日本キリスト(基督)教団札幌教会

2014-07-15 00:00:19 | 赤い靴を追いかけて
札幌で今まで発見できなかったミニポイント探し。『日本基督教団札幌教会』。実に明治37年の建築だが、この教会には、知られていない秘密がある。完成後2年目から3年目にかけて、ある一家が住んでいた。

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ヒューエット師一家。

弊ブログでは『赤い靴はいてた女の子シリーズ』として、2006年に発表。野口雨情作詞の『赤い靴』の中で、偉人さんに連れられて行っちゃた、はずの女の子が、実際にはアメリカに行かずに現在の六本木ヒルズに近い鳥居坂教会で9歳の短い一生を終えたことをはじめて明らかにしたのは、北海道テレビの記者菊地寛氏(その後、役員となり、北星学園教授に転進)であったが、さらに詳しく調査したところ、女の子(佐野きみ)の養父であるチャールズ・ウェズリー・ヒューエット牧師一家は確実にこの教会に勤務していた。

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当時、教会に勤めると言うのは、そこに住むことを意味するのか、あるいは近くに住んでいて通ってくることを意味するのかよくわからないが、断りもなく敷地に入らせていただき建物の裏側の方も見せてもらうことにした。私の調べたなかで、きみちゃんの生涯の中で、唯一現存する建物である。
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『赤い靴』定説に異論が・・

2007-12-20 00:00:26 | 赤い靴を追いかけて
知人で、弊ブログ愛読者のジャーナリストの方から、「今週号の週刊朝日に、『赤い靴』関係の記事が書かれている」という緊急速報をいただいた。「赤い靴」に関しては、弊ブログの中に「赤い靴を追いかけて」というコーナーを設けていて、それなりに念入りに調べたこともある。現在の『童謡・赤い靴』のモデルについての定説は、1978年11月に北海道テレビ(テレ朝系)が特集番組として、"岩崎きみちゃん"という実在モデルを探し出したことによるとされている。



調査にあたった菊地寛氏は、このドキュメント番組の1年後、現代評論社から「赤い靴はいてた女の子」という一冊の本を出版する。その本の内容は、どちらかというと、幻の女の子である岩崎きみちゃんを探し出すための菊地氏の汗と涙の追跡物語になっていて、実際には、きみちゃん自身には深く触れることができず、むしろ彼女を取り巻く明治末期の社会像や人間像を描き出すことに重点がおかれていた。

そして、追跡物語の最初の1ページは、「赤い靴モデルの異父妹」と、自ら地元北海道新聞社に名乗り出た、一人の実在の老女の話から始まる。菊地青年は、北海道新聞に勤めていたのだが、ちょうど創立まもない北海道テレビに転職するにあたり、この秘蔵のネタを全国ネットに流すまでまとめ上げる。彼は、その後、出世街道を突き進み、ついに常務取締役まで勤めた上、現在は北星大学教授の職に就いている。


ところが、週刊朝日によれば、「赤い靴の女の子=きみちゃん説」に異論を唱える人が出てきたそうだ。作家の阿井渉介さん(62)で、このほど「捏造 はいてなかった赤い靴」(徳間書店)という本を出版したそうだ。

要するに、この方は、菊地本はデタラメだ!と言いたいわけだ。商業主義に利用するための捏造である、ということらしい。私はまだ、本を読んでいないので、あくまでも週刊朝日の記事を読んだだけの範囲だが。


まず、菊地説の骨子を書いてみる。

1.岩崎きみちゃんは明治35年静岡に生まれる。戸籍上の父親は不明。実際は地元のやくざものである佐野某の子。

2.母親のかよさんは生活苦の末、自由の地、北海道に渡る。そして、そこで鈴木某なる男性と知り合い、結婚、そして開墾地に入る。

3.その時、きみちゃんを佐野某の勧めで、当時函館にいたヒュエット牧師夫妻に預ける。

4.しかし、開墾事業は大失敗に終わり、その後、鈴木夫婦は札幌に流れ着き、地元新聞社に勤めることになる。

5.その後、母かよさんは、ヒュエット夫妻の行方を捜したが、すでに米国に帰国していたということだった。そして、新聞社の同僚だった野口雨情に自分のこどもを外人宣教師に預けたことを話す。さらに何年かして野口雨情は、名曲「赤い靴はいてた女の子」の作詞を行った。

6.一方、ヒュエット夫妻は米国へ帰郷の際、きみちゃんを横浜から船に乗せようとしたのだが、すでに6歳のきみちゃんは結核を病んでいて、体力なく、しかたなく東京麻布の鳥居坂教会の孤児院に預けられる。そして3年後、きみちゃんは結核で亡くなり、現在、佐野きみと言う名前を青山霊園の墓碑に刻んでいる。

それに対して、阿井さんはいくつもの疑問点を上げ、きみちゃんとヒュエット師には接点はない、と書いているそうだ。また、週刊朝日の調査では、雨情は特定のモデルを想定して詩を書いたりしない、という説も紹介している。

しかし、それだけでは、なぜ、北海道にいたはずのきみちゃんが麻布で亡くなったのかも説明がつかない。

で、おおた説だが、

1.まず、きみちゃんの異父妹が現れて、「赤い靴のモデルの妹」と言ったことは事実なのだから、彼女たちの母親かよさんは、雨情に対して身の上話をし、そのまま詩になり、童謡になったと聞かされていたのだろう。だから、きみちゃんがヒュエット師夫妻の養子になったということ自体は正しいのではないだろうか。

2.しかし、ヒュエット姓ではなく佐野姓であったことだが、注意が必要なのは、米国には戸籍制度がない、ということ。つまり、日本で佐野姓であっても当座の問題はなく、米国に帰ってから名前を変えるつもりだったのではないだろうか。

3.他方、私が感じている菊地説の最大の謎は、きみちゃんが6歳の時に船に乗れないほどひどい結核症状だったとすれば、その後3年生き延びることはできないだろうし、さらに孤児院にいたらみんなにうつしてしまう。日本に残るとしたら、結核ではなく別の理由だったのだろう。

4.ほぼ、この話と裏返しなのが米国生まれの日米混血児のイサム・ノグチ少年。父が日本人詩人の野口米次郎で米国で地元女性にこどもを生ませ、勝手におきざり帰国。ほぼ同じ時代だ。イサム少年の場合、母親が、当時吹き荒れていた排日運動の中で日米混血児を育てることは不可能、と日本に子育てにわたってきたわけだ。つまり、ヒュエット夫妻も、米国に日本人のこどもを連れて行けば、いじめられるのがわかっているため、日本に残したのではないだろうかと思うのである。

5.さらに年譜を追うと、ヒュエット師は米国に戻る前に、一時日本から欧州へ、オルガンを買いに出張に行っている。当時、ヤマハがオルガンを作り始めたところだがまだまだ輸入品には追いつかない。ヒュエット師は欧州の後、米国に渡り、日本に戻ってくるのだが、オルガンを買うのだから、オルガンの弾き手として、奥様を連れて行ったのではないだろうか。そうなれば、その長い旅にきみちゃんも随行したのだろうと思うのが自然だ。その時、ヒュエット氏やきみちゃん自身も米国内の反日的ムードを感じていて、しかたなく孤児院を選択したのではないだろうか。

というような筋である。

ところで、現代に、この「赤い靴=きみちゃん」論争が、再燃するのは、それでいいのかもしれないが、おそらく議論がかみ合わないだろうと思うのは、それぞれの視点の違いがあるからだろう。

視点をきみちゃんにフォーカスすれば、

1.生まれる前に、父親はいなくなってしまった。(静岡)
2.母親は、結婚するときに自分を外国人に預けてしまった。(北海道)
3.外国人は帰国するときに、何らかの理由で自分をおきざりにした。(横浜)
4.そして9歳で結核で亡くなる。(東京)

ということだけで、別に童謡のことなんか関係ないよ、ということになる

また、童謡の起源について言えば、もともと創作というのは、まったく空想で作る場合もあるだろうし、事実をもとに作る場合もある。実の母親のかよさんだって、娘を手放した後のことについて、詳しく知っているわけはないのだから、さらにそれを聞いた野口雨情が正確なドキュメンタリーソングを作れるわけもない。換骨奪胎になるのはしかたがないと思えるわけだ。この歌詞の最大のポイントは、「赤い」靴であるのだから、なぜ雨情は女の子の靴を赤にしたのか、というようなことを考えた方が有用だと思うわけだ。

そして、赤い靴が商業主義に冒されているというのは、事実ではあって、あちこちに像が建っているのだが、血縁関係もなく育てたこともない鈴木さんの実家の青森県の鯵ヶ沢やきみちゃんが住んでなかった入植地にある銅像は、その権利はないと断言できる。終焉の地に近い麻布にあるきみちゃん像は確かに正統な場所に建っていると言えるが、横浜の山下公園については三角マークだろう。さらに山下公園に近い場所には、ホテル「赤い靴」まであるのだが、ものには限度があるのではないかと思っている。


