1 ShotLog-20 下から見たり、上から見たり

2006-09-30 01:04:08 | PHOTO
002a61e1.jpg
東京は、上から見ると、あまり美しくない、と言われる。六本木ヒルズからの眺めは、ぜんぜんよくない。

といっても、ヒルズの住人のうち一人は、まもなく眺望を失うことになりそうなので、今が見納めなのかもしれない。

要するに、街にポリシーがないため、雑然としている。さらに制限法令が時々変わるので、ビルの構造もまちまちになる。「美しい日本」とか、また新しい考え方が登場して、新しい規格でビルが100本ほど建ち、また次の政権で・・


そのため、ビルを下から見たほうが被写体としては様になることが多い。ビルと空間の間合いの取り方だ。


002a61e1.jpg

ところで多くの高層ビルの展望室は有料で500円程度必要なのだが、無料の場所がある。都庁である。ガウディのサグラダファミリアの様に塔が二本並んでいて、どちらも無料だ。

思い切って逆光を利用して地上の混沌を消去してみた。杉並方面。高級住宅街も低級住宅街も、逆光の前にはみな平等だ。欧州系の宗教団体が布教活動に利用する肖像画では、いつもご神体に後光が描かれているが、「神の前の平等」ということか・・





002a61e1.jpg実は、無料を利用して、ツアーに組み込んでいるツーリストがある。赤坂のサントリーホールの無料オルガンコンサート(月1回の昼休みの無料開放時)にも、略称キンツリというツアーが押しかけて、顰蹙を買っていたが、都庁には外人ツアーがくる。

たまたま、この日は、エレベーター同乗者にBRICS系の方々が乗りあわせ、カレー専門店の匂いになってしまったのだ。  
コメント

タイヤを換えた

2006-09-29 00:00:08 | マーケティング
09eecfba.jpg福岡の海中転落事故のせいもあり、タイヤを買い換える。36,000キロ走行したということで、もう少しがんばることはできるかもしれないし、スリップラインも出ていないのだが、元々スポーツタイプのクルマのファクトリータイヤなので、溝が浅く、雨の日はよくスリップしていた。それと、いつもの通勤路にガソリンスタンドがあるのだが、交換済みの古タイヤの山を見ると、どうみても自分のタイヤよりきれいなのが多い。夜中にそのまま自宅まで転がして行けばよさそうだが、見つかった場合、失うものの方が大きそうなのでやめておく。それに、次のクルマの買替えの時期までの予想距離とか考えると、もう買ってもいいかな、ということ。

ところが、タイヤというのは選ぶのが難しい。もともとの純正タイヤはダンロップだったのだが、ファクトリーモデルは安っぽい。どうせ金を払うなら、普通のタイヤの方がいい。問題は、どういう目的でどういうタイヤを買えばいいかなのだが、これが簡単な話ではない。タイヤの機能というのは様々で、長所と短所がそれぞれ相反する。まず、どういう機能が求められているのか。

高速での制動力、コーナーでのグリップ力、雨の日の排水力。そして駆動を無駄なく路面に伝えなければならない。さらに、できれば腰骨にも優しい柔らかさとか路面音を拾わないような静粛さ。さらに燃費は重要だし、タイヤそのものの耐久性も重要だが、運転性能に影響しないように軽いほうがいい。

ところが、それらは相矛盾した要素であり、すべてを満たすタイヤは不可能である。となれば、自分で、どういったシチュエーションでクルマを使うか?ということを決めなければならないのだが、これは難問だ。

だいたい、その日によって、高速道路を2時間半運転して群馬県にゴルフに行ったり、雨の中、近くのスーパーに行かなくてはならなかったりする。腰痛の出るジメジメした日は、限りなくショックがないようにマンホールの蓋だってよけて運転することもある。犬を乗せたり、液晶テレビを買って車で運ぶときは、慎重に運転するし、時には、砂利混じりの近道を走ったりする。

例えばの話、愛人Aを同乗させると、18歳免許取立てのような荒っぽい運転を要求されることもあれば、愛人Bを乗せたときはハイヤー運転手のような滑らかな走りが必要なこともある(と単に想像)。

靴ではないのだから、そのつど長靴やスニーカーや高級品や安全靴に履き替えるわけにはいかない。すべてを1種類で対応しなければならない。

その結果、ごく普通のタイヤを選ぶことになる。

メーカーも国産は主に4社。ブリジストン、ダンロップ、ヨコハマ、トーヨー。輸入はミシュラン、ピレリなど。結局、4本計で1万円高いがブリジストンにする。どういうタイヤかというと、「運転が楽になるタイヤ」ということらしい。まったく抽象的だ。実際は、ハンドルが軽くなったが、直進性がちょっと落ちたような。ただ、高速でのグリップ力は今までより格段に優れているような気がする。自分でトライはしないが、早実・斉藤投手の球速くらいは楽に出そうである。

ミシュランはゴムが堅いので燃費はいいが、第四腰骨に優しくない(ちょっと曲がっているので)。ベンツを買った時のためとっておく。

ところで、タイヤの世界はかなりの寡占が進んでいて、世界的にはミシュラン、ブリジストン、グッドイヤー3社で世界シェアの過半を握っている。さらに日本勢3社など上位10社程度でシェア8割が握られている。また、ラジアルタイヤの中に使われるワイヤーには過度の性能が求められ、高級品を作れる鋼材メーカーは限られている(新日鉄釜石など)。それなのに、価格競争はかなり厳しい。早い話が付加価値がつけづらいところによる。


少し前のことだが、ある大手石油会社(来月上場するのだが、一兆円もの有利子負債を抱え、さらにその約半分は1年以内の返済時期という瀬戸際状態で上場審査をパスした、というのはどうにもわからないのだが)の話を聞いた。自社ブランドのタイヤを系列スタンド売ろうとしたのだ。

ブランド名は既に忘れてしまったのだが、その石油会社はタイヤを米国のメーカーにOEMしたわけだ。そして、アメリカ的に納期はズルズルと遅れ、日本にタイヤが到着したのは、全国一斉販売のわずか数日前ということだったわけだ。東京の配送センターに全国へ出荷前の新品タイヤの山ができる。そして、運良く(運悪く)問題が発覚する。

タイヤ表面から数センチ程度のゴムの糸とか紐状のものが、あちこちに、ピュッと飛び出していたそうなのだ。早い話がどうでもいいような話だが、表面の仕上げが完璧でなく見栄えが悪いわけだ。もちろんちょっと走れば関係なくなる。ゴムの小さな突起など、アメリカ人は気にしないのだろう。

もちろん、日本ではそうはいかない。突起付きタイヤでは1本も売れない。そして、その会社では関東地区にいる社員を大集合させ、文字通り人海戦術に頼るしかなかったわけだ。もちろん、各自、机の中から事務用ハサミを持参しなければならなかった。実は、ハサミで突起を切り取る作業自体は、きわめて簡単なのだが、それよりも神経と体力をすり減らしたのは、重いタイヤの包装を一本ずつ開封し、ハサミで整形してから、また元の包装に戻すという作業だったそうだ。

つまり、長く果てしない徹夜の懲役作業が、深夜の倉庫で続けられていたわけなのである。

その後のタイヤ担当者の運命は不明だ。  
コメント

[さかな・魚・肴]公文書館で?

2006-09-28 00:00:48 | 美術館・博物館・工芸品

225c8d45.jpg国立公文書館が「心を入れ替えてくれた」おかげで、たいへん面白い。力作型の企画展を続けてやってくれる。今回は、「さかな・魚・肴」という題目で、江戸時代の魚類図鑑、漁業図、料理法などの書物を展示していた。

しかし、「料理本が何で公文書なのか?」と思われるかもしれないが、この公文書館の資料は大きく二種類なのである。一つは、明治以降の政府の文書。これはまさに公文書。そして二つ目は主に江戸幕府が保有していた紅葉山文庫と言われる古書類である。

勝海舟と西郷隆盛が今の田町のあたりにあった薩摩藩蔵屋敷で江戸城無血開城の取り決めを行った結果、無事新政府に引き渡されたのだ。公文書が59万冊、古書が48万冊と言われる。

つまり、展覧会とかしようと思うと、「資料の海からの宝探し」に苦労するということ。

そして、今回の展示の一つのポイントは、料理本である。日本最古の料理本が出展されていた。題して「料理物語」。しゃれた名前がついている。1643年の著で、作者不詳とのこと。注目すべきは、魚料理だけでなく、猪、鹿、兎、狸の調理法も記されているということ。別に肉食がタブーだったわけではなかったようだ。


そして、古文書だけでなく公文書エリアでも展示会が行われていた。「江戸を東京と称す」「満州事変不拡大の方針」「終戦の詔書」「日本国憲法」などの本物や複製。その中に「国民所得倍増計画(1960年)」というのがあった。10年間で所得を倍にしようという計画だ。

これらの展覧会への出展品は素晴らしすぎるホームページで見ることができるが、本物は展覧会へ行かないと無理だ。ホームページには、戦争当時の外交文書などもあるようだが、とてもすぐに読みきれるようなものではない。じっくりと楽しむにはいいと思う。


  
225c8d45.jpgところで、所得倍増計画といえば、できたばかりの安部内閣だが、売り物は「目標成長率4%」ということだそうだ。そうすれば、財政赤字や富の不均一の問題とかなくなるだろうというわけだ。4%で10年経てば、複利で48%になる。所得半増計画ということだ、もちろん、それができれば問題ないのだが、例えば3%成長を続けるアメリカは人口増加国である。人口減少気味の日本で4%成長を成し遂げるには、猛烈に働かなければならないだろう。

では、どういうことになるかといえば、「役人の削減」ということなのだろうと思う。首相は自分の給料をカットしたのだが、本当は給料カットではなく、役人の数を減らし、その分、生産人口に組み入れようというのだろう。再チャレンジという大臣の仕事はここにある。もちろんニートやフリーターもどんどん働け!働け!ということになるだろう。そして税金は、払え!払え!
  

