トロッタ走る

2024-04-21 00:00:02 | おさんぽ
先日、近くの片側二車線の道路で変なバスを見かけた。

京セラの自動運転バスの実証実験中と書かれていた。



間近に行くと、運転手さんが気が付いて、手を振ってくれた。いや、運転手と書いたが、実際は運転助手。運転はしていない。道は新しく、穴も開いていないが、昨今の事情で道路の白線が消えていたりするが大丈夫だろうか。左側車線に違法駐車(いや、単に所用で停車とか)があったら、車線を変更して回避するのだろうか。機能的にはロボット掃除機と同じで危険を回避して進むのだろう。

後で調べると、1年半ほど前には栃木国体の会場との輸送でも試験運転をしていたそうだ。進化中のようだ。

ところで、このバスには名前があるそうで、トロッタ(trota)というそうで、イタリア語で魚類の「マス」という意味だそうだ。英語のtroutと似ている。ワニとかサメではなく、泳ぎが優雅な魚だ。

といっても無人でだいじょうぶなのだろうか。おそらくお釣りとか困らないようにキャッシュレス乗車なのだろう。バスの発車に1秒でも遅れてバス停に着いても、絶対にドアを開けないだろう。嫌だな・・

目黒川、中の橋付近の桜

2024-04-11 00:00:09 | おさんぽ
今年の桜、最後は目黒川の桜。

目黒川の桜だが、川沿いの桜が有名な場所は、1.池尻大橋駅(田園都市線)と中目黒駅(東横線・日比谷線)の間にある「中の橋」と言われる赤い橋の付近。2.中目黒駅と目黒駅の間の舟入場、3。目黒区役所付近といわれていて、今年は1の中の橋へ向かう。

まず、池尻大橋駅から目黒川沿いを歩くと、気付くのだが川の上に枝を延ばした桜の木の上部は高さを合わせるためか切り取られている。



なので、整然としているが、ワイルドな感じはない。



さらに歩くと、赤い橋(中の橋)が見えてくる。この橋の隣の橋がフォトスポットなのだが、多くの人が橋の上に群がって桜を写している。ひとの重さに耐えられるのだろうか。

江戸時代には富岡八幡の祭りの日に永代橋が人の重さに耐えきれずに川に落下。江戸時代の江戸人はほぼ全員が泳げなかったため多くの水死者となった。一方、現代の目黒川は落下すると水がほとんど流れていないため、コンクリートの川底に激突してしまうだろう。



そして、中の橋から中目黒に向かうと両岸に屋台が出ていたりして祭りの会場のようだが、桜の祭りだからこその風景だ。そして、桜狩りの人々でラッシュになっていく。

馬事公苑で桜を探す

2024-04-10 00:00:03 | おさんぽ
先週末に桜狩りに行った第二弾は馬事公苑。世田谷の一等地に巨大な馬術競技場がある。競技用だけではなく飼育しているし、大学の馬術部や全国の馬術クラブからの輸送車が並んでいる。



東京の桜の名所には名前が挙がっている場所。ということで、園内に入るが桜の場所がよくわからない。

ほぼ一周して植林されている桜を見つけたが、どうも巨木ではない。園の外には立派な街路樹が開花している。



どうも東京五輪の馬術競技を開催するために大改造したようだ。

まあ、馬事公苑も五輪も国策であるのだから、下々は文句をいう筋書きではないのだろう。

もっとも馬事公苑はJRA用の施設でもあるわけだ。



若木の桜が成木になるまで20年は必要だと思うが、次の五輪が東京で開催されなければということだろう。

東京農大の桜

2024-04-09 00:00:50 | おさんぽ
週末に桜狩りに出かけた。ゆく先々で一首詠めればいいが、そんな芸はないので、だらだらと駄文を書くことにする。

まず、世田谷区にある東京農業大学世田谷キャンパスの桜。さすがに農業大学というように整然と並んでいる。方形の敷地の東側の経堂門から学舎とグラウンドの間で一斉に開花していた。その他にも学内の各所にさまざまな桜がある。



他所でも感じたのだが、桜の開花がここ数年よりも10日ほど遅れているため、花に加えてすでに若葉がちらほらと伸びている。花と葉は連動するものと思っていたが、花が散るのを待つわけでもなく、葉は独自のタイミングで伸びてくるのだろう。