史実が数少なく断片的である場合、歴史を解釈するには、補完すべき時代認識や類例などを考察することが重要である。私の知る限り、菊地寛教授(67)は、大学で、明治の日本人像を主たる研究対象にしているようである。30年ぶりに再度、ドキュメンタリー番組を創り直されたらどうなのだろうか。当時はパスポートというものが地球上に存在していなかった時代で、人の出入国の調査は大変な作業になり、米系船会社の乗船者名簿なども手がかりになる、と、やっかいな話をここに記しておく。
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赤い靴を追いかけて(7)

2006-06-18 00:00:56 | 赤い靴を追いかけて
さて、私はきみちゃんが明治38年から明治39年にかけて、ヒュエット夫妻と欧州、米国、そして日本と1年強をかけて世界一周したのではないかと思っているのだが、ということは、日本人女性として最初に世界一周をしたのではないか、とも考えているのだ。もちろん明治も39年にもなれば、海外とも多くの交流があるのだが、目的地と日本を往復するというのが一般的であり、世界一周というのは、ある意味で「旅行」という要素になってくる。当時の日本で考えれば、女性で世界一周旅行をするような状況だったのだろうか。

しかし、この仮説を証明することは難しい。逆に世界一周した女性の記録があれば、一号ではなかったことになる。そして確認しなければならないのは、明治4年(1871年)12月23日に横浜港を出航し、サンフランシスコに向かった岩倉具視、大久保利通、伊藤博文らの岩倉使節団のことである。一行の中に津田梅子はじめ5人の女性が含まれている。使節団は米国西海岸から大陸横断鉄道をつかいシカゴ、ワシントン、ニューヨークと視察した後、英国へ向かっている。その後欧州各国を歴訪したあと、スエズ運河を経由して明治6年(1873年)9月に日本へ帰国している。逆回り世界一周である。

実は、この岩倉使節団の世界一周であるが、彼らのコースが使えるようになってから間もない時期なのである。まず、米国の大陸横断鉄道が完成したのは1869年5月である。南北戦争のあと退役軍人の就職先がなく、ちょうど景気浮揚策として国家予算が投入される。そして実際の現場作業員としては中国人移民が多く従事していたと聞く。1866年に発明されたダイナマイトによって工事のスピードと工事犠牲者の数を上げていく。さらに、帰途に通過したスエズ運河も1869年に完成。ダイナマイトは発明後最初の3年間は平和利用によりさぞ巨額の利益をノーベルにあたえたのだろうと思ってしまう。つまり日本の使節団自体、世界の最新コースを使っているのである。

さて、この使節団には、5人の女性が同乗していたことが知られている。津田梅、山川捨松、永井繁、吉益阿亮、上田悌である。彼女たちは世界一周したのだろうか。実は否である。5人全員はワシントンで一行とわかれ、米国内に留学することになる。その先をいえば、うち二人(吉益と上田)は早々に病気を発病し、日本へ帰国。永井と山川はバッサーカレッジを卒業。一方、津田梅子は12年間にわたり米国に留まり帰国。その後、父親との折り合いが悪くなり、再度渡米し、フィラディルフィアのブリンマー・カレッジに再度留学。しかし、そのつど日本に帰ってくるのであり、世界一周コースには行っていない。(ブリンマー大学の少し下の後輩がイサム・ノグチの母である)


さて、ここまできみちゃんを追いかけてみると、どうしても100年の壁につきあたってしまう。麻布時代のきみちゃんの最後の3年間(6歳から9歳まで)についてはまったく、事情を知ることはできなかった。孤児院といっても、学校と教会と宿舎が一体化されているのだろうから、鳥居坂の東洋英和学園のあたりにいて、時々は外出もしていたのだろうと考えられる。



6e2da85e.jpg3年間の空白は埋めきれないものの、青山霊園に行ってみた。広大な墓地の中に二度目に鳥居坂教会の共同墓地を見つけることができた。墓地の中に入ると、逆にわかりにくい場所である。東京メトロ青山一丁目駅を出たところ青山通り沿いにホンダの本社ビルがある。そこを基点に青山通りと直角に六本木方面にむかう。道の左側に赤坂図書館があり、しばらく行くと、道の右側に青山墓地の外周の石垣が続く。そして数分歩くと、葬儀場の手前に、右側の墓地に上っていく小さな階段が現れる。3メートル程の高さの階段を上ると、墓地内なのだが、そこから5メートルほどのところに、鳥居坂教会の墓地がある。

墓地の正面には石碑があり、「キリストに在りて 世に勝ち召されて天にある 聖徒たちの碑」と刻まれている。石碑に向かって左側に黒い二枚の石板が並ぶ。向かって右側には上下二段にわたり58名の氏名が刻まれている。「佐野きみ」の名は上段の右から11番目である。一方、左側の碑には、現在のところ誰の名も刻まれていない。右側に刻まれた文字をよく見ると、何人かの書体にわかれている。おそらくある程度まとめてから石に刻まれたのだろう思われる。


6e2da85e.jpgところで、私は、教会の共同墓地にはどのような人々が埋葬されるのかよくわからないのである。きみちゃんが亡くなくなってから100年近い歳月が流れていることを考えれば、数年に一人ということなのだろうか。孤児院は相当以前に消滅しているし、また多くの人は個人で墓地を用意するものである。氏名を見ていると、めずらしい苗字の家族だろうと思える一族や、おそらくは夫婦であると思われる二人並んだ同じ苗字とかが見受けられる。実は、そのあたりの共同墓地に入ることの意味の糸口の一端は見つけていたのだが、今のところよくわからない。

というようなことを考えながら夕暮れの墓地に佇んでいた。きみちゃん以外の57人にとっても、無念でいっぱいの一人一人の自分史があったのだろうというような感情が涌いてきた。そして強いメッセージを体の内側から感じることになったのだ。


それは、左側の名前の刻まれないまま残されている、大空に向かう空白の石板からの力である。

「これ以上、不幸を背負ったまま亡くなっていく人たちがいないように」というアピール。


そして、「赤い靴を追う自分の内面の旅」も、いまだにいくつかの謎が未解決のままになっているのだが、「58名それぞれの自分史」、そして「空白の墓誌」を見ているうち、「もうどうでもいい」というような気分となっていた。


明治末期に世界に広がっていた大きなうねりの中で、翻弄された多くの人類の不幸を、少しばかりは思い続けるため、これからも時に私はこの青山の空間を訪れることにする。

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赤い靴を追いかけて(6)

2006-06-17 00:00:54 | 赤い靴を追いかけて
明治末期のヒュエット師の激しい動静について、もう少し考えてみようと思った。そして、この頃、メソジストの組織の中がどう動いていたのか。「日本キリスト教大辞典(教文館)」は、本としては最大級の重さがあるだろう巨書であるが、メソジストを調べると、1729年に英国で誕生した後、新大陸にわたり、19世紀中は分裂を繰り返していたことがわかった。

 1784年 アメリカメソジスト監督教会
 1828年 アメリカメソジスト教会

 1843年には奴隷制度に対する考えの違いから南北分裂にいたる。

 1843年 ウェスレアン・メソジスト教会
 1845年 南メソジスト教会
 1872年 アメリカメソジスト監督教会
 1873年 カナダメソジスト教会
 1880年 メソジストプロテスタント
 1881年 アメリカ南メソジスト教会
 1895年 自由メソジスト教会

きみちゃんの生まれた明治35年(1902年)当時は、主に、カナダの教会派とアメリカの二つの教会派の三派が勢力争いをしていた。元々ヒューエット師がどの派に属するのかは確認できなかったが、そういった勢力争いと無縁だったとは思えない。

そして、アメリカでは1939年に大合同が行われ、合同メソジスト教会となったのだが、日本では一足先に1907年に各派合同され、日本メソヂスト教会となっている。ヒューエット師が一時、欧州経由で米国に渡ったのが1905年秋。デンヴァー大学から再来日したのが1906年である。そして1908年に再び米国にわたり、以後日本には戻っていない。

次に、「ヒューエット師」を辞典で調べる。


Huett,Charles Wesley(1864-1935)。宣教師。米国コロラド州に生まれる。デンヴァー大学を出て、1897年(明治30年)来日。仙台・函館・札幌で働き、日本美似教会札幌教会の長老司を務める。三派が合同し、日本メソヂスト教会となった時、初代北海道部長に就任。この頃、旭川教会の会堂建築計画が進められており、部長として協力。
一時、デンヴァー大学の修士課程をとるため帰国。旭川教会のために、募金活動をし、礼拝堂建築費の約半額に当たるというオルガンを寄贈。これは製作後100年近くなる現在も用いられている。明治の終わりに帰国。晩年はロサンゼルス近いパサディナに住み、フォレストローン墓地に眠る。