コメント

ある事故現場(2)

2006-09-27 00:00:53 | 市民A
5c51eab7.jpg1977年(昭和52年)9月27日。天候、晴れ。

現在、大入公園と呼ばれる場所。そこは、東急田園都市線江田駅より北に徒歩15分程度の丘陵地である。当時、東急が宅地開発を行っていた地区である。まだ、田園都市線はダイレクトに渋谷まではつながってはなく、一旦、二子玉川園駅で大井町線に乗り換えなければ都心に行けなかったのだが、それでも田園都市線が渋谷まで延伸するのは時間の問題であった。そこへファントムが墜落した。

米軍機が墜落した現場は、古くから点在する地元民の住宅や、遊休地を活用したアパートが点在し、さらに宅地造成のブルドーザーが入っていたそうである。まだ、現在のように住宅が密集しているわけではないが、それでも多くの人が住んでいた。さらに南に1キロには江田駅があるし、東名高速が駅の付近で鉄道と交差し、近くに港北PAがある。墜落現場としてはかなり不適切だ。

5c51eab7.jpgそして、ファントムは北側の低空から突っ込んできたわけだ。機体をコントロールしようにも、既に二人のパイロットは上空で脱出済み。現在の公園のある場所に飛び込んだ機体は、アパートや民家など3棟を全焼させる。被害者は9名。うち、南側に住んでいたHさんの家には、燃料が噴きかかり、母子3人が火に包まれる。運び込まれた昭和大学藤が丘病院で3歳の長男の死亡が確認される。1歳の次男も翌日亡くなる。母親も当初、意識不明状態が続き、以後、長い入院生活が始まる。

新聞によれば、墜落後、直ちに米軍ヘリが到着し、パイロット二名を連れて行ってしまう。目撃談からだが、原因はエンジンからの燃料漏れ、および、それに引火したのではないかと書かれている。在日米国大使が遺憾の意を表し、防衛庁長官・防衛施設庁長官が現地に急行する。そしてこの事故の補償は「日米地位協定」により、すべて日本が行うことになる。


ところで、米軍機がどうして、基地のない横浜に墜落したのか?

新聞などをよく読んでいるとわかってきた。このファントムは厚木基地(座間)から離陸し、伊豆大島付近を航海中の空母ミッドウェイに向かう予定だった。しかし、ミッドウェイの本拠地は横須賀。大規模基地が厚木と横須賀と2箇所もあり、神奈川県民は、どちらか一つにしてほしい、と思っているかもしれないが、そうはいかないのである。

と言うのも、空母と艦載機の関係がある。空母はもちろん飛行機の滑走路を甲板上に持つのだが、何しろ距離が短い。離陸に関してはカタパルト式発射装置を使うとともに向かい風状態を作るため、空母自体が風上に向かって全速航行する。着陸も尾翼付近からパラシュート型の減速装置を使う。従って、空母が横須賀に入港した後では、風上に向かって航行することができず、陸上で飛行機の整備ができなくなってしまう。このため、横須賀に入港する直前に空母から厚木基地に飛行機は移動する。そして空母が横須賀を出航し、伊豆大島あたりに差し掛かった段階で、再度空母に戻る、ということになる。この墜落したファントムも厚木から離陸し、一旦北上した後、進路を南に変え、茅ヶ崎を目標として南下していた途中だった。

つまり、空母の母港ということは、もう一つの陸上基地も必要ということだ。

5c51eab7.jpg新聞では、パイロットの脱出が早すぎのではという疑問も記されているが、進路が南だったことを考えれば、さらに住宅密集地の上に墜落するリスクが高まることになりそうだ。このコースでは本来、墜落は許されないのだ。


そして、事故から4年経ち、昭和57年1月26日。皮膚移植をはじめ、60回の手術を繰り返していた母親が亡くなる。31歳。


ところが、この事故は、その後、政治性を帯びていく。横須賀に「平和の母子像」が建てられる。そして山手にある「港の見える丘公園」に遺族からの寄贈という形で、「愛の母子像」が設置される。しかし、像と合わせて碑を建て、米軍機墜落の犠牲者であることを記すことには横浜市が応じなかった。その後、「愛の母子像問題」は解決まで21年を要し、中田市長により2006年1月、母子像の台座に事故の経緯が刻まれることになり、決着する。

しかし、残されたHさんは今でも現場に住まれている。そして母親が亡くなられて半年後、墜落現場は公園化される。覚えておきたいという人たちもいれば、忘れてしまいたいと思う人もいる。人々の心の中で、記憶が記録に変わるには長い年月が必要なのだろう。

そして毎年、9月27日には、横浜各所で米軍や防衛庁に対する抗議集会が開かれている。


ところで、ここから先は日米安保条約に対する個人的な意見。

日米同盟の現在の姿を考えれば、基本的な二国間のポジションを定めた片務的な「安保条約」と、その片務性を米軍の費用の肩代わりなどのおカネに変換した「地位協定」の抱き合わせ条約というのが骨格だが、実質的には憲法よりも重要なものになっている。一方、この条約について、国民の大多数は空気のように感じていて、深い関心を持っていないのかもしれない。この条約には自動更新条項が付いているため、なんとなく「憲法のように半永久的に続くだろう」と、思われているのだが、そういうことではない。しょせんは二者間の条約である。

実は、自動更新といっても「たった1年」である。1960年に結んだこの条約の最初の10年が経過した1970年6月23日以降、条約第10条に基づき、毎日毎日、1年前通告の1年間契約が続いている。

この条約が十年間効力を存続した後は、いずれの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する。

いわゆる自動延長方式の定めであり、通告がない限り条約は存続する。大変奇妙に感じるのは、1970年にこの自動延長に反対する運動が行われていて、自動延長後は下火になり、ほぼ燃えつくす。本当に書き換えたりやめたいなら一方的に宣言すれば1年で廃止にできるわけだ。反対運動側のあきらめ方もいかにも日本的だ。

ところが、現在の日中韓朝ロによる激しい東アジアのせめぎ合いの中で、今のタイミングこそ安保条約が最も必要なのではないかと思えるわけだ。パワーバランスの中で、アメリカが誰の肩を持つか、それはバトルロイヤルの勝敗を決める大きな要素になる。もちろん現代の格闘は、誰かをリング外に突き落とすというのでなく、誰がリングの中央に座るかということなのだから、簡単ではない。ナポレオン失脚以降の欧州のような状況に似ている。

私見なのだが、「安保条約の自動更新」という不透明で不安定な状態を脱出し、国民が真剣に国際情勢を意識するためには、8年程度(米国大統領の任期を意識)の期限付き条約に切り替え、そのつど、国民的な議論を行った方がいいのではないかと思っている。結局、日本側は、今の状態が望ましいということになるだろうし、米側もそういうことになるとは思うのだが、ある意味、「カネの切れ目は縁の切れ目」と言われれば、「傭兵風の現システム」も、まあ仕方ないところなのだろうとは思っているのだが、それを国民が自分で決めるということが重要なのであるだろう。
コメント

ある事故現場(1)

2006-09-26 00:00:57 | 市民A
大きな事故であるのに、たまたま他の巨大事故と同時期に起きたため、人々の記憶に残っていない事件というのがある。以前、中国の新聞事情の話を聞いたところ、「ニュースが多ければページを増やし、平凡な日の紙面数で調整すればいい」と言っていたが、日本の新聞にはその融通さがない。