さらに農大は福島県浪江町と共同事業として桜の苗木の育成プランを実行していて、経済産業省の敷地内にも植樹されたそうだ。



さて、とある噂だが、次の次の日本国の象徴となるはずの方の進学先大学の候補の一つが、ここと言われる。東大のような学費の安いところには行かずに私立大学を選ぶとしても早慶立明のような大人数の大学だと警備困難ということだが、農大は門の管理も厳重だし、巨大キャンパスではないし、通学の送迎も首都高のアクセス(用賀IC)もいいわけだ。日本の重要産業である農業の研究ではトップクラスということで、ケチがつけられないわけだ。

さらに意外にも女子学生比率も43%ということで、うるさい両親の許可なくお妃候補を選んでしまうことさえ可能だろう。最大のお仕事は近世の大名の如く子孫増産かもしれない。



ところで、構内の桜は整然と咲き誇っているが、大学の西側に接して南北に通っている千歳通りだが、この道沿いの桜並木もみごとだ。むしろ、道沿いの桜の方が親しみやすいように感じた。

菜の花畑に桜や桃や

2024-03-10 00:00:22 | おさんぽ
TVで紹介された菜の花畑、車で5分以上10分以内というところにある横浜市営地下鉄(といっても地上を走っている)の川和町駅の近くにある。

雪が降る直前に行くと、同じような行動を取る人が多く畑の周りに集まっている。畑の周りに人が集まるというのは殺人事件の仏様の捜索のようで嫌だが、そこまでいって見ないわけにはいかない。



広大と言うことはないがとりあえず一面菜の花の黄色のように撮影することはできる。

しかも、菜の花を背景に早咲きの桜や、桃の撮影もできる。



桜の原木は網代市の漁業組合の網干場にあったそうで、大漁桜と名付けられている。



桃の品種は不明。

私は畑地には入らないが、畑の中の桜に接近して撮影しようとバズーカ砲のように長いレンズのカメラを持って畑地に侵入するオジサンがいた。たぶん鉄道撮影でも線路内に入ったりするのだろう。私有地不法侵入だ。私人による現行犯逮捕がふさわしいかな。

ピンク&イエロー

2023-03-22 00:00:24 | おさんぽ
彼岸のお墓参りの帰り道、道路脇に賑やかに花が咲いていた。ピンクと黄色だ。



ピンクは桜で黄色は何だろうと思って、後で調べると黄梅だった。黄色の梅は珍しいが、そのあたりには随分生えていた。


母親の命日は春のお彼岸の直後で、父親の命日は旧盆の直後。彼岸と盆しか墓参りしないだろうと、こどもの不精を読んで日取りを選んだようだ。

何年か前に遠く離れた山合いの先祖代々の墓を近くに移動した。あれこれ支出がかさんだ。郊外のマンションなら一部屋増やせる額だろうか。銀行の口座残高はそれ以降は超低空飛行になってしまった。墓地の区画はレンタルで、毎年の自分の誕生日(たまたまだろうが)に使用料を引落とされる。借家ではないので地上権はない。墓石はたぶん自分の物だろう。うっかり苗字他を石に彫りこんでしまったので譲渡はできない。


近くなのでWBCの準決勝が終わってから墓参に行ったのだが、遠くから来た人の中には駐車場で車のカーナビの画面でまだ余韻を味わっている方がいたが、「罰当たり感」が漂う。地獄に落とされなければいいが。

青砥駅の不思議

2022-09-16 00:00:21 | おさんぽ
葛飾区の青砥(あおと)駅の近くに用があって京成電車で行ったのだが、そもそも不思議なことがあった。

その前に、葛飾区の三大都市というのがあるらしい。亀有、高砂そして青砥と言われているらしい。といっても金町や新小岩の駅の周辺もほとんどが住宅地で、葛飾区全体にくまなく区民が住んでいるように思えるのに区の中の都市というのもよくわからないが。