野口雨情の童謡「赤い靴」の女の子はヒューエットに引き取られ9歳で死んだ子供であったという。

さらに、辞典にでてくる旭川(豊岡)教会のオルガンの件だが、2002年8月に教会で行われた100周年コンサートに出演された方のホームページから、教会ができた1902年の4年後(1906)年にオルガンが設置されたとの記載があった。礼拝堂が完成したのだろう。

それらをあわせて考えると、巨額資金が北米メソジストのいずれかの団体から日本につぎこまれたことが見えてくる。鳥居坂周辺の土地にしても安くはないだろう。そして、なにより日本のメソジスト統一の時に、自派に有利になるように考えたのではないだろうか。幹部候補として短い期間で修士課程を取得したのは39歳のヒューエットの選択ではなく、突然の教会命令だったのだろうと思う。あるいは、再度日本に戻る予定ではなかったものの、慌しい日本国内の動きに対応する政治的人事異動だったのかもしれない。

米国に行く前に欧州へ行った理由なのだが、私の仮説なのだが、「オルガン購入」だったのではないだろうか。当時のオルガンは欧州製(イタリア・フランス・・・)と米国製が主流で国産オルガンが誕生するかしないかの頃である。たまたま、ネット上で発見した旭川豊岡教会のオルガンの一部画像(ちょっと失敗気味の現存するオルガンの画像付き)を見ると、デザインに凝った欧州系のように見える。しかし、アメリカ製の中にも、欧州系デザインのものもある。オルガンを画像から鑑定する腕前はないので仮説もここまでであるが、そうなると欧州のどこかで旭川教会のオルガンの選定をした上、北太平洋航路の高速船に乗りアメリカに向かったということになる。(さらに、それから9年後、タイタニック号が2200人とともに大西洋に沈み、日本人としてただ一人乗船していた細野正文氏は助かった700人の方に入るのだが、”白人や女性を押しのけて救助船に乗った!”と疑われ、黙って耐えるしかなかったのである。)

当時、オルガンは教会の最大の資産であって、現存する100年物のオルガンの中にも欧州製で米国で使われていたものの中古が日本に流れてきたようなものもある。辞典に書かれているように会堂建設費の半分がオルガン代だったとすると会堂の建物の値段とオルガンの値段が同額ということになる。それだけの高額な買い物を「カタログ販売」で買うだろうか。現物を見に行きそうなものだ。

では、ヒューエット師が欧州経由で米国に渡った際に、妻エンマやきみちゃんは同行したのだろうか?。私は、同行したものと思っている。サラリーマンの海外長期出張というのではないのだ。単身赴任というのはちょっと考えられない。というか、エンマはアメリカ人なのだから、日本に残っている必要はない。ならばきみちゃんは同行したのかといえば、同行したのだろう。ただし、この時、戸籍抹消をしていないのであるから再び日本に戻ることは予見されていたのかもしれない。あるいは、オルガンを見に行ったならば、一人ではなく、いつも教会でオルガンを弾いていただろう(推測)妻(エンマ)や子供(きみ)を一緒に連れて行きそうなものでもある。

しかし、日本のどこから欧州へ向かったのかははっきりしない。当時、日本から欧州へ行くには、船便で約40日。開通したばかりのシベリア鉄道で20日程度だったのだが1905年は日露戦争中である。となれば船便であろう。欧州向けの出発港は金田一教授が語ったように神戸発ということでもないのだ。外国船の場合、横浜から神戸、長崎、上海、香港というように寄航しながらの航路が一般的だった。1907年に、きみちゃんと全く逆にアメリカで母子家庭に育った後年の世界的造形芸術家イサム・ノグチ少年がサンフランシスコから日本に向かった時、乗船した約2000人乗りのモンゴリア号は横浜経由で最終目的地は上海であった。神戸港ではなく横浜港から上海方面に出国することは可能であったのだ。

では、最大の謎である”1908年夏にヒュエット師が帰国した際に6歳のきみちゃんを連れて行かなかった理由”は何か?青山霊園の過去帳に書かれている死因である結核性腹膜炎は約半数が肺結核と併発している。いずれにしても3年間かけ、ゆっくりと進行するような病気ではないと思われる。結核ではない、別の理由があったのではないだろうか、と想像してみる。

きみちゃんと同時代人であるイサム・ノグチの伝記を読むと、少年が米国人の母と二人で日本に向かった最大の理由は、米国による人種排斥政策である。日露戦争による日本の帝国主義化に対し、アメリカでは移民法の公布をはじめ、日本人排斥運動が燃え上がっていたのだ。そして、おそらくは、きみちゃん自身も、欧州や米国を1年間見てきた経験から、自分一人で日本に留まることを決意したのではないだろうか。実際、きみちゃんが米国にずっといたとしたら、1940年代前半は強制収容所に送られたことは間違いない。

sapporokyokai1ところで、きみちゃん(ヒュエット師)の足取りを追っているうちにわかったのだが、ヒュエット師はデンヴァー大学から日本に戻ってきて函館教会と札幌教会に赴任しているのだが、その日本基督教団函館教会はその後、函館大火で焼失。が、日本での最後の任地である日本基督教団札幌教会(中央区北1条東1丁目)には、古い礼拝堂が残っている。ロマネスク調のレンガ造りの建物は、明治37年の建築である。つまりきみちゃんは、この建物ができて2年目から3年目の2年弱の期間をここで過ごしていることになる。

この事実は、今まで誰も記していないようだ。私が調べた中では、きみちゃんの生涯の中で、唯一現存する建物である。菊地記者も何度もなく教会の前は通っていたのだろう。そして、その頃、鈴木志郎とかよの夫妻は、皮肉なことに札幌の北鳴新報から小樽新報に移ったところである。さらに、明治41年4月頃、新聞社の倒産により失業。そしてヒュエット師が日本を去る8月頃には、残念ながら再び北海道の原野で開拓事業に従事していたのである。

続く
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赤い靴を追いかけて(5)

2006-06-16 00:00:46 | 赤い靴を追いかけて
20fc0920.JPG菊地寛記者の昭和50年から54年にかけての取材、そしてドキュメント放送、さらに「赤い靴はいてた女の子」の出版。ここまでが、とりあえずの集大成である。菊地寛記者にとっては、北海道新聞を退社し、誕生間もない北海道テレビへ転職してまもないこの取材が、出世物語の出発点となる。その後、彼は社内の階段を登り続け、常務にまでなる。現在は66歳となり、ついにテレビ局を退社する。そして、三番目の職場として選んだのは、札幌市郊外にある北星学園大学の文学部教授である。ジャーナリズム論が専攻である。運良く、大学のホームページを辿ると彼の写真があった。現在の研究課題として、「明治期から大正、昭和初期にかけての人間群像。時代と舞台が育んだ人間の生き様。」となっている。また自らの著書のトップに「赤い靴はいてた女の子」をリストされている。さらに、この北星学園は1887年、プロテスタントの宣教師、サラ・クララ・スミスさんが設立したスミス女学校から発展したものである。菊地教授による再調査はあるのだろうか。


ところで、当時の調査の中で、いくつか気にかかる点がある。問題を「きみちゃん」そのものに絞ってみる。

取材によれば、
1.明治35年7月15日に清水(不二見村)で誕生。母は岩崎かよ、父の記載はないが佐野安吉である。
2.明治36年の初め、母かよさんと二人で函館に向かう。ここでかよは鈴木志郎と知り合う。
3.明治37年9月19日に佐野安吉の養子となる。まもなくヒュエット夫妻の養女となり、母と別れる。ヒュエット師は札幌にいた。
4.明治38年、チャールズ・ヒュエット師は欧州へ向かう。さらに米国デンヴァー大学修士課程に学び、明治39年秋に帰国。函館、札幌と赴任教会を移動し、明治41年8月に米国へ帰国。
5.その際、きみちゃんは、結核のため、乗船できず、麻布にある鳥居坂教会の孤児院に預けられる。
6.しかし、病魔は彼女を逃がすことなく、3年後、明治44年9月15日、結核性腹膜炎で9歳の生涯を閉じ、青山霊園にある鳥居坂教会の教会墓地に眠っている。

私は、彼女の人生の粗筋にいくつかの疑問を持っていた。それらは菊地記者の取材を読むと、解決したものもあれば、依然としてわからないこともあった。

きみちゃんの人生で感じていた謎は二つ残った。

20fc0920.JPG一つは、チャールズ・ヒュエット師が欧州から米国へと日本を出国していた期間(1年から2年間)、きみちゃん、あるいは妻のエンマさんは、同行したのだろうか?あるいは日本にいたのだろうか。付随的だが、この短期間にあわただしく転勤を繰り返しているのはどういう事情なのだろうか。きみちゃんが一回出国していたとすれば、元々の童謡通りに異人さんに連れられて行っちゃたのに、また帰ってきたことになる。菊地記者は、この点をはっきりと記していない。全206ページの202ページ目に僅かに、海外へ出国し帰国した可能性を示すに留めている。

