岡山の東側の大河といえば吉井川ということになる。この下流に近い長船(おさふね)の地が鋼の原料となる砂鉄の豊かな産地であるところから、平安時代より刀剣の製造が脈々と続いていた。日本有数の銘刀の里である。
そこに、大きな刀剣博物館がある。刀剣の展示と言えば、新宿の初台にも同様の場所があるが、そこが、やや隠微な雰囲気が漂うのは、生産地ではなく、コレクターのための美術館だからだろう。
さらに、刀というと危ない世界になるのだが、「軍刀」という世界があって、「軍刀絶賛主義者」がいて、それらの人は、おおむね「軍国主義者」であるという事実がある。
つまり、もっぱら戦闘用だった刀が、美術品に変質し、戦闘の時には役に立たないということで、軍刀という軍人精神の象徴みたいなものが登場したわけだ。
そのため、「美術刀派」と「軍刀派」とは、まったく相容れない状況らしい。そんな怖い世界に首を突っ込む気はサラサラないので美術品としての日本刀の話に特定したい。
刀の製法については、本館にビデオが揃っていて、何十段階にもわたる刀造りの職人芸が紹介されている。半端じゃない手間がかかる。しかし、実は、この博物館の裏手は刀剣工房となっていて、まさに現代にマイ日本刀を作る会が活動しているわけだ。日本画サークルとか自家製味噌造りみたいなノリなのだろうか。
話を長船の刀剣に絞ると、実は歴史上、ある数年の間に二つの巨大災難に見舞われている。最初が1588年夏に豊臣秀吉が全国に発令した「刀狩令」。秀吉がどこまで意識していたかは定かではないが、これによって、武士とその他というように人間の種類を二分化することになる。つまり戦闘員と非戦闘員と分けたわけだ。その結果、その後に起きた関ケ原とか大坂の陣とか大戦争は武士同士の戦いとなり、民間人の犠牲者が限定的になった(もちろんゼロになったわけじゃない)。
そして、刀剣の新規需要が急減したところに襲ったのが1590年の吉井川大氾濫。そして山津波。一説には7000人が亡くなったとされ、刀工も3人を残すだけで残るは全員濁流にのまれる。
3人の刀工がどうして、長船を再興できたかというと、おそらく逆説的に刀狩があったからかもしれない。需要激減に対応するために工場閉鎖を行うということは現代でも行われるが、悲しい結果だが、そういうことがあったのだろう。
そして、刀剣についての二度目のピンチは1876年に施行された「廃刀令」。刀狩で特権階級を得た武士階級に対しては、刀を持ち歩かないように通告されたわけだ。つまり、武士社会の崩壊である。実に刀狩から300年近くが必要だった。
岡山県に「金光」という苗字が多いのは、刀剣の産地だからと勝手に推測してみる。
付属する土産店にはさすがに一振り数百万円の真剣は置かれていなかったが、よく切れそうな包丁がならんでいる。そのあとすぐに飛行機に乗るので、誤解されないように手ぶらで立ち去ることにした。