関ヶ原、東軍側の視線

2018-04-30 00:00:40 | 歴史
関ヶ原の戦いは15万人の戦いと言われる。東西ほぼ同数。もちろん純粋武士もいれば狩り出された名もない足軽兵もいるし、夫の生還を祈るだけの家族もいる。どうみても天下分け目の戦いでどちらが勝つかもわからないのに、大名も家来も勝つか負けるか、運命は50:50だ。

西軍の足軽たちは敗勢になったとき、武具をすべて捨てて裸同然で山の中に逃げ込んでいったと合戦絵図には記されている。無事に逃げ帰れただろうか。あるいは逃げ帰ったとしても主君はいないし、うまく生き延びられたのだろうか。

そう思うと戦場で亡くなったとされる数万(推定最大値は4万)以外にも多くの兵の人生とその家族の人生が失われたと考えるべきだろう。

一方で、では西軍が勝って、家康が切腹していたとして、歴史は変わったのだろうか。研究家によれば石田三成の描く未来も徳川家康の描く未来もほとんど同じだったはずと言われる。ただ、西軍が勝ったとして、豊臣家と三成の関係が良好に行ったのかはわからない。

さて、東軍が勝った翌日の関ヶ原の戦場はおそらく凄まじい光景だっただろう。バラバラになった死体、血の海、野犬や野鳥が群がっていただろうし、金目の所持品を狙う追剥ぎとか。中には生死不明のままのたうち続けていた者もいただろう。

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家康は戦場の南側に二つの首塚を作っている。東首塚と西首塚。東西と言っても東軍と西軍をわけたわけではなく一緒に弔ったそうだ。見分けつかないからともいえる。首だけ埋めたのか体全体も埋めたのかは何の記載もないのでわからなかった。近い方の東首塚に行ってみる。おそらく土地を掘れば出てくるのだろう。

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そして、家康は最初は後陣に構え、戦況が熟したところで陣を敵陣近くまで進めている。何しろ最大勢力だったので温存できる状況ではなかった。いずれの陣も何もない平らな平原である。400年経っても平原であるということは、単に偶然なのか、あるいは血塗られた土地に積極的に住む者はいないということだろうか。第二次大戦中は関ヶ原に弾薬庫があったといわれ、やはり住居にするには気持ち悪いからかもしれない

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そして、決戦地。というか東軍の再先鋒はこのあたりにいて、朝霧が消えたら目の前に敵がいてすぐさま戦闘が始まり、目前の敵と撃ち合い斬りあいになった。決戦地から周りを見渡すと、西軍の各隊が山の上にいたとされるが、石田三成のいた山ですら高いわけではなく小早川が満を持していた山など、むしろ坂と言った方がいいようだ。

関ヶ原町歴史民俗資料館で戦況を聞く

2018-04-29 00:00:19 | 市民A
ついに関ヶ原を歩くことになった。数か月前にはJR関ヶ原駅の直前でにわか雨が降り始め、目的地を大垣に変更した。もっともその結果、松尾芭蕉の奥の細道の終点の地に行けたので雨に恨みはないが、今度こそ晴れを期待していた。そして実際は晴れ過ぎていたわけだ。

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まず、駅前の観光交流館のコインロッカーだが、右の方が100円で左の方が大きく200円と300円なのだが、それぞれのロッカーに大名の名前が書かれている。右の100円の方は西軍で、左の200円の方は東軍になっている。この戦いではさまざまなことが起きていて、最後に西軍の島津が敵中突破を図り、わずかな人数が国元の薩摩に逃げ帰ることができた。そのしぶとさにあやかるために島津ロッカーに100円を投資する。

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次に、平地を少し歩き始める。農地の拡がる平地の中央に『関ヶ原町歴史民俗資料館』がある。入館すると、ちょうど館員の方が、合戦時の東西両軍の配置図の前で戦いの一日を解説していた。

やはり、本などで調べるより研究家の方の解説の方がわかりやすい。そして実地を歩くともっと想像力が刺激されることになる。

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まず両軍の布陣だが、西軍は基本的に高台に広く陣をおき東軍を包囲しようとし、東軍は山の下に軍を集結し錐のように鋭く敵陣を分断しようとする。