もう一つは、最初の疑問につながるのだが、6歳のきみちゃんが米国にわたらなかった理由は、本当に結核感染だったのであろうか。当時の医療水準から考えて、船に乗れないくらい病状がはっきりしている女の子が3年も生存することがあるのだろうか。あるいは、孤児院という共同生活を送るようなものなのだろうか、という点である。

私事だが、私は、ほんの短い2年間だが、プロテスタント(パプテスト)の幼稚園に通っていたことがある。無論、今は反宗教的な怠惰な日々を送ってはいるが、体の中に1%くらいの残存効果はあるだろう。全体として、ヒュエット夫妻ときみちゃんの関係については、ほんの僅かな違和感を感じる。


20fc0920.JPGさて、違和感を体感するために、私が歩き始めたのは、まだ時折、雪も降る頃からだった。まず、麻布周辺を歩く。最近、募金の累積が1000万円となったきみちゃん像のあたりには、あまり感じるものがなかった。募金の元締めの洋品店のご主人は、もの優しそうな方なのだが、逆に紳士過ぎて洋品店の経営が心配になってしまう。

次に、孤児院があったとされる場所は、なぜか神社になっているし、また大江戸線7番出口になっている。正確には孤児院といっても女性だけで、永坂孤女院と言っていたそうだ。児童に限らず、かなりの年齢の女性もいたそうである。そして、その敷地は鳥居坂の坂の下にあるのだが、鳥居坂を登ってみることにする。地図で見るとその坂の途中に鳥居坂教会があることになっている。

まず、麻布側から鳥居坂を登りはじめる。きつい坂道である。鳥居坂の由来は、江戸時代に親藩大名である鳥居氏が屋敷を構えていたからなのだが、この地が防衛上、重要な土地であったのだろうということがわかってくる。江戸時代を通して、幕府が警戒していた大藩は、島津家と伊達家なのだが、広尾方面に広大な屋敷を構え、現在も仙台坂の名を残す伊達藩と江戸城の間にあるのである。防衛線と考えたのだろう。そして、坂の右上には、新しい建物のシンガポール大使館がある。国交樹立してまだ40年らしいので、後年の取得だろう。そして坂を上りきったところに右に東洋英和学園の校舎群が並ぶ。その先、左側に鳥居坂教会がある。斬新なデザインである。明治の香りはもはやない。そして、そのすぐ先は六本木である。ロアビル脇の信号に出る。考えれば、孤児院の場所まで教会のものだったのだろうから、今のシンガポール大使館の敷地も含め広大な土地を所有していたことになる。メソジストはそれほど豊かな財政だったのだろうか?

さらに、日を改め、青山霊園に行く。なにか簡単に場所がわかると思っていたが、とんでもない間違い。結局、3回足を運んだ。内一回は空振りなのだが。

さらに、いくつかのキリスト教史関係の資料を読んでみた。さらに、造形芸術家イサム・ノグチの伝記も参考になった。ちょうどきみちゃんと逆パターンで、同時期にアメリカから日本に渡ってきている。

順に追うことにする。

続く
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赤い靴を追いかけて(4)

2006-06-15 00:00:03 | 赤い靴を追いかけて
「赤い靴はいてた女の子」3

函館で牧師を探す
菊地記者は、きみちゃんの行方を捜すのに糸口を函館で探すことにした。かよが安吉にきみちゃんを引き渡したのは函館である。さらに多くのキリスト教会がある。岡そのさんは「プロテスタント」というように聞いている。なにしろ両親はカトリックの宣教師をしているのだから、おそらく間違いはないだろう。その中で、地元の意見など総合するとメソジスト系の日本基督教団函館教会ではないだろうか、という説に傾いていく。しかも、教会では、以前養女をもらった牧師がいるというようにも伝わっているらしい。しかし、函館でわかったのはそこまでで、調査の範囲は東京に移っていくのである。


原胤昭とメソジストのつながり
菊地記者は、当時集めていた多くの資料の中に、どこにもはめこめないバズルを何枚か持っていた。その一つが原胤昭である。元刑務官でクリスチャンということまではわかっていた。さらに調査していくと、彼は青山学院の創成期の中心人物だった牧師の本多庸一と親しいことがわかってきた。青山学院は日本のメソジストの中心である。そしてきみちゃん探しは青山学院を中心に過去の記録を再調査するところから始まるのである。


テレビ放映が決まり、大型調査となる
年が変わり、昭和53年1月北海道テレビは、赤い靴さがしをテレビドキュメントとすることを決定する。さらに、その後全国ネットに流すことが決まる。ここまでの個人による調査が組織による調査に格上げになる。今までの調査についても、綿密に調査の穴がふさがれていく。番組のナレーターも倍賞千恵子に決まる。きみちゃんの行方がわからないまま、番組の収録は北海道の原野で進んでいく。

そして、ついに青山学院から、「可能性があるのは二人に絞られた」という連絡を受ける。一人はチャールズ・ヒュエット師。もう一人がチャンセラー・バーティルス師。特に、時期的にはヒュエット師は岩崎かよとほぼ同時期に函館・札幌にいたことがわかっている。そのため、アメリカにあるメソジスト本部にヒュエット師について紹介する。

しかし、本部からの回答では、”こどももいなかったが、養女の記録はない”とのことである。菊地記者はバーティルス師、ヒュエット師の実像に近づくため、ついにアメリカへ渡ることになった。


東京「雨情忌」・金田一春彦の感想
また、昭和53年2月に行われた雨情忌に菊地記者は現れる。「赤い靴」の童謡の女の子のモデル探しのヒントを探しにいったのだが、国語学者である金田一は、この歌の中で、二番の「ヨコハマ」というところが、詩の中で、もっとも荒っぽい表現と指摘する。1、2番の中で、全体が夢の中の話のように幻想的であるのに、具体的な地名が表現されているからだろう。それが故に、実際に横浜港から出航するというところにリアリズムを感じると推定する。さらに金田一は、「横浜からの出航ならば行先はアメリカである。欧州なら神戸である」と断定する(注:実際はそうとも限らないのだ)。


米国での調査
まず、カリフォルニアで調査は始まる。二人に絞られた候補のうち、バーティルス師の出身地である、モントレーに行くのだが、まったくのからぶり。次に、ヒュエット師の情報を得るためにデンバーに向かう。デンバー大学卒業ははっきりしている。しかし、それ以上の調査は簡単にはいかない、調査団はデンバーの町で、電話帳を片手にヒュエットという名の人たちに電話をかけ続ける。そして、ついにチャールズ・ヒュエットの親類を見つけ出すのである。

しかし、ヒュエットの末裔達はきわめて親切に調査に協力したのだが、どうしても養女がいたというような、”絶対的な証拠”を得ることはできなかった。帰国前に夫妻の最晩年の住まいがあるパサディナで二人の墓を見つけることができた。墓碑に刻まれたチャールズは1864-1935年、妻エンマは1870-1964年である。エンマの亡くなったのは昭和39年。岡そのさんが北海道新聞に投稿するわずか9年前であった。


ヒュエット師であることを確認
日本に戻った菊地記者は、その足で撮影が続く、静岡県日本平に向かい、岡そのさんと情報の分析を行う。そのさんが、母から何度か聞いた外人の名前が「シュミット」であるということだ。おそらく、母かよさんは、佐野安吉が死地を求め樺太に来た際に聞いたのだろうが、どこかでヒュエット→シュミットに間違えがあったのだろうと結論を付けることになる。


aaf5e269.jpg再び東京 墓地を捜索する
菊地記者は、その後、日本平はじめ、都内、横浜、函館の外人墓地を探し続ける。過去帳をたんねんに追う。そして行き詰まる。そして、発想を逆に考え始める。佐野家の戸籍に記載されていた、麻布で死亡届を出しているところから、港区の墓地をさがすことにしたのだ。最大の墓地は、青山霊園である。膨大な過去帳を大勢で探したところ、ついにきみちゃんの名前を発見することができたのだ。

佐野きみ 静岡県平民
昭和44年9月15日死亡
死因 結核性腹膜炎
墓番号 ・・・・・

墓番号を辿ると、そこは鳥居坂教会の所有であった。何らかの事情で9歳のきみちゃんは結核性腹膜炎で亡くなり、鳥居坂教会の墓地におさまることになった。


aaf5e269.jpg鳥居坂教会
鳥居坂教会はメソジストの教会である。その後の調査で、ヒュエット師は明治36年、37年には札幌で牧師をしていたのだが、明治38年に欧州へ出発したことがわかっている。その後、アメリカに行き、出身のデンバー大学で修士課程をおさめ、明治39年の秋、再び日本に戻っている。そして、日本に戻ったあと、あわただしく函館、札幌と赴任地を変え、明治41年8月にアメリカに帰国。この時、きみちゃんは日本に残ったわけだ。(注:菊地記者は、ヒュエット師が明治38年に欧州から米国に渡った際、きみちゃんが同行したかどうかは、あまり明確には書かれていない。おそらく同行しただろうというように読める)