実は、自宅のある港北ニュータウンから2キロほど北に離れた東急の分譲住宅地の中に「大入公園」と名づけられた小さな公園がある。そこでは、29年前、昭和52年9月末に大事故があった。

民主党国会議員岩国哲人氏が東急線のある駅前で手配りしているチラシからこの事故を知ることになる(支持者ではない。念のため。)。少し調べようと新聞の縮刷版をあたったのだが、その事故の規模に対し、取扱いが非常に小さいということに気付いた。この事故とほぼ同時にいくつかの大事件が起きていたからだ。事故当日の夕刊でも、翌日以後の新聞でも、一面トップになることもなかった。

bed62a3f.jpgでは、大入公園の事故を語る前に、当時の雰囲気を再現するため、縮刷版から昭和52年9月末の様々な事件を列挙してみる。

(その前に注意事項だが、本来、朝日、読売、毎日と各紙を比較して読むべきなのだろうが、日比谷図書館で縮刷版を開いたところ、朝日だけは中性紙を使っていて、きのうの新聞と同じように読めるのだが、読売、毎日の縮刷版は酸性紙を使用していると思われ、すでに黄ばんでいて文字がかすみ、視力の限界を超えている。多少の偏りはあると思うが、事件そのものを事実と異なって書くわけでもないだろう。以下の記載は朝日新聞をベースにしている。)

1.社会党委員長問題
 昭和52年9月後半の新聞は、この問題を中心に展開していた。今となっては、新聞の内容を理解するのは難しいのだが、超簡単に書くと、党内に左派と右派がわかれていて、左派は成田知巳委員長-石橋正嗣書記長ラインということになっていた。一方、右派は江田三郎ということになっていて、1年前の昭和51年に江田三郎が社会党を追い出されるわけだ。そして昭和52年の参議院選に大敗。責任を取るという形で成田委員長が辞任を表明。後任選びが”どたばたソープオペラ”になる。一旦、決まりかけた元横浜市長飛鳥田一雄(学者)が、委員長に”なるとかならないとか”一芝居を打つ。一方、田・楢崎・秦らのグループは社会党脱退を表明し、ゆさぶる。結局、いくつかの大事件で国民と新聞の関心がまったくなくなった頃、飛鳥田委員長に決まる。その後、この党は低迷が続き、最後の一花を咲かしたのが「自社さ連立」ということに至る。現在は社民党に変り、古い職員と立派な党本部ビルをなぜか使っている。

9月27日の新聞は、朝刊、夕刊とも社会党内部抗争がトップ記事である。

そして、9月27日の夕刊の締めが終わった後、午後1時20分に横浜の事故が起きたのだが、翌日の朝刊トップは別の記事であった。

2.日航機が墜落・炎上
 日本時間で27日午後8時半頃、東京発香港・クアラルンプール経由シンガポール行き79人乗りDC8が悪天候の中、クアラルンプール空港着陸時に墜落・炎上したのだ。そして、約半数の40名程度が生存しているらしいが、氏名などの詳しい情報がつかめないという状況だったわけだ。おそらく一刻一刻と確度のあいまいな情報が飛び交っていたのだろうとは思えるし、 テレビもこちらのニュースを追いかけたのは間違いない。

 しかし、奇妙なことに一面や三面は、日航機事故を報道しているのだが、その他の紙面では横浜の事故について、細かく書かれているわけだ。おそらく、時間の関係であわただしく紙面の組み替えが行われたのだろう。

そして、翌28日の夕方になり、さらに重大な事件が発生し、「社会党委員長」も「横浜の事故」も「クアラルンプール空港の事故」もすべて、後回しになってしまう。

3.日本赤軍、日航機乗っ取り
 いわゆるダッカ空港ハイジャック事件が発生。9月28日夕方、パリ発東京行きの141人乗り日航DC8がボンベイ空港離陸後、日本赤軍により乗っ取られ、バングラディシュのダッカ空港に緊急着陸。巨額の身代金と日本で獄中にいる9人の解放を要求する。ところが、たまたま、その時にバングラデシュでは軍事クーデターが起きていた。交渉自体ままならない、という状況だったわけだ。

結局、この事件は福田赳夫首相が、「超法規的措置」として、犯人側の要求を丸飲み。飛行機はその後、シリアを経由し、最終的にアルジェリアですべて解決する。10月3日。

後に、国際的には、テロの輸出、と批判されたのだが、一説では乗客の中に米国高官の妻が乗っていて、米国から圧力がかかったのではないかとも言われるが、当然ながら、藪の中である。


bed62a3f.jpgそして、昭和52年9月27日午後1時20分に横浜の住宅地で発生した事故とは、「米軍ファントム機の墜落」なのである。


(9月30日に報じられた「ある事件」も、ハイジャックの影に隠れることになる。「研ナオ子、大麻吸引で逮捕」。同じ「ケン」でも清水健太郎は、その後、檻の中との往復回数券が必要となる。彼女は大麻をやめ、私も後年、タバコをやめた。)

続く  
コメント

ヤモリ再襲!

2006-09-25 00:00:58 | 市民A
d148b3d9.gif先週に続き、ヤモリがいらっしゃいましたね。そして、ガラス越しに観察しているうちに、先週のヤモリとは別人らしいことがわかってきた。先週のヤモリは体長が10センチ程度で、動きがゆっくりしていたのだが、きょうのヤモリは一回り小さく、動きがすばやい。単に産卵太りだったとしたら体長まで短くなることもないだろう。

案外、ヤモリ一家が「招かれざるペット」になってしまったのかもしれない。が、犬との共生は難しいような気もする。一応、「犬は室内、ヤモリは室外」とスミワケしておこうかと思う(明治時代だったら逆のスミワケだっただろう)。このパターンだと、いつもガラスの内側から白い腹を見るだけなので、今度は是非、背中の文様を確かめようとは思うのだが、その結果、愛情がわいてくることになるのか、すっかり嫌いになるのかはわからない。

次次期天皇の可能性の高い秋篠宮殿下も、今は「コウノトリ殿下」として評判だが、ご幼少のみぎりでは蛇やトカゲが大好きな「爬虫類少年」だったことは皇室の重大な秘密だ。


さて、昨年あたりから、うすうす感じているのだが、生態系が変わっているような気がしている。例えば、夕方、コウモリが空を舞っている。空一面をコウモリが多いス尽くすとは言えないが、10頭(コウモリの場合、頭でいいのかな?)程度がバタバタ不規則な動きで飛び交う。また、見慣れぬ野鳥が増えてきた。一方、毛虫やアブラムシが増加したり、スズメが減少したりだ。カラスも減っている。秋に蚊が増えたような気もする。

地球温暖化の影響が、移動が自由な鳥類に早くも現れたのか、あるいはゴミ収集システムの変更でカラスの餌が不足して、野鳥や小動物がカラスの餌食から免れることができるようになったからか、そのあたりはよくわからない。芝生のタネを撒いたらただちにスズメが集まっていたのに、今年はそういうこともない。スズメも減っているようだ。蟻とアブラムシが大量に発生した原因とカラスが関係しているのか、これもわからない。

一方、激減したかのように見えるカラスだが、たまたま見かけると、結構、獰猛化しているように思える。空を飛ぶときも低空を高速で飛んでいくように見えるし、餌が減っても生き残る個体は体力・知力が優れたカラスのはずだ。そして、遠からずそれらのスーパーカラスやその子孫たちが、より攻撃的なハイパーカラス化するのではないかと、少し不安である。

それでは、カラスもペットにしてみようかな、と反社会的なことが頭を掠めるが、放し飼いの責任を問われると困ったことになりそうなので、自重しておく。  
コメント

「カポーティ」不気味さと向き合う

2006-09-24 00:00:33 | 映画・演劇・Video
43095552.jpg都内某所の試写会に行く。「カポーティ」。9月30日から国内でささやかに公開される。アメリカでは評判の映画も、日本で話題にならないこともあり、たぶんこの映画もそういうことになるのではないだろうか、とは思うが、公開前にあまり筋を追って書くのもマナー違反。しかし、実際には筋を書く書かないということが問題になることもないだろうとも思える。「実話」と「実話を追って小説に書いた実話」を映画化した、と言う構造になっているからだ。

今年2月のアカデミー賞で、この映画は主演男優賞を獲得。主演フィリップ・シーモア・ホフマンが演じるカポーティとは、作家トルーマン・カポーティである。(Capoteは実際、どう発音するのか良く知らなかったのだが、クァポゥティであってケイポウティではなかった)存在感のある映画の常として、この映画は輻輳的であり、ミステリアスであり、さらに不気味で怖い。