普通、上からと下からでは上から攻めた方がいいので、なぜ家康は盆地状の中心に軍を固めたのだろうか。

実は、その謎は解明されていない。ここからは私の推測なのだが、家康は西軍の中に東軍に寝返る者を探していて、それが小早川であり吉川だった。

ということは、東軍の中にも西軍の石田三成に寝返るものがでるのではないかと恐れていたのではないだろうか。東軍の内訳は、家康の三河時代からの部下と、豊臣秀吉の配下の大名たちの2パターンだ。元々秀吉の配下で東軍に回った大名は福島、黒田、加藤、藤堂などだ。そのため、裏切られないように中央に固めてしまったのではないだろうか。

そして、両軍15万兵の戦いは決戦地と呼ばれる中央の平地をめぐって朝霧の晴れた瞬間から始まる。両軍の1万丁の鉄砲が爆音を続ける中で槍や刀を振り回し一進一退が続くがどうしても接近戦では上から攻める西軍が有利なのだが、鉄砲はどうだろう。ピストルを撃つときも弾は上方に外れることが多いように上から下を狙うのは難しいし、そもそも敵味方入り混じっている中に撃ち込むのは味方の損傷の方が多くなる。意外に鉄砲戦の場合、上下の差が少ないかもしれない。

とはいえ、西軍有利の中で、後方(今の関ヶ原駅近く)に陣を定めていた家康が敵陣近くまで侵入していく。この段階で、背後の山に構えていた西軍の毛利軍は動こうにも動けない状況だった。毛利軍の前にいた吉川がとうせんぼ(裏切り)したからだ。また毛利自体、日和見主義だったこともある。

そして一挙に決着をつけたのが、西軍のはずだった小早川が西軍包囲網の裏を攻めて、これ以降西軍が一挙に大崩壊した。この時、一向に動かない小早川に決断を迫るため家康は小早川陣に鉄砲を発砲したと言われる。これが「問いてっぽう」と名付けられている。解説員の方によると、鉄砲の音は一丁でもすさまじいのに1万丁も使われていたので大音響が鳴り響いていたに違いなく、流れ玉も飛ぶ状況の中で、それはないだろうとのことだった。

真偽はわかるはずもないのだが、私が推理するに「出陣を待ち過ぎた」のではないだろうか。つまり勝馬に乗ろうとしたに違いないのだろうが、どちらか勝つかわからない、あるいはかなり時間が過ぎ、西軍が優勢になってから、遅れて西軍に加勢しても、裏切り予備軍だったことが明白になってしまうという状況に陥っていたのではないだろうか。となると東軍勝利のキーマンになるしか道はなかったのかもしれない。

その後、総崩れの西軍は石田三成が山を越えで近江方面に逃走。戦場に残された島津軍は山を登る余裕もなく、全軍敵中突進を始め、家康の目前を突っ走り死屍累々を残しながら数十騎で薩摩に戻り、次の倒幕の機会を待つこととなる。そんなに強いならば家康の面前を走るのではなく、最初から家康そのものを攻めた方がよかったのではないだろうか、とも思うが。

28連勝を破られたコメントは

2018-04-28 00:00:19 | しょうぎ
kamiya将棋ペン倶楽部誌2018年春号の対談記事は神谷広志八段が登場。聞き手は木村晋介弁護士(将棋ペンクラブ会長)。

不滅と思われた28連勝の記録を藤井君に破られたショックを癒していたのだろうか。何しろ順位戦降級点のピンチを凌いだのが最初の1勝だったそうだ。それまでの記録を持っていた塚田泰明氏で22連勝。記録に近づくにつれ、本人が心配しているという風の噂が聞こえて来たそうだ。

次の関門が石田和雄氏。続けて対局があることがわかり、最初に勝ったあとの感想戦では研究手順を隠していたら、怒り出されたということだ。

そして、藤井君の29連勝だが、途中で「これは破られるな」と思ったそうで、あらかじめ将棋連盟に「記録を破られた気持ち」を書いて送っていたそうだ。変な取材が来てもこまるからだそうだ。

ところが記録を破られる前に並ばれることになるわけで、将棋連盟からは、並ばれた時のコメントもあらかじめ書いておいてくれと言われたそうだ。妙な人たちだ。


さて、4月14日出題作の解答。

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一言でいうと並べ詰みともいえる。最初の場所に戻る玉。初手と最終手がリンクする。

動く将棋盤は、こちら


今週の問題

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島に潜む脱獄囚を追い詰めようと少しずつ包囲網をせばめること。

判ったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とご意見を頂ければ正誤判定します。

伸長箸にびっくり

2018-04-27 00:00:30 | あじ
京都駅のKIOSKで、数十秒以内にお昼のお弁当を選ばなければならないことになった。

しかし、場所柄高級品が多いのだが、価格3桁にこだわり、やや小さめサイズの「てまり寿司」を選ぶ。「箸は中に入っていますから」と売店のオネエさまからヒトコト言われる。