そして不思議というのは、住所表示のこと。駅名が「青砥」なので、番地もそうかと思うだろうが、住所表示の方は「青戸」という読みやすくなっている。誰でも読める。

同じような例は、各地にある。川崎市には東急線では「溝の口」、JRでは「溝ノ口」というのがある。実際の地名は「溝口」となっていて、これも奥が深そうだ。

青砥に戻る。戦後、当用漢字に書き直したのかと思ったら、そうではなく、古くから青戸だったそうだ。現在でも近くには荒川があり、河川交通の要地だったらしく、水辺に関係のある「戸」という文字を使って少なくとも中世から青戸だったらしい。

では、なぜ青砥なのかということについて説がある。知る人ぞ知る「青砥藤綱」という鎌倉時代の武将が住んでいたとも言われる。この人は頭脳明晰だったそうで、鎌倉幕府に仕え、評定所の長だったそうだ。現代でいえば最高裁判所の判事。目先の利害に関係なく本質を突く判決をだしていたそうだ。

もっとも、有名になったのは江戸時代という説もある。大岡越前(忠相)を講談にするのは同時代ということで憚られるという理由で青砥藤綱を流用したという説もある。

それで、地元では青砥城跡なる場所が定められ、青砥藤綱の住居が推定されているが、果たして彼が住んでいたのかははっきりしていないそうだ。この青砥氏だが、もともとは伊豆に大場という氏を持っていたが、承久の乱の時に活躍して上総国の青砥荘の所領を得たそうだ。上総は千葉県だが葛飾に近い千葉は下総国。上総は今の市原市のあたりだ。なかなか繋がらない。実は青砥荘もどこにあったのかわからない(近くに同名のアパートがあるが)。


不思議な話はもう一つある。



青砥駅から北西に数分歩くと「青戸平和公園」というのがある。まとまった大きさがあるのだが、そこに原爆慰霊碑がある。さらに千羽鶴も。

一般的な話だが、「平和」という命名をする場所は往々にして平和ではないことが起きていることが多い。

とはいえ、ここに原爆関係の何かがあったのだろうか。あるいは秘かに日本も研究していたとも言われるが、まさか守秘性からいって都内ではないだろう。



石碑には、「昭和42年に品川区の寺院に設置されましたがしたが、非核平和を求める区民の皆様の願いから作られた葛飾区青戸平和公園に移設することができました・・・」
2012年(平成24年)東友会

と書かれている。


よくわからない。この平和公園の由緒と原爆慰霊碑が転居した経緯ということ。調べればわかるのかどうかだが、よその自治体の事情を調べるのも品がないように思える。

折田不動公園の不思議

2022-06-07 00:00:01 | おさんぽ
散歩コースの一つに『折田不動公園』がある。横浜でも開発から20~30年程度の場所は、当初の開発時に里山を残したり、ブルでつぶしたりして、結局は、つぶしたところに人が住んで、残された場所を公園にしている。



その一つが『折田不動公園』。『折田』は『おりた』と読む。



ちょっとした丘があり、最も低いところから最も高いところまでは高低差が少しある。一部は普通の公園のように整地され、こども用のやや危険な遊具が設置され、かなり立派なトイレもある。とはいえ、週末の早朝には早い者勝ちというルールにより、超高齢者達がグラウンドゴルフのために占拠し、プレー上の細かなことで声を荒げ見苦しい。トイレは公園利用者ではなく、周囲の住宅の小改装工事などの業者などが利用している。



ところで、この公園には『折田不動公園』という名称が与えられているのだが、奇妙なことにバス停の表示は『折田公園』となっている。『不動』はどこにいったのだろう。

ここで『不動』のことだが、『不動尊』だそうだ。『不動尊』というのは仏教の『不動明王』のこと。『不動明王』というのは例えば真言宗では、大日如来の化身と言われる。任務は愚かな人間に仏教を広めること。教えに従わないものを無理やり痛めつけるわけだ。それだから怖い顔をしている。大物の不動明王になると、童子という子分を連れている。




そして公園内を歩くと、小さな石碑を見つけた。

ふどうそんあと、と刻まれている。

つまり、ご不動様は、この公園の中にあったのだが、今はいないということだ。不動とは、ゆるがないことなのだが、いなくなってしまったわけだ。これが公園の表記に二通りある所以なのだろう。