どこから、書けばいいのか捉えどころがないのだが、カポーティ(1924-1984)は、南部ニューオーリーンズの生まれでありながら、「遠い声、遠い部屋」「ティファニーで朝食を」などの都会的小説により、時代の寵児となっていた。毎日がパーティ。シナリオを書き、映画監督もこなす。ニューヨーカー誌の記者としての身分も持っていた。ところが、1959年にカンザス州の農場で、突然起きた一家4人殺人のニュースを新聞で読むところから、すべてが始まる。

ここから先はドキュメント小説「冷血」を読めばいいのだが、事件を追うためにニューヨーカー誌の記者として徹底取材をしたわけだ。そして、記事を書くだけでは足りず、二人組の犯人たちの心の中に忍び入っていく。そして、最初は彼らの話を深く聞きたいがため、死刑執行を延期するよう辣腕弁護士をあっせんする。小説の執筆が長くなるのと平行して裁判も長期化していく。ところが、小説のほとんどが完成した段階で、一つだけ描けない部分が残る。それは、4人を殺害した具体的描写である。映画の中のカポーティは、様々な手段を尽くし、とうとうその場面を聞きだす。もちろん、それは残忍な手口であり、それを公開することは裁判に重大な影響を与えることになるため、彼は出版することができなくなってしまった。既に、大好評で終わった出版朗詠会(日本には存在しないシステム)が終わっているのにである。

そして、結局6年にわたる裁判は、カポーティが優秀な弁護士を推薦しない、という形で結審し、絞首刑が執行される。そして1966年の作になる「冷血」以降、カポーティは筆を絶つことになる。そして、断筆の理由を語ることなく1984年、LAで亡くなる。

実は、その断筆について、映画では大きな鍵が提示されている。死刑囚の一人(ペリー・スミス)が姉と一緒に写った写真がカポーティの元に残される。さらに、刑の執行の時、スミスが、家族が立ち会うかどうか、確認する場面がある。その事情をカポーティは「冷血」に書いたのか、それとも意図的に落としたのか。

そのあたりになると、この映画のどこからどこまでが実話であるのか何が何だかわからなくなるのだが、そういう意味では映画と言うのはそういう何が何だかわからないが、漠然とした不気味さが押し寄せてくるというものなのだろう。


ところで、以前、書いたが「ヌレエフの犬」というすばらしいファンタジーがある。出だしはカポーティ家のパーティ。舞踏家ルドルフ・ヌレエフがパーティで酔いつぶれ、翌朝ピアノの下で目を覚ますと、ヌレエフと一緒に残っていたのは、飼い主のはっきりしない一匹の犬、というところから始まり、それからヌレエフと暮らし始めたこの犬は、ヌレエフの死後、夜中にバレエの練習をはじめる、ということになるのだが、AIDSで亡くなったヌレエフの年齢などから逆算すると、問題の雑魚寝パーティがあったのは1982年か1983年と推定されるのである。
コメント

プロ棋士の反則

2006-09-23 00:00:01 | しょうぎ
先日、元八段木村義徳氏が将棋博物館長だった事情について検索していたところ、面白い資料を見つけた。「反則負け」の記録集だ。膨大な数の対戦記録の中から調査をされた方には敬意を表したいが、多くの方がこの資料を孫引きされているようで、誰の努力によるのかよくわからない。むしろ、調査結果を引用した方が作者にも本望かな、と勝手に解釈してみる。調査は昨年夏のものだが、その後、テレビ棋戦でも「二歩」が出現。瀬川新四段は逆に「ニ歩」で勝っている。生身の人間同士が指すのだから、この「反則」がなくなることはないだろうと思う。

さて、反則の話の前に、将棋のルールだが、難しいわけではない。1時間あれば、駒を動かせるようになり、とりあえず弱いながら対局できる。そして、ルールと違うことをすると反則となり、公式戦では即座に負けとなる。しかし、ルール上に決まっている反則は実は4種類しかない。

1.二歩の禁
 有名な反則。縦の筋に自分の歩が二枚あったらいけない。持駒の歩を打った時のみ発生。
2.打ち歩詰の禁
 最後の一手が王様の頭に歩を打って詰めてはならない、というルールである。
3.行き所のない駒の禁
 一番奥の列に歩や香や桂を打つとその駒は絶対に動けなくなるわけだ。
4.連続王手の千日手の禁
 同じ手順を繰返す千日手は、「指直し」だが、特例として連続王手の千日手は禁止。



それで、この4つの禁をよく考えると、2、3、4番目はプロでは起こりえないと思われるわけだ。ミスの根源はたいてい、「ウッカリ」なのだが、2、3、4はウッカリということが起こらないような部分だからだ。ただし、1の「二歩」はしかたがない。秒読みに追われるとどうしても全体が見えなくなることがある。何手か前に読んだ筋でも輻輳してわけがわからなくなる。また、駒を盤に置いた後、駒から指を離した瞬間に着手完了となるのだが、駒を置いても指が離れていない時や、あるいは置く前に気付いてあぶなく着手中止となることもあるだろう(統計にはあらわれない)。多くは、自陣の方に一枚打ったのを忘れ、相手方の方に二枚目を打ってしまう。そして二歩はだいたい好手なのだ。気分としては、負けているときの二歩は痛くないが、勝っている時の二歩は痛恨だ。

ところが、反則の一覧表を見ると、「二歩」だけが反則ということではない。かなり多いのが「二手指し」。つまり自分の番で一手指した後、相手が考えている時に、また指してしまうわけだ。結構恥ずかしい。さらに、「駒の動き間違い」も多い。その他、反則は多様だ。種類別に考えてみたい。それと、この一覧表にはないものの「秒読み時間切れ」というのもいくつかあるだろうが、それは面白くもなんともない。

反則の解説の前に、よく見ると淡路九段は6回も反則を指している。彼は「長手数の美学」で有名なのだが、一局一局が長手数だから反則の率が高いのか、相手が彼の反則負けを期待して長手数に持ち込んでいるのかよくわからない。反対に、青野九段は相手の反則で3回も勝っているのだが、「反則誘引のこつ」とかあるのだろうかと思っても、「茫洋とした彼の表情」以外には合理的説明が思いつかない。


さて、反則を種類別に見ると、まず「駒の動き間違い」。角の間違いが多い。離れたところに行くのだから乱視の棋士とかに多いかもしれないが1981年の「2五の馬を4八に動かす」というのは、ちょっと違和感がある動きだ。1998年の「成銀を打つ」というのも、ありそうな話だが、普通、駒台の上にきちんと並べておくので、考えにくい。大慌てで裏向きになっていたのを失念したか?2000年の「成桂が斜め後ろに動いた」というのは、最も理解できない反則だが、どう考えても理解できない。

数あるニ歩の中で、極めつけは1982年の「5七に歩がいるのに5六に歩を打つ」。何か重大な考え事をしていたのだろうか。

「連続二手指し」も何度も起きているが、1995年の「後手が先に指した」。状況を思い起こすと、かなり気の毒になるが、二日制のタイトル戦で起こらないことをひたすら祈るしかない。

1999年の連続王手の千日手。好意的に考えると、「千日手は、同一局面が4回出現すると千日手が成立(=王手の連続は負け)なので、とりあえす3回までならいいか、と思って数え間違いした」というのかもしれないが、「プロなのにルールを知らなかったのではなかったか?」との一抹の疑いを感じる。

実際、私も以前、団体戦で、二勝二敗で残った、勝敗を決着する一局で、相手が連続王手をかけてきたことがある。最初の王手では、「変だな」と感じ、二回目になると「ルールを知らないのかな」と確信したのだが、相手に負けを宣告する手順とか、頭を悩ましながら指したことがある。負けを宣告したあと、回数をごまかされないようにするためだ。

一応、4回目の王手がかかった段階で、「これで、千日手ですね?」と疑問形で聞くわけだ。そして相手は、「そう千日手ですね。」と千日手状態であることに同意してしまったわけだ。それからおもむろに、「連続王手の千日手は負けですね」と宣告。ギャラリーが取り囲んでいるので、もう言い訳不能だ。

ところで、反則といえば、なんと行っても「待った!」。2005年に加藤一二三元名人が「待ったの嫌疑」をかけられ、ビデオ判定の結果、次年度の銀河戦出場が禁止された。もちろん犬猿の仲である米長会長が加藤氏の「棋界での影響力を弱体化させよう」としたとの陰謀説もある。当時、加藤氏は朝日新聞の代弁者と見られていたのだが、朝日にとっても、米長会長にとっても、そろそろ彼が邪魔に感じていたはず。私は、2005年6月13日、「「待った大王」処分は陰謀か?」で朝日謀略説を疑ったのだが、実際に、その後、「名人戦横取り」事件が起きてしまった。

aff5f3f9.jpg2006年9月現在、名人戦の朝日毎日共催案が浮上してきたが、どう考えても棋界ぐるみで毎日が嵌められているとしか思えない。「対等の立場で共催する」ということは、発行部数が半分なのに同額の負担をする、ということだろうと解読できるからだ。