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要するに、あまり小さい弁当なので長い箸がついていないのではないか、と心配になる客がいるのだろう。

ということで、さっそく包装紙を破り捨て、ふたを開けると、長さ7センチくらいの紙の箸袋がでてきた。

「7センチの箸で食べるのか。指の長さと同じだ・・・」と覚悟を決めて、箸を取り出すと、驚くことに伸長式の箸だった。プラスティックの部分と木製の部分とがスライド式でつながっている。木の部分を引っ張ると、長く伸びてカチッと固定される。

さて味の方だが、てまり寿司は、実は相当おいしい。みかけ通りなのだが、量にも問題は感じない。同じシチュエーションならまた買いそうだ。駅弁らしく酢がきついのもいい。

季節的には、暖色系の色とりどりの色彩からして春の旅行には最高なのだが、実際、京都旅行に行く場合は、たぶん昼用の駅弁は売れず、夜用が売れるのではないかと推測する。丹波牛の焼肉弁当とか。てまり寿司は秋の京都の夜の弁当には向かないだろう。

食べ終わって片付けはじめて、伸びた箸が長すぎて邪魔になることに気が付く。折れないし。

猛暑で急成長

2018-04-26 00:00:50 | 市民A
日本経済では、あるいは私の経済では「急成長」という単語は死語になっていたのだが、急に使いたくなった。週末の猛暑の結果、プランターの中でうらびれていた野菜が息を吹き返しぐんぐん成長を始めたのだ。

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まず、サラダ菜。猛暑の前の大風で全部吹き飛びそうだったので、大部分食べてしまったのだが、豊作になってきた。こういうのはすぐに食べないと、昆虫などの小動物のごちそうになってしまう。

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次に、イチゴ。急に開花して実が大きくなってきた。こちらは毎年のことだが、人間用ではなく犬のゴチソウになる。毎日、犬と一緒に点検しているのだが、気を付けないと青いままパクリと食べてしまう。「赤くならないと、ダメ!」と言い聞かすが、そもそも犬はカラーの識別はできないという説がある。一日に一粒以上の収穫があるときは、人間がおすそ分けをいただくことになっている。

そういえば、お犬将軍綱吉公の時代、犬たちは何を食べていたのかな。初鰹とか・・鰻重とか・・

ファミリービジネス(1989年 映画)

2018-04-25 00:00:51 | 映画・演劇・Video
ファミリービジネスといえば普通は家族経営の零細企業を指すのだが、「ビジネス」というのは「犯罪」を意味することもあるわけだ。

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家族経営の一家の困難な歴史が描かれているのだろうか、キャストもショーン・コネリー、ダスティン・ホフマンとビッグだ、と思っていたのだが、どうも違っていた。

そもそも泥棒一家だったわけだ。脈々と流れる三代にわたる犯罪DNAを引き継いだ孫(マシュー・ブロデリック)が企画したバイオ企業からのデータとサンプルの略奪計画が気に入った一家が実行に及んだわけだ。

ところが、杜撰な計画によって三人のうち孫だけが捕まる。祖父(コネリー)は筋金入りの犯罪者なので、子と孫を見捨てて自分だけトンズラを狙うが、孫の長期服役をおそれた父(ホフマン)が自首した上、祖父に責任をなすりつける。実際にショーン・コネリーとダスティン・ホフマンは10才しか違わないのでちょっと理解に無理がある。

結果、一家代表として80歳の祖父が刑務所に入り、まもなく灰となり、NYの空に撒き散らされるわけだ。

本作の中でこのユダヤ教の家族、親戚が集まるのは二回の葬儀の時だが、どちらの式でも最後に「ダニー・ボーイ」が斉唱される。

「ダニー・ボーイ」は葬式の歌だったのか、そういえば「炎のコバケン」こと指揮者小林研一郎のコンサートに行くと、アンコールは必ず「ダニー・ボーイ」だったのだが、アンコールらしくサヨナラの曲を使ったのだろう、と納得した。

ところが、本当はそういう曲ではないのだ。

愛はプライドより強く(辻仁成著 小説)