なぜ、きみちゃんはアメリカに行かなかったのか。

菊地記者は「結核」のせいだろう、と結論付ける。出発間際に判明した結核感染のため、夫妻はきみちゃんを、当時鳥居坂教会が運営していた孤児院に預け、病状の回復を待ったのだろう。しかし、それは叶わなかった。

と書くことで書を閉じている。


しかし、いくつかの部分において、私には解釈できない点があったわけだ。

特に、きみちゃんのことを中心に考えてみる

続く
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赤い靴を追いかけて(3)

2006-06-14 00:00:25 | 赤い靴を追いかけて
 
本文
439cebed.jpg「赤い靴はいてた女の子」2

”人生はあざなえる縄の如し”とは、古い格言であるが、きみちゃんの物語は北海道へ移っていく。

函館で集まる三本の糸(鈴木志郎)
まず、鈴木志郎のこと。菊地記者は相当の調査を行っているのだが、実際に彼ときみちゃんには接点以上のものはなかったのだ。前半生については少し簡略に書く。彼は青森県鯵ヶ沢出身である。父は船大工で次男であった。ようするに、将来はどこかに出て行かなければならないのだが、そう簡単ではない。ゴロゴロしているうちに、青森と函館の間で賭場の仕切りの子分などやっているうちに追い出される。一方、鯵ヶ沢で知り合った神父さんのつてで、札幌の教会のコックの仕事を得て、働いていたのだが、いつの間に辞めている(その時に将来のきみちゃんの養父にニヤミスしているのだが未来は誰にもわからない)。また、その頃、日本国内で急激に支持者を増やしている平民社(社会主義活動)の影響を受けている。そして、再び、北海道函館にわたり、再出発をめざしていた。


函館で集まる三本の糸(かよ と きみ)
そして、そこへ現れたのが、岩崎かよときみの母子である。9月に出産したばかりのかよは、冬が明けるのを待ち、故郷を後にする。地元では母子家庭には社会的差別があったのだろう。新天地は、北海道であった。函館で約1年を過ごすうちに、鈴木志郎と知り合う。そして、交際がはじまっていき、志郎は二つの決断をする。一つは、かよと結婚したいということ。おそらくは、子連れ結婚でもと思ったのだろう。現代のように長寿時代ではなく、あちこちに片親はいたはずで、子連れ結婚自体は珍しくなかったと思う。そして、もう一つの決断は、函館を離れ、洞爺湖に近い留寿都村に開かれようとしていた「平民農場」に夫婦で参加しようということだった。

函館で集まる三本の糸(佐野安吉)
そして、かよと志郎にとっての運命とは別の運命がきみちゃんに始まる。実父である佐野安吉が函館に現れたのだ。

菊地記者もこの時、安吉が函館にいた理由はつかんでいないようだ。北海道の刑務所から出所したのかもしれないが、仮に収監されていたとすれば、それほど短期で出所したはずもないだろうから、やはり、かよときみのことが気がかりであったのかもしれない。また、この頃の安吉の行動の背景には、別の人物が関係していたのである。原胤昭という人物である。刑務官であり、クリスチャン。受刑者の更生に力を注いだ人物として、有名である。そして、佐野は函館でかよと志郎が、厳しい開拓者生活を始めようとしていることを知る。そして、きみちゃんの行く末も案じた上、ある策をはかる。

きみちゃんを外人牧師夫妻の養女に出そうということだ。

かよさんは、安吉からの養女案、来るべき厳冬の開墾生活、そしてこどもへの愛情との三面板ばさみのすえ、安吉にこどもを預け、鈴木かよとして留寿都村に向かったのである。

きみちゃんはこの段階で、岩崎きみから、佐野きみと名前が変わる。


開拓地での悲惨と脱出
留寿都村の平民農場は、結局は自然に立ち向かうには人力だけでは限界がある、ということを示すことになる。かよは故郷で一人で小作を続ける辰蔵を共同農場に呼ぶが、全国有数の温暖地である日本平育ちでは、わずか1年も経たず病死してしまう(岩崎家断絶)。さらに不作が続き、経営困難になる。そしてかよは自らの第二子を妊娠。ついに、鈴木夫婦はギブアップ。農場を退去し、札幌に行く。


「赤い靴」と野口雨情
志郎は、若干の文才があったのだろうが、新聞社に口を見つける。札幌第三位とは言え、発行部数わずか900の北鳴新報である。社長が東京方面で革新系とつきあいがあったようで、この新聞社に本州から流れてきた野口雨情とその後、石川啄木が加わる(注:啄木は北門新報だったという説もある)。その時、雨情夫妻と鈴木夫妻は一つの家を共同でシェアリングして借りていた。

のちに志郎、雨情、啄木はそろって小樽新報に移籍するが、結局、仲違いをし、それぞれの道を歩む。啄木は明治45年に早世。彼の残した刺繍「悲しき玩具」に登場する一節、「名はなんと言ひけむ。/姓は鈴木なりき。/今はどうして何処にゐるらむ。」は鈴木志郎夫妻のことだ。雨情はその後、童謡を綴る。大正10年に書いたのが「赤い靴」である。

(北海道の全紙は戦時中に強制的に北海道新聞一紙に集約された)


鈴木家のその後
そして、鈴木一家だが、大正2年に岡そのさんを出産。郵便局員を経て、室蘭の製鉄所に勤めるが、不況で解雇される。そして大正12年に樺太へ渡る。皮肉なことにカトリックの宣教師としてである。岡そのさんの記憶では、樺太時代、大正14年秋になぜか安吉が現れ、そこが彼の死地となったそうだ。その後、一家は国内に帰還。かよ昭和23年没。志郎は昭和28年没。


だが、菊地記者の調査は、この段階で大きな壁にぶつかる。きみちゃんの行方に近づけないのである。

続く
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赤い靴を追いかけて(2)

2006-06-13 00:00:10 | 赤い靴を追いかけて
b775e689.jpg「赤い靴はいてた女の子」1

妹からの投稿
著者である菊地寛氏は、昭和15年(1940)旭川生まれ、札幌の大学を卒業したあと、北海道新聞社で記者をしていた。そして、創立まもない北海道テレビに転職したのが昭和48年(1973)。ちょうどその年の11月のある日、北海道新聞夕刊に中富良野町在住の岡そのさんという女性から投稿に目がとまる。



私が生まれた10年も前に日本を去った姉。いまとなっては、顔も姿もしのぶよしもありませんが瞼を閉じると赤い靴をはいた四歳の女の子が、背の高い青い目の異人さんに手を引かれて横浜の港から船に乗ってゆく姿が目に浮かびます。この姉こそ、後年、野口雨情が。「赤い靴」に書いた女の子なのです。


菊地記者は、この誰かに訴えるような投稿を読み、その後2年間にわたり文通を行っている。そして、昭和50年の末頃、岡家を訪問し、そのさんの記憶に残る情報を取材している。そして、岡さんの母であり、きみちゃんの母でもある「岩崎かよ」の故郷である静岡県富士見村に向かう。ところが、富士見村は存在しない。清水市の一部になっていた。


岩崎家の戸籍
菊地記者は清水市役所で最初の壁に出会う。”親戚でもない人に戸籍を見せることはできない”と言われる。今後、ここに限らず、多くの場所で、記者は赤い靴の話をし、調査の協力を得ている。そして、戸籍を閲覧する。

岩崎家の戸籍は、戸主:岩崎清右衛門(弘化1-明治23年)、妻:せき(安政6-明治35)、長女:かよ(明治17年-)、長男:辰蔵(明治19年-)。そして清右衛門が亡くなったあと、戸主は辰蔵となるが、辰蔵の籍の中に、姪として、「きみ:姉かよ□□□女(明治35年7月15日)」と記載がある。□の部分は、後年塗りつぶされたそうで、元は「私生子女」と書かれていたそうだ。つまり、何らかの事情で父親の名前が記載されなかった。さらに、2年後、明治37年9月19日にきみちゃんは佐野安吉という男の許に養子縁組している。


佐野家の戸籍?
次に佐野家の戸籍を改めると安吉には恒吉という弟がいるのだが、奇妙なことに戸主は弟でその籍の中に安吉も、きみちゃんも入っている。きみちゃんの母の記載は岩崎かよと書かれていて、父の欄には、「佐」と一文字書かれたあと、斜線で消されている。そして、菊地記者のにとって、思いもかけない記載があったのだ。きみちゃんは、明治44年9月15日午後9時死亡東京麻布区提出となっていた。果たして9歳で東京でなくなったのだろうか。それでは、「きみちゃんがアメリカに行った」という岡さんの証言とは矛盾する。そして、この後、次々と調査上に登場する人物たちとの格闘が始まるのである。