さて、前回の穴熊密集詰将棋は、▲2一金 △同金 ▲同飛成 △同玉 ▲3一金 △同銀 ▲同角成 △同玉 ▲2二金 △同玉 ▲3四桂 △3二玉 ▲4二香成 △2一玉 ▲2二銀まで15手詰。特にコメントはないが、「3手目▲2一飛不成でも詰むから余詰だ」、と言われては困るので、初形の4一飛を4一竜にしておくべきなのだろうか。最後の4手が少しばらける。

aff5f3f9.jpgとりあえず、もう一題、穴熊密集詰将棋を出題。前問より短く、少しだけ詰将棋風だ。

コメント (2)

イサム・ノグチ少年にこだわる(下)

2006-09-22 00:00:34 | 美術館・博物館・工芸品
レオニーとイサムの親子が日本に到着したのは1907年。横浜から汽車で新橋駅に到着したあと、二人が向かった先は野口米次郎の住む小石川である。2歳のイサムを連れ、大きな荷物を持ち、新橋から小石川まで歩くのは大変だが、米次郎は特に迎えにも行かない。米次郎の方にも色々と内緒の事情があったわけだ。それはそのうち明らかになるのだが、2年前、日本に帰った後、早くも隠し妻を作っていたのだ。そして、イサムが日本についた頃には既にその女性は出産までしていたわけだ(結局、この女性が米次郎の法律上の妻になる)。

そのためか、今度は米次郎が家を明けるようになる。「創作上の拠点」という名目で北鎌倉の円覚寺に渡りをつけ、離れを仕事場とする。そして週のうち大半をそこで過ごすようになった、ということだが、実際には、自宅でも円覚寺でもない別の女性の棲家にも行っていたのだろうとは、容易に想像できる。一方、レオニーは大学の先輩である津田梅子を頼り、1900年に開校した女子英学塾(現津田塾大学)での仕事を希望するのだが、思いもかけず梅子は曖昧な態度に出る。どうも、開校したばかりの女子英学塾に、洋風批判の風が当たり始めていて、外人教師の採用に及び腰になっていたらしいのだ。

その結果、とりあえずは、富裕階級の子女複数の英語家庭教師をカケモチすることになった。教えていた家庭の中には、小泉八雲のこどもたちも含まれているのだが、昨年、松江にある小泉八雲記念館に行ったところ東京の小泉邸の庭園で、こどもたちが英語教師と記念撮影した写真が提示されていたように記憶する。(こういう、裏でつながった歴史を知るのは、とてもうれしい)

そして、2年強が過ぎ、イサムは幼稚園に通うことになった。1910年。当時、南高輪にできたばかりの「森村学園付属幼稚園」。10人ほどの園児である。振り返れば、イサムの少年時代の中でもっとも幸せな時期だった。それと同時に、レオニーも定職を得ることができた。神奈川県立女子中学(現平沼高校)の英語教師の職である。そして、親子は小石川を離れ、運命の第一歩を踏み出し始めるのである。転居先は大森。

そして、イサムが森村を卒業後、レオニーはイサムを日本人野口勇として育てるため、さらに引越しし、公立小学校に入学させたのである。場所は東海道線の茅ケ崎である。彼女が、なぜ、そんな場所まで行ったのかはよくわからないのだが、当時から茅ケ崎には都内有名人の別荘が多く存在していたらしいのである。おそらく、その中の誰かの情報だったのかもしれない。

しかし、有名人の別荘があるといっても、しょせん住民の大半は漁民だったのである。日米混血のイサムはたちまちいじめられることになる。アイノコフリークということだ。そして登校拒否。「これでは、日本で苦労している意味が無い」と思ったかどうかはわからないが、レオニーは次の手を打つ。横浜山手のセント・ジョセフ校へ転校することになる。このとき、ノグチの名を捨て、イサム・ギルモアという母の姓を名乗ることになる。カトリック系の学校で、つい最近まで存在していたのだが、21世紀になり、あえなく廃校(校舎の保存運動も挫折)。低学年の頃は、この差別のない小学校が大変お気に入りだったようである。そして、もう一つ、レオニーの打った手は、茅ケ崎で住居を新築したことである。

現在の茅ケ崎は、イメージ先行で地価が大変高いのであるが、当時でも高級別荘地だったこともあり、簡単に土地を購入することは困難であったのだが、なんと別荘分譲で余った三角形の36坪の傾斜地を手にいれることになる。そこに底面積が三角形の家が建つことになる。大工との交渉で騙されないようにと、米次郎も設計交渉に登場している(依然としてヨネ・ノグチの英語詩は、レオニーが添削し、アメリカの出版社に送られ、原稿料の受取も彼女が行っていた)。一階には二部屋とダイニングキッチンがあり、二階には海の見える三角形の広い居間になっていたそうだ。こういうちょっと変わった自由設計の家に住んだことは、後年の彼の造形人生に大きく影響しているのだろう。

ae0e316c.jpgところが、セントジョセフ校での彼も、高学年になると性格が変わっていき、校内で暴力事件を繰り返すようになる。一つの理由は、レオニーが第二子を出産したことによるのだろう。異父妹は、アイリスと名付けられたのだが、母はアイリスにも生涯、父親の名前は明らかしなかったということである。イサムの素行に困ったレオニーは、一時、学校を休学させ、自宅を建てた大工に頼み、指物師の修業をさせることになる。造形家としての運命が回り始めたのである。

11年前、日本人として育てられようとアメリカから逃れるように日本にきたイサム少年は、1918年、13歳の時、単身、アメリカ大陸に向かうのである。母親のレオニーはアメリカでの職をすぐに見つけることができず、しばらく日本でイサムを含めた生活費を稼がなければならなかったのだ。

そして、イサムがスーツケースの他に日本から持っていった愛用の工具箱の中の一本のノミが、まったく文字通り、その後の彼の進んでいく道を切り開いて行ったのである。


その後、・・・

彼は、行った先の学校がいきなり経営破綻する災難に見舞われたりするのだが、ノミ一本ですばらしい木彫を仕上げる腕を見込まれ、少しずつ美術界で有名になっていく。19歳の時には、母親レオニーも帰国。この年、もっともアメリカで有名な日本人、野口英世とも対面している。翌1924年にはレオナルド・ダヴィンチ美術学校に入学。この時から、高名な野口英世から「ノグチ」の名を無断借用したとのことである。パリに留学。

彼が本格的に大家として認められるのは30歳頃からなのだが、それまでの数年間は収入を得るために、多くの有名人や富裕層の頭像を石彫りしていたそうだ。そういうものは、当のモデルが亡くなってから三代目あたりがマーケットに横流しされると思われるのだが、後年、大規模造形家となった彼の小品の数々を早くみたいものでもある。


ae0e316c.jpgこの後の活躍については、美術論の分野に踏み込んでいくのだが、父、米次郎どころではない彼の世界女性遍歴については、ドウモ昌代著「イサム・ノグチ(上下)」に詳しいので、どうすれば女性にモテ過ぎることができるのかを知りたい向きは熟読されるといいかもしれない。


最後に、一つだけ書き加えるのだが、1903年にレオニーと米次郎とが数ヶ月を過ごしたニューヨークのアパート、1933年12月31日に59歳でレオニーが亡くなくなった市立ベルヴュー病院、1988年12月30日、84歳でイサムの亡くなったニューヨーク大学付属病院はいずれも数ブロック以内に近接しているのである。  
コメント

イサム・ノグチ少年にこだわる(中)

2006-09-21 00:00:47 | 美術館・博物館・工芸品
イサム・ノグチの少年時代を書く前に、彼の両親のことから書くべきだろう。生物学上の父は、野口米次郎という詩人である。母は、レオニー・ギルモア。イサムが生まれた1904年には米次郎は29歳。レオニーは30歳。

8bd61d2e.jpgまず、野口米次郎だが、愛知県の生まれ。上京し、英文学を学ぶため、神田外語を経て慶応に入学したものの、授業についていけなくなったそうだ。だからといって、地方の秀才は、おめおめと田舎には戻れない。18歳で意を決し、米国行き客船の3等切符を買ったわけだ。ところが、目的地サンフランシスコには既に2000人の日本人が流れ着いていて、中には政治ゴロのような人物も多く、しかたなく日本人新聞である桑港新聞に勤めることになった。しかし、記者ではない。配達ボーイとして。

そのうち、当時西海岸で爆発的に拡がっていった「ボヘミアン」の波に飲み込まれていく。ウォーキン・ミラー、ポーのような西海岸の詩の世界にヨネ・ノグチの書く叙情的な感覚が訴えていくのである。そして、ネーティブイングリッシュでない、いわば片言の文法の少しおかしい英語詩で西海岸の文壇の仲間に入っていく。そして、有名になるにつれ、何人かの女性との同時交際を始めたのである。