2018-04-24 00:00:18 | 書評
20世紀の終わりに書かれた小説。芥川賞を受賞した名作『海峡の光』の2年前に発表されている。

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ごく簡単に粗筋を追うと、同じ会社にいて音楽プロデューサーをしているナナとナオトは同棲中で婚約しているのだが、大問題がある。勤務していた封建的な会社は社内結婚した場合、どちらかが辞めることになっていた。その理由はわからないが、結婚祝や出産祝をダブルで払わなければいけないからなのだろうか。一方、社内での仕事の評価が高かったのは女性のナナの方で、元々は小説家志望だったナオトは自分から会社を辞めてしまう。次の仕事を見つけてから辞めるという転職の鉄則を破ったわけだ。しかも小説は売れないどころか一行も前に進まないわけだ。

こうなると問題が起きるのが男女関係の常で、小説的には当然だが、別の異性が攪乱要因として登場することになる。ナオトの前に現れるのが自殺未遂を繰り返す無職の女性。ナナに接近するのは、有名カメラマンの男性(名前は鉅鹿というのだが読めない。実録物ではないのだから、なぜ誰でも読める翔平とか一朗とかにしないのだろう)。

このあたりが、つまらないのだがそこから先は読者の予想通りの展開になる。読まなくてもいいのかもしれない。話を面白くするためには登場人物の心の底に過去の衝撃的な事件があったというような方がいいのだから、有名カメラマンであるが自殺未遂のクセがあるとか同業の女性ディレクター登場とか、さらに味付けとして謎の占い師とか登場させてもいい。さらに登場人物の何人かは、過去のなんらかの大事件に共通に関係し、影響を受けていたとか展開した方がいいような気がする。ただし、小説の長さは三倍になる。


ともかく軽く読めるので朝の東京発名古屋行きの新幹線で訪問先を訪れるときなど、時間つぶしにちょうどいいかもしれない。といっても訪問相手が異性の場合、この小説を参考にして、名刺と一緒に白紙の婚姻届を渡すのは止めた方がいいだろう。渡すなら、読み終えたばかりのこの小説本だろうか。

PUFFYのもじりか

2018-04-23 00:00:27 | 音楽(クラシック音楽他)
最近の話だが、近くに県立荏田(えだ)高校がある。普通部と体育部があり、体育部は特に陸上競技が強く五輪代表も輩出している。

運動部の活動も盛んで、休日や放課後には学校の近くをランニングする高校生が多い。特に私の家の前には長さ300mを超える一直線の急坂があるので練習には最適(立場が違えば「最悪」だが)だからだ。

いつものことで気にしなかったのだが、先日、ふと彼ら(彼女ら)の声が聞こえて、つまり走るときの掛け声のようなものなのだが、どこかで聞いたようなメロディだ。

 張り切って行こう
 楽しんで 行こう

と聞こえてきたわけだ。

思い出すと、PUFFYの『渚にまつわるエトセトラ』の中に、

 カニ 食べ 行こう
 割り切って 行こう

とか
 
 ハリきって 行こう
 風 切って 行こう

というフレーズがある。


それを少しだけ書き直したのだろう。オリジナルの作詞は井上陽水だけど、意味はでたらめなので。

では、なぜPUFFYなのかというと、PUFFYはアミちゃんとユミちゃんの二人組なのだが、そのうちのアミちゃんは荏田高校の出身だからなのだろう。

ユニゾンといって二人で同一の旋律で歌うし、タイプが似ているので見分けがつかない人も多いようだが、背が低い方がアミちゃんで夫はGRAYのテル。背が高い方がユミちゃんで、大阪での高校時代はオートバイが大好きで、今はよく夫をチェンジしている。こちらの方が陸上部だったというややこしさがある。

で、話を戻すと、「ハリきって行こう、楽しんでいこう」をとりあえず当座の座右の銘にしようかなと思ったわけだ。

自由学園明日館

2018-04-22 00:00:00 | 美術館・博物館・工芸品
先日、池袋の裏町を歩いていたら、フランク・ロイド・ライト設計のようなアメリカンモダニズム風の建物があった。自由学園明日館となっていて、やはりフランク・ロイド・ライトの設計だ。1921年の校舎だそうで、まもなく100年が経つ。

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自由学園は、羽仁吉一、もと子夫妻が創立し、知人のつてを頼りライト氏に設計を依頼した。ライト氏は羽仁夫妻の教育方針に共鳴したそうだ。いつも学校ができるときは、そういう話になる。

自由学園は昭和9年(1934年)に別の場所(東久留米)に移転し、本学舎は多目的に使われるようになる。

ということで、自由学園の教育方針というと、「真の自由人を育てるために1日24時間勉強を行うこと」だそうだ。私にはとうていついていけない。それに私はもともと自由人だ。