岩崎家の事情
岩崎家は農家であった。ごく普通の農家の最初の不幸は、戸主清右衛門(きみの祖父)の早世(46才)である。その時、せきは31歳、かよ(きみの母)は6歳。辰蔵は4歳。一家はかなり生活に苦しんだと想像される。せきは、一時再婚し、農家の次男を婿にする。しかし、なぜか一男を得たものの、離婚。子供も手放してしまう。その頃、出入りしていたのが佐野安吉という男である。どうも地元で評判のワルだったらしく、鼠小僧の真似をして義賊風を吹かしていたらしい。その結果、刑務所との出入り生活を続けていたらしいのだが、どういうわけか、岩崎家がお気に入りになり、しばらく、せきと愛人生活を送っていたらしい。


きみちゃん出生の事情
一方、子供たちは成長し、かよさんは小学校を卒業したあと、甲府の方に奉公に出る。甲府は当時街道街として大いに賑わっていて仕事は数多くあったそうだ。そこで6年ほど勤めたあと17歳になったかよさんは、実家に戻ることになる。そして、運命の日、秋祭りのある日、村に戻っていた51歳の佐野安吉に出会うのだが、おそらくは言葉巧みに言い寄られ関係をもってしまう。そして同時に妊娠したのである。さらに、かよさんの出産を支えるべき母親のせきさんは、安産祈願に身延山へ向かった途中、旅先の甲府で落命してしまう。6月のことである。それから慌しく1ヵ月後、7月15日、きみちゃんが誕生する。  

続く

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赤い靴を追いかけて(1)

2006-06-12 00:00:21 | 赤い靴を追いかけて
255e99ff.jpg「赤い靴はいてた女の子の秘密」について興味を持ったのは、そう以前のことではない。しかも多くの偶然が重なり、昨年後半のある3日間のできごとが、奥深い洞窟への入口であったのだ。それは2005年11月18日(金)の夜に始まる。

当日は金曜の夜であり、当時、「現存12天守閣全制覇」の最後、12番目である弘前城へ登るべく計画を立てていた。冬季に長い休眠をとる天守閣に年内に行くには最後の週末だったが、きわめて短い日程しか許されていない状況だった。深夜の浜松町発の直通バスで早朝に弘前に到着し、午後、最終便で羽田に戻るまでの時間に太宰治のふるさとである津軽鉄道金山へ向かうことにしていた。

当日、バスの出発は夜11時頃だったと記憶している。まず、金曜夜は閉館時間が繰り下がっている上野の美術館で北斎展を見に行く。その後、日比谷線で六本木に向かい、ライトアップされたヒルズ周辺を歩き、初めて麻布十番温泉に浸かる。青森の温泉と較べようとしたのだ。その後、都営線「麻布十番駅7番出入口」から地下に降り、大江戸線で大門駅に行き、夕食をとってからバスに乗る。

翌日土曜は弘前で午前中を過ごした後、太宰治の生家がある金山にいくため、まずJRに乗る。弘前駅にあらわれたのは五能線「鯵ヶ沢」行の列車である。五所河原で乗り換え、雪の津軽鉄道に乗る。そして、同日青森空港から最終便で東京に戻る。まだ、「赤い靴」のことは何一つ知らない。

255e99ff.jpg「そして、問題の11月18日の日曜は、赤レンガ倉庫地区でのワインフェスティバルと山下埠頭で行われている現代美術展「横浜トリエンナーレ2005」へ行く。赤レンガから山下埠頭までは遠いので、バス乗り場に並ぶと、赤いバスが到着。これが横浜名物「あかいくつ号」であった。このバスは、普通のバス路線を走るのであるが、ガイドさんがいて「赤い靴」の由来を語る。そして、その話は、私を、未知の世界「赤い靴の秘密」の入口へ誘うものであったのだ。

バスの車内で、聞いた話は、およそ次のような内容だった。

1.赤い靴の童謡は野口雨情の作詞に本居長世が作曲をつけたもので、横浜港からアメリカ行きの汽船に乗って日本人の女の子が連れられていく情景が描かれている。明治時代の少女の悲しさが伝わってくる名曲と考えられていた。

2.しかし、ある時、この歌のモデルとなる女の子が実在していたことが、その妹と名乗る女性(岡その)があらわれたことでわかってきた。

3.以前、北海道新聞の記者だった野口雨情が同僚から聞いた話を元に作詞したものであり、調査の結果、その子は「岩崎きみ」という名前で、静岡県日本平で生まれた時には、訳あって父親がいなかった。

4.その後、母親(岩崎かよ)が、青森県の鯵ヶ沢出身の鈴木志郎という人と結婚。北海道留寿都村に新生活を始める。が、その頃、3歳のきみちゃんは、生活苦からキリスト教の宣教師の養子となった。

5.そして、米国人宣教師夫婦が帰国する際、きみちゃんを連れて行こうとするが6歳のきみちゃんは、重い結核に罹っていて、船旅に耐えることができない状態だった。

6.そして、預けられた先は、麻布十番にある鳥居坂教会の孤児院であったが、残念ながら3年後、9歳でこの世を去ってしまった。

7.そして、横浜だけでなく、日本平、麻布、鯵ヶ沢、留寿都村にきみちゃんの記念碑が建ち、各地で記念行事が行われたのである。

つまり、この話の通りだと、きみちゃんは横浜港から船に乗ろうとしたら、結核のため麻布の孤児院に送られてしまい、3年後、病死してしまう。生誕地の日本平と終焉の地である麻布はわかるが、横浜や鯵ヶ沢や留寿都村はきみちゃんには関係ないことになる。そして、これらの地名のうち二ヶ所(鯵ヶ沢、麻布)はこの数日の間に知らぬ間に異常接近していたわけである。

255e99ff.jpg「そして、少しずつネット上で調べていくと、この問題については、北海道テレビが昭和53年に特集番組を制作していた。テレ朝系で全国放送されている。当時、妹である岡そのさんの証言で調査が進められていたことがわかるが、なかなか調査の詳細がわからない。さらに、「岩崎きみ」という名前で紹介されているが、亡くなった時は、佐野きみという苗字になっていたらしい。米国人の養女になっていたはずなのにである。調べるにつれ、謎が謎を生み、わけがわからなくなっていく。また、彼女の終焉の地とされる孤児院があった場所は、現在、麻布十番駅の7番出入口の場所ということなのだ。

ところが、そのうちに、テレビで放送された内容を、調査にあたった菊地記者という方が一冊の本にまとめていることがわかった。まず、その本にあたるべきだろうという方針になる。書名は「赤い靴の女の子(現代評論社・昭和54年刊)」である。

ところが、今度はこの本が入手できない。何しろ出版社の”現代評論社”は現存しない。どうもマルクス経済関係の著者を多く抱えていたらしい。ではなぜ、その出版社が「赤い靴」だったのだろうか。見当がつかない。そして、片端から図書館データを検索しているうちに、港区の麻布図書館(つまり地元の一つ)に一冊所蔵されていることがわかった。

この本は、かなり傷んでいたのだが、一気に読み、206ページ全部を複写する。そして、仕方がないことだが、この本は、きみちゃんのことを書いたというよりも「きみちゃんさがしのドキュメント」の中で、明治末期の日本を描くということに主眼が置かれている。著者の菊地寛氏は、「岡そのさん」の証言から、多くの人物を洗い出し、その複雑な関係の中から、徐々にきみちゃんに近づいていく。調査は北海道、都内、静岡と各地にわたり、米国にも渡っている。そして、最後に東京青山墓地の過去帳の中にきみちゃんの名を発見するわけだ。つまり、そういう本としては一級品である。菊地氏は著書の中で、「普段は取材中にはメモはとらないが、今回は正確を期さねばならないので、メモをとりながら取材した」という意味のことを書いている。遠い過去の事実を正確に呼び戻すためである。


つまり、この本は、きみちゃんをとりまく人たちのつらく苦しい明治末期の物語となっている。しかし、きみちゃんについていえば、なお、数多くの疑問は残っている。なにしろきみちゃんが生まれて、今年2006年は101年が経過している。新たな資料を見つけることは極めて難しいだろう。ある意味で、ある程度の推定を加えながら考えていかないと、きみちゃんの秘密に近づくことは難しいかもしれない。菊地記者の調査でも、事実の部分と、想像の部分はわかれている。

以上のような事情であるので、まず、菊地氏の著書「赤い靴の女の子」の内容を追うことから、始めてみる。なお、その書には、現代では使わない差別用語や人権軽視の調査方法も含まれるのだが、それは本書のための調査活動が成立した昭和50年当時は、今から30年前であるということなのだろう。また、きみちゃんと強く関係のない部分は割愛することにする。また、一部には私が説明の注をつけることがある。