8bd61d2e.jpgここで、母、レオニーのこと。ギルモア家は辿ればアイルランドに起源を持ち、さらに、彼女の中には1/8のインディアンの血が混じっているそうだ。実は、父親は愛人の元に走ってしまい、彼女は母親に育てられながら、ブリンマー大学を卒業している。実は、レオニーの数年先輩が津田梅子である。レオニーは才媛であり、フランスのソルボンヌ大学にも留学している。作家を目指していたのだが、何の因果か、あるアルバイトに応募してしまう。運命の曲がり角である。それは、米次郎(ヨネ・ノグチ)の詩の英語添削係兼マネージャー。

かたや、無責任男である米次郎は、アメリカ文壇の中心である東海岸ニューヨークに進出し、1年弱の期間、レオニーと同棲する。もちろん結婚詐欺である。なぜなら、その時、同時にニューヨーク・イヴニング・ワールド誌のゾナ・ゲ-ル(後にピュリッツァー賞)とワシントン・ポストのエセル・アームドという二人の花形記者に結婚を迫っていたからである。そして、二人の内、エセルから、なんとか婚約に同意をとりつけると、既に妊娠が判明しているレオニーには女性達のことは何も明かさずに、「レオニーは私の妻である」という書置きを残し、突如単身、日本に帰ってしまう。何しろ、日本詩壇では、米次郎の評判はたいへんなもので、英語で詩を書く詩人というウケであったわけだ。

8bd61d2e.jpgしかし、すべての秘密事項が明らかになるには時間は要らなかった。レオニーは母親の住むロサンゼルスで出産することにしたのだが、入院する時にレオニー・ノグチと名乗ったため、地元の記者が気付いてしまい、出産は新聞に掲載されることになる。一方、米次郎と婚約しているエセルは、新聞社をやめ、日本向けの客船に乗るためにロサンゼルスに到着したのだが、友人たちから、レオニーの存在を聞かされる。もちろんレオニーも事情を知ることになる。エセルは当然ながら、婚約を取り消す。エセルは、米次郎を記憶から抹消してしまえばいいのだが、レオニーと産まれたこどもの方はそういうわけにはいかない。

当初、レオニーは、男児がヨネ・ノグチとの婚姻関係でのこどもというように考えていたが、父親からはこどもの名前すら言ってこない。仮の名前で「ヨー」と呼んでいたそうだ。そして、当時のアメリカは、母子家庭にはまったく優しくない国家であり、一時、ボヘミアン社会にもぐりこんでいたそうだ。さらに、歴史的に、当時、日本は中国大陸に進出をはじめたところで、米国と利権がぶつかり合う状況になっていた。激しい、日本人排斥運動が始まったのである。例えば、日本人と米国人の結婚禁止令が出る。ロサンゼルス大地震で多くの学校が倒壊すると、再建後は日本人子女の学校への入学が禁止されたのである。

そのため、レオニーは、最愛の子、ヨーを日本で「日本人」として育てようと決意したのである。何しろ、背信が明るみに出たあとも、米次郎の詩を添削するのはレオニーであり、米国の出版界との原稿料交渉を行うのも、彼女が請け負っていたからなのである。そして、勉強についていけずに退学した慶応の講師に席を並べた米次郎に日本での職探しを依頼し、1907年3月9日サンフランシスコ発のモンゴリア号の3等切符を買い、日本に向かうのである。日本の父親からの最後の手紙で「イサム(勇)」と名づけられた少年は、その時、まだ2歳4ヶ月。



一方、海の反対側、日本で残り少ない運命を刻んでいた「童謡・赤い靴の主人公、岩崎きみちゃん」は4歳。母子家庭では生活できずにアメリカ人宣教師の養子に預けられている。そして、二年後、養父母が米国に帰るときに、同行せず、日本(赤坂鳥居坂の孤児院)に残る。それは、当時の反日感情から言えば、当然の帰結なのかもしれない。日本人のこどもが米国へ行っても学校へも行けないし、仮にきみちゃんが米国行きを強行していれば、第二次大戦中に強制収容所に送られたのは間違いないと考えられる。  
コメント (1)

イサム・ノグチ少年にこだわる(上)

2006-09-20 00:00:18 | 美術館・博物館・工芸品
aff5f3f9.jpg話は、かなり違う方向からなのだが、現在、日産自動車の泡沫株主である。株主に送られてくる雑誌がある。「SHIFT_」と言う。季刊だし、相当趣味的である。夏号が二ヶ月ほど前に届いていた。特集の一つは12代目のスカイラインであるが、これは漠とし過ぎてよくわからないのでコメントしようがない。そして特集として「世界に住むイサム・ノグチ」が大々的にまとめられている。全18ページを使い、世界各国にある造形作品を公開。

aff5f3f9.jpgところで、造形家のつらいところは、展覧会をしようにも、本当に巨大なものは持ち歩けない。岡本太郎の太陽の塔をイメージしてもらえばいい。その意味で横浜美術館をはじめとして先日開かれた「イサム・ノグチ展」は挑戦的ではあった。

が、やはり庭園や公園やモニュメントなどの代表作は持ってこられないので写真展示にならざるを得ない。そして、その展覧会の中で、短い伝記映画を観た。さらに、彼の波乱万丈の人生に興味を持ち、かなり決定版に近いドウス・昌代さんの書いた「イサム・ノグチ(宿命の越境者)上・下」という大作を読んだ。映画は彼の生前に製作されたもので、伝記の方は、ちょうど取材が終わった頃にイサムは他界している。それなりに、異なっているところもある。

aff5f3f9.jpgさらに、首都圏で簡単に作品を見られる場所として、青山通りに面する草月会館の1階ホールがある。ところが、本来、庭園に置くべき作品をビルの1階に置いたものだから、巨大感覚になり過ぎている。しかし、まあ手ごろの場所ではある。なにしろ、日本では、香川県の牟礼に彼のアトリエや住居があったことから広大なイサム・ノグチ庭園美術館がある(完全予約制)。それから札幌大通り公園の西側にブラック・スライド・マントラという黒い石の滑り台がある。さらにモエレ沼公園にはピラミッド状の「プレーマウンテン」がある。横浜こどもの国にも、遊び場がある。

aff5f3f9.jpgまた、海外には、牟礼の庭園美術館と遺作の所有権で争った、ノグチ・ミュージアムがニューヨークにある。さらにパリのユネスコ本部やエルサレムにも大型作品があり、メキシコでは「メキシコの歴史」と名付けた壁画を作っている(岡本太郎の明日の神話とは、作品の運命が両極である)。

aff5f3f9.jpg一方、彼が一流彫刻家の評価を得たのは30才の頃であり、その後は世界のあちこちを素材(主に石材)やスポンサーや美形の女性を求めて動き回る。結婚したのは1回だけで、相手は山口淑子。4年強で離婚。そして、彼の後半生の話はよく考えれば、そう面白くもない。世間によくあるサクセスストーリーと変らない。実は、壮絶なのは、こどもの頃の大苦労であるということがわかってきた。

そして、その頃、個人的に「童謡・赤い靴のひみつ」を追いかけていたのだが、このイサム・ノグチと赤い靴の実在モデルである「岩崎きみちゃん」は、表裏一体と言えるほど同じような困難を背負っていたのだ。岩崎きみ(1902-1911)。イサム・ノグチ(1904-1988)。米国生まれのイサムは、きみちゃんと東京市内ですれ違っていた可能性すらある。きみちゃんは、1908年から1911年まで3年間を赤坂鳥居坂の孤児院で過ごすのだが、きみちゃんより2歳年下のイサム少年は1907年から1910年までの3年間を小石川で過ごしているのである。

そして、なぜか、どこにも行かないのにイサムの資料がどんどん集まってくるというのも何の因果かわからないのだが、彼のこども時代のことを数回に分け、簡単にまとめてみたい。
コメント

珍獣来襲

2006-09-19 00:00:25 | 市民A
6df1bb90.jpg雨が続いているからかも知れないが、夜の窓に、ある生物が張り付いていた。発見者は室内犬S。ガラスのこちら側から「ウーーウーーウーー」と威嚇するが、効果なし。当面、室内に侵入されそうな気配もないので、「そこに、珍獣は存在しない」ことにし、カーテンを閉めてから、携帯の画像データを持って、別室で百科事典で調べることにする。といっても闇雲に調べるわけにもいかないが、可能性は絞られている。