幼児生活団(幼稚園)を含めた有名卒業生(小中高大)を調べると、かなり大勢になるようだ。オノ・ヨーコ氏、ノーベル賞の野依良治氏、作曲家の故山本直純氏など各方面に非常に多くの有名人がいる。私ももう一回幼稚園からやり直したいな・・


ところで、校舎のデザインといえば、校長先生(予定)が幽閉されてしまい事実上開校不能となった森友学園の小学校だが、なかなかのデザインのように見える。自由学園明日館と同様の左右シンメトリーで、色彩上は赤と黒をベースとしている。赤の由来は東京大学の赤門だろうか。また、黒の由来は地中深く眠っているはずのゴミのイメージだろうか。

調べてみると『キアラ建築研究機関』の松本正氏の設計だそうだ。設計料は頂けたのだろうか。それより、あの建物は一体誰の物なのだろうか。

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一説では、京都祇園の一力茶屋に部分的にはよく似ている、とも言われる。小学校の教育方針が芸者遊びと通じるものがあるのだろうか。

偽書鑑定

2018-04-21 00:00:13 | しょうぎ
藤井聡太六段(現在)のニセ色紙が、ネット上のフリーマーケットに現れ、26歳の会社員が5670円をだまし取られる事件が発生。

通報を受けた愛知県警が藤井六段に確認したところ、「筆跡が違う」「持駒の香車の数が違う」などと回答があり、容疑者の女性を突き止めたそうだ。

実在の本物の色紙がネット上にアップされたのを見て、模造したらしい。容疑者は加藤一二三九段のサインも偽造したことがあるらしいが、彼の文字は独特で、「ウマヘタ」というよりも「ヘタそのもの」であるので、偽造には苦労するだろう。

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ところで、本物と偽物を比較すると、「筆跡」と「香の枚数」以外にも特徴がある。

1. 決定的に、名前が間違っている。聡太であるものが飛太になっている。「トビタ」とでも読むのだろうか。そういう地名のところで働いていたのかもしれない。

2. 「飛」を書くべき場所を間違えていて、×を上書きして書き直している。他人に贈る色紙としては、あり得ないだろう。

3. マスが大きく左に傾いている。もしかしたらアップされた写真画像が左に傾いていたのかもしれない。

4. 一方、文字は筆跡が違うにしろ、真似ているような形跡は感じられる。盤上の二つの「銀」の字が異なるのだが、二つ目の「銀」を書くときには根気がなくなっていたのかもしれない。

5. 努力の跡がみられるのは、日付と段位の関係で、偽書は本物の1年前に書かれたことになっていて当時の段位の「四段」に正確に修正されている。

ところで、この詰将棋は、異常に難しい。にもかかわらず、色紙用に作ったのか、色紙にピタリとはまるようになっている。こういう問題を次々と詰将棋専門誌に投稿されると、全作が彼の作品になってしまうのではないかと危惧をしてしまう。創作と解答の二刀流だ。


さて、4月7日出題作の解答。

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二手目に△3ニ玉には▲4二飛打△2三玉▲2一飛成以下。▲1二金が手筋だ。

動く将棋盤はこちら


今週の問題。

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少しだけ、奇妙な感じを漂わせてみた。頭を柔らかく使う問題。

わかったと思われた方はコメント欄に最終手と総手数とご意見をいただければ正誤判定します。

人気ラーメン店が空いていた理由は

2018-04-20 00:00:57 | あじ
先日、小一時間の待ち時間があって、ランチ時間を僅かに過ぎた頃でもあり、横浜都筑区の人気ラーメン店である『魁力屋』を覗くと、常に満員で行列ができているのに空席が目立っていた。ということで長年の懸案であった入店を果たした。

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京都北白川が本家で全国に店舗があり、背脂を使ったスープが特徴だ。店名は「○○屋」というが、横浜のラーメン有名店は、「○○家」と書くのが多く、総称して「家系(いえけい)」という。横浜駅の近くにある「吉村家」や東横線の六角橋にある「六角家」、その他「横浜家」あたりが有名だ。

そして、普通の醤油系の背脂ラーメンに煮卵をつけて頂くことにした。

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味としては、背脂を使っている割に濃厚ではない。東京の蔵前、銀座、新橋に店舗のある「元楽」と同系統の味で、麺の硬さも同じぐらいで、やや硬い。元楽の方がスープが濃厚なので、健康のことを考えなければ「魁力屋」より「元楽」の方が味が濃厚で判りやすい。濃厚の物を食べていると、あっさりした味が好きになれないということだろうか。