ところで、ここにあった不動尊がどこに行ったのか。実は、ネット上に情報があったのだが、確認できていない。情報の場所に行ったのだが、数年前にずらっと家が建ち並んでしまった場所だった。そこには「不動尊跡」といった手がかりの石碑もないわけだ。調査を進めるしかない。

盗まれた道標

2022-05-24 00:00:04 | おさんぽ
港北ニュータウンの開発は30年ほど前から逐次進んでいるのだが、周囲にはそれ以前から存在した文化遺産や歴史遺産が残っている。ニュータウンの土地の中にもそれらの遺産があったのだろうが、土地の謄本を見ても何もわからない。地図から消された歴史だ。

ということで、周辺を歩くといくつかの見物がある。さらに地元愛のある有志が歴史をコツコツと調べている。

今回見つけたのは、盗まれた後に再建された道標とそれに並ぶ馬頭観音。



場所は江戸時代に荏田宿(えだじゅく)として栄えた場所の近く。荏田宿は江戸時代のミニ旅行先だった伊勢原の大山神社に向かう大山街道の宿場町。大山街道は現在の国道246号線、あるいは東名高速。いまでも三宅坂から渋谷を抜け、大三叉路の三軒茶屋で南側の道を進み、多摩川の渡しの先、西へ西へと進む。

もう一つの主要道路が中原街道。東海道の茅ヶ崎から北上し、右往左往して荏田宿付近まできてから急に向きを変え現在の東京の五反田のあたりに繋がる。中原とは川崎市のJR武蔵中原駅のあたりである。こちらは平安時代からの主要道だった(とはいえ、目的地の江戸は平安時代はたいした集落ではなかった)。

そして道標だが、文政九年四月吉日に鮫島喜左衛門が設置したのだが、平成二十四年三月に盗難にあい、結局みつけることができなかった。道標盗んでどうするつもりだったのだろう。再建にあたってはほぼ原形を再現したということだ。全国各地で古い道標を見たことがあるのだが、ほぼ四つ角にある。(誤解ないように書くと、盗んだのは私ではないから)四方向の代表的行き先が刻まれていることが普通だ。三軒茶屋のように茶屋があることも多い。

復刻された道標だが、四面に行き先が刻まれている。

正面(西) 坂へのぼれバゆのき/左志ぶさわかながわ

右面(南) ちがさき/川さき

左面(北) ゑだじゅく/くわんおん

東面(東) 大だな/江戸

どうみても四方向だが、現在の場所は四つ角ではなく南北の直進道路沿いで、東西方向の道から300mずれている。洪水多発地区なので、道筋が変わったのではないだろうか。

ゆのき=近隣の柚木交差点付近か。坂はないが。志ぶさわ=渋沢、ちがさき=茅ヶ崎(この近くに横浜市の茅ヶ崎という場所がある。奇妙なことにこの横浜の茅ヶ崎と湘南の茅ヶ崎市は中原街道で結ばれている。(横浜駅からタクシーに乗る場合、「茅ヶ崎まで」と迂闊に言ってはいけない。ついでに横浜駅の近くに軽井沢という場所もあるが、横浜駅からタクシーで長野県の軽井沢に行く人はいないだろうから危険は少ない。)ゑだじゅく=荏田宿、くわんおん=観音だろう、場所を調べた結果、荏田宿に近い真福寺の千手観音像(立像160センチ高)が収蔵される観音堂のことだと思われる。江戸時代には、真福寺ではなく観音堂と呼ばれていた。おおだな=大棚。近くにそういう地名がある。

この隣には文字が消えかかった角柱が二柱ある。中央の石はもう文字が見えない。右側の石柱は馬頭観音といわれる。馬の文字がなんとか読める。猿田彦と馬頭観音は旅の守りで、重要な場所にはよく存在する石碑だ。明治三年に設置されたままだ。文字もほとんど消えそうだ。盗人も見逃している。道標泥棒についでに盗まれていたら新品に建て直されただろうか。

崖の上が好きなヤギ

2022-04-13 00:00:37 | おさんぽ
自宅近くには、大きな空き地がいくつかある。もともと丘陵地を造成して作ったニュータウンなので、元々の山林地主は換地を持っていたり、あるいは周辺地の山林を切り崩して、とりあえず農地にしておいて、売却時期を模索しているような方々が多い。