イモリかヤモリか、だろう。

そして、調べてみると、イモリもヤモリもそれなりのものだった。

まず、イモリだが、腹が赤い。アカハライモリというのが日本の一般的なイモリ。両生類(これは知っていた)。両生類というだけで珍獣だ。カエル、イモリ、サンショウウオ、ウーパールーパー。この両生類というのは、結構、まとめて滅亡の危機に瀕している。ところが、日本はまさに両生類に最適な気候で、多くのカエルがいる。といっても、あまり見ることも声を聞くことも少なくなった。

イモリは、体の再生力が強く、肩から先とか眼とか切断されても、元通り再生してしまう。トカゲで再生するのはシッポだけだし、人間では再生する部分は、ほとんどない。生命の秘密解明にかなり役に立つ実験動物として認識されていて、スペースシャトルに乗せられて、宇宙空間で受精、誕生の実験までやらされている(人間でこっそり受精実験した飛行士カップルがいたかどうかは不明。シャワーが使えないので後で困るかもしれない)。

両生類なので、池や小川に住んでいて、水生生物や昆虫を常食とするそうだ。書いてないが、水生動物の餌になってしまうこともあるだろう。水中もジャングルだ。

そして、赤い腹には訳があるらしい。つまり、イモリには猛毒がある。テトロドトキシン。そう、フグ毒である。フグと同様に、他の生物から食われないようにという対抗策である。マムシのように、噛み付いて毒を撒き散らすわけではない。だが、毒を持っているだけでは、食われてしまう。「毒入りキケン!食ったら死ぬデ!」というサインが必要なわけで、それが赤い腹ということらしい。ただ、ペットとして飼ったり、人家に近い場所のイモリには毒が少ないらしい。ただしその場合でも腹は赤い。

見ただけでは、強いのか弱いのかよくわからないという例が、他にもあったような・・と頭の中を整理して見ると、思い出した。「自衛隊」だ。

ところで、フグには、フグ調理師免許が必要なのだが、イモリ調理師免許とか必要なのではないだろうか、「イモリの黒焼き」と言う漢方薬があったようななかったような。とりあえず、犬の散歩の時には、食わないように注意が必要だ。


そして、ヤモリ。こちらは爬虫類。指が5本あるかどうかがイモリとヤモリの区別法ということ。画像を確認すると、指がたくさんある。ヤモリだった。

ヤモリは森林や人家を好む、と書いてあった。が、森林と人家ではずいぶん違う。木材が好きなのかな。トカゲの仲間なので、こちらにはおまり面白い話はない。

垂直の壁やガラスにくっ付くのが得意なので、足に吸盤がついているのだろうと、あっさり考えられていたらしいが、実は違っていたことがわかったそうだ(本気で調べればすぐにわかるようなことも、誰も調べなければいつまでもわからない、ということ)。足の皮膚に小さなかぎ状の突起がたくさんついていて、わずかな分泌物を出しているそうだ。それを、ある接着剤メーカーが研究しているそうだ。夜間のビルやマンションに忍び込もうという人たちに愛用されそうだ。そしてスパイダーマンにも・・


また、ヤモリは一度に卵を二つだけ産むそうだ。結構、少産だ。理論的には、たぶん、長生きなのだろう。つまり、きょう現れたヤモリは、どこかに長く住み着こうというのだろうか。あるいは、どこの家に住もうかと現地調査したのだろうか。犬のいる家は危ないな!とか・・

ところで、イモリは井守と書き、ヤモリは守宮と書くのが漢字表記だそうだが、これは井戸を守る神様や家を守る神様ということを意味していたそうだ。


そして再び元の部屋に戻り、カーテンを開くと、・・・

神は立ち去っていたのだ。  
コメント

コンディにロマンスの兆しが

2006-09-18 00:00:58 | 市民A
cc22db8a.jpg先週、アメリカのゴシップ話でもっとも盛り上がっていたのが、コンドリーザ・ライス(Condoreezza Rice)国務長官(51)の話題。

お相手はカナダの外務大臣、ピーター・マッケイ(Peter MacKay)氏(40)。保守党のプリンスらしい。NYタイムズによれば、NATOの会議やG8の時にマッケイ氏から誘って食事をしたり、散歩をしたそうだ。

そしてNYタイムズの記事を読んだライス長官は・・・「大笑い」とのこと。

まあ、食事をして、少し散歩したくらいで「ロマンス」と言われても、ということかな。だいたい隣同士の国の外相なのだから・・

と、思いながらも、仮にこの二人が結婚してしまった場合、どうなるかということなのだが、まず、このマッケイ氏はかなりの高率でカナダの首相になる可能性があるわけだ。一方、コンディの場合は大統領になる可能性というのは、そう高くはないが無いわけでもない。少なくとも二人ともトップを狙っていることは間違いないのだろうが・・米加合併とか・・ありえないか。

では、このゴシップは二人にとってプラスかマイナスか、ということだが、たぶんマッケイ氏にはマイナス。コンディにはプラスではないだろうか。二つの国を比べれば、人口比が1:9(3000万人対2億7000万人)これがすべてだ。土地の広さはカナダが勝るが、圧勝ということでもない。

cc22db8a.jpgそれで、ちょっと気になったので、カナダの歴史を鳥瞰してみると、要するにアメリカがイギリスから独立して大躍進をはじめた時に、イギリス側が、「このままでは、カナダをアメリカに奪われるのではないだろうか」ということで1867年7月1日、カナダ連邦という英連邦内の国家を作ったのが最初。

ところが、肝心の外交権がなかったので、傀儡政権に近いものだった。そして、1926年に第一次大戦での派遣兵士の奮闘とその6万人の犠牲の上、正式に外交権を確保し国際連盟にも加盟した。ということになっている。

独立した1867年は日本では大政奉還の年。この1年が日本史ではもっとも慌しい年なのである。そして日本の事情もカナダの事情も原因はすべて、アメリカ合衆国なのである。

ところで、コンディといえば、プレジデントBがお熱を上げている、というのが多くの定説。

かかってこい!(Bring them on!)」ということになるのかな。

USA → Canada カナダドライ輸入禁止!

Canada → USA 領土上空飛行禁止!

USA → Canada 牛肉輸入禁止!

Canada → USA 天然ガス供給禁止!
コメント

不思議の国のIKEA

2006-09-17 00:00:27 | マーケティング
74baa17a.jpg「待ちに待った」ではなく「待たされに待たされた」”IKEA”が、自宅近くの横浜港北インター前にオープン。開業2日目の9月16日に行ったが、・・・

たいして宣伝もしないのに、店内は人で充満。その割りに駐車場には隙間がある。駐車場待ちになることは、今後もなさそう。何しろ、屋上駐車場に入ったのだが、1階まで降りるエレベーター、エスカレーター、階段、すべてに列ができている。もちろん早く行っていいことなどないから、誰も慌てない。やっと店舗のある1階へ降りると、買い物システムが複雑。およそ予習していたのだが、ショッピングリストというメモ帳に、買いたい商品の番号を書いておき、最後に倉庫エリアで棚から何としてもカートに積み込み、レジを通してからクルマで自宅に持って帰り、組み立てる。そんな感じだ。小物は売場で備え付けの黄色い袋に放り込み、自分でかついで持ち歩く。レナウンやオンワードのバーゲンと同じだ。

ところが、カートなど押して歩くことはほとんど困難。朝8時50分の東京駅と同じだ。推測だが、同時時間帯に1万人位入っているのではないだろうか。1日4回転で4万人。3連休で10万人といったところかもしれない。浜っ子はこういうのが大好きだ。

さて、家具店は自分の必要なものを買うのだから、本来、目的売場に直行するのが普通だが、簡単にはいかない。一応、ガイドラインの矢印が床に書かれているが、人が多すぎてよく見えない。さらに、面白いものがあって横道にそれると、どこにいるのかわからなくなり放浪しなければならない。エリア毎(キッチン、キッズ、・・)に仕切ってある場所もあり、そこに入ると中に小さな入口がついていたりして、さらに場所がわからなくなる。すいている方を選んで歩いていたら、トイレブラシの山の前に出てしまった。万博会場のアフリカ共同館みたいな話だ。

それで方針を変えてメインコースに戻ろうとすると、大半の人と逆行してしまい、猛烈に歩きにくい。また、小部屋エリアに逃れて放浪すると、またもトイレブラシにたどりつく。不思議の国のアリスみたいだ。

そのうち、何も買わないで空の袋をかついでいるとはずかしいので、何か買おうと思うが、だいたい予想していたような展開になっている。安い家具はかなり安っぽいし、中ぐらいの家具は普通の値段だし、非常に高いものはない。