ところで、席が空いていた理由なのだが、折からの強風により店舗店頭の看板が、『営業中』ではなく『準備中』に裏返っていたことだろう。入店時に従業員に教えてあげようと思っていたが、メニューに気を取られ、すぐに忘れてしまったし、帰るときにも、またしても言い忘れてしまった。

「雨にも負けず」のこと(2/2)

2018-04-19 00:00:38 | 書評
次に「ヒデリ問題」。原稿の書かれた手帳には、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」となっていて「ヒドリ」と書かれているので後に出版される時に賛成多数で「ヒデリ」と書くべき間違いとされたのだが、「ヒデリ」ではなく「ヒドリ=日雇い労働」に行くほど農作物が収穫できないことを指すのではないかという議論なのだが、この詩を全体として鳥瞰すると、二行ずつペアになっていることがわかる。

「雨にも負けず風にも負けず/雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ちたい」など。

さらに古典的に五七五形式が多く、リズムは万葉集のように素朴である。つまり、「ヒドリまたはヒデリ」の句の次の句である「寒さの夏はオロオロ歩き」と対をなすためには「日照りの時は涙を流し」のはずである。あるいは、「日照りの夏は涙を流し」というのが最初の案で、そうなると次に「寒さの冬」と書くことになり、実際には「寒い夏」を表現するべき箇所なので、前の句の方を「日照りの時」に変えて妥協したのではないだろうか。


ところで、賢治から話がずれていくが、原子朗教授は書の腕が確かであり、健康の間は毎年、銀座で書の個展を開いていた。その中には宮沢賢治の影響なのか『般若心経』を書いた作品があり、もちろん弟子たちが購入していた。葬儀にあたっては仏式と思っていたら無宗教だったので違和感を感じたのだが、遠い記憶をひも解くと、長崎出身の被爆者でクリスティアンだったことを思い出した。

そこで、突然浮かんできたのが、「長崎」「キリスト教」「原」というような単語をつなぎあわせてみると、「キリシタンの末裔」ではなかったのだろうかという疑問だ。今頃思いついてどうするのということだ。もしそうであったと仮定すれば、仏教に転宗ということは、いわゆる「ころびもの」という大変不名誉なことにあたるわけで、どちらかを明らかにしないことにしたのかもしれないなと思う。

しかし、隠れキリシタンのことを調べようにも、現在ではほとんど困難になっているので、仮説を検証するすべはない。というのも日本国憲法により宗教の自由が保障されている以上、宗教による差別が行われないように個人情報は集められていないわけだ(ただし、憲法で守られるのは生きている人だけなのだが)。もちろん「隠れキリシタン紳士録」のようなものも存在しない(はず)。

「雨にも負けず」のこと(1/2)

2018-04-18 00:00:21 | 書評
2ヶ月前、高校時代の国語の先生が復刻授業をすることになった。80歳台である。授業の中心は宮沢賢治の「雨にも負けず」の解題的精読ということだった。実は、高校の時、あまり共感していなかった先生だった。私はクールだったのだ。テキストを熱くなって語るというのは、文学についてはどうかなと思っていた。断定的に話すのはどうかなって。作品自体の文体分析やとりまく時代背景、文壇的潮流、作家個人の思想的変遷など学習的あるいは鑑賞的立場で考えても、読者の好き好きでいいではないかと思っていた。

幸か不幸か復刻授業の当日は将棋教室で小学生に教える日であり、昨今のブームで親も子も年収を1億円にしようと押しかけてくるので手が抜けないこともあり、行かなかったのだが、当日の様子を後で聞くと、おおむね好意的評価のようだった。その中で、「雨にも負けず」が法華経の影響を強く受けていることと、この作品が没後公開されていることから、詩文の中のワーディングに「ヒデリ論争」があることが紹介されたそうだ。

授業を聞いてもなく、これらに触れるのはおかしいような気がするが、実は二つの理由で少しばかり書くことは認めてもらえるのでないかと考えている。

一つは、宮沢賢治研究の大家で花巻の宮沢賢治イーハトーブ館の元館長で、東京の大学で長く教鞭を取ってきた原子朗教授のゼミ一回生であること。そして昨年の葬儀の折には花巻からの大勢の「宮沢」姓の方々の弔問の受付業務を賜ったこと。また、原氏自体、宮沢賢治研究にのめり込んでいく間に微妙に自身の賢治論が変わっていったことを見ていること。

