の中で「ネズミ捕り用」に開発されたそうだ。「ネズミ捕り」は猫の専門分野のはずなのに、なぜ犬が?

この話、ある仮説をもって現在調査中なので、そのうち改めて書いて見たいが、仮説のキーワードは、「魔女狩り」と「病気」だ。

0e50956c.jpgそして、ミニシュナも動きがまるで猫のようで、両手を別々に使って、パンチを出したりする。猫と同じようなジャンプをする。爪とぎが好きだ。木には登らない。そして猫より体重が重い分、破壊力がある。ただし、幸い、拙宅にはネズミはいないし、小作人を搾取して米俵を積み上げた土蔵もなければ、愛馬をつないだ厩舎もないので、本当の実力は不明だ。空威張りで景気よく吼えるが、カマキリにはいつも負けている。

伊奈川新女流棋士誕生パーティへ

2006-11-19 00:00:41 | しょうぎ
188a2bba.jpg女流棋士伊奈川愛菓(まなか)さんは女流2級。今年度上半期の女流育成会リーグを11勝1敗という高勝率で卒業し、10月からプロ棋士になった。高校1年生の15歳。その記念パーティに「会費という名のお祝儀」を持って参上する。東京新宿の某ホテルである。実は、彼女は既に公式戦を2局指しているのだが、残念ながら片目が開かない。要するに、プロの世界は難しい。対局時間も今までと違うし、先輩の威圧感もある。だいたい2年目から実力が発揮できるようだ(発揮できない人も多い)。

ところで、伊奈川さんは木更津の出身。事前情報では、お父さんは木更津市長と親しいという話を聞いていた。「イナガワ」とか「キサラヅ」とか「市長と親しい」とか、危なそうな単語が並ぶのだが、その秘密はパーティでは明かにならなかったが、お父様が元国営の東日本にある会社だそうで、そちらの関係の方が多く出席されていた(結婚披露宴みたいだ)。そして、現在、船橋市に転居して、ある大学の付属高校(1年)に通っているそうだが、そこは私の高校三年の担任が定年後、教鞭をふるっていたやや難関高。校長先生のお話は、元国営鉄道会社の方々の私語がうるさく(自分たちの本部長のあいさつの時だけは静かだった)まったく聞こえなかったが、学業をおろそかにして将棋に没頭しないといけないのではないかと心配してしまう。

そして、まだ1勝もしていないのに、パーティが大盛況になったのは、彼女の美貌によるところにあるのは間違いないところ。今後、先輩女性棋士からのイジメを受けそうな嫌な予感もする。例の林葉直子さんも12歳でプロの道に入ったのに38歳で自己破産にいたる道を歩んでしまったのだが、伊奈川さんは林葉さんほどは強くないのだろうから、あまり崖っぷちランニング人生にならないことを祈ろう。

188a2bba.jpgスピーチは、紙を読んだだけだが、にわかカメラマンに取り囲まれ、大変もいいとこだ。さらに余興でピアノでショパンを弾いたのだが、またもオジサマ達に取り囲まれる。ピアノは聞こえないので隙間から一枚撮影すると、奥に愛菓さんのお姉さまが写っていた。愛菓さんあてのファンレターは封を切らずにシュレッダーにいれるそうなので、同じ容貌のお姉さまに送ってみたらどうなのだろうか。ついでに、お母さまもお祖母さまも同じ容貌である。


さて、彼女の師匠は所司和晴七段。弟子に渡辺竜王はじめ男性棋士3人、女流棋士2人。弟弟子2人と、棋界勢力を拡大中である。この所司七段の師匠は故平野広吉六段、その師匠は故斎藤銀次郎八段。さらにその師匠が故石井秀吉七段なのだが、この石井七段の弟子の一人が故佐瀬八段。そしてその弟子が米長連盟会長であり、それらをまとめて佐瀬一門といい、中原誠元名人を中心とした高柳グループとなにかと仲の悪い二大勢力になっている。

この中の故斎藤銀次郎八段(1904-1979)は将棋連盟を除名されたらしい。どうも昭和49年(1974年)に発刊した「将棋紳士録」という本が関係するらしいが、まだ詳細は調べていない。ちなみに除名第一号は阪田三吉である。そして、まもなく三人目の除名者が出るという噂が持ちきりなのであるが、そうなると裁判になるのは間違いないだろう。

そして、こういうパーティの時には、それらのグループ決起大会みたいなもので、だいたいグループ幹部一同が集まってくる。そして、立食パーティのあるエリアで固まってしまうのであるのだが、そういう男性棋士のグループの他に女流棋士もいくつかの派閥があるかに聞こえる。まさに16歳の新女流棋士誕生パーティにふさわしくない話だ。早くも、若手女流棋士数名がかけつけていたが、仲間集めなのだろうか。

188a2bba.jpgそして、彼女より若くさらに強い女性棋士がいる。1歳下の里見香奈さん。今年、急に強くなって11勝1敗。棋戦の多くの予選はトーナメントやリーグ戦なのでこのまま勝ち続けると、いずれタイトル戦に登場することになる。彼女も才色兼備。そして、この15歳から19歳くらいの女流棋士の層が厚い。ようするに「ゆとり教育の成果」だそうだ。ゆとり教育の欠陥ばかり言われるが、こういう一芸特化型の人材は、余計な授業など不要ということなのだろうか。もちろん元々、頭の良い子に限られるのかもしれない、とは限定付きなのだが・・