といっても斜面地をあてもなく整地するわけにはいかないので、そのまま一部の土地で野菜や果樹を育てている方々が多い。そうなると耕作地以外の土地の雑草が問題になる。

斜面なので機械作業は難しい。住宅街が近くなので農薬を散布するわけにはいかない。そこで登場したのが、「やぎさん」だ。斜面は得意だ。京成電鉄の敷地内の崖で草を食べ続けたヤギがいたほど、崖が好きな動物と思われている。



春になり、あたたかくなり、地面に雑草が生えてきて、幸せな季節がきたわけだ。勝手な想像だが、夏草よりも春の草の方が柔らかなのではないだろうか。

思わず崖の上から見下ろされていることに気が付いた。

もう10年ほど前から、いるように思うが、ヤギの頭脳レベルはよくわからないが、草を根まで食べ尽くしたら、仕事がなくなったり、食べられる草の量が減ってしまうとか考えないだろうか。ヤギの顔はあごひげがあることで、思慮深い印象を与えるのだがどうなのだろう。

ある例を思い出したのだが、ベルサイユ宮殿の絨毯掃除の話がある。宮殿内に敷かれた毛足の長い絨毯にはノミが大量に住んでいて、毎年、絨毯を清掃業者が外でたたいてノミとノミの卵を落とすのだが、完全には落とさないようにしているという話だ。ノミがいなくなると仕事がなくなるわけだ。

そういうのは消防署とか警察とかもそうだ。火事や事件がなければ必要のない職種のわけだ。スポーツだって野球のコーチとかゴルフのレッスンプロなども、人間が不完全な生き物だから職業として成り立つのだろう。

大本山總持寺を拝観

2022-04-04 00:00:49 | おさんぽ
鶴見線の駅の探査の前に安全祈願で總持寺を拝観する。健脚なら徒歩5分となっているが無理だ。10分。

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曹洞宗には二つの大本山がある。高祖である道元禅師が1244年に開いた永平寺(福井県)と太祖といわれる瑩山禅師が1321年に開いた總持寺である。

総持寺は石川県の能登に開かれたのだが、600年近く後の明治31年(1898年)に火災を起こし、ほとんどが焼け落ちてしまった。そして、再興の地を横浜市鶴見に求め、明治44年(1911年)に再び蘇った。

なぜ、鶴見だったのかはわからないが、福井県と石川県では近すぎるということだったのかもしれない。日本全体、世界に進出するつもりで、日本の玄関だった横浜に進出したのかもしれない。心当たりはあるのだが、調査不足なので明かさない。

朝鮮半島が日本であった時代に半島で亡くなった日本人の墓地を半島の人から守るために遺骨を一括してソウル市から引き取っていて、そのために過去に爆破事件が起きている。

石原裕次郎の墓所でもある。親とか兄とか色々宗教は難しい。

以前は座禅会を開いていたが、現在は休止中だそうだ。

実は、知人の寺院関係者(曹洞宗の寺院を所有していて、貸している)に聞いたところ、曹洞宗の修行先は、永平寺ならびに總持寺ということになっていて、永平寺は仏教的知識を得るための修行で、總持寺は寺院経営を教わる場になっているということだそうだ。

一言でいうと、表と裏ということだろうか。表が宗教なのか経営なのかは僧侶それぞれということだろう。

江川せせらぎ緑道で花見をするのは

2021-03-26 00:00:47 | おさんぽ
江川せせらぎ緑道は、元々は農業用水路だった。一方、人口急増により人口60万人分の下水を処理しようとして作られたのが、都筑水再生センター。名前を下水処理場から張り替えたわけだ。その高度再生水を鶴見川に放流するためにこの農業用水路にせせらぎ緑道と名前がついて1977年に放流が始まった。44年前ということになる。小川の両岸にはソメイヨシノが植えられ、お花見の名所ではあるが、目黒川のような立派な川ではない。幅は2メートル強程度なのでジャンプして軽く渡れそうで、たぶん失敗する距離だ。



本年は人もまばらなのだが、思はぬ珍客も花見に来ている。



シロサギだ。



もちろん花なんか見てなく、川の中の小魚を狙っているのだが、どうも旨そうなのはいないようだ。人間が近づくとさすがに危険を感じるのか羽を広げて飛び立ったと思ったら頭上の桜の枝の高いところに移動した。