ただし、もはや100年も以前の日本に起きた悲劇を書くにあたり、事実をより悲惨な感情で描くことはやめようと思っている。人類は、過去の歴史を振り返った後は、また、未来に向けて歩き続けねばならないのであるから。
 
続く
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夜の図書館をはしご(下)

2006-02-17 07:33:10 | 赤い靴を追いかけて
藤堂家の家訓のコピーをカバンに入れ、次の目標に向かう。二つ目の目的は「赤い靴さがし」である。数日前に記載した「赤い靴をさがして」。北海道新聞記者の菊地寛氏が1979年(昭和54年)に書いた「赤い靴はいてた女の子」を読もうと思って、図書館情報を調べていたところ、偶然にモデルの女の子「きみちゃん」が亡くなった場所とされる東京麻布にある港区立麻布図書館に1冊存在することがわかったからだ。

広尾から、麻布まで裏道を歩く。伊達家下屋敷のあった仙台坂を下りて、麻布十番温泉方面へ抜け、麻布図書館に行くと、郷土資料室の中に「赤い靴はいてた女の子」があった。貸出期間2週間。そのついでに「きみちゃん」の亡くなった鳥居坂教会孤児院跡の前を通り、鳥居坂を上ってみる。シンガポール大使館脇の急坂を上り切ると東洋英和の敷地が続く。そして鳥居坂教会はこの東洋英和学園と一体化されていることがわかる。少しずつ、事情がわかってくるような感じがある。そして、その道は六本木につながり、ロアビルの横に出る。目の前にはドンキビルがあり、運転中止になった屋上の絶叫マシンのU字型の土台がスマイルカーブを見せている。

9cb55b9c.jpgそして、借出した菊地寛氏の著書を一気に読んでしまった。かなりの部分は、私が想像していた仮説と同じであった。幸いなことに彼の個人的調査は途中から、北海道テレビが全面的にバックアップし、線から面の捜索になったことがわかる。さらに多くの部分的発表を行ってからこの本を書いているため、多くの部分の信頼性は高いと考えられる。

しかし、残念なことに調査の大部分は「きみちゃん」のことよりも、その親たちや家族、養父母の捜索に費やされていて、たどりついた果ての「きみちゃん」の記載は少ない。歴史の壁は昭和40年台でもすでに厚かったのだろう。この追跡が始まったのは、実の妹である女性が昭和48年に名乗り出たことによるのだが、その9年前の昭和39年まで、きみちゃんの養母だった米国人女性は生存していたのだ。

その他、わかったこと多数。もっと調べたいこと多数という状態である。現代評論社というやや左翼系出版社から発行されたのは、この赤い靴の話が平民新聞と関係があったからかもしれない(というのは私の推測)。

ちょっと変わった情報としては、この著者の菊地寛氏だが、「赤い靴さがし」を始めた時は北海道新聞記者であったのだが、この本が出版される前には北海道テレビに入局している。もしかすると、北海道新聞の前身の一つである札幌の北鳴新報の記者だった石川啄木や野口雨情が次々に新聞社を移っていったことを知ったからなのだろうか、とも思ってしまう。(余談だが、明治末年の北鳴新報の発行部数は900部しかなかったそうだから、このブログと大差ないことになる)

そして、偶然わかったのだが、菊地寛氏は野垂れ死同様だった石川啄木や野口雨情とはまったく異なり、平成14年前半まで、北海道テレビの常務取締役を勤めていた。転職成功例。2006年時点では存命であれば66歳のはず。

赤い靴の話をきちんとまとめるには、あとしばしの時間が必要。そして、どういう切り口で書くべきなのかも思考中。
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さらに赤い靴を追いかけて

2006-02-10 08:43:17 | 赤い靴を追いかけて
c35b9f4e.jpg赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて行っちゃった
よこはまの波止場から 船に乗って 異人さんにつれられて行っちゃった
野口雨情作詞(大正10年) 本居長世作曲(大正11年)


この有名な童謡のいわれと、モデルとなった”きみちゃん”の悲しい9年間の歴史については、12月3日「赤い靴の秘密に迫る」に記載した。しかし、客観的な事実とまだいくつかの違和感を感じていた。


12月3日に書いた内容は、北海道新聞の菊地記者が昭和48年から6年をかけて調査した内容をもとに、多くの方によって書かれた、「赤い靴物語」を下敷きにしている。再び概略を書くと、物語は、きみちゃんそのものと、赤い靴の童謡の誕生と二つにわかれる。

まず、実在のきみちゃんは、静岡県清水市で「岩崎かよ」という女性のこどもとして生まれる。明治35年7月15日。父親は登録されていない。未婚の母子である。実際は「佐野安吉」という男との間に生まれたのだが、きみちゃんの出生時には、窃盗犯として刑務所に入っていたそうだ。その後、3年ほどして「岩崎かよ」は青森県鯵ヶ沢出身の「鈴木士郎」と結婚することになる。きみちゃんは、いわゆる連れ子として、新天地の北海道留寿都村に開拓に行くが、厳しい自然の前に失敗。なんとか士郎は札幌で地方紙の記者になるが、薄給でこどもの世話までできず、函館の教会の牧師である「ヒュイット夫妻」に養女に出す。きみちゃん3歳。

そして3年後、牧師夫妻には米国の本部から転勤命令が出ることになり、きみちゃんは米国へ行くことになった。が、夫妻の乗る横浜発サンフランシスコ行きの客船に、きみちゃんは乗っていなかった。結核のため、長旅が耐えられず(あるいは感染防止のためだったかもしれない)、麻布の鳥居坂教会付属の孤児院に引き取られ、3年後に亡くなる。享年9歳。

一方、鈴木士郎、岩崎かよの夫妻は、きみちゃんは米国へ連れて行かれてしまった、と思い込む。そして、大正10年になり、鈴木士郎の友人であった北海道新聞記者であった野口雨情に事情を話したところ、後にこの歌ができる。そして時代は大きく進み、昭和48年に、鈴木士郎、岩崎かよ夫妻のこどもである「岡その」さんという女性が「岩崎きみの妹」と名乗り出て、菊地記者が調べ始めた、ということになっている。


私が、この「きみちゃん」の話に、感じている違和感はざっと、次のようなことだ。

A.きみちゃんの墓碑には、岩崎きみではなく、佐野きみと刻まれている。

B.ヒュイット夫妻は函館や札幌にいたわけだ。一方、鈴木夫婦は北海道新聞。当時といえども郵便を送れば、消息はわかるはず。さらに夫は新聞社という情報に強い職場である。

C.きみちゃんは横浜から船に乗る前に、結核であり、身体を動かせない重態ということになっているが、その後3年間存命である。そして、きみちゃんを日本に残したなら、なぜ、鈴木夫婦に連絡しなかったのか。

私は、麻布や青山の関連地に足を運んだり、ネット上の関連情報を相当量読み込んでみた。もちろん関連する事実なども含め。すると、多くは上記の内容の内数なのだが、とりあえず検証困難な新説もあった。一番、大きな新説は、ヒュイット夫妻はきみちゃんを連れ、欧州から米国へ一旦渡っているというものだ。デンバーの大学院で1年留学した後、一時日本に帰国したというものだ。そして再出国の時、病気で足止めとなった。この説だと異人さんに連れられて行っちゃたけど帰ってきたことになる。さらにこういう説もある。鈴木夫婦は養育困難になると義賊だった佐野安吉にこどもを渡した、というのである。そして一旦、佐野が間に入ったために情報が断絶したというのだ。ありそうでもある。さらに鈴木夫婦と野口雨情とは同室に住んでいたという説と隣家だったという説がある。・・・

また、赤い靴に実在モデルがいるとわかった昭和48年から北海道新聞の菊地寛氏が調査した6年というのも長すぎるように感じる。ヒュイット夫妻のことは早期につかんでいて、渡米してはじめてきみちゃんの痕跡が米国内にないことを知ったのだが、・・

結局、その多くの謎を考える前に、もう一度、菊地寛氏の調査に近付いてみようと思ったわけだ。彼は、テレビ番組を作ると同時に、顛末を一冊の本にまとめていることがわかった。「赤い靴はいてた女の子・現代評論社・昭和54年3月」27年前の出版。

ところが、この本を探して読むのが難儀である。まず、絶版である。さらに現代評論社というのも現存しないようだ。この出版社は過去、左翼系の出版物を多く出しているのだが、「赤い靴」は左翼本なのだろうか?国会図書館の検索ページで見ると200ページを超える。館内で読むには厚すぎる。古本購入の線で考えるが、ネット上で拾えない。

