まだ見ていない曜変天目茶碗

2007-01-14 00:00:43 | 美術館・博物館・工芸品
fb049b68.jpg少し前に、三菱家のお宝倉庫である「静嘉堂文庫」に行ったのだが、国宝「曜変天目茶碗」を見ることができなかった。行けば見られるというものではない。甘かった。三菱商事の社長にでもなれば、「今夜の会席はアメリカ経済界ののVIPだから、8時頃、料亭○○に持ってきてチョーダイね」とか言えるのだろうが、このトシで社長の座を狙うのは無理だ。絵葉書で我慢する。本来、手にとって手触りとかも楽しみたいのだが・・

この岩崎家の集めた無数のお宝の中でも、もっとも価値が高いのではないか、と言われるのが、この「曜変天目茶碗」である。中国・南宋時代の作とされ、中国には、この夜空に星のきらめくように見る角度で色が変るというものは残されていない。世界に3個だけで、すべて日本にある。その中でも、もっとも妖艶と言われるのがこれだ。残り二個は、京都大徳寺・龍光院と大阪・藤田美術館にある。現代でも、この曜変天目の技術に挑戦する者は多いが、まだ製法は解明されていないようだ。


そして、この茶碗には、由来伝承があるのだ。別名を稲葉天目と呼ばれるように、淀・稲葉家が長く保有していたのだが、その経緯は、遠く三代将軍徳川家光・そして春日の局の時代に遡る。

表の伝承では、家光が若くして重病の際、乳母である春日の局は病気平癒を祈願し、「生涯の薬断ち」を誓う。その甲斐あって、家光は回復するのだが、逆に後年、春日の局が重病に伏した際、家光は病の床に、この茶碗に薬を入れて届けたのだが、春日の局は、茶碗のみを拝領した上、薬は流してしまったというのである。そして、その茶碗は局の死後、局の派遣元の稲葉家が拝領することになる。

春日の局は、いわゆる大会社で「お局様」と呼ばれる女性社員の語源となるのだが、現代のお局様ならば、薬を飲む前に、茶碗が骨董屋に直行するかもしれない。


さて、歴史は様々な角度で読まなければならないのだから、この由緒の話を検討してみる。

まず、三代家光と春日の局の件だが、徳川家の正史では、家康のこどもが秀忠で、秀忠は妻を一人しか娶らず、織田信長の妹であるお市の方の娘の一人であるお江を正室とする。こどもが何人かいる中で、お江は家光より弟の忠長の方を利発として将軍に推すのが、家康は「まあ、これからは家柄じゃ」とか言って兄の家光を将軍にする。

一方、春日の局は斉藤家の出身だが、元々の斉藤家は本家を信長に滅ぼされ、何とかその一派が明智光秀の重臣として生き延びていた。しかし、本能寺のクーデターが失敗。局の父である斉藤利三は斬首されてしまう。そして局の流転人生が始まる。まず、17歳で稲葉正成と結婚。正成は小早川秀秋の部下に納まる。秀秋は関が原で西軍から東軍に寝返るという大戦功をあげるのだが、2年後に発狂して急死。お取りつぶしで、稲葉夫婦はまた失業。その後、あれこれして家康の部下に納まることができる。本来、正成夫婦はこれで小市民的安寧を得るはずだったのだが、思わぬ事態になる。家康が局に目を付け、家光の乳母に採用したことになっている。


そこのところ、多くの歴史愛好家は、家康が局に手を出してしまい、生まれたこどもが家光、と小説の中に書いてしまう。したがって、家光は秀忠×お江の子ではなく、家康×春日の局の子ということになる。そうすると、局と家光の深い愛の理由も納得がいく。さらに秀忠が大阪方面に出張中に、お江は急死し、その亡骸は土葬ではなく火葬に臥されたことから、毒殺されたものと歴史愛好家は決め付ける。

家光は30歳近くまで男色一辺倒だったとされ、こどもの頃から、何人かの小姓が派遣されるのだが、その中には自らの子供で稲葉家の宗主になる正勝も含まれている。一体何をしていたのかはよくわからない。

そして、稲葉家は江戸の終わりまで淀藩を治め、幕末は稲葉正邦が老中筆頭だったのに、津の藤堂藩とともに早々と官軍に寝返る。曜変天目茶碗も幕府から貰ったのにである。そして、この茶碗は第二次大戦の終結する少し前に国宝(旧法)に指定される。そして、指定後まもなく稲葉家から三菱の手にわたり、終戦に伴い、三菱解体となる。稲葉家が三菱にお宝を渡した事情については、よくわからないが、何らかの対価があったのだろう。

そして、これで本来は完結の話なのだが、またも厄介なことに気付いてしまったのだ。それは、稲葉家のこと。稲葉家の宗主は代々「正成・正勝・正邦・・・」など名前に正○と「正」を付けている。ふとしたことから、現代史にその名前を発見した。

その事件は昭和20年8月15日未明に起きたクーデター「宮城事件」。陸軍と近衛師団の多数の将校が日本の降伏を阻止し、戦争を続行するため、玉音放送録音版を奪回し、天皇殺害後、皇太子を天皇即位させようとしたとされる事件。陸軍、もはや動かずで収束に向かい、多くの参加者は逮捕されたり自決した。このグループの中に陸軍軍事課の課員として稲葉正夫中佐がいる。彼は、全体のクーデター計画の計画案を作成したことになっている。

そして、歴史上、注記しなければならないのは、この事件の全貌については、戦後しばらくしてからGHQが関係者の事情聴取をしたことにより判明したことになっているのだが、どうも理路整然とした説明を行ったのは、この稲葉正夫氏だけだったということなのだ。それをもって事件の全貌ということになり、お咎めなしで一件落着。果たして、この陸軍中佐は淀藩大名の末裔なのだろうか。そして、曜変天目茶碗が三菱の手に渡ったことと、何らかの関係があるのだろうか。

残念ながら、今のところ何もわかっていないのだ。2007年後半あたりに、現物の展示会がありそうなので、その時には再度調べられるかもしれない。  


最新の画像もっと見る

コメントを投稿