サギはよく水田でみかけるので、周囲に樹木がないので知らなかったのだが枝に掴まることも難なくできるのだった。後ろにヒヨドリもいるが、ヒヨドリも川魚を狙っているのかな。

もちろん近くに鶴見川の本流もあるので、なぜエサの乏しいこの場所にいるのかもよくわからない。最近、横浜の異臭とか妙なことが多いのだが天変地異に関係あるのだろうか。



ソメイヨシノの話に戻るが、元々日本で桜が市民権を得たのは、貞観16年のこと。そう貞観(じょうがん)の時代には、日本は大災害に襲われている。富士山はじめ鳥海山、阿蘇山爆発、鳥海、開聞岳の爆発に加え、三陸沖の巨大地震や南海トラフが動いた仁和地震など。

それらに比べれば、小さな事件だが貞観16年に京都を台風が襲う。そして公式の樹木が倒れてしまう。それが左近の梅。実は奈良から京都に都が移った時に桓武天皇は宮中から見て右側に橘(みかん)を植え、左側に梅を植えたのだ。なぜ桜でなく梅だったかというと理由は不明だが、私見では、桜は吉野の山桜が有名だったのだが、そもそも平安遷都の最大の理由は、仏教者が政治に口を出すことに対する警戒感だったと言われ、その仏教者たちが住まいとしていたのは吉野だった。

それで、貞観時代には、もうそういう事情もなかったということで日本古来の山桜に植え替えたと言われる。

そして、江戸時代最末期に登場したのがソメイヨシノ。エドヒガンとオオシマサクラの掛け合わせで作られ、全国のソメイヨシノのDNA情報はすべて1本の木に集約するそうだ。つまりクローンということ。さらに寿命が良く判っていない。親の一人のエドヒガンは超長寿(2000年とか)にもかかわらず、60~100年ということだろうか。クローンの寿命は短いとは言われるが。

日本で桜が街路樹をはじめ多くの場所に植えられているが、そのブームから60年が経っている。最近は違う種類の桜を植えているそうだ。つまり、桜が一斉に咲くという当たり前のことも、実は当たり前ではなくなるということだ。

杉山神社はなぜ集中しているのか

2021-03-24 00:00:12 | おさんぽ
自宅近隣に杉山神社という神社があるのだが、知人の家のそばにも別の知人の近くにも杉山神社があるという話がある。歳のせいで知人たちがボケたのだろうと勝手に思っていた。知人たちの方も同じように思っていたのかもしれない。

ところが、どうも全部正解で、杉山神社はたくさんあることがわかった。それも全国ではなく、この近くにだ。具体的には、現存する杉山神社は全国で44社であり、そのうち横浜市に35、川崎市に3、あとは町田市と稲城市。つまり、武蔵国の西側で多摩川より西側。横浜市の西部から先は相模国なので、かなり狭い範囲に集中している。

古史上は前の大地震のあった貞観時代には大きな勢力があったと推測されるが、その詳細はわかっていない。さらに、これでも多くの支社が合祀を続けて、今の数になったというのだから、あまり例がないだろうか。

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ということで、近隣の一つ茅ヶ崎中央の杉山神社に参拝する。実は、この「茅ヶ崎」という地名も湘南海岸の「茅ヶ崎」という地名との関係もあるようで不明だ。この横浜の茅ヶ崎と湘南の茅ヶ崎は、実は古代からの道である「中原街道」でつながっている。



杉山神社の入口には『村社 杉山神社』と石碑がある。村に一つではなくいくつかの杉山神社もあるし、近くには同様に歴史のある「剣神社」というのもある。

境内の桜は、すでに「色は匂へど散りぬるを」の状態。由緒についてはこれ以上は手掛かりなし。

梅、桃、桜

2021-03-15 00:00:26 | おさんぽ
梅や桜だけではなく、自宅近くには桃の木が多い。といっても農地であることのアリバイのような状態で、地主の気まぐれで、いつ消滅してもおかしくない。菜の花畑が一夜にしてタイムズの駐車場になったりする土地柄だ。