図書館を探すが、私が使える範囲を手当たりしだい検索すると、国会図書館と多摩センターにある都立図書館にはあるが、館外不可。さすがに本場の神奈川県立図書館には、川崎と桜木町に1冊ずつあるが場所が遠い。横浜市立図書館には2冊あって、1冊は館内専用で、1冊は貸出可能となっている。やっと1冊が近付いたわけだ。ところが、なぜか、その1冊は現在貸出中なのである。とりあえず、予約を入れる。ただし、次が私の番かどうかよくわからない。数週間内に、貸出可能になったらメールが来ることになっている。いつまでもこなければ、川崎駅からバスに乗って県立図書館に行くことになるが、実はこちらも現在、貸出中なのだ。ということで、「この続編」はもう少し先に書くことになる(と思う)。なにしろ、その本を読むだけで事が済むのかどうかもわからない。

追記:とりあえず、自力で発見したことの羅列。

ア.北海道新聞の記者の名前は、菊地寛であって作家の菊池寛とは一文字違う。

イ.ヒュイット夫妻が函館から帰米した明治40年頃には、鳥居坂教会を含むメソジスト派が北米では3派に分裂。統一性を保っていた日本側と見解の相違があった。日本では学校教育に熱心で、東洋英和、麻布学園、青山学院、東京女子大などを設立している。

ウ.孤児院の場所、墓地の場所を特定。

エ.麻布十番に、きみちゃんの銅像発見。1989年佐々木至氏の作。近くの洋品店でチャリティ絵葉書を100円で販売している。  
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「赤い靴」の秘密に迫る

2005-12-03 22:22:41 | 赤い靴を追いかけて
9e7890de.jpg赤い靴はいてた女の子 異人さんにつれられて行っちゃった
よこはまの波止場から 船に乗って 異人さんにつれられて行っちゃった

野口雨情作詞(大正10年) 本居長世作曲(大正11年)

外人=異人=人さらい という関係を日本人に刷り込むためのイメージソングなのだが、調べてみると二重にも三重にも誤りが重なった話だった。

横浜桜木町の駅から、赤レンガ倉庫まで、土日100円の市バス「赤い靴号」に乗る。「たからくじ」の収益から無料で横浜市に寄贈されたものらしい。つまり、たからくじのはずれが財源ということで、私のハズレ券分からも赤ペンキの1ミリ分くらいあるかもしれない。

そして、バスはバスガイド付き(本当は市役所の女性)で、この赤い靴号の由来となる、「赤い靴の女の子」の話を聞いてしまう。そして、その話によれば、この歌と事実とは違う、ということなのだ。さらに、現在、赤い靴の記念碑や銅像が建っているのは横浜の他、東京麻布、静岡日本平、北海道留寿都村、そして青森県鯵ヶ沢(あじがさわ)という地名を聞いてびっくりしてしまった。何しろ、昨日、弘前発鯵ヶ沢行きの列車に乗ったばかりだからだ。どういう関係なのだろうか。

後日、調べると、この「赤い靴」の作詞は、実話が元になっていることが、わかった。そして、この作詞ではたいへんかわいそうなことに人さらいに連れ去られるようなイメージなのだが、大きな大きな誤解があったことがわかったのだ。それは、昭和48年11月に北海道新聞への1通の投稿記事があったことからわかっていく。

投稿は「岡その」という女性からのもので、「赤い靴」の中に登場する女の子は、「私の姉です」というものだったのだ。なぜ、北海道新聞なのかというと、この作詞家野口雨情は北海道新聞に勤めていたからで、さらにそのこと自体が彼が作詞をおこなった曰くに関連する話であったことが、その後明らかになっていく。

そして、この「岡その」の投稿を読んだ北海道テレビの菊地寛(作家ではない)氏が大きな興味を持ち、ドキュメンタリーにするため、関係各地(アメリカまでも)に足をのばし、6年かけて大調査を行っている。

まず、この話に登場するのは、岩崎かよという女性である。この女性は静岡の日本平の近くに住んでいたのだが、ある時シングルマザーになる。実は相手の男性は籍を入れる前に刑務所に行ってしまったのだ。そして、明治35年7月15日、静岡で岩崎きみが生まれるのであるが、このきみさんが歌詞のモデルなのである。

現在でも、シングルマザーはなかなか生活が大変なのだが、当時も同様、生活に困窮していたところ、かよさんは鈴木志郎という男性と知り合う。そしてこの男性が青森県鯵ヶ沢の農家の出身者だったわけだ。二人+きみさんは新天地を求めて、北海道の留寿都村(函館と札幌の中間)で開拓農業を行うのだが、失敗し、無一文になる。そして、なんとか都会である札幌へいって志郎は地方紙の記者になるのだが、こどもの養育をすることまではできず、函館にある教会の牧師であるヒュイット夫妻に養女に出す。これがきみちゃんの3歳の時である。

そして、その後きみちゃんも新しい両親との生活に慣れたのだが、3年後に、このヒュイット牧師に教会本部から転勤命令が通達される。アメリカへ行くことになったわけだ。当時アメリカへは横浜港から客船で向かうことになっていた。これが、横浜から異人さんに連れて行かれたという曰くなのである。と、ここまではどうも「親権放棄」というような話で、何も異人さんを「加害者」と考えるもの問題があるように思える。

ところが、真の悲劇はここから始まる。函館と札幌と離れていても手紙等でかよさんはヒュイット夫妻がきみちゃんを連れ、アメリカに行くことを知るのだが、事実はそうはならなかったのだ。函館から東京まで到着した段階できみちゃんは高熱の発熱を起こす。しばらくの看病で熱は引くのだが、病名は「結核」。船旅は困難になったのだ(船旅が困難になった理由として、他の乗客への感染のおそれ説と体力不足説があり、どちらかは不明)。といっても夫妻には次の仕事が待っているので困窮する。

その結果、きみちゃんは6歳にして、2回目の「親権放棄」という仕打ちを受けることになる。横浜港に向かうことなく、東京の麻布永坂にある鳥居坂教会に付随する孤児院に入れられることになったのだ。その場所は現在の十番稲荷神社の場所であるということがわかった段階でびっくりしてしまった。というのも鯵ヶ沢行きの列車に乗る前日に行った麻布十番温泉の目の前にあった神社だったからだ。私の方にも偶然が重なる。

そして、このきみちゃんはこの後、3年で病に倒れることになる。享年9歳。墓地は青山墓地にあり、孤児院で亡くなったこどもたちの列の中にきちんと名を刻む。

つまり、歌詞では、異人に連れて行かれてかわいそうだという内容なのだが、本当はもっともっともっとかわいそうだったのだ。92年も前の話だ。

一方、かよさん夫妻はその後生活を立て直し、きみちゃんが亡くなってから4年後に女児を得る。これが58年後に投稿した岡そのさんである。しかし、夫妻は、きみちゃんはアメリカへ連れて行かれて元気に成長しているだろうと勘違いしたまま、以前、手放した頃への懺悔の気持ちを持ち続けていたわけだ。そして夫の志郎が、北海道新聞の野口雨情にその妻の気持ちを漏らしたところ大正11年に作詞、作曲がそろい、曲は曲として虚実無関係に有名になっていったのだ。

ところで、考えてみれば、きみちゃんは実話の上では横浜にはこなかったのだから、山下公園の銅像もおかしいし、街中を走る「赤い靴バス」もおかしい。鯵ヶ沢に銅像ができるのも変だ。鈴木志郎があらわれたからきみちゃんが養女に出されたようにも思える。生地である日本平と孤児院のあった麻布は正々堂々と銅像OKだろう。北海道留寿都村は微妙なところだ。むしろ函館にあってもいいかもしれないとか思うが、いくら今頃銅像を建てても誰もシアワセな気分になるわけでもない。

もし、この話に救いがあるとすれば、それは菊地寛氏の長い追跡の過程の中にあるのかもしれない。彼は、米国まで行っているということなのだが、無論それはヒュイット夫妻の影を追ってということだろう。きみちゃんが米国に行っていないことがわかっていれば、そういう調査にはならなかっただろう。いくら探してもみつからなかった幻を、徐々に追い詰め、最後に青山墓地の墓銘碑に刻まれた名前を発見した時の感動。さらに事実の全貌を知った時の彼の戦慄を考えたとき、少しばかりは、うらやましい気持ちになるのだ。

ただし、私なら、きっと、6年もかけずに、1/10のコストで1ヶ月程度で発掘できるとは思う。

追記:「赤い靴」では、自分が「アメリカに行っちゃった」ことになっている「きみちゃん」の立場で考えてみれば、
生物学的父親は、「刑務所に行っちゃた」
生物学的母親は、「鈴木さんちに行っちゃった」
養母養父は、「アメリカに行っちゃった」と言いたくなるだろう。
一方、自分のところにやってくるのは、童謡を作って儲けた人たち、
ドキュメンタリー放送を作ってもうけた菊地さんたち、
今なお、バスに名前をつけたり、銅像を作ったり、クッキーになったり・・・・
実は、麻布商店街では「赤い靴募金」というのがあるらしい。続きは、またいつか・・
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