二つ目は、偶然にも、「雨にも負けず」の詩(これを詩と呼ぶなら)が発見された経緯にあるのだが、没後まもなく賢治を偲ぶ会が開かれ、何人かの文学者が集まっていた席に賢治の弟殿が、賢治愛用の旅行カバンを遺品として持参されたそうだ。そして皆でカバンを改めていると、中から一冊の手帳が発見されたわけだ。その中に「雨にも負けず」が書き記されていたわけだ。これが有名な「雨にも負けず手帳」発見記なのだが、その貴重な瞬間を文字として発表したのが詩人の永瀬清子であるのだが、彼女は私の母方の親戚なのである。


では、私見的賢治論なのだが、ページの制限もあるので(本当はないが)、語弊をおそれず書くと、賢治の詩はあまり好きになれない。おおむね「童話」と「詩」の二刀流だったのだが、それは25歳頃からほぼ並列的に書き綴られていたようで、しかも生前に発表された作品はきわめて少なく(「注文の多い料理店」と「春と修羅(詩集)」の2作)、大部分の未発表作品は彼が37歳で亡くなるまで何度も書き直されたり大幅修正されている。その修正箇所を調べることによって彼の思想的変遷がわかる。

上に書いたように賢治の詩が好きではない理由は、一言でいうと「暗いから」なのだ。あるいは「説教臭い」こと。また国定教科書に利用され、雨の日も風の日もたいしてメシをくわず黙々と働くことの美学を説いているとされる。また妹の病死を詠んだ「永訣の朝」も教科書収録だが、こちらもいいようのない悲しみを表現している。つまり出口のない不幸といってもいい。

そのあたりが賢治と宗教とを結ぶ鍵とされているのだが、本来、日本の仏教というのは大乗仏教であり、多くの人々に幸せの輪を広げることが目標になっている。「永訣の朝」をどう読んでも人は幸せにはならないし、「雨にも負けず」は最後に「でくのぼうになりたい」と書かれているのだが、それは賢治の願望かもしれないが広く世間の人々の幸せには辿り着かないはずだ。むしろ、彼の中の宗教上の理想の独白を文字にしたのだろう。


おそらく、賢治の所業を考えると、まったく自分勝手な人間だったのではないだろうか。なにしろ実家は、質屋ともいう高利貸しだった。大人になって、少しは哲学的に考え始め、宗教を勉強はじめたところだったということではないだろうか。

前述したように同一作品の推敲を続けている過程で、宗教に傾いたり習俗に傾いたりしていたのだが、夭折した文学者の未公開作品という視点を忘れてはならないと思う。

一方、「銀河鉄道の夜」をはじめ童話シリーズの方は四次元世界を描いているのだが、巧みだ。文芸評論家の中にはキリスト教や法華経の影響を指摘する人もいるが、考えすぎではないだろうか。

麦秋(1951年 映画)

2018-04-17 00:00:56 | 映画・演劇・Video
bakushu原節子のための映画である。監督は小津安二郎。

原節子は3人兄妹末っ子役で、一番上は戦争から帰ってこないまま何年もたってしまい、両親の心には大きな穴が開いたままだ。次男は病院に務め、医者としてそれなりの地位を得ている。

節子は、都内の個人商社の社長秘書であるが、年齢は28歳と当時では結婚適齢期を過ぎていると思われていて、兄はつてを頼って金持ちの40歳をみつけてくるが、両親も本人もイマイチと考えていた。

とはいえ、いつまでも縁談を伸ばすわけにはいかず、まもなく決定という段階で、急遽対抗馬が現れる(とはいえ縁談の40歳とは会ったこともないわけだ)。兄の病院に務めていた男性医師が秋田の病院に転勤になることを知り、急に、結婚して秋田に行くと言い出したわけだ。

私の表現がずさんなもので意を書き切れないのだが、結局は「封建主義×民主主義」という古くて新しい問題に行き着くようなストーリーだ。

そのあたりから、原節子と現代の宮沢りえとが同じテーマを演じているように思えてきた。人相が派手なのもそう思わせるのかもしれないが、演じる役は封建主義だったり民主主義だったりするが「たそがれ清兵衛」なんかそういう映画だ。

結局「麦秋」では、封建主義が滅び民主主義が勝ち、老両親は麦畑に吹く風の中で「これでいいのだ。家族はいずれ離れていくものだ」と達観する。季節が秋になって、冬がきて、封建主義は大相撲の中だけに形骸を残すのだろうと思わせるのだが、これが大間違いだ。