中ぐらいのものの中で、お勧めは、皮のソファー類かもしれない。普通の皮を使っていて、安っぽくはない。ただし、滑らかとか肌触りは、あと一息というところかな。革靴でたとえると、6,000円というのでも20,000円というのでもなく12,000円の靴といった感じだ(これは例であり、靴は売っていない。)それと、足付きテーブルは比較的良さそうだった。もう一つ挙げると絨毯類。やや高いが、本場風の4畳程度の絨毯が10万円位。品質、手触り、問題ないのだが、一つ気がかりは、素材のところに、「羊毛、毛」と書かれていること。羊以外の毛も使っているということなのだろうか。それは何だろう。まさかQBhouseと提携?。

実は、一つ探していたものがあった。ワインラック。結局、みつからなかった。以前、大塚家具でも探したのだが、日本では売れないものなのだろうか。

74baa17a.jpgそれと、店内には、こどもが非常に多い。地元の小学校は運動会の日だと言うのに商圏範囲が30キロくらいなのだから集まってくる。ところが、こどもに対する配慮が今ひとつというところがある。あるエリアでワードローブの良さそうなのがあったので、開けてみたら、中から手品のように小さなこどもがでてきた。やはりアリスかな。ちょっとあぶない。さらに、冒頭に書いたショッピングリスト用の鉛筆は各自持ち歩くことになっているが、ちょうど大人の手の位置にこどもの顔が近い。さらに屋上のエレベーター待ちの空間のすぐ前まで駐車場が設定されているが、人とクルマが近すぎる。さらにキッチン用品ではIKEAマークの刃物(ナイフや包丁)を売っていたが、買う人いないから置かない方がいい。

店長はスウェーデン人女性(1階の入口のところでスタッフと談笑していた。会話が何語かは不明。)なので、このブログを読むことはあり得ないので、各自注意されたし。

そして、小物中の小物のようなポプリ2袋、食器棚の中敷1.5メートルを2本。コルクの鍋敷3枚セットを袋に放り込む。買物終わり。そして、商品の生産国を調査してみる。結構、そういう調査みたいなことをしている人が多い。日本は第三次産業従事者が60%から70%近くいる大商業国家なので、多くの人がマーケティングやコスト調査が好きだ(第三次産業が多い理由の一つは役人天国ということもあるが、その話は省略)。

なかなかいい、と思った繊維関係は、ほぼインド製。簡単な工業製品は中国製。ちょっと細工が入っているのがルーマニア製。さらにデザインが入っているのがスウェーデン製というところだ。実は、日本製もある。システムキッチンやAVセットに組み込まれた家電。HITACHIだ。しかし、日本人は中国製は嫌というほどデフレ時代にお目にかかっているので、すぐ見抜いてしまう。ちょっと心配。

新たな興味は、数ヵ月後に、店内のレイアウトや展示アイテムが、売上げを見ながら変えられるのか、あるいはまったく変えないで、世界共通のイケアスタイルを押し通しているか。どちらもあり得る。


74baa17a.jpgそして、レジに行くと、ポリ袋がない。紙袋20円というのもあったが、大きな青いショッピングバッグがあった。70円。実は、このあたりのスーパーにはポリ袋有料店が多い。この威圧的な青い袋は、1週間位は目立つだろう。きょう一番のお気に入りを追加。そして巨大に装置化されたレジシステムで計算すると2,000円と10円玉が2個。予算内だ。レジの外には軽食コーナーがあってホットドッグ100円なのだが、ここも列が長い。ついでにトイレの列も長いし、男女共用トイレなので、男も並ばなければならない。


さて、自宅に帰って、いつものバーゲンのように和室に商品をぶん投げて、買ったものを調べると、ポプリと中敷ロールがインド製、コルク鍋敷が中国製。そしてショッピングバッグはベトナム製だった。アヘン戦争もこうして始まった。 
コメント

余詰とのバトル など

2006-09-16 00:00:04 | しょうぎ
本題の前に、9月9日号で紹介した新女流棋士伊奈川愛菓さん(15)の「デビュー・パーティ」は11月18日(土)夕方6時から、都内のあるホテルで開かれることがわかったのだが、プラチナとなるだろうパーティ券が入手できるかは不明。ついでに12月3日(土)には、千葉県船橋市のある会場で、記念将棋大会が開かれるそうだ。こちらの参加費は格安の3,000円。当日、2ショット希望者のために、記念撮影料金1枚2,000円で出店したいのだが、たぶん無理だろう。


さて本題だが、詰将棋を創る側にとり、最悪は「不詰」だ。詰んだと思って出題したのに、玉方の大妙手で詰みがなかった場合だ。あるいは、単純ミスで図面の書き間違いや印刷(校正)ミスということもある。本来、いくら考えても詰まないのだが、詰将棋として提示された以上、”詰むはず”と、何時間も何日も考えたりする。この事態は出題者としても最悪である。言い訳不能だ。

97c05c8e.jpg次に困るのが「余詰(よづめ)」。これは作意以外に別の詰め方があるのだから、解答者の迷惑にはならないことがほとんどだ。ただ、正解より短手数で詰んで、さらに駒が余ったりすると、解答者を悩ませることがあるが、詰んでいる以上、まあそんな困ったことは起きない。ただし、詰将棋の常として、「解答は一種類」というのがあって、余詰があるのは作品の仲間に入れてもらえないわけだ。

ところが、この余詰というのは、江戸時代には考え方が異なっていて、詰将棋創作者の意図に沿った形で玉方が美しく詰まされるのが本筋とされ、無闇に長々と恥ずかしく手数を稼いで王様が逃げ回るのは無筋とされていた。武士社会の思想が反映されているのだろう。寺田屋二階で斬り殺されるのを本望とせずに、重傷を負いながらも屋根伝いに逃げ回って愛人宅に潜り込んだ桂小五郎のような行動思考は幕末になってからなのだろう。その時、襲った方の土方歳三も、結局、転戦の末、JR函館駅近くで詰まされる。すでに明治政府はスタートしているのだから、これぞ余詰中の余詰。


さて9月9日出題の4題の解説だが、2から4は、解答だけ後に記す。余詰について、第1題で考察する。

案1(原作)の余詰なのだが、これが見つけにくい。作意は、こうだ。▲4二飛(限定打) △1三玉 ▲1四歩 △2三玉 ▲3二角(限定打) △1二玉 ▲1三歩成 △同玉 ▲1四角成まで9手詰 「大駒の限定打が二つ入って、なかなかキレのある作品ができたものだ」と思っていたのだが・・・

7手目に▲1三歩不成 という「人でなしの一手」があった。以下、△2二玉 ▲4一角成(1四角成・4一角不成・1四角不成でも可) △3三玉 ▲3二馬 △3四玉 ▲4三飛成まで計13手詰。

とりあえず、この案1を修正したのだが、結局大仕掛けになり、▲5三飛 △1四玉 ▲1五歩 △2四玉 ▲3三角 △1三玉 ▲1四歩 △2三玉 ▲1五角成 △2二玉 ▲3三馬 △2一玉 ▲3二金 というようなことになる。あと少しは何とかなるかもしれないが、「切れ味」とは遠く離れたアサリの佃煮のような粘着質な代物になってしまった。

97c05c8e.jpg実は、しばらくこの「▲1三歩不成」という手のことを考えていたのだが、「将棋には無い手」という感じがしてならない。将棋の「成りルール」では、銀、桂、香の3種類は成ると駒の利きが変わるので、成らないことはよくある。ところが、飛、角、歩の3種類については、「成る」と以前の駒の利きに加え、さらに機能が増えるのだから、成らないことなどありえない。ただし、唯一の例外として、「打ち歩詰め回避」という目的でのみ、実戦でも詰将棋でも成らないことがありうる。

ところが、この「▲1三歩不成」という手は、「本当は詰ませられるのだが、”わざと”とどめを刺さないで弄んだ上、後で詰ませる」というような手なのである。こういう手は本来将棋のルールで禁止すべきなのではないだろうかと、ちょっと思ってしまう。「飛、角、歩は敵陣で動く場合は、打ち歩詰め回避を目的とした場合以外は成らなければならない」というようにである。ぶつぶつぶつ・・・。


案2解答:32飛 13玉 33飛成 23香 24角 14玉 26桂 25玉 35竜 16玉 17歩 同玉 18歩 27玉 38竜 26玉 35竜 27玉 19桂 16六玉 17歩 同玉 37竜 16玉 27竜まで25手詰

案3解答:11飛 23玉 21飛成 34玉 43角 44玉 24竜 55玉 54竜 66玉 65竜 77玉 68角成 88玉 85竜 99玉 96竜 89玉 98角成まで19手詰

案4解答:35角 14玉 24飛 15玉 16歩 同玉 26飛 17玉 23飛成 18玉 19歩 同玉 46角 18玉 28竜まで15手詰。 9手目は非限定手が数種あり。

97c05c8e.jpgきょうの出題問題は、相当易しい。初型の密閉性だけ。最終手と手数をコメントくだされば、正誤判断。  
コメント