パーティー出席者には扇子が配布されたのだが、「閃(ひらめき)」と書かれていた。年配の棋士は、「道」とか「一歩」とか謙遜的なことばを書くのだが、自信満々なのだろう。早く羽生さんを倒してほしいところだ。


188a2bba.jpg前々回出題問題の答えは、こちらへ。古い作品で、今ひとつ個性に欠けるのだが、一応、合駒選択問題になっている。

今週の出題は、ちょっとした趣向作品で、これをテーマに後で一稿の予定。短編。答えが判れば、最終手と手数をコメントにいただければ正誤判断。

188a2bba.jpg

忘年懇談会のおしらせ(第2回目)

2006-11-18 06:39:55 | 市民A
(本日分のエントリは、この下です)


10月12日に予告した忘年会懇談会)の第二回目連絡です。
ブロガーの方、愛読者の方、そのお友達の方等、どなたの参加でも歓迎です。
一応、前向きブログのつもりなのですが、どうなのでしょう。

日時:11月25日(土)夜(7時頃がいいと思いますが、フレックスで結構です)
場所:東京・赤坂の「あるパブ」(参加希望者に連絡)
会費:4,000円(ポッキリ・ドリンクフリー・調理おつまみ付き)
連絡先は、otayoichiro@hotmail.com
送られたアドレスに場所と地図を返します。

なお、昨年の忘年会は2005年12月18日「ブログとブロガーの単純法則発見」参照ですが、今年は今年。参加者構成により、どういう雰囲気になるか不明です。

なお、当日は、パブを昼の12時から借り、夕方まで私の主催で、ミニ将棋大会を開いています。ご希望の方はそちらの参加も可能です(途中参加可)。会費は夜の部にインクルードで、無料といえば無料。賞品は米長表彰状だけですが・・

では、参加の連絡をお待ちしております。  


ギョッとする江戸の絵画(3)

2006-11-18 00:00:47 | 美術館・博物館・工芸品
ギョッとする江戸の絵画は江戸時代の奇想画家8人を紹介するテレビ番組(NHK教育)で、きょうは5人目の伊藤若冲と6人目の長沢蘆雪。

3ddbf37b.jpgまず若冲だが、最近の人気はすごい。冗談じゃなく古今東西の日本人画家の中の人気ナンバーワンではないだろうか。なぜ、こんなに人気が沸騰したのかよくわからないそうだが、専門家による評論ではなく、ネット上のフラットな情報ではないかということらしい。「若冲ってすごいよ!」という声が拡がったということだろう。そして、現代日本人が若冲の芸術性に気付く一瞬前に、米国人であるプライス氏がごそっと買い込んでしまって、プライスコレクションを作ってしまう。

そして、若冲のことを「奇想」と言うのはいささかずれていて、むしろ、現代人を「はっとさせる」という意味でのみ「奇」という漢字があてはまるのだろう。調べてみると、若冲(1716-1800)と同時代の美術カタログなどで紹介されている画家ランキングでは、丸山応挙(1733-1795)に継ぎ、若冲、そして3位が池大雅となっている。つまり、奇想画などではなく、れっきとした正統派の大画家だったわけだ。

3ddbf37b.jpgそれなのに、それ以降、すかり評価が眠っていた理由は、「評論家のせい」なのだろう。いかにも古典的画風を引き継ぎ磨いていた応挙や池大雅に比べ、若冲の絵は、独創的である。そして色鮮やかで、さらに、描く題材がユニーク。各種動物類なんでもOKである。若冲の前にも後にも彼と類似の画風はいない。評論家に嫌われそうなタイプだ。

実は、彼は八百屋の息子だったそうだ。しかし、若いときから絵画が好きで、商売が下手。こういう人物が、店を譲り、30歳、40歳になってから絵画の道を歩めるというのも、江戸時代のすばらしさかもしれない。京都画檀で活躍する。もう一つの彼の出会いが、禅寺であり、そこで中国絵画の基礎が、スケッチやリアリズムであると考え、各種動植物の写生を始めるのだが、すぐに本物以上の想像に満ちた想像力を発揮した彼の画風に到達するのである。

よく考えれば、実家は八百屋だったのだから植物は、見なくても描けるだろうし、鶏を飼ってモデルにしていたらしいが、鶏の知能では、ずっと静止してポーズをとってくれたりしない。およその鶏の絵を描いて細部は想像で仕上げる、ということになるだろう。本当は、ユーモアを持っていたのだろうが、世間がそれを知るのは晩年に描き始めた人物画が登場してからなのだろう。


3ddbf37b.jpgそして、蘆雪(1754-1799)だが、彼は、応挙の弟子。応挙や若冲が京都画檀で技を争っていた時に、逆に応挙の技を会得し、それを逆手に新たな奇想を演出していた。そして、本来は応挙の後継を引き継げる腕を持ちながら、わず45歳で他界してしまうのも、腕をねたまれての毒殺の噂もあるそうだ。白地に虎の絵の襖というのも、いさぎよい作品である。

芦雪は多芸で馬術・水泳・剣術・音楽の各分野に秀でていたが、ある時、事故で片目の視力を失ったとも言われている。そのため、距離感を絵画で表現するため、わざと遠近法を使っていたともいわれている。

そして、8人の奇想画家の紹介もあと二人。北斎と国吉の大物が残っている。9人目として水木しげるを推薦したいのだが、番組はあと二人分で終わり。

北斎・・11月20日(月)22:25-22:50
    11月27日(月)05:05-05:30(再)
国吉・・11月27日(月)22:25-22:50
    12月04日(月)05:05-05:30(再)