「麦秋」とは俳句の季語でもあるが、秋のことではない。麦にとっての秋、すなわち春の終わりから梅雨までの時期を指すわけだ。では何を意味しているのか。私にはさっぱりわからない。

本映画で問題となるのが、秋田に転勤になる医者のことを必要以上に左遷扱いしていること。秋田県民に失礼な感じが漂う。もっとも秋田大学に医学部が誕生するのはこの映画の20年も後のこと。作家兼医師の南木佳士氏が一期生のようだ。

ところで、67年前の映画であり子役を除き出演者の全員が鬼界入りしているのかと調べてみた。主演の原節子は43歳で引退し、2015年に95歳で他界している。実はあまり重要な役ではない友人役で出演した女優が志賀眞津子。現在は92歳だそうだ。この「麦秋」がデビュー作だそうだが芸名の志賀にはわけがあって、父親が作家の志賀直哉の知人であったそうで、志賀直哉の推薦で小津安二郎監督に紹介されて女優になったそうだ。芸名を決めたのは志賀直哉だそうだが、自分の苗字を分け与えてしまったわけだ。かなり腑に落ちない話だ。

最悪だが最善とか

2018-04-16 00:00:16 | スポーツ
最近、「最悪だが最善」という声が多いのが一つは安倍内閣で、もう一つはサッカー日本代表監督だったハリルホッジ氏の解任。

安倍内閣は、米朝会談が行われて、なんらかの方向がみえるまでは代わらない方がいいというのは、いまさら関係する各国首脳との関係を再構築する時間はないからだ。

一方、ほぼ同じ時期に開かれるワールドカップの監督を代えようというのだから最悪なのだが、とはいえ代えなければならないのであるなら代えるしかないのだろう。

もっとも、「最悪の上に最悪」という人もいる。ようするに今までの経緯の中では本戦の3試合とも大敗しそうだが、今までは単にテストだが本戦では「奥の手」があるのだろう。あるいはないのだろう。というところで意見が分かれる。

歴代の日本の監督は、「日本人は個の力で負けるので、組織力で補う」というところに専念してきた。戦略戦術が監督ごとに違うといっても、ようするに予選では強者の論理、本戦では敗者の論理ということだった。

したがってハリルは「組織より個の力」と言いだしたため、協会・監督・選手の間にもやもやした疑念が生じてきていた。しかも言語の問題があり、ハリル監督はセビリア語ではなく、たどたどしいフランス語で語り、日本の協会も選手もフランス語はまったくわからないので通訳を通して監督の話を聞いて判断するしかなかった。そもそもセビリア語の通訳を用意すべきだった。個の力はいくら監督が叫んでも一朝にしてできるものでもない。

では、監督交代がこれほど遅れ、代わり映えしない西野監督になったのはなぜなのだろう。田島会長の言葉で「もっと早く代えるのなら、別の監督を探しただろうが、この時期なら内部昇格しかない」という意味のことを言っているのだが、真実はこの裏返しなのではないだろうか。

つまり、もっと前に代えようと人選を進めていたのだが、適任者を決めることができず、結局この時期になり内部昇格で西野監督になったということなのではないだろうか。

内部昇格、あるいは日本人監督といえば前五輪監督でハリルのお目付け役だった手倉森ヘッドコーチや現五輪監督の森安監督との比較ということになるだろうが、森安監督は別のチームの監督で、もはや手遅れということだろう。では手倉森ヘッドについていうと、確かに試合勘はすばらしいが、本田をはじめとする常連メンバーからすると「Wカップに出場したこともないのに監督ができるのか」と軽んじられてしまうだろうということと、要するに後からきたヘッドコーチが監督を追い出していわゆる下克上的すぎるからではないだろうか。

ただ、もしかすると実質的な監督は手倉森氏になるのかもしれないし、今後の展開では西野氏解任で手倉森監督誕生ということすらあるのではないだろうか。(たとえば第一戦大敗とかの場合)

ところで、本田選手はトップ下にこだわるようだが、強豪国と戦うと、守備的になり、陣形がペッちゃんこになるのだから、そもそもトップ下という仕事すらあるのかどうかわからない。長いパスをもっとも正確に出せる選手であり、また前線の足の速い選手へのパス供給が必須になるだろうから、モスクワ時代もやっていたボランチに特化した方がいいと思う。

一方、対戦国の立場で考えると、日本など眼中にないのだろうが、日本以外の3チームの力が拮抗しているとすると、なおのこと日本戦に引き分けたり負けたりすると致命傷になるということを考えているのではないだろうか。すなわち大量点を狙ってくるとか・・