それで、桃畑の中の一本の木に接近して花を観察。梅と桜に比べ、花としての質感は桃の方が大きい。いずれもバラ科ということだが、代表するのがバラというのも少しおかしいような気もする。同じ仲間で、李(すもも)、杏(あんず)は、白色の中に少し紅色が混じっているような微妙な色合いで、それもまたいい。

ところで、それらの多くは中国大陸からもたらされたものだが、中国で人気の花は梅と牡丹ということで、深みのある紅色というのがお好みなのだろう。多くの国は国花といのを法律で定めていて、中国は、これから国花を定めるようだが、梅と牡丹が筆頭候補で、菊、蓮、蘭が続くそうで、五種全部を指定しようという拡張主義もあるそうだ。

日本は国花の定めはなく、あえていうと桜と菊だそうだが、どちらもイメージの奥に前の戦争のことが感じられるので、やすやすと国花にしてはいけないだろう。しかも南北に長い国なので、全国で咲く花というのは簡単ではない。以前に、苫小牧で「温帯植物園」という場所にいったのだが、首都圏の普通の公園みたいなもので、逆に驚いた。

個人的な推薦は「朝顔」なのだが、どうだろう。

路線バスの旅で観梅

2021-02-26 00:00:34 | おさんぽ
東横線の大倉山駅(横浜市)の語源は戦前の大倉財閥の所有していた山にある。大倉山駅の西側の山。線路沿いに坂道があって、登っていくと梅で有名な大倉山公園がある。大倉財閥は神戸にも同様の山があって神戸市地下鉄の駅名も大倉山と東横線と同じだ。ホテルオークラや札幌のスキージャンプ台にも名を残している。

そして横浜の大倉山公園は観梅で有名だ。時期はよしということで出かける気になった。実は30年前には大倉山に住んでいた。その頃に行った以来だ。最近の大倉山で有名なのは、賛否両論のシンデレラ男寸前の「圭君」。梅とは線路を挟んで逆側だ。

ところで、自宅は横浜市で、そう遠くはないが、駐車場はなく、鉄道で行くには接続がうまくない。東横線と田園都市線の共通の駅は、東京の渋谷だ。方向違いだ。渋谷とは逆方向に進むと二つの線路はどんどん離れていく。東京を起点とした放射線状だからこうなる。ということで市営バスに目を着ける。どうやら小刻みに3路線を乗り換えていくと短時間で到着する。しかも1日乗車券というのを使うといいようだ。まさに路線バスの旅だ。

テレ東の番組だと、スマホを使わないことと、バスに乗るときにサイコロを振って出た数の停留所で降りなければならないが、そう暇でもないので、スマホを利用し、サイコロは振らないことにする。

ということで乗り換えに不安を覚えながら大倉山駅に到着。さっそく駅横の坂道を上るのだが、息が苦しい。膝が痛い。ため息がでる。歳月を感じる(が、現実は厳しい)。



山の上に到達すると、今度は下りだ。予想よりも多数の観梅客がいるが、今年は地べたにビニールシートを敷いての酒盛りは禁止なのだ。つまり、公園の中を歩きまわることになる。



梅は赤と白の二色と思っていたが、ロゼもあるようだ。というか大倉山ではロゼが多いような気がする。そして公園の一番奥には枝垂れ梅があった。



全体に古木が多いように思った。



ところで、神奈川の梅と言えば、小田原市曽我地区の梅林が有名だ。先週末は見物客が大挙訪れて顰蹙だったそうだが、嫌な思い出がある。数十年前に営業の仕事をしていて先輩社員と営業車で小田原に無駄足に終わった仕事で行った帰りに、「梅を見に行こう」ということになり梅林の中の農道を走ると、どんどん道が細くなってUターンもできず、長い距離をバックする最悪なことになった。しかも脱輪。



幸い、道路から高さ10センチほど車輪の一つが落ちただけなので、とりあえず板でも探してきて持ち上げようということで、板を探し始めるが、簡単には見つからない。昭和20年代ではないわけだ。そうしているうちに、近くにある墓地に、名前のようなものが書かれた長い木の板が何本も地面に刺さっていることに視線が向かってしまう。そして先輩と二人で相談。人間、二人いると、冷静に考えることができるわけだ。